キケロ『ブルータスあるいは弁論家列伝』(1~102)



対訳版

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BRUTUS
M. TULLI CICERONIS


キケロ『ブルータスあるいは弁論家列伝』(前46年)

第一章
 私(※)がキリキアをあとにしてロドスに来て、そこでクィントゥス・ホルテンシウス(%)の訃報に接したとき、私の感じた悲しみは誰の予想も上回るほどに大きなものだった。というのは、私は楽しい交際相手であるだけでなくとても親切にしてくれた友人を失ったと思ったからであるが、それと同時に、ホルテンシウスという立派な卜占官の死によって、私たち卜占官団の権威が大きく損なわれたことを悲しんだからである。そして、私は彼のおかげで卜占官団に選ばれたことを思い出した。ホルテンシウスは私が卜占官の適任者であることを宣誓証言してくれたし、私の就任式もしてくれたのだった。それ以来、私は卜占官の慣習に従って彼を自分の親のように尊敬する義務を負っていたのである。1

※キケロ、前106~43年、前51~49年小アジアのキリキア総督。
%ホルテンシウス、弁論家、前114~50年、49年からカエサルとポンペイウスの内乱が始まる。

 さらに私が悲しんだのは、ただでも分別ある閥族派の市民が欠乏しているのに、偉大な人がまた一人亡くなったことである。私にとってあらゆる政策の熱心な協力者であった彼を、共和国が最も困難な状況にある時に失った私は、彼の知恵ある助言を得られなくなってしまったのである。さらにもう一つの私の悲しみは、名誉ある仕事を共にしてきた仲間を無くしたことである。彼は多くの人が考えるような、私の名声を妬む敵対相手ではなかったのである。2

 もし歴史が伝えるように娯楽の分野の有名な作家が仲間の作家の死を悼んだのが事実なら、私は彼の死をどんな気持ちに受け止めるべきだったろうか。私は彼と切磋琢磨することで、ライバルなしでは手に入らない大きな名声を手にすることができたのである。その上、私たちは互いの出世をけっして邪魔しなかっただけでなく、むしろいつも連絡をとりあって親身になって意見を交換することで、互いに助け合ってきたのである。3

 しかし、彼は生涯幸福な人生を送った人である。しかも、彼は実にいい時にこの世から去ったのである。しかし、それはローマ市民にとっては不幸な時だった。彼がもし生きていても、共和国を助けるどころか、ただ嘆くしかない時に亡くなったのである。彼が生きた時代は、この国で清く正しく幸せに生きることができた時代であった。だから、もし私たちが悲しむ必要があるとすれは、それは後に残され私たち自身の不幸を悲しむべきである。しかし、私たちは彼の死を悲しみをもって見送るのではなく、いい時に死んだと喜んで見送ってやるべきなのである。そうすれば、私たちは、この上もなく名高くこの上もなく幸せなこの男のことを思い出す度に、残された自分たちのことではなく彼のことを大切にしていると思われることだろう。4

 というのは、もし私たちがもう彼の力に頼れないことを悲しむのなら、それは私たちの悲しみであり、それは節度をもって耐えるしかない。さもなければ、私たちは友情のために悲しんでいるのではなく私たちの損得のために悲しんでいることになってしまう。しかし、もし私たちが彼の身に何か不幸なことが起きたと思って悲しむなら、彼のこの上ない幸福を私たちは充分祝福していないことになるだろう。5

第二章
 実際、もしクィントゥス・ホルテンシウスがいま生きていたら、彼は多くの物が失われていることを門閥派の勇気のある市民たちとともに嘆くことだろう。しかし、彼の才能の独壇場だったローマの中央広場から、ローマ人だけでなくギリシア人が耳にしても遜色のなかった洗練された言葉が失われてしまっているのを見た時、彼は大きな悲しみ抱くだろう。そして、彼の悲しみをわけ合う人は一握りのしかいないことを知るだろう。6

 確かに、共和国が分別と知性と権威あるこの武器をもはや必要としていないことに私は心中悲しんでいる。この武器を使うことを私は学び慣れ親しんできたのであり、この武器は共和国の優れた人にとっても、よく整備された国家にも有効なものだった。そして、もし門閥派の市民がおのれの権威と弁論をふるって怒れる市民の手から武器を奪い取る可能性があった時代がこの国にあったとすれば、それは疑いもなく人々がおのれの過ちと恐怖心から平和の守り手を排除してしまった時代だったのである。7

 私自身の身にはもっと悲しいことが沢山あったけれども、こうして、新たな悲しみが加わることになったのである。私は数々の輝かしい功績をあげたのちに、引退生活それも無為怠惰な生活ではなく節度と名誉ある静かな引退生活に移るべき年齢になっていた。また私の弁論は老成し円熟して言わば晩年を迎えていたのである。しかし、まさにその頃になって、武力を名誉ある方法で使うことを学んだ人たちが、それを人のために使う方法が分からずに、戦争を始めたのである。8

 したがって、他の国だけでなく特にわが国においても、立派な功績を立てて手に入れた権威と賢者の名声を死ぬまで欲しいままにすることができた人たちは、思えば幸運な人生を送った人たちだったのである。最近の会話の中で私はそういった人たちの思い出を話したが、それはこの重苦しい不安な時代にはまさに楽しいでき事だったのである。9

第三章
 私がすることもなく家にいて回廊を散歩していた時、いつものようにマルクス・ブルータス君(※)がティトゥス・ポンポニウス・アッティクス(%)を連れて私のところに来てくれたのである。二人は互いに親しく、私にとっても愛すべき大切な友人だ。だから、彼らの顔を見ると、当時私を悩ませていたこの国についての心配が一気に安らいだ。私は彼らに挨拶をしてから言った。

※ブルータス、前85~42、44年シーザーを暗殺。会話の時期は前46年の春が想定されている。
%前109~32、キケロと同世代。

「ブルータスとアッティクス、今日はどうしたんだ。何か新しい展開があったのかね」

ブルータスが言った。「いいえ、あなたが待ち望んでいる情報は来ておりません。何一つ確かなことは言えないのです」10

※内戦がまだ続いていてキケロがついたポンペイウス派は劣勢だった。

 その時アッティクスが言った。「僕たちが君の所に来たのは、もしお邪魔でなければ、政治のことは忘れて君から何か話を聞きたいからなんだよ」

そこで私が言った。「邪魔だなんてとんでもない、アッティクス君。僕は君たちと一緒にいると悩みから解放されるし、離れていたときでも大きな心の拠り所なっていたんだよ。第一僕は君たちが送ってくれた本に大いに励まされて、また昔の研究を始めたんだから」

するとアッティクスが言った。「僕はブルータス君がアジアから君に送った本を楽しく読ませてもらったよ。あの本は君にとって友情のこもったいい励ましになっていると思う。」11

 私が言った。「その通りだ。確かに、全身を患って長くふさぎ込んでいた僕が外の光をもう一度見る気になったのはあの本のおかげなんだよ。僕個人とこの国に起こった不幸な出来事のあとで、ブルータス君の本が届くまでは、僕の興味をそそり僕の気持ちを少しでも元気づけてくれるものはなかった。それはあのカンネーの敗戦の後に、マルケッルス(※)がノラ戦いであげた勝利の一報で初めてローマの民衆が元気づいて、その後の多くの勝利につながったようなものだ」12

※前268年~208年、第二次ポエニ戦争でハンニバルと戦ったローマの将軍。二つの戦いは前216年。カンネーはイタリアの南東アドリア海沿岸の町、ノラはナポリ近郊の町。

 するとブルータスが言った。「僕の思いが通じたのですね。こんな事で僕の願いが叶えられたとすればとても嬉しいです。ところで、あなたのお気に召したアッティクスさんの本はどんな本ですか。教えてください」

私が言った。「ブルータス君、僕は彼の本が気に入っただけでなく、いわば僕はあの本に救われたんだよ」

ブルータスが言った「救われたですって。いったいどんな本にそんな素晴らしいことができるのですか。」

私が言った。「僕にとってはどんな言葉も彼の本ほど嬉しくて時宜にかなったものはなかった。倒れている僕をいわば引き起こしてくれたんだからね」13

 するとブルータスが言った。「僕が想像するに、きっとそれはあらゆる出来事の記録が簡潔でしかも抜かりなく書かれたあの本のことですね」

私が言った。「そうだ、ブルータス君。まさにあの本が僕には救いだったんだよ。」

第四章
するとアッティクス、「うれしいことを言ってくれるね。しかし、あの本には君が知らなかったことや、そんなに有益なことが何か書いてあったかい?」14

 私が言った。「あの本には僕が知らないことがたくさん書いてあるし、とても僕の役にたった。おかげで、時代の流れが明らかになって歴史の全体を一望のもとにすることができた。僕はあの本を熱心に読み始めたとき、本を読むということで僕は元気になったんだよ。それでアッティクス君、僕は君に直接会って元気をもらおう、そして、君には及ばずながらも心のこもったお礼をしようと思ったんだ。もっとも「もらったものはきっちり返せ、できればよけいにして返せ」と言うヘシオドスの一節(=労働と日々)を学者は引用するけどね。15

「僕は君の好意に充分応えたいんだ。でもまだ君と同じやり方でのお返しはまだできないと思う。それは許してくれたまえ。農夫の例で言うと、新らしい作物ではもらっただけのお返しはできないんだ。この喩えで言うと、どんな実も付かなくなって、かつての豊潤さをもたらした花は旱魃で干上がって枯れてしまっている(=法廷弁論のこと)。倉から取り出すこともできないでいる。蓄えはあるけれど闇の中でそこに近づけるのは僕だけだが、それもできなくなってしまった。だから、僕たちは見捨てられた荒地にいわば種を蒔いて行くしかないんた(=弁論術と哲学)。熱心に世話をしたら、君の豊かな贈り物に利息を付けてお返しをすることができるかもしれない。僕の精神が長年休んでいた農地のように豊かな実りをもたらすことができたらだが」16

 するとアッティクス、「僕は君が約束を果たすのを待つことにする。ある時払いの催促なしでいいよ。君が約束を果たしてくれたらそれで満足だ。」

するとブルータスが言った。「アッティクスさんとの約束が果たされるのを僕も待っています。この人はある時払いでいいと言っていますが、この人に借りができたとあなたが言うからには、僕は勝手にこの人の代理人になって返済の催促をしますよ」17

第五章
 私が言った。「いや、ブルータス君、この借りを君に弁済するわけにはいかない。その前にこの人が二度と催促しないことを君が保証してくれない限りね」

ブルータスが言った。「いやはや、僕にそんな約束はできませんよ。この人は催促しないと言っていますが、あなたを困らせない範囲できっと根気強く熱心に催促すると思いますから」

するとアッティクスが言った。「ブルータス君の言う通りだ。僕だっていつ催促するか分からないよ。久しぶりに会った君がだいぶ元気になっているのに僕は気づいているんだから。18

 「ではこうしよう。僕への借りの催促役を彼が買って出てくれたんだから、彼への借りの催促役は僕が引き受けるよ」

私が言った。「それは一体どういうことだい?」

彼が言った。「君に何か書いて欲しいんだよ。君はずっと前から執筆活動を休んでいるからね。君が『国家について』を出してから、その後僕は何も受け取っていない。僕はあの本に刺激されてこの国の歴史を書く気になったんだからね。でもそのお返しは君の都合のいい時でいいんだ」19

 さらに彼が言った。「いま君に心づもりがないなら、僕たちが聞きたいと思っているあの話をしてほしいんだ。」

私が言った。「それはいったい何だね。」

「それはこの前君がトゥスクルムで弁論家について話しかけていたことだよ。弁論家はいつ登場したのか、それは誰と誰でどんな人たちだったかについてだよ。あのことを君の友人のブルータス君に、いやブルータス君は僕たちの友人だが、そのブルータス君にあのことを話したら、彼はとても聞きたがったんだ。それで、僕たちは君が暇だと聞いていた今日を選んだんだよ。だから、君さえ良ければ、ブルータス君と僕のために君がやりかけたあの話の続きをして欲しいんだ」20

 私が言った。「わかった。僕にできる範囲で君たちの望みを叶えてあげよう」

彼が言った「君には充分できるよ。のんびりやればいいさ。できれば心配事は忘れてね」

「アッティクス、確かにあの時は、ブルータス君がデイオタルス王、あのローマに忠実で立派な王の弁護を優雅に滔々とやったという話を聞いたと言ったことから、そんな話になったね」

第六章
 彼は言った「そうだった。それがきっかけであの話になったんだ。そしてブルータス君のことが心配な君は、法廷と公共広場が荒廃してしまったことで泣き出さんばかりだったね。」21

 私が言った、「確かにそうだった。僕はいまもよくそんな気持ちになるんだ。ブルータス君、君を見ていると僕は心配で仕方がない。君は生まれつき才能に恵まれて、完璧な教育を受けて人並み外れた研鑽を積んできた。その君にいったいどんな将来が待っているのだろうかと。というのは、君が大きな裁判に関わるようになって、僕たちの世代はそろそろ現役を退いて君に席を譲ろうとする頃になって、突然この国では多くのことが廃れたのみならず、いま話題にしようとしている弁論家たちが用済みになってしまったんだから」22

 するとブルータスが言った。「多くの点で僕もあなたのお嘆きは分かりますし、実に嘆かわしいことだとは思います。でも、弁論に関して言うなら、それによってもたらされる報酬と名声のことは僕はもういいんです。僕にとって大切なのは弁論の研究と練習のほうなのですから。何があろうと僕からこの楽しみを奪うことはできません。特に僕にはあなたという知性あふれる献身的な弁論家の手本が目の前にいるのですから。優れた弁論家になるには健全な知性が不可欠なのです。だから、真の弁論家になるために精進する人は、思考力を身に付けることにも精進するのです。賢明な人は激しい戦闘中でも思考力だけは捨てたりはしないのです。」23

 私は言った。「ブルータス君、いいことを言った。弁論家を僕が称賛するのは、どんなつまらない人間でも政治の世界で多くの輝かしいものを手に入れられると思っているし、実際手に入れているが、戦争に勝って弁論家になった人は見たことがないからだ。

 しかし、もっとゆっくり話ができるように、よかったらどこかに座って話そうよ。」それに二人も同意したので、私たちはプラトンの像の近くの芝生に腰を下ろした。(以上序文)24

 ここで私が言った。「ここで僕は弁論家を讃えたり、弁論家にどれほど大きな力があるかを説明したり、弁論家になった人にどんな名声がもたらされるかを語るつもりはないしその必要もない。人を弁論家にするのが技術であれ訓練であれ生まれつきであれ、弁論家になるのは何より難しいことであると僕は躊躇なく断言するだろう。弁論術は5つの要素(=発想、配置、表現、記憶、発声)からなっていると言われているが、その各々がそれ自体大変な技術である。だから、この5つの偉大な技術が合わさったものにどれほど大きな力があるか、それがどれほど難しいものであるかは理解できるはずた。25

  第七章
 弁論術の持つ力と難関さはギリシアを見れば分かる。ギリシア人は弁論に打ち込んで長い間弁論に秀でて他国に抜きん出ているからである。しかし、ギリシアには弁論術が発達して広く普及する以前に多くの伝統的な技術があるだけでなく、ずっと昔に発明されたそれらの技術は完成の域に達していたのである。ギリシアの弁論術を考える時、アッティクス君、何と言っても僕の頭に浮かぶのは君の愛するアテナイだ。アテナイは燦然と輝やいている。なぜなら、この町で初めて弁論家が生まれ、この町で初めて弁論が文字に記録されたからである。26

 しかし、ツキジデスも、書いた物が一部伝わっているペリクレスも、アテナイが生まれた頃の人ではなく、この町がかなり成熟した頃の人であり、この二人より以前には、美しい文体をもつ作品も弁論家のものと思われる作品も何も残っていない。もっとも、この二人より以前にいたペイシストラトスと、さらにその前のソロンとその後のクレイステネスも当時としては弁舌の能力に長けていたという人もいる。27

 アッティクスの歴史から分かるように、この時代の数年後にテミストクレスが現れた。彼が知性と弁論に優れたいたことは確かである。その後がペリクレスである。彼はあらゆる能力に優れていたが、特に弁論家として能力で際立っていた。この頃にいたクレオンは社会を混乱させた人間だったが、弁論に優れていたことは確かである。28

 この時代のアルキビアデスとクリティアスとテラメネスはクレオンと同世代の人間である。この頃の人であるツキジデスの書いたものから、この時代にはどんな弁論のスタイルが盛んだったか理解できる。彼らは重厚な言葉を使い、短い文章の中に多くの考えを凝縮して書いたので、しばしば難解である。29

  第八章
 入念に組み立てられた弁論に大きな力のあることが分かると、突如として多数の弁論の教師が出現した。その中でもレオンティーニのゴルギアス、カルケドンのトラシュマコス、アブデラのプロタゴラス、ケオスのプロディコス、エリスのヒッピアスが特に有名だった。この時代には他にも多くの人たちが不遜な言辞を弄して、彼らの言うところの弱論強弁の方法を教えると公言した。30

   彼らのやり方に反対したのがソクラテスだった。彼は緻密な議論によって彼らの教えを常に論破した。彼の縦横無尽の対話のお陰で多くの教養豊かな人が生まれた。自然哲学は古くからあったが、人間の生き方と善悪という倫理を扱う哲学がこの時初めて生まれたと言われている。しかし、この話は今日の話題から逸れているので、哲学者については別の機会にして、元の弁論家の話に戻ろう。31

 いま話した人たちが年老いた頃にイソクラテスが現れた。彼の自宅はいわば弁論家の学校あるいは養成所として全てのギリシア人に開かれていた。彼は偉大な弁論家であると同時に完璧な教師だった。自ら法廷に立って活躍することはなく学校の中で名声を手に入れた人だったが、そのような名声はその後誰も手にしたことのないものだと思う。彼は自ら多くの素晴らしい文章を書き、多くの人を教育した。また多くの面で先人にまさっていたが、詩はもちろんだが、散文もリズムと抑揚を持つべきことを初めて理解していた人でもある。32

   というのは、イソクラテス以前には構成とリズムをもったいわゆる掉尾文はなかったのである。もしあったとしても、それは明確に意図して作られたものではなかった。もちろんそれは称賛に値するが、多くの場合才能と偶然の産物で、用意周到に計算して作り出したものではなかったのである。33

 というのは、人は本能的にいわゆる言葉を掉尾文の形にして文章を締めくくるからである。適当な言葉を締め括られた文章はしばしば終わりに韻を踏む。なぜなら、人間の耳は緊張と緩和を聞き分けるし、言葉を組み合わせた掉尾文は一息で終わらねばならないからである。この場合には、呼吸が切れても苦しくなっても美しくないのである。34

    第九章
 イソクラテスと同時代のリュシアスは自分では訴訟に関わらなかったが、すぐれた法廷弁論の作者であり、簡潔で洗練された弁論を書いたので、ほぼ完璧な弁論家と言っていい。一方、完璧な弁論家と言えば文句なくデモステネスだろう。彼は全く欠点がない。デモステネスの書いた弁論には鋭く言わばずる賢くて巧妙な論点が全て含まれている。彼の平明、簡潔、率直な文体は、それ以上に洗練しようがないし。逆に、彼の崇高、荘重、華麗な言葉遣いと表現は、それ以上に重厚にしようがないものである。35

 この次に来るのがヒュペリデスとアエスキネスであり、リュクルゴスとディナルコスだ。著書は残っていないがデマデスなど多くの人たちもいる。この時代は大量の弁論家を輩出した。僕の意見では、弁論家たちの活気と血流はこの時代まで汚れのないものだった。この時代までは偽物でない純粋の輝きがあった。36

 彼らが年老いた頃にファレーロンの若きデメトリオスが後を継いだ。彼は前の世代の誰よりも教養にあふれていたが、実戦ではなく学校で鍛えられた人だった。だから彼の演説はアテナイ人の心に火を点けるというより心を楽しませるものだった。というのは、彼はいわば戦の陣営からではなく、テオフラストスという学者の書斎から俗塵のもとに出てきた人だからである。37

 彼は初めて弁論に抑揚を付けた人である。そして穏やかで優美なものにして、彼自身の性格に合うように、重厚と言うよりは甘美なものにしようとしたのである。その甘美さは心を挫けさせるというよりは心に染み入る類いのものだった。そのために、聴衆の心には彼の魅力的な印象だけが残った。それとは違って、エウポリス(※)によれば、ペリクレスは聴衆の心に彼の好ましい印象だけでなく辛辣な印象を残したと言われている。38

※前5世紀の喜劇作家。

第十章
 以上から、弁論が生まれ育ったあの町でさえ、それが日の目を見るまでにはどれだけ時間が掛かったか分かるだろう。なぜなら、ソロンとペイシストラトスの時代より以前にはすぐれた弁論家がいたという記録は残っていないからだ。確かにこの二人はローマの歴史からするとかなり昔の人だが、アテナイの歴史から見ればかなり後期の人だということになる。なぜなら、たとえ彼らの最盛期がローマのセルウィウス・トゥリウス(672~641)王の時代にあたるとしても、すでにアテナイは長い歴史を経ていたのだ。それはローマが現代に至るまでの歴史よりもはるかに長かった。とはいえ、弁論はその間も常に大きな力を持っていたことは疑いがない。39

 というのは、もしトロイ戦争の時代に弁論に重きが置かれていなければ、ホメロスはオデュッセウスの弁論には説得力がありネストールの弁論には甘美さがあるとあれほど褒められる存在として描かなかったはずだし、ホメロス自身、あれほどの技術をもった完璧な弁論家ではなかったはずだ。ホメロスが生きた時代は不明だが、ロムルスの時代よりもずっと前である。というのは、スパルタの風紀を法律によって引き締めた最初のリュクルゴスはホメロスと同時代かそれより後の人だからである(※)。40

※また最初からたどり始める。

 それに対して、弁論の研究と発展の痕跡がペイシストラトス(~前527年)には明らかに認められる。次の世紀に彼のあとを継いだのがテミストクレス(~前462年)だ。彼は僕たちから見ると非常に昔の人だが、アテナイの歴史では割合新しい人である。というのは、彼が生きた時代は僕たちの国がやっと王政から解放された頃に当たるが、既にギリシアは世界に君臨していたからである。当時は、ローマから追放されたコリオラヌスが加わったウォルスキ族との戦いが深刻な頃で、それとほぼ同じ頃にペルシア戦争が起きている。そして、有名なこの二人は似たような運命をたどったのである。41

 なぜなら、二人とも優れた市民だったが、恩知らずな国民による追放の憂き目に遭って、敵に寝返って祖国に対する復讐を企てたが、自らの死によって終わった人たちだからである。アッティクスよ、君の本ではコリオラヌスの話はこうなってはいない。君には勘弁してもらって、僕はコリオラヌス自殺説を取らせてもらうよ。」

第十一章
 彼は笑いながら言った。「好きにしたらいいさ。弁論家は話を面白くするために歴史を作り変えることが許されているからね。実際、君がコリオラヌスの話についてしたように、クリタルコスとストラトクレスはテミストクレスの話を作り変えている。42

「ツキジデスはアテナイの高貴な生まれで立派な人だし、テミストクレスより少し後の世代の人だった。その人がテミストクレスについてはただ死んだとだけ書いて密かにアッティカに埋葬されたとしている。その後にテミストクレスは毒をあおって自殺したいう噂があると付け加えているんだ。それに対して、クリタルコスとストラトクレスは、テミストクレスは牛を生贄にした時に牛の血を盃に受けて、それを飲んで死んだと言っている。この死に方なら美辞麗句で悲劇的な装飾を施すことができるが、普通の死に方ではそういう機会もないと言うわけだ。君もコリオラヌスはテミストクレスそっくりの方がいいと言うなら、盃の話を採り入れたりいいし、何なら生贄の話も使えばいい。そうすればコリオラヌスはテミストクレスと瓜二つになる」43

 私が言った。「お言葉に甘えて、コリオラヌスについてはそうさせてもらうよ。ただし、これからは君の前で歴史の話をするときはもっと慎重にやるよ。君のローマ史の正確さは敬服に値するからね。ところで、先程言及したペリクレス(クサンティッポスの息子)は初めて弁論に学問を応用した人である。当時は弁論術はまだなかったが、物理学者のアナクサゴラスに教えを受けた彼が難解な問題によって鍛えられた頭脳を政治の世界で生かすことは容易いことだった。アテナイの人たちはペリクレスの魅力ある演説に驚喜し、その流麗豊潤さを驚嘆したが、それと同時に彼の演説の鬼気せまる迫力に恐れをなしたのである。44

第十二章
 こうして、この時代に初めてアテナイにほぼ完成された弁論家が生まれたのである。国家の創成期や、戦乱期や、王政下で自由が制限されている時代には弁論家を志願するものは現れないものである。弁論術とは戦乱が治まり平和が訪れて社会が安定した時代に生まれてくるものなのである。45

 だから、アリストテレスも言うように、才気にあふれ論争好きの国民性があるシチリアでさえも、僭主が追放されてからだいぶ経って、人々が裁判によって私有財産を取り戻そうとする頃になって初めて、シチリア人コラクスとティシアスが弁論術の教科書を書いたのである。それまでにも筋道を立てて上手に話をする人は沢山いたが、一定の方法に従って話すことを身に付けていた人はいなかったのである。

 一方、アリストテレスによれば(※)、今では共通の論拠と呼ばれる明白な事柄に基づく議論の仕方を書いたのはプロタゴラスである。46

※アリストテレスの失われた対話編『グリュロス』だと言われている。

 ゴルギアスも同じことをしたが、同時に特殊な事柄に対する称賛と非難の仕方を書いたと言われている。称賛したり批判したりして物事を過大評価しあるいは逆に過小評価できることが、弁論家にとって最も大切な仕事だと思っていたからである。これについてはラムヌスのアンティフォンも似たようなことを書いている。彼は死刑を求刑された自分の裁判で誰よりもうまく自分を弁護したと、信頼できる歴史家ツキジデスが目撃談として伝えている。47

 一方、リュシアスは初めは弁論術を教える仕事をしていたが、演説が下手なテオドロスの方が教え方はうまかったので、教えるのはやめて人のために弁論を書き始めたと言われている。イソクラテスも最初は人のために法廷弁論を書く仕事をしていたが、弁論術を教えるのは断っていた。しかし、彼はわが国のいわゆる誣告罪で自分がたびたび訴えられたことから、人のために弁論を書くのをやめて、弁論術を教えることに専念したと言われている。48

第十三章
 以上がギリシアの弁論家の始まりだ。わが国の歴史から見るとずいぶん昔の事になるが、彼らの歴史から見るとかなり新しい出来事になる。というのは、アテナイ市民がこの弁論術の素晴らしさ知るようになるまでに、アテナイはすでに国の内外で数々の輝かしい歴史を刻んでいたからである。もっとも、この弁論術に対する熱意はギリシアのどこでも見られるものではなく、アテナイ固有のものだった。49

 あの時代にアルゴスやコリントやテーバイに弁論家がいたという記録は残っていないのてある。もちろん教養あふれたエパミノンダスがそうだったとは言えるかもしれない。しかし、スパルタに弁論家がいたという話は今に至るまで聞いたことがない。ホメロスはメネラオスは話しをするのがうまかったと言っているが、言葉数は少なかった。しかし、場所によって寡言が美徳とされることはあるが、一般的な弁論術では褒められることではない。50

 しかし、一歩ギリシアを出ると弁論術に対する熱意は大きかった。弁論術に高い評価が与えられたので、多くの弁論家は名声を得た。というのは、ペイライウス港から弁論術が輸出されるや、それは瞬く間に全ての島だけでなくアジアじゅうに広まった。その結果、弁論術は国外の習慣によって変質して、アッティカ式の表現の健全さを完全に失ってしまい、話し言葉から遠ざかってしまった。こうしてアジア式の弁論家が生まれたのである。彼らの饒舌で流暢な話し方はけっして馬鹿にできない。しかし、簡潔さに欠けており冗長である。ただし、ロドス島の弁論家は健全でアッティカの弁論家に近い。51

 ギリシアの弁論家については以上である。こんなに長く話す必要はなかったかもしれないが。」

 するとブルータスが言った。「いいえ、必要がないなんてとんでもありません。実に面白い話でした。長いどころか、短か過ぎると思うほどですよ。」

 私が言った。「それは良かった。では次にわが国の弁論家の話をしよう。彼らについて分かることは歴史から推測される以上のことはむつかしい」52

第十四章
 君の名家の創設者であるあのルキウス・ブルータスが才気に富む人だったことは誰もが認めることである。彼は母に口づけすべしというアポロンの神託の意味から鋭く推測した。彼は愚か者のふりをして自分の賢さを隠した。名高い王の息子だった暴君(※)を追放して(前509年執政官)、長く続いた専制支配からこの国を解放するとともに、毎年選ばれる政務官と法と裁判のもとに束ねた。彼は自分の同僚(=ルキウス・タルクイニウス)から職権を剥奪して、ローマから王の記憶を払拭した。さだめしこれは弁論による説得なしでは実現できなかったろう。53

※タルクイニウス傲慢王(前535~496年)

 王制が終わってからわずか数年後には(前494年)、平民たちがアニオ川の岸近くの第3マイル地点に陣取って、いま聖山と呼ばれている山を占拠したことがあったが、その時も同様にして独裁官マルクス・ウァレリウス(前494年)が弁論の力で反乱を鎮めた。この功績によって彼は最高の栄誉を授けられ、その結果最初にマキシムスという称号を得た人となった。

 ルキウス・ウァレリウス・ポティートゥス(前449年執政官)も弁論に長けた人だったと思われる。彼は不人気な十人委員の支配の後に平民の貴族にする怒りを自らの法律と演説で鎮めたからである。54

 盲目のアッピウス・クラウディウス(前307、296年執政官)も弁論に優れた人だったと思われる。ピュロス王との和平にほとんど決まりかけていた元老院を引き戻したからである。ガイウス・ファブリキウス(前282年執政官)についても同じことが言えそうである。ピュロス王のもとに捕虜を取り戻すために使節として送られたからである。ティトゥス・コルンカニウス(前280年執政官)もそうである。神祗官の記録から彼はこの才能に抜きん出ていたと思われるからである。

 マニウス・キュリウス(前290年執政官)もそうである。弁論に優れた盲目のアッピウスが臨時執政官(前298年)として執政官選挙を行い、法に反して平民の執政官を受け入れなかった時、護民官だったキュリウスは、元老たちを説得して選挙結果を承認させたからである。それはマエニウス法(※)が成立する前のことだったので大変な偉業だった。55

※元老院が民会の決定を異議なく批准する法。

 マルクス・ポピリウス(前359年執政官)も弁舌の才があったと思われる。執政官だった彼はカルメンタ神の神官でもあったのでマントを着用して国の犠牲式を行っていたが、その時平民が蜂起して貴族に対する反乱を起こしたことを知ると、マントを着たまま民会におもむくや自らの権威だけでなく弁論の力を駆使して反乱を鎮めたからである。しかし、僕が本で読んだ限りでは、以上の人たちが弁論家として活躍していたとか弁論によって報酬を得ていたという話は見いだせなかった。だから、彼らが弁論家だったというのは推測の域を出ないのである。56

 ガイウス・フラミニウスは護民官としてガリアとピケヌムの農地を人々に分割する法を作り、執政官としてはタルシメネ湖で戦死したが(前217年)、民会の弁論がうまかったと言われている。クィントゥス・マキシムス・ウェルコーススは当時としては弁が立つと思われていた。第二ポエニ戦争のときにルキウス・ウェトゥリウス・フィロンとともに執政官だったクィントゥス・メテッルス(前206年執政官)も雄弁だと思われていた。

  第十五章
 弁論家としての記録がはっきり残っている最初の人はマルクス・コルネリウス・ケテグス(前204年執政官)である。彼の雄弁さの証人はクィントゥス・エンニウス(前239~169年詩人)である。彼の証言が信用できるのは、彼自身がケテグスの話を聞いてケテグスの死後に書いているからで、友人だったせいでエンニウスが嘘をついているという疑いはないからである。57

 エンニウスの『年代記』の9巻にあるケテグスはそういう意味だと思われる。

 トゥディタヌス(前204年執政官)の同僚に
 なったのは快い語り口の弁論家である
 マルクス・コルネリウス・ケテグス
(マルクスの息子)だった。

 エンニウスは彼のことを弁論家と呼び、語り口であると付け加えた。これは今ではあまり見られないことで、今の弁論家は話すというよりは怒鳴る人が多いからだ。次の言葉はこの弁論家に対する最大の賛辞である。

 彼はその当時に生きて
 騒々しい日々を送っていた国民から
 国民の精華と呼ばれていた。58

 まさにその通りで、知性が人類の誉れであるとすれば、弁論は知性を輝かせるものだからである。その点で優れている彼を当時の人々が国民の精華と呼んだのは正しい。それは

 説得の女神の神髄

である。

 ギリシア人がペイトー神と呼ぶのがこれで、エンニウスはそれを説得の女神と名付けた。弁論家はこの神を体現しているのであり、その神髄がケテグスだと言いたいのである。エウポリス(前5世紀喜劇作家)がペリクレスの唇に宿っていると書いたのはこの女神であるが、ケテグスこそはその女神の神髄だったとエンニウスは言うのであろう。59

 このケテグスはプブリウス・トゥディタヌスとともに第二次ポエニ戦争の時に執政官だった人で、二人が執政官のときの財務官がマルクス・カトー(=前234~149)である。それは僕が執政官になる140年前のことである。ケテグスが優れた弁論家だったことを伝えているのはエンニウスだけだが、もしそれがなかったら、この人も他の多くの人たちと同じように、長い歴史の忘却のかなたにうずもれていたことだろう。

 あの時代の話し方がどんなものかは、ナエウィウス(前3世紀の劇作家)の作品から推測することができる。古い記録にあるように、ナエウィウスはあの二人が執政官をしていた年に亡くなっているからである。もっとも、古代史に詳しいウァッロー(前1世紀博学者)はこれを間違いとし、ナエウィウスの死期を後にずらした。というのは、ナエウィウスと同期のプラウトゥスが死んだのは、先の二人の20年後プブリウス・クラウディウスとルキウス・ポルキウスが執政官だった時で、ちょうどカトーが監察官だった時だからである(前184年)。60

   したがって、年代的にこのケテグスのあとに来るのがカトーである。彼はケテグスの9年後に執政官になっている(前195年)。しかし、僕たちからすると彼はだいぶ昔の人だ。彼が亡くなったのはルキウス・マルキウスとマニウス・マニリウスが執政官の時で、僕が執政官になる86年も前のことである(前149年)。

第十六章
 一方、彼より昔の人でその作品に言及すべきだと思うような人はいない。もっとも、すでに言及した盲目のアッピウスのピュロス王についての演説と追悼演説を高く評価する人がいる。61

 確かにその幾つかは残っている。遺族がそれを亡くなった人を顕彰する記念として取っておいて、その家の誰かが死んだ時に持ち出してきて、一族の過去の栄光を呼び起こしたり、自分たちの高貴な生まれを証明するのに使っているからである。

 もっとも、この追悼演説に書かれている歴史には欠陥がある。事実でないことが沢山書かれているからである。凱旋式を偽ったり、執政官がたくさんいたことにしたり、家系を偽って元は貴族だったと言って、身分の低い人間を同じ名前の別の家系に潜り込ませたりしているのだ。これは例えば、僕(マルクス・トゥッリウス・キケロ)は王制廃止の10年後にセルウィウス・スルピキウスと執政官になった貴族のマニウス・トゥッリウスの子孫だと言うようなものである。62

 一方、カトーの弁論はアテナイのリュシアスにおとらずたくさん残っている。ただし、リュシアスの場合、本当はもっと少ないと思う。「アテナイの」と書いたのは彼の生死の場所がともにアテナイであり、市民として多くの義務を果たしたからであるが、ティマエオス(=ギリシャの歴史家)はローマのリキニウス・ムキウス法の戸籍調査のようなことをして彼をシラクサ生まれだとしている。カトーとリュシアスには互いに似たところがある。二人とも洗練された簡潔な文体でするどく機知に富んだ文章を書くからである。ただし名声の点ではリュシアスの方がまさっている。63

 というのは、リュシアスには熱心な支持者がいるからである。彼らは華美な文体よりは簡素な文体を目指す人たちで、健康である限りには細身であることを好む人たちである。もっともリュシアスもときどき力強くて印象的な文章を書くこともある。しかし、全体としてはどちらかと言えば無味乾燥な文体である。しかし、それにもかかわらず彼の追随者がいて、彼の平明さを非常に愛好している。64

第十七章
 一方、現在わが国の弁論家たちの誰がカトーの書いたものを読むだろうか。そもそも誰がカトーのことを知っているだろう。それにもかかわらず、彼はすばらしい人なのだ。市民してのカトー、元老としてのカトー、将軍としてのカトーはいまは措くとして、ここでは弁論家カトーについて語ろう。彼ほど心にのこる称賛演説を行い、彼ほど辛辣な弾劾演説を行い、彼ほど鋭い意見を発表し、彼ほど正確に話のできる人がいるだろうか。彼の演説で僕がこれまでに見つけ出して読んだものは150以上にのぼるが、すばらしい内容とすばらしい言葉に満ちている。その中から注目に値するもの良さそうなものをどれでも選ぶとよい。そこには演説のあらゆる美点が見つかるだろう。65

 彼の『起源論』には弁論家のあらゆる華やかさと輝きが備わっている。それなのに彼には追随者がいない。それは何世紀前のシラクサのフィリストス(前4世紀歴史家)とトゥキュディデスに追随者がいなかったのと似ている。というのは、彼らの細切れの文章は過度の省略と辛辣さのためにしばしば難解で、テオポンポス(前4世紀歴史家)のおおらかで伸びやかな文章に比べると影が薄かったからである。それはデモステネスと比べたリュシアスも同様だった、カトーの演説も後世の人たちの盛り上がりのある物と比べると輝きを失うのである。66

 しかし、わが国にはギリシアの古い文体を愛好してその簡潔さをアッティカ風と呼んで珍重している人たちがいるのに、その彼らがをカトーの簡潔さを知らないのは、単に彼らの勉強不足である。彼らはヒュペリデスやリュシアスのようになりたいと言っている。それはいいが、どうしてカトーのようになりたいと言わないのだろう。67

 アッティカ風の文体を好むのは、いいセンスをしている。しかしそれなら、骨組だけでなくそこに流れる血液も真似て欲しいものだ。彼らの意志はすばらしい。そらならどうしてカトーを全く知らないで、リュシアスとヒュペリデスが好きになるのか。確かに、カトーの言葉は古風だし語りは粗削りである。それは当時の話し方がそうだったからである。だから、カトーに出来なかったことは変えればよい。つまりリズムを加えて、もっと話がなめらかに進むように単語を配置して、前後のつながりを固めるのだ(これは初期のギリシア人さえまったく出来なかったことである)。そうすればカトーにまさる人はいないことに気づくはずだ。68

 ギリシア人は言葉を変えて比喩的にしたり、意味と話し方に修辞的表現を使うと美しい文章になると考えている。前者を彼らはトロポスと呼び後者をスケーマタと呼んでいる。カトーの文章がこの二つの種類の文飾でふんだん彩られている様は信じがたいほどである。

第十八章
 もちろん弁論家カトーの文章は洗練の度合いが不充分であり、さらなる完璧さが要求されることは僕も認めるところだ。しかし、それは仕方がない。なぜなら、僕たちから見るとカトーは大昔の人であり、読むに値するものが残っている最古の人だからである。それにもかかわらず、昔はこの弁論という唯一の芸術よりも他のどんな芸術のほうが高い名声が与えられたのである。69

   他の下等な芸術に目を向ける人なら誰でも知っていることだが、カナクス(前6世紀のシキュオンの彫刻家)が作る彫刻は粗削りで真実の姿を写すには程遠い。しかしカラミス(前5世紀のアテネの彫刻家)が作る彫刻は粗野ではあるが、カナクスよりはなめらかである。ミュロンの彫刻はリアリティーにはまだ至っていないが、その美しさは否定できない。ポリュクリトスの彫刻はさらに美しくほとんど完成の域に達してると僕には見える。同じことは絵画についても言える。ゼウクシス、ポリュグノートス(=前5世紀の画家)、ティマンテス(=前4世紀の画家)など、画家が4色しか使わなかった時代でも、彼らの描く輪郭や描線はすばらしい。しかし、アエティオン、ニコマコス、プロトゲネス、アペッレス(=前4世紀の画家)の時代になって全てが完成の域に達したのである。70

 他のどんな芸術にも同じことが当てはまる。誕生すると同時に完成しているものはないのである。ホメロスの前にも詩人がいたことは疑いない。それはホメロスの詩の中のパイエケスの国(=『オデュッセイア』第8巻)とペネロペの求婚者たちの宴会(=同1巻他)で歌がうたわれる場面から明らかである。では、わが国の昔の詩の場合はどうだろうか。

それはかつて山野の精や予言者たちが唱ったもの。
しかし、われ以前に、ミューズの高みに至る者も
言葉の綾に精進するものもなし。

こう自慢するエンニウスはけっして嘘を付いているわけではない。事実はそのとおりなのである。リヴィウス・アンドロニクス(280年頃~)がラテン語にした『オデュッセイア』はまるでダイダロス(前6世紀のシキュオンの彫刻家)の彫刻と思えるほど荒いし、彼の劇は再読に耐えるものではない。71

 このリヴィウスがはじめて劇を上演したのはガイウス・クラウディウス(盲目のアッピウスの息子)とマルクス・トゥディタヌスが執政官の時で(前240年)で、エンニウスが生まれる前年のことだ。それはローマ建国(前753年)の513年後にあたる。これは僕が信頼している人の説である。しかし、学者たちの間にはこの年代について異論がある。アッキウス(前2世紀ローマの悲劇詩人、学者)は、五度目の執政官だったクィントゥス・マキシムス(前209年)がリヴィウスをタレントゥムで捕虜にしたと書いている。これはリヴィウスが最初に劇を上演したとアッティクスが言い僕が古代の記録で確認した年より29年もあとのことになってしまう。72

 さらにアッキウスによれば、リヴィウスは捕虜になった12年後、ガイウス・コルネリウスとクィントゥス・ミヌキウスが執政官の年(前197年)に青春の女神の催事(これはリヴィウス・サリナトールがメタウルスの戦いのときに戦勝記念に奉納すると誓った催事である)で初めて劇を上演している。しかし、これはアッキウスの勘違いで、この年にはエンニウス(前239年~)は40歳代である。これではリヴィウスはエンニウスの同世代になってしまうし、初めて劇を上演したリヴィウスが、この時代には既に多くの劇を上演していたプラウトゥス(前254年~)とナエウィウス(前265年~)より年下であることになってしまう。73

第十九章
 こういう話題が今回の対話にふさわしくないと思うなら、ブルータス君、これはアッティクスが悪いんだよ。有名人の生涯の年代考証に引き込んだのは彼なんだから。」ブルータスが言った。「いいえ、僕もこういう年代考証は面白いと思います。それに、あなたが始めた弁論家列伝にはこういう正確さは大切だと思います。」74

    私は言った。「そうだとも。ブルータス君、よく分かっているね。カトーが『起源論』のなかに書き残した歌がいま残っていたらよかったのだが。その歌は彼よりも数世紀前の宴会で会食者たちが偉人たちを讃えてうたった歌だ。一方、エンニウスが野山の精と予言者のなかに入れた詩人ナエウィウスの『ポエニ戦争』はミュロンの彫刻と同程度には楽しめる作品だ。75

 確かにエンニウスの方が完成度は高い。彼はナエウィウスを馬鹿にしているが、もしそれが本当なら、あらゆる戦争の話を扱った彼はあの激烈な第一次ポエニ戦争も扱っているはずなのである。エンニウスはこの戦争を扱わなかった理由を「他の人たちがこれを詩に書いているから」と言っている。実際、エンニウスよ、彼らは君ほどうまくはなくても見事に書いている。君はナエウィウスから多くを引用したのだから、彼の能力を認めているはずなのである。またもし認めないなら、君の行為は盗用になってしまう。76

 このカトー(前195年執政官)と同世代で彼より年長者にガイウス・フラミニウス(既出)、ガイウス・ウァッロー(前216年執政官)、クィントゥス・マキシムス(既出)、クィントゥス・メテッルス(既出)、プブリウス・レントゥルス(前203年法務官)、それに大スキピオとともに執政官だったプブリウス・クラッスス(前205年)がいる。大スキピオ自身も口下手でなかったことが伝えられている。大スキピオの孫がパウッルス(前182年執政官)の息子から養子になった小スキピオだが、大スキピオの息子も体力があったらすぐれた弁論家になれたと思われる。それは彼の短い演説とギリシア語で書かれた見事な歴史を見れば明らかである。77

第二十章
 セクストゥス・アエリウス(前198年執政官)もこの括りに入る。彼は市民法について誰よりも詳しいだけでなく弁論の才能もあった。一方、カトーと同世代で彼より年少者にはガイウス・スルピキウス・ガッルス(前166年執政官)がいる。この人は貴族階級の中ではもっともギリシア文学に傾倒した人で、弁論家としても聞こえていたが、他の分野(=天文学)でも造詣の深い人だった。この頃にはとうとうと華やかに話す習慣が生まれていた。というのは、クィントゥス・マルキウス・フィリッポスとグナイウス・セルウィリウス・カエピオーが執政官の年(前169年)にガッルスは法務官としてアポロン神の催事を行ったが、そこでエンニウスは悲劇『テュエステス』(=華やかな演説が含まれていたらしい)を上演して、その年に亡くなっているからである。78

 同じ頃にプブリウスの息子のティベリウス・グラックスがいる。彼は二度の執政官(前177、168年)と監察官だった人だが、ロドス人の前でしたギリシア語の演説が残っている。彼が重要人物だっただけでなく優れた弁論家だったことは確かである。プブリウス・スキピオ・ナシカはコルキュルム(=明敏な人)と呼ばれた人で同じく二度の執政官(前162、155年)と監察官だった人だが、弁論家として知られていたと言われている。彼は大地母神の像を迎え入れたスキピオ・ナシカの息子である。

 ガイウス・フィグルスと共に執政官(前156年)だったルキウス・レントゥルスも弁論家として知られていた。マルクスの息子のクィントゥス・フルヴィウス・ノビリオル(前153執政官)は父親の方針で文学の勉強に励んでいたので弁舌に巧みだったと言われている。この人は三人委員として植民の世話をした時に、クィントゥス・エンニウスが父親といっしょにアイトリアで兵役を勤めた時に彼に市民権を与えている。彼の同僚執政官だったティトゥス・アンニウス・ルスクスも弁舌に巧みだったと言われている。79

 小スキピオの父親のルキウス・パウッルス(既出)はその弁論によって第一市民の役割を見事に果たした。カトーは85歳で亡くなったが(前149年)、まさに亡くなったその年に民衆の前でセルウィウス・スルピキウス・ガルバ(前144執政官)を弾劾する演説を行った。いまその原稿が残っている。このカトーの生きていた時代には彼のあとの世代に一時に沢山の弁論家が出て成功している。80

第二十一章
 例えば、アウルス・アルビヌスはギリシア語で歴史を書いた人で、ルキウス・ルクッロと共に執政官だった人だが(前151年)、文芸に長けた人であるだけでなく優れた弁論家だった。彼と並び称せられたのが、セルウィウス・フルヴィウス(前135年執政官)とセルウィウス・ファイビウス・ピクトール(不明)である。ピクトールは法律と文芸と歴史に精通していた人である。またクィントゥス・ファビウス・ラベオー(前183年執政官)も同様の名声を得ていた。

 また、四人の息子が執政官になったクィントゥス・メテッルス(前143年執政官)も優れた弁論家だったと言われている。彼は小スキピオに訴追されたルキウス・コッタ(前144年執政官)の弁護している。彼の演説はたくさん残っているが、ティベリウス・グラックス(前133年護民官)を批判する演説はガイウス・ファンニウス(前122年執政官)の書いた年代記の中に入っている。81

 このルキウス・コッタ自身も経験豊富な弁論家だったと言われているが、ガイウス・ラエリウス(前140年執政官)と小スキピオはずば抜けた弁論家だった。二人の現存する演説からは弁論家としての才能の高さを見ることができる。いま名前をあげた人たちの中では、少し年上だったセルウィウス・ガルバの弁舌の才が異議なく抜きん出ていた。実際、彼はラテン語の弁論家の中で初めて弁論家に特有の言わば本来の技術、例えば、主題から脱線して話を面白くしたり、聴衆の気持ちを和ませたり、感情に訴えたり、事実を誇張したり、哀れみを誘ったり、共通のトポスを使ったり、という弁論の技術を初めて使った人である。ところが、彼が優れた弁論家であることは確かだったにも関わらす、どういうわけか彼の演説はラエリウスや小スキピオやカトーと比べても貧弱で古臭いのである。その結果、彼の演説は色あせて目立たなくなってしまっている。82

 ラエリウスと小スキピオの才人ぶりは両者とも非常に有名だが、弁論の能力ではラエリウスの方が有名である。ただし、神祇官についてのラエリウスの演説(※)だけはスキピオの多くのどの演説よりも見劣りする。確かに、ラエリウスの演説ほど心地よいものはないし、宗教についてあれほど威厳をもって話すことはできない。しかし、ラエリウスの演説はスキピオのと比べると古風で粗野な感じがする。文体の好みは人それぞれだが、ラエリウスの好みはどちらかと言うと古風で人より古い言葉を使う傾向があると思われる。83

※前145神祇官団を選挙で選ぶ法案に対して反対した演説。

 しかし、一人の人間に多くの才能を求めないのが人々の習いである。ヴィリアトゥス(=西スペインの反乱の首謀者)に対する戦いでのラエリウスの活躍を僕たちも知っているが、武勲においては小スキピオに並ぶものはない。それと同じように、人々は文学と弁論と英知の能力に関して二人に第一級の地位を与えているが、二人を比べる時は喜んでラエリウスに軍配を上げる。しかも、このように名声を分け合うことは他人の判断だけではなく、本人たちの間で納得ずくのことなのである。84

 だいたい昔はこういうやり方だった。それは多くの点で今より優れていたが、役割分担が容易になるという点で今より進んでいたのである。

第二十二章
 次の話は僕がスミルナでプブリウス・ルティリウス・ルフス(前105年執政官)から聞いた話だ。それは彼がまだ若い頃のことで、プブリウス・スキピオとデキムス・ブルータスが執政官だった時(前138年)だったと思うが、元老院決議で執政官たちが大きな残虐犯罪の審議をすることになった。シラ(=イタリアの南東)の森で大勢の人たちと共に著名人が殺害され、監察官からタール製造所を請け負っていた組合の奴隷たちと自由人の一部が告発された。元老院は執政官たちに対してこの事件を調査して判決を出すように決議したのである。監察官は小スキピオとルキウス・ムンミウス(前146年執政官)だった。85

 ラエリウスがこの請負組合を弁護した。彼はいつものように入念に洗練された弁護をしたのだが、それを聞いた執政官たちは法律顧問の意見に従って「審議未了」とした。数日置いて再びラエリウスがさらに入念にうまく弁護した。ところが執政官たちはまたもや同じように判決を延期した。組合員がラエリウスを自宅に送って礼を言ってから引き続きがんばって欲しいと頼んだ。するとラエリウスは次のよう言った。「私はあなた達の名誉のためにがんばって入念な弁護をさせてもらったが、この事件はセルウィウス・ガルバの方がもっと熱意のこもったもっと力強い弁護ができると思う。彼の演説のほうが鋭くて激しいからだ」。そこで組合はガイウス・ラエリウスの助言に従って弁護をガルバに依頼したのだ。86

 ガルバはこれほどの人間の後を引き継ぐことになるので、非常に恐縮して躊躇しながら引き受けた。最終弁論までに一日しかなかったが、その日をまるまる費やしてガルバは事件の調査と弁論の作成対策に当たった。審理再開の日、ルティリウスが組合員の求めに応じて朝からガルバの家に出向いた。そして、ガルバを呼び出して弁論の時刻に間に合うように連れ出そうとした。ところが、ガルバは執政官入廷の知らせが来るまで書斎を面会謝絶にして、読み書きの出来る奴隷たちといっしょに演説の準備をして、いつものように様々なことを次々に口述筆記させていた。そして、時間が来たという知らせが来るとガルバは書斎を出て法廷に向かった。その時の彼は真っ赤な顔と目つきをしていたので、準備を終えたどころかまるで弁論を終えた後のようだった。87

 さらにルティリウスは重要なことを付け加えた。それは、ガルバと一緒に書斎から出てきた書記たちがくたくたになっていたことだ。ガルバが法廷の演説だけでなく自宅の準備も熱意をこめて情熱的にやっていたことを言いたかったのである。もうお分かりだろう。ガルバは大きな期待を背負って、大勢の聴衆とラエリウスがいる前で、力を込めて熱烈な弁護を展開した。彼が一言いう度にどよめきの声が聴衆から沸き起こった。その感動と哀れみを誘う演説が終わると、全員の喝采のもと、組合員たちはその日のうちに容疑を解かれたのである。88

第23章
 このルティリウスの話からわかるように、弁論家には二つの高い能力がある。一つは理路整然と論じて人々を教え諭す能力であり、もう一つは印象的な訴えで聴衆の心を揺り動かす能力である。そして、審判員の情緒に訴える弁論家の方が教え諭す弁論家よりもはるかに説得力がある。ラエリウスの強みは正確さであり、ガルバの強みは力強さだった。このガルバの能力は別の機会にもいかんなく発揮された。それはスペインを統治していたガルバが約束を破ってルシタニア人を皆殺しにしたと訴えられた時だった(前149年)。護民官ルキウス・リボーが大衆を扇動してに彼を狙い撃ちする法案を提出したのだ。この時、すでに述べたように、高齢だったマルクス・カトーがその法案を支持してガルバを弾劾する大演説を死の数日前あるいは数カ月前に行ったのである。この演説は彼の『起源論』の中に収められている。89

 その時ガルバは自分のためには一切弁明しなかった。そして彼は民衆の良心に訴えて「私はどうなってもいいですから、私の子供たちと亡きガイウス・スルピキウス・ガッルスの息子(=ガルバが後見をしていた)のことをよろしくお願いします」と泣きながら言ったのである。この孤児の泣きじゃくる姿は亡くなったばかりの高名な父親を思い起こさせて、ひどく哀れを誘うものだった。こうしてガルバは子供たちへ民衆の同情心をかきたてることで、わが身の破滅を免れたのである。このとおりの事をカトーは書き残している。一方、リボーもまた彼の演説から明らかなように、有能な弁論家だったと思われる。90

 私はここまで言ってひと息入れようとした。その時、ブルータスが言った。「ガルバの演説にそんな力があったのに、どうして彼の演説集からはそれがまったく感じられないのでしょうか。彼が何も書き残していないのなら、私も不思議がることはないのですが。」

第二十四章
「ブルータス君、弁論家の中には何も書き残さない人もいるし、書き残すけれども話した時ほど出来がよくない人もいるが、理由はそれぞれ違うんだよ。多くの弁論家は法廷の仕事を終えて家に帰ってまで仕事をするのがいやなので、何も書き残さないものだ(たいていの弁論家は自分の演説を文字にするのは実演の前ではなくて後でする)。91

     また自分がした演説を家で改善するための労力を払わない人も多い(実は自分の演説を文字にすることほど演説の改善に役立つことはない)。一方、後世の人に自分の能力を文字にして残そうとは思わない人もいる。文字にしたものが批評家にけちを付けられては、演説によってせっかく手に入れた大きな名声が台無しになると思っているのだ。また、文字に書くよりも口で喋るほうがうまくできると思っている人もいる。これはガルバのように生まれつきの才能がすごくてあまり練習熱心でない人に多い。92

 ガルバは弁論の才能だけでなく生まれつき持っている激情のせいで、話しているうちに熱がこもってきて、演説が情熱的で力強く印象的なものになった。しかしその後、気持ちが落ち着いてからペンをとる時には心の高ぶりは嵐が静まるようにどこかへ行ってしまうので、言葉の冴えもなくなってしまうのである。こういうことは理路整然とした演説を心がけている人には起こらない。理性と分別は弁論家にはなくてはならないもので、それに従えば口で喋るときも文字を書くときも同じように出来るからである。ところが、心の高ぶりは永遠には続かないので、それが鎮まってしまうと弁論の力強さも熱気も全部消えてしまうのである。93

 こういうわけで書いた物の中でもラエリウスの精神は息づいているが、ガルバの力強さは消えてしまっているのである。

第二十五章
 ルキウス・ムンミウス(前146年執政官)とスプリウス・ムンミウス兄弟の演説が残っているが、二人は凡庸な弁論家の中に含まれる。ただし、ルキウスの方は簡潔で古風だったのに対して、スプリウスは飾り気がないどころかさらに簡潔である。なぜならスプリウスはストア派の教えを受けていたからである。スプリウス・アルビヌス(前151年執政官)の演説は沢山残っている。ルキウスとガイウス・アウレリウス・オレステスの演説も沢山残っている。彼らもまた弁論家のうちに数えられていたと思う。94

 プブリウス・ポピリウス(前132年執政官)は立派な市民であり話下手ではなかったが、彼の息子のガイウスは弁がたった。ガイウス・トゥディタヌスは生活ぶりも非常に洗練されていたが、彼の演説も洗練されていたと言われている。同じく洗練された弁論家だったと言われているのがマルクス・オクタヴィウス(※)である。彼は古きよき体制に対する支持を曲げなかった人で、ティベリウス・グラックスからひどい目に会っても辛抱強くグラックスを破滅に追い込んだ。

※前133年、ティベリウス・グラックスと同僚の護民官。グラックスの法案に拒否権を行使して護民官を罷免された。

 一方、ガルバと同年代で少し年下だったマルクス・アエミリウス・レピドゥス、あだ名をポルキナ(前137年執政官)と言われた人は第一級の弁論家だったと言われている。彼がすぐれた文筆家だったことは彼が書き残した演説から明らかである。95

 ラテン語の弁論家の中で彼はギリシア語の弁論家のなめらかさを持ち、掉尾文といわゆる技巧的な文体を駆使した初めての人だと僕には思われる。ガイウス・カルボ(前131年護民官、前120年執政官)とティベリウス・グラックス(前133年護民官)はほぼ同期の優れた弁論家だったが、二人とも若い頃この人の演説をいつも熱心に聞いていたという。彼らについて話す時はすぐやってくるので、もっと昔の人について少し語ろう。クィントゥス・ポンペイウス(前141年執政官)は当時としては侮りがたい弁論家と見られていた。彼は自力で世間に認められて祖先の威光なしに最高の地位に到達した人である。96

 当時のルキウス・カッシウス(ロンギヌス、前127年執政官、前137年護民官)は雄弁ではなかったがその演説には力があった。彼は他の民衆派の政治家のように民衆におもねることはなかったが、その極めて真面目な態度が民衆に人気があった。彼の秘密投票法案(前137年)は執政官マルクス・レピドゥス(上記)の支持を得た護民官マルクス・アンティウス・ブリソーの執拗な反対に会った。この件ではブリソーが小スキピオの影響で反対意見を撤回したと思われたので、小スキピオが非難された。また当時二人のカエピオー(前141年、140年執政官)は自分の庇護民を助言と弁舌によって大いに助けたが、それにはむしろ彼らの社会的地位と影響力がものをいった。また当時の人でセクストゥス・ポンペイウス(※)の書いたものが残っている。彼の演説は古風ではあるが極端に単調になることはなく、良識に満ちたものである。97

※大ポンペイウスの大伯父。

第二十六章
 ほぼ同じ時代のプブリウス・クラッスス(ムキアヌス、前132年最高神祇官、前131年執政官)は弁論家として高く評価されていたと僕は聞いている。彼は才能と努力で人に抜きん出た人である上に、家族ぐるみで研鑽を積んでいた。というのは、彼は第一級の弁論家セルウィウス・ガルバの息子ガイウスに娘を嫁がせたことでガルバの親戚になっており、プブリウス・ムキウス・スカエウォラ(前175年執政官)の息子であり、その子プブリウス・ムキウス・スカエウォラ(前133年執政官)の兄弟だったおかげで、自分の家で市民法を学んだからである。彼は並外れた努力家でしかも人望があったのは確かで、法律顧問としてまた法廷弁護士として活躍した。98

 この時代に含まれる人としては二人のガイウス・ファンニウス(ガイウスの息子とマルクスの息子)がいる。このうちガイウスの息子(※)はドミティウス・アヘノバルブスと執政官にだった人で(前122年)、非常に優れた有名な演説が一つだけ残っている。それは同盟市とラテン民族に関してガイウス・グラックス(前123年護民官)に反対するものである」

※マルクスの息子の間違い。この時代のガイウス・ファンニウスは一人だけらしい。

 するとアッティクスが言った。「それはどうですかね。それは本当にファンニウスの演説ですか。僕が子供の頃にはいろいろ言われていました。あの演説はガイウス・ペルシウスという学者の代筆だと言う人までいました。このペルシウスはルキリウス(前2世紀の詩人)によれば大変な博識家だと言われています。別の人達はあの演説は多くの有名人が書いたものを寄せ集めて出来たものだと言っていましたよ」99

 そこで私が言った。「僕も先輩たちからそんな話を聞いたが、まったく信じる気にはなれない。そんな疑惑が生まれたのは、ファンニウスは凡庸な弁論家だと思われていたのに、その時の演説は明らかに他のどれにも抜きん出て素晴らしいものだったからだ。しかし、僕にはあの演説は寄せ集めて作った印象はしなかった。全編にわたって話の調子が一定しているし文体も統一されているのだ。また、ファンニウスがグラックスをマラトスのメネラオスらの弁論家の手助け得ていると非難しているのだから、もしあの演説がペルシウスの代筆ならグラックスが黙っていたはずがないのだ。それにファンニウスはけっして演説下手とは思われていなかった。なぜなら、彼は法廷弁護士として活躍しているし、護民官としての任期も小スキピオの庇護を得て立派に果たしているからだ」100

 もう一人、マルクスの息子の方のガイウス・ファンニウスはガイウス・ラエリウス(前140年執政官)の婿となった人だ。この人は態度も話し方ももう一人のファンニウスよりも素朴な人だった。彼は舅のことがそれほど好きではなかった。それは自分が卜占官団に選ばれなかったからだ。ラエリウスは彼より年下の婿のクィントゥス・スカエウォラ(前117年執政官)を選んだ。ラエリウスはその地位を年下の方の婿に与えたのではなく、年上の方の娘に与えたのだと言い訳した。それでもファンニウスはラエリウスの教えに従ってパナエティオスの授業を受けた。彼が書き残した立派な年代記から、彼は弁論家としては完璧ではなかったがけっして演説が下手ではなかったことが分かる。101

 卜占官になったスカエウォラは、ティトゥス・アルブキウスに財産返還訴訟で訴えられた時の反論に見られるように、自分に必要な時は弁論も行った。彼は弁論家の内には数えられなかった。何と言っても彼が優れていたのは市民法の知識とあらゆる事に対する判断力だった。ルキウス・コエリウス・アンティパテルは、君たちも知っているように、当時は有名な歴史家だった。彼は法律の造詣が深くて生徒を沢山もっていた。その中にはルキウス・クラッスス(前95年執政官)がいる。102




Translated into Japanese by (c)Tomokazu Hanafusa 2015.3.30

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