キケロ作『カエキナ弁護』



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この裁判で問題となる二つの差し止め命令の原文はこちら

キケロ『カエキナ弁護』(前69年)

 第一章

1 もし人けのない場所や田舎では大胆さが効果があるのと同じように、この広場の裁判の場では恥知らずな振舞いに効果があるなら、セクストゥス・アエブティウス氏の暴力行使の大胆さに勝ちを譲ったアウルス・カエキナ氏は、この裁判でもアエブティウス氏の恥知らずな振舞いに対して勝ち目がないことでしょう。しかし、カエキナ氏は、法の裁きを受けるべきことを暴力で争わないのが思慮ある人間のすることであり、暴力で争いたくなかった相手に法の裁きで勝利をおさめるのが堅実な人間のすることだと考えました。

2 私が見るところでは、アエブティウス氏は実に大胆に人を集めて武装させたように、裁判では恥知らずにやっているようです。そもそも彼が法廷に来たことが恥知らずなことですが(というのは、こんな明々白々な事で争うこと自体恥知らずな事なのに、それでも争うのは悪人の常套手段だからです)、それだけでなく自分が告発されている罪を躊躇なく認めたからです。アエブティウス氏は、形式的な暴力(#)の行使によっては土地の占有権を守れないと考えて、法と慣習に反した暴力を行使したのですが、それに驚いたカエキナ氏が友人共々逃げ出したことに味をしめたのでしょう。それで、今またこの裁判でも万人の慣習と制度に従う弁護では我々に勝てなくても、慣習を逸脱して恥知らずに振る舞えば自分の方が有利になると考えたのでしょうか。しかし、裁判での恥知らずな振舞いは暴力の大胆さと同じ効力をもつことはないのです。我々は法廷での彼の恥知らずな振舞いに容易に対抗できるからこそ、彼の暴力の大胆さに喜んで譲歩したのです。

#訴訟事実が存在することを確認するために、原告被告の立ち会いのもとで、模擬的暴力によって所有者を土地から追い出す芝居をするのが慣例だった。

3 民事審判委員のみなさん、そういうわけで、私が最初に考えていたのとはまったく違う方法でこの裁判に当たることになりました。以前はこの訴訟は私の弁護とこちら側の証言で勝てると思っていましたが、いまでは相手方の自白と証言の力で勝てそうなのです。以前の私は彼らがもし悪党なら嘘を言うのではないか、また善人と思われたら、相手側の証言が信用されてしまうのではないかと心配していましたが、今ではこの心配はなくなりました。もし彼らが善人なら、彼らの証言はこちらに有利になります。なぜなら、こちらが宣誓せずに告発した内容を彼らは宣誓した上で証言するのですから。また、彼らが嘘つきだったとしても、私は困りません。なぜなら、彼らの自白が信用されるのなら、それはまさに我々の思う壺ですし、信用されなければ、彼らの証人の信用も損なわれるからです。

 第二章

4 ところで、彼らの訴訟活動を見る時には、これほど図々しいものはないと思うのですが、あなた方の判断の躊躇ぶりを見ますと、彼らの図々しさが抜け目の無いうまいやり方だったのではないかと思われます。と言いますのは、もし彼らが武装した人たちによる暴力行為を否認したらならば、正直な証人によって明白に有罪判決が得られたでしょう。ところが、彼らは自白をした上で、いかなる場合も正当に行えないことをその時は正当に行ったと弁明すれば、あなた達に審議する理由を与えることになり、そうすれば判決を躊躇させて遅らせることができるのではないかと考えました。そして、その目論見は達成されたのです。同時に、彼らはこの裁判で、これは実に馬鹿馬鹿しい事ですが、セクストゥス・アエブティウス氏の不正ではなく、市民法についての判断が行われることになると考えたのです。

5 この場合、もしカエキナ氏一人を弁護するのであれば、私一人が頑張って信義を全うすればいいのですから、弁護人は私一人で充分だと言えるところです。そして、弁護人の資質が充分なら、これほど明々白々な事件では、特にすぐれた能力を必要とするようなことは何もないのです。しかしながら、万人に関係する法、我らの父祖たち(=ローマを建国してきた先祖の偉人たち)によって定められ今日まで守られてきた法、この法がなければ正義が損なわれるだけでなく、正義の対極にある暴力に対して判決によるお墨付きが与えられてしまう、そういう法について私が語られねばならない事態になった今では、目に見えることを並べてみせる以上の能力が必要とされることを私は知ったのです。もしこれほどの問題に間違った判決が下されたなら、それはあなた達の良心が問われる以上に私の能力が万人によって問われる事態になるでしょう。そうした事態を避けるためは並外れた才能が必要なのです。

6 しかしながら、民事審判委員のみなさん、法律の分かりにくい問題のためにあなた達は今まで二度も判決を躊躇したのではなく、判決が被告の名誉に関わるように思われたために、有罪判決の猶予を求めたのであり、同時に彼に巻き返す機会を与えたのであると私は確信しています。こんな事がいまの慣例になっていて、判決に携わるあなた達のような立派な人たちがそれに従っている事は、おそらく非難すべきことではないにしても、実に嘆かわしいことであります。なぜなら、裁判というものが考え出されたのは、争いに決着をつけるためか、悪事を罰するためかのいづれかだからです。前者は人の名誉を傷つけることは少なく、しばしば私的な仲裁者による判断であるため、比較的軽いものですが、後者は重大です。それは深刻な事態に関わるものであり、私的な友人の援助ではなく、審判員(=陪審員)の厳格さと強制力が必要とされるからです。

7 裁判の二つの目的のうちでより重要な方、まさに裁判制度がこのために作られた役割が、いまや悪しき慣習によってなおざりにされているのです。不正の度合いが大きいほど迅速に罰を与えなければなりません。ところが、その重大な不正に対する判決が人の名誉に関わるという理由で遅れに遅れているのです。

 第三章

  裁判制度を作った理由がまさに判決を遅らせる理由になっているというのはおかしなことであります。誰かが契約というたった一つの言葉で義務を負いながらそれを実行しなければ、審判員は何の躊躇もなく速やかな判決を下して罰することでしょう。それに対して、後見とか提携とか委任とか信託とかいう名前で誰かが誰かを騙した場合には、その人の罪はより大きいにもかかわらず、罰はそれだけ遅れてしまうのでしょうか。

8 「不名誉な判決だからだ」と言うかもしれません。しかし、不名誉な行為に対する判決ならそうなるのは当然の事です。考えてもみてください。恥ずべき行為をすれば不名誉な評価を得るものなのに、不名誉な評価を得るから恥ずべき行為が罰せられないとは、何とおかしな事でしょうか。

審判員や審判委員となるような人が私にこんなことを言うでしょうか。「お前はもっと軽い訴訟を争うことも出来た。そうすれば、もっと簡潔で迅速な裁判によって自分の権利を実現できたのだ。だから、訴訟を変えるか、私に判断を迫るのをやめるか、どちらかにしなさい」と。しかし、もし彼らが私に自分の権利を追求する方法を指定したり、自分に委ねられた判決を出す勇気がないとしたら、彼らは断固たる審判員というよりは臆病な審判員、賢明な審判員というよりは不公平な審判員になってしまいます。実際、裁判を許可する法務官は原告に対して利用してほしい訴訟をけっして指定することがないのに、訴訟が始まった今になって、審判員が現在行われている訴訟ではなく、可能な訴訟、可能だったかもしれない訴訟を求めることが、いかに不当なことかを考えていただきたいのです。

9 とはいえ、もし別の方法で我々の権利を回復できるなら、あなた達の絶大なる好意に是非ともすがりたいところです。しかし、武装した人たちによって行使された暴力を放置すべきだと思ったり、この問題でもっと軽微な訴訟を我々に指図したりすることの出来る人がいるでしょうか。普通なら、相手方も明言しているとおりの、暴行罪や殺人罪の裁判が行われるはずのこの種の犯罪について、私たちは差し止め命令による占有権の回復以外に何も争っていないことをご存知なのに、私たちを厳しすぎるとあなた達は批判できるのでしょうか。

 第四章

  しかしながら、あなた達が判決を今まで遅らせている原因が、被告人の名誉を毀損する恐れであるとしても、あるいは法に対する疑義であるとしても、第一の原因はあなた達自身が今まで何度も判決を延期したことによって取り除かれていますし、第二の原因は今日この私が完全に取り除いて見せますので、あなた達は私たちの争いについても市民法についても、もうこれ以上ためらうことはないのです。

10 また、事件の発端を解明するにあたって、この裁判で問題となっている法の理論と訴訟の性質が求める以上に、あまりに遠い過去の事を持ちだしていると思われるとしても、みなさんには是非大目に見て頂きたいのです。というのは、カエキナ氏が心配しているのは、当然の権利の確保に失敗したと思わることだけではなく、強欲な訴訟を起こしていると思われることでもあるからです。

  では、民事審判委員のみなさん、タルクイニー市にマルクス・フルキニウスという人がいました。彼は地元の名士で、ローマでは有名な銀行家でした。彼はこの町の名家の生まれのカエセンニアという娘さんと結婚しました。この女性がいかにすぐれた女性であったかは、夫の生前の多くの振舞いからも、死ぬ時の遺言からも明らかでした。

11 金詰りで困難な時期にフルキニウス氏はタルクイニーの郊外の土地をカエセンニア夫人に売却譲渡しました。妻の持参金を活用して彼女の財産を安全資産にするために、その土地に投資したというわけです。しばらくしてフルキニウス氏は銀行業をやめると、この妻の土地のとなりに地続きの農地を購入します。フルキニウス氏が亡くなるとき―この裁判とは関係のない多くの点は省略します―氏は遺言でカエセンニア夫人が産んだ息子を相続人に指定します。カエセンニア夫人には全財産の用益権が遺(のこ)されたので、息子といっしょにこの財産を利用することになります。

12 夫のこの大きな心遣い(=用益権のこと)が長く続くことができたら妻にとって大きな喜びだったことでしょう。というのは、彼女は息子を自分の財産の相続人にしようと思っていただけでなく、息子を最大の楽しみとしており、その息子と一緒に財産を享受できたはずだったからです。ところが、運命はこの楽しみを早々に奪ってしまったのです。なぜなら、じきに息子のマルクス・フルキニウス氏も若くして亡くなってしまったからです。彼はプブリウス・カエセンニウス(=母親の兄弟)を自分の相続人にしていました。そして自分の妻には大金を遺し、母親には財産の大部分を遺しました。こうして妻と母親の二人の女性が分割相続することになったのです。

 第五章

13 そして遺産(=息子のフルキニウスからプブリウス・カエセンニウスが相続した遺産)の競売をすることが決まりました。その頃、あそこにいるアエブティウス氏は、独り身になった一人暮らしのカエセンニア夫人に取り入って長年暮らしていました。夫人に面倒なことや揉め事があると、それを引き受けて自分の利益にするというやり方で、うまく彼女の信頼を勝ち得ていたのです。あの男は今回も遺産分割と競売というこの問題に口出しをして出しゃばってきたのです。そして、無知な夫人に自分抜きではうまく交渉できないと思い込ませてしまったのです。

14 民事審判委員のみなさん、女性におべっかを使う男、未亡人の代理人、訴訟好きの弁護人、ヌマ宮殿の常連、男の間では能なしなのに女の中に入ると法律に詳しく抜け目の無い男、こういう連中のことは、あなた達も日頃からよくご存知でしょう。アエブティウス氏とはこういう人だと思って下さい。実際、カエセンニア夫人にとってアエブティウス氏はそういうたぐいの男だったのです。親戚ではないのかとは聞かないでください。赤の他人なのです。それとも、父親か夫譲りの友人でしょうか。とんでもない。では、何者でしょうか。まさに私がいま言った通りの男なのです。つまり何の友情もないのに女性の友達になりたがる男、見せかけの奉仕と上辺の熱意でつながっている男、女性に何かと親切にはするが、それは彼女のためというよりは自分の得になることの方が多い、そういう男なのです。

15 先に私が言ったように、ローマで遺産の競売が行われることが決まった時、カエセンニア夫人の友人や知人たちは、この競売を元々ある彼女の農地に隣接するフルキニウス氏の土地を購入する好機だと考えました。それで、ちょうど遺産分割でお金が入ってくるから、この好機を逃す手はない、そのお金をこれ以上うまく投資する機会はないと、夫人にアドバイスしたのです。それは夫人本人の考えと一致しました。そういうわけで、夫人はそのアドバイスに従うことにしました。そこでその土地の購入をある人に依頼したのですが、それはいったい誰だったでしょう。みなさんは誰だと思われますか。どなたの頭にも思い浮かぶのは、女性の仕事なら何でもやる気満々のあの男、用心深く抜け目なく交渉事をするには欠かせないあの男にこの仕事はぴったりだということではないでしょうか。ご名答です。この仕事はアエブティウス氏に託されました。

 第六章

16 彼は競売に自ら立ち会って値を付けました。多くの買い手はカエセンニア夫人のためを思って入札の参加をはばかったり、値段が高くて入札に加わりませんでした。土地はアエブティウス氏が落札しました。彼は代金の支払いを銀行(=相続人カエセンニウスの代理か?)に対して約束します。この事を証拠として今この立派な男はその土地は自分が買ったと言いだしたのです。しかし、私たちは彼が落札したことを否定したわけではないし、あの土地の購入がカエセンニア夫人のためであることを疑う人は誰もいなかったのです。それは大方の人が知っていたことだからです。そのことは殆ど全ての人が聞いていたことですし、聞かなかった人でもちょっと考えればわかることだったのです。というのは、お金はカエセンニア夫人の相続財産から払われたものですし、その時そのお金を農地に投資するのがもっとも有利なことだったからです。夫人にとって特に好都合な農地があって、それが売りに出されて、カエセンニア夫人のために尽力することを誰も疑わない人が入札したのですから、その人が自分のために買うとは誰も思うはずがありません。

17 この購入が行われると代金はカエセンニア夫人が支払いました。あの男はこの事実を証明することは出来ないと考えました。なぜなら、あの男が書類を持ちだしてしまったからです。その一方であの男は、支払った土地の代金が出金欄に記載され、次にそれが入金欄に記載されている自分の銀行通帳を持っているのです。しかし、これは当たり前のことでこれ以外に書き様がありません。実際には全ては私たちが主張したように行われたので、カエセンニア夫人は土地を取得して貸し出しました。それからしばらくして夫人はアウルス・カエキナ氏と結婚しました。最終的には、夫人は遺言を作って亡くなりましたが、72分の69がカエキナ氏に、72分の2が前夫の解放奴隷であるマルクス・フルキニウスに、72分の1がアエブティウス氏に遺されました。夫人はこの72分の1をあの男の働きと苦労の代償にするつもりでした。ところが、あの男はこの72分の1を全ての争いの取っ掛かりにできると思ったのです。

 第七章

18 まず最初にアエブティウス氏は、カエキナ氏はカエセンニア夫人の相続人にはなれないと言い出しました。ウォラテッラエ人はスラの戦争に敗れて市民権を奪われたので、カエキナ氏にはローマ市民と同等の市民権はないというのです。そこで、もしカエキナ氏が無知で臆病者で、知恵も気力もなかったら、この相続は自分の市民権を危機に晒すほどの値打ちはないと思って、カエセンニア夫人の財産をアエブティウス氏の好きなようにさせてやったことでしょう。しかし、彼はけっしてそんな人ではなかったのです。カエキナ氏は知恵も勇気もある人だったので、アエブティウス氏の愚かな濫訴を粉砕したのです。

19 アエブティウス氏は遺産の分配に与ったうえに、自分の72分の1を過度に意識していたので、相続人の名において遺産分割の仲裁人を要求しました。さらに、数日して、訴訟の脅しではカエキナ氏から何一つ奪えないことがわかると、さきほど私が言った農地、あの男がカエセンニア夫人の依頼を受けて購入したことを私が指摘したあの農地は自分のものであり自分が購入したものだとローマの広場でカエキナ氏に対して公示(=訴訟に訴えた)したのです。どういうことでしょうか。あの農地が購入されてからカエセンニア夫人が亡くなるまでの4年もの間、何の問題もなく夫人が所有していたあの農地があの男のものでしょうか。「夫の遺言によってカエセンニア夫人のものになったのはあの農地の用益権だ」と言うかもしれません。

20 こんな前代未聞の訴訟を起こされたカエキナ氏は友人たちの意見を聞いて、氏が問題の土地に行って、その土地から形式的に立ち退きさせられる日を決めました。両者の話し合いが行われ、日取りは両方の都合のいい日が選ばれました。その日にカエキナ氏は友人たちといっしょに、問題の農地からほど近いアクシア城塞にやってきました。そこへアエブティウス氏が沢山の自由民と奴隷を集めて武装させているという情報が多くの人から寄せられました。彼らは半信半疑でいると、アエブティウス氏本人が城塞にやって来たのです。そして彼はカエキナ氏に対して「自分たちは武装している、もしあの場所に近づいてきたら、お前は生きて帰れなくなるぞ」と言い放ったのです。しかし、カエキナ氏と友人たちは、命に関わらない範囲で何が出来るかやってみることにしました。

21 彼らは城塞から下って農地の方に向かいました。一見無茶な行動のように思えますが、アエブティウス氏が言葉で脅す以上に無謀なことをしてくるとは誰も思わなかったからでしょう。

 第八章

ところが、あの男は、争いになっている農地の入り口だけでなく、何の争いもない隣の農地の入り口などすべての入り口に武装した人間を配置していたのです。そしてカエキナ氏が問題の農地の隣にある元々の農地に入ろうとした時、武装した者たちが大勢で立ちはだかったのです。

22 カエキナ氏はそこから追い払われてしまいましたが、合意に基づいて力が行使されることになっていた農地にできる限り向かっていきました。その農地の端はオリーブの並木によってまっすぐに区切られていますが、カエキナ氏がそのオリーブの並木に近づいていくと、あの男は全員をつれてやってきました。そして、アンティオコスという名の奴隷を呼び寄せて、はっきりとした声で、オリーブの並木の境界線を超えて入ってきた者を殺せと命じました。私はカエキナ氏は誰よりも慎重な人だと思っていますが、この状況を前にした彼は分別より気力にまさる人だったようです。なぜなら、カエキナ氏は、大勢の武装した集団を見たときも、アエブティウス氏のいまの命令を聞いたときも、接近し続けたからです。彼がオリーブの並木によって区切られている土地の中に入ろうとした時、武器を持ったアンティオコスが突進して来て、それと同時に他の者たちが槍をもって襲ってきました。それを見たカエキナ氏はやっと引き下がりました。カエキナ氏の友人と法律顧問たちもこの危険に恐れをなして一斉に逃げ出しことは、相手側の証人からみなさんがお聞きになったとおりです。

23 こうした事態に対して、法務官プブリウス・ドラベッラは慣例に従って「武装した人たちによる暴力」について異議なく「追い出した場所へ原状回復するべし」という差し止め命令を出しました。それに対してアエブティウス氏は既に原状回復済みだ(=責任はない)と無罪の宣誓をして保証金を納めました。みなさんが判断すべきなのはこの宣誓についてなのです。

 第九章

民事審判委員のみなさん、カエキナ氏にとって最も望ましいのは一切の争い事がないことですが、次に望ましいのは、あまり悪辣な人間と争わないことで、三番目に望ましいのは愚かな人間と争うことです。今回について言えば、彼はあの男の悪辣さに悩まされたと同時にその愚かさに救われました。人を集めて武装させて、武装した集団によって暴力を振るった点ではあの男は悪辣でした。カエキナ氏はそれに悩まされたのですが、同時に彼は救われました。なぜなら、あの男は悪辣極まる行動を証言して、その証言を法廷で用いているからです。

24 民事審判委員のみなさん、私は我が方の弁護と我が方の証人に向かう前に、あの男の自白と証言を利用することを決めています。民事審判委員のみなさん、彼はただ単に罪を自白しているだけでなく、非常に気前よく自白しているので、もはや自白どころか、罪を公言していると言ってもいいほどなのです。彼は「私は人を呼び集めて、武器を与えて、死の恐怖と危険であなたが近づことを阻止した。剣で ―彼は法廷でこう言ったのです―剣で私はお前を追い返し、追い払った」と言ったのです。また、目撃者は何と言っているでしょうか。アエブティウス氏の隣人のプブリウス・ウェティリウス氏は「武器を持った奴隷たちを連れて来るようにアエブティウス氏に呼ばれた」と言っています。その後どう言っているでしょうか。「多くの武装した人がいた。」それから何を言っているでしょうか。「アエブティウス氏がカエキナ氏を脅した」。民事審判委員のみなさん、この証人について私が言いたいのは、この人は証人として相応しくないから彼の証言を信じないで欲しいということではなく、あの男の立場にとって不利な証言をあの男の側の人間が言っているのですから、彼の証言を信じて欲しいということです。

25 次の証人であるアウルス・テレンティウス氏は、アエブティウス氏だけでなく自分もまた最大の悪事を犯したと自らを告発しているのです。アエブティウス氏に対して武器を持った人たちの存在を証言しましたが、自分については、カエキナ氏が近づいた時に剣で攻撃しろとアエブティウス氏の奴隷のアンティオコスに命じたのは自分だと公言しているのです。この人についてはこれ以上何を言うべきでしょうか。私は彼を殺人罪で告発しているように思われたくないので、カエキナ氏の求めがなければ、彼については言いたくなかったのです。彼自身が自分の罪を宣誓して公言している以上、私は彼について語るべきか黙るべきか分からないのです。

26 それから、ルキウス・カエリウス氏はアエブティウス氏が多くの武装した人たちを連れていたと言っただけでなく、カエキナ氏はごくわずかの法律顧問しか連れていなかったとも言っています。私はこの証人を批判すべきでしょうか。みなさんには、私の証人と同じようにこの証人の証言も信じてもらいたいと思います。

 第十章

次の証人はプブリウス・メミウス氏ですが、カエキナ氏の友人たちに対して少なからぬ同情を語っています。特に、彼は自分の兄弟の土地の中にある道路を提供して、彼らが恐れおののいている時に、逃げられるようにしてやった人なのです。この証人には私は感謝しています。彼は行動によって私たちに協力的であることを示しただけでなく、証言によって良心的であることを示してくれたからです。

27 アウルス・アティリウス氏とその息子ルキウス・アティリウス君は、武器を持った人たちがその場にいた事、自分たちも奴隷を連れて来ていたことを証言しました。それだけではありません。アエブティウス氏がカエキナ氏に危害を加えると脅していたときに、カエキナ氏がその場所で形式的な立退きが行われることを要求したことも二人は証言しています。このことはプブリウス・ルティリウス氏も証言しています。しかも、彼はいつか裁判の時に自分の証言が採用されるように進んで証言したのです。さらに二人の証人は、暴力沙汰については何も言っていませんが、この事件についてと農地の購入について証言しています。農地の売り手のプブリウス・カエセンニウス氏は体が大きい割には威厳のない人で、銀行家でフォルミオのあだ名を持つセクストゥス・クロディウス氏はテレンティウスのフォルミオと同じく腹黒い自信家ですが、二人とも暴力沙汰については何も語らず、みなさんの判決に関係するようなことは何も証言しませんでした。

28 10番目の証人は待望の証人で最後まで取っておかれた証人でした。その人とは、ローマの元老、元老たちの光、裁判に名誉と花を添える人物、古い信仰の模範であるフィディクラニウス・ファルクラ氏です。この人は激昂して苛々しながら、偽証でカエキナ氏を傷つけるだけでなく、私に対する怒りを炸裂させようとして、法廷にやってきましたが、私が元老を大人しく静かにしたら、みなさんも覚えておられるように、自分の農地が町からいくら離れているかを二度と言えなくなってしまったのです(=問題の土地は自分の土地の近くなのかと聞かれた答え)。なぜなら、元老が5万足らずと言ったとき、人々は馬鹿にしながら「そのとおりだ」と叫んだからです。というのは、みなさんは元老がアルビウス・オッピアニクスの裁判(=BC74年)でいくら受け取ったか覚えているからです(=『クルエンティウス弁護』71節以下で無罪票を4万で請け負ったとされている)。

29 彼に対して私は彼が否定出来ないことだけを言いましょう。彼はオッピアニクスの裁判の公開法廷にその裁判の審判員でもないのにやって来て、その法廷でその訴訟を聞くこともなく、判決を延期することも出来たのに有罪票を投じたのです。自分が知りもしない事件の判決を出そうとしたということは、彼は初めから無罪ではなく有罪にするつもりだったのです。つまり、有罪に一票不足していて被告を有罪に出来ないときに、彼は事件を知るためではなく有罪にするためだけに出席したのです。誰かに対して言うに事欠いて、自分が見たことも聞いたこともない人を有罪にするために金に釣られたと言うこと以上に失礼なことがあるでしょうか。それなのに、批判されているご当人が否定しようと首を振りさえもしないことは、その批判が間違っていないことの確かな証拠なのです。
30 それにも関わらず、この証人は、この裁判(=BC69年)で彼の前の証人が全員アエブティウス氏と一緒に武器を持った人が大勢いたと証言しているのに、彼だけがそれを否定したのです。民事審判委員のみなさん、彼はこの審理が行われている時も証人たちが証言している時も、上の空でその間だれか別の被告人のことを考えていたことは明らかでしょう。経験豊かな彼は最初この訴訟で何を言えばいいかをよく心得ている人ですから、単に言い間違えて自分の前の証人の証言を全否定してしまったのだと最初は思いました。ところが、突然我に返って、一人彼だけが武器を持った二人の奴隷がいたと言い出したのです。

アエブティウス氏よ、あなたはこの人をどうするつもりなのだ。この人が実に愚かなこの言い訳によって不正行為に対しる非難を逸らそうとしているのを許してやれないだろうか。

31 民事審判委員のみなさん、以前にあなた達が証拠不充分だと言った時には、この証人たちを信じられなかったのでしょうか。しかし、彼らが真実を証言していることには何の疑いもありません。それとも、大勢の人間が集められて、武器と飛び道具があって、目の前に死の恐怖があり、明白な殺人の危険があったのに、あなた達はそこに何らかの暴力があったという判断に至らなかったというのでしょうか。これが暴力でないとしたら、どんなことを暴力だと言うのでしょう。それとも、「私はあなたを追い出したのではなく、道を塞いだのである。なぜなら、私はあなたが農地に侵入することを許していないからである。私はあなたが農地に足を踏み入れたらすぐに死ぬことになることを分からせるために、武装した者たちを配置したからである。」という彼らの弁明がすばらしいと思われたのでしょうか。どういうことでしょうか。武器によって威嚇されて、追い払われ、追い返された者は、「追い出された」のではないと、あなた達には思えるのでしょうか。

32 言葉の問題については後ほど検討することにしましょう。いまは彼らも否定していない事実をはっきりさせましょう。そしてその事実について法律と訴訟の問題を検討してみましょう。

次の事実は確定しておりそれは相手側も否定していません。それは、カエキナ氏が約束の期日に、形式的に力の行使と立退きが行われるようにやって来た時、武装した集団による暴力によって追い返され遠ざけられたということです。この事実が確定しているので、法に無知で訴訟関係に未熟な私でも、裁判を起こせば差し止め命令によって当方の権利を守り、相手方の不正を追求することができると思ったのです。ピソーよ、仮に君がこの点で私が間違っていて、この差し止め命令では私の望みを実現することはできないと思うなら、是非ともこの点について君のご教授を願いたい。

33 私はこの件で裁判を起こすことが可能かどうかを君に問うているのだ。所有権の争いのために人を呼び集めるべきではないし、権利を守るために大勢の人間を武装すべきでもない。暴力ほど法にとって有害なものはないし、人を集めて武装させることほど公正さにとって危険なことはないのだ。

 第十二章

以上のような次第であり、この事件はまずもって政務官によって処罰されるべき性質のものである以上は、再度私は君に問う。この件で裁判を起こすことが可能かどうか。ピソーよ、君は不可能だというのだろうか。この平和な時代に、徒党を組み、部隊を用意して、人間を大勢集めて、武装させて、法を実施するために約束通りやって来た丸腰の人間を、武器と暴力と恐怖と死の危険で追い払い、追い出しておきながら、彼はどうして次のように言えるのか、私は聞きたいのだ。

34 「確かに私はあなたの言うことを全部やった。しかもそれは乱暴で向こう見ずで危険なことだった。それがどうだというのだ。それでも私は罰を受けていない。なぜなら、あなたが私を訴えても市民法と法務官法からは何も得られないからだ。」そうでしょうか、民事審判委員のみなさん、あなた達はこんなことをこれから何度も聞かされて耐えられるのでしょうか。我らの父祖たちが知恵の限りを尽くし細心の注意を払って、大きな事から小さな事まであらゆる事についての権利を定めて守ってきたというのに、このたった一つの重大なことはなおざりにしたのでしょうか。そのために、私が誰かに自分の家から武力で追いだされた場合には裁判が起こせるのに、私が自分の家に入るのを誰かに妨害された場合には裁判が起こせないとでもいうのでしょうか。ガイウス・ピソーよ、まだ私はカエキナ氏の裁判について言っていないし、我々の所有権についても言っていない。私が言ってるのは、君の弁明についてなのである。

35 なぜなら、君は次のように言って結論づけているからである。「もしカエキナ氏があの農地に入って、それから追い出されたのなら、この差し止め命令によって原状回復されるべきだった。ところが、カエキナ氏は農地に入ってもいないのだから、決してそこから追い出されてはいないのだ。したがって、あの差し止め命令によっては君たちはは何も手に入らないのだ」と。ならば尋ねよう。今日君が自分の家に帰ろうとする時に、武装した集団によって君の家の入り口や家の中だけでなく玄関や前庭からも遠ざけられた場合、君はどうするだろうか。私の友人のルキウス・カルプルニウス・ピソー氏(=アエブティウスの法律顧問、カエキナは暴行罪でアエブティウスを告訴すべきだと言った、9節)は、彼が以前に言ったのと同じことを君に勧めるだろう。つまり暴行罪で訴えるべきだと。しかし、それは所有権訴訟、原状回復されるべき人の原状回復、要するに市民法あるいは法務官の調査と審査とは何の関係あるのだろうか。君が暴行罪で訴えるとしよう。いや百歩譲って。君は訴えるだけでなく有罪判決も手に入れるとしよう。しかし、君はそれで何かをよけいに所有することになるだろうか。暴行罪の訴訟は、判決と処罰によって自由を損なわれた悲しみを癒やすだけで、所有権はもたらさないのである。

 第十三章

36 ピソーよ、その間、法務官はこれほどの事件に対して黙っているだろうか。君を自分の家に戻させる方法を彼は知らないだろうか。法務官といえば、暴力の行使を禁止したり、行使された暴力を償うように命じたり一日中やっている人であり、排水口や下水道や、ごく小さな水道についての争いでさえ差し止め命令を出す人なのに、急に黙ってしまって、残酷極まりないこの事件をどうしていいか分からなくなるのだろうか。自分の家から遠ざけられたガイウス・ピソー、しかも武装集団にによって遠ざけられたピソーに対する、前例や慣例による救済方法を法務官は知らないのだろうか。例えば、法務官は何を言うだろうか。あるいは君はこれほど明らかな暴力の被害に対して法務官に何を求めるだろうか。「あなたが暴力で遠ざけられた場所へ・・・」という命令だろうか。そんな差し止め命令はない。そんな言い方は前代未聞だ。異常だというのではないが、聞いたことがない。やはり「あなたが追い出された場所へ・・・」だろう。しかし、君はそれで上手くいくだろうか。なぜなら「君が家に近づくのを武装した人たちを使って妨害したのであって、近づいていない人はどうしても追い出せない」と、君が僕に答えたのと同じことを相手方は君に答えるからである。

37 それに対して君は「僕の家族が追い出されたということは、僕が追い出されたことである」と言うかもしれない。君の言い分は正しい。君は言葉から離れて、衡平(こうへい、)の原則を採用しているからである。なぜなら、もし私たちが言葉に従うなら、君の奴隷が追い出されているのに、どうして君が追い出されることになるだろうか。しかし、君の言うとおりである。君がたとえ体に触れられなかったとしても、君が追い出されたと私は理解すべきである。そうではないか。ではもし君の家族の誰もどこへも移動させられることなく、全員が家の中に保護され引き止められていた場合に、君だけが自分の家から暴力によって遠ざけられ、武装集団によって追い払われたのなら、君は私たちが起こしたのと同じ裁判を起こせるだろうか。それとも、別の裁判なら起こせるのだろうか。それとも、まったく裁判を起こせないのだろうか。これほど明らかでこれほど残酷な事件なのにまったく裁判を起こせないと言うのは、君の知性と品位に相応しくないことだ。それとも、私たちが気づかない裁判が何かあるのなら教えて欲しい。私は君に学びたいのだ。

38 もしこれが我々が起こした裁判で、君が審判員をしてくれるなら我々は必ず勝訴する。というのは、君の場合と同じ訴訟、同じ差し止め命令によって君は原状回復されるべきだが、カエキナ氏は原状回復されるべきではないなどと、君が言うとは思えないからである。そして実際に、もし一部でもこの差し止め命令の意味が弱められたり効力を奪われたりしたら、もし武装した人たちの暴力が許されるかのような判決がここにおられる人たちの権威によって出されて、その判決で武力についての吟味がされず言葉が問題にされたら、万人の遺産や財産や所有権が不安定な状況に置かれてしまうのは、誰が見ても明らかではないか。民事審判委員のみなさん、あの男は「私は武装した人たちによってあなたを追い返したのであって追い出したのではない」とこんな弁明をしています。こんな男の主張があなた達に通るのでしょうか。これでは、これほどの犯罪が弁明の公正さではなく一文字の違いによって見逃されると思われてしまいます。

39 民事審判委員のみなさん、私達はこの事件を訴えることは出来ない、武装した人たちによって道を塞がれ、大勢の人間によって自分の土地に入るだけではなく近づくことも妨げられたというのに、それを訴える権利は私達にはないと、あなた達は判断するのでしょうか。

 第十四章

どうでしょうか。私が足を踏み入れて足跡を作って占有した後で追い払われて追い出される事と、私が入るどころか見ることも近づくことも出来ないように、同じ暴力と武力で私が襲われる事とが、何か違うことで別のことだと主張することにどんな意味があるでしょうか。これは、侵入者を追い出した人は原状回復を強制されるが、入りそうな人を追い払った人は原状回復を強制されないと言うのと同じことなのです。

40 民事審判委員のみなさん、是非ともよく考えてください。あなた達は私たちに対してどんな権利を認めてくれるのでしょうか。そして、あなた達はどんな立場に立ちたいのでしょうか。さらに、あなた達はこの国にどんな法律を作りたいのでしょうか。私たちが利用した差し止め命令によって行われるこの種の訴訟は一つだけなのです。もしこの訴訟に何の価値もなく、この事件と無関係だというなら、我らの父祖たちがこれほどの事件に対する訴訟を見落としたか、あるいは、彼らが設定した訴訟が表現において充分に現実の事件にも法の理論にも適応していないことになるわけで、これほど不注意で愚かなことがあるでしょうか。この差し止め命令が否定されることは危険なことなのです。武力をもって行使された事が法によって取り消せないことがあると思われるのは、万人にとって有害なことなのです。それより、何より恥ずべきなのは、知恵にあふれた我らの父祖たちが非常に愚かだったと断罪され、このような事件に対する法と訴訟を作り忘れたとあなた達に見られることなのです。

41 ピソーは言う。「その通りだ。嘆かわしいことである。にもかかわらず、その差し止め命令にはアエブティウス氏は拘束されない。」と。どうしてだ。「カエキナ氏に対して暴力は振るわれていないからだ。」武器があって、大勢の人の集団があって、剣を持った人間が指図を受けて特定の場所に集まっており、死の脅しと危険と恐怖があったところに、暴力がなかったというのか。ピソーは言う。「誰も殺されていないし怪我もしていない。」と。どういうことだろう。所有権の争いと個人の法的な争いの話をしている時に、人が殺されてさえいなければ暴力はなかったと君は言うのか。しかし、大きな軍隊でさえもしばしば敵の脅しや激しい動きを見ただけで、誰も死にもせず怪我もしていないのに撃退されるのである。

42 民事審判委員のみなさん、暴力というのは私たちの肉体や生命に関わるものだけではありません。死の危険によって人の心に恐怖を引き起こして、特定の場所から移動させるのは、はるかに大きな暴力なのです。だからこそ、体は負傷して無力になっていても精神が負けてなければ、自分が守ろうと決めた場所から一歩も引き下がらないのに、まったく無傷でも撃退される場合が出てくるのです。だから、体が傷つけられた人よりも、精神が恐怖にとらわれた人のほうが、多きな暴力が振るわれているのは確かなことなのです。

43 危険への恐れやしばしば危険のかすかな疑いのために逃げ出した軍隊を暴力で撃退されたと我々が言い、盾に押され、体がぶつかり、白兵戦で槍が投げられただけではなく、軍隊の鬨(とき)の声や軍旗の整列を見ただけで、大軍が撃退されたのを我々が見たり聞いたりした時に、それを戦争における暴力と呼ぶのに、同じことが平和な時には暴力と呼ばれないのでしょうか。さらに、軍事においては重大なことと思われることが、市民法では些細なことと見做されるのでしょうか。さらに、武装した軍隊さえも撃退する力のあるものが、市民の法律顧問たちを撃退しないと見做されるのでしょうか。肉体の傷の方が心の恐怖よりもこのような暴力をよく物語るものでしょうか。撃退された事実が確証されるためには、肉体の傷が求められるというのでしょうか。

44 相手の証人はこう言っています。自分は威嚇に対して恐れをなした我々の法律顧問たちに逃げ道を指し示してやったと。では、ただ逃げただけではなく安全な逃げ道を捜した彼らに対して、暴力が使われたとは思えないのでしょうか。何故逃げたのでしょうか。恐怖のためです。何を恐れたのでしょうか。明らかに暴力を恐れたのです。あなた達は結果を認めながら原因を否定することができるのでしょうか。あなた達は私達が恐れをなして逃走したことを認めているのです。あなた達も、我々の法律顧問たちが逃げ出した原因は、我々の誰もが理解しているのと同じものだった、それは武力であり、大勢の人の集団であり、武装した人たちの襲撃であり攻撃であると言っているのです。こうした事実を認めているのに、あなた達は暴力の行使を否定するのでしょうか。

 第十六章

45 民事審判員のみなさん、次のことは昔からの慣習であり、我らの父祖たちの例にならって多くの場合に実施されていることです。それは、人々が形式的な力の行使のために出かける時には、武装した人をどれほど遠くからでも目にした時には、すぐに証人を呼んでから立ち去って、「もし法務官の命令に反して暴力が行使されていない」のなら保証金を支払うと誓うことが出来るということです。どうでしょうか。相手が武装していることを知っているだけで、暴力が行使されたことを証明するには充分なのです。それなのに、相手の手の中に落ちたことでは充分ではないというのでしょうか。武装した人たちを目撃するだけで暴力の証明には充分なのです。それなのに、攻撃や襲撃を受けたのでは充分ではないというのでしょうか。その場から立ち去った者のほうが、その場から逃げ去ったものよりも暴力の行使を容易に証明できるというのでしょうか。

46 民事審判員のみなさん、私は次のことを指摘しておきます。もし城の中でアエブティウス氏がカエキナ氏に「自分は人を集めて武装させた。もしあの場所に近づいてきたら、お前は生きて帰れなくなるぞ」と言った時に、すぐにカエキナ氏が立ち去ったなら、あなた達はカエキナ氏に暴力が行使されたことに躊躇すべきではありません。もしカエキナ氏が遠くから武装集団に気づいてから後戻りしたとしても、なおさらあなた達は躊躇すべきではありません。危険行為によって誰かをどこかから立ち去らせたり、近づくのを邪魔したりするのはすべて暴力なのです。もしあなた達がこれとは別の決定をしたとすると、生きて立ち去ったものには暴力は行使されていないと決定することになってしまいます。また、あらゆる所有権の争いには、互いに武力で衝突して決着をつけるべしと命じることになってしまいます。また、戦争で無気力な指揮官に対して罰が設定されているのと同じように、裁判でも徹底的に戦った者より逃げた者の立場が弱くなってしまいます。そのようなことにならないように、あなた達には気をつけて頂きたいのです。

47 私たちが権利について語り、人々の法律に関する争いについて語り、その様な場合に暴力に言及するときには、それは非常に些細な暴力のことだと理解しなければなりません。私たちが目撃したのはいかに少なくても武装した人たちの集団でした。これは大きな暴力です。私たちは一人の人間の飛び道具によって恐怖に陥って退去しました。私たちは追い出され追いやられたのです。もしその通りだとあなた達が決定するなら、誰かが今後所有権の争いで戦争をする理由がなくなるだけでなく、それに応戦する理由もなくなることでしょう。しかし、もしあなた達が殺人も傷害も流血もなければ暴力ではないと判断するなら、人々は生命がけで財産を争うべきだと、あなた達は決定することになるのです。

  第十七章
48 さあ、アエブティウス氏よ、暴力についてのあなたの判断を求めよう。できれば答えて欲しい。カエキナ氏はそもそもあの農地に近づく意思がなかったのか、それとも近づけなかったのか。あなたが妨害して追い返したと言う時、カエキナ氏には近づく意思があった事をあなたは確かに認めている。では、あなたはカエキナ氏が近づく意思をもって来たのに集団の力によって近づくことが許されなかった時、彼が近づくのを妨げたのは暴力ではなかったと言えるのだろうか。というのは、もしカエキナ氏が最も望んだことをどうしても実現できなかったのなら、きっと何かの暴力が妨げとなったに違いないのであるが、もしそうでないというなら、彼が近づく意思があったのに近づけなかった理由を教えて欲しいからである。

49 いまやあなたは暴力が行使されたことを否定することは出来ないだろう。すると次の問題は、近づけなかった彼はどうして「追い出された(デイエクトゥス)」と言えるのかということである。というのは、追い出された人は必ずその場所から移動させられ遠ざけられているからである。しかし、自分が追い出されたと言う場所に一度も居たことのない人が、どうして追い出されることが可能だろうか。さらには、もしその場所に居て、武装した人たちの集りを見て脅威を感じて動揺してそこから逃げ出した場合には、その人は追い出されたと、あなたは言うのだろうか。多分そうだろう。それとも、あなたのように争いを衡平の原則(=法の精神)によってではなく言葉によって入念かつ抜け目なく判断して、法律を共通の利益ではなく文字の違いによって解釈する人なら、体に接触されもしなかった人のことを「追い出された(デイエクトゥス)」人だと言えるのだろうか。あるいは、体に接触されもしなかった人のことをあなたは「追いやられた(デトゥルースス)」人だと言うのだろうか。(なぜなら、以前は法務官はこの差し止め命令にはこの「追いやられた」という語を使っていたからである。)どういうことだろうか。接触されもしなかった人が追いやられることなどあり得るだろうか。もし我々が言葉に忠実に従うつもりなら、腕力が加えられた人が追いやられた人であると理解するしかないのではないか。つまり、事実を言葉に合わせようとするなら、明らかに暴力が行使されて腕力で移動させられ投げ出されていない人は、「追いやられた」人ではないと判断しなければならなくなるのである。

50 実際、もっと正確に言えば「追い出された(デイエクトゥス)」という言葉は、上から下へ移動させられないかぎり使えないのだ。それでも「追い出された」人は「追い返された」とか「追い払われた」とか、さらには「追い立てられた」と言うことは出来る。しかし、接触されない人だけでなく、平らな場所にいる人もまた「追い出された(デイエクトゥス)」とはけっして言えないのである。するとどうなるだろうか。この差し止め命令は高いところから突き落とされたと言う人のために作られたと我々は見ることになるのか(そういう人だけを「追い出された(デイエクトゥス)」人と言うことが出来るからである)、それとも、この差し止め命令の意図も考え方も意味も明らかなのだから、言葉の誤用に拘って、事件の原因も公共の利益もなおざりして見捨てる事ほど、破廉恥で馬鹿げたことはないと我々は見るのだろうか。

 第十八章

51 確かに、言葉というものは充分豊かなものではなく、語彙が貧弱だと言われる我々の言語においてだけでなく、他のどの言語においても、あらゆることが的確な言葉によって表現されているとは言えないだろう。しかしながら、言葉で表現されている事の意味が明らかなら、言葉が不足しているとは言えないのである。もし我々が何であれ書いた人間の考えや論理や意図をなおざりにして、事実を言葉に合わせて歪めるつもりなら、どんな法律も、どんな元老院決議も、どんな政務官布告も、どんな条約や協定も、個人について言うならどんな遺言も、どんな判決あるいは契約も、どんな合意事項も、無効にしたり破棄したり出来るのである。

52 親しい日常の会話も互いに言葉尻を捕らえようと身構えていたら全く通じなくなってしまう。我々がもし自分の奴隷に対して、言われた言葉の意図を汲んで従うのではなく、言われた言葉に従っていればいいとしたら、家の中の統治はまったく不可能になってしまうだろう。こうした全てのことについての例を私は今すぐ是非とも挙げたいところである。民事審判委員のみなさん、あなた達一人一人の心には、整備された法が言葉に依存するのではなく、言葉が人間の考えや意図に従うのであることを証明するような、あらゆる種類の様々な例が思い浮かばないでしょうか。

53 際立った雄弁家のルキウス・クラッスス氏は、私が裁判に携わるようになる少し前に、これと同じ考え方を滔々と見事に百人裁判所で擁護しました。知識あふれるクイントゥス・ムキウス・スカエウォラ氏が彼に対抗して話しているとき、クラッスス氏は「父の死後に生まれた息子が死んだ時」に相続人になると決まっているマニウス・キュリウス氏が、当の息子が死なかったどころか生まれもしなかった時にも相続人になるべきだと全員の前で易々と証明したのです。ところで、この事態は遺言の言葉によって充分に規定されていたでしょうか。違います。では、何が重要なのでしょうか。それは人間の意思なのです。もしそれが言葉がなくても我々にとって明らかなら、我々はまったく言葉を使う必要はないでしょう。ところが、そうはいかないので言葉が発明されたのです。しかし、それは意思を妨げるものではなく意思を明らかにするものでなければなりません。

 第十九章

54  法律によれば土地の所有権の取得時効は二年となっていますが、法律に言及のない家屋についても我々はこの規定を用います。また法律によれば、もし道路が整備されていない時には、好きなところに役畜を通してよいことになっています。この法律の文章からは次のことがわかります。もしブルッティー地方に道路が整備されていない場合には、トゥスクラヌムにあるマルクス・スカウロスの土地に役畜を通すことができます。また、売り手に対する訴訟手続では相手が出席しているときには「あなたを法廷で見る時はいつでも」となっています。もし人々が言葉の元となった事実を考えずに法律の言葉通りにしようとするなら、かの盲目のアッピウス・クラウディウスはこの手続を利用することが出来なくなってしまいます。また、もし遺言書に名指しされた相続人がコルネリウス少年でその彼がいま20歳なら、あなた達の解釈では彼には相続権がなくなってしまうのです。

55 私の頭には沢山の例が浮かんで来ます。あなた達の頭にはもっと多くの例が浮かんでいることでしょう。しかしながら、あまりに多くの例を抱え込んで主題となっている事から離れすぎてはいけないので、いま議論の対象になっている差し止め命令について考えてみましょう。もうあなた達はおわかりでしょう。もし法を言葉によって判断するなら、我々はいかにずる賢く振る舞おうとしても、この差し止め命令の利益を我々は手放すことになってしまうでしょう。差し止め命令の言葉はこうなっています。「どこからあなた或いは奴隷たち或いはあなたの管理者が追い出したにしろ」。もしあなたの農場の管理人一人が私を追い出したのなら、「奴隷たち」の誰かが私を追い出したことにはなるでしょうが、おそらく「奴隷たち」が私を追い出したことにはならないでしょう。そこで、あなたは原状回復済だと言えば正しいでしょうか。確かに正しいのです。ラテン語を知っている人間に対して、一人の奴隷(=管理人)は「奴隷たち」とは呼べないことを証明することほど簡単なことはないからです。もしあなたが私を追い出した奴隷のほかには奴隷を持っていないのなら、こう宣言すればいいのです。「もし私に奴隷たちがいるのなら、あなたは私の奴隷たちによって追い出されたことを認めよう。」と。なぜなら、もし事実を判断するのに状況ではなく言葉に従うなら、「奴隷たち」と複数の奴隷のことを指すことになるし、一人では「奴隷たち」でないからです。言葉に従えばこうならざるをえないのです。

56 しかしながら、こんな言い訳は、法の原則、差し止め命令の意味、法務官の意図、賢明なる人々の考えと意向によって跳ね返されて、無効にされてしまうだでしょう。

 第二十章

ではどうでしょうか。法律を作った人たちはラテン語を知らないのでしょうか。いえいえ、彼らはラテン語をよく知っていて自分の意図を明らかにしているのです。つまり、私を追い出したのがあなたにしろ、あなたの仲間の誰かにしろ、あなたの奴隷の誰かにしろ、あなたの友人の誰かにしろ、彼らは奴隷を数で区別はせず「奴隷たち」という一つの名前で呼ぶことにしたのです。

57 また彼らは自由人を管理者という名前で呼ぶことにしました。それは我々の仕事の一部を行う人を誰であろうと管理者と呼ぶためではなく、差し止め命令の意味は明らかなので、この点で全ての言葉を細かく詮索しなかっただけなのです。というのは、奴隷が一人の場合と複数の場合にも衡平(こうへい)の原則に違いはないし、少なくともこの種の問題で、私を追い出したのはあなたの管理者、つまり法的に管理者と呼ばれる者、イタリアに住所がないか国家の要件で不在の人間の全ての財産のいわば監督者、言い換えれば他人の権利の代理人であるのか、それとも私を追い出したのはあなたの小作人か隣人か庇護民か解放奴隷か、誰であれこの暴力と追い出しをあなたの依頼またあなたの名前で行った人であるかによって、法の原則が異なるわけではないからです。

58 だから、もし暴力で追い出された人を原状回復するための衡平の原則が常に有効であり、その事が理解されているなら、言葉の意味や名詞の意味はまったく重要ではないのです。私を追い出したのがあなたに職務を一切任されていないあなたの解放奴隷であっても、私を追い出したのがあなたの管理者である場合と同じく、あなたは原状回復しなければならないのです。というのは、我々の職務の一部を行う者は誰であろうと管理者だからではなく、この問題でそのようなことを問うのは無意味だからなのです。また、私を追い出したのが一人の奴隷であっても「奴隷たち」が追い出したのと同じく、あなたは原状回復しなければならないのです。それは一人の奴隷と「奴隷たち」が同じだからではなく、問題は「それぞれがどの言葉で言われているか」ではなく、言われていることの中身だからなのです。実際、もっと言葉から離れても衡平の原則から離れない限り、もしあなたの奴隷が一人もいず全員が雇われた他人であったとしても、彼らはあなたの奴隷たちに分類されてその中に含まれるのです。

 第二十一章

59 この差し止め命令の続きを見てみましょう。「集められた人たちをもって。」あなたは誰も集めなかった、勝手に集まって来たのだというかもしれません。確かに、集めるとは人々を招集して集合させることでしょう。集められた人たちとは誰かによって一箇所に招集された人たちのことでしょう。もし招集されず集まって来もせず、暴力を行使するためではなく、単に農業や放牧のために耕作地にいつもいる人たちが居ただけなら、あなたは「集められた人たち」は居なかったと弁明して、言葉の点では私が審判員でも勝てるかもしれません。しかし、事実においては誰が審判員でもあなたは持ちこたえられないのです。なぜなら、命令の趣旨は単に呼び集めた集団にあるのではなく、集団の暴力に対する原状回復の方なのです。多くの場合、集団が必要な時には人が集められるので、「集められた人たち」について差し止め命令が作られているのです。それはたとえ言葉の上で異なっているように見えても、事実においては同じことであり、衡平の原則が等しく当てはまるあらゆる場合において同じ意味なのです。

60 「あるいは武器を持ったものたちによって。」これはどう言うべきでしょう。もし我々がラテン語が分かるなら、武器を持ったものたちとはどんな人たちのことをそう呼ぶのでしょうか。おそらく盾と剣を装備しているものたちのことでしょう。ではどうでしょうか。もし土塊や石や棍棒で人を農地から投げ出してから、「武器を持った人たちによって追い出した人を原状回復せよ」と命令されたとしたら、「原状回復済み」とあなたは言えるでしょうか。もし言葉が重要なら、もし事件が原則ではなく言葉によって評価されるのなら、あなたはそういえばいいと私もお勧めします。地面から拾った石を投げた人は武器を持った人ではないし、あなたは芝生も土塊も武器ではないと必ずや証明できるでしょう。通りすがりに樹の枝を折り取った者も武器を持った人ではないと言えるでしょう。武器には防御用と攻撃用があってそれぞれに名前があります。そのようなものを持っていない人たちは武装していなかったとあなたは証明できるでしょう。

61 もしこれが武器についての裁判なら、あなたはそう言えばいいのです。しかし、法と衡平についての裁判では、あなたはそんな貧弱な論拠に逃げ込まいようにする方がいいでしょう。なぜなら、兵隊の武器を検査すると同じように「武器をもった人」のことを調査する審判員や民事審判委員を、あなたは見つけられないからであり、実際には、人の生命や肉体に暴力を加えようとして準備している人たちが見つかったら、彼らは完全武装した者たちと判断されるでしょう。

 第二十二章

62 さらに、言葉がいかに無力であるかをあなたにもっとよく理解してもらうために言えば、もしあなたが一人で、あるいは誰かが一人で盾と剣をつかって私に襲いかかって私を追い出した場合、あなたはこの差し止め命令は「武器を持った人たち」についてのもので、この場合は武器を持った人は一人だったと図々しく言うのでしょうか。あなたはそこまで恥知らずではないと私は思います。しかし、あなたはこれ以上恥知らずに振舞うことがないように気をつけて下さい。なぜなら、あなたはあらゆる人間に向かって次のように言って嘆くかもしれないらです。「この訴訟の関係者はラテン語を忘れてしまっている、武器を持ってない人を武器を持っていると判断しているからだ。この差し止め命令は複数の人間についてのもので、この場合は犯行は一人で行われたのに、一人の人間を複数の人間と同じだと判断している」と。

63 ところが、この訴訟の判決と関係があるのは、表面的な言葉ではなく、この差し止め命令に含まれる言葉の意味する中身なのです。この差し止め命令は、人命に関わる暴力に対して異議なく原状回復せよと言っているのです。その暴力は多くの場合武装集団によって行われると言っているのです。やり方が違っていても同じ危険なことが行われたら、同じ法による原状回復を求めているのでする。なぜなら、暴力を行使したのがあなたの奴隷たちであろうとあなたの農場管理人であろうと、不正の大きさは同じだらかです。それがあなたの奴隷であろうと雇われた他人であろうと、それがあなたの管理者であろうと隣人かあなたの解放奴隷であろうと、それが集められた人であろうと勝手に来た人か居合わせた人かいつも居る人であろうと、それが武器を用意した人であろうと武器は用意していないが武器を持っているのと同じ力があって人に危害を加えられる人であろうと、それが武器を持った複数の人であろうと武器を持った一人の人であろうと、いずれの場合でも不正の大きさは同じなのです。多くの場合このような暴力はどのようなやり方で行われるかが、この差し止め命令の中で言われているのです。しかし、もしこれと同様の暴力がそれとは異なるやり方で行われて、それが差し止め命令の言葉には含まれていなくても、それは法の意味と意図の中に含まれているのです。

 第二十三章

64 では、「私は追い出していない。近づかせなかっただけだ」というあなたの言い分に行きましょう。ピソーよ、君はもう気づいていると思うが、この弁明は「武装していなかった。棍棒と石をもっていただけだ」という弁明よりさらに貧弱であり衡平の原則に反している。もし仮に雄弁でないこの私に「私は侵入してくる相手に暴力と武器で立ち向かったのだから相手を追い出したことにはならない」と弁明するのか、それとも「盾も剣も持たなかった人間は武装していなかった」と弁明するのか、という二つの選択肢が与えられるなら、どちらを証明しても貧弱で馬鹿げているとは思うだろうが、「盾も剣も持っていなかった人は武装していなかった」という二つ目の選択肢のほうが、何か話すことが見つかるかもしれないと思うだろう。しかし、もしここで私が「追い返され追い払われた人は追い出された人ではない」という弁明をするとしたら、私は途方に暮れてしまうだろう。

65 さらに、君の弁論全体の中で何より奇妙なのは、法律の専門家の助言に従う必要はないと言っていることである。こんなことを聞くのはこれが初めてではないし、この裁判だけで聞いたことでもないが、それでも君がどうしてそんなことを言うのか不思議だった。なぜなら、他の人たちは、法廷で自分の弁論の内容が衡平の原則と正義にかなうものであると信じている時にそういうことを言うものだからである。相手が法律の言葉によって、いわば厳格な法によって争ってきた場合に、そのような不合理な厳格さに対して衡平の原則と正義と権威を対峙させるのである。そして、「あるいは~あるいは」というふうな法律の言葉をあざ笑い、法律用語の難しさやまどろっこしさに対する反感をかきたてて、ずる賢い法律によってではなく衡平の原則と正義によって事実は判断されるべきであり、文字に従うのは濫訴者のすることであって、善き審判員は法文の起草者の意思と意図を大事にすべきである、と声高に叫ぶのである。

66 ところが、この訴訟では君は法律の言葉によって弁明する側に立っている。君はそちら側に立ってこう言っているのだ。「あなたはどこから追い出されたのか。近づくことを妨げられた場所なのか。それなら追い返されたのであって追い出されたのではない。」と。君の弁明はこれだ。「私は人々を集めたことは認める。武器を与えたことも認める。あなたを殺すと言って脅したことも認める。意思と衡平の原則が有効なら、今度の法務官の差し止め命令によって罰を受けることも認める。しかし、私はこの差し止め命令の中には私を救ってくれる言葉を一つだけ見つけている。私はあなたがあの場所に来ることを妨げたが、そこから外へあなたを追い出してはいない。」君はこんな弁明をしているというのに、言葉の理屈ではなく衡平の原則を重視すべきだと言っているという理由で、法律の専門家を批判するのかね。

67 またこれに関連して百人裁判所でスカエウォラ氏が訴訟に敗れたことに君は言及した。スカエウォラ氏は、私はさっき言ったように、君がいまやっているのと同じことをした時に、(もっとも彼の場合はいくらか理があったが今の君には全然ない)自分の主張を誰にも証明できなかったのだ。なぜなら、彼は法律の言葉によって衡平の原則を攻撃したと思われたからである。私はこの事件で君がそちらの言い分とは正反対の主張(=法律の専門家の批判)を見当違いな時に行ったことに驚いたがが、一般の裁判で時々有能な人たちが法律の専門家に従うべきではないとか、裁判になったら市民法が常に重視されるべきではないと主張するのをいつも不思議に思っている。

68 なぜなら、こう主張する人たちは、もし法律の専門家の判断は間違うことがあると言うなら、法律の専門家に従うべきでないと言うのではなく、愚かな人に従うべきでないと言うべきである。逆に、もし法律の専門家が正しい答えを出しているのを認めていながら別の判決がなされるべきだと言う場合には、それは間違った判決が下されるべきだと言っていることになる。というのは、法律についての判決は法律の専門家の答えとは独立しているべきだということはあり得ないし、自分が定めた法律が判決によって無視されるような人が法律の専門家と呼ばれることはあり得ないからである。「しかし時には逆の判決が出ることもある」

69 その場合には、第一に、その判決は正しいか間違っているかのどちらかであるが、もし正しければ、その判決が法律となったのである。もし判決が間違っていれば、審判員か法律の専門家のどちらかが非難されるべきであるのは疑いがない。次に、曖昧な法律について判決を下す時は、たとえスカエウォラ(=法律の専門家)の意見とは逆の判決であっても、法律の専門家の意見に逆らった判決ではないし、たとえマニリウス(=法律の専門家)の意見のとおりに判決を出したとしても、法律の専門家の権威にしたがった判決ではない。実際クラッススが百人裁判所で行った弁論も法律の専門家の意見に逆らうことが目的だったのではなく、スカエウォラの弁論が合法的でないことを証明することが目的だった。そして、彼はそのための理由を列挙するだけでなく、自分の舅のクイントゥス・ムキウスや多くの専門家の権威も利用したのである。

 第二十五章

70 つまり、市民法を重視すべきでないと考える人は、裁判を束縛するものを取り去るだけでなく公共の利益と生活を維持しているものを取り去ることになるのである。一方、法律の専門家を批判する人は、たとえ彼らを法を知らぬ人だと言っても、その人を非難するだけで市民法を批判していることにはならない。しかし、もし法律の専門家に従うべきでないと言うなら、それはその人を傷つけることではなく、法と正義をゆるがせにすることでなる。あなた達が心に是非とも留めておく必要があることは、都市においては市民法を保持することほど熱心にすべきことはないということである。実際、市民法をなくしてしまえば、何が自分のもので何が他人のものであるかを明らかにする根拠がなくなってしまうし、万人の間に万人にとって唯一不変でありうるものがなくなってしまう。

71 他の争いや裁判では、何かが行われたか否か、ある発言が真実か嘘かが問われる時には、偽りの証人や偽りの書類が出されるものであり、正直で公正な評判の立派な審判員も間違うことはあるし、不正な審判員がわざと不正な判決を出すときにも、証人や文書に従っている印象をつくるチャンスはあるものである。民事審判委員のみなさん、市民法においてはこのような事はないし、偽りの文書や不正な証人はいないのです。社会を支配するどんな強力な権力者もこの法律の前では大人しくなるのです。この法律の前では、権力者であろうと、何も出来ないし、審判員を攻撃する方法もないし、手も足も出ないのです。

72 上品な人は無理だろうが遠慮のない人なら、審判員に向かって「これが行われたか行われなかったかを判断して欲しい。この証人を信じて欲しい。この文書を認めて欲しい」と言えるかもしれません。しかし、そんな人も「遺言者の死後に息子が生まれても、その遺言は無効ではないと判断して欲しい」とか「女性が後見人の助言なしに行った約束を実行すべきだと判断して欲しい」と言うことはできないのです。このような事はどんな権力者であっても人気者であっても実現する可能性が全くないのです。最後に、市民法が偉大であり神聖であることをよく知ってもらうために言うなら、市民法の裁判では審判員を買収することは出来ないのです。

73  アエブティウス氏よ、例えば、被告が何で告発されているかも知らないのに有罪と言う勇気のあるあなたの証人でも(=ファルクラ氏のこと、29節)、妻が助言者なしに渡すと証言した持参金を夫に払うべきだと言うことは出来ないのです。

 第二十六章

民事審判委員のみなさん、市民法とはかくもすばらしいものであり、是非ともみなさんによって大切にしていただきたいのです。市民法とはどんなものでしょうか。それは依怙贔屓によって曲げることは出来ないし、権力によって覆すことも出来ないし、金で買収することも出来ないものなのです。もし市民法が覆されることがあれば、いやなおざりにされるようなことがあっても、もはや誰にとっても自分が確かに持っていると思える物はなくなるし、父親から受け取れると思える物もなくなるし、子供に遺せると思える物もなくなってしまうのです。

74 もしいま所有権によってあなたのものになっている物を持ち続けられるかどうかが不確かならば、もし法律がしっかり維持されていなかったら、もし市民法と万民法が誰かの依怙贔屓に対抗して我々の所有物を守れなかったら、家や土地を父親から遺されたり何かの方法で正当に入手して持っていてもどんな意味があるでしょうか。もし境界や所有権や水や道路について我らの父祖たちが立派に規定した権利が何らかの理由で覆されたり変えられる可能性があるなら、土地を持っていても何の役に立つでしょうか。いいですか、相続財産が我々個人の財産になるのは、その財産を我々に遺した人のおかげというよりは、多くの場合、市民法と十二表法のおかげなのです。なぜなら、土地がある人の遺言によって私のものになることは可能ですが、私のものになった土地を持ち続けることは市民法なしには不可能だからです。父親から土地を遺産として受け取ることは可能ですが、土地の所有権(これは訴訟の危険と不安を取り除いてくれます)は父親からではなく市民法から受け取るのです。水利権や吸水権や通行権や家畜の通行権は父親から譲り受けますが、それら全ての有効な所有権は市民法から受け取るのです。

75 だから、あなた達が我らの父祖たちから受け継いだ法という公共の世襲財産を、あなた達は個人の世襲財産と同じぐらい大事に守らなければならないのです。なぜなら、それは個人の財産が市民法によって守られているからというだけではなく、個人の世襲財産が失われても一人の損害となるだけですが、法という世襲財産が失われることは必ずや国家の大損害となるからです。

 第二十七章

民事審判委員のみなさん、この裁判において、武装した人たちの暴力によって追い返され追い払われたことが明白な人が、武装した人たちの暴力によって「追い出された人」であることを、もし私たちが証明できなくても、カエキナ氏はあの財産の所有権を失うことはありません。占有は当面は原状回復されないし、場合によっては彼はあの財産を強い心で手放すことになるという、ただそれだけのことでしょう。

76 しかしながら、その時ローマ国民の利益も、国家の法も、万人の富も財産も所有権も、不確かで危険な状態に置かれてしまうのです。しかも、これはあなた達の意思によって決定され、命令されることになるのです。そうなれば、あなたが今後占有を争うことになる相手がもし農場に侵入したのを追い出したら原状回復しなければならないが、もしあなたが武装集団を連れて侵入者に対して立ち向かって、やってくる人を彼らを使って追い返し、追い払い、遠ざけたとしても、原状回復する必要はなくなるのです。民事審判委員のみなさん、もし暴力は殺害行為だけでなく殺意の中にもあるというのが法の声なら、血が出なければ暴力が行使されたことにはならないというのが無法者の声なのです。遠ざけられた者は追い出された者であるというのが法の声なら、足跡を残した場所からでなければ誰も追い出されていないというのが無法者の声なのです。

77 内容と意味と衡平がもっとも価値あるべきというのが法の声なら、どんな法律も言葉や文字によって曲げるべきだいうのが無法者の声なのです。民事審判委員のみなさん、どちらの声が立派であり有益であると思うのかを、あなた達が決めてください。

いまここに好都合なことが起きました。それは先ほどまで居られたし、この法廷に頻繁に出席しておられる誉れ高きガイウス・アキリウス氏がいまここに居られないということなのです。なぜなら、私は彼の目の前で彼の美徳と知恵について語ることは憚られるからなのです。というのは彼は自分が褒められることを恥ずかしく思うだろうし、私も同じく羞恥心から目の前の人を褒めることに躊躇してしまうからです。彼は相手側に言わせれば、そんな人の助言にはあまり従う必要はないと言っているまさに法律の専門家です(=65節)。しかし、私はこれほどの人物について、あなた達の思いとあなた達の知識欲にふさわし話ができるかどうか心配です。

78 ここで私が是非申し上げたいのは、彼が自分の専門知識を国民を欺くためではなく国民を守るために使う人であることをローマ国民はよく知っていますから、彼の助言はけっして重視しすぎることはないということなのです。彼は市民法の理解をけっして衡平の原則から切り離したことはなく、長年その才能と労力と信念をローマ国民のためにすすんで提供してきた人なのです。また、彼はまったき正義の人であり訓練によるのではなく生まれついての法律家と思われる人なのです。彼は知識と経験に富んでおり、彼の学識も善良さも市民法に由来していると思われるほどなのです。また、彼の才能は偉大であり、彼の誠実さは明白なので、そこから汲み出されたものは純粋で透明だと感じられるほどなのです。

79 だから、ピソーよ、彼が我々の弁論の助言をしていると君たちが言ってくれたことを、私たちは君たちに大変感謝しているのだ。ところが、君たちはその人が私の助言者であり我々の仲間だと言いながら、それが私にとって不利になると思うと君たちはどうして言うのか不思議である。それにしても、君たちのその助言者は何を言っているのか。彼は「何がどんな言葉で述べられているかだ」と言っている。

 第二十八章

私はその法律の専門家に会ってきたのだ。君たちがある人の助言に従ってこの問題を論じて裁判の弁論を構成したと言っているのはその人のことだと思う。その人が私に向かって、中にいた場所から外へ出ないとその人は「追い出された」ことを証明できないという君の主張について話し始めた時、彼はあの差し止め命令の内容と意味は私の側に有利であることを認めたのである。しかし、言葉が私の足かせになっており、しかも、言葉から離れることはできないと思うと言ったのである。

80 私は彼に対して過去のあらゆる記録の中から、法と衡平と正義の原則は極めて多くの場合にしばしば言葉や文言からはっきり切り離されており、起草者の意図や衡平の原則が最もよく表れているものが常に最も重視されていることを示す例を沢山あげた。すると彼は私を励ましてから、「この事件では君は心配することは何もない」と言ったのだ。なぜなら、よく注意すれば、保証金を掛けた誓約の言葉が私の味方になってくれるからと言うのだ。「どうしてですか」と私が聞くと「カエキナ氏は自分が中へ入ろうとした場所から外へ追い出されたのではなくても、もし彼が逃げ出す前にいた場所から外へ追い出されのなら、カエキナ氏は確かに『武装した人たちの暴力によって追い出された』ことになるからである」と彼は言った。「それでどうなるのです。」彼は「どこから追い出されたにしろ、その場所に原状回復すべしと法務官は差し止め命令を出した。つまり、追い出された場所がどこであろうと、アエブティウス氏は、カエキナ氏をどこかの場所から追い出したと認めたうえで原状回復済みだと言ったのだから、彼はきっと保証金を没収されるはずだ」と言ったのである。

81 どうだ、ピソー。それでも君は我々と言葉の上で争う気かね。我々の占有権ではなく万人の占有権に対する正義と衡平の問題を言葉によって決める気かね。私は、自分の考えと、我らの父祖たちが行ってきたことと、判決を下す人たちの権威にとって何が相応しいかを明らかにした。それは、「何がどんな言葉で述べてあるか」ではなく、どんな意図どんな考えで述べられているかに注目することが、万人にとっての正義であり衡平であり利益であるということである。君は私を言葉の争いに巻き込もうとしている。私はその挑戦に応じる前に抗弁しておきたい。何かの言葉が抜けていたり曖昧だったりした場合には、たとえ内容と意味が明白であっても、その明白な内容ではなく言葉の方が重視されるというなら、それは間違っているし、その主張は維持できない。現実の事件が法律の言葉の中に充分に漏れなく表現され規定されていて、例外も完璧に示されているということはあり得ないのだ。

 第二十九章

82 私は充分に抗弁したので、君の挑戦に応えることにする。君に問う、私(=カエキナ氏)は追い出されたのか追い出されなかったのかどちらだろうか。もちろん、それはフルキニウス農場からではない。というのは、法務官は「もし私がその土地から外へ追い出されたなら」私は原状回復されるべしと命じたのではなく、「私が追い出されたその場所に」原状回復されるべしと命じているからである。私はあの農地に近づくために通った隣の農地から追い出されたのであり、道から、いや確かに何処か、公道か私道から追い出されたのだ。私はそこへ原状回復されるべしと命じられている。君は原状回復済みと言った。私は法務官の命令通りの原状回復はされていないと主張する。これに対する我々の議論はどうなるだろうか。ことわざ通り、君の防御は君の剣によって打ち破られるか、それとも我々の剣によって打ち破られるか、必ずそのどちらかになる。

83 もし君が差し止め命令の意味を頼みとして、アエブティウス氏が原状回復を命じられた時の土地はどの土地のことなのかを問うべきだと言い、衡平の原則が言葉の罠に捕らわれるべきでないと考えるなら、そのとき君は我々の陣地、我々の砦の中にいることになる。これこそが私の防御の拠り所なのである。私はこう叫んで、すべての人と神々を証人として次のことが真実であることを誓う。我らの父祖たちが武装した暴力をけっして法の保護で守らなかったからには、追い出された人の足跡ではなく、追い出した人の行為が裁かれるということ、追い払われた人は追い出された人であること、死の危険にさらされた人に対しては暴力が行われたのであることを。

84 しかし、もし君がこの地点から逃げて遠ざかり、私を衡平の広野から言葉の隘路に、いわば言葉の隅っこに引きずり込もうとするなら、私に仕掛けようとしている「私は追い出さなかった、追い返しただけだ」という罠に君自身がはまり込んでしまうことだろう。これが君には非常に鋭い武器だと思えるのだろう。これが君の防御の剣である。君の主張はこの剣によって敗れる運命なのだ。私は君に答える。私が仮に近づくことを邪魔された場所から外へ追い出されなかったとしても、私が近づいた場所、私が逃げ出す前にいた場所から外へ追い出されたのである。もし法務官が私が原状回復されるべきだと命じる場所を明示せずに原状回復を命じたのなら、私は命令通りには原状回復されなかったのである。

85 民事審判委員のみなさん、ここまでの私のお話が日頃の私の弁論と比べて回りくどいように思えるとしたら、次のことにご留意ください。まず第一に、このやり方を考え出したのは私ではなく相手側だということです。第二に、私はこれを考案するどころか、こんなやり方はけっして良い事だとは思っていないのです。しかも、このやり方を私は当方の主張のためではなく、相手側の主張に反論するのに使っただけなのです。私が提起した事件において法務官が差し止めをどんな言葉で命じたかではなく差し止めを命じた場所はどこなのかを問うべきであり、武装した人たちの暴力がどこで行使されたかではなく暴力が行使されたかどうかに注目すべきであると、私は正当に言えるが、その一方、ピソーよ、君は自分が望む場合(=追い出されたかどうか)には言葉を重視すべきだが、自分が望まない場合(=回復される場所はどこか)には言葉を重視すべきでないと、君は決して言うことは出来ないのである。

 第三十章

86 この差し止め命令は内容と意味だけでなく言葉もまた何の変更も許されないと思えるように作られていると私は以前に言ったが(=38節、74節)、それに対して何か言うことがあるだろうか。民事審判委員のみなさん、よく注意して聞いてください。私の知恵ではなく我らの父祖たちの知恵に気づくことはあなた達ほどの能力豊かな人たちなら出来るはずなのです。私が言おうとしているのは私が見つけ出したことではなく、我らの父祖たちが既に気づいていたことなのです。民事審判委員のみなさん、暴力について差し止め命令があるとき、我らの父祖たちは、差し止め命令が関係する訴訟には二つの種類があると理解していました。その一つは自分がいた場所から追い出されたと主張する場合であり、二つ目は自分が向かおうとした場所から追い出されたと主張する場合です。そして、この二つのどちらかであって、それ以外のことが起こることはないのです。

87 これは次のように考えてください。もし誰かが私の家族を私の土地から追い出したのなら、それは私をその土地の外へ追い出したのです。もし誰かが武装した人たちと私の土地の外にいて私が入るのを妨害したら、それは私をその土地の外へ(ex eo loco)追い出したのではなく、その土地からabeoloco追い出したのです。この二つの種類の出来事に対して充分両方とも表せる一つの言葉を我らの父祖たちは見つけ出したのです。そのおかげで、私は土地の外へ追い出されたにしろ土地から追い出されたにしろ、同じ差し止め命令によって原状回復されるのです。この差し止め命令の「どこからあなたが追い出した」の「どこから(unde)」という単語は「どの場所の外へ」と「どの場所から」の二つのことを表しているのです。あのキンナ(=執政官だった87年にスラによってローマから追放された)はどこから追い出されたのでしょうか。町の外へです。テレシヌス(=サムニテ人の侵略者、82年にスラによってローマの門外から追い返された)はどこから追い出されたのでしょうか。町からです。ガリア人はどこから追い出されたのでしょうか。カピトルの丘からです(=390年)。グラックスの支持者たちはどこから追い出されたのでしょうか。カピトルの丘の外へです(=133年)。

88 このようにして、この一つの「どこから」という言葉によって「どの場所の外へ」と「どの場所から」の二つのことが表わされているのがお分かりでしょう。しかし、「そこへ原状回復せよ」と命じた時、もしガリア人が我らの父祖たちに、追い出された場所に原状回復するように要求して、それを何らかの暴力によって達成できた時には、思うに、それは彼らが近づいてきた地下道の中ではなく、カピトルの丘の中へ原状回復しなければならないのです。というのは、「どこからあなたが追い出したにしろ」の場合は、どの場所の外へ追い出したにしろ、どの場所から追い出したにしろ、「そこへ原状回復すべし」だからです。これは簡単なことで、その場所の中へ原状回復しなければなりません。つまり、「あなたがその場所の外へ追い出したのなら、その場所の中へ原状回復せよ」であるか「あなたがその場所から追い出したのなら、そこの外へ彼は追い出されたのではなく、そこから追い出された場所、その場所の中へ原状回復せよ」ということなのです。たとえば、もし海から祖国に近づいていて、突然の嵐で追い返された人が、祖国から追い出されたから、そこへ原状回復されることを祈願する場合には、それは自分が遠ざけられた場所、その場所の中へ運命が原状回復してくれることを祈願しているのであって、それは海の中ではなく、彼が目指していた町の中なのです。それと同じように(我々は言葉の意味を必ず事柄の類似性によってつかむのですから)、自分がどの場所から追い出されたにしろ、言い換えれば、自分が「どこから」追い出されたにしろ、その場所に原状回復されることを要求する人は、まさにその場所の中へ原状回復されることを要求しているのです。

 第三十一章

89 差し止め命令の言葉によって我々はこういう結論に至るだけでなく、その内容そのものからも我々はこういう意味を読み取って理解しなければなりません。実際、ピソーよ、―ここで私は私の弁論の初めに戻るが(35節)―、もし誰かが君を自分の家の外へ武装した人たちの暴力によって追い出したのなら、君はどうするだろうか。君も我々が利用しているこの差し止め命令によって訴えるはずだ。ではどうだろうか。君がいまこの公開広場から家に帰ろうとするのを誰かが武装した人たちによって妨害して自分の家に入れないようにしたら、君はどうするだろうか。君はやはり同じ差し止め命令を使うだろう。法務官がそれによって、どこから君が追い出されたにしろ、その場所に原状回復すべしと命令したなら、君は私が言っているのと同じ解釈をするだろうし、それは誰の目にも明らかなことである。つまり、この「どこから」という言葉には二つの意味があって、「その場所に」原状回復されるべしと命令されたということは、君が玄関から追い出された場合も、家の中から外へ追い出された場合と同じように、家の中へ原状回復されるべしということなのである。

90 民事審判委員のみなさん、差し止め命令の言葉に注目するにしろその内容に注目するにしろ、我々に有利な判断をすることに対していかなる躊躇も取り去っていただくために言えば、いまや全てが打ちのめされて何の見込みもなくなった相手方は、次のような防御手段をくり出してきています。それは「占有している者は追い出されることが可能だが、占有していない者が追い出されることは不可能だ」というものです。つまり、あなたが自分の家から追い出されたのならあなたは原状回復を要求できるが、私があなたの家から追い出されたのなら、私は原状回復を要求できないというのです。ピソーよ、この主張のなかにどれほど多くの虚偽があるか数えてみるといい。最初に注目すべきはこれだ。それは、「中に入っていない者が追い出されることは不可能だ」という理屈を君はすでに放棄しているということである。いまでは君は「中に入っていない者でも追い出されることが可能だ」と認めているのだ。そこで君は、「占有していない者が追い出されることは不可能だ」と言い出したのである。

91 だが、もし占有していない者が追い出されることが不可能で、その人が占有しているかがどうか問われるべきなら、どうして日常的な差し止め命令(=interdictum de vi)の「どこから彼が私を暴力で追い出したにしろ・・」には「私が占有しているときに」が付いていて、「武装した人々について」の我々の差し止め命令(=interdictum de vi armata)には「私が占有しているときに」が付いていないのだろうか。君は占有していない者が追い出されることを否定する。その意味は、武装した集団を使わずに誰かを追い出した場合には、その人を自分が追い出したことを認めた場合でも、その人がその土地を占有していなかったことを証明すれば、保証金を取り返せるということである。君は占有していない者が追い出されることを否定する。しかし、「武装した人々について」の我々の差し止め命令では、自分が追い出した相手がその土地を占有していなかったことを証明しても、もし追い出したことを認めた場合には、必ず保証金は没収されるのである。(=原田慶吉『ローマ法』143頁「凶器を伴う暴力の場合の場合には、占有に瑕疵あるも保護を受ける」)

 第三十二章

92 つまり、人を追い出すことには二通りの方法があるのだ。それは武装した集団の暴力によるかよらないかである。この二つの異なる事態に対しては、異なる二つの差し止め命令が用意されているのだ。日常的な暴力の場合は、自分が追い出されたことを証明するだけでは不充分で、追い出された時にその土地を占有していたことを証明する必要がある。しかも、自分の占有が暴力によるものでも窃盗によるものでも仮のものでもないことを証明する必要があるのだ。だから、自分は「原状回復済み」だと言う人はしばしば大きな声で自分は暴力で追い出したと認めはするが、同時に「相手は占有していなかった」と付け加えるのである。あるいは、相手の占有を認めるときでも、相手のその占有は暴力によるか窃盗によるか仮のものだったことを示せば保証金は取り戻せるのである。

93 我らの父祖たちが武装した集団によらない暴力を行使した人にどれほど多くの防御手段を利用できるようにしたか、あなた達はおわかりだろうか。逆に、正義と義務とよき慣習から外れて剣や武器や殺人に頼ったこの男に、父祖たちは法廷で防御手段を何も与えなかった。そのために、武器を持って占有について争ったこの男が無防備のまま保証金について争うことになっているのは、みなさんのご覧のとおりである。ピソーよ、この二つの差し止め命令の間には何か違いはないのか。我々の差し止め命令には「アウルス・カエキナ氏が占有しているとき」が付いているかいないかで何か違いはないのか。法の論理と二つの差し止め命令の違いと父祖たちの意図について、君は何か思わないのか。我々の差し止め命令に占有事項がついているのなら占有について問うべきだろうが、付いていないのに君は何を問うべきだと言うのか。

94 民事審判委員のみなさん、もちろん私がカエキナ氏の弁護をしているのはこの点ではありません。カエキナ氏はあの農地を占有していました。この問題はこの訴訟とは無関係ですが、簡単に述べさせて下さい。それはあなた達に公共の法だけでなくこの人をも守りたいと思って頂きたいからです。アエブティウス氏よ、あなたはカエセンナ夫人が用益権を使ってあの土地を占有していたことを否定していないのである。カエセンナ夫人からその土地を借りた小作人が、その貸借契約によってその土地にそのままいた以上は、もしその小作人がその土地にいることによってカエセンナ夫人がその土地を占有していたのなら、彼女の死後に相続人が同じ権利によってその土地を占有していることの何を疑う事があるだろうか。その上、カエキナ氏が自分の農場を巡回していたとき、この農地にやってきて小作人から勘定書きを受け取っているのである。

95 このことには証拠がある。さらに、アエブティウス氏よ、もしあの農地をあなたが所有していてカエキナ氏が占有していなかったのなら、どうしてあなたは他ならぬあの農地からカエキナ氏に立ち退くように通告したのだろうか。また、どうしてカエキナ氏は形式的にあの農地から立ち退きすることに同意して、その事を友人とアキリウス氏本人の意見に従ってあなたに回答したのだろうか。

 第三十三章 スラの法は無効である

ピソーよ、確かにスラは法(=市民権についての法)を成立させた。その当時について、国家の災難についての私の思いは別にして、私は君に答えよう。スラはその法に次のような但し書きを付けている。「もし法に反する提案が含まれているなら、この法案は無効である」と。法に反しており、国民が命じも禁じもできない事とは何だろうか(=市民権を奪うこと)。簡単に言えば、この但し書きはそのようなものがあることを示している。なぜなら、もしそのようなものがないなら、全ての法にもこんな但し書きが付けられたりはしないからである。

96 だが、君に問う。もし私が君の奴隷になるように、あるいは君が私の奴隷になるように国民が命じたら、その命令は有効で確かなものだと君は思うだろうか。そんなことが無効なのは君も分かるだろうし、そう認めるだろう。すると、君は第一に、国民の命じたものが何でも有効になるはずのないことを認めていることになる。しかも君は、自由を奪うことが不可能なのに、市民権を奪うことを可能とするようなどんな理由も全く示すことは出来ないのである。なぜなら、我々には両者について同じ伝統があり、もし市民権を奪うことが一旦可能となれば、自由を守ることは不可能になるからである。ローマ市民の中に含まれない人がローマ市民の権利によって自由であることは不可能なのである。

97 私は若いころローマで極めてすぐれた雄弁家のガイウス・コッタに対抗して立った時、このことを証明したことがあります。私がアレティウムの女性の自由を弁護したとき、コッタは「アレティウム人には市民権がないから、我々の訴えは適切なものと判断できない。」と言って十人委員の心に躊躇を起こさせました。わたしは市民権は奪えないと激しく主張しましたが、十人委員は最初の公判では判決を下しませんでした。その後、事実を検討して熟慮した結果、彼らは我々の訴えは適切なものだと判断しました。コッタが反対しスラが生きているのにそう判断したのです。他の事件の同じ訴訟を法で争って自分の権利を追求した人たちの誰もが市民法の全てを享受して、どの政務官や審判員や法律の専門家や素人も何の異議も唱えなかった例を、これ以上私がどうして挙げるべきでしょうか。市民権を奪えないことはあなた達の誰も疑わないことを私は確信しています。

98 ピソーよ、君の頭には浮かばだろうから教えてあげるが、次のことが常に問題になることを私はよく知っている。もし市民権を奪うことができないなら、我々の市民はしばしばどうしてラテン植民市に旅立つのかという問題である。彼らが旅立つのが自分の意志でなければ法律の罰を避けるために旅立つのである。だから、もしどんな罰でも受けるつもりなら、国内に留まって市民権を保てたのである。

 第三十四章

つぎに、外交の神官によって外国に差し出された人や、父親か国民によって奴隷に売られた人は、何のために市民権を失うのだろうか。ローマ市民が差し出されるのは、国が恥辱を免れるためである。彼が相手国に受け入れられた時、彼は相手国の仲間になる。一方、マンティウスがヌマンティア人に受け入れなかったように、相手に受け入れられなかったら、彼は自分の完全な市民権を保持したままである。もし父親が自分の権限の下に受け入れた者を奴隷に売っても、それは自分の権限の外に放免しただけなのである。

99 国が兵役を拒否した者を奴隷に売る場合、それは彼の自由を奪うことではなく、自由人として危険を引き受けることを望まない者は自由ではないと見做されるということである。国が戸口調査に登録していない者を奴隷に売る場合には、自由人であっても戸口調査を望まない者は自由をみずから捨てたと国民は判断したのである。その一方で、正当な奴隷の身分にいた者は戸口調査によって解放される。だから、もしこうした場合に自由か市民権が奪われることがあるとしても、父祖たちは特にこのような理由で市民権が奪われることを可能にした代わりに、他の理由では奪われないようにしたのである。市民権喪失の可能性を指摘する人も、このことは明らかではないだろうか。

100 彼らがこれらの市民権喪失が市民法によるものだと言うなら、市民権と自由が法律や法案によって奪われた例を示してもらいたい。例えば、追放に関する限り、それがどのようなものであるかは明らかである。なぜなら、追放は罰ではなく、罰からの避難であり逃避だからである。何らかの罰や災いから逃れることを望むからこそ、この手段をとって場所を変えるのである。だから、他の国と同様に、我が国のどの法にも、追放が不正行為の罰である例は見つからないのである。そうではなくて、人々は法律に規定された拘束と死刑と不名誉から逃れようとするとき、避難所に逃げこむようにして亡命に救いを求めるのである。もし国家の中に留まって法の力に服すことを望むなら、彼は命を失うよりも前に市民権を失うことはない。人は法の力に服すことを望まないがゆえに市民権を奪われることはない。人は法の力に服すことを望まないがゆえに市民権を捨てるのである。なぜなら、我々の法によれば、誰も二つの国に属することは出来ないから、逃亡して亡命先つまり別の国に受け入れられた時、その人はこの国の市民権を捨てるのである。

 第三十五章

101 民事審判委員のみなさん、市民権について私は非常に多くのことを省略しましたが、それでもあなた達の判断にとって必要とされる以上に深入りしたことを、私はよく知っています。しかし、あなた達がこの法廷でこの弁論を求めていると思ったからではなく、市民権は誰からも奪われたことがないし、奪うことは不可能だということを、すべての人に知ってもらうために、私はこうしたのです。このことはスラが危害を加えたいと思った人々に知ってもらいたいだけでなく、新しい市民も昔からの市民も全ての市民に知ってもらいたいのです。というのは、もし新しい市民から市民権を奪うことが出来るのなら、貴族や最も古くからの市民の誰からも市民権を奪うことが出来ない理由を説明できないからなのです。

102 こんなことはこの裁判にとって全く無関係なことは、第一にあなた達がその事について判断する必要がないことからも明らかだし、第二に、スラが市民権から契約権と相続権を取り去るような法案を出したわけではないことからも明らかです。というのは、スラの法律は、ウォラテッラエ人はアリミヌム人と同じ権利になるべしというものでした。しかし、アルミニウム人が十二植民市に属して、ローマ市民によって相続権を認められていたことを誰が知らないでしょうか。だから、万一アウルス・カエキナ氏から法によって市民権を奪うようなことがあるとしたら、我々よき市民は、尊敬される人間、慎み深い人間、すぐれた判断力と美徳と家庭内の権威を備えた人を、どうすれば不正から救い、市民として守り続けられるか、その方法を全員が問うことになるでしょう。しかし、カエキナ氏が市民権を失うことがありえない時に、カエキナ氏は市民権を失っていたと言うような愚かで恥知らずなことをする人が、セクストゥス・アエブティウス氏よ、あなた以外に現われる心配を我々がすることはないのです。

103 民事審判委員のみなさん、カエキナ氏は自分の権利をなおざりにすることはなかったし、アエブティウス氏の大胆さと厚かましさを許さなかった人であるがゆえに、今から彼はみなさんとの共通の利害とローマ人の権利をあなた達の信義と良心に委ねようとしています。

 第三十六章

カエキナ氏とはそういう人なのです。彼はあなた達やあなた達のような立派な人たちに認められることを常に願い、そのために、彼はこの裁判で自分の権利をいい加減にしてなおざりにする人間でもなければ、それを不正に追求する人間でもないと思われるように努めているのです。また、彼は自分がアエブティウス氏から侮られる人間でもなければ、彼を侮る人間でもないと思われるように努めているのです。

104 したがって、もしあなた達が裁判を離れて誰かを讃えたいと思うなら、際立った慎みと明らかな美徳の持ち主、厚い信頼の的、全エトルリアきっての名士、人生の浮き沈みにも美徳と人間性を保ち続けたことが多くの人の証言から明らかなこの人がここにいます。その反対に、もし誰かに対して怒りをかきたてたいと思うなら、これ以上は言うまでもなく、自分が人を集めたと自白するような人間がここにいます。逆に、人物は別にして裁判について考えるのなら、この裁判は暴力事件の裁判であること、ここで告発されている人間は武装した人間によって暴力を行ったと自白していること、彼は衡平の原則によってではなく言葉によって自分を守ろうとしたが、ご覧のように彼はその言葉の防御に失敗したこと、最も賢明な人たちの助言は我々に味方していること、カエキナ氏が占有していたかどうかは判決とは無関係であること、しかもその占有は証明されていること、さらに問題の農地がカエキナ氏のものかどうかは問われていないが、カエキナ氏のものであることは私によって証明されていること、このようなことが明らかになっているあるからには、武装集団については公共の利益によって、暴力については彼の自白によって、衡平の原則については我々の結論によって、権利にについては差し止め命令の理念によって、あなた達にいかなる判決が求められているか、ここで決断して頂きたいのです。


Translated into Japanese by (c)Tomokazu Hanafusa 2013.9.10-10.7

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