キケロ『トゥスクルム荘対談集1』




対訳版

第一巻

 

第一章 ローマのギリシャに対する優越
第二章 ギリシャにおける教養と文芸
第三章 ラテン語の哲学書の必要性
第四章 哲学と弁論の結合
第五章 死は悪や否や
第六章 死者は存在しないから不幸か
第七章 死者は不幸ではありえない
第八章 死は悪ではない
第九章 死とは何か、魂とは何か
第十章 魂についてのその他の説
第十一章 魂は生き残る、さもなければ死者には感覚がない
第十二章 不滅の魂は天に昇る
第十三章 魂の不滅説と神の存在
第十四章 自分の死後に対する関心
第十五章 死後の名声に対する願い
第十六章 地獄の虚妄と魂の永遠性
第十七章 人の死後魂は空に昇る
第十八章 魂は熱い空気である
第十九章 魂が星になったときの喜び
第二十章 天からの眺めの素晴らしさ
第二十一章 エピクロス派批判
第二十二章 魂の姿を知ること
第二十三章 プラトンの証明
第二十四章 魂のもつ豊かな記憶力
第二十五章 魂にそなわる神的な力
第二十六章 哲学は 神の贈り物  
第二十七章 魂の源は神にある
第二十八章 神の存在を証明するもの
第二十九章 魂の本質
第三十章  哲学は死への準備である
第三十一章 魂の不滅に反対する人たち
第三十二章 魂は死ぬと言うストア派
第三十三章 パナイティオスへの反論
第三十四章 死には苦しみはない
第三十五章 死によって人は不幸を免れる
第三十六章 死人が失うものはない 
第三十七章 死を恐れない人たち
第三十八章 死は我々には関係がない
第三十九章 短命を悲しむことはない
第四十章  テラメネスの豪胆
第四十一章 『ソクラテスの弁明』より
第四十二章 死を恐れぬスパルタ人
第四十三章 埋葬方法は魂には関係がない
第四十四章 文学作品の中に見られる誤った考え方
第四十五章 民族の習慣に見られる誤った考え方
第四十六章 幸福の絶頂での死が望ましい
第四十七章 死は神からの最高の贈り物
第四十八章 人間にとっての最善は生まれてこないこと
第四十九章 人類のことを考えている存在

第一章 ローマのギリシャに対する優越

 ブルータス君、私はとうとう弁護士の仕事も元老の仕事もお役ご免になってしまいました。そこで、君の勧めにしたがって、長い間中断していた研究に戻ることにしました。諸々の事情でなおざりにはしていましたが、心の中ではこの研究のことをずっと気に留めていたのです。

 人間の正しい生き方に関するあらゆる学問の教えと理論は、哲学という名の知恵の研究に含まれています。したがって、この研究をぜひラテン語で書かねばならないと思っていました。もちろん、哲学はギリシャ語の本やギリシャ人の先生たちから学べないとは言いません。しかし、私の考えでは、私たちローマ人の方がギリシャ人よりも優れています。ローマ人の発明の方がギリシャ人の発明よりすぐれているし、研究に値すると思ってギリシャから取り入れたものも、全て我々が改善しているからです。1

 例えば、道徳や生活習慣の確立、家族の維持や財産の管理などは、絶対に我々の方がうまくしかも立派にやっています。また、国家も、我々の祖先の方が、はるかに優れた制度と法律によって統治してきました。軍事に関しては言うまでもありません。我々ローマ人は、戦場において勇気と規律正しさを大いに発揮して、数々の勝利を収めています。

 本を読んで得た知識ではなく、生まれつきの素質だけを比べたら、ギリシャもそれ以外のどこの民族も我々にかなうものはないのです。そもそも、我々の祖先ほど、まじめで、しっかりした考え方を持ち、心が広く、正直で、忠誠心が強く、全ての分野において美徳にあふれた国民が、いったいどこにいるでしょうか。2

 確かに学問や文芸でギリシャ人は我々より優れています。しかし、競争相手のない試合に勝つのはやさしいものです。なぜなら、ギリシャに文化をもたらす詩人たちが誕生したのは大昔のことで、もし本当にホメロスとヘシオドスが活躍したのはローマ建国以前のことで、アルキロコスが出たのはロムルスの時代だったなら、ローマ人が詩を書き始めたのはギリシャよりずっと後だということになるからです。

 ローマでリヴィウス・アンドロニクスが劇を上演したのは、ローマの建国から約五百十年後(前240年)のことです。それはカエクスの子ガイウス・クラウディスとマルクス・トゥディターヌスが執政官だった頃のことで、その一年後にやっとエンニウスが生まれています。プラウトゥスやナエヴィウスが生まれるのは、このエンニウスよりもまだあとなのです。

 

第二章 ギリシャにおける教養と文芸

 

 つまり、詩人という存在が我々の間で知られるようなって、さらにその価値が認められるようになったのは、かなりあとのことなのです。

 カトー(前234~149)は『ローマの起源(Origines)』のなかで、当時すでに宴会で出席者が笛に合わせて英雄の武勲をたたえる歌をうたう習慣があったことを書き残していますが、カトーの演説を読むと、このようなことの出来る才能を彼はあまり高く評価していなかったことが分かります。彼はマルクス・ノビリオルが自分の属州に詩人を連れていったことを、恥ずべき行為として非難しているからです。周知のように、ノビリオルは執政官のときにアエトリアにエンニウスを連れていっています。

 詩人たちへの評価がこのように低かったわけですから、それだけ人々が詩作に対して熱心でなかったのは当然でしょう。しかしこの分野で豊かな才能に恵まれた者が現われていたなら、ローマ人でもギリシャの詩人たちの名声に充分対抗できたと思います。3

 それとも、もし高貴な家柄で歴史家のファビウス・ピクトルが彼の描いた絵によって名声を獲得していたなら、ローマ人の間には何人ものポリュクリトス(ギリシャの彫刻家)やパラシオス(ギリシャの絵描き)が生まれていたと考えてはいけないでしょうか。芸術は、人々が高く評価することによってはぐくまれ、人々は名声に駆り立てられて芸術に志すのです。逆に人がけなすものは、いつまでたっても栄えないものです。

 ギリシャ人たちは、楽器が演奏できたり歌がうたえることを最高の教養の証であると考えていました。ですから、私がギリシャ人の中で最も有名な人間だと思っているエパミノンダスは、竪琴に合わせて歌をうたうのが実にうまかったと言われています。一方、テミストクレスは、その数年前に食事の席で琵琶を弾くのを断わったために教養のない人間だと思われています。

 このようなわけで、ギリシャでは音楽家たちが栄え、誰も彼もが音楽を学んだのです。逆に音楽を知らない者は、充分な教育を受けた人間だとは見なされなかったのです。4

 また、ギリシャ人の間では幾何学がもっとも高い評価を受けています。そのために、数学者は誰よりも高い名声を獲得しています。それに対して、ローマ人はこの学問を、ものを計ったり計算したりする用途に限定してしまったのです。

 

第三章 ラテン語の哲学書の必要性

 

 しかしそれとは反対に、我々ローマ人は早くから弁論家を高く評価してきました。最初、人々は弁論家を教養ある人とは見なさず、一種の才人だと思っていましたが、後に教養ある人として認めるようになりました。

 実際、ガルバ(前144執政官)や小スキピオやラエリウス(サピエンス、前140年執政官)などの弁論家たちは教養ある人だったと伝えられています。また、彼等より一世代前の人であるカトー(前195執政官)でさえも弁論術の習得には熱心だったと言われています。そのあとにレピドゥス(前137年執政官)やカルボ(前120 執政官)やグラックス兄弟などが現われたのです。それから我々の時代に至るまで優れた弁論家がたくさん生まれて、もうこの分野ではギリシャに、ほとんど引けを取らないほどになっています。

 しかるに、哲学はこの時代に至るまでローマ人の間で高い地位を与えられたことはなく、ラテン文学によって光を当てられたこともないのです。私はこれに光を当てて、哲学の評価を高めようと思っています。

 私が公職にいたときに少しでも国民のお役に立ったとすれば、公職を離れた今私は、できればこのことによって、国民のお役に立ちたいと思っています。5

 実は、哲学についてはラテン語で書かれた本がすでに沢山出ています。しかし、それらは非常に雑に書かれたもので、著者は確かに立派な人たちですが、充分な知識は持ってはいないようなのです。ですから、私はより一層この仕事に力を入れなければと思っています。

 もちろん、哲学はよく知っているのに、それをうまく表現できないだけだという場合もあるでしょう。しかし、自分の考えをまとめたり、はっきりと説明したり、読者が興味を持つようにすることが出来ないような人が、自分の考えを本にするなどということは、まったく暇に飽かしたペンの暴力でしかありません。

 結局、そんな本を読むのは本人とその仲間だけということになります。もしそれ以外の人の手に届くことがあるとしても、それは自分にも本を書く資格があると思いたい人が、手に取るくらいのことでしょう。

 ですから、もし私がこれまでの努力によってローマの弁論の評価をいささかなりとも高めたとすれば、今度は、かつて私の弁論の源であった哲学という泉を、さらなる熱意をもって明らかにしていきたいと思っています。6

第四章 哲学と弁論の結合

 知識と表現力にあふれた天才アリストテレスは、弁論家イソクラテスの名声に刺激されて、学問と弁論術を結合させようとして、若者たちに話し方を教え始めたといわれています。それと同じように、私は、これまで弁論に注いできた情熱を忘れることなく、より豊かで崇高なこの学問に取り組んでいきたいと思います。

 私はかねがね完全な姿をした哲学とは、最も重要な問題を、雄弁にしかも魅力的な言葉で語ることが出来なければならないと思っています。これを実行に移すことに、私は熱意を傾けてきましたが、ここにとうとう大胆にもギリシャ風の方法で一種の講義をすることにしたのです。この前君が帰った後で、トゥスクルムの私の別荘に沢山の友人が集まってくれたときに、この分野で私に何ができるか試してみたのです。

 これまで私の弁論の場は法廷でした。私よりもこの仕事に長く携わったものはいないでしょう。老境に入る私のこれからの弁論の場は、哲学だということになります。

 私は友人たちに何が聞きたいか言ってみなさいと申しました。それついて、私は歩きながらあるいは座ったままで話したのです。7

 こうして五日間にわたって、ギリシャ語で言うところのスコラ、つまり一種の講義を行ったのです。そしてその講義を五巻からなる書物にまとめました。

 この講義は、私の意見を聞きたいと思う者がまず自分の意見を述べた後で、それに対して私が自分の意見を述べるという形で行われました。相手の意見に対して自分の考えを述べるというこのやり方は、君も知っているとおり、昔からあるソクラテスの方法です。こうすることによって、真理にもっとも近いものを最もたやすく発見できると、ソクラテスは考えたのです。

 一方、本にするに当たっては、私たちの議論をなるべく読者にとって読みやすくするために、間接話法ではなく、直接話法でこの議論を再現してみました。

 私たちの会話は次のようにして始まりました。

 

第五章 死は悪や否や

 

 甲 死ぬことは悪いことだと私は思います。

 乙 死んだ人にとってかね? それともこれから死ぬ人にとってかね?

 甲 両方にとってです。

 乙 死ぬことが悪いことなら、死ぬのは不幸なことになる。

 甲 そのとおりです。

 乙 とすると、もう死んだ人も、これから死ぬ人も不幸だということになる。

 甲 私はそう思います。

 乙 そうなると、不幸でない人はいないことになるね。

 甲 全く、その通りです。

 乙 すると、君の考え方で行くと、既に生まれた人もこれから生まれる人も誰も彼もみんな不幸で、未来永劫に不幸だということになるね。もし君が、これから死ぬ人だけが不幸だと言ったとしても、生きている人はみんないつかは死ぬわけだから、生きている人は例外なくみんな不幸だと言っていることになるんだよ。

 でも、死んだら不幸でなくなるかもしれないんだよ。ところが、もう死んでいる人も不幸だというのなら、我々は未来永劫に不幸になるために産まれてくることになってしまう。というのは、もし君の言うとおりなら、必然的に10万年前に死んだ人も不幸だし、それどころか、この世に生まれた人はみんな不幸だということになってしまうからね。

 甲 実際私はそう思っているのです。9

 乙 ちょっと聞いていいかな。ひょっとして君は、地獄にいる三つ頭の番犬のケルベロスやコーキュトス川の轟音やアケロン川の渡しや、

 「顎が水面に触れているのにのどの乾きに苦しんでいる」

タンタロスとかいったものが怖いのかね? 

 「シシュフォスが汗をかいて一生懸命岩を転がしても、全く徒労に終わってしまう」

 という話が怖いのかね。おそらく君が怖いのは、ミノスやラダマンテュスという情け容赦のない裁判官なのだね。彼らの前ではルキウス・クラッススやマルクス・アントニウスの弁護が受けられない。裁判官たちはギリシャ人なのに、デモステネスを雇うこともできない。数知れぬ人が見ている前で君は自分で自分の弁護をしなければいけない。おそらく君はこういうことが心配で、それで死は未来永劫に続く悪だなどと考えているのだね。

 

第六章 死者は存在しないから不幸か

 

 甲 私がそんなことを信じるほどばかな人間だとお思いですか。

 乙 君はこんなことは信じていないというのかい。

 甲 全然信じてなんかいません。

 乙 おや、それは残念だね。

 甲 どうしてです。

 乙 ああいう話の間違いを指摘するのなら、私はいくらでも話をしてあげられたのに。10

 甲 そんなことは誰でもできますよ。詩人や絵描きのこしらえた作り話の嘘をあばくことなど簡単です。

 乙 しかし、哲学者たちは、まさにああいうことに対して反論するために分厚い本を書いているんだよ。

 甲 全くばかばかしいことです。だって、あんな話に影響されるような愚かな人がどこにいますか。

 乙 とすると、君の言う不幸な人たちは地獄にはいないわけだ。だがそうすると、地獄には誰もいないということになるね。

 甲 私はまさしくそう考えています。

 乙 それならば、君の言う不幸な人々はどこにいるんだい。いったいどこに住んでいるというんだい。そもそも彼らが存在するなら、どこにもいないわ けはないからね。

 甲 実は、私は、彼らはどこにもいないと思っているのです。

 乙 つまり、全く存在しないというのかい。

 甲 そのとおりです。そして、まさに存在しないがために、彼等は不幸なのです。11

 乙 君、そんなでたらめなことを言うくらいなら、ケルベロスを怖がってくれる方がいいな。

 甲 どうしてですか。

 乙 君は一方で存在を否定している人が、他方で存在すると言っているからだよ。頭のいい君はどこに行ってしまったんだい。彼らは「不幸」で「ある」と君が言ったとき、それは「存在しない人」が「存在する」と言っていることになるからだよ。

 甲 僕はそんなこと言うほどばかじゃありませんよ。

 乙 じゃあ、どう言いたいのだね。

 甲 例えば、死んであれだけの財産をなくしたマルクス・クラッススは不幸ですし、あれほどの名声を失ったグナエウス・ポンペイウスは不幸です。要するに、誰であろうと、死ねばこの世の光を見ることができなくなるから、不幸なのです。

 乙 君は同じ矛盾に陥っている。なぜなら、彼らがもし不幸なら彼らは存在しなければいけないからだ。しかし君はさっき、死んだ人はもう存在しないと言ったんだよ。もし存在しないなら、不幸でも何でもありえないじゃないか。ということは、死んだ人は全然不幸ではないということだよ。

 甲 どうも、私は自分の思っていることをうまく言えないようです。でも、要するに、かつて存在したものが存在しなくなることほど不幸なことはないと思うんです。12

 乙 それは、一度も存在しないことよりも不幸だということなのかな。君の考え方で行くと、まだ生まれていない人は、存在していないからすでに不幸だということになり、我々は死んだら不幸になるけれども、生まれる前から不幸だったということになる。

 けれども、私は生まれる前に自分が不幸だったなんてことは覚えていない。もし君の記憶力が私よりも優れているのなら、君の場合はどうだったか、何か覚えていることがあったら教えてくれないか。

 

第七章 死者は不幸ではありえない

 

 甲 そんな風に、からかわないでください。私は生まれていない人が不幸だなんて言っていませんよ。死んだ人が不幸だと言っているのです。

 乙 それは、死んだ人が存在していると言っていることになるんだよ。

 甲 そうではありません。かつて存在したものが存在しなくなったから不幸だと言っているんです。

 乙 君は矛盾したことを言っているのが分からないのか。「存在しない人は不幸であるだけでなく、存在する」ということ以上に矛盾したことがあるかね。君は、カペーナの門を出てカラティヌス(前249年独裁官)の墓や、スキピオ家とセルヴィリウス家とメテルス家の墓を見たとき、彼らが不幸だと思うのかね。

 甲 あなたがそんなに言葉の厳格さを求めるのなら、これからは「彼等は存在しないから、不幸である」と言うのはやめて、ただ「存在しないから、不 幸な彼等」と言うことにします。

 乙 そうすると、君は例えば「マルクス・クラッススは不幸である」ではなく、単に「不幸なマルクス・クラッスス」と言うのかね。

 甲 そうです。13

 乙 しかし、そんな言い方をしたところで、やっぱりそれは必然的に、そうであるかそうでないかのどちらかなんだよ。それとも、君は論理学を知らないのかね。こういうことは最初に習うものだよ。全ての命題(ギリシャ語のアクシオーマを今のところこう呼んでおこうと思う。あとでもっといい言葉が見つかったらそれを使ったらいい)は真であるか偽であるかなのだ。

 だから、君が「不幸なマルクス・クラッスス」と言ったとき、もし君が何か意味のあることを言っているのなら、その内容が真であるか偽であるか判断できるような形で「マルクス・クラッススは不幸である」と言っているのと同じことなんだよ。

 甲 わかりました。死んだ人は不幸ではないことを私も認めることにします。あなたの話を聞いていると、存在しない人は不幸ではありえないと認めざるを得ないのですから。

 ではこれはどうですか。我々は今生きていますが、いつかは死ぬわけですから、不幸なのではないでしょうか。死が常に迫っていることを、昼も夜も忘れられないとしたら、いったい人生に何の喜びがあるでしょうか。14

 

第八章 死は悪ではない

 

 乙 そうだね。だが、いま君は人生からどれだけ大きな不幸を取り除いたか分かっているのかな。

 甲 どういうことですか。

 乙 つまり、もし死んだ人にとって死が不幸なら、我々は未来永劫に終わることのない悪をもつことになってしまう。ところが、いまや、我々には目指すべきゴールがあって、そこに到達すればそれから先はもう恐いものは何もないのだから。

 ところで、君の意見はいまやっとエピカルモスの格言と一致したようだね。彼はシシリー人らしく、賢くて趣味のいい男だ。

 甲 どの格言ですか。分かりませんが。

 乙 できるなら、ラテン語で言ってみようと思う。というのは、君も知っているように、私はラテン語で話しているときはギリシャ語は使わないし、ギリシャ語で話しているときはラテン語は使わないからね。

 甲 ええそのとおりです。それで、一体そのエピカルモスの格言はどんなものですか。

 乙「死ぬのはいやだが、死んだあとはどうでもよい」

 甲 それならギリシャ語の方も知っています。でも、死んだ人は不幸ではないことを、あなたは私に認めさせたのですから、できれば、いつか死ぬことも不幸ではないと思えるようにしてください。15

 乙 そんなことは簡単だ。私はもっと難しい問題に取り組むつもりなんだ。

 甲 どうしてこれが簡単なのですか。それに、もっと難しい問題とは一体何ですか。

 乙 なぜって、死んだ後にはもう何も悪いことはない以上、その直前の出来事である死はけっして悪いことではないんだよ。死んだ後に何も悪いことがないことは君がすでに認めたとおりだからね。

 すると、いつかは死ぬということも全然悪いことではないことになる。なぜなら、それは死という我々が悪いことではないと認めたものへ到達することなのだからね。

 甲 そこのところをもっと詳しく話してください。そんなややこしい話をされたら、私は納得していなくても、ごもっともですと降参するしかないですからね。ところで、あなたが取り組んでいると言う、もっと難しい問題とは何なのですか。

 乙 できれば、死は悪いことでないだけではなく、善いことであるということを何とか君に教えたいんだ。

 甲 そんなことまでして頂きたいとは言いませんが、出来たらぜひ聴きたいものです。あなたの望みどおりとはいかなくても、死が悪いことでないことを証明してください。もうこれからは私はあなたの話の邪魔はしないことにします。あなたが続けて話していただきたいのです。16

 乙 じゃあ、ぼくが質問しても、答えてくれないのかね。

 甲 失礼かもしれませんが、必要がない限り、私に質問しないでいただきたいのです。

 

第九章 死とは何か、魂とは何か

 

 乙 仰せにしたがって、君の聴きたいことをできるだけ詳しく説明することにしよう。でも私がこれから話すことは、けっしてアポロンの神の言葉のように、確実で不動のものだとは思わないで欲しいんだ。大勢の中のかよわい一個の人間が推測を働かせて真実らしいことを探求した結果だと思って欲しい。真実らしいと思われること以上に進むすべを私は持っていないのだよ。

 それ以上の確かなことは、そんなことが認識可能だと言ったり、自分は賢者の一人だと公言している人の口から、聞いてくれたまえ。

 甲 では、よければ始めてください。こちらはいつでも構いません。17

 乙 死は誰でもよく知っているものだと思われているが、まずこれは何であるかを考えてみよう。

 ある人たちは、死とは魂が肉体から離れることであると言っている。

 しかし、別の人たちは、そのような分離は起こらず、魂は肉体と一緒に滅びる、つまり肉体の中にいるままで消滅すると言っている。

 また、魂が肉体から分離すると言う人たちの中には、魂は分離してすぐに消滅すると言う人もいれば、長い間消えずにいると言う人もいる。また、魂は永久に消えないという人もいる。

 さらに、魂そのものが何であるか、それはどこにあるのか、それはどこからくるのか、ということについても人々の意見の間には非常に大きな隔たりがある。

 ある人たちは、魂とは臓器としてのハート(cor)そのものであると考えている。そこからexcors(ハートのない)とかvecors(ハートに欠けた)とかconcors(ハートの通じた)といった言葉が生まれている。あの二度も執政官になった頭のいいスキピオ・ナシカはcorculum(ハートのある男)と言われた。また

 「思慮深いアエリウス・セクストゥスは非常にcordatus(ハートが大きい)」

 と言われた。18

 エンペドクレスは、魂は心臓を満たしている血液のことだと言っている。

 またある人たちは、脳のある部分が魂を動かしているのだと言っている。

 しかし、別の人たちは、魂は心臓そのものや脳の一部のことではないといっている。その彼らのうちでも、心臓が魂の居場所であるという人もいれば、脳が魂の居場所であるという人もいる。

 しかしまたある人たちは、魂(animus)とは息(anima)のことであると言っている。これは多くのローマ人の意見でもある。それはラテン語の単語を見れば分かる。例えば我々は、animam agere (死ぬ)と animam efflare(息を引き取る)や、animosos(元気な)、bene animatus(気のよい)、ex animi sententia (誠実な)などと言うからである。そもそも、animusという言葉はanimaから来ている。

 さらに、ストア派のゼノンは魂とは火であると言っている。

 

第十章 魂についてのその他の説

 

 さて、これまでに述べた説、つまり魂は心臓であるとか脳であるとか、息であるとか火であるとかいう説は一般によく知られているが、その他にも独自の考え方がある。

 ソクラテス(前五~四世紀)より前の哲学者たちの考え方がそうで、その次ではアリストクセノス(前四世紀)の説がそうである。この人は音楽家であると同時に哲学者でもあったのだが、彼は魂とは肉体自身のある種の緊張のことで、歌や弦楽のハーモニーと言われているものと似ていると言っている。様々な振動が、声楽における歌声と同様に、肉体全体の形と性質に応じて引き起こされると言うのである。19

 この人は音楽の枠から出ることはなかったが、彼の意見には一理あった。というのは、彼の説は本質的に、昔プラトンによって主張されて明らかにされたものと同じだからである。

 また、クセノクラテス(前四世紀)は、魂とは形のあるものではなく、いかなる種類の物質でもなく、一種の数であると言う。そして既にピタゴラスが言ったように、数は自然の中で最も大きな力を持っていると言っている。

 この人の師であるプラトン(前五~四世紀)は、魂は三つの部分から成っていると言っている。そのなかの中心的な存在である理性は頭にあると言っている。頭は町で言えば城塞にあたると考えたのである。そして、残りの二つの部分、つまり怒りと欲望はそれに従うべきものであると考えた。また、彼は怒りは胸にあり、欲望は横隔膜の下にあると言っている。20

 一方、ディカイアルコス(前四~三世紀)は、コリントを舞台にした討論を三巻の本にして出版したが、第一巻で討論に参加した大勢の学者たちの討論の様子を描いてから、残りの二巻で、プティア生まれのフェレクラテス(デウカリオンの子孫だとしている)いう老人に次のようなことを言わせている。

「魂などというものは全く存在せず、それは全く名前だけで中身の無いものである。animaliaやanimantes(生き物)という言葉も無意味である。人間であろうと動物であろうと、その中に魂とか命とかが存在することはない。我々が何かをしたり感じたりする力は、全て生きている肉体の中に均等に広がっているもので、肉体から切り離すことはできない。あるのは、自然の組み合わせによって動いたり感じたりするように形作られた一個の肉体だけで、それ以外には何も存在しないのである」21

 才能と勤勉さにおいてあらゆる人(プラトンは常に例外であるが)をはるかに越えているアリストテレス(前四世紀)は、あらゆるものは誰もが知っている四種類の要素(土、火、空気、水)から生まれるが、心は五番目の要素から生まれると言っている。

 というのは、考えたり、予想したり、教えたり、学んだり、何かを発見したり、非常に多くのことを記憶したり、愛したり、憎んだり、望んだり、恐れたり、苦しんだり、喜んだり、その他これに類した多くのことは、この四種類の要素の中のどこにも存在しないと考えたからである。そこで、彼は名前のない五番目の要素を導入したのである。また彼は、魂そのものは途切れのない永遠の動きであると考えて、新たにエンデレケイア(持続)と名付けた。22

 

第十一章 魂は生き残る、さもなければ死者には感覚がない

 

 もし言い忘れたことがないなら、魂についての様々な考え方はほぼ以上である。

 かの偉大なデモクリトスについては省略したい。彼は、軽くて丸い微粒子(=原子)が何らかの偶然で集まって魂が形作られるという考えを発表している。しかし、 彼の学派の考え方でいけば、原子の集まりで作れないものは何もないのである。23

 これらの意見のうちのどれが真実なのかは神様がご存知だろう。しかし、このうちのどれがもっとも真実らしいかを決めるのは、我々にとって大きな問題である。

 ところで、これらの考え方の優劣をここで決めるほうがよいかな。それとも話を本題に戻す方がよいだろうか。

 甲 私としては、できれば両方とも聞きたいところですが、二つをいっしょにするのは難しいでしょう。ですから、今の問題を論じなくても死の恐怖から自由になれるのなら、話を本題に戻しましょう。でも、魂に関する問題が明らかにならないかぎり死の恐怖からも解放されないのなら、今の話を続けて下さい。死の恐怖についてはあとでもいいと思います。

 乙 君がどうして欲しいかは想像がつくよ。私もその方が手っ取り早いと思う。なぜなら、理論的には、以上の説のうちのどれが正しいものであるかに関わらず、死は悪いものではなくむしろ善いものであるということは明らかにできるのだから。23

 つまり、もし魂が心臓や血液や脳のことならば、これらは肉体の一部だから、必ず肉体の他の部分とともに滅びてしまう。また、もし魂が息なら、おそらく空中に四散してしまうだろう。また、もし魂が火なら消えてしまうだろう。また、もしアリストクセノスの言うように、魂がハーモニーなら、無くなってしまうだろう。魂など存在しないと言うディカイアルコスについては何を言うべきだろうか。

 これらの考え方のいずれにおいても、死後のことは人間には何の関係もない。なぜなら、命といっしょに感覚も失われてしまうからである。そして、感覚のない者にとっては、生きていようが死んでいようが全く何の違いもないからである。

 ほかの人たちの意見の方が希望を与えてくれる。君の気に入るような言い方をすれば、魂は肉体から離れたのち、まるで自分の家に帰り着くように、空に至るかもしれないからだ。

 甲 それはその方がうれしいです。ですから、まずそれが事実であってほしいと思います。また、たとえそれが事実ではないとしても、それはそれで納得のいくように話して下さい。

 乙 君は私にいったい何を求めているのかね。私はプラトンよりもうまく話せるとでも思っているのか。魂について書いた彼の本(=『パイドン』)を読んで、よく勉 強したらどうだね。それで充分なはずだよ。

 甲 もちろん読みました。それも何度も繰り返して。でもどういうわけか、読んでいる間は、なるほどと思うのですが、本を置いて自分の頭で魂の不滅について考え始めると、途端に何がなんだか分からなくなってしまうのです。24

 乙 それはどういうことだね。魂は死後にも存在するか、死と同時に無くなってしまうかのどちらかであるかは、君も認めるのだろう。

 甲 それは認めます。

 乙 それで、もし存在すればどうなるのだい。

 甲 幸福になると思います。

 乙 逆に、無くなってしまったら。

 甲 もう存在しないのだから、不幸ではありません。ついさっき、あなたにそのように認めさせられてしまいましたからね。

 乙 では、君は死は悪いことだと思うと言ったのはなぜなのかね。それはどういう意味なのかね。魂が残っているのなら死は我々を幸福にするし、逆に魂が残っていなくても、我々は死によって感覚を失うから、不幸にはならないのだよ。25

 

第十二章 不滅の魂は天に昇る

 

 甲 では、ご面倒でなければ、まず魂が死後も存在するということが証明できるかどうかやってみて下さい。次に、この証明が難しくてうまく行かないときには、死には全く悪いことはないことを証明して下さい。

 というのは、感覚が無いのは悪いことではなくても、感覚を失うのは悪いことではないかと思うからです。

 乙 君が証明して欲しいと言っている考えについては、最高の権威ある学者たちの意見を利用することが出来る。そうすることは何についても常に非常に大切なことだ。特に、我々が頼りにする昔の人たちは、この世の始まりと祖先の神々に近いのだから、それだけ真実についても正しい知識を持っているはずだ。26

 エンニウスが「古代の人たち」と呼んだ昔の人たちはみんな次のような考え方をしていた。つまり、死んでも感覚はなくならず、命が肉体から去っても人間は破壊しつくされて完全に消滅してしまうわけではないと。

 このことは何よりも埋葬の儀式や神祇官の規則を見れば分かる。最高の知性を備えた人たちが、これらの決まりを金科玉条のごとくに守ろうとして、これを破るものに厳罰を科したのは、彼らの頭の中に、死は全てを破壊し尽くすものではなく、生命の移動であるかあるいは生活の変化であるという考えが根強く存在したからに違いない。

 そして、彼らは、人が死ぬと、名を成した男女は空のかなたに移り住み、それ以外の者たちは、地中に留まってずっと暮らしていると考えたのである。27

 このような考え方がローマ人にもあったために、エンニウスは伝統にしたがって「ロムルスは天にあって神々とともに暮らしている」と書き、ヘラクレスはギリシャ人の間だけでなくギリシャからローマ、さらにはオケアノス(大西洋)に至るまで、人間を助ける偉大な神になっ たと考えられているのである。

 同様にして、セメレの子リベル(バッカス)も神になったと見なされ、戦争でローマの勝利に貢献し、その勝利をローマに伝えたと言われている、トュンダレウスの二人の子(カストールとポリュックス)も神になったとされている。

 また、カドモスの娘イノが、ギリシャでは女神レウコテアと呼ばれ、ローマでは女神マトュータと呼ばれるようになったのも、同じような考えからである。要するに、このようにして、天は至る所もう人間で一杯になっているのである。28

 

第十三章 魂の不滅説と神の存在

 

 実際、試しに昔の記録を調べたり、ギリシャの作家の書いたものから古い記録を探してみれば、最高の神々とされている存在も、元はこれと同じ道をたどって天に昇ったことが分かるはずだ。ギリシャ人の書いたものに出てくる墓の持ち主のどれほど多くが神になっているか調べてみるといい。

 君は入信しているから、秘義の中にどんな伝承があるか思い出してみるといい。この考え方がどれほど広く普及しているか分かるはずだ。

 自然哲学の探求が始まったのはまだずっと先だから、昔の人たちは自然哲学など知るはずもなく、ただ人間の本性が発する警告から学んだことだけを信じていたので ある。彼らは、物の道理や因果関係が分からず、自分の目に写った姿、しかも特に夜中に見えたものにしばしば影響されて、命を失った者がまだ生きていると思い込むようになったのである。29

 さらにこの魂が不滅であるという考え方は、我々が神の存在を信じるようになったことの最も確実な理由として挙げることが出来ると思われる。実際、どれほど野蛮 な民族であろうと、どれほど乱暴者であろうと、神に対する信仰に染まらないものはないのである。

 ひねくれた性格のために神に関して間違った考えを持っている人が多くいるのは確かである。しかしながら、神の力や神秘な自然の力がこの世に存在することは、誰でも信じていることである。

 このような信仰は人々が話し合いや集会で決めたことでもなければ、制度や法律で作り出したことでもない。しかし、何についても、あらゆる民族が共通に持っている考え方こそは、人間の本性が定めた掟であるとみなすべきである。

 誰しも死ねばこの世の楽しみを奪われると思って身内の死を悲しむのである。もし魂が不滅だと思わないのなら、悲しみもなくなるはずである。

 人の死を悲しむのは自分がそれによって不便を被ったからではない。確かに誰もが悲しみや苦痛を感じはするが、人の死を悲しんだり人の死を悼んで泣いたりするのは、自分の愛した人間が人生の喜びを奪われ、それを感じていると思うからである。そして我々がそう思うのは、自然な感情であって、理性や学識を働かせたからではない。30

 

第十四章 自分の死後に対する関心

 

 魂の不滅に対する最も強力な証拠は、人間の本性が暗黙のうちに魂の不滅を信じていることである。というのは、誰もが自分の死後の出来事に対する関心をもっていて、しかもその関心が非常に大きいからである。

 カエキリウス・スタティウス(前二世紀の詩人)は、その『シュネフェービ(若い仲間たち)』という作品の中で、「次の世代の役に立つ木を植える」と言ったが、それは後の世代が自分に関係があると思ったからにほかならない。だからこそ、まじめな農夫は、自分が決して目にすることのない実を付ける木を植えるのである。

 同じ理由から、偉大な政治家は法や制度や政策を「植える」のではないだろうか。我々が子供をつくるのも、自分の名前の一部を子供に付けるのも、子供を養子にするのも、遺書を熱心に書くのも、墓を建てたり碑文を残すことさえも、まさに我々が未来のことを念頭に置いていることを意味してい る。31

 ところで、人間の本性の実例は、最も優れた本性から採用すべきだという点には君も異議はないだろう。多くの人間の本性のうちでも、自分自身のことを人類を助け、守り、保護するために生まれてきたと思っている人の本性ほど優れたものはない。

 例えばヘラクレスは神の座に昇ったが、彼が人間界にいたときに、自ら天界への道を築いていたからこそ神の座に登れたのである。ヘラクレスは時を経ても忘れられることなく、あらゆる人たちに崇拝されている一つの例である。

 

第十五章 死後の名声に対する願い

 

 この国のために死んだ多くの男たちは、何を考えながら死んだのだろう。人生の終わりが自分の名前の終わりであると考えていたのだろうか。 不滅の命に対する大きな希望を抱くことなく国のために命を捨てた者など一人もいないはずだ。32

 テミストクレスもエパミノンダスも、国の役に立たない静かな生き方を選べたのである。大昔の例や外国の例が悪ければ、この私とて同じことだ。しかし、どういうわけか、人間の心から、何世紀も先の事をおもんばかる気持ちは無くなりはしない。このような気持ちは最高の知性、最高の精神を持った者たちの心に特に存在し、またそのような者たちの心の中に最もよく現れる。そもそも、このような気持ちも無いのに、毎日危険にさらされ、苦労しなが ら生き続けるような人間がいれば、それは正気の人間ではないだろう。33

 このような気持ちを持つのは国の指導者たちだけではない。例えば詩人もまた死後の名声を夢見はしないだろうか。エンニウスが次の詩を書いたのはなぜだろう。

 「見よ、市民たちよ、年老いたエンニウスの像の姿を。
  彼は君たちの祖先の偉大な業績を歌にした」

 この詩でエンニウスは、自分が有名にした人たちの子供たちに対して、そのお返しを求めたのである。

 次の詩を書いたのもエンニウスである。

 「誰も私の死を悲しみの涙で飾るには及ばない。
  何故なら、私は人々の口から口へと語り継がれて生き続けるのだから」

 この思いは詩人にとどまらない。彫刻家もまた死後の名声を願う。そのため、フィディアスは、自分の似姿をミネルバの盾の中に彫り込んだ。そこに自分の名前を書くことは許されなかったからである。

 我が国の哲学者たちもまた、名声を軽視すべきであると書いた書物の中に、自分の名前を書き残している。34

 もしも全ての人に共通した考え方こそが人間の本性の声であり、もしもこの世を去った人たちのものがこの世に存在するというのが世界の人たちの共通した考え方なら、私もまたその考えを認めるべきである。

 また、才能や徳性において抜きんでた魂の持ち主は、優れた本性をもっているために、人間の本性のもつ力を最もよく認識できると仮定すると、死んだあとでもその人の感覚は失われることなく、それによって認識できるような何かがこの世に存在するというのは、大いにありうる(=真実らしい)ことである。なぜなら、優れた人間ほど後の世代の役に立とうとするからである。35

 

第十六章 地獄の虚妄と魂の永遠性

 

 ところで、我々は神の存在を本能的に信じるだけでなく、それがどのようなものであるかも理性によって知っている。それと同じように、我々は世界中の人たちの意見の一致に基づいて、死後における魂の存在を認めるのであれば、次は、それがどのようなものであり、どこにあるのかを理性によって学ばねばならない。

 我々はこれらのことがよく分からないために、地獄とか、あのおどろおどろしい物たちを考え出したのである。こういったものを先程君は馬鹿にしているようだったが、それは間違ってはいない。

 人々は、肉体が地面の中に入れられ土で埋められた後(だから埋葬という)、地面の下で死者として残りの人生を送ると考えてきた。人々のこのような考え方から、大きな誤解が生まれたのであり、その誤解を助長したのが詩人たちである。36

 劇場に集まった観客は女も子供も含めて、次のような荘厳な歌を聞いて心を動かされる。

 「私は険しい道をたどってようやく地獄から帰ってきた。
  その道は尖った岩だらけの洞窟の中にあり、上からも大きな岩が迫ってくる。
  その中は、情け容赦のない分厚い地獄の闇にとざされている」

 このような誤解から私はもう解放されているが、この誤った考え方は広く普及しており、死ねば肉体は焼かれることを知っているのに、肉体が無くては到底起こりえないし、肉体なしには考えられないようなことが、死者たちの身に起こるかのように想像するのである。

 なぜなら、人々は、魂だけが単独で生き続けるとはとても想像できないので、魂の形や姿を考え出したからである。『オデュッセウス』のネキュイアの巻(=第十一巻黄泉路下り)や、私の友人のアッピウスの『ネキュオマンテイア(交霊術)』という本は、こうして生まれたのである。また、この近くにアヴェルヌス湖があって、そこでは、

 「魂が、暗い陰をともなって、深き地獄の開かれた入口から、
  偽りの血に誘われて、呼び起こされる、死者の姿をして」

のである。

 詩人たちは、形を持ったこの魂たちにしゃべらせようとした。しかし、しゃべるためには舌と上あごがいるし、形のある喉と胸と肺の働きが不可欠である。こうして、彼らは頭では想像できないことを、全部目に見える形にしたのである。37

 ところが、感覚と理性をはっきり区別して、習慣で物を考えることをやめるためには、類いまれなる知性が必要である。

 これまでの長い年月のなかには数えきれない人間がいたはずだが、文字の形で残っている限りにおいては、人間の魂が永遠であるという教えを明確に主張したのは、シロス島のフェレクュデス(前六世紀の哲学者)が初めてだったと思う。この人はかなり昔の人で、私と同じ氏に属するセルヴィウス・トゥッリウスがローマ王だった時代の人である。

 この考えを最高に発展させたのは、彼の弟子ピタゴラスだった。ピタゴラスはローマを傲慢王が支配していた時代にイタリアにやって来た。そして、マグナ・グラエキア(=南イタリア)に教義を広めて、人々の尊敬を集めた。

 その後何世紀にもわたってピタゴラス派の名前は隆盛を極めたので、学者といえば彼らのことだと思われるほどになっている。

 

第十七章 人の死後魂は空に昇る

 

 話を昔のピタゴラス派に戻すと、彼らは自分たちの考えを算術と幾何学で説明できる範囲でしか証明しなかった。38

 しかし、プラトンはピタゴラス派の人たちに会うためにイタリアに来て、彼らの学説をすべて学んだ。そして、彼は魂の永続性についてのピタゴラスの考えを受け入れると、魂が永続することを初めて理論的に証明した、と言われている。

 しかし、この理論の説明は、君に異議が無ければ、ここでは省略することにしよう。そして、この不滅に対する希望に関する話はここでは触れずにおくことにしたい。

 甲 一番期待が高まった所に来ておいて、急にお終いですか。私はあなたの話を聞いてプラトンを尊敬するようになったのですから、あなたがプラトンをどれだけ高く評価しているかは知っています。ですから、私は別の人たちの真実に共鳴するよりも、むしろプラトンと一緒に間違いを犯す方を選びますよ。39

 乙 それは立派な心掛けだ。この私もプラトン先生とご一緒なら喜んで間違いを犯すつもりだ。

 それでは、まず次のことは確実である。それとも、この場合も他の多くの場合と同じように、疑ってかかるべきだろうか。いや、やはり、次の数学者たちの考えは正しいと思う

 それは、この大地は世界の真ん中にあって、まわりを取り巻く宇宙と比較すれば、点(彼らはこれをケントロン「針」と呼んでいる)ほどの大きさしか持たないということである。

 つぎに、万物を生み出す四つの要素の性質は、次のごとくである。それらはまるで互いに分離したかのように別々の動きをする。土と湿り気は、それ自身の重さと傾向にしたがって、まっすぐ陸地と海に向かって運ばれていく。この二つの要素がその重さのために世界の中心に向かって運ばれていくのに対して、残りの二つの要素である火と空気は、逆に天の領域に向かってまっすぐ上昇する。それは、火と空気が上に向かう性質を持っているためか、あるいは本質的に軽いために、重いものに跳ね飛ばされるためかである。

 以上のことが確かならば、魂が肉体を離れた後、魂が空気のようなもの、つまり息から成り立っているか、あるいは火から成り立っているなら、空へ上昇するのは明らかである。40

 一方、魂はある数であるという説は、どちらかと言うと分かりにくい説である。また、魂が五番目の要素であるという説(=上記22節のアリストテレスの説)では、この要素は説明されてはいるが具体的な名前は付けられていない。しかし、もし魂が数であるか五番目の要素であるなら、魂は遥かに純粋で混じりけが無いために、地面から最も遠くまで運ばれることだろう。

 魂とはきっとこれらのうちのどれかである。これほど活発な人間の心が、心臓や脳みそで、あるいはエンペドクレスの言うように、血液の中に浸って、じっとしているはずがないからである。

 

第十八章 魂は熱い空気である

 

 同じ学派(=逍遥学派)で同じ時代の人であるディカイアルコスとアリストクセノスについてはここでは触れないことにする。

 確かに彼らは立派な学者であるが、ディカイアルコスは自分には魂がないと思っても痛くもかゆくもないらしい。また、アリストクセノスは歌があまりに好きで、歌をこの問題に持ち込んだだけのことだ。

 ハーモニーは音と音の間のへだたり、すなわち音程によって作られることぐらいは、我々でも分かる。その音程の様々な組み合わせで、いろいろなハーモニーが生まれるのである。しかし、手足の位置や体の形だけで、それとは別に魂の存在が無くて、どうしてハーモニーが生まれるのか、私には分からない。

 確かに、アリストクセノスは学識豊かな人だったが、この問題はアリストテレスに任せて、自分は音楽だけを教えていればよかったのである。次のギリシャのことわざが教えていることは正しい。

 「人はそれぞれ自分がよく知っている分野で精を出すが良い」41

 また、魂が離れ離れの軽くて丸い物体の衝突から生まれるという説は、まったく受け入れることが出来ない。ところが、デモクリトスはこの衝突が、熱を持った息となって、命を持つと主張するのである。

 一方、もし魂が、全てのものを生み出すと言われている四つの要素だけから生まれるのなら、魂は熱い空気によって形作られていることになる。パナエティウスが最も推奨する説はこれだと思われる。そしてもしこの通りだと、魂は必然的に常に上昇しようとする。なぜなら、火と空気という二つの要素は下向きのものを何も持たないため、常に上に向かおうとするからである。

 この場合、魂がたとえばらばらになって消えてしまうとしても、それは大地からかなり離れたところで起こることになる。また、魂が永続して、本来の状態を維持し続ける場合は、なおさら必然的に魂は空に昇っていくことになる。

 その際魂は、大地に最も近いところにぎっしり詰まった分厚い大気をかき分けて打ち破っていく。なぜなら、今言ったこのぎっしり詰まった分厚い大気よりも、魂の方が温度が高く、いわば熱く燃えているからである。このことは、土の元素から作られた我々の肉体が魂の熱で熱くなることからも分かる。42

 

第十九章 魂が星になったときの喜び

 

 また、魂よりも速いものがないために、魂は私が何度も言及している大気を打ち破ってそこから抜け出ることがさらに容易となっている。魂と競える速 さを持つものは何も無いのである。

 大空には地面の蒸気と湿気のために雲と雨と風が集まっているが、もし魂が少しも変質せず、いつまでも自己の本質を保ち続けるなら、必ずや大空を突き抜けて、それを二つに引き裂いて行くことだろう。

 そして、魂がこの領域を越えて、自分に似た本質に出会ってそれを識別したとき、上昇することをやめて、薄い空気と弱まった太陽の熱からできた火の上にとどまる。

 というのは、魂は自分に似た軽さと温かさに到達したとき、まるで重力のバランスを得たかのようにぴたりと動きをやめるからである。そして、自分に似た環境に到達したとき、その場所は、魂にとって自分自身の本質にふさわしい最後の居場所となるのである。そこにいれば魂は何の不足もなく、星が生きる糧としているものと同じものを栄養にして生きていくのである。43

 我々のほとんど全ての欲望は、肉体の火によって燃え上がるものである。特に自分が持っていないものを持っている人に対して嫉妬を抱くときに熱くなる。したがって、肉体を捨てて欲望と嫉妬から解放されたとき、我々は必ず幸福になれるのである。

 今やこのようにして悩み事から解放された我々は、何かをよく見て観察しようとして何をするにしても、それを以前よりも自由に行なえ、物事の観察に自分自身の全てを打ち込むことが出来る。なぜなら、人間の心にはもともと真実の探求に対する飽くことなき欲望があるからである。また、我々が到達する天上の世界から見るとき、天の出来事に対する理解ははるかに容易になり、それだけ我々の理解欲も増大するだろう。44

 なぜなら、地上から見た天上の世界の美しさによって、テオフラストスのいう「父と祖父から受け継いだ」哲学は生まれて、知識に対する人類の欲望に火がついたから である。しかし、何と言っても、この美しさを享受できるのは、地上にいて暗黒の世界に包まれていたときから、すでに心の目でこの闇の向こうを見ようと熱望していた人たちである。 

 

第二十章 天からの眺めの素晴らしさ

 

 我々は、黒海の入り口を見てきたとか、

 「かつて選ばれしギリシャの男たちが乗ったアルゴ号が、
  金色の羊の毛を探すために通過した」

と歌われた海峡を見たとか、

 「飽くことを知らぬ波がヨーロッパとアフリカを引き裂いている」

オケアノスの海を見たとかいうだけで、大変なことを成し遂げたと思っているのである。

 その我々が、天上の世界から大地の全体の姿を眺めたり、大地の場所と形とその周囲を見たり、人間が住んでいる地域と、その逆に暑さや寒さのために人が住んでいない地域の両方を眺めたりすることができるようになったとき、その眺めは我々にとって何と素晴らしいものだろうか。45

 ところで、我々は地上にいるときから、ものを見るときに厳密にいえばけっして目で見ているのではない。肉体そのものには知覚力はないからである。自然学者だけでなく、肉体の内部を開いて観察している医学者もまた教えているように、魂のある場所と目と耳と鼻は管でつながっているのである。

 だから、我々は、たとえ目や耳がちゃんと開いていても、考え事をしたり、病気で具合が悪かったりすると、見ることも聞くことも出来ない。このことから容易に分かるように、実際に見たり聞いたりしているのは、いわば魂の窓として存在するそのような肉体の一部ではなく、魂なのである。心がぼんやりしていたり機能していなかったら、心はこれらの窓によっては何も感じることは出来ないのである。

 しかも、一つの心で、色や味や熱や匂いや音などの異なるものが認識できるのである。心がこれらの情報を五つの器官をつうじて認識できるのも、これらの情報の全てが心に伝えられて、心だけがこれらについて判断を下すからである。そして、自由になった魂が本来の住み処に到達したあかつきには、これらの情報をはるかに純粋で明瞭な形で把握できるようになることは間違いない。46

 なぜなら、先ほど述べた肉体と魂をつないでいる管は、自然の力で精巧に作られているとしても、土の要素からなる肉体に周りをぎっしりと取り囲まれているからである。しかし、もはや魂以外に何もなくなれば、魂の邪魔をするものは何もなくなるから、魂はあらゆるものの本質をよりよく理解できるようになるのである。

 

第二十一章 エピクロス派批判

 

 魂が天界に昇ったときに手に入れる眺めのすばらしさ豊かさ多様さについて、必要があれば、私はいくらでも話すことができる。47

 しかし、この眺めについて考えるとき、私はいつも一部の哲学者たちの行き過ぎたやり方には驚かされる。彼らは自然学を賞賛して、この発見者であり創設者である人物(=エピクロス)に感謝をささげ、感激のあまりにその人物を神とあがめているのである。

 彼らはこの人物のおかげで、永久に続く恐怖から解き放たれ、昼も夜も付きまとう不安という残虐な支配者から自由になったと言っている。

 しかし、彼らが言う不安や恐怖とは「地底深き三途の川の岸辺、青ざめた亡霊たちと暗闇に包まれた地面」に対するものなのである。だが、どんなにもうろくした婆 さんでも、そんなものを恐がるほど馬鹿ではない。もっとも、君たちもきっと、自然哲学を学ばなかったら、恐がるかもしれないがね。

 こんなものが恐くなくなったからとか、これらがでたらめだと知ったからといって自慢するのは、哲学者として恥ずべきことではないだろうか。むしろ、ここから彼らの生来の知力の程度が分かるというものである。彼らは学問をするまえはこんなことを信じていたからである。48

 しかし、彼らは、死ぬときが来れば自分たちの存在が全て消滅してしまうことを学んだことで、何か立派なものを手に入れたのである。私はこの意見の真偽を争うつもりはないが、たとえその通りだとしても、それがどうして喜びであり誇りであるのだろう。

 それにしても、どうしてピタゴラスやプラトンの考えが間違っているのか、私には全く分からない。私がプラトンをどれほど尊敬しているか考えて欲しい。たとえ彼が自分の説を証明しなかったとしても、私が彼の権威の前に膝を屈したことは想像がつくだろう。ところが実際に彼はあれだけ多くの証拠を示しているのであるから、彼が自分の説を人に信じさせようとしただけでなく、自分でも信じていたことは明らかである。49

 

第二十二章 魂の姿を知ること

 

 ところが、たいていの哲学者は彼の説に反対しているのである。そして、まるで魂を重罪人のように死刑にするのである。ところが、彼らが魂の永続性を信じられない理由というのが、肉体を失った後の魂の姿がどんなものか理解も想像もできないから、というだけなのである。

 しかし、彼らは魂が肉体の中にいる時なら、魂の姿が想像できるとでも言うのだろうか。魂がどのような形をして、どれほどの大きさで、体のどこにあるのか、彼らは知っているのだろうか。たとえば、生きた人間の皮膚に覆われた体の中身が全て見えるとしたら、魂の姿は人間の目に見えるのだろうか、それとも小さすぎて見えないのだろう か。50

 肉体のない魂など考えられないと言う人たちはこのことをよく考えてみればいい。そうすれば、自分たちが肉体の中にどんなものがあると思っているかが分かるはずだ。

 私が魂の本質を考えるとしても、魂が肉体から出て自由な天界に到着して、いわば自分の家にいるときの姿よりも、魂が肉体の中にあって、いわば他人の家にいるときの姿の方が、はるかに想像しにくく、理解が難しい。というのは、我々は、たとえ自分で見たことのないものの性質が理解できなくても、神そのものや肉体から分離した神聖な魂の姿は想像することは出来るからである。

 確かにディカイアルコスやアリストクセノスは、魂が何でありどのようなものであるか理解が困難であるという理由で、魂の存在そのものを否定している。51

 しかし、魂自身によって魂を観察することは非常に重要なことである。「汝自身を知れ」というアポロンの格言は、まさにそのことを意味しているに違いない。というのは、私には、この格言が、我々に対して自分の体の形や大きさを知れと言っているとは思えないからである。

 我々自身とは、我々の肉体のことではない。私は今こうして君に話しているが、それは君の肉体に向かって話しているのではない。だから、あの格言が「汝自身を知れ」と言ったとき、それは「汝の魂を知れ」と言っているのである。なぜなら、肉体は魂の入れ物か、あるいは一種の避難所でしかないからである。だから、君の魂がしたことは、すなわち君がしたことなのである。

 また、魂を知るということは神にふさわしい行為である。さもなければ、人並みはずれた知性の持ち主が作ったこの格言が、神のものとされることはなかったはずだ。52

 しかし、たとえ魂自身が魂の本質を知らなくても、魂は少なくとも自分の存在やそれが動いていることぐらいは知っているのではないだろうか。君もそう思うだろう。実はプラトンのあの証明はここから生まれたのだ。それは『ファイドロス』の中でソクラテスによって語られている。次の文章は、私の『国家について』の第六巻ですでに引用したものである。

 

第二十三章 プラトンの証明

 

 「永久に動いているものは永久の存在である。しかし、ほかのものを動かしたりほかのものに動かされたりしているものは、その動きをやめるときに、必然的に生きることをやめる。ただ自分自身を動かしているものだけは、けっして動くことをやめない。自分が自分自身によって見捨てられることはないからである。それどころか、自分自身を動かしているものは、動いているほかのものの動力源となったり、ほかのものの動きの始まりとなる。53

 「始まりとは、それ以上先へはさかのぼれない点である。なぜなら、全てのものは始まりから出発するのに対して、始まりは他のものから生まれることはありえないからである。というのは、他のものから生まれたものは始まりではないからである。

 「そして、もしそれが生まれてきた存在でないとすれば、それはけっして消滅することのない存在でもある。なぜなら、始まりが消滅してしまえば、始まり自身がほかのものからもう一度生まれてくることは出来ないし、自分自身からもう一つの始まりを生みだすことも出来なくなってしまうからである。全てのものは必ず始まりから生まれてくるからである。

 「つまり、自分自身を動かしているものが、動きの始まりなのである。それは生まれることも死ぬこともない。さもなければ、きっと全宇宙は崩壊し全生物は動きをやめ、最初の動力源となる力に二度と出会うことがないだろう。

 「そして、自分自身を動かしているものが永遠の存在であることが明らかになったいま、この性質が魂にあることを否定する人がいるだろうか。

 「なぜなら、魂を持っていないものは外からの力によって動いているのに、魂を持っているものは自分の内側にある自分自身の力によって動いているからである。これは魂が本来持っている本質であり能力である。そして、魂の本質が自分で動いていることに他ならないのなら、確かに魂の本質は生まれてきたものではなく、永のものであるということになる」54

 有象無象の哲学者たち(プラトンとソクラテスと彼らの学派に反対する哲学者たちはこのように呼ぶのがふさわしい)が全員束になっても、こんなにすばらしい文章は一行も書けないだろうし、そもそもこの証明の正しさが分からないだろう。

 魂は自分が動いていることは知っていると私はさっき言ったが、魂がこのことを知っているとき、同時に次のこと、つまり、自分は他人の力ではなく自分の力で動いており、自分が自分自身に見捨てられることはないことを知っているのである。そして、ここから魂は永遠だということになるのである。君は、この考え方について何か言うことがありますか。

 甲 さいわい私には何の異論もありません。私はその説に賛成です。55

 

第二十四章 魂のもつ豊かな記憶力

 

 乙 つぎに、人間の魂には何か神的なものがあることを示す様々な能力について考えてみよう。これも、魂の不滅と同じ位に重要な問題である。そして、これらの能力がどのようにして生まれるのかが分かったなら、それがどのように消滅するのかも分かるだろう。

 たとえば、血液や胆汁や痰や骨や筋や血管などの体の部分と体全体の形についてならどれでも、それが何から作られ、どのようにして生まれたか私は言えると思う。

 一方、魂についてはどうだろう。もし、それが我々に命を与えるだけものだとしたら、人間の命もブドウや一般の木の命も本質的に同じものだということになるだろう。これらのものにも生命はあるからである。

 また、もし人間の魂には、追いかけるか逃げるか以外に何の能力もないとしたら、人間の魂は動物の魂と同じものだということになるだろう。56

 ところが、第一に、人間の魂には記憶力がある。しかもそれは無限の事実を記憶できる。

 これをプラトンは前世の記憶であると主張している。『メノン』と題する彼の書物の中で、ソクラテスはある少年に幾何学の正方形の面積の計り方について質問する。それに対して少年はいかにも子供らしい受け答えをする。しかし、質問がやさしいので、それに答えていくうちに、少年は徐々に幾何学を知っているのと同じ答えに到達するのである。このことからソクラテスは、学ぶということはまさに思い出すことであるということを証明しようとした。

 ソクラテスはこの考え方を、この世から去る日に行なった対話(=『パイドン』)の中で、もっと詳しく説明している。そこで彼は、全く何も知らないと思われる人でも、上手に質問すれば正しい答えに達するのは、新しいことを学んだからではなく、記憶を取り戻して認識しなおしたからだ、と言うのである。

 そして、我々が子供のころからそれほど大量の知識を、概念つまりエンノイアとして、最初から心に書き込まれていたかのように持っているのは、魂が肉体に入る前から活発に知識を獲得していたからにほかならない、と彼は言う。57

 プラトンが至る所で言っているように、この世には存在しているものは何もない。つまり、生まれたり死んだりするものは存在していず、永遠に同じ状態を保つもの(彼はそれをイデアと呼び、我々は観念と呼んでいる)だけが存在している。

 したがって、魂は肉体の中に入ってからはイデアを知ることはできない。だから、魂はイデアの知識をこの世に持ってくるのである。

 このことが理解できれば、人間が非常にたくさんのことを初めから知っていることを驚くことはなくなるだろう。

 しかし、魂は、突然混乱した不慣れな家にやって来るので、イデアがよく分からない。やがて、魂が自分を取り戻して本来の能力を回復してきたときに、記憶を取り戻してイデアが分かるようになる。こうして、学ぶということはまさに思い出すことだと言えるのである。58

 しかし、私が記憶の素晴らしさについて言いたいことはこれだけではない。

 我々は記憶をどのように行なっているのか、記憶にはどんな力があるのか。記憶はどこから生まれてくるのか、実に不思議なのである。

 私が言っているのは、伝説のシモニデスがどのような記憶力を持っていたかということではない。また、弁論家テオデクテス(前四世紀)や、ピュロス王(前三世紀)がローマの元老院に送った使節のキネアスや、最近の例では、亡くなったばかりのスケプシスの哲学者メトロドロスやローマの弁論家ホルテンシウスが卓越した記憶力を持っていたことで有名だが、私が言っているのはこのような人たちが持っていた記憶力のことではない。

 普通の人たち、なかでも特に高度な仕事に携わっている人たちのごく当たり前の記憶力のことを言っているのである。なぜなら、彼らは思いがけないほど豊かな記憶力をもっていて、非常に多くのことを覚えているからである。59

 

第二十五章 魂にそなわる神的な力

 

 私が言いたいことはこうである。それは、記憶力とはどんな能力で、それがどこから生まれてくるのかを明らかにすべきだということである。

 これが心臓や血液や脳や原子の持つ能力でないことは確かである。これが息の能力であるのか火の能力であるのか私は分からない。私はほかの哲学者と同じく、分からないことを分からないと言うのは恥とは思わない。

 ただこれだけは言える。この難しい問題について、ほかに何か私が言えるとすれば、それは、魂が火であろうと息であろうと、それは神の性質を持って いるに違いないということである。

 考えてもみてくれ。この薄暗い雲に包まれた大地から、これほど大きな記憶力が生まれたり、作り出されたりするなど考えられるだろうか。

 記憶力が何であるかは分からなくても、どのようなものであるかは君にも分かるだろう。いやそれさえ分からなくても、記憶力がどれほど大きいかは分かるだろう。60

 すると、記憶とは魂の中の何か広い場所のことだと考えるべきだろうか。我々は記憶したものを入れ物に入れるようにそこに注ぎ込むのだろうか。しかし、これは実に馬鹿げた考えである。

 なぜなら、その入れ物の底はどうなっているか、そのような魂はいったいどんな形をしているか、その場所はどんな大きさか、などがまったく想像できないからである。

 では、魂は蝋板のように書き込めるもので、記憶とは心の中に書き込んだものの跡だと考えるべきなのだろうか。その場合、心の中の言葉や事実の跡とはどんなものだろう。さらには、これほど多くのことを表せるほどの広い場所とはどんな場所だろうか。61

 また、隠れたものを発見する力、探求心とか創造力とか呼ばれるものは、いったい何だろう。それはこの土からなっている死すべき、移ろいやすい物質から作り出されたものだと君には思えるだろうか。

 あるいは、ピタゴラスが最高の知性の仕事だと言った、全てのものに名前をつけた人間はどうだろう。ばらばらの人間を集めて社会を作るために彼らを結びつけた人間、人の歌声に含まれる無限とも思われる音を少しの文字で定義した人間、空をさまよう星の進路の前進と停止を記録した人間はどうだろう。

 偉大な人間はこれだけではない。

 さらにさかのぼれば、農作物や衣服や住みか、規律ある生活、野獣から身を守る方法などをあみ出した人たちがいる。彼らのおかげで人類は野蛮な暮らしから脱して、知識を身に付け、必要最低限の技術から高度な文明を発展させることが出来たのである。

 たとえば、音の性質と多様性を発見して組み合わせた人は、我々に音楽を聞く大きな喜びを与えた。

 また、我々は空を見上げて、決まった場所に固定されている星や、所謂さまよえる星たち(実際はそうではない)を眺めてきたが、星の回転とあらゆる星の動きを理解した人は、天界の星たちの創造者と同じ魂を持っていることを示した。62

 アルキメデスが太陽と月と五つのさまよえる星たち(惑星)を天球儀の上に付け加えたとき、彼は、プラトンの『ティマエオス』の中で、神が天をつくって速かったり遅かったりとばらばらに動いている星たちを一つの回転のもとに制御させたのと同じことをしたのである。

 もしこの天の動きが神なしには起こりえないとすれば、アルキメデスがこれと同じ動きを天球儀に模倣したことは、彼に神の能力が無ければ不可能だったはずだ。

 

第二十六章 哲学は神の贈り物 

 

 これよりも一般的でよく知られたものでも神の力なしには不可能だと思われるものがある。例えば、詩人は天界とのつながりのある霊感なしにあの重々しく豊かな歌を歌うことは不可能だし、弁論家の口から響きの良い言葉と有益な考えに満ちた演説が流れ出るのも、人間を超えた高度な力が無くては不可能である。

 さらに、あらゆる学芸の源である哲学は、プラトンによればまさに神の贈り物、私の考えでは神が作り出したものである。哲学のおかげで我々は初めて神を敬うことを学び、人間社会の基礎となる法律を作ることを学んだ。また、魂を正しい方向に導き成長させたのは哲学だった。

 哲学は目の前の闇を払うように、心の闇を取り去った。そのおかげで、我々は、上も下も初めも終わりも真ん中も、全て見ることが出来るようになった。

 要するに、これだけ多くの、これだけ大変なことを成し遂げることができるようになったのは、神的な力のおかげである。

 物事の記憶、言葉の記憶も同じである。創造力もまた同じである。この創造力というものは、神の中においてさえもこれ以上価値のあるものを見いだし得ないようなものである。

 私が今言っている神とは、アムブロシアやネクターを楽しみ、酒を注いで回るへーべーをかわいがる連中のことではない。私は、美しいガニュメデスがゼウスに御酌をさせるために神々によってさらわれたと歌うホーマーを信じてはいない。父親のラオメドンがこんなひどい目に会わねばならない正当な理由はどこにもない。ホーマーはこのような人間くさい行動を創造して神々の世界に持ち込んだ。しかし私は、むしろ彼が神的なものを人間の世界に持ち込んでくれたほうがよかったと思う。

 神的なものとは何か。それは活力、知力、創造力、記憶力である。私はここまで魂とは神的なものであると言ってきたが、エウリピデスは魂は神そのものだとまで言っている。

 また、もし、神が空気や火であるなら、人間の魂もまたそれと同じだろうと私は思う。というのは、神の本質が天に属するものであり、土や湿気を含まないなら、人間の魂もまたこの二つのものを含まないはずだ。しかし、もしアリストテレスが初めて導入した五番目の要素が実際に存在するなら、それは神にも人間の魂にも共通のものであろう。

 こうした考えをすでに私は『慰め』という書物の中で次のように書いた。65

 

第二十七章 魂の源は神にある

 

 「魂の源は地上に見いだすことは出来ない。魂の中には何かを混ぜ合わせたり組み合わせたりして出来たものは何一つ含まれていない。また、魂は土から生まれたり作られたりしたものは何も含んでいない。さらに、湿り気のようなものも、空気のようなものも、火のようなものも含んではいない。なぜなら、こうした性質のものの中には、記憶力や決断力や思考力を含んでいるもの、過去のことを忘れず未来のことを予想し現在を理解するようなものは何もないからである。

 「それらは神的なもの以外のなにものでもない。それらが神以外のところから人間のもとにやってきたとは考えられない。そのために、魂の性質や力は、土や湿り気のようなどこにでもある要素とは違った特別なものなのである。何かを意識したり、何かを知ったり、生きたり、活動したりするもの、それらは何であろうと、天とつながりのある神的なものであり、それゆえに必然的に永遠の存在である。

 「私が考える神とは、まさに一個の自由な精神である。あらゆる物質的なものから解き放たれ、あらゆる死すべきものたちの束縛を受けない精神である。それは、全てを感じ、全てを動かし、永遠の動きを自らのうちに備えた、一個の精神である。それ以外のものであるとはどうしても考えられない。そして人間の精神も、これと同じ特徴、同じ性質をもっているのである」66

 では、精神はどこにあって、どんな形をしたものなのだろう。うむ、君の精神はどこにあって、どんな形をしているかね。君は分からないだろう。私もよく分からない。だが、分かりたいことが何もかも分かっていなければ、分かっていることについて話すことも許されないとは、君も言わないだろう。

 魂は自分自身を見る力はないのだ。目と同じように魂は自分自身は見えないがそれ以外のものはよく見える。魂は自分の姿を知らないが、それはたいして重要なことではない(いや、見ることは出来るかも知れないが、大した問題ではない)。魂が自分の力、知恵、記憶、動作、素早さを知っていることは確かである。これらのものは偉大であり、神的であり、永遠である。それが、どんな形でどこにあるかは、知る必要がない。67

 

第二十八章 神の存在を証明するもの

 

 まず空の美しい姿、その空は想像できないほどの速さで回転している。次に、昼と夜の交代、四つに別れた季節の変遷、それが作物の実りと肉体の健康に適していること、これら全てを調整し導いていく太陽、光の満ち欠けによって暦の日付を教えてくれる月、そして、十二の部分に分かれた一つの軌道上に五つの惑星が回り、それぞれが別々の動きをしながら同じコースをきちんと守っている様子、星がちりばめられた夜空の美しさ、そして、海から昇って宇宙の真ん中で止まる地球。

 地球には遠く離れた二つの地域に別れて、人々が住みついて耕作している。我々が住むその片方は

 「北斗七星の下にあって、そこから
  北風が音を立てながら凍りついた雪を運んでくる」、

 もう一方は我々の知らない南側にあって、ギリシャ人によってアンティクトンと呼ばれている。68

 それ以外の、人の住まない地域は、冷気で凍りつい ているか、熱風で燃え上がっている。

 しかし、我々が住むこの場所では、時が来れば、必ずや

 「空は輝き、木々は葉をつけ、
  喜びをもたらすブドウの木は蔓に覆われ、
  木々の枝は豊かな実りで曲がり、
  穀物は実りをつけ、全てのものが花を咲かせ、
  泉が泡立ち、牧場は草で覆われる」。

 そして、人間の食物になり、耕作を手伝い、運搬に役立ち、衣服の材料を提供する数知れぬ家畜たちの群。そして最後に、空を観察し、神を敬い、全ての野と海を支配する人間という存在。69

 これらやそのほかの無数のものを目の当たりにするとき、我々は、それらの上には何らかの存在があることを疑うことが出来るだろうか。これらのものがプラトンの言うように「生まれてきたもの」ならば、この存在はそれらの創造者であり、アリストテレスの言うように、「常に存在してきたもの」ならば、それはこの巨大な世界の営みの支配者である。

 人間の精神もこれと同じである。それが君の目に見えないのは、神が君の目に見えないのと同じなのだ。しかし、君は、神の行なった仕事から神の存在を知るように、精神に備わった記憶力や創造力や動きの素早さ、美徳のもつあらゆる美しさから、精神のもつ神的な力を知ることが出来るのだ。

 

第二十九章 魂の本質

 

 それでは、精神(=魂)はいったいどこにあるのだろうか。私は頭の中にあると思っている。なぜそう思うか説明することも出来る。しかし、魂の場所を論ずるのは別の機会にしたい。

 確かに君の中にも魂はある。その本質はなんだろう。それは独特のものであると思う。しかし、それが火のようなものであろうと、空気のようなものであろうと、それは我々にはどうでもよいことである。

 ただ、これだけは知っておいてもらいたい。君は神の居場所も形も知らなくても、神の存在を知っているだろう。それと同じように、たとえ君が自分の魂の場所と形を知らなくても、君は自分の魂のことを必ず知ることが出来るのだ。70

 しかし、魂のことを考えるとき、魂には混ざり合ったものも、組み立てたられたものも、結びついたものも、くっついたものも、二重になっているものも含まれていないことは、自然哲学に無知でない限り、疑いようがない。

 したがって、魂は、切断されることも、分割されることも、引きちぎられることも、引き裂かれることもなく、したがって、けっして滅びることがないものであ る。なぜなら、滅びるとは、いわば、それまで結びついて維持されていた部分が分離し、引き裂かれ、分解することだからである。

 このような考えを信じていたソクラテスは、自分が死罪に問われた裁判で、弁護士を要求せず、陪審員に命乞いもせず、何事にもとらわれない断固たる態度をとり続けた。それは彼の偉大さを示すもので、彼の傲慢さを示すものではない。

 ソクラテスは人生の最後の日に、魂の問題を詳しく論じた。彼はその数日前に容易に脱獄できる時にも逃げ出そうとはせず、死ぬための毒杯を手渡される時を目前にしながら話したのだが、その話しぶりは、これから殺される人のものではなく、これから天に昇る人のものだった。71

 

第三十章 哲学は死への準備である

 

 そしてソクラテスは自分が信じていたことを、次のように話した。

 「魂が肉体から離れる道は二つあるんだ。一つの道は、悪徳にその身を汚して、全身欲情の虜になり、分別を失い、個人的な悪癖にふけり、国に害をなして、許されない罪を背負った者たちのために開かれている道で、神々の世界からは遠く離れた道でもある。

 「一方、その身を汚れなく清潔に保って、肉体との関わりを最小限にとどめ、常に自分自身を肉体から切り離して、人間の肉体の中にありながらも神の生活を真似ていた者たちには、かつて別れてきた神々の元にたやすく戻れる道が開かれている」72

 さらにソクラテスはこう言った。

 「白鳥が神アポロンの鳥と言われているのは理由の無いことではない。白鳥は、アポロンから予言の力を授かっているからなのだ。その力で、白鳥は死後の世界にどんなによいことが待っているかを予知する。だから、白鳥は歌をうたいながら、喜んで死んでいくのだ。学問を積んだ立派な人たちは死に臨んで、みんなこの白鳥のように振る舞うべきである」

 彼の話の正しさを誰も疑うことは出来ないだろう。

 ただし、沈み行く太陽を強く見つめた人がしばしば一時的に視力を失うのと同じことが、魂について事細かく考える我々に起こることがある。精神のまなざしは、自分自身を見つめているうちに、しばしばその視力を損うことがあるからだ。そのために、我々は細心な考察を続けられなくなってしまう。

 だから、我々のこの議論は、ゆっくりと、慎重に、あたりをよく見回しながら、広大な海に漕ぎ出した筏(いかだ)のように、多くの災難に注意しながら、進んでいるのである。73

 これまでの話は遠い昔の、しかもギリシャの話である。一方、現代のローマにも小カトーのような人がいる。彼は死ぬべき理由が手に入ると、喜んでこの世から去っていった。

 この世を支配する神は、自分の命令なしに我々がこの世を去ることを禁じているからである。

 真の哲人ならば、神がその昔ソクラテスに与え、いま小カトーに与え、しばしば多くの人々に与えてきた死ぬべき理由を自分にも与えたとき、喜び勇んでこの世の暗闇からあの世の明るい世界へ去っていくだろう。

 しかし、彼は脱獄はしない。それは法が禁じている。そうではなくて、まさに役人や合法的な権限のある者から呼びだされるように、神から呼び出しを受けて、解き放たれたときに、この世の牢獄から出ていくのである。

 哲学者の人生とは、ソクラテスが言うように、まさに死への準備なのである。74

 

第三十一章 魂の不滅に反対する人たち

 

 我々が、魂を快楽つまり肉体から切り離し、肉体に奉仕してきた個人的な所有物から切り離し、国家から切り離し、あらゆる仕事から切り離すとき、それは、魂を正気に返らせ、その本来の姿を取り戻させ、特に肉体から切り離すことにほかならない。そして、この魂を肉体から切り離すことこそ、死を学ぶことなのである。

 こういうわけだから、君は私を信じて、私とともに死ぬことを学ぼうではないか。そして、自分自身を肉体から切り離して、死ぬことに慣れ親しもうではないか。

 このようなことをしながら人生を過ごすならば、この地上にいる間でも、天界の生活と似た生活を送ることができる。そして、この世の縛めを解かれてあの世に旅立つときに、魂の旅路が短くなる。というのは、常に肉体という牢獄にいた人間は、そこから解放されても、長年鉄の鎖につながれていた囚人と同じように、速やかに歩けないからである。

 そして、我々があの世に着いたとき、はじめて真の人生は始まるのである。なぜならこの世での人生は死であり、君さえよければ、この世に生きていることを私は嘆いてみせることも出来る。75

 甲 あなたは『慰め』という本の中で、この世の人生をたっぷり嘆いておられました。私はあの本を読んでからは、しきりにこの世から去りたいという気持ちになりましたが、今こうしてお話を聞いていますと、ますますその気持ちが強くなってきました。

 乙 その時はいずれやってくる。しかも、すぐに、否応なしにね。時間は飛ぶように過ぎていくんだよ。しかし、死は悪いことと考えるなんてとんでもないことだ。さっきまで君はそう思っていたようだがね。私は、悪くないことが死ほど確かなものは他にはないと思っている。そして、これ以上に良いものは他にはないとも思っている。なぜなら、我々は神になるか、あるいは神と一緒に暮らすことになるのだからね。

 甲 では、そのことの何が問題なのですか。

 乙 このことを認めない人たちがいるのだよ。しかし、私は、どんな理由があろうと、死を悪いものだと思いかねない今の状態のまま、君を話の途中で放り出したりはしないからね。

 甲 私はあなたの言うことが正しいと思います。どうして反対する人がいるのでしょう。

 乙 どうしてかって、私の意見に反対している人はわんさといる。その中には、エピクロス派の人たちもいる。私はかれらを軽蔑しているわけではない。しかし、どういうわけか、学識のある人たちはみんな反対なんだ。

 中でも例の私のお気に入りのディカイアルコスは、魂が不滅であるというこの考えに猛烈に反対している。彼はミティレネを対話の舞台にして『レスビア』という三巻の本を書いているが、その中で魂が死ぬことを証明しようとしているんだ。

 一方、ストア派の人たちは、まるで年寄りの婆さんを哀れむみたいに、私たちの人生にたっぷりおまけをくれるらしい。つまり、彼らは、魂は永遠にではないが大分長生きすると言うのだ。

 

第三十二章 魂は死ぬと言うストア派

 

 仮にそうだったとしても、死は悪いことのうちには入らない理由があるんだが、君はそれを聞く気があるかね。

 甲 よければお願いします。でも、魂が死なないという考えを私から奪うことは誰にもできませんよ。

 乙 それはたいしたものだ。ただ、慢心は禁物だよ。なぜなら、我々は、うまい議論にはついつい動かされやすい。すると自分の考えがぐらついてきて、どんなに簡単なことについても考えが変わってしまったりするからね。ところが私たちの問題は難解ときている。だから、そんなことがある場合に備えて、十分に理論武装しておこう。

 甲 まったくそのとおりです。そんなことがないように私も気をつけましょう。

 乙 そもそも、いったいストア派の友人たちにお引き取りを願っていけない訳が何かあるだろうか。彼らは、魂は肉体から出た後も存在するが、それは永遠ではないなどと言っているのだよ。

 甲 彼らは、この問題全体の中で一番難しい、魂は肉体が無くても存在するという考えを受け入れています。ところが、この考えを認めたなら当然そこから、魂は永遠に存在して滅びることはないという、それほど難しくない結論に到達するはずなのに、こちらは認めないのです。

 乙 いいところを突いている。まさに君の言うとおりなのだ。そもそも、あのパナイティオス(前二世紀のストア派の哲学者)が自分の師のプラトンの意見に反対するなんて、信じられるかい。彼はプラトンをいたるところで神のように崇拝して、最も優れた知能を持った最も神聖な人といって賞讃し、哲学者の中のホーマーと呼んでいるのだ。ところがその彼がプラトンの魂の不滅に関する意見には反対しているんだよ。

 彼の主張はこうだ。「生まれてくるものはいつかは死ぬ」これは誰も否定しない。ところが、それからこう言うのだ。「魂もまた生まれてくる。それは、この世に生まれてくる親と子の類似性が、肉体だけでなく精神にも見られることから明らかである」と。

 彼はもう一つ理由を挙げている。「痛みを感じるものは必ず病気になる。いっぽう、病気になるものは、いつかは死ぬ。ところで、魂は痛みを感じる。したがって、魂はいつかは死ぬ」

 

第三十三章 パナイティオスへの反論

 

 この論証が誤りであることは証明できる。

 魂が永遠の存在であると言うとき、それはあらゆる無原則な衝動からすでに解放された精神のことを言っているのであって、病気や怒りや情欲が関係する部分について言っているのではない。彼が攻撃しているプラトンは、このような部分は精神とはっきりと切り離されたものだと考えているのに、この点を見落としているのである。

 次に、親と子が似ているという現象は、理性のない魂を持っている獣たちに、より顕著に現れるものである。また、人間の場合でも、魂よりも体が似ていることのほうが多い。そして、魂自身の性質は、どんな肉体の中にあるかによって大きく異なってくる。精神を鋭くするものも精神を鈍化するものも、その多くは肉体から成っているからである。

 実際、アリストテレスはあらゆる天才は憂うつ気質の人間であると言っている。そのおかげで、私は自分が天才でないことに悩まなくなった。彼はその例をたくさん挙げている。そして、このことがあたかも確かなことであるかのように、理由も挙げている。

 確かに、生まれつき持っている肉体的条件が、精神の形成にこれほど大きな影響を及ぼすことはあるかもしれない。また、その内容はともかく、肉体的によく似た親子が精神的にもよく似ていることは大いにありうる話しである。しかし、似ているというだけでは「魂もまた生まれてくる」ということの必然的な証明にはならないのである。肉体が似ていない場合については説明するまでもない。

 パナイティオスは小スキピオの時代の人であるが、私は彼が現在も生きていたならと思う。そして、小スキピオの兄弟の孫が一族の誰に似ているか聞いてみたいものだ。その男は、顔は父親に似ているが、その生き方はあらゆる犯罪者にそっくりで、容易に一族の中で最も堕落した人間の地位を得ることだろう。

 また、雄弁と頭の良さで当時の第一人者であったプブリウス・クラッススにも孫がいるが、この孫はいったい誰に似ているだろう。さらに、名前は挙げないが、そのほかの大勢の偉人たちの孫や息子たちが誰に似ているか、パナイティオスに聞いてみたいものだ。

 ところで、何の話をしていたのかな。すっかり忘れていた。魂が死なないことについては充分話し終えて、次に、仮に魂が死ぬとしても、死には何も悪いことはないということを話していたのではないかな。

 甲 私は忘れていませんよ。先生が魂の不滅について話しをしながら、本題からそれていかれるのはちゃんと承知していました。

 

第三十四章 死には苦しみはない

 

 乙 君も高い望みを抱いて、天界に昇りたいという気持ちを持っているようだね。我々がともに天に昇れるとよいのだが。

 だが、仮に、さっきの人たちが言っているように、魂は人の死後は存続しないと仮定してみよう。もしそうなったら、私たちは今より幸福な人生を手にするという希望は奪われてしまうだろう。しかし、たとえそうだとしても、どんな悪いことがあるだろうか。

 仮に、魂が肉体と同じように死んでしまうとしよう。その場合に、どんな苦しみを感じるだろうか、いやそもそも死後の肉体に感覚があるだろうか。そんなことを言う人は誰もいない。ただ、エピクロスによれば、デモクリトスはそう言ったらしいが、デモクリトスの弟子たちはこれを否定している。

 また、魂の中の感覚だけが存在し続けることもありえない。なぜなら、魂自身が存在しないのだから。

 では、肉体もなく、魂もなく、感覚もないのに、いったいどこに悪いことがあるだろうか。

 また、魂が肉体から離れるときに、苦しみを感じると言う人もいるだろう。仮に、そんなことがあるとしても、大したことではない。私自身はそういうことはないと思っている。魂と肉体の分離はたいていの場合何も感じずに起こる。ときには、快感を伴うことがあるが、どんな感じがするにしても、全体としては些細なものだ。なぜなら、一瞬の出来事であるからだ。

 「死がつらくて苦しいのは、人生の喜びから切り離されるからだ」と言う人がいるかもしれない。だが、それは多分、「人生の悲しみから」と言ったほうが正しいだろう。

 といっても、私はここで人生の悲しみを語ろうとしているのではない。このことを語るのに、私ほどふさわしい人間はいないだろう。しかし、いまは死後の人生が不幸であるという考えを否定しようとしているのであって、ここで人生の悲しみを語って、この上さらに人生を不幸なものにする必要はないだろう。それは、私が自分自身を慰めるために書いた別の本の中でやり終えたことである。

 それはともかく、本当のことを言うなら、死は人生の楽しみを奪うのではなく、人生の悲しみから我々を遠ざけるものなのである。

 実際、キュレネのヘゲシアス(前三世紀)は、この考えをあまりに説得力豊かに説いたために、この話を聞いた大勢の者が自殺したので、とうとうプトレマイオス王(前三世紀エジプト王)から、講義でこの話をするのを禁じられてしまった。

 また、カリマコス(前三世紀)はその詩の中で、アンブラキアのクレオンブロトスが、何も辛いことがないにもかかわらず、プラトンの本を読んだ後で、町の城壁から海へ投身自殺したことを伝えている。

 また、先ほど言ったヘゲシアスの『アポカルテロン』という本の中には、絶食して自殺しようとして、友達に制止される男が登場する。この男は友人たちに対して、人生の中の災難を数え上げて反論する。その気になれば私も同じことが出来るが、この男には負けるだろう。何せ、この男は、人生はそもそも誰にとっても生きるに値しないと考えているのだから。

 他人の例はもういいだろう。この私はどうだ。これからの人生は私にとって生きるに値するだろうか。私は、いまや家庭の喜びも、政界の地位も失ってしまった。もしこうなる前に死んでいたなら、死によって私は、人生の楽しみを奪われたのではなく、人生の悲しみを免れていたはずだ。

 

第三十五章 死によって人は不幸を免れる

 

 仮に、人生の悲しみを何も知らず、不運な目にあったことが一度もない人がいるとしよう。四人の息子が全員功成り名を遂げたあのメテッルス(前二世紀のローマの政治家)や、五十人の子供に恵まれ、そのうちの十七人までが正妻の子だったというプリアモス(トロイの王)がそうだ。

 二人は同じ不幸に出会う可能性があった。しかし、実際に不幸な目にあったのはプリアモスだけだった。

 メテッルスは大勢の息子と娘たち、それに孫と孫娘たちに看取られながらこの世を去った。ところが、プリアモスはあれほど沢山いた子供たちを全て失い、神の祭壇に駆け寄って救いを求めているところを、敵の手にかかって殺されたのである。

 もし息子たちが生きていて、王国が安泰で、

 「東洋の豊かな富に囲まれ、
  装飾の施された天井の下で」

プリアモスが死んでいたなら、彼は人生の悲しみを免れたことになるのか、それとも人生の楽しみを奪われたことになるのか、いったいどちらだろう。

 その時に死んでいたなら、確かに、人生の楽しみを奪われたように見えるかもしれない。少なくとも、その方がプリアモスにとっては実際よりもよかったかもしれないし、

 「全てのものが焼き尽くされ、
  プリアモスは乱暴されて命を失い、
  ゼウスの祭壇が血で汚される様子を私は見た」

と、かくも痛ましい歌にされることはなかったかもしれない。

 しかし、彼はあの時点ではあのように殺されるのが一番よかったのである。確かに、それ以前に死んでいたら、このような結末を免れることができたろうが、あのとき殺されたことで、彼は自分の不幸をまじまじと味わずにすんだのてある。

 私の友人のポンペイウスは、ナポリで重病になったが、健康を回復した。すると、ナポリの人たちは頭に花輪をかぶって通りに繰り出した。近くのピュテオリはもちろん、至る所の町で祝いの祭りが行われた。確かにギリシャ風のたわいもない出来事だったのだが、彼の幸運を表していたことには違いなかった。

 それなら、その時彼が死んでいたなら、彼は人生の悲しみを免れていたのだろうか、それとも人生の楽しみを奪われていたのだろうか。明らかに彼は人生の悲しみを免れていたのである。

 なぜなら、義理の父カエサルと戦うことも、準備もなしに戦いを始めることも、自分の家を後にすることも、イタリアから逃げ出すことも、軍隊を失って丸腰のまま奴隷の手にかかって命を落とすこともなかったからである。また、子供たちが悲惨な目に会うことも、全財産を勝者によって奪われることもなかったはずである。

 あの時点で死んでいれば、彼はこの上ない幸福の頂点で命を落としたことになったのに、なまじ長生きしたおかげで、かくも多くの信じられないような不幸を一身に引き受けることになったのである。

 

第三十六章 死人が失うものはない 

 

 これらの不幸は、死によって避けることができる。なぜなら、このようなことが仮に起こらないとしても、起こる可能性はあるからである。ところが、人は誰でもそんなことが自分に起こるかもしれないとは考えず、誰もがメテッルスのような幸運を期待する。しかし、実際には、幸運な人間よりも不幸な人間の方が多いものであり、人生は波乱に満ちたものなのである。未来に期待を抱くよりも不安を感じるのが賢明な人間がとるべき態度である。


 しかし、百歩譲って、人は死によって人生の楽しみを奪われるとしても、だからといって、死人が人生の楽しみを失ったことを知り、だから不幸だということになるのだろうか。きっとその通りだと言う人もいるだろう。しかし、もうこの世にいない人間に、何かを失うことができるのだろうか。

 「失う」という言葉はそれだけで、悲しい響きを持っている。なぜなら、この言葉は「何かを持っていたが、いまは持っていない。何かが欲しい、不足を感じる、あこがれる」ということを含んでいる。これらは何かを失った人が感じる不快感だと私は思う。たとえば目を失った人にとって、盲目はつらいことであり、子供を失った人にとって、子が無いことはつらいことである。

 しかし、これは生きている人にだけ当てはまる。しかし、死んだ人は、人生の楽しさどころか、人生を失ったことさえ感じることができない。

 ここまでは、死んだ人、つまりどこにも存在しない人のことであったが、逆に、現に存在する我々について言うなら、たとえば我々は、角や羽を失ったと感じることはない。そんなことは誰も言わない。それは当然だ。なぜなら、人間の習慣にも本性にも適合しないものが無いときには、たとえそれが無いことを感じたとしても、無くて不足だとは感じないからである。87

 もし魂が不滅でないなら、死における消滅によって、人間の感覚は跡形もなく消えてしまうのは疑いようのないことである。そして、これが間違いないことである以上は、いま言ったことは何度も繰り返して強調しておく必要がある。

 つまり、魂が不滅でないなら死者には感覚がないことをはっきりさせると同時に、言葉の使い方で誤りが発生する余地を残さないために、「失う」という言葉の意味をここで徹底的に確認しておく必要がある。

 「失う」という言葉は次のことを意味している。それは、持っていたいと思うものが手元にないことである。「失う」ということの中には、願望が含まれているのである。

 しかし、例えば高熱について言う場合には、別の意味で使われる。なぜなら、この場合は使い方が違っていて、何かを持っていず、また持っていないことを感じているが、それが辛くないからである。また、上の意味で、死を「失う」という言い方はしない。なぜなら、死が無いことを悲しむことはないからであ る。つまり「失う」と言うのはよいものを「失う」場合である。それが辛いことだからである。

 しかし、生きている人間は、それがよいものであっても、それを欲しくないなら、それを失っても困ることはない。したがって、たとえば、生きている人間について、王座を「失う」ということは考えられるが―もっと正確に言えば、これは君の場合には当てはまらないが、王座を逐われたタルクイニウスには当てはまるかもしれない―死んだ人については、けっして考えられない。「失う」ということは、感覚のある人についてのみ言えることだからである。ところが、死んだ人には感覚は存在しない。したがって、「失う」ということは、死人にはあり得ないことである。88

 

第三十七章 死を恐れない人たち

 

 しかし、考えてみれば、死は悪いことではないことを知るのに、わざわざ哲学を学ぶ必要があるとは思えない。哲学以外にもこのことを学ぶ材料はいくらでもあるからだ。

 そもそも、わがローマ軍が将軍を先頭にして全員で、死ぬことが分かっている戦いに突入して行ったことが、かつて何度あったろうか。

 もし、死に対する恐怖があったのなら、ルキウス・ブルータスは自分が追放したタルクイニウス王がローマに戻るのを防ぐために戦争で命を落としたりはしなかったはずだ。

 また、死を恐れたなら、デキウスはラテン人との戦いで、デキウスの息子はエトルリア人との戦いで、デキウスの孫はピュロスとの戦いで、敵の矢玉に向かっては行かなかっただろう。また、スペインでスキピオ兄弟が祖国のために同じ戦いで命を失うことはなかったろうし、カンネーでパウルスとゲミヌスが、ウェヌシアでマルケッルスが、リタナでアルビーヌスが、ルカーニでグラックスが命を落とすことはなかったはずだ。

 いったい彼らのうちの誰かがいま現在において不幸だろうか。当時でさえ、彼らは息を引き取ったあとに、不幸でなかったのはもちろんである。なぜなら、感覚が奪われてしまった以上は、誰も不幸にはなれないからである。

 「しかし、その感覚が無いことが辛いのだ」と言う人がいるかもしれない。

 もし、感覚が無いことを感じることが出来るならば、それは辛いことだろう。しかし、もはや存在しない人の中には何もないことは明らかである。彼は喪失感どころかそもそも何も感じることがないのである。そんな人が、どうして辛いと思うことがあるだろうか。

 同じことばかりを繰り返しているようだが、それは、人間の心が死を恐れて悲しくなるのは、この点をはっきりさせないからである。

 つまり、魂と肉体が消滅して、命あるものがすべて消え去り、破壊があらゆるものに及ぶのなら、かつて存在した生き物は無になることは、明々白々なのである。

 そして、もしそれが充分に理解できるなら、現実には一度も存在したことのないケンタウロスととっくの昔に死んでいるアガメムノン王には違いがないことが容易に分かるはずだ。また、今は亡きマルクス・カミッルスが現在の内乱を何とも思わないのは、彼の時代にローマが蛮族に占領されたことを私が悩まないのと同じであることも、容易に分かるはずだ。

 ではなぜ、カミッルスはおよそ三百五十年後に今の事態が起こることを想像したとき、彼もまたそれを悲しんだと言えるのだろうか。また、なぜ私が今から一万年後にローマがどこかの民族に占領されることを想像したとき、それを私が悲しむのだろうか。

 それは、愛国心とは強いもので、感覚のある間だけではなく、国が安泰の間はいつまでも続くものだからである。

 

第三十八章 死は我々には関係がない

 

 したがって、哲人にとっては死は恐ろしいことではない。人の身には何が起こるか分からないため、死はいつでも起こる可能性があり、人生の短さを考えると、それはそう遠いことではない。しかし、哲人は、そんなことはものともせず、つねに国家や家族のことを考え、自分の感覚の及ばない未来のことも、自分に関係のあることだと思うのである。

 そのために、たとえ魂が死ぬと思っている人でも永遠を追及することは出来るのである。それはこの世にない自分が見聞きすることのない名声を欲しいからではなく、自分の価値を高めたいからである。そして名声は、たとえ自分では求めなくても、高い価値のある人間には自然に生まれるものである。

 もし、誕生によって人生の全てが始まるように死亡によって人生の全てが終わるというのが自然の法則であるなら、生まれる前のことは我々には関係がなく、死んだ後のことも我々には関係がないことになる。その場合には死は生きている人間にも死んだ人間にも何の関係もないのであるから、死にはどんな悪いこともないことになる。死人はもはや存在せず、生きている人間にとって死は関係がないのである。

 死を軽いものと考える人たちは、死は眠りによく似ていると主張する。しかし、九十年生きることが出来るが、六十年が過ぎた後は眠って過ごすような人生を望む人がどこにいるだろうか。本人はもちろんのこと、家族が嫌がるだろう。

 ここで神話の例を引くなら、その昔エンデュミオンは、カリア地方のラトモスという山で眠りについたが、私が思うに、彼は今に至るまで眠り続けている。その彼を眠らせた月の女神は、眠っているエンデュミオンにキスをしようとして今も身を細らせているのだ。しかし、いったいエンデュミオンはそれに気づいていると思うかね。何も感じない人間がいったい何を知るだろう。

 君もまた死んだようになって眠るし、毎日それを繰り返している。そして、君は死んだようになって寝ているときには何も感じないことも知っている。だから、死には何の感覚もないことを、君は少しも疑わないだろう。

 

第三十九章 短命を悲しむことはない

 

 であるから、寿命が来るまえに早死することを不幸なことと考えるようなくだらない迷信は打破しなければならない。寿命とは何か。それは自然が決めるものではないのか。

 自然の神が人間に命を与えるのは、あたかも金貸しが返済期日を決めずに金を貸すようなものである。だから、この神が好きなときにそれを取り戻しに来たとしても、それに何の不満があるだろうか。人は自然の神から命をもらうときに、そういう条件でもらうからである。

 小さい子供が死んだ場合には、静かに悲しみに耐えるべきだと言う人でも、子供が揺りかごにいるときに死んだのなら全然悲しむ必要はないと言う。しかし、揺りかごの子の場合の方が、自然の取り立ては過酷なのである。ところが「揺りかごの子は人生の楽しみをまだ知らないうちに死んだが、この子は大きな夢を抱いて、いまや人生の喜びを知り始めていた」などと言うのだ。

 しかし、ほかの場合には、何も達成していないよりも少しは達成しているほうが悲しみは少ないのに、どうして人生の場合は逆なのだろうか。

 カリマコスが「トロイラスよりその親のプリアモスの方が多くの涙を流した」と言ったのは確かに間違ってはいない。しかし、天寿を全うしてから死んだ人は運がいいと言われるのは何故だろう。それは、私が思うには、人生は誰よりも老人たちにとって喜ばしいものだからである。なぜなら、人間は老いることによって、他のものは失うにしても、人間にとって何よりも大切な思慮分別が手に入るからである。

 しかし、そもそも長寿とは何だろうか、人間にとって長いとは何を意味するのだろう。老いとは、

 「少年の頃も青年の頃もずっと後ろにぴったりとついてきて、
  いつの間にか追いついている」

ものではないだろうか。

 ところで、我々は、それ以上の長いものがないときにそれを長いという。何であれ、それが持っている尺度に応じて、長いとか短いとか言うのである。

 たとえば、アリストテレスによれば、ヨーロッパから黒海に流れ込むヒュパニス川のほとりには、一日(昼間の十二時間)しか寿命のない生き物がいるという。この動物の中では、八時間後に死んだものは、長生きして死んだことになる。日暮れ近くまで生きたものは、ものすごく長生きであり、その日が夏至なら、さらに長生きしたことになる。

 しかし、我々の最高年齢でさえも永遠と比べたらどうだろうか。我々はこの生き物とほとんど同じくらいに短命だということになるだろう。

 

第四十章 テラメネスの豪胆

 

 だから、これまで挙げた全ての馬鹿げた考え(これらのくだらないものにはこれよりくだらない呼び方はない)を捨てよう。そして、幸福な人生を送るには、魂の強さと豊かさが必要であり、人間界のあらゆる出来事を軽視し侮蔑して、あらゆる美徳を実践することが重要であることを肝に銘じよう。

 私がこう言うのは、最近我々は軟弱な考え方に染まって女性化して、占い師の予言よりも早く死が訪れたりしようものなら、何か大きな楽しみを奪われて、だまされたような気がするようになってしまったからである。

 しかし、何かを夢見たり望んだりして疲れ果てて悩み苦しんでいる者にとっては、死出の旅ほど喜ばしいものはないのである。その旅が終わったときには、もはや何の悩みも苦しみもないのである。

 テラメネス(前五世紀のアテネ人)は私にとって非常に魅力的な人物である。彼は実に高貴な魂の持ち主だった。私は彼の話を読むとき、涙を禁じえない。にもかかわらず、この高名な男の死は決して不幸なものではなかった。

 三十人僭主の命令で投獄されたテラメネスは、のどの渇きをいやすように毒杯を飲み下すと、杯の中の残りを投げつけた。そして、そのぴしゃりという音に合わせて、笑いながら「クリティアスの健康に乾杯」と言った。

 このクリティアスこそはテラメネスを卑劣にも罪に陥れた男である。ギリシャでは、宴会の席で次に杯を回す人の名前を言う習慣がある。勇敢なテラメネスは、体の中にすでに致死量の毒が回って死を目前にしているのに、乾杯をして、しゃれを飛ばして、すぐあとに続く男の死を予告したのである。

 この偉大な魂が死に臨んで見せた落ち着きはらった態度が賞賛に値するのは、テラメネスが死を悪だと思っていなかったからにほかならない。

 数年後、ソクラテスはこの同じ牢獄に入り、同じ毒杯を仰ぐことになる。テラメネスに対して三十人僭主が犯したのと同じ過ちを、陪審たちはソクラテスに対して犯すのである。

 ここで、すでに死の宣告を受けたソクラテスが陪審たちの前で行った演説を、プラトンがどのように描いているか見てみよう。

 

第四十一章 『ソクラテスの弁明』より

 

 「陪審たちよ、私は自分が死の世界に送られることは幸いなことではないかと、いま大きな期待を抱いているところだ。なぜなら、死ねば全ての感覚が失われるか、それともどこか別の場所に移るか、この二つのうちの一つだからである。

 「人が死ぬと全ての感覚が失われて、我々が時々経験するような、夢一つ見ない眠り、安らかな休息をもたらす深い眠りに似た状態になるのなら、ああ、死とは何と有り難いものであろうか。

 「このような夜よりも好ましい日が何日あるだろうか。これから永遠に続く時間がもしこのような夜と似ているのなら、私よりも幸福な者がいるだろうか。

 「それとも、もし一般に言われていることが本当で、死とは、人生に別れをつげた者たちが住んでいる所への移住であるなら、さらに幸福なことではないか。考えてもみたまえ、裁判官のつもりでいる人たちのもとから去って、真に裁判官の名に値する、ミノスやラダマントスやアイアコスやトリプトレモスのもとに行き、正しく正直に人生を送った人たちに会えるのだ。君たちはこの移住をつまらないことだと言うだろうか。

 「またオルフェウスやムサエウスやホメロスやヘロドトスと実際に話が出来るのだ。このことがどれほど素晴らしいことか君たちに分かるだろうか。もし何度でも死ねるのなら、私はいま言った人たちに会うために喜んでそうするだろう。

 「また、あの世でパラメデスやアイアスなど不正な裁判に苦しめられた人たちに会えるのである。その時私はどれ程うれしいことだろう。また私は、オデッセーやシシュフォスや、トロイに大軍を連れて行った総大将のアガメムノンがどれくらい頭が良いか試せるのである。私がここでしているように彼らを質問攻めにしたとしても、もうそのために死刑になる心配はないだろう。

 「私に無罪の評決をくれた陪審たちよ、死を恐れてはいけない。善人には、生きているときも死んでからも、決して悪いことは起こらないからだ。その身に起こったことは不滅なる神々が必ず見ていて下さる。私自身はこんな目に会ったが、これさえもけっして偶然の仕業ではないのだ。

 「私は、私を告発して有罪にした人たちに対しては少しも怒ってはいない。ただ一つ、彼らが私を苦しめているつもりでいることだけが残念である」

 ソクラテスはこのように言ったが、その最後の一節は秀逸である。

 「さて、時間が来たようだ。私は死ぬために、君たちは生きるために、ここから去らねばならない。そのどちらの方がいいかは、誰にも分からない。ただ不滅なる神々のみが知っている」

 

第四十二章 死を恐れぬスパルタ人

 

 私はソクラテスに評決を下した者たち全員の財産よりも、ソクラテス一人の魂を欲しいと思う。

 生と死のどちらがいいか神々以外の誰も知らないと彼は言ったが、彼自身は知っていた。なぜなら、それ以前のところでそう言っているからである。しかし、彼は「何ごとも明白なこととはせず全てを疑う」という本来の姿勢を最後まで守り通したのである。

 我々としては、自然が全員に与えるものに悪いものはないという考えを忘れないようにしよう。そして、もし死が悪なら、死は永遠に続く悪だということになってしまうことをよく理解して忘れないようにしよう。死は不幸な人生を終わらせるものではないだろうか。その死がもし不幸なら、不幸は際限なく続くことになってしまう。

 ところで、徳と知性の優れたソクラテスやテラメネスのような有名な人ばかりを例に挙げる必要はない。というのは、死を恐れなかった無名のスパルタ人の例があるからである。

 この男は、エフォルス(スパルタの行政のトップ)に死刑を宣告されて刑場に引かれて行ったが、その途中でうれしそうな顔をして喜んでいたという。彼を嫌っていた男が「君はリュクルゴスの法律を馬鹿にしているのか」と言うと、それに対して彼は次のように答えたという。

 「私はこの罰を科してくれたリュクルゴスにたいへん感謝している。この罰ならば、人から金を借りなくてもいいからだ」

 実に、スパルタ人らしい男である。この堂々とした態度から見て、この男はきっと無実の罪で罰せられたのだろう。

 我々の国にもこのような人間は無数にいる。将軍や大将たちは言うまでもない。カトーが書いたものによると、ローマの兵隊たちは、とうてい戻って来れないことが分かっている場所へ、しばしば喜んで出撃していった。

 スパルタの兵士たちは、同じような気持ちでテルモピュレーの戦いで命を落とした。それをシモニデスは

 「旅人よ、スパルタに伝えてくれ、祖国の神聖な法にしたがって、
  私たちはここで命を落として眠っていると」

 かの将軍レオニダスは何と言ったか。「スパルタ兵たちよ、勇気を持って進め。今日の晩飯は多分地獄でとることになるだろう」。リュクルゴスの法が健在だったころのスパルタは、かくも強力な国だった。

 また、あるスパルタ人は、敵のペルシャ人が会話の中で「お前たちに、日が陰るほどの大量の槍と矢をあびせてやる」とほらを吹いたとき、「それなら、その日陰の中で戦うまでのことだ」と言い返したという。

 ここまでは男の例ばかりだが、スパルタの女も負けてはいない。息子を戦いに送り出した女が、息子の戦死の報に接したとき、「私がこの子を生んだのは、祖国のためには死ぬことを厭わない人間にするためです」と言ったという。

 

第四十三章 埋葬方法は魂には関係がない

 

 以上が、力強く勇敢なスパルタ人の話である。国家的な教育がいかに大きな力を持つかを示す好例である。

 このほかにも、たとえば、キュレネーの有名な哲学者テオドロスはたいした男だった。リュシマコス王(=アレキサンダー大王の後継者ディアドコイの一人、マケドニアを支配した)に張付けにすると脅されたとき、彼は次のように言ったという。

 「そのような脅しは、是非ともあなたの召使いの方々にお使い下さい。テオドロスにとっては、地面の下で朽ち果てようとも、空中で朽ち果てようとも、何の違いもありません」

 ところで、この言葉で思い出したから、ここで埋葬について一言述べておこう。この問題は、先ほど死後には感覚が無いということについて述べたことが分かる人には、それほど難しいものではない。

 この問題に関するソクラテスの見解は、彼の死を描いた『ファイドン』の中に現れている。この本からは非常にたくさんの文章を引用してきたが、その本の中でソクラテスが魂の不滅について論じたあと、処刑の時が迫ってきたとき、どんな埋葬方法がいいかクリトンに質問を受けた。するとソクラテスはこう言ったのである。

 「みんな、私のこれまでの努力は全て無駄だったのだ。私自身はここから飛び立って行くのだから、ここには何も残らないということを、我が友クリトンには分かってもらえなかった。

 「しかし、クリトン、もし君が旅立っていく僕に追いついて、どこかで僕を捕まえることが出来たなら、君の好きなように埋葬してくれてもいいよ。だが、僕がここから旅立つときは、きっと君たちのうちの誰も僕には追いつけないと思う」

 友人に好きにさせながらも、自分はこの種の事について全く心配していないことを示した、このソクラテスの態度は立派である。

 ディオゲネスは彼よりももっと頑固だった。ソクラテスと同じ考えを持ちながらも、犬儒学派であった彼はソクラテスよりも辛辣だった。彼は自分が死んでも埋葬せずに放っておいてくれと命じたのである。そして、友人たちに「鳥や野獣のえじきになるつもりか」と言われると、「いいや。そんなら、けだものを追い払う杖をそばに置いてくれ」「そんなことが出来るものか。何も分からないんだぞ」「何も分からないのなら、けだものに食われたっていいじゃないか」

 アナクサゴラスも立派だった。ランプサコスで臨終の床にあった彼は、友人たちに万一の時は祖国のクラゾメナイに戻りたいかと問われて、「そんな必要はない。地獄までの道のりはどこからでも同じだ」と答えたという。

 埋葬に関する議論の中で一つ忘れてならないのは、埋葬は肉体に関する問題であるということだ。それは魂が消滅するか生き続けるかということとは関係がない。また、魂が消滅したり抜け出してしまった後の肉体に感覚が残っていないことは明らかである。

 

第四十四章 文学作品の中に見られる誤った考え方

 

 しかし、間違った考え方は至る所に見つけることが出来る。

 アキレスはへクトールの遺体を車につないで引き回したが、彼はヘクトールの肉体を傷つければ相手がそれを感じると思っていた。彼としてはそれで復讐しているつもりだったのだ。また、へクトールの母親も、これを残酷な仕打ちだと思って悲しんだ。

 「私は見るに堪えない出来事を見た。
  へクトールが四輪の車に引きずられる様子を」

 この遺体はへクトールだろうか。これはいつまでへクトールなのだろう。ローマの詩人アッキウスも、そして遅まきながらアキレスもこのことに気づいた。

 「私は確かにプリアモスに遺体は返した。
  しかし、へクトール本人は私が奪い取ったのだ」

 つまり、彼が引き回していたのはへクトールではなく、かつてへクトールのものだった肉体に過ぎないのである。

 見よ、別の男は地面の中から立ち上がってきて、母親の夢枕に立った。

 「母よ、私はあなたを呼んでいる。あなたは眠りによって自分の苦しみをいやし、
  私への哀れみの気持ちも忘れている。あなたは起きて、息子を埋葬しなければならないのに」

 この歌が、切々とした調子でうたわれると、聴衆はみな悲しみに包まれ、埋葬されない者は不幸であると思いがちである。

 「その前に野獣や鳥たちが・・」

 この亡霊は、けものたちに手足を食いちぎられたら使えなくなると心配している。しかし、火葬によって体が焼かれることは平気らしい。

 「私の遺体が地面の上をあちこちへ引きずり回されて、
  血糊で汚れて骨がむき出しになることを防いでほしい」

 この男は、このような美しい詩を笛に合わせて歌えるのに、何を恐れることがあるのだろうか。私には理解できない。

 敵の死体に仕返しをしようとする人はこれからもたくさんいるだろう。しかし、自分の死後の幸不幸については何も考える必要がないことを忘れてはいけない。

 エンニウスの作品の中に、テュエステスがアトレウスに対して海で遭難して死ぬことを祈る壮大な詩がある。遭難自体は実に残酷な死に方である。遭難する者は必ず大きな苦しみを感じるからである。しかし、次の詩は無意味である。

 「その体は、とがった岩の先に突き刺さって、体はまっぷたつに引き裂かれ、
  わき腹でぶら下がって、汚物と膿と真っ黒な血を岩の上にまき散らすがいい」

 この「わき腹でぶら下がって」いるものは、この岩と同じく、何も感じはしない。ところが、テュエステスは、この言葉によってアトレウスが残酷な目に会うことを祈っているつもりなのだ。しかし、感覚の残っている者にとっては残酷なことでも、感覚のないものには何の意味もない。

 次の詩も全く無意味である。

 「肉体の港として彼を受け入れる墓、人生から解放された肉体が、
  苦しみから逃れて休息を得る場所である墓に、彼が入れないことを願う」

 この文章がどれほど間違っているかは、君にも分かるだろう。テュエステスは、肉体の港が存在して、死者は墓の中で休息すると考えているのだ。まったくこれは彼の父親であるペロプスの責任である。ペロプスは息子をしっかりと教育せず、どんな苦しみにも終わりがあるということを教えなかったからである。

 

第四十五章 民族の習慣に見られる誤った考え方

 

 ここまでは個々の人間の考え方について見てきたが、民族としての考え方にも様々な誤りを見ることが出来る。

 たとえばエジプト人は死者をミイラにして家の中に保存する。

 ペルシャ人は死者の体を出来るだけ長く保つために、遺体に蜜蝋を塗って埋葬する。ペルシャの司祭階級であるマギは、遺体がけものによって食い荒らされてからはじめて埋葬する習慣である。

 カスピ海のそばのヒュルカニアでは、国民は公費で、貴族は自費で、遺体を食わせるための犬を飼っている。この犬は当地では高級種なので、それぞれの資力に応じて、この犬を用意するのである。彼らはこうして埋葬するのが最善だと思っている。

 あらゆることに興味を持っていたクリュシッポス(前三世紀のストア派の哲学者)は、ほかにも沢山の埋葬方法の例を集めているが、その中にはあまりにも残酷で、ここで言及するのは憚れる(はばかれる)ようなものが含まれている。

 このようなわけだから、埋葬の問題は私に関するかぎりは全く軽視してもらって構わない。私の家族に関しては無視するわけにはいかないが、その場合でも死者の肉体は何も感じないということを、生きているうちからよく理解しておかねばならない。108

 慣習や他人の評判にはある程度配慮しなければならないが、そのようなことは死んだ人間には何の関係もないことを忘れてはならない。

 もっとも、人が死に臨んで平然としていられるのは、自分がそれまでの人生において達成したことに充分満足している場合である。自分の能力を充分発揮して自分の仕事を完璧になし終えた人間は、もう充分生きたと言える。

 私自身、もう死んでも構わないと思えるような時が何度もあった。その時に死んでいたらどれほど良かったろうと今でも思うほどだ。もうこれ以上人生に何一つ付け加えるべきことはなく、人生においてなすべきことは全てなし終え、あとは運命との戦いが残るだけだったからである。

 したがって、いくら理屈では分かっても死を軽視する気持ちにはなれないという人は、充分すぎるほど生きたと思えるような人生を送ることである。なぜなら、死者には感覚はないけれども、業績や名声という自分に固有の財産は死んでも無くなることはないからである。確かに、名声それ自体には何も望ましいものはないが、名声は美徳の後ろに影のように付き従って、美徳の存在を証明してくれるのである。109

 

第四十六章 幸福の絶頂での死が望ましい

 

 まったく、立派な人間に対する大衆の正しい意見には賞賛すべきものがある。それに比べたら、名声によって人間が幸福になることなどは二の次なのである。

 そして、敢えて言うなら、法律や国家制度をつくったリュクルゴスとソロンの名声も、戦争で手柄をたてたテミストクレスとエパミノンダスの名声も消えることはないだろう。

 というのは、海の神ネプチューンがサラミス島を飲み込んでしまうまでは、サラミスの勝利は忘れられることはないし、ボイオチア地方からレウクトラの町が無くなるまでは、レウクトラの戦いの栄光は消えることが無いだろう。

 これよりもさらに長く続く名声を、ローマのキュリウスと、ファブリキウスと、カラティヌスと、二人のスキピオと、二人のアフリカヌスと、マキシムスと、マルケッルスと、バウルスと、カトーと、ラエリウスと、そのほかの数えきれないほどの人たちが持っている。

 これに類する名声を獲得した人で、しかもそれが大衆の風評に基づくものではなく、立派な業績に対する正しい賞賛であることを知っている人なら、自分の死期が近づいてきたとしても、自信をもって死へ向かうことだろう。その死には最高の善が含まれているか、あるいは何の悪も含まれていないことは、我々によって確認済みである。

 そして、彼は幸福のまっただ中で死ぬことを願うだろう。なぜなら、幸福の絶頂における喜びより、それを失ったときの悲しみの方が大きいからである。110

 スパルタの男の次の言葉はこのことを言いたかったのだと思われる。

 ロドスのディアゴラスは有名なオリンピック勝者であったが、自分の目の前で二人の息子が同じ日にオリンピックで優勝した。すると、スパルタの男がこの父親に近づいてお祝いを言ってから、こう言ったのである。

 「あなたはいますぐ死ぬことです、ディアゴラス殿。たとえあなたでも天には昇れないのですから」

 ギリシャでは、この成功は大変なこと、あるいは度が過ぎたことと考えられている。より正確に言えば、当時はそう考えられていた。

 ディアゴラスに対してこのように言った男もまた、一つの家から三人ものオリンピック勝者が出ることは度が過ぎたことであり、ディアゴラスがこれ以上この世にとどまって運命の変遷に身を委ねるのは無意味だと考えたのである。

 

 さて、死者は不幸ではないことについての話は簡単に済ませたが、私はあれでよかったと思う。君も理解できたようだからね。だが、人の死に出会ったときや死んだ人に対してあこがれを抱いたときに、この知識がいかに大きな慰めとなるかを知ってもらうために、それから話をどんどん膨らませたというわけだ。

 なぜかというと、我々は自分自身の悲しみと自分のために被る悲しみを節度を持ってこらえなければならないからだ。さもないと、自己中心的な人間だと見られるからね。ところが、もし死に別れた人たちが感覚を持ったままで、一般に信じられているような不幸な世界にいると思うならば、私たちは耐え難い苦痛を味わうことになるのだ。

 私はこのような考え方を根底から排除したかったのだ。そのために、話が少々長くなってしまった。 111

 

第四十七章 死は神からの最高の贈り物

 

 甲 長くなったとおっしゃるのですか。私にはそうは思えませんでした。今度のお話の前半部分で、私は死を望ましく思うようになり、後半部分で、死について悩まなくなりました。今日のお話の全体を通じて、私は死を悪いことだとはもう思わなくなりました。

 乙 ではつぎに、弁論家のように結びの言葉を付けようか。それとも、私は弁論術をもうやめてしまうべきだろうか。

 甲 弁論術をいつも高めてきたのはまさにあなたです。ですから、やめたりなどしないでください。本当のことを言うなら、あなたを有名にしたのは弁論術です。それで、結びはどんなふうになるのですか。とにかく早く聞かせてください。

 乙 死について語るとき学者たちは、死についての不滅なる神々の考えに言及するのを常としている。つぎの話は彼らの作り話ではなく、ヘロドトスを初めとする多くの歴史家が伝えている話である。

 最初はギリシャの神殿の巫女の息子クレオビスとビトンについての有名な話である。

 この女性は、町から遠く離れた神殿で行われる恒例の祭りに、車で出かけることになっていた。ところが、車を引く牛の到着が遅れた。すると二人の息子たちは、着ているものを脱いで、体に油を塗って、車のくびきを握った。こうして、巫女は息子たちの引く車に乗って神殿に到着した。

 息子が車を引いているとき、彼女は息子たちの孝行に報いようと、女神に対して、神が人間に対して与えることの出来る最高の贈り物を、ほうびとして 息子たちにお与え下さいと、祈った。

 二人の若者は、母親と食事をしてから眠りについた。そして、翌朝この二人が死んでいるところを発見されたのである。

 トロフォニウスとアガメデスも同じようなお祈りをしたと言われている。彼らはデルフィにアポロンの神殿を建設したとき、この神に対して「私たちの働きに対して大いなるほうびを与えたまえ」と祈った。しかし、彼らは何が欲しいとは言わず、人間にとって最高のものをお願いした。

 それに対して、アポロンはその日から三日後に望み通りのものを与えると約束した。そして、その日の朝が来たとき、二人は死んでいるところを発見されたのである。

 これが死についてのアポロンの考え方であると学者たちは言っている。しかも、アポロンは他の神よりも予言の術に勝る神として、どの神にも認められていたと彼らは言う。

 

第四十八章 人間にとっての最善は生まれてこないこと

 

 また、学者たちはシレノスの話もよく引用する。

 シレノスはミダス王によって捕えられたとき、自分を逃がしてくれたお礼に次のようなことを王に教えたと言われている。人間にとって最善のことは生まれてこないことであり、その次に良いことは出来るだけ早く死ぬことである。

 エウリピデスはこの考え方を「クレスフォンテス」という劇の中で使っている。

 「なぜなら、我々は新しい子供が生まれたなら、その家に集まって、
  その子がこれから出会う様々な不幸を思って、悲しむべきである。
  しかし、死ぬことでこの世の労苦に終止符を打った人を、
  我々は友人として、喜びと賞賛をもって、送りだすべきである」

 同じ考えはクラントール(前四~三世紀のギリシャの哲学者)の『慰め』という書物の中にもある。南イタリアのテリナ出身のエリシスウという人は、息子の死をひどく悲しんで、このような大きな不幸の原因が何かを知りたくて、交霊術師の所へ行った。すると次のような三行の詩が書かれた板を渡された。

 「人間は無知な頭で人生をさまよっている。
  息子のエウトゥノースは、運命の神から、死を手に入れたのである。
  この死は本人にもお前にも良いことなのだ」

 学者たちは、このような作家たちの意見を引きながら、不滅なる神々の死についての考えを具体的に証明している。

 一流の弁論家であったアルキダマスは死を賞賛する文章を残している。その中で、彼は人生の数々の不幸を数え上げている。その文章には哲学者のように慎重に積み上げた証明はないが、そこに豊かな弁論が展開されているのを見ることが出来る。

 弁論家たちは、祖国のための名誉ある死は、人々の賞賛を得るだけでなく、本人にとっても幸福なことであると考えている。

 この考えを述べるにあたって、弁論家たちは、エレクテウス(アテネ王)の娘たちの話から始めている。彼女たちは国民の命を救うために率先して死んでいった。

 つぎに出てくるのは、アテネ王コドルスである。彼は、王が殺されたらアテネが戦いに勝つという神託を得たので、王だと分からないように、王の服ではなく奴隷の服をまとって、敵の真ん中に入っていった。

 さらに、同じような神託を得たために自らの血を流して祖国を救ったメノイケオスも紹介される。

 また、イフィゲネイアの話も出てくる。彼女は、自分が血を流せば敵の血が流れる事を知り、自分をいけにえに捧げるためにアウリスへ連れていくように命じた。

 それから弁論家たちはもっと最近の話も挙げている。

 

第四十九章 人類のことを考えている存在

 

 アテネの独裁者を倒したハルモディオスとアリストゲイトンの話は有名である。スパルタのレオニダスとテーベのエパミノンダスも名高い。数多くのローマ人のことも言及されている。このように名誉ある死を望んだ人たちは数知れない。

 したがって、これ以上私が長々と演説を続けたり、最初の方で行ったような話を人前でして、人々が死を望ましいと思うようにしたり、死を恐れないようにする必要などはないのである。

 実際、もしこの世での最後の日が、消滅ではなく別の場所への移住であるなら、これ以上に望ましいことがあるだろうか。また、もし死は全てをことごとく破壊するものなら、人生の苦しみの最中に眠りに落ちて目をつぶったまま永遠に眠り続ける以上に素晴らしいことがあるだろうか。

 そして、死が素晴らしいものなら、エンニウスの言葉の方が、哲人ソロンの言葉よりもすぐれている。というのは、我らのエンニウスは

 「誰も私の死を悲しみの涙で飾るには及ばない。
  私の葬儀を涙でぬらすには及ばない」

と言ったのに対して、哲人の方は

 「私が死んだら必ず泣いてくれ。友人たちは喪に服してくれ。
  そして、悲しみに満ちた葬式をやってくれ」

と言ったのである。

 もし私の身に、人生からの旅立ちを神から命じられたと思えるような出来事が起きたら、私は、神に対する感謝とともに喜んでこの命令に従い、いよいよこの牢獄から解放され、縛めを解かれて、永遠の住み処つまり自分の本当の家に移住するだろう。さもなければ、全ての感覚と悲しみから免れる日が来たと思うだろう。

 またもしそのような命令が何も無くても、私は、他人にとっては恐ろしいその日を自分にとっては幸福な日であると考え、不滅なる神々や全ての物を生み出す大自然が決めたことの中に、悪いことなど存在しないと信じるだろう。

 なぜなら、我々は何の意味もなく生まれてきたのでもないし、でたらめに造り出されたのでもないからである。そうではなくて、必ず人類のことを考えている力が存在している。ましてや、その力が生み出して育てている人類という存在が、あらゆる苦労に耐え抜いた果てに死という永遠に続く悪に陥るわけがない。

 死とは、我々のために用意された港であり、避難所であると考えようではないか。私は帆をいっぱいに張った船でそこへ向かうことを願う。

 また、たとえ逆風によって後戻りさせられたとしても、少し遅れてその場所に必ずたどり着くのだ。それは全ての人に必ず起こることである。それなのにそれが、だれか一人にとって不幸であるなどということがあるだろうか。

 結びの言葉は以上で終わりだ。もう何も私は言い残したことはないし、言い忘れたこともない。この辺で納得してくれたまえ。

 甲 分かりました。いまの結びの言葉で私の気持ちはますます励まされました。

 乙 それは何よりだ。ではこのへんで、我々も自分の健康に少しは気を使うことにしよう。

 明日から、私たちがトゥスクルムに滞在する間は、ずっとこの話の続きをすることにしよう。そして特に、悲しみと恐れと欲望を軽減してくれることについて話そうと思う。これは、すべての哲学がもたらした最も豊かな成果であるから。

  第二巻(岩波版羅和対訳) 第三巻(岩波版羅和改訳) 第四巻(岩波版羅和改訳) 第五巻

誤字脱字に気づいた方は是非教えて下さい。

Translated into Japanese by(c)Tomokazu Hanafusa 1999-2016.3.17 メール

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