オイディプス王の世界観

 quaecumque est fortuna, mea est ―Vergilius(どのような運命であれ、それはわたしのものだ―ウェルギリウス)


第1章 視座の設定 ― 目をつぶすという事

 ソフォクレスの7つの悲劇には、主人公が悲惨に死んでいった場面で終わっているものはない。言い換えれば、主人公の死が告げられた時に幕を閉じているものはない。劇の構成から見ればほとんどこの事は当然の事のように見える。

 ソフォクレスの7つの悲劇のうちの前期に属すると言われるものは、「二つ折り(ディプテュコン)」と言われる形を取っている。すなわち『アイアス』『トラキスの女たち』『アンティゴネ』の中では、主人公は劇の中ほどで死んてしまうが、まだ後半部分が残されている。また、その他の作品のうちの『エレクトラ』『フィロクテテス』では主人公は死なない。『コロノスのオイディプス』では、オイディプスは神に迎えられて苦痛なく死んた事が報告されている。

 もちろん『オイディプス王』の中でオイディプスは死んでいない。いかにも悲惨で哀れな結末であるが、オイディプスは盲目のまま生き続けるのである。主人公がみじめに死んでそこで終わるという悲劇は、ソフォクレスのものとして伝えられているものの内にはない。それはいかなる理由によるものだろうか。

 レスキーは『ギリシャ悲劇』の「悲劇とは何か」という章の中で、ギリシャ悲劇は完全に悲劇的な世界観(totally tragic world view)を我々に示しているのだろうかという問を立てている。「完全に悲劇的な世界観」とは我々の言葉で言えば「この世の全ては狂っている。人間の善行は決して報われることはない。希望はまやかしに過ぎず常に裏切られる。夜は決して明けることがない。破滅には全く意味がなく、人生は価値がない」ということだろうか。

 『コロノスのオイディプス』の中でソフォクレスはコロス(合唱隊)に
この世に生まれて来ないことが最も良い。
と歌わせている(1224行ー1225行)。詩人が我々に示そうとした世界観は、このようなものであるのだろうか。レスキーの答えは「否」である。

 なぜこう言えるのだろうか。筆者の課題はこの世界観についての問いを改めて問うことである。我々はおそらくレスキーと同じ答えに至ることだろう。

 しかし、この問題をこの小論で扱うことはこのままでは不可能である。

 ここでは問題の全体をのぞき窓のついた一つの部屋に入れてみよう。

 のぞき窓から見える事項は限られている。しかし、窓の付け方によって事態の思わぬ本質が明らかになり、問題を解く鍵が得られるかもしれない。

 私が持っている部屋は、ソフォクレスの『オイディプス王』である。のぞき窓をどこに置くか、私は「オイディプスは目をつぶしたが死にはしなかった」ということにしたい。この窓から方向を変えて光をさしこみ内側を見てみようと思う。

 さて、オイディプスは死ななかった。この世が自分に対して不幸以外の何物ももたらさないと分かったときこそ、自らの命を絶つべきだという人もあろう。ソフォクレスは不幸の極みにいる時でも死ぬべきではないという主張をオイディプスの中に込めているのだろうか。生きていればいい事があるという楽観的人生観を示そうとしているのだろうか。神の摂理と調和したこれからは、幸福を得られると言っているのだろうか。アイアスやデイアネイラのように不名誉な生より死を選ぶのが英雄的な生き方ではなかったか。しかし、オイディプスは目をつぶしたが死にはしなかった。何故だろうか。

 しかし、ここでは問を急がず、この小さな窓の付け方がよかったかどうかをまず検討してみよう。

 目をつぶすという行為はどのような行為なのだろうか。自分の目をえぐり取るという行為は我々には想像できない。しかし首を括って死ぬよりも恐ろしいことに違いない。それは異常な行為である。私はいつもオイディプスがこの行為に及んだ場面を伝える伝令の言葉に来ると、少々気持ちの悪さを感じざるを得ない。このような気持ちの悪い場面はギリシャ悲劇に何も珍しいことではない。しかし、我と我身を傷つけるということは稀なことである。悲しみを表現するのに、古代ギリシャの女たちは爪で自分の頬を掻きむしって血で朱に染めることがある。悲劇以外ではもっと凄まじいことが報告されている。パウサニアスの伝えるオレステスは自分の指を噛みちぎることでやっと母親殺しの穢れから清められた(8巻34ー1-2)。ヘロドトスはスパルタ王クレオメネスが短剣で足から順番に腹まで切り裂いて自害した話を伝えている(七巻75)。尋常の沙汰ではない。

 自分の肉体を傷つけることはぞっとさせられることである。なぜならそれは普通の心境では起こり得ないことであるから。ヘロドトスはクレオメネスは狂気に落ちたと言っている。そして狂気に落ちた理由に関するギリシャ人の見解を伝えている。デルフィの巫女を買収したからとか、エレウシスの樹木を刈り払ったからとか、アルゴスの社の森に火を放つたからとか、つまりは神聖冒涜に対する罰であるという。オイディプスの場合、それが穢れからの清めであったのか、神に対して犯した罪に対する報いであったのかは、ここでは問わないにしても、オイディプスが狂乱状態にあった事は間違いなかろう。

 ソフォクレスは自ら目を突き刺すオイディプスにその理由らしきことを口走らせている。それを直訳するとこうなる。彼は目に対して次のように叫ぶのである。
「私がしたこと蒙ったことを見ないように、そして見てはならなかった人を見るのも、見分けようと願った人を見分けないことも、今後暗闇の中でするように」(1271行ー1274行)

目が見えていた時にしたことを今後は闇の中でするがよい、とは妙な言い方だが、もはや見ることをやめろと言うのと同じことである。

 これは目の見える時にやった事を目が見えぬという不可能な状態でやれということで、例えば、帰ろうとせがむ子供に親が1人で帰れと言うのと同じことだろう。つまり強い禁止をしているのである。むずがる子供に怒りを爆発させて親がこういう事を言うのと同様に、オイディプスは見るという行為に対する怒りにも似た感情を吐露しているのである。

 外の世界が最も直接に内面の世界、オイディプスの内側に入って来るのは、目なのだから、それは結局、外の世界に対する嫌悪感である。それゆえ、オイディプスがこの錯乱状態で、自分の行為に冷静な理由づけを行っている様にソフォクレスが描いたと考えることはできないと思われる。

 このようにオイディプスは狂乱状態になって自らの目をえぐり出すという異常な行為に及ぶのであるが、この行為は劇の構成においてどのように位置付けられるだろうか。

 彼のこの行為は第1エペイソディオン(エピソード)においてテイレシアスによって何度も暗示されている(373、419、454行)。オイディプスの行為は観客にとって予期せぬ行為ではなくなっているのである。

 目あきの知恵者と盲の知恵者が相対峙するこの場面は300行から始まり、このエペイソディオンの終わりまで続く。

 この場面が2人の会話を対称をもって巧妙に構成されていることはレスキーが伝えている。まず、2人の会話は16行にわたる王の言葉で始まって、同じく16行にわたる予言者の言葉で閉じられている。この二つの発言がこの場面の枠を作っているのである。

 オイディプスが予言者を丁重に迎え、町の救済を頼んだ後、29行にわたって多少の乱れがあるが、ほぼ2行ずつのスティコミュティアー(1行ないし2行の対話)が続き、2人の感情が高まっていく。そして、とうとう2人の怒りが爆発してお互いに相手を犯人であると断定する。

 爆発した感情は、ほぼ1行ごとのスティコミュティアーに引き継がれる。これは26行続いて、先の29行のスティコミュティアーとともに2人の爆発点をはさむ形をとる。

 次に2人の対話者は4行のコロスの言葉を間にしてオイディプス24行、テイレシアス21行の意見を述べる。ここでお互いの知恵をなじり合うのである。王は人間の知恵の源である過去を引き合いにして、予言者は王には見えていない現在と予言者の知恵の源である未来のことを使って相手をなじる。その後、スティコミュティアーが続いて、テイレシアスの16行にわたる謎めかした予言でこの場面は終わる。

 このように、この場面は、対称をフルに用いて構成されている。目が見えながら見えない者と、目が見えないが見えている者と、この2人の対照的なあり方が、この構成に映し出されているのである。

 2人の知恵者はお互いに相手の目が見えていないと言ってなじりあう。特に371行で、王は予言者に向かって怒りのはてに激しい言葉で相手の盲目をなじる。
おまえの真実にそんな力はない。いいや、めくらでつんぼでもうろくじじいのおまえなんぞ、真実とはなんの関係もない。(370―371行)
と言う。ギリシヤ語では子音を重ねた激しい口調になっている。この道理を越えた侮辱の中に、彼の気質を見る事ができる。こうした態度、さらに、クレオンと羊飼いの男に対する彼の理非を越えたやり方に傲慢さを指摘することがなされ、逆にまたその弁護もなされて来ている。

 しかし、ここでは彼の気質について考えを広げることを控えよう。また、彼の傲慢の罪とそれに対する罰は、この劇には関係しないということが、既に定説化してきているようでもある。それゆえに、今はこの定説を受け入れておくことにして、王の言葉も劇構成という面から見てみよう。

 この主人公の予言者に対する言葉は、観衆に強い悲劇的アイロニーとして聞こえる。王は、自ら目をつぶすことになるとも知らず、人の盲目をなじるのである。ところが、彼はテイレシアスの返す言葉通りになるのである。

 この台詞は劇構成の上で、結末との対照を際立てるものとなっている。「耳も心も目も総て片輪者」となじった王は、自ら盲目になってから
いやそれどころか、この耳をふさぐことができたなら、わたしは喜んでそうしただろう。光も音も遠ざけて、この惨めな体をこの世から切り離してしまっていただろう。この悲しみを忘れて暮らすことが、わたしに残されたただ一つの喜びなのだ。(1386―1390行)
と言って、あらゆる感覚を拒否するからである。他に向けた言葉を自分に向けることになる皮肉である。

 こうした盲目に関するアイロニーは、テイレシアスとの場面に始まって全編を通じて現れ、この劇に根本的構成を与えている。目が見えながらも真実を見ることができなかった者が真実を知るとともに盲になる。そして、劇の前半にテイレシアスという盲人が、後半にオイディプスという盲人が登場する。

 ここでもまた行数を数えてみよう。劇全体(1530行)を5等分したとき、前からほぼ5分の1(316行)のところで盲目のテイレシアスが登場する。それに対して後からほぼ5分の1(1223行)のところから目をつぶした王の様子を伝える伝令の言葉が始まる。

 また、テイレシアスの名が初めて劇中で語られるのは、285行目であるのに対して、既に盲目となったオイディプスの名が伝令によって語られるのは、後ろから278行目(前から1252行)なのである。このような事も劇構成上何らかの意味があるのかも知れない。

 人の目が見るのが最も困難なのは自分自身であるというアイロニーは主人公が目をつぶすまで貫かれている。カマービークはその注釈書の序文の中で言っている。
自分の目をつぶすことは劇の構成全体にとって必須の部分であり、それが行われるまでこの悲劇全編を通じてこの事に関する悲劇的アイロニーが多くまた顕著であるため、観客がこの事を何かオイディプスの話と伝統的に結びついていると考えたと想定せざるを得ない程である。

 また、目をつぶすという行為が劇に与える「効果」も忘れることはできない。この事に一言してこの章を閉じることにしたい。

 アリストテレスは視覚的なことによる効果は劇作本来の技法に属さないと言っている(1453b7―8)。確かにギリシャ悲劇は、行動それ自体、平たく言えば、アクション、格闘シーンを舞台上にのせることは少ない。

 例えば『エレクトラ』などオレステスが主人公となる劇は復讐を中心に持つ劇である。もし見せる要素に重点を置きたければ、彼が母とその情夫を殺す場面に、クライマックスの見せ場を置き、観客の目の前で演じさせるのが効果的だろう。しかし、そうした場面は舞台の奥、観客に見えないところで行われる。そして、ただ声が聞こえる程度に過ぎない。ギリシャ悲劇は、そんな事よりも言葉で表される主役の心の動きに重点が置かれるのである。

 『オイディプス王』の場合も、悲劇は外面的ではなくむしろオイディプスの頭の中で起こっているのである。だからこの悲劇は知性の劇ということが出来るかも知れない。

 劇の中でオイディプスがどのような所作を与えられたかは想像の域を出ない。しかし、視覚的効果を無視して劇は成り立たないだろう。ジェブの注釈書には、19世紀のハーバードで『オイディプス王』が上演された時の様子が報告されている。その解説の中で最も印象に残ることは、劇に使われた衣装の色の鮮やかさである。ここで詳細を繰り返すいとまはないが、原色を中心にコントラストを生かした色彩は知性の劇にふさわしいと言えるかも知れない。視覚的効果が、心の内面を映し出すために使われたと思われるのである。

 同様にオイディプスの内面の苦悩が、今度は、目をつぶした姿で視覚的に表されたということが出来るだろう。これによって彼の悲しみは、言葉の力を越えて我々に訴えて来るのである。しかも、劇の展開は、ここに向かって突き進むのである。オイディプスのこの姿は視覚効果として、充分利用されていると言えるかもしれない。

 また、目をつぶすという行為は別の効果を持っている。この行為の凄惨さと、血に染まった主人公は宮殿からふらふら出てくる様は、観客をぞっとさせる効果があるからである。このような凄惨なシーンはギリシャ悲劇には多く用いられているものである。

 しかし、この血腥い身の毛もよだつシーンがあるために、かえって劇の最後で我々が受ける感動がしみじみと胸を打つものになっていると言えるかもしれない。悲劇が人間存在の根源を示すものであるなら、そして、人間の真相が赤裸々にされたときには、ぞっとするようなものであるとするなら、極限状態にあるぞっとするような人間の姿を、形ではっきり見せずにはおかないのである。

 目をつぶすという行為が結末の感慨に効果を持っているということに対するこれ以上の説明の言葉は必要あるまい。他の多くの戯曲や小説に類例を探すことは、誰でも容易にできることだろう。

 ソフォクレスは人工的と言われるほどに構成の妙を見せた作家である。その彼によって、目をつぶすという行為は、この劇の中心に位置づけられ、全編にわたって巧みに組み込まれていることが、以上で明らかになったと思われる。この行為を中心にして、以下の論述を進めて行っても良さそうである。



第2章 狂気の弁明 -オイディプスの感情

 アリストテレスは言っている。
すぐれた悲劇作家は、素材を選ぶ際に既に悲劇的なものを選ぶ。しかし、いかにしてそれらを上手に使うかということは、あくまで作家自身が発見しなければならないことである(1453a19―22、1453b25)。
と。  さて、目をつぶすという行為が、既にそれだけで悲劇的なものであることは前の章で明らかであると思う。この章では、それがどのように「上手に」使われているか。それがどのように描かれているか。それを通じてどのようなオイディプスの姿が現れてくるか、結局、それは彼にとって何であったかを検討してみたい。

 三つに分けて考えてみよう。その行為の直前の場面で主人公は何を言ったか(1)。その行為は伝令によってどのように伝えられたか(2)。盲目のオイディプスは後でどう言ったか(3)。そして、何がそこから読み取れるかである。

 クライマックスは1169行に訪れる。
羊飼い ああ! それは言うも恐ろしいこと。それを言わねばならないのか。
オイディプス 恐ろしいのはそれを聞くわたしも同じこと。だが、それを聞かねばならないのだ。
 ライオス殺しの犯人探しを始めたオイディプスは予言者テイレシアスから犯人はあなた自身だと言われて、予言者に相談する事を勧めた義理の弟クレオンの陰謀を疑う。しかしそれを強く否定されると、二人を取りなす妻イオカステにライオスは三差路のところで盗賊たちにころされたから安心なさいと言われてかえって自分が犯人ではないかと疑念を持ち、その事件を町に知らせた羊飼いの男を呼び寄せる。その間にコリントの王の死を伝える男から自分は貰い子だったことを知り、さらにその子を手渡したのが当の羊飼いであることを知ると、イオカステの制止を振り切って自分を捨てた親の名を羊飼いから聞き出そうとする。
オイディプス それでは、その子を誰にもらったんだ? それともおまえの子なのか?

羊飼い いいえ、わたしの子ではありません。よその子を預かったのでございます。

オイディプス それではいったいこの国の誰から預かったんだ? 誰の家の子なんだ?

羊飼い いけません、いけません、ご主人様。もうそれ以上おたずねになってはいけません。

オイディプス このわたしにもう一度同じ質問をさせたら、そのときはおまえの命はないぞ。

羊飼い 分かりました、分かりました。ライオス様のお屋敷の方から預ったのでございます。

オイディプス で、その子は奴隷の子か? それともライオス殿の身内の子か?

羊飼い ああ! それは言うも恐ろしいこと。それを言わねばならないのか。

オイディプス 恐ろしいのはそれを聞くわたしも同じこと。だが、それを聞かねばならないのだ。
そして、羊飼いの男が、ライオスの子であると呼ばれていたと言った時(1171行)、王は自分の生まれを知った。しかしそこでオイディプスは詰問をやめなかった。
オイディプス では、あの女がおまえに渡したというのか。 羊飼い そのとおりでございます。 1173

オイディプス 何のために? 羊飼い 殺すためにでございます。 1174

オイディプス なんと、自分の腹を痛めた子を?  羊飼い はい。不吉な予言を避けるためとか。 1175

オイディプス で、その予言の内容は? 羊飼い この子はいつの日か自分の父親を殺すと。 1176

オイディプス それならどうしてそんな子をこの男に手渡したんだ。1177

羊飼い ふびんに思ったからでございます、ご主人様。この男がよその国へきっと持ち帰ると思ったからでございます。ところがなんと、この男があの子の命を救ったばかりに、この上もない災いが訪れたのでございます。そうです、この男の言う通り、あなたがあの時のあの子なら、あなたは生まれついての不幸なお方でございます。
これをまとめると王は5つの答えを引き出している。

 1、イオカステが自ら子を手渡したこと。  2、殺すためであったこと。  3、神託を恐れたためであること。  4、神託は、その子が親を殺すというものであったこと。  5、羊飼いがコリントの伝令にその子を手渡した理由。

何故こうしたことを聞き出す必要があったのか。なぜなら、この一連の問いと答えでは、オイディプスがライオス殺しの犯人であることは明らかになっていないからである。しかし一考の余地はありそうである。

 さて、  「オイディプス(A)=ライオスの子(B)」

という等式は羊飼いの言葉(1171行)によって検証された。

 「オイディプス(A)=ライオス殺しの犯人(C)」

という等式を証明するためには

 「ライオスの子(B)=ライオス殺しの犯人(C)」 が証明されればよい。A=BかつB=CならばA=Cが成り立つ。いまB=Cは神託の内容として羊飼いの言葉(上記の4)に表されている。ところで王は、その後の言葉「わたしはあのときあの人を殺してはいけなかったんだ」(1185行)から見れば、A=Cが成り立ったと思った。これは何故か。王は神託の言葉を既に検証されたことと同列に扱ったからではないか。こう考えることで我々は、王の判断を受け入れることが出来る。

 しかし、オイディプスがそのように考えたかどうかは分からない。詩人ソフォクレスに、そもそもそのようなことに関心があったのだろうか。オイディプスが神託に忠実であったことの証拠としてこのことが使えるかもしれない。しかし、ここでは、ソフォクレスの悲劇の心理的解釈を批判するテュコー・フォン・ヴィラモヴィッツに倣って、劇に対する効果という面からもう一度見てみよう。

 ギリシャ語のテキストを見てみよう。1173行から1176行までに上記の1から4の問と答えが1行ずつ4行並んでいる。
ΟΙ. Ἦ γὰρ δίδωσιν ἥδε σοι; ΘΕ. Μάλιστ', ἄναξ.
ΟΙ. Ὡς πρὸς τί χρείας; ΘΕ. Ὡς ἀναλώσαιμί νιν.
ΟΙ. Τεκοῦσα τλήμων; ΘΕ. Θεσφάτων γ' ὄκνῳ κακῶν.
ΟΙ. Ποίων; ΘΕ. Κτενεῖν νιν τοὺς τεκόντας ἦν λόγος.
それぞれは12音になる1行が2人の言葉で二つに分けられているアンティラべーの形をとっている。行が進むにつれて、疑問符(セミコロン)の位置が次第に左に寄っていることが一見して分かる。王の連発する問は次第に短くなり、逆にそれに対する羊飼いの男の答えは次第に長くなる。不明なことが次第に減り、明らかになったことがが次第に増していくという、これまでの謎解きの全過程が、この4行に集約されているかのようである。そしてこの構造が、ストーリーの緊迫感を頂点に向かってますます引き締めることを目指していることは明らかだろう。

 この4行で真実の力に押しまくられたオイディプスは、次の一行(1177)で最後の逆襲を試みるのである。王は1行にわたる問いによって押し返した。しかし、それもむなしく4行にわたる羊飼いの答える真相の圧力にあえなく押し寄られてしまうのである。

 最後の攻防に敗れ去ったオイディプスの次の言葉は、真実の力に屈服せざるを得なかった者の苦悶の絶叫である。

 「ああ、なんて馬鹿だったんだ。全てはあの予言どおりになっていたんだ。ああ、わたしは初めからこの世に生まれてはいけなかったんだ。わたしはあの時あの人と結婚してはいけなかったんだ。わたしはあのときあの人を殺してはいけなかったんだ。さらば、この世の光よ。」(1182―1185行)

ここには、既にオイディプスのあの目をつぶすという恐ろしい行為の先触れがある。

 ここまでの所で留意すべきことは、オイディプスの吐いた言葉が知恵者にふさわしく執拗に明晰を求めた理智的なものだということではないだろうか。5つの問は、むかし自分の捨てられた状況の全容を明らかにするためのものであることや、最後の叫びの中で、自己の真実の姿を三つに要約していることは、注目に値する。詩人はそのような言葉を使わせながらも、既に見た巧妙な組立てによって、追いつめられた王者の苦悩をまざまざと我々の眼前に展開することに成功したのである。

 これに続く第4スタシモン(歌)の間に事態は進行する。ここではこの歌の分析はせずオイディプスの姿を追いかけよう。この歌の間の推移を伝令が報告している(1223行以下)。まずそこからオイディプスの行動をつぶさに検討しなければならない。

 恐ろしい真実を知ったオイディプスは、高らかに叫び声を上げながら宮殿に走りこんでくる。剣を要求し、妻の居所を言えと命ずるが誰も応じない。ダイモンが場所を教えた。そう伝令は言っている。何かに導かれるように戸のところに至り戸に跳びついてこじ開け中に跳び込む。そこで妻の縊死しているのを見つける。絶叫しながら綱を解く。妻を地面に引き降ろす。そして、見るも恐ろしいことが起こったのである。妻の衣についているブローチを引きちぎり、その針を目に向けて、振り上げた腕を力強くまなこへと突き降ろす。目に、もはや見ることを禁じる言葉を吐きながら何度も突き刺す。黒々とした血が顔面をべったりと濡らすさまを伝令は詳細に報告している。このようにして目をつぶすという行為が行われたのである。イオカステの居場所をダイモンが教えたということを覚えておいて、先を見よう。

 オイディプスは戸を開けてテーバイの人々の前に自分の姿を明らかにするように命ずる。父親殺しであり母にとって忌むべき者を人前にさらすように命ずる。そしてこの土地から自らを追放するつもりであること、自らの呪いにかかった身が屋敷に留まっているつもりはないことを言う。

 頭から胸へと血に染まったオイディプスが宮殿からふらふらと出てくる。このシーンはこの劇の圧巻である。エクソドス(最終幕)を事後処理の場であると考えてもよいけれども、自ら人前に身をさらして語り始めるこの男の姿は慄然たるものがある。自分の素性の発見に至るまでのストーリーの迫力もさることながら、栄耀栄華の高みから奈落の底へと真っ逆さまに突き落とされた男を詩人は再び舞台に上げたということの意味は大きいのではないか。

 次のコンモス(俳優とコロスの歌のやり取り)でオイディプスは何を歌うだろうか。悲しみの叫び声に続く3行は、目が見えなくなった者がまず心に懐く気持ちを如実に我々に伝える。自分の体の動きが、まるで自分自身の体のものではないように感じ、自分の声はあてどなくどこまでも広がっていく。そして自分の生まれ持った運命=ダイモンに呼びかける。まるで自分自身とは別個の存在であるかのようにー。

 そして自分の真っ暗な視界へと注意が転ずる(1313行)。次いで痛みを語る。傷の痛みと心の痛みが二重に彼を責め苛むのである。そしてようやく自分の周囲の人間の存在に気づく。

 コロスが王に目をつぶした理由を問うことに始まるこれ以降は、その内容において概ねコンモスに続く対話部分(クレオンの登場が告げられるまでの1367ー1414)で繰り返される。簡単に比べてみよう。

 ○目をつぶした理由の説明
  1329ー1335(コンモス)
  1369ー1383(対話)以下同じ

 ○目も耳もつぶしたかったこと
  1337ー1339
  1384ー1390

 ○自分の追放を命ずること
  1340ー1346
  1409ー1415

 ○救われずに死んでいたらという思い
  1349ー1355
  1391ー1396

 ○過去の自分の恐ろしい行為
  1357ー1361
  1397ー1408

細かい点を除けば、オイディプスの言葉はこのように対応していることがわかる。

 この内の最初のもの、目をつぶした理由の説明について考えてみよう。コンモスではどう言っているか。
コロス ああ、なんとひどいことをなさったのです? どうして自分の目を傷つけたりしたのです? どのダイモンにそそのかされたのですか。(1327―28)

オイディプス これはアポロンだ。このわたしの災いをもたらしたのはアポロンの神なのだ。だが、ちがう。この目を突き刺したのはアポロンではない。みじめなわたしのこの手がやった。目が見えていったい何になる、もう目が見えても何の喜びもない。(1329ー1335)
さっきオイディプスの惨状を見てきた伝令が彼の行動を振り返って報告するとき、イオカステの居場所を教えたのは、あるダイモンだと言った(1258)。そしてまた、宮殿から出てきた王の恐ろしい姿を見たコロスは、どのダイモンが跳びかかったのかと問いを発する(1300-1301)。しかし答えを得られずここに来て再びどのダイモンかと問うたのである。そしてそのダイモンの名がオイディプスによって答えられたのである。

 賢いオイディプスはきっと思い出したに違いない。テイレシアスは言った「私ではなくアポロンがそなたを破滅させるのだ」(376ー377)。それに重ねて、予言者の予言の言葉
目明きの男はめくらになり、いまある富はすべて失い、その身は乞食に成り下がり、つえもて道を探りながら、異国の土地をさまよい続ける辛い運命が待っている。(454)
が、いま実現されたことを悟ったのであるー。目をつぶさせたのはアポロンであったのだ。

 ではそれに続くオイディプスの答えは何を言っているのだろう。『私がやったのだ」とは何を言わんとしているのだろう。

 アポロンは促しただけで、それを実行に移したのは自分であると主張しているのだろうか。この行為は分業によって成り立っているというのだろうか。

 それともオイディプスは、自分が神の操り人形ではない、自分はこれこれの理由をもって独自の判断で目をつぶしたのだ言って、意志の自由を主張しているのだろうか。

 また、アポロンの成就したことは過去の忌まわしい行為だけで、目をつぶした行為は自分の選んだ行為であり、「この私の災い」(1330)の指すものが目のことと昔の不幸の両方ではなくて後者だけだと言っているのだろうか。

 コロスの問いの方をもう一度思い出してみよう。コロスは1回目の問いで「どの狂気があなたに取り憑いたのか」という問いに続けて「どのダイモンが、あなたの不幸な運命に、この上もなく激しく跳びかかったのか」(1300―01)と問うている。2回目の問いでは、何故目をつぶしたりしたのかと尋ねて、すぐに「どのダイモンにそそのかされたのか」(1328)と続けている。

 二度ともに、最初の問いをダイモンの名を問う質問に言い換えている。これはどういうことだろうか。

 オイディプスの恐ろしい行動を伝えた伝令の言葉をもう一度思い出してみよう。誰も教えないのに、妻の居所へまっしぐらに向かう狂乱状態の王の行動を、彼はダイモンの導きであると理解した。目をつぶすことは正気の沙汰ではないことは既に述べた。そうすると、コロスも、人の理解を越えたこの気違いじみた行為の理由が、また同じようにダイモンに帰せられると考えていることになる。

 狂乱状態にあるアイアスの発した言葉を、テクメッサはダイモンの教えた言葉であると言っている(『アイアス』243行以下)。このように他人のものであれ、また自分自身のものであれ、理解を越えた行動の原因を、神=ダイモンに帰することで説明しようとするギリシャ人は多く報告されている。

 日本の文学にも同じようなことがある。例えば、紫式部の『源氏物語』の中の、二人の男に言い寄られた悩む浮舟の姿を見て、まわりの女たちは物の怪に付かれていると判断していている。また、源氏の妻、女三の宮との過ちに対する罪悪感に、苦しんで痩せ細っていく柏木の姿を見て、理由を知らぬ父は何の霊が憑いているのか心配して、次から次へと祈祷師を連れて来て何の霊か尋ねて、追い払ってもらおうと甲斐なく努めている。

 さて、コロスの問いに対して、オイディプスはアポロンだと答えた。問いに答えるにやはり神の名をもってした。彼は自分の狂乱状態を問われて、咄嗟にアポロンと言ったのである。目をつぶすに至らせたほど大きな、自分にも理解し難い力を、アポロンに帰したのであった。

 ギリシャ語の語法からすれば、オイディプスの答えの強調が置かれているのは後半だということになるかもしれない。しかしながら、繰り返されるアポロンの名、繰り返される代名詞、kakakakaというどもりとも取れる口調、13個の母音のうちαが8度も出てくる音調(1330行)、このような言葉を対照的構図という物差しで計ることはそれほど大切ではないのは明らかだろう。オイディプスは神の力を自分の身近に発見した者のおののきをもって、自分の目をつぶすほどの行為に至らせた力をアポロンに帰したのである。

 我々は、過去の取り返しの付かない事の思い出(概して失敗の思い出である)が、不意に心に浮かぶとき、思わず何らかの体の動き(頭や手を捩ったり、声を出したり)をしてその思い出を払い除けようとする。ただ我々には、この理解し難い行動を、神に帰して説明したりはしない。もし説明を求められても、心理学者ではない我々は、自尊心の脅威に対する防衛反応とでも言うほかはなかろう(ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』中公バックス379頁)。

 オイディプスも、神の名を持ち出した後に、我々と同じように、しかしもっと直截に自分の行為としてこう説明している。「目が見えていったい何になる、もう目が見えても何の喜びもない」(1331―1335)。目をつぶしながらの彼の言葉が、強い嫌悪感を表すものだと言ったが、ここにもそれと同じ響きがある。このような感情だけで目をつぶすほどの狂乱に至るとは信じ難い。しかし、それほどにも強い感情がある。それを彼は、神の圧倒的な力に帰してアポロンと言ったのである。テイレシアスの予言を思い出したのである。しかし、人間のレベルで自分の行為を言葉で表したならこうなった。あの狂乱状態は、回復して正気に戻った人間から見て振り返ればこのように外界に対する強い嫌悪感、敗北感として表現されたのである。

 ソフォクレスには、オイディプスの恐ろしい行為が、自分から選んだものであるかどうかについては、この場面では興味がなかったのではないか。オイディプスのこの行為を彼のまわりの人間は「自分で選んだ」(伝令、1231)とも言い、「どの神に唆された」(コロス、1328)とも言っているのである。そしてオイディプスの答えもこの二通りの見方に沿ったものになっている。彼の恐ろしい行為は「二重に決定されている、自然的な地平と超自然的な地平において」(ドッズ『ギリシャ人と非理性』37頁)。そうではないか。

 コンモスの中でオイディプスが述べた自分の行動に対する説明は以上のように、一言で言えば、見ることに対する嫌悪感であった。

 これに対応する対話部分(1369ー1383)では、この説明がもっと具体的になる。
コロス めくらとなって生きているより、いっそ死んでしまった方がよかったのです。

オイディプス 何を言う。私のしたことが最善ではないだと? このわたしに説教しようというのか。このわたしに忠告しようというのか。やめろ。そんなことはするな。いま死んであの世へ行ったところで、わたしは父に会わせる顔などないのだ。不幸な母にはなおさらなのだ。私は縛り首になっても償えないことをあの二人に対してしたんだぞ。

 だいたいあんな生まれ方をした子供たちをわたしがこの目で見たいとでも言うのか。ばかな、二度と見たくなんかない。この国、この城壁、神々の像も神殿もみな同じことだ。わたしが王として暮らしたこのテーバイの国のすべてをわたしは失ってしまったのだ。それも皮肉なことにわたし自身が出した命令によってだ。そうだ、わたしはすべての者に命令したのだ、ライオスの血で汚れた男を追放しろと。そして神が示したその不浄の男とは、神が禁じたライオスの子供だったのだ。
ここでは、もはや神は出てこず日常的レベルで話が進められる。見ることに対する嫌悪は、見る対象となる人や物によって説明される。即ち、親を見たくない(1)、子を見たくない(2)、町や神の像などを見たくないのである(3)。しかし、ここで表明されるのは、恐ろしい行為の最中やコンモスで表されたものと同じ嫌悪感である。

 しかし、それはそれぞれの対象に対する嫌悪感ではない。子を見たくないとは言っても、娘に対する愛情に変わりがないことは後の場面で分かる。だから、それは子に対して持った好悪の感情ではない。目に見える世界に欺かれ続けてきたことを知った男が、自分の目に映る世界に感じた嫌悪の情を言っているのである。彼は、眼前の世界に騙されて、実は自分の父である人を殺し、実は自分の母である人と結婚した、実は自分の弟・妹である子を生み出し、実は自分自身である者を追放していたのであるから。

 しかし彼は、人の目に映る世界などは無に等しいとかいう風な厭世的な意見を口にするには至っていない。そのような感傷とは関係のない、もっと線の太い男として彼は我々に迫ってくる。自発的行動を取ることを恐れて、お高くとまり、人生はむなしいなどと言っているような体(てい)の輩とは違うのである。彼は自分の本当の感情を意識することを避けたりはしないのである。

 この感情を表わす言葉は、ここでも明晰で理知的なものである。コロスに、死の方が盲の生よりもよかろうにと言われて、オイディプスは自分の行為の説明を三つに分けて語っている。まるで順序を付けて、主要なものから理由付けをしているがごとくである。しかし、ここでも重要なのは彼の感情である。

 この言葉から、両親に対する羞恥心を読み取るこ人もいる。また、自分の発令した布告を忘れずに守ろうとしたが、王が自ら自分を追放することなど出来ないから、町からの追放を目をつぶすことで行ったという理由付けを読み取る人もいる。しかし、ここでそうした理由付けを引き出すことは、それほど重要ではないのではないか。

 そもそも、目をつぶせばもう見なくてすむという自分の行為の合理化らしきものは、すぐに崩れてしまうのである。
ああ、三本の道よ。林に隠れた峡谷よ。三本の道が交差する山道よ。わたしが殺した父の血が染み込んでいるお前たちは、あの時のことを今でも覚えているか。(1398行以下)
彼は目をつぶしても記憶の中の光景を消すことはできなかったのである。

 そもそも彼は「めくらとなって生きているより、いっそ死んでしまった方がよかったのです」というコロスに答えてこう言っている。
これよりももっといい方法があるだと! 私に説教も忠告も不要だ。
このように激しい反応を見せている言葉で始まる彼の説明からは、合理的理由付けを見出すよりも、自分の外の世界とのあらゆる絆を断ち切りたいという気持ちを読み取るほうが重要だろう。

 ニーチェは「ギリシや悲劇のアポロン的部分、すなわち対話部分において表れるものは全て単純で、透明で、美しく見える」(『悲劇の誕生』)と言っている。確かに、オイディプスの言葉も、いま見た対話部分では、あくまで明瞭を求め続けた者にすさわしく理智的であり、「単純で、透明で、美しく見える」ものである。しかし、我々はこの「美しく、透明で、美しく見える」外観にこめられた、目をつぶすにも至った人の激しい感情の痕跡を見落としてはならないのである。

 この章では、この論稿の中心に据えた主人公の目をつぶすということを、その現場をつぶさに見ることで検討してきた。この検討で分かったことをまとめて次の章に移ることにしようと思う。

 目をつぶす直前の場面において、主人公の苦悩が絶頂に達する様が、問いと答えという作品全体の主題そのものを浮き彫りにした形を通して、みごとに描かれているのを我々は見た。

 またオイディプスの狂乱状態における行為は劇中の人物全てによって、神の大きな力の現れであると同時に、主人公自身のものであると理解されているが判明した。

 コンモス、対話部分を通じて主人公の外界に対する激しい嫌悪感が表明されており、彼の失明は、その極端な形での現れであったことを彼の言葉から知ることが出来た。我々の目に写ってくるのは、激しい感情に襲われた主人公の慄然たる姿であったのである。



 第3章「空気」の検証 ーオイディプスの変遷

 羊飼いの言葉と、自分の過去の記憶と、そして眼前の世界、この三つの絵模様がぴったりと一つに重なり合い、実は全く同じものであったことを発見した時オイディプスは目をつぶした。さて、彼の激しい外界への嫌悪感をこれほど迄にも過激な反応で表現させた彼の心の底には何があったのだろうか。彼の心の中の風船玉をしだいしだいに膨らませていったものは何であったのだろうか。

 ストーリーの息をつかせぬ迫力は我々に一つの答えを与えてくれるだろう。しかし、ここでは目を劇の外へ向けて考えてみることから始めようと思う。ここでも、オイディプスが目をつぶしたけれども死ななかったということが中心になる。

 オイディプスという人間がギリシャ人の間で語られるようになったのは、我々の知る限りホメロスの時からである。しかし、彼が目をつぶしたことは、ホメロスの時代から語り継がれて来ている分けではないように思われる。

『オデュッセイア』の中で、オイディプスの恐ろしい所行が歌われている(11巻271―280行)。ここでは、彼が自分の父を殺したことや、母と結婚したことや、事実が明るみに出た時、母(エピカステという名で登場する)が縊死したことが言い表されている。しかし、この『ネキュイア(黄泉路下り)』の巻を残した詩人は、オイディプスが目をつぶしたことや、町から追放されたどころか、麗しいテーベの町を支配し続けたと言っているのである。

 『オデュッセイア』より古い『イリアス』はパトロクロスの葬礼競技の中で、拳闘競技に名乗りを上げたエウリュアロスという男の父親がむかし「どさりと倒れた」オイディプスの葬式にテーバイに出向いたと言っている(23巻、679行)。「どさりと倒れた」は戦で倒れたと一般には受け取られている。そうすると、『イリアス』ではオイディプスは追放されることなくテーバイに留まっていて、盲にもなっていないことが確実になってくる。つまり、ホメロスの時代には彼はこの二つの不幸を蒙ってはいないものと受け取られていたらしいのである。

 小アジアで発達したホメロスの叙事詩よりも後に、ギリシャ本土で生まれた『テーバイ物語』は断片しか残っていないが、その中でもオイディプスが歌われている。

 アテナイオスによって伝えられる断片の中では、オイディプスと2人の息子の食事の場面が描かれている。ポリュネイケスは父にカドモスの銀の食卓を据えて、その上に金のワインカップを置き酒を注いだ。しかし、父はそのカップが自分の親のライオスの遺品であることを知って怒りの果てに息子たちを呪った。これが起こったのは自分が親殺しであることを知った後のことであると思われる。殺してしまった自分の父のカップを使ってオイディプスに酒を飲ませようとした子供たちの悪意に怒ったのであろうか。たった10行からは、はっきりしたことは分からない。

 別の断片の伝えることも、これと似ていて、息子を呪った話である。

 神の供物から父には常に肩肉を分けることになっているにも関わらず、息子たちは腰の肉を持って行った。そのためにオイディプスはここでも怒って呪った。供物の肩の肉を取ることは、王者の特権であったにもかかわらず、腰肉を送られたために侮辱されたと考えたのだろうう。

二度の呪いは、それぞれ
「父の財産の分割をめぐって2人の間に、争いが絶えることがないように…」
「互いの手にかかって地獄へ2人とも落ちるように」
という内容である。

 ここでホメロスのオイディプスと比較してみよう。重要な点は三つある。
 先の梗概の中から察することが出来ることは、このオイディプスはホメロスのオイディプスと同じく王位にとどまっていたことが推測される。父祖代々に伝わる銀の食卓を据え酒を供されたり、神の供物の分前に与っているからである。

 しかし、カップが父の遺産の品であることを知って呪ったり、腰肉をそれと知覚した時にそれを投げ捨てて呪ったのは、それぞれオイディプスが盲人であることを侮った息子たちの仕打ちに怒った結果であると解することができる。つまり、このオイディプスは目をつぶしたオイディプスであると見ることができるのである。

 また、ホメロスの世界とは違って、ここではオイディプスは特定の人格を持った姿を我々に見せている。激情に走り易い彼の性格が二つの事件を通じて窺える。ソフォクレスのオイディプスとの共通点を我々はここで見出すことができよう。

 さらに新しいことは、呪いである。2人の息子に対するこの呪いは、ホメロスには出てこない。そして『オイディプス王』にも直接関係がない。しかしながら、同じ作者の『コロノスのオイディプス』との関係は濃厚である。この作品のオイディプスは息子の破滅を願って呪うのである(1375行以下)。『テーバイ物語』の呪いが自分に対する侮辱を理由としていると考えられるが、ここでの呪いも同じ理由からである。

 『オイディプス王』で、主人公が劇のラスト近くに述べた息子たちに関する言葉
男の子はどこへ行こうが、食べていくのに困ることはない。放っておけばよい(1459ー1461行)。
は、この親子の相克を暗示している。これを親が息子に対して自立を促す正当な厳しさと受け取ることも出来る。しかしこの作品で一貫して貫かれている主人公の無垢な善意の流れは、ここで彼が見せる人を突き放したような姿勢によって一瞬途切れている。

 娘に対する愛情のこもった言葉との対照として出されて、一つの効果として使われていると考えるにしても、『テーバイ物語』や『コロノスのオイディプス』の呪いの前兆のようにも感じられる。『テーバイ物語』を知っていた当時の観衆には、これが嵐の前に水平線上に浮かんだ一点の小さな雲のように心に残っただろう。

 以上のことから、ソフォクレスが、受難者オイディプスを劇に仕立てるための素材を、この7世紀の叙事詩から採ったと考えてよいかもしれない。少なくとも『テーバイ物語』の世界は、ソフォクレスの描いた世界にかなり接近していると言えるだろう。

 この叙事詩の後、オイディプスを作品の中で扱ったのはアイスキュロスである。紀元前467年に上演された『テーバイ攻めの七将』の中で、オイディプスが目を自らつぶしたことがはっきり歌われている(778―784行)。この劇の主題はオイディプスの息子に対する呪いの成就である。
オイディプスは昔、食べ物のことで怒って子供に口汚く呪った、2人とも財産も剣持てる手で奪い合うがよいと。恐ろしや、今しもエリニュエスが足早に呪いを成就せん。(785ー791)
とコロスは歌っている。

 アイスキュロスは自分の作品を、ホメロスの偉大なご馳走の切り売りだと言ったと伝えられている。彼の時代には、『テーバイ物語』もホメロスの作品と思われていた。これに加えて、この呪いの内容が一致するすることを考えれば、彼がこの劇を作るためにこの叙事詩から取材したことはほとんど疑いがない。

 彼はこの息子への呪いを作品の中心に置いて、彼の罪と罰の物語を作ったのである。この作品は三部作『ライオス』『オイディプス』『テーバイ攻めの七将』の列に含められている。はじめの二つの作品は断片以外残っていないが、三つ目のものから、ライオス王家の呪いが三代にわたって果たされる様がこの三部作を通じて描かれていたものと推定されている。アイスキュロスは呪いを主筋にして何かの主張をなそうとしたのである。

 それに対してソフォクレスは『オイディプス王』の主筋に、自己の素性の発見と失明を置いた。呪いは確かにこの作品にもある。

 その一つは、オイディプスの自分の息子に対する呪いである。既に見たように、これはかすかな予兆と感じられるだけであって、はっきり発せられたものではない。

 もう一つの呪いは、作品の前の方、テイレシアスの言葉
この父親と母親の二人の恐ろしい呪いの力で、おまえはこの国から追放されるだろう(417行以下)
の両親の呪いである。

 三つ目は、オイディプスが王として、ライオス殺しの犯人捜査を始めるにあたって発した呪い(246行以下)である。犯人にだけでなく、犯人の情報を提供すべき国民全員にも掛けられた呪いである。この呪いが、三つの内でも最も明確なものである。

 さて、アイスキュロスは既に述べたように、呪いを主筋に置き、その成就を描こうとした。ソフォクレスも、このように『オイディプス王』の中に呪いを登場させている。とくに最後に挙げた犯人にかけた呪いを、この劇の中心的位置に置いたと言ってもよい程である。しかし、ソフォクレスが主筋に置いたものは、やはり主人公の自身の素性の発見と失明だった。しかも、これはあの呪いの成就を意味していない。即ち、ソフォクレスは呪いの成就を主張しようとしたのではない。彼は呪いを劇のプロットの中に、重要な一要素として組み込んだのである。

 ドッズはソフォクレスをアルカイック的世界観の最後の偉大な代表者と呼んだ(前掲書59頁)。また、彼の思想はまだアルカイック期のものだとも言っている(前掲書第二章注1)。もしそうだとすれば、ソフォクレスはアルカイック期の叙事詩『テーバイ物語』の空気を思想において吸っていたことになる。

 呪いは無力な者のする行為である。しかるに『テーバイ物語』の時代は、父が子に対して呪う必要があったのである。父の権力がもはや絶対的ではなくなっていたのである(子が父を殺すことを神が予言する!)。このような不安定な様相を多く持った時代であったことをドッズは教えてくれている(前掲書56頁)。

 ソフォクレスは自分の時代精神のこの不安定な様相を巧みに自分の劇のプロットの中に組み込んだのである。彼が「上手に」使ったのは神話だけではなかった。父が子を呪うという構図が『コロノスのオイディプス』の中に使われていることは既に見た。『オイディプス王』の中ではー王は「子らよ」と呼びかけた国民に向かって、カドモスの裔なる国民に向かって、カドモスら祖先の名において呪いをかけた(267行以下)。そしてコロスはそれに答えて「呪いの力にかかった私」(276行)と言っている。同じ構図がスケールを変えて使われていると言えるのではないだろうか。

 その他にも、不浄への恐怖、神の敵意、神の前での無力感、偶然の力に翻弄される人間の不安定さ(これはヘロドトスの世界観でもある)など、ドッズが教えるアルカイック期の様々な面が、ソフォクレスによって劇の中に織り込まれて、これらが重くオイディプスを圧迫している様を見せている。

 この圧迫は、主人公のみならず観衆にも、ひいては我々の読者の心をも息苦しいものにして、主人公の目をつぶすというような過激な反応を納得させるものにしているのである。特に偶然に依存せざるを得ない人間の不安定さが多くのΤυχηという言葉を通して巧みに描かれていることは、既に指摘されていることである(『ギリシャ悲劇研究』(1958年)2頁以下)。

 さて以上で、この章の初めに立てたオイディプスの心の底にあったものは何かという問いの答えは出たようである。それは一言にして言えば「不安」であろう。

 自分の発した呪いが実は自身に掛けられたものであったのではないか(819行以下)。自分は、近親相姦、親殺しということによる恐ろしい穢れを身に負うのではないか(824行以下)。神は自分に悪意を持っているのではないか(738、828行)。神に嫌われているのではないか(816、1321行)(神の力は、圧倒的なのである)。偶然の僥倖によって得た地位を偶然によって失うのではないか(1080行以下)。このような不安が、劇が進むに連れて主人公の心に次第次第に覆いかぶさっていくのである。こうして蓄えられた位置のエネルギーが破局の行動の激しさとして表れたと言えよう。

 ソフォクレスは、自分の時代精神という「空気」を意識的にとらえて、それを素材として完全に消化し、立派に劇に構成してみせたのである。詩人の文芸化を通して、この「空気」は作品の中に完全に置き換えられて、我々の肌身に迫ってくる程になっている。

 しかし、私の仕事はこの「空気」と格闘してこれをくわしく解明することではなく、この「空気」に勇敢に正面から立ち向かって敗れ去ったオイディプスその人を観察することである。そこに我々が最初に立てた問いの答えが見つかるかもしれない。

 その前に、私は再びドッズの言葉を引用することでこの章を締めくくることとしたい。

「古い宗教的テーマの悲劇的な意味を、その未だやわらげられていない、道徳化されてもいない形で、あますところなく表現したのは、誰あろう、アルカイック的世界観の最後の偉大な代表者ソフォクレスだったのである」(前掲書59頁末)



第4章 勇気ある選択 ーあたかも立てる犠牲(いけにえ)のように(サマセット・モーム)

 最初に私は、ソフォクレスの悲劇には主人公の死によって幕を閉じているものはないことを言った。このことを具体的に見ることからこの章を始めたいと思う。

 『アイアス』の中で、主人公は浜辺に1人になることが出来た時、地面に立てたヘクトールの剣の刃に向かって体を投げかけた。孤独のうちに自ら命を断ったのである。自分の恥辱を死によって濯いだのである。しかしながら、彼の名誉はそれで完全に回復されたわけではなかった。彼の死骸が正当に埋葬されなければならなかった。

 『イリアス』の冒頭、アキレスの怒りが歌われているところを思い出してみよう。彼の怒りは多くの勇士の命を奪うことになってしまった。それだけではない、彼らの死骸が鳥獣の餌食になってしまったのである。死が無駄なものではなかったことが正当な埋葬によって人間の間で確認される機会を与えられなかった。いやそれのみか、人が人としての生を全うすることすら出来なかった。これ程恐ろしい結果になってしまったというのである。

 アイアスもまた同様に、埋葬されることで人間としての尊厳を守ることが出来た。それを欠いてはギリシャ軍第2の勇者としての面目は保てなかったのである。彼の名誉と偉大さが、後半によって確認されねばならなかった。そして、その通りのことが起こって幕になったのである。

 『アンティゴネ』の場合はどうだろうか。王の命に抗して兄の埋葬を強行した主人公アンティゴネは、その場を発見されて捕らえられ、引き立てられて墓の中に閉じ込められる。生きながらの死が与えられたのである。死を覚悟した彼女は歌う。
友も夫もなく、死出の旅に出ようとしているのに、わたしの不幸を悲しむ者はない。(876行以下)

と。しかし彼女は、最後の言葉としてこう言い残した。
罪を犯したのがこの人なら、わたしをひどい目に会わせたこの人こそ、わたしと同じくらいひどい目に会えばいいのよ(927行以下)。

劇の後半はこの「同じくらい」の災いがつぎつぎと王の身の上に起こる様を見せるためにある。王の息子が死に、妻が死ぬ。神の掟を命を賭して守り通した彼女に神が味方していたことが明らかになった。アンティゴネの勝利に終わったのである。主人公の破滅は、アイアスの場合と同様に劇の後半部によって正当化されたのである。

 それに対してオイディプスの場合はどうだろうか。彼は劇の途中では死なない。また、恥辱を濯ぐために死ぬことは出来なかったし、他人によって殺されることもなかった。権力の座から滑り落ち、神に嫌われていることがはっきりした彼は、全く孤独な存在となる。旧約聖書『ヨブ記』のエホバはまだ彼には訪ねて来ない。アイアスにとってのテウクロスや、アンティゴネにとっての神は、彼には与えられていない。彼の破滅は正当化されずに終わるのだろうか。

 いや、彼には自分自身が残されている。まだ彼にはチャンスがある。そしてそれを活かすためには彼は再び舞台に出てきたに違いない。ソフォクレスは、オイディプスが目をつぶすけれども死なないという素材としての制約を最大限に活用したに違いない。エクソドスは他に比べて異常に長いのである。

 それでは、オイディプスの正当化されるべき破滅はどのようなものだろうか。彼を破滅に導いたものは何だったのか。まずそれを知らなければならない。

 ここで再び、第1章においてその構成を詳しく見たテイレシアスとオイディプスが対峙する場面に帰って見てみよう。今度は内容が問題になる。

 この場面で、我々は劇の結末を全て知らされる。この劇で見せるソフォクレスの作劇法のうちで、このことは最も際立って効果的であるものと言われている。しかし、それだけではない。主人公を破局にまで導く彼の動機が明確にここに集中して全て現われているのである。

 435行から443行には、これが凝縮されている。
テイレシアス だが、おまえの両親にはわしの言った言葉の意味がよく分かるはずだ。

オイディプス 待て。その両親というのは誰のことだ。わたしを生んだ親は誰なんだ。

テイレシアス 今日が、おまえの命日となり、また誕生日となる。

オイディプス よくもそうつぎつぎと、訳の分からないことばかり言えるな。

テイレシアス 誰より頭のいいおまえが、これが分からないというのか。

オイディプス 勝手にほざくがいい。わたしの力はいまに見せてやる。

テイレシアス 結構だ。だが、その力がおまえの不幸を招き寄せるのだ。

オイディプス そんなことは構わない。この国を救いさえすれば本望だ。

この対話からオイディプスについて、次の点を指摘することが出来るだろう。

 (1)、自分の出生に関する強い興味。  (2)、知恵者として自負。  (3)、町の救済者としての使命感。  (4)、義務の要求を幸福の希求の上に置いていること。

4番目は、前に三つを全てを含んでいると言ってよい。(1)(2)(3)の追求や実行は必ずしも幸福をもたらすものではない。しかも、それらは感情の高ぶった状態において発せられたものだけに、彼の内奥の関心のありかを示している。とくに、(1)の強さは、一度追い払った予言者を呼び止める際の早さによく表れている。(1)(2)(3)をまとめて、真実の探求と呼ぶことが出来るだろう。この真実の探求を義務として突き進んでいったのが主人公オイディプスである。

 しかし、彼のやり方は尋常ではなかった。自分の目をつぶすほどにも彼の気性は激しかった。しかも、彼の上には、先の章で見たような様々な不安がのしかかってくる。彼の追求は、急き立てられるようになっていく。

 彼の不安はイオカステとの対話の中で、一気に芽を吹く。先の章で見た不安がここで集中して顔を出してくる。不安が増せば増すほど彼は、自分の義務に対して忠実になってくる。彼は自分が真犯人であるという可能性を公言してはばからない。憑かれたように真相を極めようとする。

 なるほど彼に新たな情報をもたらす人たちは、彼が意図して呼び出したものではない。最後に訊問する羊飼いさえ、当初呼んだ目的(ライオス殺しの犯人の目撃証言)とは違っている。そこに我々は恐ろしい神の手を感じるのである。

 しかしながら、彼はイオカステの慰めの言葉をただありがたく聞いていることもできたにも関わらず、「三差路」という言葉から得た類推を正直に告白する。

 彼の真相究明は、決して神の手だけの導きによっては達成し得なかったのである。それは彼の潔癖な姿勢なくしてはあり得なかった。ここでも事態は二重に決定されていると言えるだろう。

 ただ忘れてはならないことがある。彼の真相の糾明は、初めから自分の無実を証明するという形をとらされていることである。彼は自分が犯人であるという予言者の言葉を無視したわけではない。それはクレオンとの対話の中で明らかになっている(564行以下、669-670行)。しかし、彼の追求が、ただ単に真理そのものの希求とか言うものではなく、自分の身を賭けたものであることを忘れて、彼を理性の権化に祭り上げるようなことがないように気をつけたい。

 このような多くの不安のただ中で、理性は大して役立ちはしない。呪いの恐れ、近親相姦の恐れ、親殺しの恐れ、地位を失う恐れにただ追いかけられていただけでなく、彼は進んで身を賭した。何故か。

 私はこのことの説明として「理性」ではなく「知性」という言葉を使いたいと思う。オイディプスは、自分が犯人であるかもしれないという疑念が心の中に留まっていることを許せなかった。それゆえ、彼はその場を丸く収めて、上辺の平穏を取り戻すことには全く興味がなかった。我々はそれをテキストから読み取ることが出来る。

 オイディプスの前には二つのタイプの人間が現われる。語るまいとする人間と語ることを望む人間である。テイレシアスと羊飼いの男は前者に属し、イオカステとクレオンは後者に属する。

 前者に対するオイディプスの態度は、既に述べたように、真相を隠そうとする者に、内なる義務感が凄まじく爆発するのである。

 後のタイプの人間は逆に多くを語ってくれる。しかし、彼らの目指すものは、事の真相を求めることではなく、καλῶς (立派に)であることなのである。

 分からないことには口をつぐむことを旨としている(569、1520行)クレオンは、自己の潔白を証明するために、王に対して弁明する。今のような楽な地位で王と同じ利益のあるこの境遇を捨てて、どうして危険な王位など狙おうか。カロース(600行)な分別のある者には、そのような邪心は起こらない。これに対するコロスの評は「カロースにおっしゃった」である。それに対して王は激しく反論し、死刑を宣告するまでになる。

 一方、ライオス殺しの犯人が単数であったか複数であったかを確かめようと目撃者を呼び出せと逸(はや)るオイディプスに、イオカステはそんなことはしなくてもよいのにと言う。以前に「盗賊たち」と言ったのだから、そのまま受け取って、神託など気にしないようにと懇願する。それに対してオイディプスは「カロースな考えだ」と言ったものの、「でも、とにかくその羊飼いの男を呼びにやってくれ。それだけは必ずやって欲しいんだ。」(859行以下)という。

 その後、父と思っていたポリュボスの死が伝えられてもなお母のことを恐れるオイディプスに、イオカステは
未来のことなど誰もよく分からないのよ。先のことになどくよくよせずに、いまを精一杯生きるのが一番なのよ。お母様との結婚なんて心配する必要ないわ。だって母親と寝る夢なんて誰でもよく見るものでしょう。そんなことをいちいち気にしないことが、人生を楽しく生きる秘訣なのよ。(977―983行)
と予言の術の無効を主張して夫の恐れを解こうとする。これに対して彼は
ほかの場合なら、何もかもおまえの言うとおりだよ。でも、母はまだ亡くなったわけじゃないんだ。いくらおまえの言うとおりでも、現に母が生きておられる以上、どうしたって恐れないわけにはいかないんだ。(984―986行)
と反論する。つまり、「お前の言う事はどれもカロースなことばかりだ」と。しかし、オイディプスはカロースであることには満足できない。真相を追求するオイディプスは、このようなカロースであることは「上辺の立派さ」でしかなかったのである。そして、この姿勢が彼を一歩一歩破滅へと導いていくのである。

 ところで、我々は、この姿勢に対して、エクソドスにおいて『アイアス』や『アンティゴネ』で見たような正当化が成されているかを知りたいのである。

 さて、彼は再び舞台に出てきた(1297行)。自分のみじめな姿をテーバイの人々の前でさらしものにした。彼は誰も助けてくれる者がいない。目は自由にならず体も思うに任せない彼には、しかし言葉が残されている。我々は、ここで再び彼の言葉を見直してみよう。

 我々は、オイディプスが自分をあざむき続けた外界に対して強い嫌悪感をぶちまけているということを既に見た。そして、それは目をつぶした理由という形をとっていたのであった。そして、それは出来れば聴覚も閉ざしてしまいたいという願いにも現れていた。

 さらに彼は、死んでいればよかった、キタイロンの山に捨てられた時、救われなければよかった、そうすればあのような不幸を引き起こさずに済んだ、そう言っている(1391行以下)。

 あとはひたすら追放を願い続けるだけである。追放された後の娘の行く末を案じながらも、何度も何度も追放してくれと言っている(1436、1518行)。そこに、もはやこの町を救うためという理由付けが入る余地もないほどに、悲痛に追放を願い続ける。「神々に最も嫌われた者だと分かったではないか」(1519行)。まず神託を伺うと言うクレオンの慎重さが歯がゆい程である。それでも娘を手放すことに未練を示す彼の姿は哀れであろう(1522行)。

 しかし、こうした惨めさの中で、彼は一度たりとも、自分がこの真実の姿を見つけ出したことを後悔していないことを忘れてはならない。いや、それどころか、彼が真相の探求の際に見せた態度は未だに変わっていないである。

 ソフォクレスは、エクソドスの対話の口火をコロスの言葉で切らせている。オイディプスに向かってコロスはこう切り出す。
わたしにはこれがあなたにとって最善の道だとはどうしても思えません。めくらとなって生きているより、いっそ死んでしまった方がよかったのです(1367行以下)。
 それに対する反応の激しさについては既に述べたとおりである。それをきっかけに47行にわたる彼のtirade(長台詞)が始まる。この中で、オイディプスは発見された自分の過去を、もう一度呼び出すのである。自分の脳中に、自分の過去の所行をもう一度たどり直す。今度はそれらの真意をはっきり確認しながら脳中に再現してみる。目の痛みと同じほどにも痛みを起こす、忘れてしまいたい思い出を、自ら呼び起こして言葉にした。彼はそれを時間の流れに従って語った。彼はその身を賭して探求した真実を自らの闇の中に確認したのであった。
ああ、三本の道よ。林に隠れた峡谷よ。三本の道が交差する山道よ。わたしが殺した父の血が染み込んでいるお前たちは、あの時のことを今でも覚えているか。その後たどり着いたこの国でわたしがどうなったか知っているか。ああ、わたしは何という結婚をしたのだ。わたしを生んだ女が、わたしの子種を宿したのだ。そこから近親相姦の子が生まれ、父が兄となり、花嫁は同時に妻と母親になったのだ。ありとあらゆるこの世の不幸が、この結婚から生まれたのだ。(1398―1408行)
 こうして彼は自分の発見した真実を自分のものにした。
わたしの苦しみは、わたしだけのもの、ほかの誰にも背負えるものでもないのだ。(1414行以下)
彼はこう高らかに言い放ったのである。

 カロースをしりぞけて、自己の身を賭して真実を追い求め続けた彼の姿勢は、このようにして、彼自身の言葉によって正当化されたのである。

 彼は、征服されざる男の恐るべきエネルギー(それは、彼を目をつぶす行為に至らせたエネルギーでもある)をもって、勇気を振り絞って真実を追い続けた。そうして得た答えを、自分のものだというのは当然だろう。そして、それを闇の中から我々に向かって、もう一度復誦して見せるのも不思議ではない。知性の劇『オイディプス王』の主人公として、それはふさわしい姿である。この彼の姿は、立てる犠牲のごとくに、人間の知性を代表しているのである。

 ここで、我々も、最初に立てた問いの答えを述べねばならない。『オイディプス王』の中には「完全に悲劇的な世界観」は見られないと。(了)

by (c)Tomokazu Hanafusa 1978─2016

ホーム| パソコン試行錯誤|シェアウエア| 拡声機騒音|くたばれ高野連


inserted by FC2 system