キケロ作『アカデメイア派の哲学 第二巻』(ルクルス)




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キケロ(前106~43)作『アカデメイア派の哲学 第二巻』(ルクルス)(前45年作)

 
I.  ルキウス・ルクルス(118~56)は豊かな才能の持ち主であり、学問への熱意も強く、高貴な生まれに相応しい学識を備えた人だったが、まさにローマの政界で花開くことができる時期に、ローマとは縁がなかった。というのは、まだ若いころ親孝行と献身をともにする弟と一緒に父親のかたきを討って名を上げた後、財務官として小アジアに旅立ち、長年の間立派にこの属州を統治していたからである。次に、彼はローマに帰らずに造営官に選ばれ、さらに(特別な法の優遇措置によって若くして)法務官に選ばれた。次にアフリカに行き、その後、執政官になった。彼のこの職務の遂行ぶりによって、誰もがその真面目さを賞賛し、その能力の高さを認めたものである。ついで、元老院によって第三次ミトリダテス戦争(73~63)に派遣され、その勇敢さについて大方の予想を打ち破っただけでなく、前任者の栄誉にも優った。1 

 彼は指揮官としての手柄をそれほど期待されていなかっただけに、これは驚くべきことだった。というのも、彼は青春時代を法律の勉強をして過ごしたし、ムレナ(=ルキウス・リキニウス・ムレナ)が黒海で戦っている間(=第二次ミトリダテス戦争、83~81)も、長いこと小アジアで財務官として平和に暮らしていたからである。けれども、彼の驚くほど豊かな才能は経験によって得た知識を必要としなかった。ローマを出発した時には軍事に関してずぶの素人だったルクルスは、陸路と海路の旅の間、経験者に質問したり歴史書を読んだりして、小アシアに着く頃には立派な将軍になっていたのである。なぜなら、ルクルスは事実の記憶力が人並み外れていたからである。言葉の記憶力はホルテンシウスほどではなかったが、実務においては言葉よりは事実の方が役に立つために、事実の記憶力の方が貴重なのである。ギリシアで最も優れた人であると誰もが認めるテミストクレスはこの記憶力がすぐれていたと言われている。テミストクレスは、当時広まり始めていた記憶術を教えてやろうと申し出た人(=詩人シモニデス)に、むしろ忘れる方法を教えて欲しいと言ったと伝えられている。彼は自分が見たこと聞いたことが何でも記憶の中に染み付いてしまったのである。ルクルスはこのような才能に恵まれていたが、その上にテミストクレスが軽蔑していた学問の知識も身につけた。つまり、人々が記録に残したいことを文字に書きつけるようにして、ルクルスは事実を心に刻み込んだのである。2

 こうして、ルクルスは、あらゆる種類の戦争、即ち、戦闘、包囲戦、海戦において、またあらゆる戦争の装備と兵站に関して、非常に優れた将軍となった。それは、アレクサンダーなき後の最大の王(=ミトリダテス)が、ルクルスこそ話に聞く中では最も優れた将軍だと認めたほどである。それと同時に、彼はまた国の制度を定めて運営する知恵と公正さをもっており、小アシアでは今でもルクルスの制度が守られていて、彼の功績が慕われている。しかし、彼はローマにとって大いに役立つ人間だったのに、僕が思っていた以上に帰国が遅れたので、彼の才能は法廷でも元老院でも活躍の場が得られなかった。しかも、ミトリダテス戦争に勝利して帰国したときにも、政敵の中傷にあって凱旋式が三年も遅れた。この卓越した勇者の戦車がようやくローマに迎え入れられたのは、私が執政官の時(前63年)だったのである。彼の助言と影響力がその当時重大な局面(=カティリナ事件)にあった私にとって、どれほど助けになったかをここで語るとすれば、それは私自身の話になってしまう。今は自分の話をする時ではないし、これ以上すると私の自慢話になってしまうので、彼の武勇伝もこの辺にしておこう。3

II  とはいえ、国民的な名声を博したルクルスの功績は、ギリシア語やラテン語の文献で讃えられているので、そのような公的なことは既に多くの人たちに知られている。しかし、次に示すような私的な側面は本人の話からしか知ることはできないだろう。彼を知らない人には思いもよらない事だが、ルクルスはあらゆるジャンルの文学や哲学に熱心に打ち込んでいた。若い頃はもちろんだが、財務官を辞めた後も、さらに戦争中、露営の将軍として軍務に忙殺されていたときも例外ではなかった。ところで、当時の哲学者の中ではフィロン(=新アカデメイア派、懐疑派、ラリッサのフィロン154~83)の弟子のアンティオコス(=古アカデメイア派を再興、独断派、アスカロンのアンティオコス125~68)が才能も学識も優れていると思われていた。それでルクルスは財務官のときも数年後将軍になったときもアンティオコスをいつもそばに置いていた。そして、彼はさっき言ったような記憶力をもっていたので、アンティオコスの話を一度聞いただけで覚えることが出来たし、何度も聞いて理解してしまったのである。またアンティオコスの教えた内容が書いてある本を読むのも非常に好きだった。4

 ただ、僕がこの話をすることで、これほど立派な人の名誉を高めるつもりが、かえって損ねてしまうのではないかと危惧している。ギリシア文学を全く好まない人は多いし、哲学を嫌う人はもっと多いからである。そのほかに哲学を嫌いはしないが、このような話題は国家の指導者に相応しくないと考えている人たちもいる。しかしながら、マルクス・カトーが老年になってからギリシア語を学んだとか、小スキピオ(=プブリウス・アフリカヌス185~12)が監察官になる前に有名な使節(=エジプトとアジア144)に出かけたときにパナイティオス(=ストア派哲学者185~109)一人を同行員にしたという話を聞いて以来、僕はもうギリシア文学の支持者も哲学の支援者も探すことはなくなった。5

 それでもこのような重要人物がこの種の話題に携わることを歓迎しない人たちに、僕はこう答えるしかない。高名な人間も人の集まりで黙っていたり、冗談だけを言ったり、軽い話題にだけ甘んじているべきではないと。実際、僕がある本の中で哲学を推奨したように、哲学は最高の人間や高名な人間にこそふさわしいものである。ただし、僕たちがローマ国民によって今の地位に置かれていることを考えれば、私的な勉強のせいで公けの仕事がなおざりにならないように注意しなければならない。実際、僕は職務に専念すべき時は、国政の会合で仕事の手を抜くようなことは決してなかったし、政治上のこと以外は一行たりとも書かなかった。いやそれどころか、僕は余暇さえものんびり過ごそうと思うどころか、多くの人の役に立とうと努めているのだから、僕たちの余暇が誰かに批判される言われはないのである。だから、僕がここで高名な人間の周知の功績に、あまり知られていない功績を付け加えることは、彼の名誉を低下するどころか高めることになると思うのである。6 

 僕の本の中で議論する人々は、実際には、そこで論じているようなことについての学識はなかったと言う人もいるが、それは、生きている人に嫉妬するだけでなく死んだ人にも嫉妬しているのである。

III. 僕たちを批判する人々にはもう一種類ある。それはアカデメイア派(=懐疑派)の哲学を認めない人たちである。自分の学派以外の学派を認める人が誰かいるとすれば、アカデメイア派だけは認めない人たちがいるのはもっと困ったことである。けれども、我々は全ての学派に反対して自分の考えを述べることにしているから、他人が我々と意見が合わなくても拒否できない。もっとも、僕たちの主張は簡単である。それはまったく論争のない真実を発見することであって、しかもそれを最善の注意と熱意をもって追求することである。認識は多くの困難によって妨げられており、物それ自体は非常に曖眛で、我々の判断力は非常に脆弱なので、昔の哲人たちでさえ自分の望む物を発見する自信がなかったのはやむを得ないことだった。しかし、彼らも真実の追求を諦めはしなかったし、僕たちもいくら疲れても探求の努力をやめることはない。そして、僕たちの議論が目指しているのは、肯定と否定の二通りの議論を通じて、真実かあるいは真実に最も近いものを引き出して、それを言葉で言い表すことなのである。7

 自分たちは何かを知っていると考える人たち(=独断派)と僕たち(=懐疑派)との違いは、彼らが自分たちの主張することが真実であることを疑わないのに対して、僕たちは多くの真実らしいことがあると考え、それに従うのは容易だが、それが真実だと言うことは出来ないと考えていることである。僕たちには健全な判断力があるので、僕たちの方が自由で柔軟性があり、教えられたことは何でも命令であるかのように擁護することを強制されない。それに対して、他の人たちは、第一に、どの学説が最善であるか判断する能力がつく前に強い束縛のもとに置かれてしまっているし、第二に、まだごく若い頃に友人の誰かに追従したり、初めて耳にした誰かのたった一度の演説に魅了されて、よく知らないことについて判断するのである。そして、まるで嵐に吹き飛ばされたようにしてたまたま辿り着いた学説に、岩にしがみつくように固執しているのである。8

 というのは、彼らは自分たちが賢者であると判断した人を全面的に信じていると言うのだが、もしそんな判断が無学で無知な人に出来るのなら、彼らの主張を僕も認めるだろう(誰が賢者であるかを決めるのは、まさに賢者の仕事だと僕は思う)。しかし、仮りに彼らにそんな判断が出来るとしても、それはあらゆることを学び、ほかの学派の考え方を知った上でのことであるはずだ。ところが、彼らはたった一度話を聞いただけで判断して、たった一人の権威に身を委ねているのである。つまり、なぜか多くの人たちは、自分の執着を捨てて、理路整然と解かれる説を追い求めるのではなく、間違った説を選んでおいて、自分が惚れ込んだ説を喧嘩腰になって擁護しているのである。

 こうした問題について僕たちはいつも熱心に研究したり話し合ったりしているが、バウリ(=ナポリ近郊のバコリ)にあるホルテンシウスの別荘に集まっ時もそうだった。僕たちがそこに着いたのはカトゥルス(=クイントゥス・ルタティウス・カトゥルス、78年執政官~60)の所にいた翌日のことだったが、ホルテンシウスのほかにカトゥルスとルクルスもいた。そこに僕たちはいつもより早い時間に来たが、それは風がよければルクルスはナポリへ、僕はポンペイへ船で行く予定だったからである。回廊で少し立ち話をしたあとで、僕たちはそこに腰を下ろした。9


I∨  そこでカトゥルスが言った、「昨日問題となった点はほぼ説明されたので、もう問題は論じ尽くされたと思われるほどだ。でもルクルスさん、あなたはアンティオコスさんから聞いたことを話してくれると約束したんだから、それを実行してくれるのを期待しています」。「その通りだね」とホルテンシウスが言った、「私はちょっとやりすぎたね。話をまるごと全部ルクルスさんのために残しておくべきだった。いや多分まだ残っているよ。私はごく簡単なことだけを言ったからね。ルクルスさんからもっと深いお話が聴けると思う」。

 するとルクルスが答えた、「ホルテンシウスくん、私は君にそんな風に期待されても平気だよ。功名心のある人には、そういう風に言われることほど迷惑なことはないだろうが、私は自分の言うことをどれだけうまく説得できるかを気にしていないから平気なんだよ。というのは、私が話そう思っている学説は私自身のものじゃないし、たとえこの学説が間違っていても、私は勝ち負けにこだわる積りはなんだから。もっとも、現状でみるかぎり、この理論は昨日の議論でかなり揺さぶられたとはいえ、これが一番正しいと思っている。だから、私はアンティオコスのやり方で話そうと思う。(というのは私はこの問題をよく聞いて知っているからだ。私は彼の話を何の先入観も持たずに熱心に聞いたし、同じテーマについて何度も聞いたから)だから、私はさっきホルテンシウスが言った以上に自分自身に期待しているくらいだ」。10

 彼は次のように言った。「私が前財務官としてアレクサンドリアにいたときアンティオコスが私と一緒にいた。私が着く前にすでに彼の友人のティルスのヘラクレイトスがアレクサンドリアに来ていた。ヘラクレイトスはクレイトマコス(=カルネアデスの弟子、フィロンの師匠187~109)とフィロン(=4節)の長年の弟子で、例の学派ではよく知られた人だった。この学派(=アカデメイア派)は一度すたれかけたが今(=前1世紀)また復活している。私はアンティオコスがヘラクレイトスと議論をしているのをよく聞いたが、二人とも穏かな話し方だった。丁度そのころ、昨日カトゥルス君が言及したフィロンの二冊の本(=いわゆるローマ本)がアレクサンドリアにもたらされて、初めてアンティオコスの手に入った。すると、普段はおとなしいアンティオコス(実際彼ほど穏やかな性格には誰もなれなかった)が怒り始めたのだ。私は驚いた。そんなアンティオコスをそれまで見たことがなかったからだ。彼はヘラクレイトスにこの本のことを覚えているか聞いた。そして、これが本当にフィロンのもの(=穏健な懐疑主義に転向した)だと思うか、こんなことをフィロン自身か誰かアカデメイア派の人から聞いたことがあるかと、ヘラクレイトスに質問した。するとヘラクレイトスは聞いたことがないと言ったが、フィロンが書いた物であることは認めた。実際それは疑いようがなかった。というのは、その場にいる学識のある私の友人のプブリウス・セリウスとガイウス・セリウスとテトリリウス・ロゴスが、自分たちもローマでフィロンからこの話を聞いたことがあって、この二冊の本を彼に借りて写させてもらったと言ったからだ。11

「そこでアンティオコス(=ストア派つまり独断派に傾倒している)が例の、カトゥルス君のお父さまがフィロンに関して言った話(=フィロンの穏健な懐疑主義を批判)として昨日紹介された話をしたのである。それどころかアンティオコスは我慢できずに彼の師匠であるフィロンを反駁する『ソーサス(=ストア派の哲学者の名前)』という本を出したのだ。それから、私はヘラクレイトスがアンティオコスに反論するのも、アンティオコスがアカデメイア派(=新アカデメイア派、懐疑派)を批判するのも熱心に聞いたが、その間、私はアンティオコスの言う事に大いに注目して、彼の口から全体の事情を知ったのである。そうして、私たちは何日もの間ヘラクレイトスと数名の学者たち(その中にはアンティオコスの弟アリストス、アリストスの次に才能があるとアンティオコスが認めるアリストン{=逍遥学派、ケオス}とディオン)を招いて、このただ一つの問題(=懐疑派批判)の討論に多大な時間を捧げた。しかしながら、フィロンへの反論の部分は省略したほうがいいだろう。なぜなら、フィロンはカトゥルス君が昨日擁護したような理論(=急進的な懐疑論)はアカデメイア派の理論ではないと言っているように、手強い論敵ではないからである。たとえフィロンの言う事が虚偽だとしても、フィロンは論敵としては手ぬるい。だから私はアルケシラオス(=アカデメイア派学頭、懐疑派、316~240)とカルネアデス(=アカデメイア派学頭、懐疑派、214~129)に向かおうと思う」。12

∨ こう言うとルクルスは改めて話し始めた、「第一に君たちは―これは僕のことを指していた―昔の自然学者の名前を挙げるけれど、それは世の中を混乱させようとする市民たちと同じ事をしていると思う。彼らも昔の偉人たちの名前を持ちだしてくる。そして彼らは民衆派だ、彼らと自分たちはそっくりだと思われようとする。彼らはプブリウス・ウァレリウス(~530)までさかのぼる。ローマから王を追放して最初に執政官になった人だ。それから、執政官のときに上訴に関する民主的な法律を作った人たち。それから、もっと有名なガイウス・フラミニウス(=平民出身、232年護民官、貧民に土地を分配。223年執政官、220年投票権拡大、217年執政官、ハンニバルとの戦いで戦死~217)だ。第二ポエニ戦争前の護民官時代に元老院の反対をおして農地法を作り、その後二度執政官になった人だね。さらにルキウス・カッシウス(=ルキウス・カッシウス・ロンギノス・ラヴィッラ137年護民官の時に秘密投票を認めるカッシウス法を作った。127年執政官)とクィントゥス・ポンペイウス(=平民出身、141年執政官)。またその中に小スキピオ(=プブリウス・アフリカヌス・アエミリアヌス、カッシウス法に賛成)もよく含める。それから、ティベリウス・グラックス(163~133)の法律を応援したのは、有名な二人の賢者、プブリウス・クラッスス(=132年最高神祇官、131年執政官、180~130)とプブリウス・スカエウォラ(=133年執政官~115)の兄弟だったと言う(前者は公然と、後者は隠れてだったようだが)。またガイウス・マリウス(157~86)も加えている。これはまったく正しい。このような多くの有名人の名前を並べて、自分たちはこの人たちの意志を引き継いでいると言うのだ。13

「そうやって彼らは国家を混乱させようとしたように、君たち(=懐疑派)は既に確立している哲学の世界をかき乱そうとして、同じようにしてエンペドクレスとアナクサゴラス、デモクリトス、パルメニデス、クセノファネス、プラトン、さらにソクラテスまで持ち出してくる。けれども、例えば我々の宿敵だったサトゥルニヌス(=103年、100年護民官、農地法のために殺される~100、『セスティウス弁護』参照)は、さっき言った昔の政治家たちと似たところは何もないし、哲学者アルケシラオス(=既出)の口の悪さもデモクリトスの謙虚さとは比較にならないものだ。そもそも、君達の自然学者たちは、どこかで行き詰まることがあっても―エンペドクレスは時々おかしくなるようだが―『全ては隠されている、我々は何も感じることは出来ない、何も認識出来ない、何がどのようであるかを見出すことは出来ない』と興奮して叫びだすなんてことは滅多にない。それどころか、多くの場合、君達の自然学者たちは皆、あまりにも多くのことを肯定し、実際に知っていること以上に知っていると主張しているように思われる。14

「しかし、たとえ自然学者たちがまるで生まれたばかりの人間のように、当時の新しい問題で行き詰まったとしても、これまでの長い年月の間に、天才たちによる優れた研究によって何も明らかにされていないなどと考えられるだろうか。平和を乱すティベリウス・グラックスがどこよりも立派な国に現れたように、哲学の秩序をくつがえすアルケシラオスは、哲学の重要な教義が確立した頃になって現れたのではないだろうか。そして、かつて『何も知ることは出来ないし認識することも出来ない』と言ったとする哲学者たちの権威の陰に彼は身を隠したのではないだろうか。しかし、この哲学者のなかにプラトンとソクラテスを含めるべきではない。プラトンは完成された学派である逍遥学派とアカデメイア派を遺した人である。この二つの学派は名前は異なるが中身は同じであり、さらに、ストア派とは言葉使いが違うだけで考え方は同じである。一方、ソクラテスは、討論の中で自分を愚か者に見せて、自分が反駁しようとする相手を引き立たせようとした。このように、ソクラテスは考えているのとは違うことを口にして、ギリシア人がアイロニーと呼ぶ『知らないふり』を好んで用いたのである。ガイウス・ファンニウス(=122年執政官)の話では、これは小スキピオも使った方法だが、ソクラテスと同じだから、卑怯なやり方と考えるべきではないと言っている。15

∨I 「しかし、君たちが望むなら、昔の人はよく知らなかったことにしてもよい。しかし、アルケシラオスが、ストア派のゼノン(=キプロスのゼノンあるいはシティウムのゼノン、335~263)は何も新しいことは発見せず、先人たちの考えを言葉の上だけで修正しただけだと批判して(と思われている)、ゼノンの定義を無効にしようと、明白な事実を懐疑の闇で覆い隠そうとしてから(=その後の200年間に)、この問題が探求されたのに何も達成されなかったと言うのだろうか。アルケシラオスは鋭い頭脳と巧みな弁舌で有名になった人であるが、彼の理論は当初それほど認められることはなく、後にラキュデス(~205)だけが引き継ぎ、その後、アルケシラオスから四代目にあたるカルネアデスが理論を完成することになる。というのは、カルネアデスはヘゲシヌスに学び、ヘゲシヌスはエウアンドロスに学び、エウアンドロスはラキュデスの弟子であり、ラキュデスはアルケシラオスの弟子だからである。ところで、カルネアデスは九十年も長生きして学頭を長く努めたので、彼の弟子もすでに有名となっている。カルネアデスの弟子のなかで、最も勤勉だったのはクレイトマコス(著作の多さがそのことを示している)、またハグノン(タルソスのハグノン前2世紀)も劣らぬ才能をもち、カルマデスは雄弁で、ロドスのメランティウスは弁舌の巧さですぐれていた。ストラトニケア(=カリア)のメトロドロスはカルネアデスのことをよく知っていたと思われている。16

「そのクレイトマコスに長年学んだのが君たちの学派のフィロンで、彼が死ぬまでアカデメイア派を弁護した。ところが、我々がアカデメイア派(=新アカデメイア派=懐疑派)を批判するためにやり始めようとしていることに、多くの哲学者たちの中でも主要な人たち(=独断派、エピクテトスたち)が反対した。何物をも認めない人たちと議論するのは不可能だと言い、懐疑派批判に熱心だったアンティパトロス(=タルソス、ストア派、独断派、~129)を批判したのである。そして『知識』や『認識』、あるいはストア派がカタレープシスと呼ぶものを直訳した『把握』が何であるかを定義する必要はない(=ストア派は定義した)し、把握したり認識できるものがあると説得しようとするのは愚かなことである、なぜならエナルゲイア以上に明白なものはないから、と言うのである。(ギリシア語のエナルゲイアは明白性とか自明性と訳せるだろう。また造語は彼だけに―私のことを当てこすっている―許されていると思わせないために、必要なら何か言葉を作ってもいい)。つまり、自明以上に明白な議論は見つけ出せないし、これほど明白なものを定義する必要はないと彼らは考えたのである。一方、自明性を率先して擁護するつもりはないという人たちも、自明性に反対する議論に誰かが騙されないために、反論はすべきだと考える人たちもいた。17

「しかも、多くの哲学者は自明なものを定義することに反対していないし、この問題は探求するに値するし、懐疑派は共に議論するに値すると考えている。しかし、フィロンは、アカデメイア派の懐疑論の頑固さに対する批判に抗しきれなくて新しい理論を作ったときに、カトゥルス君の父親の言うように、公然と虚偽を述べているし、アンティオコスの言うように、自分が恐れていた所にはまり込んだのである。というのは、フィロンは、もし把握出来るものがゼノンの定義するような『表象』(ファンタシアに相当するこの語については昨日の議論でおなじみである)であるなら、把握出来るものは何もない(これを我々はアカタレープトンと言う)と言っているからである。ゼノンの定義する表象とは、存在する物から生み出されて刻印される表象で、存在しない物から由来することがありえないようなものである。(このゼノンの定義は非常に正確だと我々は考える。というのは、虚偽でありうるような物は、知覚され認識されたとはっきり思えるように把握できないからである)ところが、フィロンはこの定義を否定して捨て去ることで、知と無知の判断基準を捨ててしまった。その結果、何も把握出来なくなってしまったのである。そして愚かなこと彼は自分が最も望まない所に陥ってしまった。そこで、我々はフィロンが覆えそうとしたこの定義を守るために、これからアカデメイア派を批判する議論を始めるのである。そして、もし我々がこれを守れなかったら、我々は何も認識できないことを認めなければならない。18

∨II 「ではまず感覚から始めよう。感覚の判断は非常に明白で確かなものであるから、もし人間の本性に選択の機会が与えられて、どこかの神様が人間に対して健全で無傷な状態での感覚に満足しているか、それとも、何かもっとよい物が欲しいか尋ねるとするなら、私はこれ以上何を要求すべきか分からない。ここでは、ボートのオールが水中では曲って見えることや、鳩の首の色が様々に違って見えることについての私の説明を待たないでもらいたい。目に見える物の性質はその物の見え方どおりだと私は言うような人間ではないからである。これは他の多くのことと同様にエピクロス(=全ては感覚に現われる通りだとする)が考えることだ。私の考えは、感覚が健全でありそれを邪魔する障碍物が全て取り除かれている限り、感覚に最高の真実があるというものである。だから、我々は、自分の視力による判断が信用できるようになるまで、光を変えたり、見ている対象の位置を変えたりするし、対象との距離を縮めたり広げたりするのである。音や匂いや味についても同じようなことをするので、誰もそれぞれの感覚の判断力に不足を感じないのである。19

「訓練して技術を身につけると、目は絵画に耳は歌に魅了されるようになる。すると、感覚にどれほど豊かな能力があるかは誰でも気づく。画家は背景や前景に我々に見えないものをどれほど沢山見るだろうか。音楽の訓練をした人は、音楽のなかに我々には分からない音をどれほど沢山聞き分けるだろうか。我々には思いもつかないが、彼らは笛吹きの最初の一吹きで、それが『アンティオペ』なのか『アンドロマケ』なのか聞き分けられる。味覚や臭覚については言う必要はない。これらの感覚の認識力は完璧ではなくとも相当強力である。触覚についても、また哲学者たちが『内的な触覚』と呼ぶ、苦痛と快楽の感覚についてもそうである。キュレネ派の哲学者はこの感覚だけが真実を見分けられると考えている。なぜなら、真実は感じるものだからというのである。実際、苦しんでいる人と楽しんでいる人の間に何の違いもないと言える人などいるだろうか。こんなことを言う人(=感覚の認識力を否定する懐疑派)は明らかに頭がどうかしているのではないだろうか。20

「しかしながら、感覚によって認識されたと我々がいう物の性格は、『それは白い、これは甘い、それはハーモニーがとれている、これはいい匂いがする、これはざらざらする』のように、感覚自身ではなく、ある意味で感覚によって認識されたと言われている物の性格に受け継がれている。これは今や感覚による把握ではなくて心による把握である。その次に『それは馬である、それは犬である』が来る。それから、次のような組み合わせが来て、さらに多くのものを結びつける。例えば、『もしそれが人間なら、死すべき動物であり、理性を備えている』というように、複数の対象を含んだ完全な把握となる。この種のものから対象の概念が我々の心に刻印されるのである。そのような概念なしに我々は何も理解出来ないし探求も議論もできないのである。21

「しかし、もしその概念が間違っているなら(君はエンノイアを『概念』と呼ぶことにしたようだ)、つまりその概念が間違っているか、あるいは、虚偽なものと区別できない表象によって刻印されているなら、そんな概念は一体どう扱うべきだろうか。どれが事実に合致しているか、どれが合致していないかを、どうやって見分けたらいいだろうか。そもそも、人の記憶には哲学だけでなく人生のあらゆる習慣と知識の全てが含まれているから、その中に場所はもう残されていない。それなのに、どうして虚偽な物の記憶があり得るだろうか。あるいは、心で把握してもいない何を記憶する人がいるだろうか。一つや二つの認識ではなく数多くの認識から成り立っていないどんな技術があるだろうか。もし技術というものがなかったら、どうやって専門家と一般人を見分けるだろうか。我々は誰かが専門家で誰かがそうでないと当てずっぽうには言わない。知識や認識を持っていると思える人を専門家といい、そうでない人を一般人と言うのである。さらに、技術のなかでも、ある技術はただ対象を観察するだけなのに対して、別の技術は何かを作り出すものであるとき、幾何学者は虚偽なものと区別できないもの、存在しないものをどうやって観察することができるだろうか。あるいは、弦楽奏者は、どうやってリズムを完成したり歌を作ったりできるだろうか。同じ事が他の似たような技術にも当てはまるのであり、何かをしたり何かを作ったりするのが技術の仕事なのである。技術を扱う人が多くのことを認識していなかったら、技術によって何ができるというのだろうか。22

∨III 「人間が多くのことを把握し認識できることは、何より道徳を学ぶことで確信できる。つまり、多くのことの把握と認識のなかにこそ学問は存在すると言えるのである(学問とは物事の把握であるだけでなく、しっかりとして揺るがない把握であると我々は考える)。そして、知恵、即ち生きるための技術もまた同様で、それ自身が一貫性を備えていなければならない。この一貫性が認識や知識と何の関係もないとしたら、この一貫性はどこからどのようにして生まれるだろう。義務や信義を裏切るくらいならどんな拷問を受けても、どんな苦痛に引き裂かれてもかまわないという立派な人は、もしそうすべき理由を彼が何も把握し知覚し認識し確信していないで、どうしてそんな厳格な掟を自分自身に課すだろうか。もし虚偽ではありえない事実に同意しているのでなければ、誰かが公正さと信義を高く評価してそれを守るためにはどんな犠牲も厭わないことなどあり得ないのである。23

「もし知恵が自分自身のことを知恵であるどうかを認識できないなら、そもそもどうして知恵という名を得るだろうか。さらに、知恵が従うべき確かなものが何もないなら、知恵はどうして何かを受け入れたり、自信をもって振る舞えるだろうか。それどころか、全ての基準となるべき究極の善が何であるかを認識できずに迷っているなら、知恵はどうして知恵でありえるだろうか。さらに、知恵が何かの行動を始めるときには、従うべき原理が確立していなければならないし、その原理が自然に合致していなければならないのは明らかである。さもなければ衝動(これはギリシア語のホルメーのことである)が喚起されることはないし、衝動によって我々が行動に駆り立てられたり、目にした物を求めることもなくなるからである。24 

「この衝動を引き起こすものは、まず目で見て信じられる必要があるが、それは見たものが虚偽かどうか見分けれらないと不可能である。もし目で見たものが自然に合致しているかそうでないか認識できなければ、心はどうして衝動へ駆りたてられることが出来るだろうか。同じく、もし自分の義務は何であるかを心で気づかなければ、決して行動することも、何かの目的へ動かされることも、駆り立てられることもないだろう。だから、もしいつか何かの行動に移るつもりなら、その気づいたことが真実であると思える必要がある。25 

「もし君たち(=アカデメイア派、懐疑派)の学説が真実なら、人生の光とも言うべき理性はすっかり取り去られてしまうが、そのことをどう思っているのだ。それでも、君たちは強情を張り続けるつもりなのか。というのは、問題の探求を始めるのは理性であり、理性が美徳を完成するからであり、美徳とは探求によって確立された理性のことだからである。一方、探求とは認識の衝動であり、探求の目的は発見である。ところが、誰も虚偽なものを発見することはないし、不確かであり続ける物が発見されることもありえない。隠れていたものが明らかにされたとき、発見されたと言うのである。探求の始まりと認識と把握の終点とはこういうことである。だからこそギリシア哲学でアポデイクシスと呼ばれる証明は『論理を使って認識された物から認識されていない物へと向かうこと』と定義されているのである。26

IX 「もし全ての表象が君たちの言うようなもので、虚偽の可能性があり、どんな目印によってもそれが虚偽かどうか確かめられないなら、誰かが何かを推論したとか発見したとかどうして言えるだろうか。あるいはその証明が信用できるだろうか。また、論理を使って進まなければならない哲学はどんな結論が得られるというのだろうか。それに、知恵は一体どうなるのか。知恵は自分自身を疑ってはならないし、自分の教義(これを哲学者たちはドグマの複数形でドグマタと呼ぶ)を疑うことは許されない。自分の教義を裏切ることは道義的に許されない行為である。というのは、教義を裏切ることは、真実と正義の法を裏切ることであり、このような不正が許されるなら、友情も国家も裏切ることになるからである。だから、教義が虚偽ではないかと疑うことは許されない。いや賢者にとって教義は虚偽でないだけでは充分ではなく、確固として定まっていて、いかなる論理によっても揺るがないものでなければならない。ところが、あらゆる教義の生まれる元となる表象が虚偽なものと異ならないと言う人たちの論理では、教義はそうした確固たるなものでもないし、そう思えるものでもあり得ないのである。27

「ここからホルテンシウスの要求が生まれた。それは『何も認識できないという少なくともそれだけは賢者も認識していると君たち(=懐疑派)は少なくとも言うべきだ』ということである。けれども、アンティパトロス(=ストア派)が同じことを要求して、何も認識できないと主張する人が、ほかの事は認識できなくても『何も認識できない』ことだけは認識できると言うことは矛盾ではないと言った時、カルネアデスは激しく反論した。『そんなことを言うのは矛盾しないどころではない。それは完全に矛盾している』とカルネアデスは言ったのである。つまり、『何も認識できないと言う人は何も例外にはしない。「何も認識できない」ということも例外ではないのだから、そのことも決して把握したり認識したり出来ない』と言ったである。28 

「アンティオコスはこの点をさらに辛辣に攻撃したようだった。つまり、『アカデメイア派は「何も認識できない」ということを教義(これがドグマである事はすでに述べた)としている以上は、この自分たちの教義については、ほかの事と同じように疑ってはならない。何といってもここがアカデメイア派の真髄であるからである。そして、真実と虚偽、知と無知の確立は哲学全体の基本なのである』と。そして『一方、彼らはこの教義を受け入れて、どの表象を受け入れ、どの表象を斥けるべきかを教えようとしているのだから、真実と虚偽の判断の全ての基準となるものは少なくとも認識しているべきだ。というのは、哲学における二つの最も大きな問題は真理の判断と究極の善であり、認識の出発点も探求の終着点も知らず、どこから始めてどこに至るべきかを知らない賢者などありえないからである。それなのにこれらの事に自信がなく、それらの事が確固として揺るがないものであることに信頼が持てないことほど、知恵とかけ離れたことはない。このような理由から、この「何も認識できない」ということだけは認識できると言うべきだと、もっと彼らに要求しなければならない』と。以上で、もし何も認めない人が何かの学説を持つことができるとしたら、彼らの学説全体が矛盾することになることについて、私は充分に語ったと思う。 29

X 「これから始める話(=アンティオコスの『ソーサス』)は長くなるし少々複雑である。自然学と多少関係する部分があるからだが、その結果として、反論する人たちに機会をたくさん与えるかもしれない。そもそも、この世から光(=理性)を奪おうとする人たち(=懐疑派)は、隠されたこと曖昧なこと(=自然学の問題)を一体どうするつもりだと、私は考えたらいいのだろうか。しかし、自然が言わばどれほど多くの技術を使って、まず全ての生き物を作り、次いで人間を作り上げたかなら詳細に論じることが出来る。さらに感覚の能力について、どのようにして表象が我々に衝撃を与え、その衝撃から衝動が生まれて、次に我々が物事を認識するために感覚を向けるか、ということも論じることが出来るだろう。つまり、心は感覚の源であるとともにそれ自体が感覚であって、自然の力をもっており、心は自分が刺激を受けた表象に対して、その力を向けるのである。こうして、ある表象は心がすぐに利用するために捉えて、ある表象は記憶するためにしまい込み、それ以外の表象は心が類似性に従って並べて、そこから物事の概念を作る(ギリシア語でエンノイアやプロレプシスと呼ばれるものである)。そこに理性と証明と無数の事実が付け加わって、それら全ての事実の認識が生まれ、それと同時に理性はこの段階をへて完成して知恵に至るのである。30

「人間の精神は事実についての学問を深め人生を一貫性あるものにすることに非常に適しているので、認識と例のカタレプシスつまり(既に試みに直訳したように)把握を歓迎する。精神はこれを利用するためだけでなく(真実の光ほど好ましいものはないので)それ自体のゆえに認識を愛するのである。その結果、精神は感覚を利用して技術をもたらし、それを言わば第二の感覚とする。そして哲学が美徳をもたらすようになるまで哲学を強化する。人生の全体をこれ次第なのである。だから、『何も把握できない』という人たちは、こういった人生の道具と飾りを奪うことになるのだ。それどころか、彼らは人生全体を根底から覆して、生き物から心を奪ってしまうのである。そしてそうなれば、彼らは必要に応じて彼らのお得意の軽率さについても言うことができなくなってしまうだろう。31

「私は彼らの考えが何なのか、彼らは何が言いたいのかを充分に確定することができない。というのは、彼らに対して『もし君たちの言うことが真実なら、全ては不確かとなってしまう』と言葉を向けると、彼らは『それが僕たちに何の関係がある? それは僕たちのせいではない。悪いのは自然だ。デモクリトスが言うように、自然が真理を深みに隠したのだ』と答えるからである。それに対して、別の人達(=カルネアデスたち)はもっと巧みに答えてくる。彼らは全てを不確かだと言っていると我々によって非難されることに抗議して、不確かなことと認識できないことの間にはどれほど違いがあるかを示そうとして、この二つを区別しようとするだろう。この区別をする人たちと議論する間、我々は星の数が偶数か奇数かという問題をあげて全ては不確かだと言う人たちを『絶望派』とでも名付けて脇に置いておこう。というのは、この区別をする人たちは(君たちはこの学説に大きく影響されていることに私は気づいている)『真実らしいもの、真実に似ているものがある』と主張して、『この基準を人生においても探求においても議論においても使う』と言っているからだ。32

XI 「そもそも、もし真実と虚偽が区別できないという理由で、真実と虚偽の目印はないとすると、君たちには真実と虚偽のどんな基準があるのか。というのは、もし真実と虚偽の目印が存在するなら、善と悪が違うように真実と虚偽も違うはずだが、もし真実と虚偽が違わないのなら、その基準もないことになるし、さらに真実と虚偽の表象を区別できない人は、真実の判断も、真実の目印も全く持つことができないからである。実際、彼らはそのほかのもの(=認識の対象)は認めておきながら、『同時に虚偽であるとは思えない(真実の)表象がある』ということだけを否定するという、児戯に類することをしているのである。彼らは全てを判断するための手段を取り上げていながら、そのほかのもの(=認識の対象)は取り上げないでいるのだ。それはまるで人の目を奪っておいて、視覚の対象は奪わないと言っているようなものである。しかし、視覚の対象が目を使ってのみ認識されるように、そのほかのもの(=認識の対象)は表象を通じて認識されるのであり、それは真実に固有の目印によるのであって、けっして真実にも虚偽にも共通の目印によるのではない。したがって、もし君が基準としている真実らしい表象か、あるいはカルネアデスの言う真実らしくて邪魔されていない表象か、あるいは何か別の表象を持ち出してくるなら、私達の言う表象に君は戻って来ざるをえない。33

「ところが、その表象の中に虚偽の表象と共通するものがあるなら、表象の真偽は判断できなくなってしまう。目印が共通なので表象の特徴が見分けられないからである。しかしながら、もし逆に共通なものなどないのなら、私の望んでいるものが手に入る。『真実であると同時に虚偽であるとは思えない表象』を私は求めているからである。ところが、真実の強い要求に屈した人たちは、認識されたものと目に見えるものを区別して、目に見えるものは存在するし、真実として心と精神に刻まれるが、決してそれを認識して把握することは出来ないことを証明しようとして、いつも同じ袋小路に陥ってしまうのである。というのは、本当は黒いものが白く見えているかもしれないとしたら、どうして白いものが見えると言えるだろうか。あるいは、心の受けた刺激が根拠のないものかどうか確かでないとしたら、どうして君たちは何かが見えるとか正確な印象を受けたと言えるだろうか。その場合には、色彩も固体も真実も推論も感覚も目に見えるものも無くなってしまうのである。34

「このために、彼らが何か言ったことに対して、いつも誰かに『それは君が認識したことなのか』と聞かれるようになった。しかし、彼らはそんな質問をする人をあざ笑うのである。というのは、そんな質問をする人も、自分が言いたい事実についてそれ相応の確かな目印なしにそれを主張したり肯定したりすることは誰にもできないとは厳密に言い切れないからである。それなら彼らのいう真実らしさとは何なのだ? 実際、もし誰かが何かに出会ってほとんど一目でそれを真実らしいと思っただけでそれを肯定するなら、これほど軽率なことはあるだろうか。35

「一方、仮に彼らがよく見回してじっくり考えた後に表象に従っていると言うとしても、やはり袋小路である。なぜなら、第一に、表象が区別できないならどの表象も信用出来ないし、第二に、賢者が最善を尽くして慎重に見回しても、そこに現れる物は真実に似ているように思えるが真実とは遠くかけ離れた物であると彼らが言う以上は、仮に、多くの場合、彼らがよく言うように、真実それ自体に非常に近づくことがあるとしても、決して彼らは自信が持てないからである。というのも、彼らが自信をもつためには真実の目印があるのを知る必要があるのに、その目印が曖昧で隠れたものなら、いったい彼らはどんな真実に到達できると言うのだろうか。したがって、次のような言い方ほど馬鹿げたものがあるだろうか。『これは求めている対象の証拠である。だからこれに従うが、それが指し示すものは虚偽かまたは全く存在しないかもしれない』と。しかし、認識についてはここまでとする。私がいま述べたことを覆そうとする人が現れても、真実は我々の助けがなくても容易に自分自身を守れるだろう。36

XII 「今までに説明したことは充分わかったことにして、次にギリシア哲学のシュンカタテシスに相当する『同意』と『承認』(=『アカデメイア派哲学1』40)について少し触れておこう。というのは、この主題が些細なものだからではなく、少し前(=20節)に既に基本的なことを話したからである。我々は感覚の能力について説明したときに、感覚によって多くのことが把握され認識されることを明らかにしたが、この把握と認識は同意なしには不可能なのである。次に、無生物と生物が最も異なる点は、生物は何らかの行動をすることであるから(何の行動もしないような生物を考えることはできない)、生物から感覚を奪うことができない以上は、我々が自由にできる『同意』を生物にも与えるべきである。37

「逆に、懐疑派によって感覚も同意も否定された生物はある意味で心を奪われた生物である。というのは、天秤の皿に重りを置けば必ず下がるのと同じように、心は明白なものに従うからである。なぜなら、どんな生物も自然に合致している(ギリシア語のオイケイオンである)と思えるものを欲求せずにはいられないが、それと同じように、生き物は自分が出会った明白な物に同意せずにはいられないからである。いやそれどころか、もしこれまでの議論が正しければ、同意について語る必要はまったくない。というのは、何かを認識する人は直ちに同意するからである。そしてここらか次のことも明らかとなる。つまり、同意なしには記憶も生まれないし物事の概念も学問も生まれないということである。さらに最も重要なことは、我々は何かを自由に出来るということであるが、何物にも同意しない人にはそれが出来なくなってしまう。自由がなければ、美徳はいったいどこにあるというのだ。38

「悪事は本人の自由裁量に属するし誰も同意なしに悪事を犯せないのに、美徳にこれが当てはまらないとしたら、全くおかしなことである。というのは、美徳のもつ一貫性と不変性は、美徳が同意して受け入れた事について成り立つからである。概して、我々は行動する前には必ず何かの表象を見て、その表象に同意する必要がある。だから、表象も同意も否定する人は、人生のあらゆる行動を否定しているのである。39

XIII 「つぎに彼らが反論としてよく言うことを見てみよう。だがその前に、彼らの学説全体のいわば根本といえるものを君たちに知っておいてもらおう。彼らはまず最初に我々が表象と呼んでいるものについての理論を組み立てて、その意味と種類を定義している。特にその中で認識と把握の対象となりうるものを、ストア派と同じくらい詳しく定義している。次に彼らはいわばこの研究の全体をまとめた次の二つの命題を提示している。それは(1)ある物が別の物と同じように見える可能性があって、しかも両者の間に違いがない場合には、その内の一方が認識できて他方が認識できないということはありえない。(2)両者に違いがないのは、両者がすべての部分においてよく似ている場合だけでなく、両者の違いが見分けられない場合もそうである。彼らはこの二つを提示してから、たった一つの推論の中に全ての命題を含ませた。その推論とは次のようなものである。『表象のうちのあるものは真実であり、あるものは虚偽である。虚偽であるものは認識できない。一方、あらゆる真実の表象は虚偽の表象とよく似ている可能性がある。そして、そのようなよく似ていて区別できない表象のうちのあるものが認識できて、あるものは認識できないということはあり得ない。したがって、表象は認識できない』。40

「ところで、この推論は彼らが自分たちの主張(=表象は認識できない)を証明していると考えているものであるが、そのなかで次の二つについては彼らは誰もが認めるものだと考えているし、実際、誰もこの二つには反対しないだろう。その一つ目は『虚偽の表象は認識できない』であり、二つ目は『区別できない表象のうちのあるものが認識できて、あるものは認識できないということはあり得ない』。残りの部分についても彼らは長々とした議論によって擁護している。それもまた二つで、その一つ目は『表象のうちのあるものは真実で、あるものは虚偽である』であり、二つ目は『あらゆる真実の表象は虚偽の表象とよく似ている可能性がある』である。41

「この二つの命題について彼らは簡単に済ませることなく、入念にしかも熱意を込めて論じている。つまり、彼らはこれを多くのしかも大きな章に分けて論じている。その第一部は感覚についてであり、第二部は感覚から導かれるものと習慣全般から導かれるものについてである。この習慣は明確ではないと彼らは主張する。そうやって、論証や推論によって何かを認識することはできないという部分に至るのである。この議論全体はさらに細かい部分に分けられている。感覚について昨日の議論で我々が見たのと同じように、それ以外についてもしている。つまり個々のテーマを細かく分類して、その全てについて真実の表象が、真実の表象となんら異なることのない虚偽の表象と隣接していること、そして、表象がこのようなものであるから、それを把握することは不可能であると証明しようとするのである。42

XI∨ 「この入念さは哲学にとってはとても相応しいものだと思うが、このような主張をする人たちの立場とはかけ離れている。定義、分類、明確な言語表現、類似と相違とその詳細な区分は、自分たちの擁護する学説が真実で確実なものであることに自信をもっている人たちのもので、自分たちの学説は真実でも虚偽でもないと主張する人たちのものではない。彼らが何か定義したあとで、その定義はほかのどんなものにも当てはまるのか誰かに尋ねられたらどうするのだろうか。もし当てはまるというなら、その定義が真実である理由をどう説明するのか。もし当てはまらないというなら、この真実の定義は虚偽の対象には当てはまらないのだから、その定義によって説明できるもの(=真実)は認識できることを認めねばならない(=虚偽のものが見分けられるなら真実のものが認識できるはずだ)。ところが、彼らはこれを認めようとしない。この議論は彼らの学説のすべての部分に当てはまる。43

「というのは、彼らがもし自分の議論の対象を明確に理解しており、真実と虚偽の表象の共通性によって邪魔されていないと言うなら、彼らはその対象を把握していることを認めるべきだからである。ところが、もし真実の表象と虚偽の表象を見分けられないと言うのなら、どうやってこの先の議論を進めることが出来るというのだろう。なぜなら、彼らに対するこれまでの批判は、この先の議論にも当てはまるからである。というのは、君たちは、証明の前提とされるものが真実であって、それとよく似た虚偽のものが存在し得ないことをまず証明しないかぎり、何かを証明することは不可能だからである。だから、把握され認識されたものによって議論を進めて、何も把握できないことを証明するのなら、これほど矛盾したことはない。正確な議論の本質は、明らかでないものを明らかにすることであって、それをさらに容易に行うために自明なものと感覚とを利用するはずなのに、全ての物はその外見とは違っていると主張する人たちの議論とはどういうものだろうか。しかし、彼らの論理が特におかしいのは、次に示す二つの完全に矛盾する命題を彼らは両立すると考えている点である。つまり彼らは、まず、『虚偽の表象が存在する』というが、そう言う時彼らは『真実の表象が存在する』と言っていることになる。その次に、それと同時に『虚偽の表象と真実の表象は区別できない』と言っている。しかし、最初の命題では両者(=真実の表象と虚偽の表象)が区別できるかのように言っているのである。つまり、最初の命題は後の命題とは両立しないし、後の命題は最初の命題とは両立しないのである。44

「だが、我々は議論を先に進めよう。しかも、議論が自分たちの説に偏っていると思われないように進めよう。一方、懐疑派の説について説明するときには、何も見落さないようにしよう。まず第一に、我々がさっき言及した明白さは非常に大きな力を持っているので、それだけで対象をありのまま我々に示すことができる。しかしながら、明白なものに我々が揺るぎなく断固として留まるためには、屁理屈や勘違いによって、それ自体明白であるものを手放してしまうことがないように、注意深さと技術を持たねばならない。というのは、エピクロスは、真実の認識の邪魔をすると思われるこれらの間違いを取り除こうとして、憶断(=独断)と明白さを区別するのは賢者の役割であると言ったが、それから先は進めなかった。彼は憶断の間違いを少しも取り除かなかったからである。45

X∨ 「したがって、明白なもの自明なものに対して二つの要因が対立するとき、それに対する援軍も同じ数だけ用意しなければならない。第一の要因は、明白なものがどれほど光に満ちているかを人々が理解できるほどに、充分に精神を集中させないことである。第二の要因は、人々が詭弁に満ちたあやふやな質問に妨げられたり騙されたりして、その質問を論破できずに、真実を手放してしまうことである。だから、我々はいま述べたような反論を用意して明白さを擁護できるようにしておく必要がある。そうして武装して彼らの質問に対抗して、彼らの詭弁を撃退できなければならない。私はこれを次にやるつもりである。46

「それでは、彼らの学説を順序正しく見ていこう。というのは、彼らはけっして混乱した話し方をしないからだ。まず最初に彼らは、全く存在しない多くのものが存在するように見える可能性があることを示そうとする。というのは、精神は全く存在しない物からも存在する物からと同じ様にいたずらに影響されるからだというのである。そして、彼らは言う、『君たちの学派が、例えば夢で見るものや神託や占いや生贄に示されるもののように、神から送られる表象があるという時(彼らが批判するストア派はこれらを受け入れていると言われている)、神は(=夢のような)虚偽な表象を真実らしく出来るのに、どうして真実に最も近い虚偽の表象を真実らしく出来ないだろうか』と、彼らは問うのだ。あるいは、『もし神にこれが出来るのなら、真実と区別できるがそれが難しい虚偽の表象をどうして真実らしく出来ないだろうか』と問う。そして、『もし神にこれが出来るのなら、真実と区別できない虚偽の表象をどうして真実らしく出来ないだろうか』と問うのである。47

「次に、『心に思い描いたものや時々夢や幻覚で見るものによって明らかなように、心は自分自身によって動かされるので、心の動きは表象が真実か虚偽か見分けられないだけでなく、真実の表章と虚偽の表象を区別できないというのが真相に近い』、と彼らはいう。『例えば、誰かが震えて青くなった原因が心の動きによるのか外部の恐ろしい出来事によるのかどちらかである場合には、その人が震えて青くなった原因を見分ける材料は存在しないし、心の内部と外部との間には何の違いもない』。そして、最後に彼らは言う、『もし虚偽の表象がまったく真実らしくないのなら、話は別である。しかし、もし(=ストア派が言うように)虚偽の表象が真実らしいのなら、真実と容易に区別できない虚偽の表象がどうして真実らしくないだろうか。真実と何の違いもない虚偽の表象がどうして真実らしくないだろうか。何より賢者が心が乱れている時に同意を控えるのは、表象の間の違いがまったく明らかではないからだと、君たちは言うではないか』と。48

X∨I 「このようなあらゆる幻影についてアンティオコスは実に多くのことを語り、この問題一つで一日じゅう議論したものだ。しかし私は同じことはせずに要点だけを述べることにする。まず第一に批判すべきなのは、彼ら(=懐疑派)が極めてインチキ臭い論法を用いていることである。それは、何かをわずかずつ漸進的に付け加えたり引き去ったりする論法で、決して哲学では認められないやり方である。彼らはこのような議論の仕方をソリテス(=砂山のパラドックス、堆積の議論、漸進論法)と呼んでいるが、これは砂を一粒付け加えることで砂山を作ることから来ている。これはもちろん間違ったインチキな議論の仕方である。というのは、君たち(=懐疑派)は『もし眠っている人に神が真実らしい表象を送るのなら、どうして真実に似た表象を送らないだろうか。次に、神はどうして真実と区別するのが困難な表象を送らないだろうか。さらに、神はどうして真実と全く区別できない表象を送らないだろうか。最後に、神はどうして真実と何の違いもない表象を送らないだろうか?』と、このように進めていくのだ。もし君達がこの結論に至るまでの間、各段階を順番に私が認めたのなら、これは私の責任となるが、君たちが勝手にここに到達したのだから、君たちの責任である。49

「そもそも、神は全能だと誰が君に認めたというのか、あるいは神が全能だとしても、さっきのようなことを神がすると誰が君に認めたのか。その一方、君たちは、もし何かが何かに似ているなら、その二つをどうして『区別するのが困難』と考えるのか。さらに、そこからどうして『全く区別できない』になって、最後にどうして『同じもの』になるのか。それで行けば、もし狼が犬に似ているなら、最後には両者が同じだと君たちは言うことになる。確かに、名誉なことは不名誉なことに似ているし、善い事は善くない事に似ているし、芸術的なことは芸術的でないことに似ている。そこから、これらの間には何の違いもないと断言するのに何を躊躇するだろうか、となるのだが。この議論がおかしいことが我々に分からないとでもいうのだろうか。というのは、自分の属する種類から別の種類へ移せるようなものは何一つないからである。もし異なる種類の表象の間に何の違いもないことが証明されるなら、その異なる種類の両方に属するような表象が見つかるはずであるが、そんなことがどうして起きるだろうか。50

「そんなとき全ての空虚な表象を排除する方法が一つだけある。我々がいつも認めているように、その表象が空想であったり睡眠や飲酒や狂気によって作られたものであっても適用できる。それは全てのこの種の表象には我々がけっして手放すべきでない明白さが欠けていると分かるからである。頭のなかで何を思い描いたとしても、はっとして我に帰るやいなや、明白なものと空虚なものの違いには誰でもすぐに気づくものである。夢についても同じ事が言える。エンニウスが隣のセルヴィウス・ガルバと並んで庭を散歩しているときに『私はガルバと一緒に散歩していると思う』と言うだろうか。そうではなく、夢からさめた時に彼は『自分は詩人ホメロスといっしょにいたと思う』と言ったのである。エピカルモスも同様に『僕は自分が死んだ夢を見たと思う』と言ったのである。そして我々は目覚めるやいなや、夢で見たものを真に受けずに、広場での自分の行動とは違う扱いをするのである。51

X∨II 「ところが懐疑派は、睡眠中に見る光景と目覚めている時に見る光景とは、見ているときには同じものだと言う。しかし、両者はそもそも同じものではない。しかし、それは今は置くとして、眠っている人と起きている人とでは精神状態でも感覚の状態でもその能力と健全さが全く違うということは言える。酔っぱらいの行動は、素面の人間の場合と同じ同意をまったく伴っていないのである。つまり、酔っぱらいはふわふわして確信がない。時々我に返るが、目に見えるものには弱々しく同意するだけである。そして一眠りして酔いが覚めたときに、自分が見ていたものが非常に軽いものだったことを理解するのである。同じ事が気の狂った人間にも起こる。最初は自分が狂っていることを感じて、存在しないものが見えると言いだす。そして落ち着いてくると、感覚を取り戻して、アルクマイオンが言ったのと同じ事を言う。『私の心は目に見えているものに全く同意できない』と。52

「それに対して、賢者は狂気のときも、虚偽なものを真実なものとして受け入れないようにすると懐疑派は言う。また、感覚が圧迫されたり鈍くなった場合、見たものが明確でない場合、観察する時間が少なくてよく見えない場合などでも、賢者は同意を控えると言う。しかしながら、賢者が時によって同意を控えることがあるという事は、それ全体が君たち懐疑派の意見に反している。というのは、もし表象の間に何の違いもないなら、賢者は常に同意を控えるか、まったく控えないかどちらかのはずだからである。そのうえ、これまでの議論のやり方からは、全てを混乱させようとする人たちの浅薄さを見ることができる。我々が求めているのは、賢者の判断がもつ重厚さであり安定性であり確実さなのだ。それなのに、我々の使っている例は寝ている人や狂人や酔っぱらいである。こういう類いの例を扱っている限り、我々の議論は矛盾したものになると言わざるを得ない。我々は目覚めて素面で正気な人とそうでない人の見る物の間に、ある時は違いがあり、ある時は違いがないと言うために、酔っぱらいや睡魔に襲われた人や精神異常の人を持ち出すような馬鹿げたことをすべきではないのである。53

「懐疑派は自分たちが全てを不確実にしようとしていることに気づかないのだろうか。しかもこれは彼らも望まないことである(不確実と訳したのはギリシア語のアデーラである)。もし狂人が見る物と正気の人間が見る物との間に違いがないのなら、自分が正気であることを誰が確かめられるだろうか。こんな状況にしたいと思うことこそひどく狂っていることである。一方、彼らは双子の類似性や印鑑の押し跡の類似性を子供のように熱心に追求しているが、我々の誰がそうした類似性を否定するだろうか。多くの物についてのそうした類似性は明らかだからである。しかし、認識力を否定するのに充分なほど多くの物に多くの類似性が見られるのなら、どうして君たちはそれで満足しないのだろうか。しかも、我々もそれは認めているのである。しかるに、どうして君たちは自然の摂理が認めないことまで主張するのだろう? どんな物にもそれ自身の特徴があり、二つ以上の物の間にはあらゆる点で異なることのない共通性など存在しないことを、君たちは認めないのである。 例えば、卵は卵同士似ているし、ミツバチはミツバチ同士似ているとして、君たちはその何が不満なのだ? 君たちは双子に何を望むのだ? なぜなら、似ていることは認めているのだから、それで君たちは満足すべきだった。ところが君たちは、似ているのではなくて全く同じだと言う。しかし、それはあり得ないことである。54

「そして君たちは、アカデメイア派の間で嘲笑の的となっている自然学者たちに助けを求めるのだ。君たちは自然学者から離れられないのだ。そしてデモクリトスが無数の世界が存在してそれらの幾つかは似ているだけではなく全く同じで何の違いもないと言ったという話をもちだす。そして人間についても同じことが言えると。さらに、もし一つの世界が別の世界と全く同じで少しも違わないのなら、我々のこの世界の中でも何かが何かと全く同じで何の違いもないということを認めるべきだと君たちは主張する。例えば、デモクリトスが『全てのものが生まれる源である』と主張するあの原子によって、ほかの無数の世界には無数のクイントゥス・ルタティウス・カトゥルスが存在する可能性があるだけでなく実際に存在するのに、この広い世界にもう一人のカトゥルスがどうして作り出せないだろうかと、君たちは言うのだ。55

XVIII 「そもそも君たちがデモクリトスを引き合いに出しても、僕はデモクリトスの言うことに同意できないどころかはっきり拒否しているのだ。なぜなら、それぞれの物には固有の特徴があることは、彼より進んだ自然学者たちによってはっきり証明されているからである。例えば、むかし双子のセルウィリウスがそっくりだったと言われているが、その二人を君たちは全く同じ人間だったと言うのかね。彼らは自分の家の外では見分けられなかったとしても、自分の家の中では見分けられたし、他人には見分けられなかったが、身内には見分けられたのだ。我々がとても見分けられないと思っている人たちも、慣れてくると簡単に見分けられて、少しも似ていないと思えるようにな事が起こるのを、我々は知らないだろうか。56

「ここで君たちが反論しても、もう僕は反論し返さない。実際、ここでずっと話題にしてきた賢者なら、自分が見分けのつかないほど似たものに出会った時には同意を控えて、どんな表象でもそれが虚偽である可能性があるなら同意しないということを、僕は認めている。しかし、賢者はそれ以外のものについて真実と虚偽を区別する技術を持っているのだから、そのようなよく似たものに対しては経験を積めばいいのである。双子の母親は目が慣れれば双子を見分けられるように、君たちも慣れてくればよく似たものを見分けられるのである。卵が互いによく似ていることが諺にまでなっていることは、君たちも知っているだろう。しかし、我々が聞いた話では、まだ栄えていた頃デロス島には多くの鶏屋がいたが、彼らは卵を見てどの鶏が産んだものか見分けられたそうである。57

「この話は我々の考えに矛盾しない。我々は卵を見分けられなくてもかまわないのである。なぜなら、それにも関わらず、この卵とあの卵は同じ卵であることに同意するのと、両者に何の違いもないというのとは決して同じことではないからである。我々は、真実であると同時に虚偽ではありえない表象を真実であると判断するという基準をもっているからである。すべてを混乱させてしまわないためには、我々はこの基準から言わば一ミリも外れることは許されない。なぜなら、もし真実と虚偽の違いがないなら、真実と虚偽の認識も、真実と虚偽の本質も失われてしまうからである。そうなると、君たちがよく言っていることは馬鹿げたことになってしまう。つまり、君たちは、表象が心に刻まれる時、その刻まれた表象が何の違いもないと言うのではなく、その外見や形態が何の違いもないと言うからである。しかし、表象は外見でしか判断できないのである。真実と虚偽の目印(=外見)を取り上げてしまえば、表象には何の信頼性もなくなってしまう。58

「君たちは何物にも邪魔されなければ真実らしさに従うと言っているが、実に馬鹿げたことである。まず第一に、虚偽の表象が真実の表象と違いがないときに、どうして君たちは邪魔されずに観察できるというのか。第二に、真実の表象と虚偽の表象に共通するものがあるときに、どのような真実の判断基準があるというのか。ここから必然的に例のエポケすなわち同意の保留(=判断中止)が生またのであり、カルネアデスについて多くの人が言っている事が正しいなら、これに関してはアルケシラオスの方がカルネアデスよりも一貫性がある。というのは、もしこの二人が考えるように何も認識できるものがないのなら、同意は否定されねばならないからである。実際、認識していない事に同意するほど虚しいことがあるだろうか。ところが、昨日聞いたように、いつもカルネアデスは賢者も憶断する、すなわち誤りを犯すと言うところまで行ってしまうのだ。しかし、私にとっては、(これまで時間をかけて検討してきたように)何か把握出来るものが存在するということはもちろんだが、賢者は全く憶断することはない、すなわち虚偽なものや認識していない事に同意することはない、ということほど確かなことはないのである。59

「ほかにも彼らの主張で、真実を発見するためには全てについて賛否両論を闘わせねばならないというのがある。ではそうやって彼らが何を発見したのか私は知りたい。ところが、『それは人に見せないことになっている』と彼らは言うのだ。『その秘密主義はなんなのだ。なぜ君たちは自分たちの考え方を恥ずかしい物であるかのように隠すのか?』 『それは、自分たちの説を聞く人が権威ではなく理性に導かれるようにするためだ』と言う。しかし、両方に導かれたらどうなのか。その方が悪いだろうか。その一方で、彼らはただ一つのこと、つまり『認識できるものは何もない』という考えだけは隠していない。しかし、この考えには権威が影響していないだろうか。私にはこの考えにはまさに権威そのものだと思う。実際、もし豊富な知識と雄弁さをもつアルケシラオスがいなかったら、いや、それよりさらに優れたカルネアデスがいなかったなら、これほど明らかに間違っている頑固な説に誰が従っただろうか。60

XIX 「以上のようなことをアンティオコスはアレクサンドリアにいたときに語ったのである。彼はそれから数年後、亡くなる少し前に、私と一緒にシリアにいた時も、さらに熱心に語った。ところで、今こうして私は自分の学説を話し終えたので、私より年下で親友の君に(と僕のことを指した)遠慮無く忠告させてもらう。君は哲学を非常に賞賛してそれに反対するホルテンシウスを動揺させたが、君は真実と虚偽を区別しないような哲学、我々から判断力を奪い、同意を否定し、あらゆる感覚を取り去るような哲学に従うのかね。そもそも、神の仕業か住む場所のせいか何かで太陽を奪われたあのキンメリア人でさえも火を持っていて、その光を使うことが出来た。それなのに、君が認める人たちは我々を大きな闇で覆ってしまって、物を見るための小さな光も残してくれていないのだよ。我々がもしそんな人たちに従うなら、鎖でがんじがらめにされて全く動けなくなってしまう。61

「なぜなら、彼らは同意を取り上げてしまったことで、心の動きも行動も全てを取り上げてしまったんだからね。そんなことは間違っているだけでなくあり得ないことだ。気を付けたまえよ。君はこんな考え方を擁護することが一番許されない人なんだからね。それとも、君が極秘の計画(=カティリナ陰謀計画)を探りだして明るみに出した時に、君はそれを見つけたと真実の誓いを立てて言った(それを君からを聞いた私も同じことができる)のに、その君が、認識したり把握したり認識したり出来るものはないと言うのかね。あの立派な手柄の信憑性を君自身の手で損なうようなことがないよう、くれぐれも気を付けるようお願いするよ」。彼はこう言うと話を終えた。62

 その話にホルテンシウスはしきりに感心していた。ルクルスが話している間ずっとそうで、時々手をつき上げるほどだった(それは当然だった。私が見ても、アカデメイア派(=懐疑派)への反論をこれほど上手くやった人はいないからだ)。ホルテンシウスは冗談か本気か(そこは私はよく分からなかった)僕に考えを変えるように勧め始めた。するとカトゥルス君が僕に言った。「もし君がルクルスさんの話が気に入ったのなら、僕は何も言わないよ。もし君が考えを変える気になったのなら、僕は邪魔をしない。なにせルクルスさんの話は実に正確だったし量的にも不足はなかったからだ。だが、君は彼の名声に気圧されない方がいいと思う」。カトゥルス君は笑いながら言った、「言わばルクルスさんは君に忠告したんだね。一方で確かな事を見つけるのは不可能だと言っておきながら、他方で確かな事を見つけたと言ったりしたら、破廉恥な護民官が君を議会に呼び出して君の矛盾を追及するだろう。そんな護民官は沢山いるから気をつけろと。だが、そんなことを君は恐れてはいけない。この問題に関しては君にはこの人の意見に同調しないでもらいたい。だがもし君がこの人の意見に従うとしても、私はそんなに驚かない。というのも、私はアンティオコスが何年もの間ほかの考え方をしていたが、自分の気持に従って考え方を変えたのを知っているからだ」。カトゥルス君がこう言うと、みんなは私の方に注目した。63

XX  それから私(=キケロ)は大きな訴訟のときと同じくらいに緊張して、次のように話し始めた(=以下、懐疑派の立場でキケロが批判)。「カトゥルス君、この問題についてのルクルスさんの今の話(=アンティオコスの考え方)に僕は深く感銘を受けたよ。彼は本当に博識で雄弁で、よく準備をしていて、この問題について言えることは何も見落としていない。しかし、そうは言っても僕は自信を無くして、もうぐうの音も出ないという程ではない。確かに、ルクルスさんの名声は大したもので僕も圧倒されそうになったが、君のいまの素晴らしい助言で僕も少し楽になったよ。だから、僕も言わせてもらおう。だが、その前に僕のその評判について少しお話ししよう。64

「僕は自己顕示欲や闘争心から特にこの哲学の学派を選んだのなら、自分の愚かさだけでなく自分の性格までも非難されるべきだと思う。実際、ごく些細な問題についてさえ頑固であることは批判されるし、詭弁が禁じられているのに、人生全体について議論するときに、僕がただ勝ちたいために人と争おうとしたり、他人や自分自身をいつわろうとするだろうか。だから、政治の議論をするときにしばしば行われることをこの種の議論で行うことが無意味なことだと思えないなら、僕はジュピターと我が家の守り神にかけて『私は真実を発見することに熱意を傾けて真に思っていることだけを語ります』と誓うよ。65

「実際、僕がもし真実に似た物を発見することに喜びを感じるなら、どうして真実その物の発見を願わないでいられようか。しかし、僕は真実の発見を何よりすばらしい事だと思うだけに、虚偽を真実として受け入れることは何より恥ずかしい。それでも、僕は決して虚偽に同意しないとは言えないし、同意したことも憶断したこともないとは言えない。問題は賢者である。それに対して、僕は賢者でないから憶断ばかりしているし、自分の考えを導くとき僕は小熊座には従わない。

『フェニキア人は小熊座を夜の海の導き手として信頼した』

これはアラートゥスの言葉だが、実際フェニキア人は小熊座を目印としていたのでまっすぐに航海できた。その

『小熊座は内側のコースを短い周期で回っている』。

僕は、そうではなく大熊座と最も明るい北斗七星に従っている。つまり、もっと大雑把な論理に従っているのであり、細かい点まで制限された論理ではない。その結果、僕は間違うし迷子にもなる。しかし、いま問題にしているのは僕の事でなく賢者のことである。というのは、あなた達のいう表象が僕の心と感覚に強く刺激を与えたら、僕はそれを受け入れるし、時には同意もする。(しかし認識することはない。僕は何物も認識できないと考えているから)。つまり、僕は賢者ではない。だから、表象には従うし抵抗することは出来ない。ところが、アルケシラオスはゼノンと同じく、罠にかかったり騙されたりしない能力では賢者が最も優れていると考えている。というのは、賢者の威厳についての我々のイメージは、過失や軽率さや当てずっぽうからは程遠いものだからである。したがって、賢者の手堅さについては何も言う必要はない。それどころか、ルクルスさん、あなたも賢者が何も憶断することはないと言っている。これをあなたが認めているからには、(ここでは話の順序が逆になるが、そのうち本来の順序に戻すつもりだ)、先に次の三段論法にどんな意味があるか考えて欲しい。66

XXI 『もし賢者が何かに同意することがあるとすれば、いつかは憶断をすることになるだろう。ところが、賢者が憶断することは決してない。したがって、賢者は何物にも同意することはない』。この三段論法はアルケシラオスがかつて認めたものである。なぜなら、彼は大前提と小前提のどちらも認めていたからである。(カルネアデスはしばしば小前提として『賢者は同意することがある』を認めた。したがって『賢者も憶断する』となった(=59節)。あなたはこれを認めようとしないが、それは正しいと思う。) けれども、ストア派の人もストア派に同調するアンティオコスも『もし賢者が同意するなら憶断することになる』という大前提は誤りだと言っている。なぜなら、賢者は真実と虚偽を、認識できる物と認識できない物を区別出来るからと彼らは言うからである。67

「一方、僕たちは、たとえ何かが認識できるとしても、同意する習慣は危険であり躓きのもとであると考える。つまり、虚偽や未知の何かに同意することが大きな間違いなのは明らかだから、軽率に進んで大ケガをしないために、あらゆる同意は控えねばならないのである。それほど虚偽は真実と似ており、認識出来ない物は 認識出来る物(そのような物があるとしての話である。この事はあとで扱う)と似ているのである。だから、そんな危うい所に賢者は関わってはいけないのである。しかし、仮に『自分は何物も認識できない』と僕が考えていながら、その上で『賢者は決して憶断しない』というあなたの主張を僕が受け入れる場合でも、『賢者はあらゆる同意を控える』ということになる。そして、あなたはこの結果を受け入れないのなら、逆にあなたは『賢者も憶断する』ということを認めなければならい。ところが、あなたはこのどちらも(=「賢者は同意を控える」「賢者も臆断する」)認めない。だから僕たちは『何物も認識できない』ということを証明しようと思う。実際、全ての議論はここにかかっているのだから。68

XXII 「しかし、その前にアンティオコスについて一言述べよう。彼は僕が支持しているまさにこの学説をフィロンのもとで誰よりも長く学んだことは確かだし、その学説について実に素晴らしいものを書いた人だ。しかも、自分が熱心に支持したこの学説を老年になってから同じぐらい熱心に批判した人でもある。彼の議論は鋭かったが、それでも意見を変えたことで彼の権威は大きく損なわれた。彼が長年の間頑強に否定してきた真実と虚偽の目印の正しさにひらめいたのは何時のことだろうか。彼は何か思いついたのだろうか、ストア派と同じ事を言い出したのだ。彼は以前に考えていたことを後悔したのか。それなら、どうして彼はほかの学派、なによりストア派に移っていないのか。というのは、彼の反論はストア派に特有のものだからである。例えば ムネサルコスやダルダノス(=当時のアテネのストア派の指導者)が気に入らなかったのか。アンティオコスは自分の弟子を持つまではフィロンのもとから離れなかったのである。69

「どうして突然彼は古アカデメイア派(=独断派)を復活させたのか。彼は実を捨てて名を取りたかったのだと思われている。というのは、彼は名声のためにそうしたのだとか、自分の後継者がアンティオコス派と呼ばれるようにしたいのだとか言う人もいるからである。しかし、僕はむしろ彼が他の哲学者たちの総攻撃に耐えられなかったからだと思う。(他のことでは他の哲学者たちと意見の共通する点もあるが、アカデメイア派のこの考え方(=認識の否定)だけは、他の哲学者たちの誰も受け入れられないのだ)。そこで、彼は引き下がって、新しい街の太陽の光が暑くて耐えられずに旧市街の古いバルコニーの日陰を求めるように、彼は古アカデメイア派(=プラトンの後継=独断派)に救いを求めたのだ。70

「アンティオコスが『何も認識出来るものはない』と考えていた時代(=懐疑派時代)の議論の仕方があった。それは、ヘラクレアのディオニュソス(=ストア派でゼノンの弟子、後にストア主義をやめて快楽主義に移ったので転向者といわれる330-250)が、同意のために必要だとあなた達(=ストア派)が言う確かな目印によって把握していたの は、彼が長年信奉した考え方、師ゼノンから受け継いだ考え方、つまり『高潔さこそ唯一の善である』という考え方なのか、それとも、後に支持した考え方、つまり『高潔は名ばかりであり快楽こそ最高の善だ』という考え方なのか、どちらなのかを問う仕方である。そして、当時アンティオコスはディオニュソスの宗旨変えを使って『我々の心に真実によって刻印されるもので虚偽によって同時に刻印されていないものはない』という考えを教えようとした。ところが、アンティオコスは、自分がディオニュソスについて使った議論を、今度は他の哲学者が自分について使えるようにしてしまったのである(=アンティオコスも転向した)。しかし、この事については別の場所でもっとくわしく話すことにしよう。いまから、ルクルスさん、あなたが話したことに移ろう。71

XXIII 「まずあなたが最初に言ったことがどういうことか見てみよう。僕たちが過去の哲学者の名前を持ち出すのは、世の中を混乱させようとする連中が大衆受けのよい著名人の名前を持ち出すのと似ている、とあなたは言った。しかし、彼らは悪事を企みながら偉人たちに似ていると思わせようとしたのだ。それに対して、僕たちは僕たちの考えがあなた達も認める著名な哲学者たちの考えと同じだと言っているのである。例えばアナコサゴラスは雪は黒いと言ったが、僕が同じ事を言ってもあなたは許してくれるだろうか。僕が雪の色に疑念を抱いただけでもあなたは許してくれないだろう。しかし、アナクサゴラスはソフィストだったとでもいうのか(ソフィストとは虚栄心と金儲けのために哲学をした人たちのことだ)?。才能と学識の名声においてアナクサゴラスは比類がなかったのである。72

「デモクリトスについては何を言うべきだろうか。大胆にも彼は『私はこれから全てのことについて語る』といって始めた人である。僕たちは、すぐれた才能と精神の偉大さにおいて誰を彼と比べられるだろうか。彼の約束には例外はなかった。なぜなら、全てのほかには何もないからである。だからデモクリトスはクレアンテス(=ストア派ゼノンの弟子330~230)やクリュシッポス(=ストア派282-209)など後代の哲学者たちよりも優れていると誰もが言う。彼らは僕にとってデモクリトスと比べたら最低ランクの哲学者である。ところで、デモクリトスは僕たちと意見を異にする。僕たちは、真実の存在を否定しないが、真実が認識できることは否定する。それに対して、デモクリトスは真実の存在を否定するのである。デモクリトスは、感覚は薄暗闇どころか真っ暗闇の中にあると言う。彼は実際に感覚のことをそう言ったのである。彼を崇拝するキオスのメトロドロス(=前4世紀)は、『自然について』という自分の本のはじめに書いている、『我々が何か知っているか何も知らないかについて我々は知らない。そのこと自体、つまり「知っている」(あるいは「知らない」)についても我々は知らない。さらに何か存在するのか何も存在しないのかについても我々は知らない』と。73

「あなたはエンペドクレスは狂っていると言ったが、彼は自分の扱っている問題について最も相応しいことを述べていると僕は思う。彼は『感覚には自分のもとに与えられたものを判断する充分な能力がない』と言ったとしても、それで彼が我々の視力やそのほかの感覚を奪ったというのだろうか。パルメニデスとクセノファネスは、エンペドクレスより下手な詩ではあるが、何も知ることは出来ないのに自分は知ることができると言い張る人たちの傲慢さに腹を立てて非難している。あなたはこれらの自然学者の中からソクラテスとプラトンを除くべきだと言った(=14)。どうしてそんなことを言うのか。この二人については僕は他のどの哲学者のことよりもよく知っている。僕は彼らと共に生きていたとさえ思えるほどだ。それほど沢山の対話篇が伝えられている。それを読めば、ソクラテスが『何も知ることは出来ない』と考えていたことは疑いようがない。彼は一つだけ『自分は何も知らないことを知っている』ということを例外としたが、それ以外のことは何も知らないと言っている。プラトンについては何を言うべきだろうか。もし彼がこの考えを受け入れていなかったなら、彼はあれほど多くの本の中にこの考えを書きはしなかっただろうし、彼がソクラテスのアイロニーをあれだけ延々と描いたわけがない。74

XXIV 「僕はあなたの政敵のサトゥルニヌスがしたように、著名人の名前を使うだけでなく、名のある優れた哲学者だけを常に手本にしていることがあなたには分からないだろうか。もちろん、こちらにはもっと小者だがあなた達にとってやっかいな敵で、ひねくれたずる賢いソフィスマ(=虚偽の詭弁、誤謬推理)を作っているスティルポン(=ストア派のゼノンの師、メガラ派360~280)とディオドロス(=メガラ派~284)とアレクシヌス(=メガラ派339~265)もいた。だが、僕にはストア派の屋台骨を背負っているクリュシッポスがいるのに、どうして彼らを集めてくる必要があるだろうか。彼は、感覚を否定する推論や、習慣的に受け入れられている事のすべてを否定する推論を、実にたくさん集めたのである。確かに、彼はそれらの推論を反駁している。私にはそうは思えないが、仮にそうだとしよう。しかしながら、その反駁が容易ではないと思ったからこそ、クリュシッポスは、真実らしさのために我々を欺く多くの推論をあれほど沢山集めたのである。75

「キュレネ派(=快楽主義)の哲学者たちをあなたはどう思う? 彼らは決して軽んじるべき人たちではない。というのは、彼らは自分の外側にあるものは何も認識出来ないと言っているからだ。『我々は、苦痛や快楽のように、内的接触によって感じるものだけを認識出来るのであって、何かがどんな色でどんな音がするのかを知ることは出来ない。ただ自分が何らかの方法で刺激を受けていることを感じることが出来るだけだ』と彼らは言う。

「認識を否定した有力な哲学者たちの例はこれで充分だろう。ところで、あなたは問うた。古代の哲学者たちの後の長い年月の間に多くの才能ある人々が現れてこの問題を熱心に研究してきたのに、ついに真実は発見されなかったというのかと。では実際に何が発見されたのか、それを今からお見せするから、あなたに判断してもらいたい。そもそも、アルケシラオス(=懐疑派)がゼノンと論争したのは単にゼノンをやっつけるためではなく、真実を発見するためだった。それは次のことから分かる。76 

 『人は憶断を避けることが出来る。それどころか憶断を避けることは賢者に可能であるどころか必然である(=一切の同意を保留するから)』とは、先人たちの誰も主張するどころか口にすることさえもなかったのに、この考えをアルケシラオスは正しいもので、同時に賢者にふさわしい立派な考えであると主張したのである。そこで彼はおそらくゼノンに『もし賢者が何も認識できないし憶断もしないとすれば、どうなるのか?』と尋ねた。するとゼノンは『認識できるものが存在するからこそ賢者は憶断することはないのだ』と答えたにちがいない。『認識できるものとは何だ?』とアルケシラオスが問うと『表象だ』とゼノンは答えただろう。『どんな表象だ?』と問われるとゼノンは『それは元となる物から生み出されて刻印されたもので、元となる物と一致するものである』と定義した。するとアルケシラオスは『もし真実の表象が虚偽の表象とよく似たものであればどうなるのか?』と尋ねた。ここでゼノンは聡明にも『もし元となる物からの表象が元とならない物からの表象とよく似ていることがあり得るなら、認識できる表象はない』と喝破した。アルケシラオスはゼノンによるこの追加の定義に同意した。というのは、虚偽の表象が認識されることはないし、真実の表象もそれが虚偽の表象とよく似ているなら、認識できないからである。それから、アルケシラオスは『どんな真実の表象にも必ずそれとよく似た虚偽の表象があり得る』ということを証明する議論に没頭したのである。77

「これは今も続いている一つの論争ではある。しかし、先程の『賢者は何物にも同意することはない』という主張はこの論争とは関係がない。というのは、賢者は何も認識できないが憶断することもあると言うことも出来たからである。(カルネアデスがこれを認めたと言われているが、フィロンやメトロドーロスよりもクレイトマコスの話を信じるなら、カルネアデスはこれを認めたというより議論で支持したのだと思う。しかしそれはまあよい。)つまり、認識も憶断も取り去るなら、一切の同意を控えることになるのは確かである。だから、もし何も認識できないことを僕が証明するなら、賢者は決して同意しないことをあなたも認めねばらならないだろう。78

XXV 「では、もし感覚が真実を伝えないとしたら、いったい何が認識できるだろうか。ルクルスさん、あなたはありふれた論拠で感覚を擁護しているが、あなたにそんなことをさせないために、僕は昨日必要がないところで多言を弄して感覚を否定する議論をやった。それなのに、あなたは水中で曲がって見えるオールや鳩の首の色によって乱されることはないと言ったのである。第一、どうして乱されないのか。確かに、僕はオールの場合には見えていることが事実でないことも、鳩の首の色は複数に見えるが実は一つしかないことも知っている。でも、僕たちはそれ以外に何も言わなかっただろうか。あの議論が全部有効ならば、そちらの主張は駄目になるのだ。それなのに、この人は自分の感覚に間違いないと言うんだ。あなたには自分を大きな危険にさらしてまで自分の説(=感覚説)を主張している立派なお手本がある。というのは、エピクロスは、もし一つの感覚が人生で一度でも嘘をつくなら、全ての感覚を信じなくても構わないとまで言っているのだから。79

「確かに、自分が呼んだ証人(=感覚のこと)をひたすら信じて頑固に主張するのは立派なことだ。だから、エピクロス派のティマゴラスも、目をひねってもランプの火が二つに見えることはないという。嘘をつくのは目ではなく憶断の方だと言うわけである。しかし、問題は何があるかではなく何が見えるかなのだ。ただ彼は自分の師に忠実なだけである。それに対して、あなたは感覚の表象のうちの、ある物は真実で、ある物は虚偽だと言っている(=区別出来る)。では、それをあなたはどうやって区別するのか。ここでいつもの論拠を持ち出すのはやめてほしい。そういう例はこちらにも沢山ある。もし完璧で誤りのない感覚よりももっと何か良いものが欲しいかと神様に尋ねられたら、あなたはどう答えるだろうか。神様に聞かれたら、僕なら神様は僕たちをうまく造っていないと答えるだろう。例えば、僕たちの目が真実を見るとしても、どれほど遠くまで見えるだろうか。ここからクマエにあるカトゥルス君の屋敷が僕には見えるが、ポンペイにある屋敷は見えない。間に邪魔になるものは何もないのに視力が届かないのである。まったく素晴らしい視力だ。僕はプテオリ(=ポッツオーリ)の町は見えるけれど、僕たちの友達のガイウス・アヴィアニウス・フラックス(=書簡集にも出てくる友人)がネプチューンの神殿で散歩しているところは見えないのだ。80

「講義によく出てくるある人は1800スタディア離れた物が見えたという。鳥はもっと遠くまで見える。だから、僕ならあなたの神様に対して偉そうにこう答えるだろう。この目では不満だと。しかし、その神様は言うだろう、お前は魚よりはいい目をしていると。しかし、我々は魚が真下にいても見えないし、魚も我々が見えない。魚が水に覆われているように、我々は分厚い空気に覆われているのである。それなのにあの人たちは、これ以上は求めないと言う。どうしてだ。モグラは光を求めないとあなたは言うのか。僕が神様に不満があるのは、僕たちが遠くまで見えないことよりも、むしろ虚偽を見てしまうことである。あなたにはあの船が見えるだろうか。あの船は我々には止まって見える。ところが、あの船に乗っている人たちにはこの家が動いているように見えるのである。どうしてそう見えるのか、その理由を考えてほしい。多分あなたには無理だと思うが、たとえその理由を見つけたとしても、あなたが示す証人は真実の証人ではなく、わざと嘘の証言をする証人(=例えば上記のティマゴラス)だろう。81

XXVI 「僕がなぜ船のことを言うのか。あなたはオールの問題を軽く見ていた。多分もっと大きな物を求めているのだろう。それなら、太陽より大きな物はあるまい。太陽は地球の19倍の大きさだと数学者は言っている。その太陽がなんと小さく見えることか。僕には足の大きさにしか見えない。ところがエピクロスに言わせれば、太陽は見かけよりすこし小さいかもしれないが、けっして見かけより大きい物ではなく、多分見かけどおりの大きさであって、目はそんなに嘘つきじゃないということになる。それなら、さっき言った『一度でも嘘をついたら云々』(=79節)はどうなったのか。とはいえ、感覚は嘘をつかないと思っているこの信仰深い人からは別れよう。太陽はあれほど激しい勢いで動いていて、それがどれほどの速度か知ることはできないし、止まっているようにさえ見えるというのに、それでも彼は感覚は嘘をつかないと言うのだから。82

「しかし、議論を短くするために、論点がどれほど限定されているかを是非とも知ってほしい。これまでずっと議論してきた問題は、認識し知覚し把握できることは何もないということで、それを証明する命題は四つある。その第一は、虚偽の表象が存在すること、第二は、そのような表象は認識出来ないこと、第三は、何の違いのない複数の表象の間で、ある物は認識できてある物は認識できないということはあり得ないということ、第四は、感覚から生まれた真実の表象には、それと何の違いもなく認識することも出来ない別の表象が必ず並存する、ということである。この四つのうちで第二と第三は誰もが認めている。第一はエピクロスは認めないが、僕たちが相手をしているあなた達は認めている。だから論点は四番目に絞られる。83

「だから、もし双子の片方であるプブリウス・セルウィリウス・ゲミヌス(=56節)を見た人が、双子のもう一方であるクイントゥス・セルウィリウス・ゲミヌスを見ていると思ったなら、認識できないような表象に出会ったことになる。なぜなら、どんな目印によっても真実と虚偽を区別できなかったからである。しかし、この区別が出来ない人は、プブリウス・セルウィリウス・ゲミヌスと一緒に二度執政官(=252,248)になったガイウス・コッタを見分けるときに、虚偽でありえない目印をどうやって手に入れるのだろう。あなたはこの世の中にそんなに似ている物はないと言う。あなたは争うつもりだが、あなたの敵はそんなに争うつもりはない。それほど似ている物はないことは認めていい。しかし、似ているように見える物ならある。そして、そのせいで感覚は騙されるのである。そして一つでも似ているものに騙されると、全てが疑わしくなってしまう(=コッタを見ても疑わしく思えてくる)。というのは、見分けるのに必要な基準がなければ、たとえあなたが見ている人があなたが思っている当人だとしても、それが真実とよく似た虚偽ではありえないためにあなたが必要だという目印によって、そう判断していることにならないからである。84

「だから、プブリウス・セルウィリウス・ゲミヌスがあなたの目にクイントゥス・セルウィリウス・ゲミヌスに見えるのなら、事実と異なる物が見えるのだから、コッタでない人がコッタに見える可能性がないという確かな理由をあなたはもっていないことになる。あなたは全てのものはそれぞれ独自性があると言い、別の物でありながら同じである物はないと言う。ストア派は『髪の毛一本も穀粒一つでさえ全ての点で別の物と同じ物はない』という、それほど受け入れやくない主張をしている。この考えを反駁するのは可能だが、私は論争するつもりはない。なぜなら、見ている対象があらゆる点で同じなのか、それとも、同じではないが区別できないのかは、今の議論とは関係がないからである。しかし、もし人間同士はそれほど似ていないとしても、人間を描いた像もまた似ていないだろうか。どうだろう、リュシッポスは同じ銅を使い、同じ配合、同じ彫刻刀等々、同じ条件を揃えたら、百体のよく似たアレキサンダー像を作れないだろうか。その場合に、あなたはどんな目印によって見分けるだろうか。85

「では、ろう板に僕がこの印鑑を100回そっくりに押したら、それらを見分けるどんな違いがあるだろうか。それとも、あなたは卵を見分けられるデロス島の鶏商人(=57節)を見つけられたのだから、印鑑職人も探して来れるというのだろうか。

XXVII.「ところで、あなたは感覚の助けに技術を利用している(=20節)。画家は我々一般人には見えないものを見ているし、笛吹きが一吹きすれば、専門家は何の曲か分かる。しかし、どうだろうか。我々一般人のうちの少数の人しか近づけないような高度な技術がなければ見分けたり聞き分けたりできないのは、あなたの理論に反することではないだろうか(=感覚自体の認識力のなさを証明している)。ところで、あなたは、自然が我々の感覚と心と肉体の全てを創り上げた技術がどれ程多いかについて素晴らしい演説をした(=感覚ではなく技術をほめた)。86

「それを聞いた僕はどうして憶断の早とちりを恐れずにいられるだろうか。ルクルスさん、あなたはそれでも、何らかの力があってそれが先見の明と計画性をもって人間を形作った、あるいはあなたの言葉を使うと(=30節)、人間を作り上げたと断言できるのだろうか。その技術はどんなものだろうか。どこでそれを使ったのか。いつ、どうして、どのように? あなたはこうしたことをうまく扱っているし、上品に説明している。要するにそう思えることはあるだろう。ただ断言するのだけはやめてもらいたい。さて、いまから僕は自然学者の話に移ろう(僕たちがこうするとさっきあなたが言った(=55節)ことが嘘にならないために)。ここは分かりやすくするために、問題を全体にわたって詳しく語ろう。それは何冊も本が出来るほどで、しかも僕たちだけでなくクリュシッポス(=ストア派)によるものも含まれている。もっともクリュシッポスはストア派の学者たちには評判が悪い。彼は感覚とその明白性と常識と理性に反する材料を熱心にすべて集めたが、議論では負けてしまい、逆にカルネアデス(=懐疑派)に攻撃材料を提供したからである。87

「あなたが熱心に議論していた事は次のようなことだった。眠っている人、酔っている人、気が狂っている人が見る光景は、覚醒している人、しらふの人、正気の人が見る光景より劣っているとあなたは言っていた。どうしてかというと、エンニウスは目覚めている時には『自分はホメロスを見た』ではなく『見たと思う』と言ったからであり、一方アルクマイオンはエンニウスの作品の中で

『私の心は目に見えているものに全く同意できない』と言っているからだとあなたは言う。

酔っぱらいの場合もこれと似ている。目覚めた人は自分は夢を見ていたと思い、狂気が治まった人が狂気の時に見た光景を真実だと思わないのは誰も否定できないと。しかし、今の問題はこれではない。問題は何かを見ている時にどのように見えているかなのだ。実際、エンニウスは次の言葉、

『我が心に宿りし親愛の情は・・・』

をたとえ夢の中で聞いたとしても、彼はまるで目覚めている時と同じように聞いたのであって、我々はそれを否定出来ないからである。

というのは、目が覚めた時にエンニウスは自分の見たものが夢だと思うことができたが、寝ているときは起きている時と同じようにそれを真実だと思ったからである。さらに、イリオナは夢の中で自分の息子から、

『母よ、あなたに私は呼びかける・・・』

と話しかけられたのを真実だと思ったので、目覚めてからもそれを真実だと思い続けたのではなかろうか。というのは、彼女は次のように言ったからである。

『おいで、そばにおいで、ここにいて私の話を聞いておくれ、その話をもう一度しておくれ』。

彼女は起きている時に見たものと同じくらいに夢で見たものを信じたのではあるまいか?88

XXVIII 「気が狂った人については何を言うべきだろうか。カトゥルス君、君の親戚のトゥディタヌス(=狂人として有名だった)はどんな人だったのか。どれほど正気の人でも彼ほど自分の見たものを真実だと思った人がいるだろうか。また、

『私には見えるぞ、お前が見えるぞ。生きていろよ、オデュッセウス、ゆるされる限り』

と言った人(=アイアス)はどうだろうか。彼は本当は見えていないにも関わらず、『見えるぞ』と二度叫んだのではなかろうか。あるいは、エウリピデスのヘラクレスは、エウリュステウスの子供を殺すつもりで自分の子供を矢で射殺し、妻を殺し、父親も殺そうとした時、彼はまるで本当の姿に動かされたのと同じように、虚偽の姿に動かされたのではなかろうか。さらに、あなたの言うアルクマイオンは『私の心は目に見えているものに全く同意できない』と言っているが、同じ箇所で彼は狂気が激しくなって叫ぶ。

『この炎はどこから来たのか?』と。

次に、こんな事をいう。

『奴らが来る。奴らが来る。私の方に向かってくる。私を探して』

彼が娘に助けを求めるときはどうだろう。

『私を助けてくれ、私を苦しめるこの災難を、燃え上がる炎を遠ざけてくれ。
恐ろしい蛇を体に巻いて奴らが来る、奴らが燃え上がる松明をもって私を取りまいている』

彼はこうしたものを本当に見ていると思っているのを、あなたは疑うだろうか。次の言葉についても同様である。

 流れる御髪のアポロンが
 黄金の弓を向けてくる
 左手に力を込めて。
 一方、ダイアナが松明を月から投げるてくる。89

「もしこれが現実であったとしても彼はこれほどこの幻覚を信じただろうか。なぜなら、『心が目に見えているものに同意』しているのは明らかだからである。僕がこれらの話をしたのは、心が同意するためには真実の表象と虚偽の表象には違いがないのであって、これ以上に確かなことはない、ということを証明するためである。一方、あなたの学派は、虚偽の表象を狂人や夢見る人の思い出によって批判しているが、そんなことをしても意味がない。というのは、目が覚めたり狂気から覚めた人の思い出が問題なのではなく、狂気の人や夢見る人が実際に体験している幻覚が問題だからである。とはいえ、この辺で感覚のことは終わろう。90

「次に、理性によって認識できることは何だろうか。弁証術はいわば真偽の裁判官、判定者として生みだされたとあなた達は言う。それはどのような真偽なのか、またどのような分野についてなのか。弁証家は幾何学について何の真偽を判断するか、また文学については、音楽については? しかし、弁証家はこれらのことを知らない。それでは哲学についてなのか。太陽の大きさは弁証家と何の関係があるのか。弁証家は最高善を判断するどんな材料も持っているのか(=持っていない)。では弁証家は何を判断するのか。どんな仮言命題と選言命題が真で、何が多義的な言葉遣いで、任意の前提からどんな結論が出され、何がそれと矛盾しているかを判断するのか。しかし、弁証家がこのようなことを判断するなら、弁証家は弁証術自体について判断していることになる。しかし、弁証家はもっと多くのことを約束してきた。というのは、このようなことを判断するだけでは哲学に含まれる多くの重要な問題にとっては不充分だからである。91 

「それなのに、あなた達はこの弁証術を重視しているのだから、弁証術があなた達にあまり害をなさないようにすべきである。それは最初の段階では論理学の初歩と多義的な命題の理解の仕方と推論の方法について上手に教えてくれるが、それから少し進むとソリテスに行きつく。これは面倒でやっかいなテーマで、これをあなたは間違った議論の仕方だと言っていた。

XXIX.では、この間違いは僕たちのせいだろうか。何かについてどこを境界とするか決めることが出来る知識を僕たちは生まれつき与えられていない。名前の元となった小麦の山の場合だけでなく、何についても、段階的に、金持ちと貧乏、明確と不明確、多いと少ない、大きいと小さい、長いと短い、広いと狭いについて質問されたら、どれだけ足したり引いたりすれば確かな事を答えられるか、僕たちは分からないのである。92

「それに対して、あなた達はソリテスには欠陥があるという。それなら、あなた達はそんなものに悩まされないようにソリテスをやめてしまえばいい。ソリテスは用心しないと悩ましいものだからである。『用心はしている』と言うかもしれない。『クリュシッポス(=ストア派)も、例えば三は少ないか多いかを段階的に質問されたときには、多いところに来る手前のどこかで休む(ギリシア語でヘースカゼイン)べきだと言っている』と。それに対してカルネアデスは言う、『私に言わせれば、休むどころか居眠りしたって、そんな事は何の役にも立たない。また誰かが来て君を眠りから起こして、『君が止まったところの数字に一を足すと、それは多いことになるのか?』と質問を続けるだけだから、君はまたどこまでも続けることになる』と。もうこの辺でいいだろう。要するに、あなた達はどこで『少ない』が終わってどこで『多い』が始まるのか答えられないことを認めているのだ。どこまで行ってもこの困難は終わることがないからである。93

「するとこう言うかもしれない。『そんなことは平気だ。なぜなら、上手い騎手は境界の直前で馬を引き止めるし、馬の行き先が断崖だったらなおさらそうするが、私もそれと同じようにするだろう。私も直前で立ち止まって、やっかいな質問にそれ以上答えないようにしている』と。でも、もしあなたが明確な答えを持っていて答えないのなら傲慢だし、そんな答えを持っていないのなら、あなたは認識できていないことになる。不明確だからというなら仕方がない。しかし、あなたは不明確な所まで進むことを拒否して明確な所で立ち止まっている。しかし、黙っているだけなら、何も得られない。あなたを罠にかけようとする人には、あなたが黙っていようがしゃべろうが関係ないからだ。一方、もしあなたが例えば九まで躊躇なく『少ない』と答えて十で立ち止まるなら、あなたは明確なものに対しても同意を控えている(=判断停止)ことになる。ところが、不明確なところで同意を控える(=懐疑主義)僕たちのことをあなたは批判しているのだ。というわけで、弁証術は増減するときに何が最初で何が最後か教えないから、ソリテスに対抗するには役に立たないのである。94

「では、ペネロペが織物をほどいたように、弁証術は最後になってそれまでの全てを否定してしまうことはどうだろうか。これは僕たちのせいではないだろう。弁証術の基本は、あらゆる主張(これを彼らはアクシオーマと呼んでおり、『命題』にあたる)は真実か虚偽かのいずれかであるということだ。では、次のことは真実なのか虚偽なのか。もしあなたが『自分は嘘をついている、これは本当だ』と言ったら、あなたは嘘をついているのか本当のことを言っているのか。あなた達はそれは解答不能だと言う。しかし、それは僕たちが物事は把握できないし認識できないと言うよりも具合が悪い。

XXX「しかし、それはいいとして、これはどうだろうか。つまり、もしさっきの問題が解答不能でそれが真実か虚偽か答える基準が見つからないのなら、『ある命題は真実か虚偽かどちらかである』とするあなた達の定義はどこへ行ったのか。さらに言うと、ある認められた前提から導かれる命題は受け入れて、前提に反する命題は否定すべきだとあなた達は言っている(→次節へ)。95

「そこで、次の推論をどう判断するのか。『もしあなたが『明るい、これは本当だ』と言えば明るい。ところで、あなたは『明るい、これは本当だ』と言っている。したがって、明るい』。あなた達はこの種の推論を確かに認めているし、完全に有効だと言っている。だから、これをあなた達は証明における第一の推論法だと言っている。だから、もし弁証術が無意味でなければ、この方法で推論されたものなら何であろうとあなた達は認めるはずだ。すると、次の推論をあなた達は認めるのか。『もしあなたが「自分は嘘をついてる、これは本当だ』」と言ったら、あなたは嘘をついている。ところで、あなたは「自分は嘘をついている、これは本当だ」と言っている。したがって、あなたは嘘をついている』。さっきの推論を認めたのに、あなたはどうしてこの推論を認められないのか。これはクリュシッポスの考えたもので、彼自身も解決していない。彼はこの推論をどうやったか。『もし明るければ明るい。ところで、明るい。したがって、明るい』。もちろん彼はこれを認めた。この推論の方法でいくなら、もし前提を認めるなら、結論も認めざるを得ない。これと次の推論はどう違うか。『もしあなたが嘘をついたら、嘘をついている。ところで、あなたは嘘をついている。したがって、あなたは嘘をついている』。ところがあなたはこれには同意も拒否も出来ないと言う。それなら、あなた達は前の推論をどうして認められたのか。推論のやり方も方式も手段も手続きも全部有効なら、どちらの場合もそれらは有効のはずだ。96

「ところが、彼らは最後に、この問題を解答不能として例外扱いを要求するのである。そんな要求は護民官にでも持ち込むがいい。僕はそんな例外扱いは受け入れられない。実際、僕たちが『ヘルマルコスは明日生きているか生きていないかのどちらかである』なとど言ったりしたら、弁証術全体を馬鹿にして嘲笑するエピクロスはそれを真実だとはとても認めてくれない。ところが、弁証家たちは『~であるか~でないかのどちらかである』のような選言命題は真実であるのみか必然的であると考えている。あなた達に頭が悪いと言われているエピクロスがどれほど慎重であることか。彼は言っている、『もし私がどちらか一方が必然的であると認めるなら、ヘルマルコスは明日生きているか生きていないかは必然的である。ところが、この世の中にそんな必然性は存在しない』と。というわけで、弁証家たち即ちアンティオコスとストア派の学者たちはエピクロスと論争すべきだ。エピクロスは弁証術全体を覆してしまっているのだから。というのは、もし選言命題が反対のものからなるもので―『反対』というのは一方が肯定されるときには他方は否定されるということである―もしこのような選言命題が虚偽である可能性があるなら、真実であるものはなくなってしまうからである。97

「けれども、僕は弁証家たちの教えに従っているのだから、彼らは僕と争う必要はない。弁証術についてこのような論争があった時、カルネアデスは次ような冗談を言ったものだ。『もし私の推論が正しければ、弁証術を使い続けるし、もし間違っていたら、ディオゲネスに一ミナ返してもらうさ』(カルネアデスは授業料一ミナを払ってストア派のディオゲネス(セレウケイア240-152)から弁証術を学んだ)と。ただ僕はアンティオコスに学んだやり方に従って、『もし明るければ明るい』は真実であると言いながら(なぜならそれ自身からの推論はすべて真であると僕は学んだからである)、『もしあなたが嘘をついているならあなたは嘘をついている』が同じやり方の推論であると、なぜ言えないのか分からない。だから、僕は両方とも真実だと言うか、片方が真実でないならもう一方も真実でないと言うか、そのどちらかである。

XXXI「しかし、ひねくれた複雑な詭弁の話はやめて僕たちの実際の姿を見せるために、カルネアデスの考えの全体像を明らかにしよう。そうすればアンティオコスの考えは悉く否定されてしまうはずだ。しかし、僕が何か言ったことがでっち上げだと思われたくないので、クレイトマコスの本から引用しよう。クレイトマコスは高齢になるまでカルネアデスのもとにいた人で、頭がよくて実に勤勉なカルタゴ人である。同意を控えるべきことに関する彼の本は4冊ある。今から言うことはその一冊目に書いてあることである。98

「カルネアデスによると、表象は二つに分類される。一つの分類は認識できる表象と認識できない表象である。もう一つの分類は真実らしい表象と真実らしくない表象である。したがって、感覚と明白性に対する批判は先の分類に入るが、後の分類に対して批判すべきことは何もないと、彼はいう。だから、彼の意見では、認識できるような表象はないが、同意できる表象は沢山あると。真実らしい(=同意できる)ものが何もないのは自然に反することであり、ルクルスさん、あなたが言ったように、全人生が大混乱してしまう。だから、もし『感覚に捉えられた物には、虚偽であるのにそれと少しも違いわないものが必ず存在する』と言えるのなら、多くのものが感覚によって同意されねばならない。見たところ真実らしいものは何であれ、もしその真実らしさに反するものが何もないなら、賢者はそれを使って自分の人生の行路を決めるのである。さらにあなた達が言っている賢者も、多くの真実らしいもの、把握して認識して同意したものではなく、真実に似たものに従っているのである。もし彼がこれを受け入れないなら、全人生が覆ってしまう。99

「だってそうだろう。船に乗った賢者は自分が望みどおりに航海できることを心で把握して認識しているだろうか。どうやってそんなことが出来るだろうか。しかし、もし賢者がここからポッツオーリ(=ナポリ近郊の港)まで30スタディアムの旅をするとして、いい船でいい船長でこの穏やかな天気なら、自分がそこに無事到着することは真実らしいと思うはずだ。つまり、賢者はこのような表象によって、何かをやるやらないの計画を立てるだろうし、アナクサゴラスよりはたやすく雪が白いことを認めるだろう。(アナクサゴラスは、雪は白くないだけではなく、雪の元になる水は黒いことを知っているので、自分には雪は白く見えないと言っている)。100

「だから、賢者は、自分の身に起こることが何であれ、それが真実らしく思えて、何にも妨げられていないのなら、それによって動かされるのである。賢者も木や石で作られているわけではなく、肉体と精神を備えており、精神と感覚によって動かされる。その結果、賢者にも多くの表象が真実に見えるのである。しかし、それらの物が認識のための明確な目印、独特の目印はもっているとは思えないし、真実の表象とよく似た虚偽の表象が存在する可能性があるために、賢者は同意はしないのである。また、僕たちが感覚を批判するやり方はストア派と異なってはいない。ストア派も、多くのものは虚偽であり、事実は感覚によって見えるものとは大きく異なっていると言っているからである。

XXXII「その一方で、もし一つでも感覚にとって虚偽に見えるというのが事実なら、どんなものも感覚によっては認識できないという人がここにいる。つまり僕たちが何も言わなくても、エピクロスのたった一つの理論とあなた達(=ストア派)の理論によって、認識と把握は否定されるのである。このエピクロスの理論とは何だろうか。『もし感覚の表象が一つでも虚偽なら、何も認識することはできない』というものである。あなた達の理論とは何だろうか。『感覚の表象は虚偽である』というものである。ここからどんな結論が得られるだろうか。僕が何も言わなくても、その結論は『何も認識することはできない』である。『エピクロスとは違う』と言うかもしれない。それならエピクロスと戦えばいい。エピクロスは あなたとは完全に敵対しているからである。だが、僕とはやめてくれ。感覚の中には虚偽なものがあるという点で僕はあなたと同意見なのだから。101

「しかし、僕がいま言った考え方に精通しているアンティオコスがあんな学説を主張するのだから、これほど驚くことはない。何も認識できないという僕たちの考えを誰が批判しても、そんな批判はそれほど重要ではない。また、真実らしいものが存在するという僕たちの考えを、あなた達が不充分だというのも、それはそれでいいだろう。僕たちが何とか回避すべきなのは『すると君は何も見えないのか、何も聞こえないのか。何も明白なものはないのか?』とあなた達が何よりも強く批判する点である。それで僕はカルネアデスがこれについてどう言っているかをさっきクレイトマコスの本から引用したのである(=99節)。クレイトマコスが同じ事を詩人のC.ルキリウスに捧げた本の中でどう言っているかを聞いてほしい。彼はM.マニリウスと共に執政官だったL.ケンソリウスにも同じ事を書いている。クレイトマコスは次のようにいう。ーーこれを僕が知ったのは、まさに僕たちがいま論じているこの問題に関する第一の理論、学説がその本の中に書いてあるからである。ーーそれは次のようなものである。102

 「アカデメイア派(=懐疑派)の考えでは、物事には真実らしいものとそうでないものという違いがあるということである。しかし、それだけでは,、ある物が認識できてある物が認識できない理由としては不充分である。というのは、虚偽なものは認識も把握もできないが、多くの虚偽なものは真実らしいからである。したがって、『アカデメイア派は感覚を奪った』という人たちは著しく間違っている。なぜなら、アカデメイア派は色や味や音というものがないと言っているのではないからである。彼らが言っているのは、そのような表象の中には他の表象には決して見いだせないような真実や確実性を表す独自の目印はどこにもないということである』とクレイトマコスは言っている。103

「クレイトマコスはこう言った後で、次のように付け加えた。『賢者が同意を控えるのは二通りあると言われている。一つは、賢者はどんなものにも決して同意しないという意味であり、もう一つは、何かに同意するしないの答えを控えることによって、何かを否定も肯定もしないという意味である。したがって、一方の賢者は決して同意しない考えだが、もう一方の賢者は、真実らしさに従って、真実らしさがある場合とない場合で(=限定的に)肯定したり否定したりできると考える。つまり、全てのものについて同意を控えるけれども、刺激を受けて行動する気持ちになる時には、我々を行動に駆り立てる表象は残されているし、我々がその表象について問われたら同意はしないまでも、その表象のあり方に応じて肯定も否定もできるのである。もちろん、その全ての表象を受け入れるわけではなく、何物によっても邪魔されない表象だけを受け入れるのである。104

「もし僕たちがこの考え方をあなた達に認めさせることができないなら、間違っていると言われても仕方がないが、けっして嫌な考え方ではないはずだ。というのは、僕たちは光を奪っているのではなく、あなた達が認識できるとか把握できると言っているものを、僕たちは、それが真実らしい限りにおいて、受け入れているからである。

XXXIII「こうして、僕たちが真実らしいものを導入し確立して、そこから障害を取り除いて、解放し自由にして、何物にも煩わされないものとしたのだから、ルクルスさん、あなたの明白性の弁護は最早成り立たないことがきっとお分りだろう。僕たちのいう賢者も、あなた達の賢者と同じ目で空と大地と海を見ているだろうし、それ以外の物もあなた達の賢者と同じ感覚によってそれぞれの感覚の対象を感じるだろう。いま西風が吹き始めて紫色に見えている海は、僕たちの賢者にも同じように見えるだろうが、彼はけっして同意することはない。なぜなら僕たちが見ても、ついさっきは同じ海が空色に見えたし、朝は灰色に見えたし、太陽が光る所は白くきらめいて見えるし、その周りとは違って見えるからである。したがって、あなた達は何故こんな事が起きるのかを説明出来るとしても、目に見えた物が真実であると主張することは出来ないはずなのである。105

「もし我々が何も認識しないなら、どうして記憶というものがあるのかと、あなたは問うた。では、例えば、僕たちは把握していない表象は記憶できないだろうか。例えば、偉大な数学者だったと言われるポリュアエヌスは、エピクロスに同意して幾何学は全て虚偽であると考えるようになったが、その後それまで知っていた事をすべて忘れてしまっただろうか。ところが、あなた達の考えでは、虚偽なものは認識できない。一方、もし人の記憶が認識し把握したことからなっているなら、各人が記憶していることは全て把握し認識していることになる。しかも、虚偽なものは把握できない。ところが、エピクロスの弟子のシロンはエピクロスの学説を全て記憶している。となると、エピクロスの学説は全て真実であることになる。僕はそれでも構わない。しかし、あなた達は嫌だろう。つまり、あなた達はエピクロスの学説を認めたくなければ、記憶のことは僕に譲って、把握と認識がなくても、記憶はあることを認めねばならないのである。106

 「もしそうなら学問はどうなるんだ』とあなた達は聞くだろう。しかし、それはどの学問のことだろうか。知識より推論を多用することを自ら認めている学問はどうだろうか。あるいは、目に見えるもののみに従い、真実と虚偽を見分けるあなた達の方法を持たない学問はどうだろう?

   ところで、あなたの主張を支持する目玉となる論点は二つある。つまり、その第一の論点は、人が何物にも同意しないことはあり得ないということである。しかし、人が何物にも同意しないことは明らかである。ストア派の第一人者と言っていいパナイティオスでさえ、自分以外のストア派がみんな確かであると言っていることについて、自分は疑っていると言っている。つまり、占い師のする占い、神託、夢、予言などが真実であるということに、彼は同意を控えているのだ。このように、パナイティオスは自分の教師たちが確かであると見なしている事について同意を控えているのに、どうして賢者がほかの事について同じように出来ないだろうか。それとも、賛成や反対は出来るけれども疑うことが出来ないような命題が何かあるだろうか。それとも、あなたはその気になればソリテスでは立ち止まることが出来るのに、賢者はほかのことについて同じ様に立ち止まることが出来ないというのだろうか。特に賢者は何も妨げられずに真実に似たものに同意することなく従うことが出来る場合に。107

「あなた達のもう一つの論点は、何事にも同意しない人はどんな行動も不可能になるということだ。まず第一に、同意とはどういうことかを見てみよう。ストア派が言うには、感覚自身が同意であり、感覚に欲求が伴うから、行動できるのである。それに対して、もし表象が取り去られるなら、この全てが取り去られると言うのである。108

XXXIV「このことについて多くの賛否両論が語られたし書かれている。しかし、問題の全体を短く要約することは可能だ。僕としては、表象に反対し、憶断に抵抗し、危なっかしい同意を控えることこそ、最も重要な行動だと考えている。僕はクレイトマコスと同じく、カルネアデスによってヘラクレスの功業が達成されたと考えている。つまり、カルネアデスは巨大な野獣を追い出すように、我々の精神から同意すなわち憶断と軽率さを追い出してくれたのである。それに対して(この立場に対する弁護は省略しよう)、人が何にも妨げられていないで真実らしさに従う人の行動にとって何が妨げとなると言うのだろうか。

『真実らしいと受け入れていることを認識できないと言っていることが妨げとなる』と言うのである。しかし、そんなことを言っていたら、航海や、種蒔き、結婚、子供作りなど、真実らしさに従う以外にはない多くの場合に、あなたも何もできなくなる。

「それに対して、あなたはアンティパトロスと違って、よくあるがしばしば退けられてきたことを、あなたの言葉を借りれば『もっと辛辣に』(=29節)繰り返している。あなたの話では、アンティパトロスは、『何も把握できない』と言う人がこの『何も把握できない』という事だけは把握できると言うのは矛盾ではない』と言ったことで批判されたが(=28節)、この批判こそアンティオコスにとっては矛盾した愚かなことだと思われたのである(=29節)。確かにもし『把握できるものがある』と言うなら、何も把握できないと言うのはおかしい。しかし、むしろカルネアデスこそ次のように批判されるべきだとアンティオコスは考えている。つまり、把握も知覚も認識もできない限り賢者はどんな教義(=ドグマ)も持ち得ないのだから、『何も認識できない』という賢者の教義自体は認識できることを彼は認めるべきであると。しかしこれでは、賢者はこれ以外には何の教義も持っていない、いや教義なしに生きて行けるかのようである。109

「ところが、賢者は認識できないが真実らしい教義を色々持っていて、『何も認識できない』という教義もそのような教義の一つなのである。というのは、もし賢者がこの教義の中に認識のための目印を持っているなら、ほかの教義にもこの目印を使うはずであるが、そんなものは持っていないので、真実らしいものに従うのである。だから、彼は全てを混乱させて不確かなものにしていると思われるのを恐れないのである。実際、彼は自分が関わってよく知っている物事について尋ねられた場合には、星の数が奇数か偶数か尋ねられた場合とちがって、『自分は知らない』と答えることはない。不確かな事の場合には真実らしいことは何もないが、真実らしいことが存在する事については、賢者は何をすべきか何を答えるべきかに困らないのである。110

「ルクルスさん、あなたはアンティオコスのもう一つの批判にも言及していた(=44節)。あれは特に有名だから当然だ。アンティオコスによれば、フィロンはこの批判に一番困ったそうである。つまり、一方で『虚偽の表象が存在する』と言い、他方で『虚偽の表象と真実の表象には違いがない』と言っているが、前者が認められるのは表象の中に何らかの違いがあることが認められるからなのに、後者で虚偽の表象と真実の表象には違いがないと言って、表象の中に違いがあることを否定してしまっている。このことにフィロンは気づいていないと。しかし、この違いを否定することほど矛盾することはない。なぜなら、これが成り立つためには僕たちは真実を完全に否定しなければならないからだ。ところが、僕たちは真実を否定しない。僕たちは虚偽と真実の見分けはつくからだ。しかしその場合にも、何かを受け入れるための外見(=表象)があるだけで、認識の確かな目印があるわけではない。111

「僕の議論は無味乾燥になりすぎたかもしれない。というのは、弁論術が自由に活躍できる場面があるのに、我々はどうしてそれをこんな狭い所とストア派のイバラの茂みに押し込めているのだろうか。というのは、もしこれが逍遥学派(=アリストテレス派=独断派)が相手なら、彼らは『真実なものによって刻印された表象』は認識できると言うだけで、『虚偽なものによって刻印され得ないような』(=真実の目印があること)という但し書きを付け加えることはないので、率直な人に率直な議論するだけでよく、全力で戦う必要がないからである。また、僕が何も把握できるものはないと言う時に、もし逍遥学派が賢者も時には憶断すると言っても、僕は反対しない。何よりカルネアデスがこの点に対して強力に反対していないからである。では、僕に何が出来るだろうか。112

「というのは、僕が『把握できるものは何か』と聞いても、僕に答えてくれるのはアリストテレスでもテオフラストス(=逍遥学派)でもなく、クセノクラテスでもポレモン(=アカデメイア派、前3世紀)でもなく、彼らより劣った人なのだ。しかもその答えは『虚偽ではありえないほどに真実なもの』である。しかし、僕はそんなものは見つけられない。だから僕は認識していない事にきっと同意するだろう、つまり憶断するだろう。逍遥学派と古アカデメイア派(=どちらも独断派)はこれを僕に許してくれる。ところが、アンティオコスを初めとするあなた達は許さないのだ。アンティオコスは僕が大きく影響を受けた人である。それは僕と彼は互いに親密だからだし、現代の哲学者の中で一番洗練されていて聡明だと思えるからである。僕がアンティオコスにまず尋ねたいことは、彼は自分はアカデメイア派だと言うが、一体どうしてそんなことが言えるのかということである。というのは、ほかの事は別にしても、いま僕たちが扱っている二つのこと、つまり『虚偽ではありえないほどに真実であるものだけが認識できる』と『賢者は決して憶断しない』は、古アカデメイア派と逍遥学派の誰が言ったかというと、誰も言っていないからである。この考えはどちらもゼノン(=ストア派)以前には熱心に擁護されたことはないのである。それにも関わらず、僕はどちらも正しいと思っている。これはその方が都合がいいからではなく、この考えを僕は完全に受け入れているからである。113

XXXVI 「ただ僕が許容できないのは次のことだ。あなたは僕が認識していない事に同意することを許さないで、それを最も恥ずかく最も軽率なことだと言うが、その一方で、あなたは厚かましくも、哲学の体系を提示して、世界の本質を解明して、習慣を作り上げて、善悪の究極を定めて、義務について語り、僕にどんな人生を送るべきかを指定して、さらに弁証術と論理学の基準と理論まで教えてくれると言うけれども、僕はそんなに沢山のこと全部理解すれば、二度と間違いを犯したり臆断することはなくなるとあなたは保証してくるのか。あなたがもし僕を今の学派から引き離すことができたとして、あなたが僕を誘い入れたい学派は一体どの学派なのか。もしそれはあなたの学説だというなら、それはちょっと思い上がりというものではないか。それでもあなたはきっと自分の学派だと言うのだろう。しかし自分の学派に誘いたがるのはあなただけではないからだ。114

「しかし、僕は逍遥学派には入らないだろう。彼らは弁論家に知り合いが多く、教え子に著名人が沢山いて国家の要職についていると言って誘ってくるが。また、僕はエピクロス派には入らないだろう。彼らにはとても仲の良い友人が沢山いるし、いい人達ばかりだが。また、僕はストア派のディオドトスをどうすればいいのか。彼は僕の子供の頃からの先生で、長年僕と一緒に暮らしてきた僕の尊敬する人で、あなたのアンティオコスの学説を軽蔑している人なのだ。それに対して、あなたは『自分たちの理論だけが真実だ』と言う。もしそれが真実なら、そうだろう。真実の理論が色々と沢山あるはずがないからだ。では、生意気なのは間違いを犯したくないという僕たちなのか、傲慢なのは自分たちだけは全てを知っていると思い込んでいる人たちなのか、どちらだろうか。それに対してあなたは『全てを知っているのは私ではなく賢者だ』と言う。それはそのとおりだが、その知っているというのはあなたの学説のことである。そもそも賢者でない僕たちが知恵を説明するとはどういうことだろうか。だから、僕たちの話はやめて、賢者の話をしよう。これまでの議論はすべて賢者についてのことだから。115

「あなた達の学派では多くの哲学者たちと同様に、知恵は三つの部門(=自然学、善悪、弁証術)に分かれている。では、まず自然についてどんなことが探求されているか見てみよう。しかし、その前に僕が言いたいのは(=128)、自然のことを知っていると思っている人ほど間違いだらけの人はいないということだ。それは自然学が仮説に依存した方法で様々な結論に至るが必ずしも充分な説得力をもっていないことではない。それは幾何学者たちにまかせておけばいい。彼らは説得ではなく推論しているといって、全てをあなた達に証明してくれるだろう。『点とはどんな大きさも持たないものである』とか『面つまり平面は全く厚さのないものである』とか『線には広がりがない』など、幾何学者がそれが認められないと一歩も進めない数学の公理を問題にしているのでもない。問題は、僕がこれらの公理を真実だと認めるとき、賢者はこの公理(=認識できていないもの)が真実であると誓えるのかということだ。アルキメデスが賢者の目の前で、太陽は地球の数倍の大きさ(=82)であることを計算して証明する前に、賢者が誓うとあなたは思うだろうか。もし誓えば彼は自分が神だと考えている太陽(=ストア派の考え方)に不敬を働くことになる。116

「しかし、もし幾何学の証明に有効だとあなた達がいう計算を賢者が信じないなら、賢者が哲学者たちの証明を信じないのは確実である。だが、もし信じるなら、どの学派の証明を信じるだろうか。ここで自然学者全員の証明を説明してもいいが、それでは長くなる。しかし、問題は賢者が誰を選ぶかである。まだ賢者ではないが賢者になろうとしている人ならどうだろうか。どの学説のどの理論を選ぶだろうか。しかし、彼がどれを選ぶにしろ、彼はまだ賢者ではない。しかし、もし彼に超人的な能力があるとすれば、彼はどの自然学者を一人選ぶだろうか。しかも彼は一人しか選べない。僕は終わりのない質問をしているのではない。ただ万物を構成している原理について、彼が誰を選ぶかを見てみよう。なぜなら、これは偉大な自然学者たちの間で大きく意見が別れる問題だからである。117

「まず最初に来るのは七賢人の一人であるタレースである。残りの6人は第一位を彼に譲ったと言われている。その彼は『万物は水からできている』と言った。しかし、彼の友人で同じ町のアナクシマンドロスはこの考えに納得しなかった。アナクシマンドロス(610~536)は万物は無限の物質から生まれると言った。その後、彼の弟子のアナクシメネス(585~525)は無限の空気が存在し、そこから有限のものが生まれると言った。つまり、土と水と火が生まれ、そこから全てのものが生まれるだと。アナクサゴラス(500~428)は無限の物質が存在して、そこから小さくて互いによく似た分子が生まれ、それらは初めは混乱しているが、のちに神の意志によってまとまってくると言った。時代を少し遡って、クセノファネス(エレア派、前6世紀)は万物は一つで、それは永遠に存在する不変の神で、決して生まれてくることなく永遠に存在する球形のものだと。パルメニデス(前5世紀)は火が地球を生み出して動かしていると。レウキッポス(前5世紀)は充満したものと空虚なものがあると。デモクリトス(460~370)はレウキッポスと似ているが、もっと広範に論じている。エンペドクレス(493~433)は上記の4つの元素(=火、土、水、空気)があると。ヘラクレイトス(前五~六世紀)は火だと。メリッソスは無限で不変のものがあってこれまでもこれからも永遠に存在すると。プラトンは世界はすべてを包含する物質から神が創造したもので永遠に続くと。ピタゴラス派の人たちは万物は数と数学の原理から出来ていると。この中からあなたの賢者はどれか一人を選んでその人に従うのである。そして残りの人達はあれだけの偉人なのに、あなたの賢者に拒否され非難されて立ち去るのだ。118

「そして、いずれにしても彼が受け入れた学説を彼は表象を感覚で把握した様に心で把握する。そして、彼はストア派なので、この宇宙は知恵に満ちており知性を備えていて、その知性が自分自身と全宇宙を形成して制御し動かして支配していることを何より明白な事として受け入れる。さらに、彼は太陽も月も星も地球も海も神であると信じるのだ。なぜなら、活力あふれる知性がその全ての中に浸透しているからである。しかも、彼は全宇宙が燃え尽きる日がいつかやってくると信じているのである。119

XXXVIII「これらのことが真実だとしても(僕が真実の存在を認めていることはあなたもわかると思う)、僕はそれらが把握され認識されることはないと思う。ストア派の賢者があなたにこうしたことをたどたどしく教えている間に、素晴らしい弁舌をふるうアリストテレスがやってきて、ストア派の賢者は間違っていると言うのである。というのは、宇宙に始まりはない。こんな素晴らしい仕事が未経験な判断によって始まることはないからである。また宇宙はどの方向にも非常に秩序だっているので、どんな力によってもこの秩序ある宇宙を崩壊させるような大きな動きを作りだすことは出来ないし、いくら時間が経っても老衰することはないのである。あなたはこの説を否定して、さっきの説を名誉と命をかけて守る必要がある。一方、僕にはこの説は疑う余地はないのである。

「軽々しく同意することは別として、僕たちがあなた達のように拘束されない自由をもっていることほど有難いことはない。では聞くが、神が僕たちのために万物を作った時に(あなた達の意見ではそうなっている)どうしてこんなに大量の水蛇とマムシを作ったのか。なぜ大地や海にこんなに有毒で危険な物を大量にばらまいたのか。この世界は神の英知なしにこれほど巧妙にまた優美に作られたはずはないとあなた達は言う。(あなた達は神々の偉大さを蜂や蟻の完璧さにまで引き下げてしまったので、神々の間にミュルメキデス(=ギリシアの彫刻家)のようなミニチュア作家がいると思えるほどだ)。要するに神々なしに何もかも不可能だと言うのである。120

「ところがここにランプサコスのストラトン(=逍遥学派~270)が突然現れて、その神を大変な労苦から解放したのである(神々の神官に休暇があるのなら、神々に休暇があるのは実に公平なことである)。彼は宇宙を作るのに神の仕事は不要だと言ったのである。彼の教えでは万物は自然の力によって作られている。しかし、彼はこの世界は鈎のある物と滑らかな物とでこぼこの物から作られていてその間に空虚があるという人とは違う。これはデモクリトスの夢想であって、デモクリトスはこれを証明しているわけではなく望んでいるだけだとストラトンは言う。彼は大地の要素を一つずつ探求して、存在する物や生成する物は自然の重さと動きによって作られていると言う。実に彼は神を大変な労苦から解放しただけではなく、僕たちを神に対する恐れからも解放したのである。神に支配されていると思っている人達は、昼も夜も神の意志を恐れずにはいられない。また、もし不幸な事が起きたら(それは誰にでもある)、これは天罰ではないかと思わずにはいられない。とはいえ、僕はストラトンの意見に同意するわけではない。それはあなたの意見に同意しないのと同じである。ある時はこの意見が真実らしく思え、ある時は別の意見が真実らしく思えるだけなのである。121

「ルクルスさん、そういうことは全て厚い闇に覆われて隠れているので、人間のどんなするどい眼差しでも大地と天空を貫くことは出来ないのだ。僕たちは自分の体のこともよく知らない。人体の部分の場所も知らないし、各部分がどんな役割をしているのかも知らない。だから、そういうことを知る必要のある医者は人体の構造を見るために体を開いてみるのである。それでも経験派の医者はまだよく分からないという。なぜなら、体を開いて外に出たものは変化するかもしれないからである。では、同じように自然界を切り裂いて開いて分解したら、地球が奥深くで固定されていて根が生えたように定着しているのか、それとも宙に浮いているのか分かるものだろうか。122

「クセノファネス(=既出)は月には人が住んでいるといい、地球と同じく多くの町や山があるという。この話は馬鹿げているが、この話をする彼もそれが真実だと誓うことは出来ないし、僕がそれを嘘だと誓うことも出来ない。あなた達は、我々の反対側に足の裏をこちら向きにして立っている人がいると言う。それをあなた達はギリシア語でアンティポデスと呼ぶ。あなた達は、それを否定しない僕よりも、それを聞いた時にあなた達を愚か者だと言う人達に対してどうしてもっと腹を立てないのか。テオフラストスの話では、シラクサのヒケタス(ピタゴラス派400~335)は、空も太陽も月も星も要するに全ての天体はじっとしていて、宇宙では地球以外は何も動いていない、地球だけが軸の周りを高速で回転していて、地球が止まっていて天が動いているのと同じ結果をもたらしていると言っているそうである。これはプラトンも『ティマイオス』の中で言っているという人たちがいるが、あまりよく分からない。エピクロスよ、お前はどういうつもりなのか。言ってくれ、太陽はあんなに小さいと思っているのか。僕はあの二倍どころではない思っている。あなた達はそのエピクロスに笑われているし、エピクロスも逆にあなた達に笑われている。ソクラテスはそんな嘲笑から自由だった。キオスのアリストン(ストア派、前3世紀)も自由だった。彼らはあなたの言うようなことを知ることは出来ないと考えているからだ。123

「肉体と精神の話に戻ろう。いったい僕たちは神経や血管の特徴について充分に知っているだろうか。精神とは何であり、それはどこにあるか僕たちは理解しているだろうか。そもそもそれは存在するのか、それともディカイアルコス(逍遥学派、前4世紀)の言うように、存在しないのか。もし精神が存在するなら、それはプラトンが言うように、三つの部分(理性、怒り、欲望)から成っているのか、それとも単一のものなのか。もし単一のものなら、それは火なのか息なのか血なのか。それともクセノクラテス(プラトンの弟子、アカデメイア派、339~314)の言うように、形のない数なのか(それがどんなものかほとんど理解不可能である)。それはいつか死ぬものなのか永遠のものなのか。これらの問題について賛否両論いろいろ言われている。この中のある考え方をあなたの賢者は確かな事だと言うが、僕たちの賢者はどれが一番真実らしいか全くわからない。多くの場合、両方の考え方は甲乙つけがたいからである。124

「しかしながら、もしあなたがもっと控え目に、僕があなたの理論に同意しないことではなく、どの理論にも同意しないことを批判するなら、僕は気持ちをおさえて、同意できる人を選んでもよい。特に誰かといえば、デモクリトスである。僕はご存知のように高貴さが好きだからである。きっと僕はあなた達全員からこんな非難を受けるだろう。『全ての物が緻密に詰まっていて、物が動いて場所をあけると別の物がそこに入ってくるというのに、空虚が存在すると君は思うのか。また、原子によって作られた物体が原子に似ていないのにそんな原子が存在すると思うのか。また、精神の働きなしに何か素晴らしいものが作られると思うのか。この一つの世界の中にこんなに素晴らしい秩序が存在するのに、その上下左右と前後に、これとそっくりの世界や似ていない世界が無数に存在すると思うのか。我々はバウリに居てプテオリの光景を見ているが、我々と同じ名前、同じ地位、同じ仕事、同じ心、同じ外見、同じ年齢をしている無数の人がほかにもいて、そっくりの場所でそっくりの事を論じていると君は思うのか。起きている時や寝ている時に心の中に何かが見えると思うときは、その映像が体の外から我々の心の中へ侵入していると君は思うのか。君はこうした考え(=デモクリトスの考え方)を受け入れてはいけないし、こんな空想に同意してはいけない。こんな間違った考えを持つくらいなら、何の考えも持たないほうがましだ』と。125

「それでは、僕に誰かの考えに同意して認めろという話ではなく、あなた達の考えに同意しろと言っていることになる。しかし、そんなことは要求しないでほしい。それは傲慢なだけでなく厚かましいことだ。何といってもあなたの教義はぜんぜん真実らしくないからである。なぜなら、あなた達が認める予言の存在を僕は認めないし、あなた達が全てをつないでいるという運命も僕は軽視しているからである。僕はこの世界が神の計画によって作られたとは思っていない。もちろんそうかもしれないが。126

XLI「だが、それで僕はどうして嫌われることになるのか。僕は知らないことを知らないと言ってはいけないのか。ストア派の内部では議論できるのに、僕は彼らと議論してはいけないのか。ゼノンや他のストア派の人たちはエーテルが最高の神であり、それが知性をもって世界を支配していると考える。一方、ゼノンの弟子クレアンテスはストア派のなかでは古株だが、太陽が世界と万物の支配者だと考えている。これだけ賢者の間で意見が異なっていて、僕たちは太陽のしもべなのかエーテルのしもべなのか分からないのだから、僕たちは世界の支配者が誰だか分からないと言うしかない。では、太陽の大きさについてはどうだろう-輝く太陽が僕を見つめて、僕に太陽のことに度々言及するように催促するのだが-あなた達は太陽の大きさを竿竹で測ったと言っているが、ヘボな測量士じゃあるまいし、僕はそんな測り方を信じることはできない。穏やかな言い方をすれば、僕たちとあなた達のどちらが謙虚であるかは明白である。

「それにもかかわらず、あなた達のやっている自然学の探求を、僕は排除するつもりはない。自然の研究と観察は精神と知能に栄養を与えてくれる。僕たちは高みに立つことが出来るし、高揚した気分になって人間の世界を見下ろせる。自分たちの上の方の天上の世界のことを考えることで、自分たちのこの世界を小さなもの些細なものと見下ろせる。巨大なもの・秘められたものを探求するのは楽しいことだ。その上でもし真実に似ていると思われるものが手に入るなら、精神は最も人間的な喜びで満たされる。127

「したがって、あなた達の賢者も僕たちの賢者もこれらの問題を探求するが、あなた達の賢者は同意して信じて肯定するために探求するが、僕たちの賢者は臆断を恐れて、このようなことの中に真実らしいものを発見できればいいと思って探求するのである。次に、『善悪の概念』に移ろう。しかし、その前に一言うことがある。ストア派は自然についての説を強力に主張しているが、もっと明白だと思える事実が存在しても、その重要性を捨てていることを忘れていると僕は思う。例えば、ストア派が日が輝くという事実に対して同意して受け入れる度合いは、カラスが鳴いた時にそれが命令か禁止であることに同意する度合いと同じなのである。また、そこにある肖像の大きさを測って、それが六フィートであることに同意する度合いは、測れもしない太陽の大きさが地球の十八倍以上であることに同意する度合いと同じなのである。ここから次の結論が導かれる。『もし太陽の大きさが認識できないのなら、太陽の大きさと同じように他の物にも同意する人は、これらの物も認識していないことになる。ところが、太陽の大きさは認識できない。したがって、太陽の大きさを認識しているかのように同意する人は、何も認識していない』と。だから、彼らが太陽の大きさを認識できると答えるとしても、ほかの物についても同じようにして認識し把握することができると言う限り、僕は批判しない。というのは、把握の定義があらゆる物について同じである以上、彼らはある物を他の物よりもよりよく認識できるとかその逆だとかは言えないからである。128

「話をはじめに戻して、僕たちは善悪について何を探求してきただろうか。最善と最悪の基準となる限度を僕たちは決めなければいけない。しかしこれほど主要な研究者たちの間で大きく意見が異なっている問題はない。だからその他の研究者たちの意見は省略する。例えば、エリッルス(=ストア派)は学問を最善だと言っている。彼はゼノン(=ストア派、キプロスのゼノン)の弟子だったが、ゼノンよりはプラトンの意見に近い。また、メガラ派は有名だが、ものの本を見ると創始者はすでに述べたクセノファネス(570頃~475)である。彼の後を継いだのがパルメニデス(515頃~450)とゼノン(=エレアのゼノン、490頃~430)だ。だから彼らはエレア派と名付けられた。その後、ソクラテスの弟子のエウクレイデス(=ユークリッド、435頃~365)がメガラの人だったので、エレア派の人たちにメガラ派という名前がついたのである。メガラ派は善は唯一存在するもので永遠に不変のものだという。彼らはプラトン(427~347)からも多くを受け継いでいる。ところが、メネデーモス(345頃~261)がエレトリア人だったので、今度はエレトリア派という名前になった。彼らは善は知性の中にあって、真実を見分ける洞察力の中にあるとした。エリス派の学説もこれに似ているが、もっと詳細でもっと修辞的である。129

「これらの哲学者たちは既に否定されていると見て無視するとしても、次の哲学者たちはそれほど軽視すべきではない。ゼノンの弟子だったアリストン(=ストア派、キオス)は師が理論的に証明した『美徳以外に善はなく、美徳に反すること以外に悪はない』ということを行動で証明した人である。一方、ゼノンの説にある善悪の中間的な物(=健康や富)の影響力をアリストンは否定した。むしろアリストンにとっての最高善とは、そんな物に動かされないことだとして、このことを彼はギリシア語でアディアフォラと呼んだのである。それに対して、ピュロン(懐疑派、360~270)は、賢者はその中間的な物を認識することさえないという。彼はそれをギリシア語でアパテイアと呼んだ。こうした意見は沢山あるがここまでにして、次の学説を見てみよう。次の学説は長年にわたって支持されてきたものである。130

「まず快楽こそ最高の善だと主張する人たちがいる。この学説の創始者はソクラテスの弟子アリスティッポスである。その出身地からキュレネ派と呼ばれる。その後にエピクロスがくる。彼の学説は有名だが、その快楽説はキュレネ派のものとは異なっている。一方、カッリフォン(=逍遥学派?前2世紀)は快楽と高潔が最高善だといい、ヒエロニュモス(=逍遥学派、ロドス290~230)はあらゆる苦痛が無いことを最高善だと言っている。ディオドロス(=逍遥学派、ティルス前2世紀)はこの苦痛の無いことと高潔さを組み合わせている。あとの二人は逍遥学派である。一方、自然が勧める重要なものを享受しながら高潔な生活をおくることを、古アカデメイア派は最高善だと言っている。この事はポレモンの書いた物から明らかである。この人はアンティオコスによって高く評価された人である。アリストテレスとその門人もこの立場に近いように思われる。カルネエアデスもこの考え方を紹介しているが、それは彼自身がそう考えているのではなく、ストア派と戦うためである。つまり、最高善とは自然が勧める重要なものを享受することだというのである。それに対して、ストア派の創始者で最初の学頭であるゼノンは、最高善とは自然の勧めによって導びかれる高潔な生活をおくることだという説を確立した。131

「次に、いま説明した全ての最高善の反対が究極の悪なのは明らかである。さて、僕が誰に従うべきかをあなた達にお任せしよう。ただし『誰でも好きな人に従え』という馬鹿げた答えはやめてほしい。こんないい加減な忠告はない。僕はストア派に従いたいと言えば、(僕に言わせれば哲学の世界の特別な存在であるアリストテレスは別として)アンティオコスは認めてくれるだろうか。彼はアカデメイア派と言われるが、少し修正すれば正真正銘のストア派である。すると、問題はいまや大きな困難に陥る。僕たちの賢者はストア派なのか古アカデメイア派なのか決めないといけない。両方は不可能だ。この両学派は境界を争っているのではなく、領土全体を争っているからである。なぜなら、最高善の定義は人生観と深く結びついているからであり、最高善の定義で一致できないなら人生観で一致できないからである。したがって、両学派の賢者は著しく意見を異にする以上は、どちらか一方の賢者を選ぶしかない。だから、もしポレモン(=アカデメイア派)の賢者が正しいのなら、ストア派の賢者は虚偽に同意するという間違いを犯していることになる。実際、賢者にそんなことが起きるわけがないとあなた達は言っている。しかし、逆にストア派のゼノンが正しいというなら、今度は古アカデメイア派と逍遥学派の賢者に対して同じ批判をしなければならなくなる。では、彼(=アンティオコス)はどちらも受け入れないのだろうか。もしどちらかを受け入れるとしたら、どちらがより賢明だというのだろうか?132

「どうなんだ。実際アンティオコスは自分が傾倒するストア派の理論の幾つかに同意しないという時、それらを賢者も受け入れるべきではないと言っているではないか。例えば、ストア派は罪はどれも同じだという意見(=キケロ『ストア派のパラドックス』3)だが、アンティオコスはこの意見には強く反対している。僕がどの学説を選ぶかは慎重に検討させてほしい。『さっさとやれ。すぐどれかに決めろ』と言うかもしれない。だが、両者の議論はどちらも鋭くて互角に見える。だって僕は罪を犯さないように気をつけるべきではないのか。ルクルスさん、あなたは『教義を捨てるということは罪だ』と言った(=27節)。だから、僕はよく知らない学説に同意しないように気をつけている。そしてこれは僕とあなたの共通の教義である。133

「ここにもっと大きな相違点がある。ゼノンは幸福な人生は美徳のみにあると考えている(=キケロ『ストア派のパラドックス』2)。アンティオコスはどうか。彼は言う、『それはそうだが、それでは幸福な人生であっても最高に幸福な人生ではない』。美徳には全てが含まれると考えたゼノンを神だとすれば、美徳以外にも人間には大切なものや必要なものがあるというアンティオコスは弱い人間である。しかし、テオフラストスが明確かつ雄弁に語っているように(=アカデメイア派哲学1の33以下)、ゼノンは不自然なほど美徳に高い価値を置いたのではないかと僕は思う。他方、肉体と運命の不幸があると言いながら、賢者ならこんな不幸の中でも幸福になれると言っているアンティオコスは矛盾していると僕は思う。僕はどちらを選んだらいいか分からない。後者の方が真実らしいと思えるときもあれば、前者の方がそう思える時もある。それでも、どちらか一つが真実でなければ、美徳は全く成り立たないと僕は思う。ところが、両者はこれらの点で全く意見が一致しないのである。134

XLI∨. 「では、彼らが意見の一致することは真実であると僕たちは認めることができるだろうか。例えば、賢者は決して欲望によって影響されないとか、喜びで我を忘れることがないという説はどうか。まあ、これは真実らしいといえるかもしれない。しかし、これはどうだろうか。賢者は決して恐れも悲しみも感じないだろうか。賢者は祖国が破壊されても恐怖を感じないだろうか。祖国が失われても悲しみを感じないだろうか。それは難しい。高潔さ以外は何も善の中に含めないゼノン(=キケロ『ストア派のパラドックス』1)にはこれは必然的だろうが、アンティオコスよ、高潔さ以外にも沢山の善を認め、卑劣さ以外にも沢山の悪を認めるあなたはそうではない。悪い事が起きそうなら賢者は恐れるし、悪い事が起きたら悲しむだろう。しかし、古アカデメイア派が賢者の精神は混乱することも動揺することもないということを教義にしたのは何時のことだろうか。この学派は中庸を尊ぶ人たちで、どんな感情にも自然な限度というものがあると主張する。僕たちはみんな古アカデメイア派のクラントール(~276頃)の『悲しみについて』という本を読んでいる。大きな本ではないが珠玉の本で、パナイティオスがトゥベロン(=118年執政官)に勧めたように、暗記するに値する本である。さらに古アカデメイア派は感情は人間の心に自然によって与えられた有意義なものだと言っている。恐怖は用心するためであり、同情と悲しみは寛容のために、怒りは決断力を引き出す言わば火打石であると言っている。この説の当否については別の機会(=キケロ『トゥスクルム論叢』4巻)に論じることにする。135

「どうしてこの感情についての厳格主義が古アカデメイア派に入ってきたのかは知らない。僕は次の教義も受け入れることは出来ない。これは嫌いだから言っているのではない(いわゆるストア派のパラドックスは奇妙なものだがその多くはソクラテスが作ったものである)、そうではなくて、一体クセノクラテスやアリストテレスがどこでそんなことを言っているだろうか(あなた達はこの2人はほぼ同じ考えだといっている)。彼らは次のようなことをいつ言っただろうか。『賢者だけが王者で金持ちで美しい。至る所に存在するものは全て賢者のものだ。執政官、法務官、将軍、そしておそらく五人委員になるのも、賢者以外にはない。要するに、賢者だけが市民で自由人だ。賢者でない者は外国人であり、亡命者であり、奴隷であり、狂人である。最後に、リュクルゴスとソロンの書いた法律も僕たちの十二表法も法律ではない。賢者のものではない都市や国家はない』などと(=キケロ『ストア派のパラドックス』6、5、4)。136

「ルクルスさん、もしあなたが友人のアンティオコスに同意するなら、これらの考え方をローマの城壁を守るように必死で守る必要がある。僕は気に入ったものだけを適度に支持するだけだ。137

XL∨「これはクレイトマコスの本にあることだが、カルネアデスとストア派のディオゲネスがカピトリヌスの丘の元老院に来た時、執政官はプブリウス・スキピオとマルクス・マルケルスだったが、時の法務官アウルス・アルビヌスが(ルクルスさん、この人はあなたのお爺さんと一緒に執政官だった人で、ギリシア語で自伝を書いた学識のあった人である)冗談でカルネアデスに次のように言った。『カルネアデスさん、あなたの考えでは、私は法務官ではないし[私は賢者ではないから、]この町は都市で国家でもないのですね』と。するとカルネアデスは答えた『このストア派の友人(=ディオゲネス)にとってはそうですね』と。アンティオコスが自分の師だというアリストテレスやクセノクラテスなら、アルビヌスが法務官でありローマが都市であり国家であることに疑いを持たないだろう。しかし、僕たちのアンティオコスは少々雄弁さには欠けるが今僕が言ったように完全にストア派の哲学者だ(=132節)。

「一方、あなた達は僕が臆断に陥って未知の何かを受け入れて承認するのではないかと心配しているし、それは望ましくないと思っている。では、どんな忠告をしてくれるのか。クリュシッポスはしばしば最高善のうちで擁護できる理論は三つだけだと言って、多くの説を切り捨てた。つまり、最高善とは高潔さ(=ゼノン)か、快楽(=エピクロス)か、その両方(=カッリフォン)のいずれかであるという。あらゆる苦痛から逃れることを最高善だという人達は、快楽という忌まわしい名前を避けているが、似たようなものだ。快楽を高潔と結びつけている人たちもこれと同じ事をしているし、本性にとっての主要な利益を高潔さと組み合わせている人たちも大して違っていない。だから、彼は擁護してもよいと思える三つの説を残したのである。138

「きっとそれが正しいに違いない。実際、僕はポレモンと逍遥学派とアンティオコスの最高善から離れがたいし、これまでそれ以上に真実らしいものに出会わなかった。それにもかかわらず、僕は快楽がいかに感覚にとって甘美なものであるかを知っている。僕はどうしてもエピクロスやアリスティッポスの説に同意してしまうのである。 だが、美徳が僕を呼び止める。いやむしろ手をとって引き止める。美徳に言わせれば、衝動は野獣のもので、美徳は人間を神と結びつける。僕に可能なのはその中間である。アリスティッポスは僕たちには精神がないかのように肉体だけを考え、ゼノンは僕たちには肉体がないかのように精神だけを考える。そこで、僕はカッリフォンに従おうと思う。カルネアデスは彼の意見をいつも熱心に擁護しているので、カルネアデスはカッリフォンの意見に同意してると思われている(もっとも、クレイトマコスはカルネアデスが何を受け入れたかはまったく分からないと言っている)。しかし、もし僕がカッリフォンのいう最高善に従おうとすると、真実の神と重々しくて正義感に満ちた理性の神が僕の目の前に現れてきっとこう言うだろう。『高潔とは快楽を軽視することなのに、お前はまるで人間と獣を結婚させる よ うに、高潔と快楽を結びつけるのか』と。 139

「結局、最後の決戦に残った一組は快楽と高潔さということになる。この問題についてクリュシッポスは、僕の知るかぎり、それほど議論していない。もし人がその一方(=快楽)に従うのなら、多くのものが崩壊してしまう。特に公共心、愛情、友情、正義などのもろもろの美徳が失われてしまう。これらのものはどれ一つとして無償でなければ存在できないからである。というのは、快楽を代償として奉仕を行っても、それは美徳ではなく、いつわりの見せかけで美徳のふりでしかない。それに対して、誠実さという言葉に何の意味も見いだせないと言う人達がいる。彼らの意見では、我々は人前でいい格好することを高潔と呼んでいるだけであり、全ての善の源は肉体の中にある。これが自然のルールであり基準であり命令なのだ。そこから外れてしまえば、人生で追求すべき目的に決して到達できないと。140

「これほど多くの様々な考え方を聞いて、僕は何の影響も受けないとあなた達は思うだろうか。ルクルスさん、僕はあなたと同じく影響される。僕もあなた達と同じ人間なのである。ただ違いがあるとすれば、あなた達は影響されたときに、同意して受け入れて承認すると、それを確かで把握され認識され正当化され確固として固定されたものだと言って、何を言われてもそこから引き離せなくなってしまうことだ。それに対して、僕たちはもし何かに同意すると、それはしばしば虚偽なものへの同意になってしまうと考える。というのは、真実は虚偽とはっきり区別できないからである。特に弁証術には真実を見分ける基準はないからである。141

「ここで哲学の第三の部門(=弁証術)に移る。真実を見分ける基準は実に様々で、プロタゴラスはその人が真実だと思うものがその人にとっての真実だというし、キュレネ派は内的感情だけが真実を見分けられるという。さらに、エピクロスは感覚と事物の概念と快楽だけで真実は見分けられるという。一方、プラトンは、真実と真実の基準は思考と精神に属するもので、人間の臆断や感覚のあずかり知らぬものだという。142

「僕たちの友人のアンティオコスはこの学説のどれかを受け入れているだろうか。彼は自分の師匠たちのどの学説も受け入れていないのだ。論理学の本を何冊も書いて高く評価されているクセノクラテス(=アカデメイア派)を、アンティオコスはどこで受け継いでいるだろうか。また、学識と洞察力で誰にも勝るアリストテレスを、アンティオコスはどこで受け継いでいるだろうか。一方、彼はクリュシッポス(=ストア派)から一歩も離れ ないのだ。143

XL∨II「では、僕たちが自分たちのことをアカデメイア派と呼ぶのはどうだろうか。有名な名前の乱用だろうか。これだけ意見の別れる人達の学派に僕たちはどうして所属しないといけないのか。弁証家たちが初歩で教える『もし夜が明けたら、明るい』というような推論の真偽の見分け方についてさえ、どれほど意見が異なることか。ディオドロス(=メガラ派)とフィロン(=ディオドロスの弟子、メガラ派)とクリュシッポスはそれぞれ全く違うことを言っている。クリュシッポスは自分の師であるクレアンテスとどれほど多くの点で意見を異にしていることか。もっとも憶断に満ちた人(=ドグマチスト、独断派)たちであるアンティパトロスとアルキデーモス(=ストア派)という二人の代表的な弁証家たちも、多くの点で意見を異にしていないだろうか。

「だから、ルクルスさん、どうしてあなたは僕を敵視して議会に呼び出すようなことをするのか(=63節)。どうして扇動的な護民官の真似をして商店を休みにするのか。僕たちが技術を取り上げようと(=86,87節)していると言って非難するのは何が目的なのか。技術者たちを扇動する積りではないのか。しかし、仮に彼らが全国から集まってきたとしても、彼らの抗議の声をあなた達に向けることは簡単だ。議会に集まった人達に向かって最初に僕たちが、『ストア派の人達はあなた達を亡命者だとか奴隷だとか気違いだとか言っているぞ』とあなた達の悪名高い説を言えばいい。つぎに民衆ではなくそこに居合わせているあなた達のことを言うのだ。『あなた達は何も知っていないとゼノンとアンティオコスは言っているぞ』と。『どうしてだ』と聞くなら、『我々は賢者でなくても多くのことを把握できると主張している』。144

「ところが、何かを知っているのは賢者だけとあなた達は言っているのだ。これをゼノンは身振りで説明した。彼はまず指を伸ばした手を差し出して、『表象とはこのようなものだ』と言い、次に指を少し折り曲げて、『同意とはこのようなものだ』と言い、さらに指をしっかり閉じて握り拳(こぶし)をつくり、『把握とはこれだ』と言ったのである。(そして彼はこの比喩からカタレープシスという、それまでになかった名前をつけた)。さらに彼は左手を右手の握り拳に近づけて強くしっかり握りしめて、『知識とはこのようなもので賢者以外の誰も手に入れることは出来ない』と言ったのである。しかし、誰が賢者なのか、あるいは賢者であったかは、彼ら自身もまた語ることはない。だから、カトゥルス君、君はいま明るいことを知らないし、ホルテンシウスよ、君は僕たちが自分の別荘にいることを知らないのだ。145

「この説もさっき(=144節)のと同じぐらい悪名高いものだし、それほど上品でもない。さっきのほうが辛辣だ。しかし、あなたが言ったように、もし何も把握できないとあらゆる技術は崩壊する(=22節)し、真実らしさは技術にとって充分でないなら、僕たちも知識のない技術はありえないことは認めてもよい。ゼウクシスもフィディアスもポリュクレイトスもあれだけの技術を持っているのに何も知らないと言われて黙っているわけがない。しかし知識とはどういうことか教えてやれば、彼らも怒ることはないはずだ。それどころか、どこにも存在しないものを僕たちは取り除いて彼らにとって充分なものを残そうとしていることが分かれば、彼らは全然怒らないだろう。この考え方は先見の明あるローマの先人たちも支持している。彼らは誰にも自分の内心の考えに従って誓うことを求めた。知っていて嘘をついたときは有罪となるし(なぜなら人生は多くの知らないことで成り立っているから)、証人となる者は、自分は目撃したと『思う』と言い、宣誓した陪審員たちが知ったことは、事実としてではなく、事実だと『思う』と判決で言わなければならないとしたのである。146

XL∨III 「ところで、ルクルスさん、僕たちの船乗りが合図をしているだけでなく西風が僕たちに船出の時を告げているし、僕はもう充分語り尽くした。だから話を締めくくらないといけない。でも、あとでこれらの問題を扱うときには、偉大な哲学者たちの間の大きな意見の違いと、自然の暗闇と、これらの哲学者達の過ち(善とその反対のことについて彼らはまったく意見が異なっているが、真実が一つしかないなら、これだけ多くの有名な説は必然的に崩壊してしまう)について論ずることにしよう(=『善悪の究極について』)。僕たちの目やそれ以外の感覚が伝えるものが虚偽であることや、ソリテス(=49節)や誤謬推理(=96節)、つまりストア派が自ら作った陥穽の話はここまでにしよう」。147

 そこでルクルスが言った、「私達がこうして議論したのはよかったと思う。トゥスクルムの私の家これからも会うから、気に入った問題があれば討議しよう」。そこで僕が言った、「いいですね。でも、カトゥルス君はどうだい。ホルテンシウスは?」。カトゥルスが言った、「僕かい? 僕はまた父親の考えにもどるよ。父のはカルネアデスと同じだそうだ。だから、僕もまた何も認識できないと思うし、認識していないものに賢者は同意する、つまり賢者は臆断すると思うよ。ただし、賢者は自分が臆断していることを理解していて、把握したり認識したりできることは何もないと知っていると思う。したがって、僕は全てに対するエポケ(=判断中止)を受け入れないが、『認識できるものは何もない』というもう一つの考え方には大賛成だ」。そこで僕は言った、「君の考えは分かったよ。僕もだいたい同じだ。でも、ホルテンシウス、あなたは一体どう思ってるんですか」。するとホルテンシウスは笑いながら言った、「もう切り上げよう。」僕は言った、「あなたも僕たちの味方ですね。それはアカデメイア派的な考え方だから」。こうしてこの対話は終わった。カトゥルスはそこに残り、僕たちは船のところへ行った。148


この翻訳を作成するにあたって参考にしたのは、Rackhamの英訳、Reidの英訳C. D. Yongeの英訳、
Désiré Nisardの仏訳、Julius Hermann Kirchmannの独訳、 中川純男氏の和訳を参考にした。

Translated into Japanese by (c)Tomokazu Hanafusa 2012.3.6-2017.5.6.

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