スカーフェイス・アル・カポネ



── Murder Casebook No.51より


第一章 野心

抗争のはじまり

シカゴでは昔から犯罪はつねに恰好のビジネスだつたが、1920年代には新手の犯罪ビジネスが出現した。禁酒法によつてかつてないチャンスに恵まれたギャングたちは、酒の密売を取り仕切ることで莫大な利益を獲得した。


 1920年、ビッグ・ジム・コロシモにとつて人生はすべて順調だつた。この年も素晴らしい年になるはずだつた。4月にはオペラ歌手志望のデール嬢と結婚して、その紹介でシカゴの社交界入りがかなつた。一階でジャズとオペレッタの出し物をやり二階で賭博場を経営してゐる彼のクラブ、コロシモズ・カフェは、ビッグ・ビル・トムソン市長の寛容な政策のもとでたいへん繁盛してゐた。しかもシカゴの赤線地帯・レビー地区の絶対的な支配者である彼の収入は莫大な額にのぼつた。

ビッグ・ビル・トムソン

 ボストン生まれのウィリアム・ヘール・トムソンは若い頃は大変有名なスポーツ選手だつた。1900年、三十五歳のときひよんなことから地方選挙の空白区の穴埋め候補として共和党から立候補して政界入りした。けつして知識人とはいへない彼は、カーボーイ姿に身を固めて、愛国心と人種偏見に訴へた荒つぽく派手な選挙戦を展開して幅広い支持を獲得した。
 選挙中は聴衆の要望に合はせて自分の政策を好きなやうに変更したが、当選後は一貫して汚職に寛容な政策をとつた。役所の主要ポストは彼と同じく汚職体質の強い身内の人間で固めて、自分の権力基盤を確立することに専念した。
 トムソンは、犯罪者に対する寛容な政策と扇動的な政治手法をうまく使ひわけて、三期十二年間シカゴ市長の椅子に留まり続け、シカゴを破産状態に追ひ込んだ。それでも彼は別の椅子─イリノイ州知事の座─を次の目標にした。しかし、1944年に志半ばで肺炎にかかつて死亡してゐる。

 コロシモは犯罪によつて一財産つくつた。ベルトのバックルから、カフスボタン、ネクタイピン、指輪に至るまで、彼の体を飾るダイヤモンドはみな犯罪がもたらしたものだつた。彼はダイヤモンドを詰めたセーム皮の袋をポケットに入れていつも持ち歩いてゐた。さらにリムジンとマンションと贅沢な生活を犯罪のおかげで手に入れてゐた。彼は一八九五年に十七歳でイタリアのカラブリアからアメリカに移住してきたが、そのころには夢にも思はない生活だつた。

 売春宿の日々の経営については自分はほとんど何もする必要がなかつた。実務はすべて甥のジョニー・トッリョに任せてゐたからである。

 コロシモがトッリョをシカゴに呼び寄せたのは1909年のことだつた。コロシモは、南イタリア出身でゆすり専門のギャング、ブラックハンド団に脅迫されて困つてゐた。著名人たちのもとには、丁重な言葉を連ねて金を要求して最後に「La Mano Nera」とサインした手紙がしばしば届いてゐた。要求どほりに金を払はない者は、銃撃を受けるか家を爆破された。

 トッリョは個人的には暴力嫌ひだつたが、生まれ故郷のニューヨークでは悪名高きファイブポイント・ギャング団の幹部として組織力と指導力を発揮してゐた。彼は叔父をゆするブラックハンド団の一味を手もなく片づけた。

 それから十年後には、トッリョ自身も人を指図する地位に就いてゐた。選り抜きの暴力団員を雇つて、サウス・ワバッシュ通り2222番地に酒場と売春宿と賭博場のある店「フォーデューシーズ」を開いた。この店に彼は自分の活動拠点を置いた。

 この暴力団員の中にニューヨーク出身の若きアルフォンス・カポネがゐた。当時はアル・ブラウンといふ名で通つてをり、十代でファンブポイント・ギャング団に入つたころから既にトッリョの子分だつた。がつしりとした体格で腕つぷしが強く喧嘩早かつたが、人なつつこくおほらかな所もあつた。カポネの仕事は運転手兼バーテン兼ボディーガードといふところだつた。

 またカポネはトッリョの邪魔者を始末する仕事もした。フォーデューシーズの地下には拷問室があつた。ここでカポネは部下に命じてトッリョの敵たちを叩きのめして殺した。もちろんカポネ自ら手を下す場合もあつた。部屋からトンネルが外の隠しとびらに通じてをり、死体はそこから車に積み込まれて処分された。

 組織の中での重要性が高まつてきたトッリョは、叔父のコロシモが裏の商売から次第に手を引いてデール嬢やクラブの上得意の客たちとの交際に専念するやうになつたことを不愉快に思ひ始めてゐた。特にトッリョが腹を立てたのは、コロシモがボルステッド法(禁酒法)の可決によつてもたらされたビジネスチャンスに無関心でゐることだつた。この法律が実施されれば、アルコール飲料を医療目的以外に製造、販売、および所持することは連邦法違反になつた。

 1920年1月17日、のちに禁酒法時代の名前で呼ばれる一つの時代が幕を開けた。しかしバーやクラブで店仕舞ひする所はほとんどなかつた。店の主人たちはみな酒はどこかで手に入ると考へてゐたのである。

 実際、彼らの元には犯罪者たちが列を成して酒を届けにきた。ビッグ・ビル・トムソンが寛大な市政を敷くこの町では特に盛んだつた。人の頭を叩き割つたり押し込み強盗をするのが得意なギャングたちは、より少ないリスクでより多くの稼ぎを手にするチャンスだと考へた。

 組織作りの天才トッリョは、シカゴを縄張りで区切つて、どのギャングにも闇酒の市場を保証してやるといふ構想を暖めてゐた。しかしコロシモはこの計画にまつたく興味を示さなかつた。すでに彼の人生は充分順調だつたのだ。

 5月11日、トッリォはコロシモに電話して、午後4時にクラブにウイスキーの荷物が届くと伝へた。コロシモが到着したとき、クラブには誰も来てゐなかつた。しばらく事務所にゐたが、すぐに玄関に出た。午後4時25分だつた。

 コロシモがクラブの玄関の間を通り抜けようとしたとき、誰かが後ろから歩み寄つて、至近距離から彼の頭の右耳の後ろへ銃弾を打ち込んだ。コロシモはタイルを敷き詰めた床の上に倒れる前に既に死んでゐた。

 殺害時刻にはトッリォにもカポネなど子分たちにも確固たるアリバイがあつたが、元ファイブポイント団員でプロの殺し屋フランキー・イェールが駅で警察に捕まつた。

 コロシモズ・カフェの守衛がコロシモに続いて建物に入つていく男を目撃してゐた。守衛の見た男の人相はイェールとぴつたり一致したが、イェールがシカゴに連れ戻されると守衛は彼を犯人だと証言することを拒否した。警察は垂れ込み屋から、トッリョが自分の叔父を殺す報酬としてイェールに一万ドルを支払つたといふ情報をつかんだ。しかし、証拠が無かつたためイェールは釈放された。

ビッグ・ジム・コロシモの頭を貫いた一発の銃弾が号砲となつて、富をめぐるシカゴ・ギャングたちの争ひが始まつた。1920年5月にコロシモが自分の経営するレストランで殺害された事件は、金持ちの常連客たちだけでなく一般社会にも大きな衝撃を与へた。しかし、カポネが支配する時代には、このやうな殺人事件は日常茶飯事となる。

 トッリョはコロシモが築いた赤線地帯の犯罪帝国を引き継ぐと、さつそく酒の密売に手を広げた。まづ、もぐりの醸造所と契約してビールの密造を続けさせ、つぎにギャングのリーダーたちと接触して酒の市場の縄張りを決めて、全市をカバーする密売組織に加はることに同意を取りつけた。

 シカゴのビールの供給はトッリョがほとんど一人で独占した。自分の縄張りに供給するウイスキーは、ダイオン・オバニアン率ゐるノースサイドギャング団がカナダから密輸したもの、その他の蒸留酒はジェンナ兄弟の縄張りであるシカゴのリトルイタリー地区の家々の居間の蒸留器で作られたものだつた。

恐怖のジェンナ兄弟

 ジェンナ家の六人の兄弟は全員十九世紀が二十世紀に変はる時期にシチリアのマルサラで生まれた。彼らが両親に連れられてシカゴに来たときはまだ子供だつた。両親はその直後に亡くなつてゐる。
 親を亡くした子供たちはシカゴ南部のスラム街リトルイタリーで政治家の用心棒稼業を営んで貧困生活からはひ上がつた。その凶暴さゆゑに「テリブル (恐怖の) 」といふあだ名が付いたほどだつた。彼らは儲けの多い賭博場を入手して大いに稼いだ。1920年には工業用アルコールの製造許可を政府から獲得した。
 兄弟にはそれぞれ役割分担があつた。長男のサムは商売の実務を担当し、ジムとピートは酒の醸造と蒸留酒作り、アンジェロと一番下のマイクは暴力担当だつた。ただ一人学校を出てゐたトニーはリトルイタリーの日常のごたごたとは関はりをもたず、もつぱらアドバイスと計画立案に従事した。彼の趣味は建築とオペラだつた。
 兄弟はみな家族的で、教会通ひを欠かさない人たちだつた。

 カポネはトッリョが郊外に売春宿と賭博場を開設するのを手伝ふうちに、たちまちトッリョの右腕の地位にまで昇進した。

 二人は賄賂と暴力を巧みに使ひ分けながら、シカゴの南と西の端の地域を次々に支配していつた。


 一方、トッリョの犯罪カルテルから外されたオドンネル一家は、トッリョのトラックをハイジャックしたりトッリョの客を脅迫したりしてこの商売に割り込まうとした。そしてその時こそがカポネの出番だつた。オドンネルのギャングたち七人が銃弾で命を落とした。

 かうしてカポネは成功を手にした。1920年に父が亡くなると、カポネは母をシカゴに呼び寄せた。そしてシカゴの高級住宅街サウスサイド地区に豪華家具付きの豪邸を建てて妻と息子と自分の兄弟姉妹たちを母と一緒に住まはせた。

 また、カポネに新たな仕事場ができた。1923年、シカゴでは新市長に元裁判官ディーバーが選ばれた。ディーバーが任命した新しい警察本部長モーガン・コリンズは、これまでと違つて賄賂が通用しなかつた。犯罪産業は厳しい取り締まりを受け、トッリョの事業は窮地に陥つた。ギャングたちはシカゴ市の外に本拠地を置く必要に迫られた。

 彼らはシカゴ市のすぐ西にあるシセロ町に本拠を移した。トッリョはシセロのことをすべてカポネに任せて、自分はイタリアヘ家族旅行に出発した。カポネは本拠地を置くために町のまん中のホーソン・インを手に入れて、窓といふ窓に銃弾を跳ね返す鋼鉄のシャッターを付けさせた。

 当地の他のギャングたちと同様に、トッリョ・カポネ連合のギャングたちも政治家の用心棒として雇はれた。シセロ町では1924年の春に選挙が予定されてゐた。共和党出身の町長ジョセフ・クレンハは四期目の当選を目指してゐたが、はじめて対立候補が現れた。一方ギャングたちはクレンハの対立候補がシカゴのディーバー市長のやうに町政の刷新を図ることを恐れてゐた。かうして両者の利害は一致した。

 ギャングたちは決然として行動に移つた。彼らは投票日に民主党の候補者たちと支持者たちを袋叩きの目に会はせた。銃で武装したカポネの暴力団員たちは、睨みをきかせながらスマートな黒いリムジンで通りを巡回した。そして銃を突きつけて有権者の手から投票用紙をもぎ取つた。さらに、公正な選挙を実施しようとする選挙管理委員を、投票の終了時刻まで別の場所に監禁した。四人の人間が命を落とした。

 怒りに燃えるシセロの町民はクック郡判事に電話で連絡した。判事はすぐに百人以上のシカゴの警官をシセロに差し向けた。到着した警官たちは日暮れまで、ギャングたちと銃撃戦を繰り広げた。

警官との銃撃戦

 ある投票所の前に五人の警官の乗つたパトカーが止まつた。投票所の中では三人の男たちが自動拳銃を振り回して投票に来た大勢の人たちを震へ上がらせてゐた。その三人とはアル・カポネとその兄フランクと従兄弟のチャーリー・フィシェッティだつた。ギャングたちは警官に攻撃をしかけた。フランクはピストルが不発のために、警察のショットガンに倒された。カポネは逃げた。フィシェッティは逮捕されたが、すぐ釈放された。

 クレンハは大差で選挙に勝利した。シセロ町にはたちまち百五十以上の賭博施設ができた。どの店もトッリョのビールを売り、その多くは二十四時間営業だつた。

 フランク・カポネの葬儀には、ふんだんに花を飾り立てた豪華な車による見送りの葬列ができた。これは四年前にビッグ・ジム・コロシモが凶弾に倒れて以来ギャングの世界の慣例となつてゐた。献花の多くはダイオン・オバニアンの店から買はれたものだつた。オバニアンは本業以外に、それとはいかにも不釣り合ひな花屋といふ商売を人と共同で営んでゐた。

ダイオン・オバニアンは他のギャングたちと違つて、強盗と金庫破りで悪の道に入つた。十六歳のころ、彼はすでに一人前の抱きつき強盗だつた。


 それから数週間後の1924年5月8日、酒荷のぶんどり屋ジョー・ハワードは飲み屋でジェーク・グージックと口論となり、揚げ句のはてに相手をなぐりつけた。グージックは四十近くになる小柄で太つた男だつたが、会計事務の才能に恵まれてゐて、組織の中ではトッリョとカポネに次ぐ高い地位についてゐた。暴力には縁のない男でピストルは携行しなかつたが、ハワードの仕打ちをカポネに言ひつけずにはおかなかつた。

 カポネは通りへ出ると、ハワードが飲んでゐる酒場に直行した。そしてハワードの胸ぐらをつかんで、なぜグージックを殴つたのか問ひ詰めた。ハワードはそれには答へずに、カポネに対して「このイタ公のポン引きめ」とののしつた。カポネはピストルを取り出すと、三人の見てゐる前で、弾がなくなるまでハワードを撃ち続けた。

 この事件で逮捕状が出ると、カポネは姿をくらました。目撃者のうちの二人は気が変はつて何も見なかつたと言ひ出した。もう一人は行方知れずになつた。カポネは恐れるものが何もなくなると警察に出頭した。そして自分は古道具屋の店主だと名乗り、ハワードやグージックやトッリョなどといふ人たちのことなど聞いたこともないと主張した。彼は容疑不充分で釈放された。

古道具屋の店主

 カポネはジョー・ハワード殺害容疑で警察に尋問されたとき、自分の職業を古道具屋の店主だと言つたが、これはあながち嘘ではなかつた。実際、彼はフォーデューシーズの隣に店を借りて、半端な中古家具をたくさん並べてゐた。もつとも店はたいてい閉まつてゐた。
 のちには自分が闇の稼業に関はつてゐることや酒の密売業者であることを公言してはばからなかつたが、公式の場では、場合によつてギャンブラーとか、不動産ディーラーとか、「町の掃除屋」と名乗つた。



                    

第二章 乗つ取り


ビール戦争

ライバルのギャングたちは取り敢えず協定を結んだものの、互ひに相手を蹴落さうとし続けた。結局協定が破綻すると、ボスの座をめぐる争奪戦が始まり、銃撃戦や騙し討ちが日常茶飯事となつた。この世界で生き残るためには情けは禁物だつた。

 シカゴではトッリョが苦心して作り上げた組織が早くもくづれ始めてゐた。その主な原因は、オバニアン率ゐるノースサイド団とジェンナ兄弟率ゐるシチリアギャングとの抗争だつた。

 オバニアンはトッリョの台頭をけつして快く思つてゐず、好んで面倒を引き起こした。しかし、トッリョが作つた協定を最初に破つたのはジェンナ一家だつた。

 彼らは有害物質を含む色付きのメチルアルコールから偽ウイスキーを作るのを得意にしてゐた。この酒を飲むと失明や精神障害を起こして死亡することもあつたが、オバニアンが売つてゐたまともな酒の三分の一の値段だつた。1924年の末ごろ、そのジェンナ一家の安酒がノースサイド地区の酒場に現れるやうになつたのである。

 オバニアンはトッリョに苦情を持ち込んだが、すぐに独断でジェンナ一家のトラックから三万ドル分のウイスキーを強奪するといふ強攻策に出た。ジェンナ一家はオバニアンの殺害を望んだが、シチリア同盟のシカゴ支部長だつたマイク・メルロに任せることにした。しかし、トッリョ同様メルロもギャング同士が殺し合ひをしても誰の得にもならないと見てゐた。

 図に乗つたオバニアンはさらに大きな賭に出た。彼はノースサイド地区のジーベン醸造所をトッリョとカポネの三人で共同経営してゐたが、二人に向かつて「自分はもう酒の密造がいやになつた。それにジェンナ兄弟のことが怖くてたまらない。ついては醸造所の自分の持ち株を五十万ドルで買ひ取つてくれないか」と持ちかけたのである。悪くない話だつたので、二人はこの取り引きに応じた。

 ところが、オバニアンに二人が金を渡してから数日後に、コリンズ本部長率ゐる警官隊がその醸造所に手入れをしたのである。トッリョを含めてそこにゐた者たちは全員逮捕され、この醸造所は閉鎖されてしまつた。

 トッリョはすぐにぴんときた。彼は警察の中の自分のスパイから確証を得た。オバニアンはこの手入れがあることも醸造所が閉鎖になることもあらかじめ知つてゐて自分の持ち株を売つたのである。

 それだけではなかつた。「まんまとあのポン引き野郎の鼻を明かせてやつた」とオバニアンが計略の成功を自慢してまはつてゐるといふ噂がトッリョの耳に届いたのである。

 オバニアンとトッリョの関係は悪化の一途をたどつた。1924年の11月初めにギャンブルの貸し借りをめぐる口論で、オバニアンはアンジェロ・ジェンナを口汚くののしつた。オバニアンの右腕だつたハイミー・ワイスはジェンナのことは大目に見て、事を荒立てない方がいいと進言した。

 これに対するオバニアンの返答が彼の命取りになつた。「シチリアのガキどもはくたばるがいい」。

 ジェンナ兄弟はトッリョとカポネに会つて作戦を立てた。11月8日、マイク・メルロが癌で死亡した。オバニアンとその共同経営者は花輪などの献花の準備で翌11月9日の日曜日まで働き続けた。トッリョの注文だけで一万ドルを越えてゐた。

 11月10日の正午に店にゐたオバニアンは注文の花を仕上げてゐた。ほかに店にゐたのは店番のウイリアム・クラッチフィールドだけで、裏で掃除をしてゐた。その時、通りの向かひ側のホーリーネーム教会の前に一台の車が止まつた。三人の男が降りて花屋の中へ入つてきた。

 オバニアンはその中の一人が知り合ひだと気付くと手を差し延べながら迎へに出た。そして「いらつしやい。メルロさんのお花が御入り用ですか」と言つた。相手の男が延ばされた手をぐつと握つて引くと、オバニアンはバランスを失つてよろけた。

 オバニアンがいつも携行してゐる三丁の拳銃に手を延ばすいとまもなく、残りの二人がオバニアンの胸と喉と頭に六発の銃弾を撃ち込んだ。

 クラッチフィールドが店の中に戻つてくると、ユリとカーネーションと白いシャクヤクの散らかつた中に店の主人が横たはつてゐた。

 警察はこの殺人事件を解決出来なかつた。しかし、車を運転してゐたのはアンジェロ・ジェンナであり、オバニアンの手を握つたのはマイク・ジェンナであり、発砲したのはシチリアから来たばかりの殺し屋アルバート・アンセルミとジョン・スカリーゼだつた。この事実は、オバニアン一家を引き継いだハイミー・ワイスを含め、闇の世界の人間なら誰でも知つてゐた。

二人の殺し屋

 背が低くずんぐりとしたアルバート・アンセルミとその長身で細身の相棒ジョン・スカリーゼは、ジェンナ兄弟と同じくシチリアのマルサラ出身だつた。子供のころからの仲良しでいつも一緒だつた二人は、1924年の初めに警察の逮捕を逃れてシチリアからアメリカにやつてきた。英語は皆目だめだつたが、リトルイタリーの閉鎖的なシチリア社会に溶け込むのは早かつた。また、故郷でやつてゐたのと同じ仕事、すなはち殺し屋稼業の口を見つけるのに何の苦労もいらなかつた。
 弾丸にニンニクを塗り付ける習慣をシカゴに持ち込んだのはこの二人だつた。彼らはかうすれば殺し損なつた相手の体が壊疽にかかると信じてゐたのである。これはもちろん誤りである。さらに二人が何度も使つたもう一つの殺しの手口は、アンセルミが目的の相手と握手をしてピストルを握る方の手を万力のやうに強く握りしめてゐる間に、スカリーゼが進み出て敵の頭に弾丸を打ち込んで殺すといふやり方である。

 また、この殺しの背後にトッリョとカポネがゐることは誰でも知つてゐた。つねに用心深いトッリョはこの後またも長旅に出発したが、カポネはシカゴに留まつた。1925年1月、ワイスは走る車からカポネの命を狙つて彼の車に発砲した。カポネの運転手が負傷して、車体は銃弾で穴だらけになつた。

 この事件に対する反省から、カポネは三万ドルといふ桁外れの金を出してゼネラル・モーターズ社に防弾設備のついた車を特別に注文した。

走る要塞

 カポネは安心して車を乗り回せるやうに、三万ドルかけてゼネラル・モーターズ社に特別注文の車を作らせた。見た目はスマートだが、最新の防弾技術が込められた車だつた。
 重さは七トンで四十馬力のV8エンジンを積み、スチール製の車体に分厚い防弾ガラスが装備されてゐた。リアシートの後ろには銃の隠し場所があつて、追つてくる車に銃弾を浴びせるためにリアウィンドーが下向きに開く構造になつてゐた。
 1931年にこの車はある興行師に売り払はれて、その後十年間カポネの伝説が生き続ける間イギリスぢゆうで展示された。

 トッリョは旅を終へて旅先を引き上げた。しかしその時、ワイスの雇つた殺し屋たちがトッリョの間近に迫つてゐた。刑務所にゐるはうが安全だと判断したトッリョは、ジーベン醸造所での逮捕容疑に有罪答弁をした。短い刑期を勤める間に、カポネがノースサイド団のギャングたちを片づけてくれると思つたからである。

 トッリョは刑の宣告前に身辺整理のために五日間の猶予をもらつた。1月24日、妻とともに買ひ物へ行つたトッリョの帰りを家の外で待ち伏せする者たちがゐた。

 車に乗つた四人の男はトッリョの顔と胸と足と股間に傷を負はせた。その中の一人は頭にとどめの一発を打ち込まうと、倒れたトッリョの上にかがみ込んだ。しかし、発砲の直前、車の運転手がクラクションを鳴らして警告の合図をすると、男は重傷のトッリョにとどめを刺さずにその場から立ち去つた。

 三週間後、怪我から回復したトッリョは法廷に姿を現した。そして九ヶ月の懲役刑を宣告された。

 年老いたギャングは危ふく命を失ひかけて、ショックを受けてゐた。彼は金にものを言はせて特別待遇を得てゐる刑務所の中で、カポネと二人の弁護士を呼んで話し合つた。

 彼は言つた。「シカゴの犯罪組織の運営から自分はもう手を引くつもりだ。抗争は好きではない。事はもはや個人的な復讐の次元を越えてゐる。相手のワイスの後ろにはアイルランド系とユダヤ系とポーランド系のギャングたちがついてゐる。縄張り全体の支配権をかけた全面戦争が始まらうとしてゐるのだ」。

 トッリョは刑期を終へたら引退するつもりだつた。全てをカポネに任せるつもりだつたのである。

 まだ二十六歳でろくに読み書きのできない用心棒上がりの男は、かうして年に何千万ドルを稼ぎ出す組織を引き受けることになつた。これを維持できるかどうかは彼の腕一つにかかつてゐた。彼は手下のギャングを再編成して、事業を発展させるチャンスを待つた。

 オバニアンの腹心であるバクズ・モランは、ボスの死後様々な報復攻撃に加はつた。自分もその攻撃中に負傷してゐる。

 しかし、チャンスはなかなかやつて来なかつた。マイク・メルロの葬儀の席上、フランキー・イェールはシチリア同盟のメルロの後継者としてアンジェロ・ジェンナを指名した。しかし、アンジェロ・ジェンナは1925年5月25日にワイスとその二人の腹心ジョージ・バグズ・モランとビンセント・ドゥルッチによつてカーチェイスの末に殺害された。

 6月13日、モランとドゥルッチはマイク・ジェンナとスカリーゼとアンセルミの報復攻撃に会つて重傷を負つた。この三人の乗つた車は四人の警官の追跡を受けた。そしてジェンナが運転を誤つて車が電柱に衝突すると、三人は車から降りて銃撃を始めた。警察側はハロルド・オルソンとチャールズ・ウォルシュの二人が、ギャング側はマイク・ジェンナが死亡した。スカリーゼとアンセルミは逃走したが逮捕され、第一級殺人で告訴された。


ジェンナ兄弟の最後

 ジェンナ兄弟のうちで三番目に殺されたのはトニーだつた。7月8日、彼は通りで文字通り「処刑」された。この殺害にカポネが一役買つてゐると考へる人もゐた。トニーはジェンナ一家を陰で操るブレーンだつた。彼の死でジェンナ兄弟の縄張りは草刈り場と化した。残つた三人の兄弟には戦ふ勇気は無く、シカゴを後にした。

 ジェンナ一家の残党を率ゐたのは、プロの音楽家でシチリア同盟の次の支部長となつてゐたサムーツ・アマツーナだつた。アマツーナはカポネと協力して、警官オルソン殺しで法廷に立つアンセルミとスカリーゼの弁護費用を出すために基金を創設した。二人は愛国心に訴へ、それで駄目なら脅し文句を使つて、イタリア出身の家族や実業家たちから「寄付金」を募つた。

 また念のためギャングたちは目撃者の脅迫を始めた。1925年10月、裁判のために陪審員の選定が行はれてゐるとき、警官スイーニーの家が爆破されて粉々になつた。彼はマイク・ジェンナを撃ち殺した男で、州検事の取つて置きの証人だつた。しかし、幸ひ家には誰もゐなかつた。

 証拠は明白だつた。多くの目撃者が二人の殺し屋を犯人だと証言した。マイケル・アハーン弁護士は、警官がだれかを本人の意思に反して拘束しようとして殺された場合は単なる過失致死で、もし先に警官が発砲したなら単なる正当防衛だと主張したのだつた。

 陪審は過失致死罪の評決を出した。これに驚いた裁判官は、二人の殺し屋に十四年の刑を言ひ渡した。そして警官ウォルシュ殺しの裁判にも出廷するやうに命じた。

 リトルイタリーでは再び寄附金集めが始まつたが、今回はサムーツ・アマツーナぬきだつた。アマツーナは11月13日に理髪店でドゥルッチとその仲間に撃たれて死亡してゐた。

 そして、シチリア同盟のシカゴ支部長の職は、カポネが指名したトニー・ロンバルドが引き継いだ。

 今回の寄付金集めは前回ほど金の集まりがよくなかつた。そのために抗争事件が起こつて、ジェンナ一家の最後の残党を含む8人が殺された。

 アンセルミとスカリーゼに対する二つ目の裁判では、二人の弁護側証人が先に発砲したのは警官たちだと証言した。その結果、殺し屋たちは無罪になつた。そして1926年5月、二人は警官オルソン殺しで受けた十四年の刑に服した。


 この時期の新聞の見出しは、別の殺人事件に関するニュースで持ち切りだつた。アイルランド出身のクロンダイク・オドンネル率ゐるギャング団は、シセロでビール販売を手がけてゐた。4月27日、オドンネルは友人と一緒にシセロの酒場で酒を飲んでゐた。彼らが店から出てくると同時に、五台の車が店の前に乗り付けた。その一台にはカポネと銃を構へた三人の男が乗つてゐた。

 オドンネルとその兄弟は車の陰に逃れて事無きを得たが、連れの三人はマシンガンの一斉射撃を浴びて死亡した。死んだ者たちの中に、アンセルミとスカリーゼの一つ目の裁判で検察側を率ゐたウィリアム・マックスウィギンといふ若い州検事が含まれてゐた。

 この事件に対する世間の驚きやうは、それまでの事件の比ではなかつた。怒り狂つたクック郡の州検事ロバート・クローは徹底的な捜査を約束した。しかし六回も大陪審が開かれたが、ほとんど何一つ発見しないまま審理は脱線を繰り返した。結局、大陪審はマックスウィギンとギャングの交際には何ら違法な動機は見当たらないといふ結論に達した。

 郡の権限を委譲された特別代理人たちは、シセロにあるカポネの賭博場や酒場をたたき壊してカポネに若干の損害を与へた。一方カポネは三ヶ月間姿をくらましてゐた。殺人容疑で告訴されたカポネが警察に出頭したのは7月27日のことだつた。しかし、証拠不充分で告訴は取り下げられた。

 その後の記者会見でカポネはかう言つた。「自分はマックスウィギンを気に入つてゐた。やつたのは自分ではない」。そして誰にも質問されないうちに「マックスウィギンには金をやつてゐた。しかもどつさりとやつてゐた。そしてやつただけの分は回収させてもらつた」と話し始めた。シカゴのギャングたちと彼らを一掃すると誓つた者たちとの癒着は、誰の目にも明らかだつた。

 8月になるとギャングの抗争が再燃した。商業地区でカポネの殺し屋たちがノースサイド団のハイミー・ワイスとビンセント・ドゥルッチを待ち伏せして襲ふといふ事件が二度も起こつた。そして二度とも銃撃戦となつたが、負傷者も逮捕者も出なかつた。

 9月20日、ノースサイド団が巻き返しに出た。カポネたちがホーソン・インで食事をしてゐると、外で一台の車がブレーキ音をたてて止まつた。するとマシンガンを発射する音が聞こえてきた。音がやむと、人々は様子を見に外へ出た。

 しかし表は何の損傷も認められなかつた。明らかにガンマンは空砲を発射したのだ。

 このガンマンがをとりであることに最初に気付いたのはカポネの腹心のフランク・リオだつた。彼がカポネを床に引きずり下ろした瞬間、ホテルの表側が降り注いできた銃弾でばらばらに砕けた。十台の車がマシンガンを発射しながらゆつくりと通り過ぎていつた。ホテル側の被害は甚大だつたが、負傷したのはカポネの子分とその場に居合はせた家族連れの四人だけだつた。カポネはこの四人の治療費を支払つた。

 1926年10月4日、カポネの子分の中でも屈指の抜け目のなさを持つてをり「疫病神」とあだ名されたトニー・ロンバルドが、ハイミー・ワイスに会つて休戦を申し込んだ。その会談でワイスはスカリーゼとアンセルミを始末するならこの抗争をやめてもいいと言ひだした。

 ロンバルドはその場でカポネに電話してこの条件を伝へた。カポネの返事は単純明快だつた。「そんなことは絶対にだめだ。犬畜生め」。ワイスは会談の場を後にした。その一週間後にワイスは殺された。

 ワイスが事務所として使つてゐた部屋はノースステート通り738番地にあつた。そこは以前オバニアンが共同経営者をしてゐた花屋の二階だつた。10月8日に一人の男がノースステート通り740番地にある二階の表側の部屋を借りた。その部屋からはワイスの事務所の入口が見下ろせた。男は家賃を一週間分前払ひすると二度と姿を見せなかつた。代はりにやつてきた二人のイタリア人は、交代で仮眠を取りながら窓際で待ち伏せを始めた。

 10月11日午後4時、ワイスの車がホーリーネーム教会の前に止まつた。ワイスと一緒にゐたのは、車の運転手とボディーガードと地方政治家、それにワイスが争つてゐた裁判の弁護士だつた。

 一行が花屋の方向に向かつて道を渡りだしたとき、ショットガンとマシンガンの一斉掃射が彼らを捕らへた。ワイスと運転手とボディーガードは三人とも撃ち殺され、あとの二人は重傷を負つた。


頂点

 警察は男たちが立ち去つたあとの部屋で三十五個の薬莢とショットガンの空の薬包三個を発見した。そのほかにグレーのソフト帽も見つかつたが、それはまさしくカポネ一味のトレードマークだつた。

 カポネはワイスの死に対して遺憾の意を表明した。そしてかう言つた「仕事は全員に行き渡るだけたつぷりあるから、何も獣のやうに通りで殺し合ふ必要はない。わたしもマシンガンの弾で穴だらけになつてどぶの中で生涯を終へたくはない。そんなわたしがどうしてワイスを殺すだらうか」。

 コリンズ本部長は記者団に対してかう言つた。「この殺しを命じたのはカポネに違ひない。だが彼を逮捕しても時間の無駄だ。前に殺人容疑がかかつたときも奴は家にゐた。奴にはいつもアリバイがある」。結局、誰も逮捕されなかつた。

 1926年10月21日、シャーマンホテルに三十人のボスたちが集合した。一人の刑事がオブザーバーとして出席し、記者団は外で待つた。カポネは新たな縄張りと抗争終結を提案したが、いづれも承認された。

 カポネはかうして疑ひもなくシカゴのボスたちの頂点にのぼり詰めたのである。

クリスマスの惨劇

 1925年の暮れにカポネは家族連れでニューヨーク旅行をしてゐる。昔の友達や親戚に会ふためと、医者を捜すための旅だつた。息子のソニーは耳の後ろの骨が炎症を起こす乳様突起炎を患つてをり、難しい手術を必要としてゐた。手術は成功したが、ソニーの聴力には部分的に障害が残つた。
 その年のクリスマスの日、カポネは昔よく通つたニューヨークのバーに飲みに出かけた。ところが、ちやうどその日その店で地元のアイルランド系ギャングが三人射殺されたのである。三人は波止場の労働者を恐喝して食つてゐたが、この事件の後はイタリア系ギャングが港湾労働者の組合に食ひ込めるやうになつた。バーにゐた人間は、そこで起きた銃撃戦について、あるいはカポネについて誰も証言しようとはしなかつた。カポネは逮捕されてその日いつぱい檻の中で過ごしたが、結局釈放された。




                    

第三章 大量殺戮

血染めのバレンタインデー

カポネの容赦のない報復攻撃にもかかはらず、ライバルたちはすぐに元の消耗戦に突入していつた。しかしカポネは情け容赦のないとどめの一撃でライバルたちを一掃した。かうしてカポネは揺るぎない地位を確立したのである。


 カポネは抗争を終結させると、次の重要な仕事は1927年3月に行はれる市長選挙でビッグ・ビル・トムソンを確実に勝たせることだつた。

 しかし休戦協定が結ばれたにもかかはらず、ノースサイド団の残党たちはカポネの命を取ることに躍起になつてゐた。ドゥルッチはギャングの保養地として有名なアーカンソー州ホットスプリングスまでカポネを追ひかけたが、ショットガンを使ふチャンスを得ながら撃ち損なつた。

 ドゥルッチにとつてはそれが最後のチャンスだつた。彼はトムソンの対立陣営に対して暴力行為を働いた容疑で逮捕されたが(オバニアン一家もトムソンの当選を望んでゐた)、連行の途中に警官のピストルを掴み取らうとして射殺されたのである。

 選挙は比較的平穏に行はれ、トムソンが勝利を手にした。彼は就任会見で「わたしは大西洋のまん中よりもウェットである」と禁酒法反対派であることを宣言した。これはシカゴの酒の密売業者にゴーサインを出したに等しかつた。コリンズ警察本部長や改革派の役人は職を解かれ、トムソンの仲間で極めて汚職体質の強い連中がその後釜に座つた。

 カポネは本拠地をシカゴの中心部に戻した。市庁舎と警察署のすぐ近くにあるメトロポール・ホテルを五十室貸切りにしたのである。この二つの建物に勤める役人の大部分はカポネに買収されてゐた。

警察の買収

 1920年代のシカゴ警察の腐敗ぶりは今では伝説となつてゐる。20年代初期の警察本部長チャールズ・フェツモリスは、自分の部下の六割が積極的に酒の密売に関はつてゐることを認めてゐる。またシカゴの町では酒を積んだトラックが警察に呼び止められて通行料を取り立てられるのは当たり前のことになつてゐた。
 カポネは自分の事業をおほつぴらにやり続けるために何百人もの警官に賄賂をつかませてゐた。賄賂は決まつて日曜日の礼拝の後に配られた。その時間になると、最初カポネの本拠地があつたホーソン・インや後に本拠地になつたホテル・メトロポールのまはりは、金や援助を求める警官や政治家でごつた返した。ほかに「運び屋」から定期的に金を受け取る連中もゐた。その運び屋の元締めだつたのがジェーク・グージックだつた。彼はいつも札束を指で数へながら渡すので、「Greasy Thumb(Greaseには買収といふ意味がある)」といふ愛称を付けられた。
 1920年代を通じて、シカゴ警察は毎年三千万ドルの賄賂を受け取つてゐたと推定されてゐる。

ヒットマン

 スカリーゼとアンセルミに控訴が認められ、1927年6月に審議が始まつた。裁判で二人は「警察の不当な攻撃」から身を守つたと見なされて、無罪の評決が下つた。二人は法廷を出ると、新しいボスのカポネによつて盛大に開かれたパーティー会場へ直行した。

 ジェンナ一家が没落したあとのリトルイタリーを牛耳つてゐたのは、アイエッロ兄弟といふ新興ギャングだつた。そのリーダーであるジョセフ・アイエッロは、シチリア同盟の支部長に就任したのが自分ではなくカポネの子分トニー・ロンバルドであることに腹を立ててゐた。

 アイエッロはその頃バグズ・モランが率ゐてゐたノースサイド団と提携するとともに、カポネの首に五万ドルの懸賞をかけた。この懸賞に町の外から四人の殺し屋が応募した。しかしその四人ともカポネに近づく前に、カポネの部下では第一の殺し屋マシンガン・ジャック・マックガーンに殺された。

 アイエッロはなほも暗殺を狙つたが失敗に終はつた。カポネの立ち寄り先の近くに借りた隠れ家が警察に発見されたからである。さらに、そこから足がついてアイエッロ自身も逮捕された。

 このニュースが広まると、アイエッロが拘束されてゐる警察署のまはりはカポネの子分たちによつて取り囲まれた。恐れをなしたアイエッロは、警察の護衛付きでシカゴから逃げ出した。

 ビッグ・ビル・トムソンが1928年の大統領選挙に立候補すると発表すると、シカゴの状況は一変した。彼はもはや犯罪者に甘い人間であると見られるわけにはいかなくなつた。そして新たに就任したマイケル・ヒューズ警察本部長はカポネに対する攻撃を始めた。

 1927年12月5日、カポネは記者会見を開いて芝居がかつた声明を発表した。「私はシカゴを出て行く。私はこの町に酒を供給してきたが、誰からも感謝されず悲しいことばかりだつた」と。

爆弾が飛び交つた予備選挙

 1928年の共和党の予備選挙はシカゴの下級役人の候補を選ぶものだつたが、この町の歴史上屈指の乱暴な選挙となつた。ビッグ・ビル・トムソンが率ゐる会派は州選出上院議員チャールズ・デニーンの率ゐる会派とはげしく争つた。
 選挙期間中に、両派のギャングが投げた爆弾や手榴弾(俗にパイナップルと呼ばれた)によつて、四人の候補者の家が爆破された。さらに市会議員に立候補してゐた政治屋ダイアモンド・ジョー・エスポシートが殺害され、デニーン上院議員の家がダイナマイトで吹き飛ばされた。
 4月10日の投票日にはトムソン派を支援するギャングたちが町ぢゆうの通りを占拠した。デニーン派の候補で黒人弁護士オクタビウス・グラナディーは待ち伏せに会つて投票所の外で撃たれた。
 このやうな脅迫と選挙違反にもかかはらず、投票率は普段の倍以上に上つた。そして、憤慨した市民たちはトムソン派の候補者たちを大敗させた。トムソン市長は任期を三年残してゐたが、この選挙によつて彼の派閥は事実上崩壊した。


マイアミ暮らし

豪華な隠れ家

 パームアイランドのパームアベニュー93番地にあるカポネの屋敷は1922年に建てられたものだつた。それをカポネは四万ドルで買ひ取つて、十万ドルもかけて改装工事を施した。
 カポネは敷地の周囲を高いコンクリート壁で囲み、鋳鉄作りの門に分厚いオーク材のドアを付けた。また三部屋もある門番小屋があつて、入口には銃を構へたガードマンが常駐してゐた。
 門番小屋と屋敷のまはりにはスペイン風のテラスが広がり、その一角にカポネは18m×12mのプールを造らせた。中庭の岩造りの池には珍しい魚が一杯泳いでゐた。家の裏手には大きな桟橋があつて、カポネのモーターボート、ソニー・アンド・ラルフィー号とクルーザーであるアロー号が停泊してゐた。
 屋敷の中はシカゴのマンションと同じく金ぴかの贅沢な家具が備へ付けられてゐた。主寝室には屋根付きベッドが置かれ、足元に置かれた大きな木製の箱からは札束が溢れ出てゐた。

 カポネはロサンゼルスへ行つたが、すぐに町から追ひ出された。シカゴではヒューズ本部長がカポネにシカゴへ戻るのを許してはならないといふ命令を出した。しかし、この命令が実行に移されることはなかつた。トムソン市長は自分が大統領になる夢が消えると、ヒューズ本部長にこの命令を撤回させてしまつたからである。

 その年の暮れにカポネは再びシカゴを後にして、今度は温かいフロリダに向かつた。そしてマイアミビーチ近くのパームアイランドで、白いスペイン風の家を購入した。十四部屋もある漆喰壁の家で、屋根は緑のタイル張りだつた。その直後に、カポネはシカゴの本拠地をホテル・メトロポールから通りを隔てたレキシントンホテルに移して、このホテルのワンフロアー半を独占した。

 1928年7月1日、フランキー・イェールがニューヨークで射殺された。その後、この殺人に使はれた武器の出所がシカゴであることが明らかになつた。ニューヨークでトムソン式マシンガンが使はれたのはこの事件が初めてだつた。

 カポネは旧友フランキー・イェールに対する殺人の疑ひで告発されることはなかつたが、その疑ひは濃厚だつた。イェールがカポネの腹心トニー・ロンバルドをシチリア同盟のシカゴ支部長にすることにはつきりと賛成しなかつたときから、カポネとイェールの間にはすきま風が吹いてゐた。さらに酒の取り引きでイェールがカポネを裏切つたといふ噂が広まつてゐた。

 イェール殺害から二ヶ月後の1928年9月7日、アイエッロ派のガンマンがロンバルドを通りの雑踏の中で撃ち殺した。二発のダムダム弾で彼の頭が半分吹つ飛んだといふ。さらに三人組のアイエッロ兄弟はロンバルドの後任のパスクワーレ・ロロルドを自らの手で殺害して、ジョセフ・アイエッロの天下をもたらした。しかしアイエッロはその後一年と経たないうちに、近くの家に張り込んでゐたカポネの殺し屋によつて射殺された。ロロルドの後任となつたのはカポネの指名した人間だつた。


牙をむいた野獣

 かうしてカポネは断続的にアイエッロ一家と消耗戦を繰り広げてゐたが、1920年代が終はらうとしてゐる頃にカポネが戦はねばならなかつたのは彼らだけではなかつた。ノースサイド団はカポネのトラックをハイジャックしたり、カポネからビールを仕入れる飲み屋を爆破したりして、相変はらずカポネを悩ませ続けてゐた。

 ノースサイド団はカポネのガンマンの中で一番の腕利きジャック・マックガーンの命を狙つてゐたが、一度彼らに絶好のチャンスが訪れた。

 彼らは電話ボックスにゐるマックガーンの不意を襲つた。電話ボックスは銃弾によつてまるでガラス瓶のやうに粉々に砕け散つた。しかし、マックガーンはガラスと木つ端のごみの山から生きて救出された。そして数ヶ月の入院生活を経て、襲撃で受けた怪我から完全に回復したのである。

 バグズ・モランはどんな機会も逃さずカポネに悪口を浴びせかけた。彼はカポネのことを野獣とも化け物とも形容してかう言つた「奴はボディーガードなしにはゐられない。だが俺は仲間と一緒にどこまでも奴を付け狙ふ。あの化け物は夜もおちおち眠れまい。俺に言はせれば、奴はヤクをやつてゐる」。

 カポネの堪忍袋の緒が切れた。1929年2月の始め、彼はマックガーンをパームアイランドに呼んで、ノースサイド団の問題に対する最終的結論を出すために行動を開始した。

 2月14日午前10時30分、カポネはフロリダで地元の司法関係者のトップと面会する約束があつた。

 その同じ頃、ノースサイド団のギャングたちはノースクラーク通り2122番地の倉庫に集まつて、盗品のウイスキーを運ぶトラックの到着を待つてゐた。モランは少し遅れてゐたが、ほかの六人のギャングは一人の取り巻きと一緒に平屋建ての寒い倉庫の中でぶらぶらしてゐた。その時、シカゴ警察が使つてゐたのと同型の黒いキャデラックが一台、倉庫の前に止まつた。

 警官の服を着た二人の男がフロントシートから降りて、私服の二人の男を従へて倉庫の中へ入つていつた。五人目の男は車の中で待つてゐた。モランとその友人は倉庫に行く途中に車が倉庫の前に止まるのに気付いた。警察の手入れだと思つた二人は回れ右をしてその場から立ち去つた。

 男たちが倉庫に入つてから数分後、近所の人たちの耳にひとしきり振動音のひびくのが聞こえた。人々が窓から見てゐると、やがて二人の警官が二人の男に銃を突きつけながら倉庫から出て来て、車に乗り込んで走り去つた。目撃者たちは警察の手入れがあつて逮捕者が出たのだと思つた。

 倉庫の中は犬の鳴き声がするばかりで、ひつそりと静まり返つてゐた。

 連絡を受けて到着した警官たちは、倉庫の中が修羅場と化してゐるのを発見した。男たちの内の六人は奥の壁際に倒れて死んでゐた。残りの一人、フランク・グーゼンバーグは十四発の弾丸が撃ち込まれたにもかかはらず、まだ息があつた。急いで病院に運ばれたが、その後病院で死亡してゐる。

 ギャングの世界の掟に忠実なグーゼンバーグは警察に何一つ情報を与へなかつた。誰に撃たれたか聞かれると、彼は「誰にも撃たれてはゐない」と答へたといふ。


虐殺の首謀者


 セントバレンタインデーの虐殺は世界中の新聞の見出しになつた。のちに警察が推測した事件の粗筋は、まづ二人のにせ警官が手入れを装つて入りこみ、ギャングたちから武器を奪つてから、壁に向かつて整列させ、そこへ共犯者たちが表の事務所から入つて行き、列に向かつてマシンガンを掃射して七人をなぎ倒したといふものである。

 バグズ・モランには誰がこの殺人を命じたかは明らかだつた。ニュースを聞いたときモランは「こんな殺し方ができるのはカポネだけだ」と言つたいふ。一方カポネは一分のすきもないアリバイに守られて、フロリダで友人のためにバレンタインパーティーを開いてゐた。出席者の中にこの殺人事件についてカポネに感想を求めるやうな失礼な(あるいは勇気のある)人間は一人もゐなかつた。

 十万ドルの懸賞金が出たが、犯人に関する情報は何一つ寄せられなかつた。一週間後、現場から五キロほど離れたところの焼け落ちたガレージの中で、事件に使はれた車がほぼ解体された姿で見つかつた。そこから警察はカポネの仲間のクロード・マドックスを割り出したが、この男と事件とのつながりは希薄だつた。

 ジャック・マックガーンがアンセルミとスカリーゼとともに逮捕されたが、証拠不充分で三人とも釈放されてゐる。

 1929年12月14日、警官射殺事件を起こしたセントルイスのギャング、フレッド・キラー・バークの家で、虐殺に使はれた二丁の機関銃が発見された。バークはにせパトカーに乗つてゐた人間の一人と人相が一致したが、警官殺しの罪で終身刑になり服役中に死亡してゐる。

 四十年後、サーティーズ団の一人で強盗と誘拐が専門のアルビン・カーピスは、バークの共犯者として、クロード・マドックス、ジョージ・ジーグラー、ガス・ウィンクラー、「くび長」のニュージェントの四人の名前をあげた。マドックス以外は全員わざわざカポネがこの殺しのために町の外で雇つた男たちだつた。

虐殺された者たち

ジェームズ・クラーク。またの名をアルバート・カシャレック。スー族のインディアン出身で、長年のオバニアン派だつた。彼の妹はモランの妻となつた。

ジョン・メイ。元金庫破り。オバニアン派の車とトラックの整備工としてモランに雇はれたばかりだつた。妻と六人の子供があつた。

アル・ウェインシァンク。彼もまた新入りだつた。労働組合に対する恐喝を得意とした。風貌も服装もモランそつくりだつたため、倉庫を見張つてゐた者がこの男をボスのモランと勘違ひして、殺し屋たちに合図を送つた可能性もある。

アダム・ヘイヤー。またの名をジョン・スナイダー。ビジネススクールを卒業して会計士の資格を取り、オバニアン派の会計担当者として働いてゐた。

フランク・グーゼンバーグとピート・グーゼンバーグ。二人とも殺し屋でオバニアン派の長年のメンバーだつた。この二人に弟ヘンリーを加へた三人がジャック・マックガーンに瀕死の重症を負はせた。

ラインハート・シュビマー。検眼士で、モランと同じホテルで暮らしてゐた。ギャングたちとの付き合ひにスリルを感じて、仕事に行く道すがら事件のあつた倉庫によく立ち寄つてゐた。


論点

頽廃した世相

禁酒運動は六十年間にわたつて盛り上がりを見せ、たうとう1920年の禁酒法制定につながつた。しかしそれと同時に、国中いたる所で酒の密売業者が「医療用」ウイスキーの強奪と酒の密造を開始した。

 アル・カポネたちが富を蓄へたのも、アメリカに組織犯罪が栄えることになつたのも、すべては法律によつて人々の倫理感を制御しようといふ誤つた試みを実施したことの結果である。

 禁酒法はハーバート・フーバー大統領(在職1929年~1933年) によつて「高貴な実験」と名付けられたものの、結果は惨憺たるものだつた。禁酒法の発起人である酒類販売反対同盟の予想では、この法律は「クリアーな思考とクリーンな生活」の時代をもたらすはずだつた。ところが実際には、アメリカ史上かつてないほど犯罪が増加し、町には酔つぱらひがあふれ、不道徳が蔓延するやうになつた。この時代はジャズエイジとか狂乱の20年代と呼ばれてゐる。

 禁じられた物への誘惑は、密造酒の中身のいかがはしさと相まつて、酒の単なる愛好者をアル中患者に変へ、運悪く質の悪い酒に出会つた人たちに死をもたらし、何百万の正直な市民を犯罪者にしたのである。

 そもそも禁酒運動はメソジスト教会が中心となつて1840年代に始まつた。しかし運動が最も盛り上がつたのは二十世紀に入つてからである。ジョージア州で禁酒法が施行された1907年から禁酒法が全国的に実施された1920年1月17日までの間に、禁酒運動は全米二十四の州に何らかの形で飲酒を禁止する法律を導入させることに成功した。

 禁酒運動は、強烈な個性をもつた人たちが運動の先頭に立つやうになると、ますます急進の度を強めるやうになつた。その主な人たちは、牧師ビリー・サンデー師、人々に恐れられたキャリー・ネーション女史 (彼女は酒場に乗り込んで行つてビールの樽を斧でたたき割つた) 、酒類販売反対同盟のウエーン・フィーラー氏、禁酒及び公衆道徳を推進するメソジスト委員会のクラレンス・トゥルー・ウィルソン氏である。そして彼らの献身的な熱意を政治の世界に反映させたのが、禁酒法の共同提案者となつたテキサス州出身のモリス・シェパード上院議員とミネソタ州出身のアンドリュー・ボルステッド下院議員だつた。

 ボルステッド下院議員は「法律が道徳を改善する」といふ揺るぎなき信念を持つてゐた。シェパード議員の提案した憲法修正第十八条の施行法であるボルステッド法は、第一次大戦後のユートピア思想の波にのつて法制化された。

 議員たちは新しい時代の到来を求める説得力溢れる声に動かされて、自分たちの行動の結果についてはろくに考へてもみなかつた。

 結果はすぐに現れた。アメリカは改革派の敬虔な予言通りにサルーン(酒場)のない国になるどころか、あつといふ間に二十万軒以上のもぐりの酒場が国中に出現した。これは禁酒法以前に合法的に営業してゐた酒場の数をはるかにしのぐものである。ニューヨークでは酒場の数は二倍に増えた。一部は隠れて営業したが、罪の意識もなくおほつぴらに営業する酒場も多かつた。地元の役人が自分たちに同情的であることを知つてゐたので安心して営業をしたのである。

 第一次大戦後のアメリカではかつてないほど多くのお金が出回り、酒に飢ゑた国民に望みのものを供給することで、巨万の富を築くことが可能だつた。アル・カポネ一人で六千万ドル以上を稼ぎ出した。当時、酒の密売ではカポネが一番有名だつたが、一番多く酒を売つたのは彼ではなかつた。この名誉はおそらくはデトロイトのパープルギャング団のものだつたらう。彼らはカナダからの酒の密輸を一手に取り仕切つてゐたのである。


権力を手にした密売屋

 この莫大な富は政治に対して大きな影響を与へた。禁酒法以前には、ギャングたちは地方の政治基盤を固めたり黒幕として働いたりして政治家から金をもらつてゐたが、禁酒法以降、ギャングたちは酒の密売が生み出した金を使つて、役人や警官はおろか政治家を金で売り買ひするやうになつた。

 トムソン市長の「わたしは大西洋のまん中よりもウェットである」といふ大胆な発言に見られる禁酒法に対する軽蔑は、最初この地方特有のものだつが、すぐに他の地域にも広がつた。その中にはホワイトハウスさへも含まれてゐた。在任中に金銭的スキャンダルにまみれたウォーレン・ハーディング第二十九代大統領(在職1921年~1923年)は、自分の酒蔵を常に外国産の酒で満たしてゐたといふ。

 禁酒法の施行を任された捜査官たちは、ほとんど一人残らず買収された。賄賂をとつて首になつたり告発された者は何百人に上つた。絶望的になつた財務省の高官エルマー・アイレーは、彼らのことを「政治屋とたかり屋と追剥ぎを寄せ集めた異常な集団」と決めつけた。

 1931年には事態は悪化を極めたため、たうとうフーバー大統領は民衆の声に屈して調査委員会を発足させた。しかし委員会は現実を直視せず、法律の実施は困難だが廃止するには及ばないといふ結論を出した。この法律は1933年にルーズベルト大統領によつてやつと廃止された。


頑固ばあさん

 あらゆる飲酒に対して狂信的に反対したキャリー・ネーションは、十年間のあひだカンザス州の酒場の経営者にとつて全くの疫病神だつた。づかづかと酒場に入つてきては、大きなスカートの下に隠しもつた斧を取り出して、神の名を呼びながら酒樽と酒瓶と酒台に向かつて猛然と正義の鉄槌を下した。カンザス州は当時すでに正式に禁酒法を実施してゐたため、たいていの場合彼女はこの襲撃を少しも邪魔されずに実行できた。彼女は三十回以上も逮捕されたが、その時はちやんと罰金を払つてゐる。名物の斧を支持者たちに売ることで立派に食べていけたのである。
 彼女がこの運動を始めたのは西暦1900年、彼女が五三歳のときで、二番目の夫が酒場で殴られて重傷を負つたことがきつかけだつた。最初の夫が死んだ原因も酒だつた。彼女は集会を開いては、それが盛り上がつたところで一斉に酒場を襲撃するといふことを繰り返した。1911年にこの集会の途中で倒れて命を失つたが、彼女は禁酒運動に急進的な方向を与へるのに大きな貢献をした。



  

第四章 逆回転

税金の落とし穴

いかにカポネの暴力が目にあまるものだつたとしても、ギャングの世界の沈黙の掟のために、彼を殺人罪で裁くことはできなかつた。そこで公安当局はカポネの最大の弱点を突くことにした。それは酒の密売と脱税だつた。


 セントバレンタインの虐殺の三日後の1929年2月17日、カポネは酒の密売容疑を審議するシカゴの連邦大陪審から召喚状を受け取つた。

 バグズ・モランの復讐を恐れたカポネは、軽い風邪を肋膜炎と誇張した診断書を医者に書かせて出頭不能であると申し出た。ところがカポネはスポーツ大会や社交界の催しでその健康ぶりを隠さなかつたため、法廷侮辱罪で告発されることになつた。

 カポネはしぶしぶシカゴに戻つた。そこへボディーガードのフランク・リオが悪い報せをもつてきた。当時シチリア同盟のシカゴ支部長といふ呪はれた椅子に就いてゐたのはカポネが指名したジョー・ジュンタだつたが、この男がアルバート・アンセルミとジョン・スカリーゼを副支部長に任命したといふのである。

 権力を握つた三人は慢心してゐた。アンセルミが「今では俺たちがこの町の顔役だ」と言つたといふ噂が流れてゐた。三人はシカゴの犯罪組織をカポネの手から奪ひ取るつもりらしいといふ噂も出てゐた。


最後の晩餐

 カポネは証拠のない話はけつして信じようとはしなかつた。そこで、リオとカポネはシチリア人たちの前で大喧嘩をしてリオが部屋から飛び出して行くといふ芝居を演じて見せた。するとスカリーゼが餌に食ひついてきた。リオに近づいてきて、「カポネを殺すつもりなら手を貸してやる」と言つたのである。

 1929年5月7日、カポネはジュンタとスカリーゼとアンセルミをホーソン・インに招いてパーティーを開いた。宴は日付が変はるまで続いた。三人のシチリア人は料理と酒に満足してすつかりくつろいでゐた。やがて、主人役のカポネが乾杯の音頭を取らうと立ち上がつた。するとそれを合図にカポネのボディーガードたちは、三人に飛び掛かつて彼らを縛り上げて猿ぐつわをかませたのである。その間カポネは三人に向かつて彼らの裏切りを大声でなじり続けた。

 それから彼らの後ろに回ると、重い野球バットを両手でつかんで三人の頭や肩や腕に向かつて振り下ろした。カポネは彼らが前にくづほれてぐつたりするまで一人づつ順に殴り続けた。最後にボディーガードの一人がピストルをもつてきて三人にとどめを刺すと、死体は州境を越えたインディアナ州に捨てられた。

 今やカポネの命を狙ふのはモラン一人ではなくなつた。シチリア人社会全体が彼の敵に回つたのである。そこで、トッリョがかつてやつたやうに、カポネも牢獄の中に逃げ込むことにした。

 カポネはまづアトランティックシティーに各地のギャングのボスたちを集めて会議を開いて、全国的組織の結成について話し合つた。それからシカゴへの帰り道に、フランク・リオといつしよにフィラデルフィアに立ち寄つた。

 二人は映画館に入つたが、そこでカポネの知り合ひであるジェームズ・マローン警部補に出くはした。警部補が二人を呼び止めると、二人はおとなしく拳銃を差し出した。二人は銃を隠し持つてゐた罪で告発された。

 事情聴取に応じたカポネは「ギャングの生活はもう疲れた。先週わたしの友だちが三人も殺された。こんなことではとても安心して暮らせない」と言ひだしたといふ。彼らを殺したのは自分であることにはもちろん触れなかつた。

 カポネは有罪の申し立てをしたにもかかはらず、懲役一年といふ最も重い刑を宣告されてショックを受けた。しかし同年の8月には、カポネは満員のホルムズバーグ郡刑務所から州刑務所の住みよい監房に移されてゐる。そこでカポネは家具調度品完備の一部屋を与へられて、図書室の楽な仕事をあてがはれた。

 カポネに寛大な刑務所長は面会を毎日許して、電話の使用もほとんど無制限だつた。カポネは弁護士や政治家、それにビジネス仲間、特に留守をあづかる兄ラルフとジェーク・グージックに電話をかけまくつた。

 模範囚のカポネは善行で刑期を最大限に短縮されて1930年3月に釈放された。その際カポネは公式発表の一日前にこつそり刑務所から出された。カポネを一目見ようと刑務所のまはりに殺到する野次馬やインタビューを求めるマスコミを避けたのである。

 彼はグージックと話し合ふためにまつすぐホーソン・インに向かつた。カポネの留守の間に、世の中の様子は随分変はつてゐた。1929年のウォール街の株価大暴落に端を発した金融恐慌は、すでにカポネの商売に打撃を与へてゐた。人々は飲酒やギャンブルを控へるやうになつてゐたのである。


浪費家カポネ

 カポネは大金を稼いだが、のちの組織犯罪のボスたちのやうに巨万の富を築き上げるといふことはなかつた。現金は手に入り次第すぐにつかつた。自分の組員のためにホテル・メトロポールを五十室貸切りにしたり、派手な買ひ物をしたり、豪華に人をもてなしたりした。チップの金額も桁外れだつた。新聞少年には五ドル、ウェーターには百ドル─これは給料の数週間分にあたる─を与へた。
 その上、シカゴとフロリダにある自分の屋敷に大金を注ぎ込み、友人や家族には気前よくプレゼントを贈つた。
 そして残りは全部ギャンブルに使つた。彼は骨の髄からのギャンブル好きで、しかもいつも高い賭け率で賭けた。彼の計算では、競馬だけで毎年百万ドルはすつたといふ。



 商売が下り坂になつた事に加へて、エリオット・ネス率ゐる連邦捜査官のエリートチームによつて、酒の密売業は根底から揺さぶられてゐた。このチームは一般の腐敗した能なし捜査官とはかけ離れた存在で、「アンタッチャブル(買収のきかない人々)」といふ名前で知られるやうになつた。

 カポネはまだ気付いてゐなかつたが、さらに手強い敵がカポネの背後に忍び寄つてゐた。それは1929年の1月に就任したフーバー大統領だつた。彼は何よりもカポネの破滅を優先して考へてゐた。カポネの犯罪の多くは一国の問題といふよりは州レベルの問題だつたので、政府は二つの面からカポネに攻勢をかけることにした。それは酒の密売と脱税だつた。カポネは税金の申告を一度もしたことがなかつたからである。

 アンタッチャブルがカポネの醸造所の閉鎖に乗り出す一方で、国税庁はカポネの収入を調査した。最高裁が違法な収入も合法的な収入と同様に課税されると決定したあとの1927年、国税庁はカポネに関心を持ち始めた。


犯罪の組織化

 1928年12月5日、警察はクリーブランドのホテルで全国から集まつたシチリア系ギャングのボスたち二十七人が開いた会議を解散させた。
 五ヶ月後、今度はシチリア系を含むあらゆる系列のギャングが、同様の会議をアトランティックシティーのプレジデント・ホテルで開いた。トッリョやカポネを含めたシカゴのボスたちも出席した。ただし、ノースサイド団のギャングたちは欠席した。ニューヨークからはラッキー・ルチアーノとダッチ・シュルツが、ほかの都市からも大ボスたちがこの会議に出席した。全部で三十人以上のボスたちが集まつた。
 彼らは平和協定の発足と全国組織の設立について討議した。三日後、全国の各縄張りをそれぞれ一人のボスの支配に委ねる決定に全員がサインした。カポネはシカゴの大ボスに選ばれた。また、トッリョを座長とする全米ボス委員会が結成された。このアトランティックシティーの会議とクリーブランドの会議が、アメリカにおける全国規模の組織犯罪の先駆けとなつたと見られてゐる。



 国税庁はまづ小手調べに兄のラルフ・カポネから始めた。彼は一文なしだと主張したが、根気強い調査の結果、彼のものと見られる預金通帳が次々と発見された。それによると、たつた四年間に八百万ドルが彼のふところに流れ込んでゐた。彼は1929年10月8日に逮捕され、1930年4月に懲役三年を言ひ渡された。次はグージックの番だつた。彼は州刑務所で五年間服役することになつた。二人とも保釈金を積んで控訴審までのあひだ自由の身となつた。

 シカゴの国税庁の調査部門のトップだつたフランク・ウィルソンは、次にカポネを挙げろといふ指令を受けた。しかしそれは生易しいことではなかつた。カポネは兄のラルフや子分のグージックのやうに記録を残すといふことがなかつた。彼は銀行口座さへ持つてゐなかつた。すべて現金払ひだつたのである。

 ウィルソンが長年にわたる捜査で押収した書類の山に目をとほす一方、他の者たちは商店主やホテル経営者に対して、カポネが何に金を使つてゐたか聞き込みをしてまはつた。ウィルソンの部下であるマイク・マローンは、警察に追はれてゐる振りをして、フィラデルフィア出身のマイク・レピートといふ名前でレキシントンホテルにチェックインした。ギャングたちは彼のことを調べ上げたのち、カポネの仲間に引き入れた。

 カポネが刑務所から釈放されると、ウィルソンはカポネに事情聴取に出頭するやう要請した。カポネは最初はおとなしく協力的だつたが、尋問が進むとすぐに癇癪を爆発させて、「ウィルソンさん、奥さんは元気かね」と言ひ出す始末だつた。さらに帰り際にカポネは、自分を悩ませるウィルソンに向かつて「体に気をつけろよ」と捨てぜりふを吐いたのである。

 1930年6月9日にアルフレッド・ジェーク・リングル記者が殺されると、シカゴの善良な市民の関心はこの事件に釘付けになつた。彼は混雑する地下道で頭に一発の銃弾を受けて死亡した。リングル記者はシカゴ・トリビューン紙に犯罪記事を書いてゐた。そのため、彼がカポネの関心を引くのは容易なことだつたに違ひない。彼の収入は週六十五ドルを越えたことがなかつたが、生活振りはかなり派手だつた。本人は、贅沢な暮らしは遺産の運用がうまくいつた結果だと説明してゐた。

 当初、新聞各紙はリングルをマスコミの殉教者と持ち上げ、犯人を逮捕した者に五万ドルの懸賞金を出すと発表した。しかし調査の結果、彼は1929年の大恐慌ではむしろ損をしてをり、遺産を受け取つたことなど一度もないことがわかつてきた。リングルはギャングと警察と政治家の間の取り持ち役をして大金を手にしてゐたのである。

 翌年の4月、セントルイスの殺し屋レオ・ブラザーズに対して、リングルに対する殺人容疑で有罪の評決が下つた。しかし陪審団のこの評決に対する自信のなさは、宣告された刑期が最低のたつた十四年だつたといふ事実によく表はれてゐる。

 裁判のあと、カポネと仲違ひして殺された売春業者のマイク・ヘイトラーの書いた一枚の手紙が捜査官の手元に届いた。その手紙には、何かの裏切り行為を理由にリングル記者の殺害を共謀して行つたカポネの八人の子分たちの名前が並んでゐた。さらに、ボスの次のやうな言葉も引用されてゐた。「ジェークは自業自得の目にあふのだ」。


エリオット・ネス

 1928年にボルステッド法(禁酒法) 施行の監督官庁は財務省から司法省に移つた。シカゴ大学を出た二十六歳のエリオット・ネスは、カポネの酒の密売事業を追求するために、買収不可能な捜査チーム (有名なアンタッチャブル) を編成するやう指令を受けた。
 ネスは必要な手腕と清廉潔白な経歴を併せもつ二十代の若者九人を選びだした。そしてカポネの蒸留所や醸造所に手入れを開始して、時価百万ドル以上の財産と飲料を破壊するとともに、ギャングたちに不利な証拠を山ほど収集して輝かしい名声を獲得した。
 ネスはオーバーにも「わたしはシカゴを干上がらせた」と言つたが、アンタッチャブルの存在価値は、むしろギャングたちを困らせてその注意を国税庁の調査から逸らすことであつた。




犯罪者の心理


 アル・カポネは自分自身ではけつして犯罪者だとは思つてゐなかつた。自分自身の目から見れば、彼はサービスを提供する立派なビジネスマンだつたのである。そして彼がときどき人より荒つぽい手段をとるとすれば、それは彼の仕事の性質が荒つぽいものだつたからにすぎなかつた。

 彼はいつも自分を非難する者たちの弱点を攻撃して自己の正当化を図つた。「わたしがやつたことは、ただこの町のお偉方連中にビールとウイスキーを売つただけだ。彼らはわたしが法律違反を犯してゐるといふが、彼らの方だつて誰も法律なんか守つてゐない」。彼は自分は社会に対して慈善を施してゐると主張した。「誰も法律で喉の渇きはいやせない」と言ふのである。

 彼の酒を飲みながら彼の生き方を批判するお偉方連中の偽善的態度を、カポネはあざ笑つた。脱税事件の裁判の休憩時間に彼は「何千といふ貧しい人たちの貯金を巻き上げて、それを経営破綻で無くしてしまつた銀行家の連中を彼らはどうして逮捕しないのか」と憤慨してみせた。

 カポネはチャンスがあれば裁判官や警察のトップを脅して、彼らをあごで使ふことを特に好んだ。しばしば彼はイタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニに譬へられた。カポネはこのファシスト暴力集団の親玉と似た点がたくさんあつたのである。


封建領主

 しかし、カポネの人生観のルーツはもつと古い時代にさかのぼる。その考へ方は本質的に封建時代のものだつた。カポネは中世の封建領主のやうにシカゴを支配した。自分に逆らふ者は容赦なく滅ぼし、自分に従ふ者には気が向き次第どんどん施しを与へた。

 またカポネは、厳寒の冬には身銭をはたいてシセロの貧しい人たちに食料と燃料を安く分け与へた。大恐慌時代に最初に無料の給食施設を作り、感謝祭に貧困者に対して五千羽の七面鳥を配つたのもカポネだつた。

 彼の俗つぽい気前のよさに対しては変はらぬ忠誠で応へた者も多かつたが、カポネは自分の罪を金で覆ひ隠さうとしてゐるに過ぎないと見てゐた人も多かつた。

 カポネを称賛する人たちは彼のことを「ビッグアル」とか「ビッグマン」と呼んだが、彼自身さうした力強いイメージで見られることを非常に喜んだ。肉体的には非常に頑健で、がつしりした肩の上に大きな頭が乗り、首がどこにあるのかほとんど見分けがつかなかつた。上半身を少し前かがみにしながら歩くその姿は、まさに闘牛そのものだつた。

 また、カポネはセックスの強さを自慢した。息子ソニーの母親だつたメーに対して愛情を惜しみなく注いだものの、カポネはつぎつぎと情婦をつくつた。それはたいてい自分が経営する売春宿の女たちから選び出した女だつた。彼の破滅につながつた梅毒は、ホテル・メトロポールに住まはせてゐた十代のギリシャ女にうつされたものだつた。妻のメーが一度も梅毒に感染しなかつたところを見ると、二人の性的な関係は結婚後さう長くないときに終はつてゐたと考へられる。

 カポネはセックスを広い意味での男らしさの表はれであると考へてゐた。彼の格言の一つに「男のくせに女にも惚れなくなつたら、そいつの人生はお終ひだ」といふのがある。自分のボディーガードのテストをするときは、いつも売春宿から魅力的な若い女をあてがふことにしてゐた。そのとき男としての機能を発揮できなかつたものは失業したのである。

 カポネの魅力に引き寄せられたのは貧乏人だけではなかつた。カポネに媚びた雑誌の記事に描き出された彼の誇張したイメージや服装のセンスのよさから─伊達男といふ呼称が彼のお気に入りだつた─多くの人はカポネのことを単なる面倒見がよくて愛すべき腕白小僧であるかのやうに思ひ込んでゐた。

 カポネは記者会見をよく行ひ、自分の考へを比較的自由に語つた。人前に姿を現すときには、話し好きで愛想がよくウィットに富んで控へ目ですらあつた。それは典型的な酒場の飲み友だちといふイメージだつた。人前ではめつたに癇癪をおこすことはなく、信用できる友人といつしよのとき以外は酔つぱらふことはなかつた。

 また、カポネの頭の良さに感心する人も多かつた。しかし、それは単なる抜け目のなさと人間的魅力の合はさつたものにすぎないといふ人もゐた。しかし、彼をどれほど酷評した人でも、彼の組織を作る才能とビジネスのセンスは認めざるをえなかつた。一代で財をなしたカポネは多くの点でアメリカンドリームを地で行く男だつたのである。

 その一方でカポネは、いくら控へ目に見積もつても約四百人もの殺害に関与してゐた。そのうち自ら手を下したのは四十人近くに上つたのである。


殺し屋の言ひ分

 彼が殺人を犯した動機は様々だつた。ジョー・ハワードの場合のやうに怒りが原因のときもあるし、アンセルミとスカリーゼとジュンタの場合のやうに相手の裏切りが原因のときもあつた。しかし、多くはワイスの場合のやうに自衛本能によるか、バレンタインデーの虐殺の場合のやうに組織を守る冷徹な計算に基づいてゐた。もちろん駆け出しのころには、カポネも金欲しさや金がもたらす力のために人殺しをした。

 デリンジャー、レイモンド・ハミルトン、ボニーとクライド、バーカーとカーピスなど1930年代の有名な殺人鬼たちは、最下層か中流の田舎の出で、西部開拓時代のやうに強盗をしては逃げるといふやり方をとつた。

 それに対してギャングのボスたちは都会の閉鎖的な地域に住む移民の子か孫で、若い頃から暴力団の一員として成長してゐる。彼らのなかにはポーランド系もゐたが、たいていはアイルランド系かユダヤ系かシチリア出身のイタリヤ系アメリカ人だつた。名誉や縄張りをかけた争ひは彼らにとつては生来のものだつた。

 カポネは自分が何に影響受けて育つたかについて語つたことがある。彼はギャング映画が1920年代の子供たちに与へる恐ろしい影響について憤慨してみせながら、自分の子供の頃に流行つた「誰もが外に出て海賊どもを殺して隠された財宝を探したくなる」三文小説のことを懐かしげに語つた。

 カポネにとつて、殺人は社会的な表現手段として妥当なものであり、競争によつて富を獲得するといふアメリカ的理想に対して自分が忠実であつたことの必然的結果だつたのである。




第五章 没落

究極の監獄アルカトラズ


ペリカン島といふ名の監獄

 アルカトラズは現地のインディアンの言葉で、ペリカン島といふ意味である。1868年、アメリカ軍はこの島に脱走兵の監獄を建設した。この監獄が1934年1月1日から「超重罪人」用の連邦刑務所として使はれるやうになつたのである。もつともこの刑務所を満員にするほど受刑者の数は多くはなかつた。ここへ送られる囚人は、厄介者の烙印を押されて刑務所から追ひ出された者に限られたからである。
 ここには社会復帰を名目とするやうな設備はいつさいなく、ひたすら罰を与へることだけが目的の施設だつた。囚人には厳しい日課と沈黙が課せられた。また、善行に対する報償は一切なく、規則を破る者には容赦ない罰則が待つてゐた。さらに、三人の受刑者に一人の割合で看守がつけられた。
 一、二マイル向かふのすぐ手の届きさうなところにサンフランシスコの町や浜辺が見えた。しかし、海峡は水が冷たく、流れが速く、激しく波立つてゐたので、対岸に泳ぎ渡らうとしてもそれは到底不可能だつた。この監獄から抜け出すには自殺するか気違ひになる以外になかつた。そして、アルカトラズは全米で最も多くの発狂者を出した刑務所だつた。六割の囚人が精神に何らかの異常を来したのである。
 この刑務所は次第に時代遅れのお荷物になつて、1963年に閉鎖された。


 1930年の一年間にわたつて、国税庁のフランク・ウィイルソンはこつこつと税務調査を重ねた。この調査の結果、1926年の手入れで押収した帳簿がカポネの賭博収入を記録したものであることが判明した。同年中に彼はこの帳簿を書いた人間を捜し出してきて、身柄の安全の保証と引き換へに法廷で証言するやう説き伏せた。

 1930年11月、五人の男がウィルソンを含めた役人たちを殺すために二万五千ドルで雇はれたといふ情報を、ウィルソンのスパイの一人が電話で伝へてきた。しかしウィルソンは住所を変へただけで、なほもカポネの調査を続行した。

 1931年4月25日、カポネは二年前の法廷侮辱罪で六ヶ月の禁固刑を宣告されたが、控訴審までのあひだ保釈されて自由の身となつた。

 4月にトムソン市長は民主党のアントン・セルマックに破れた。新市長はカポネに対する攻撃を始めたが、それは自分の選挙運動に協力したギャングたちを利するものだつた。二年後、セルマックは政治集会でカポネの子分に殺されてゐる。

 7月にカポネは二十三件の脱税容疑で告発された。カポネの収入の内でウィルソンたちが証明できた分だけでも、その脱税額は三八万三千七百五ドル二十一セントに上つた。同じ月にエリオット・ネスは五千件もの禁酒法違反容疑でカポネを告発したが、脱税容疑の審議が優先して行はれた。


司法取り引き

 カポネの弁護士トーマス・ナッシュとマイケル・アハーンは検察側と取り引きをしようとした。連邦検事ジョージ・ジョンソンは、有罪答弁と引き換へに三十か月の懲役刑を求刑することに同意した。検察側の証拠はそろつてゐたが万全とは言へなかつたからである。

 しかし7月30日に法廷が開かれると、ジェームズ・ウィルカーソン判事はカポネに対する司法取り引きを拒否した。するとカポネは有罪の答弁を撤回した。裁判の期日は10月に決まつた。

 カポネの手下たちは陪審員のリストを手に入れると、買収と脅迫といふいつもの手口で陪審員たちにプレッシャーをかけ始めた。この事実は内偵者によつてジョンソン検事とウィルカーソン判事に伝へられた。そこで判事は1931年10月6日の開廷日に陪審員のリストを別の法廷のものとそつくり交換してしまつた。ギャングたちの目論見は完全に外されたのである。

 カポネは証人席にはつかなかつた。被告側の弁護方針は私設馬券屋を証人に呼んで、彼が大金を競馬ですつてしまつたことを証言させることだつた。しかしギャンブルでの損失はギャンブルでの儲けと相殺されると考へられたので、この戦術は上手くいかなかつた。万策尽きた主任弁護人のアルバート・フィンクは、最終弁論で漠然とカポネの博愛主義的性格を称賛し、検察側の多くの目撃証人によつて明らかになつたのは単に依頼人が浪費家だといふことにすぎないと主張した。

 陪審団が控室に入つたのは1931年10月17日の午後2時40分、法廷に戻つてきたのは午後11時だつた。評決は曖昧で矛盾したものだつたが、いくつかの容疑についてカポネを有罪と判断した。

 ウィルカーソン判事にとつてはそれで充分だつた。一週間後、彼はカポネに十一年の懲役刑と罰金五万ドルを言ひ渡した。カポネは控訴したが、保釈は認められなかつた。

 クック郡刑務所に収容されたカポネは、しばらくの間そこから組織を動かし続けた。そして、ニューヨークから来たトッリョやルチアーノやダッチ・シュルツなど大勢の面会人の訪問を受けた。また、カポネは一触即発状態だつたルチアーノとシュルツの仲裁を試みた。刑務所長はこの会談のために処刑室を使はせたが、カポネの仲裁は失敗に終はつた。

 しかし、12月には彼に対する郡刑務所の特別待遇が州の上層部の知るところとなつて、その多くが廃止された。1932年2月27日、カポネの控訴は棄却された。それから一ヶ月後、カポネはジョージア州アトランタの州刑務所に移された。そこでカポネに割り当てられた仕事は靴直しだつた。

 1934年、政府は全国の極悪犯罪人の収容施設とするために、サンフランシスコ湾に浮かぶ岩の多いアルカトラズ島の脱走不可能と言はれる軍刑務所を手に入れた。8月18日、カポネは五十二人の他の囚人とともに特別列車でアルカトラズに移された。カポネは「これは仕組まれてゐる。大金が動いてゐる」と抗議したが無視された。この移送は迂回して行はれたので四日もかかつた。

 アルカトラズでは外部との連絡はきびしく制限された。面会は月に一度家族二人に四十五分間だけ許された。新聞やラジオは禁止され、一週間に三通まで許された手紙も家族の情報以外は検閲された。ただ一つの情報源は断続的にやつてくる新入りの囚人たちだけだつた。

 カポネは刑務所の規則を従順に守つた。また彼はバンジョーの弾き方を身につけ、小さなバンドを結成した。これが彼に許された唯一の組織だつた。所内で割り当てられた仕事は風呂場の掃除だつたので、他の囚人たちは彼のことを「ウォップ・ウィズ・ザ・モップ (モップをもつたイタリア野郎) 」と呼んだ。

 カポネはアル・カーピスやドック・バーカーなど外の世界で交流のあつた銀行強盗や誘拐犯などとは付き合つたが、他の囚人には概して冷淡だつた。他の囚人がストライキや暴動を起こしても彼は加はらなかつた。そのために恨みを買つて、1936年7月にはさみで背中を突き刺された。しかし命には別状無かつた。

 1938年2月に彼は病に倒れた。検査の結果、1920年代に情婦から移された梅毒が第三期まで進行してゐることがわかつた。カポネは神経中枢が侵されて、記憶に空白ができたり、言ふことが支離滅裂になつたりしてゐた。

 カポネは刑期を短縮された。そして、残りの刑期を薬物治療と電気ショック療法を受けながら病院で過ごした。


クールな男

 アル・カポネに対して引導を渡す役割を果たしたフランク・ウィルソンは1887年に生まれた。ニューヨーク州バーファロー市の不動産業からスタートして、1920年代の中ごろ国税庁の特別捜査官になつた。
 沈着冷静かつ大胆不敵なことで有名だつたウィルソンは、「氷水の汗をかく」と言はれた。彼の事務所はシカゴの古びた連邦ビルにあり、カポネ以外にも様々なシカゴのギャングたちを窮地に追ひ込んだ作戦本部となつた。その中にはラルフ・カポネ、アイルランド系のテリー・ドラッガン、フランク・レーク、ジェーク・グージックも含まれてゐた。ウィルソンには脅迫も買収も通用しなかつた。カポネに対する告訴を取り下げたら 百五十万ドル提供するといふ申し出を断つたことで評判になつた。
 フランク・ウィルソンは、1932年にリンドバーグの息子が誘拐された事件でも引き続き連邦政府の代表を務めた。さらに1936年から1947年にかけては財務省秘密検察部の部長として、ギャングたちの偽札作りを阻止するために尽力し、さらに大統領警護の新しい方法を導入した。1970年死去。


 1939年1月6日にカポネは本土に移されたが、部分的に脳性まひを起こしてゐた。同年の11月にはたうとう釈放された。

 カポネは妻のメーによつてパームアイランドの屋敷に引き取られ、親戚といつしよに暮らすことになつた。新たに開発された特効薬ペニシリンの投与で症状は安定したが、脳の損傷は回復しなかつた。ジェーク・グージックによれば、カポネは比較的正気の状態がしばらく続いたが、すぐに狂気に陥つた。

 彼は誇大妄想と精神錯乱を患つてゐた。そしてパームアイランドの屋敷の船着き場で何時間も座つたまま、ビスケーン湾をぼんやり眺めるやうになつた。このやうな意識の朦朧状態がしばらく続いた後、1947年1月27日、脳卒中の発作で体力を失ひ、肺炎を併発して死亡した。享年は四十八歳だつた。


それから・・・

■カポネが収監されたのちも、トッリョと共に作つた組織は他のギャングたちの手で繁栄し続けた。それは最後にはアメリカで最大の産業と言はれるほどの全国組織に成長した。1933年に禁酒法が廃止されて組織は一時的に衰退したが、労働組合に対する恐喝や麻薬取り引きに方向転換して立ち直つた。
■ラルフ・カポネやジェーク・グージックのおかげでカポネは余生を裕福に暮らしたが、遺産は全く残さなかつた。メーはシカゴとフロリダの家を売り払つて得た金で生活しなけばならなかつた。彼女は息子ソニーと一緒にマイアミビーチでレストランを開いたが、失敗に終はつてゐる。
■ソニー・カポネは組織犯罪に関はらなかつたが、さまざまな事業に手を出しては失敗して生活に窮した。1940年の暮れに高校時代の恋人と結婚して四人の娘をまうけた。しかし、1965年にスーパーマーケットで三ドル五十セントの品物を衝動的に万引きして有罪判決を受け、保護観察処分となつた。彼は結局1966年に名前を変へてゐる。
■カポネの師匠だつたトッリョは、徐々にそして完全に組織から引退してニューヨークで暮らしてゐた。1957年に心臓発作でこの世を去つた。七十五歳だつた。
■ジョージ・バグズ・モランは組織での影響力を失つたのち、再び昔のやうに押し込み強盗と銀行強盗を始めた。1946年に警察に捕まり、1957年に刑務所の中で死亡してゐる。六五歳だつた。
■マシンガン・ジャック・マックガーンは1936年2月13日にボーリング場で撃ち殺された。殺し屋たちは戯れ言を書いたバレンタインカードを彼の体の上に置き、五セントの白銅貨を一枚握らせた。それはマックガーンが殺した相手にいつもやつてゐたことだつた。
■カポネの伝記は映画にうつてつけだつたので、ポール・ムーニが『暗黒街の顔役』で主演して以来たびたび映画化された。ロジャー・コーマン監督の『聖バレンタインデーの虐殺』(1967年)はとくに有名である。カポネ自身1930年代の初め頃二百万ドルと引き換へに本人の役で映画出演するやう要請されたといふ噂が流れた。しかしカポネは実際にハリウッドに行つたことは一度もなかつた。
■またベルトルト・ブレヒトの風刺劇『アルトュロ・ウイの興隆─それは抑へることもできる─』では、カポネの人生がアドルフ・ヒトラーの人生と二重写しに描かれてゐる。

 カポネが死んだ1947年には、ギャングのボスたちの盛大な葬儀が行はれる時代は終はつてゐた。彼の遺骸はシカゴのマウント・オリベット墓地に埋葬された。この墓地にはカポネの神話に引き寄せられた多くの人たちが続々と訪れた。1952年になつてもまだ多くの観光客が訪れるので、家族は遺骸を別の墓地に移して、代はりにカポネ家全員の名前を刻んだ墓石を建てた。カポネは映画『暗黒街の顔役』やロバート・デニーロが出演した『アンタッチャブル』とともに今も生き続けてゐる。

     
     

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