ゲルマニア(第一部)


 
対訳版
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タキトス『ゲルマニア』(98年)

1 ゲルマニア(古代ドイツ)は様々な部族に分かれていますが、これを全体として見るなら、西はライン川を境としてガリア(古代フランス)に接し、南はドナウ川を境としてレーティア(古代スイス)とパンノニア(古代ハンガリー)に接しています。一方、東はサルマティア(古代ロシア)とダキア(古代ルーマニア西部)に接していますが、一部の山岳地帯を除けば互いに対する恐怖心以外にゲルマニアとの間を隔てるものは何一つありません。ゲルマニアの北側は海に囲まれています。その海には大きな半島や島があって、最近そこに民族や王が存在することが判明しています。戦争をつうじて彼らとローマとの交流が始まったのです。

 ライン川はレーティア(古代スイス)のアルプスの険しいはるか頂きに始まって、その後ゆっくりと西に向きを変えながら北海に注いでいます。それに対して、ドナウ川は平坦なシュワルツワルト山地のなだらかな峰から流れ始めています。その流域はライン川よりもはるかに多くの国にまたがっていて、最後に六つの河口に別れて黒海に注いでいるのが見られます。七つめの河口は沼地の中に沈み込んでいて見ることはできません。

2 ゲルマン民族について言えば、彼らは純粋な血筋をもつ土着民だと思われます。外国の侵略や友好関係によってよその血が混じっているとは考えられません。なぜなら、昔の移民は陸地づたいではなく必ず船で行われたからです。ところが、ゲルマニアの北の海は広大で、その上いわばこの世の果てのようなところにありますから、いまでもこちら側から船で出かける人はめったにありません。未知の荒海に乗り出す危険は別としても、そもそも誰が小アジアや北アフリカ、あるいはイタリアの地を捨ててゲルマニアくんだりまで出かけていくでしょうか。そこには荒涼とした風景が広がり、気候は厳しく、土地に生まれ育った者でなければとても住めそうにない、見るからに苛酷なところなのです。

3 ゲルマン民族にはある種の伝統的な歌があって、それが彼らの過去の記録を伝えるただ一つの手段となっています。その一つに大地から生まれた神ツイストへの讃歌があります。その中で、ゲルマン民族の祖先はツイストの子マンヌスで、このマンヌスには息子が三人いたとうたわれています。そして、この三人の名前が三つの部族、すなわち北海沿いのインガエウォネス族、内陸のヘルミノネス族、そして残りの地域に広がるイスタエウォネス族の名前になったというのです。しかし、昔のことなのでさまざまな意見があります。例えば、ツイスト神の血をひく子供はもっとたくさんいて、そこから生まれた部族の名前ももっとたくさんあるという人たちもいます。それはマルシー族やガンブリウィー族やスエビー族やヴァンダル族で、これらの名前こそ伝統ある真の部族名だと主張するのです。

 いっぽう、ゲルマニアという地名はごく最近生まれたものだと言われています。そもそもゲルマンというのは、最初にライン川を渡ってきてガリアの一部を侵略した部族の名前だったのです。この部族はいまではトゥングリ族(ベルギー)という名で呼ばれていますが、このたかだか一部族の名前が次第に広まって民族全体をさす名前となったのです。まず最初にこの侵略者がガリア人を怖がらせるために、本国の部族は全部自分たちと同じゲルマンだと言ったのですが、やがて本国の方でも全ての部族が自分たちのことをゲルマンと呼ぶようになったのだそうです。

 ヘラクレスはゲルマン民族の前にも姿を現したことが記録に残っています。彼らは今でも戦いに出かけるときにはこの人類第一の英雄の歌をうたいます。(彼らにはまたバリトスという名で知られている歌があります。その歌をうたって気持ちを奮い立たせるわけですが、ただそれだけではなく、歌声そのものによって戦いの結果を占います。つまり、戦場における歌声の響き方しだいで、彼らは敵を怖がらせる存在になることもあれば、自ら怖じ気づいてしまうこともあるのです。彼らにとってそれは単なる声の調和を意味しているのではなく、全員の士気が一つになっていることを示しているからです。特に彼らが目ざしているのは断続的で耳をつんざくようなうなり声です。楯を口許に持っていって声を楯に響かせながら、野太い声を次第に大きくしていきます)

 さらに、ユリシーズ(オデッセイのローマ読み)もまたあの伝説の放浪の途中に北海まで流されてきてゲルマニアに上陸したと考える人たちもいます。昔からライン川のほとりにあって今でも栄えているアスキブルギウムという町を創設してその名前をつけたのはオデッセイだと言うのです。また、オデッセイが本人と父ラエルテスの名前を刻んで神に捧げた祭壇もむかしこの町で発見されており、オデッセイの業績をギリシャ語で刻んだ記念塚がゲルマニアとレティアの国境に今でも存在していると言っています。この話が本当かどうかをここで論じるつもりはありません。信じる信じないはみなさんの自由にまかせることにしましょう。

4 ただし、ゲルマン民族は他民族との結婚によってその血をけがすことなく純粋な血統を維持しており、他に類のない民族の独自性を保持しているという意見に対しては異論をはさむ余地がありません。そのおかけで彼らは、肉体的な面をみても、あれだけの人口がありながら皆同じ特徴をもっているのです。あの鋭い眼光、青い瞳、ブロンドの髪の毛、そしてがっしりとした骨格こそがそれなのです。彼らの肉体は瞬発力に富んでいますが、骨折り仕事や肉体労働をする粘り強さには欠けており、とりわけ暑さやのどの渇きには弱いようです。その一方で、彼らは厳しい気候とやせた土地のおかげで、寒さと飢饉に耐えることを知っています。

5 国土の外見的特徴は地域によってかなり異なりますが、おおまかに言えば、自然の原生林が茂っているか、泥だらけの沼地が広がっているかのどちらかです。ただ、ガリアに面した地域の方が湿気が多く、ノリクム(古代オーストリア)とパンノニア(古代ハンガリー)に面した地域の方が風が強いぶん乾燥しています。土地はよく肥えていますが、果樹栽培には適していないようです。また家畜の繁殖は盛んですが、総体的に小ぶりで、また家畜にとってその誇りとも言うべきあの美しい角さえ生えていないありさまです。ところがゲルマン民族はひたすら家畜の数の多さを自慢します。なぜなら、家畜は彼らにとって最高の貴重品であり唯一の財産だからなのです。幸か不幸か神は彼らに金や銀を与えませんでした。しかしながら、これはゲルマニアには金鉱や銀鉱がないということではありません。これは、まだ詳しく調べた人がまだいないだけのことで、それだけ彼らは金や銀を手に入れたり使ったりすることに無頓着だということです。実際、彼らの指導者や代表者が旅行したときに土産にもらってきた銀の食器が、家で土器といっしょに日用品として使われているのが見られるほどです。もっとも、わが国との国境ぞいに住む人たちは交易に親しんでいるだけに、金と銀の価値を知っていて、ローマの貨幣の中から便利だと思うものを選んで使っていることは確かです(内陸地域の人たちは依然として昔ながらの物々交換という単純な方法をとり続けています)。しかし、彼らが流通を認めているのは、セラトスとかビガトスとかいった昔から馴染みのある古いコインだけです。おまけに彼らは金貨よりも銀貨のほうを重宝がります。それは好みの問題ではなく、安価な日用品を購入するには銀貨を持っているほうが使うのに便利だからにすぎません。

6 鉄もまた豊富にあるとは言えません。彼らの使う武器をみればそれはわかります。剣(つるぎ)や大きな刃のついた槍をもっている者はまれです。たいていの者がもっているのは細くて短い刃先のついた槍で、彼らの言葉でフラメアと呼ばれています。しかしこの槍は刃先が非常に鋭利でとても扱いやすいために、状況に応じて、離れて戦うときにも接近して戦うときにも使えます。また騎士は楯とこの槍を一本しか持ちませんが、歩兵はこれをたくさん持っていて、はるか遠方から雨あられと投げてきます。戦闘服は粗末なものを一枚着るだけで、ほとんど裸で戦います。装備には人目を引くようなものは何もありません。ただ、楯はそれぞれ好みの色で飾ります。しかし、鎧を着ているものはごくわずかで、兜を着ているものは1人か2人しかいません。

 馬にしても速く走れるわけでも美しいわけでもなく、そうかといって我々の馬のようにいろんな輪を描けるように仕込まれているわけでもありません。ただひたすら真っ直ぐ進んで、一回くるりと回れ右をするだけなのです。ただしこうすれば、陣形がくずれることも落伍者が出ることもありません。

 一般的にゲルマン民族は、軍の主力を歩兵に置いています。そのため、騎士が戦うときも歩兵がいつも付いて行きます。歩兵として先頭に立つのは若者の中から選ばれた極めて足の速い者たちで、騎兵同士の戦いに対しても充分適応力をもっています。またこの精鋭の数は決まっていて、村ごとに百人ずつ選ばれます。選ばれたものたちは自分たちのことを「百人隊」という名で呼んでいます。もともと単なる数字だったものが、今では名誉ある名前となっています。

 戦闘隊形はくさび型をつかいます。また、あとで攻勢に転じるためなら退却はけっして臆病な行為ではなく、むしろ一つの戦術と考えています。また戦況がどれほど不利になっても味方の遺体の収容を怠ることはありません。楯を捨てることは最大の恥辱とされ、この不名誉な罪を犯した者は、生贄の儀式にも会議の場にも出席を許されません。実際、楯を捨てて戦場から逃げ帰った多くの者がは、首をくくって汚名をそそぎます。

7 王は生まれのよさで選ばれますが、軍の司令官は勇敢さで選ばれます。王の権力は決して絶対ではありません。司令官もまた常にみなの手本として軍の先頭に立ってすぐれた行動力と大胆さで人々の賞賛を勝ち得ることでその地位に留まれるのです。また、兵隊を処刑したり投獄したりむちで打ったりすることは、神官だけに許されています。しかもそれは司令官の指図で行われることはないのです。刑罰を加える行為は単なる処罰ではなく、神の意思を具現した行為なのです。

 ゲルマン人は戦場にはいつも神がいると考えています。彼らは神の像や絵を神の森から戦場にもっていきます。ゲルマン人の行動が特に勇敢なのは、部隊の編成が寄せ集めではなく、同じ氏族や家系に属する者たちでの集まりだからです。その上、戦場の近くには兵士たちの最愛の家族が駆けつけており、彼らの耳に女たちの叫び声や子供の泣き声がいやでも入ってきます。家族が見ているのですから張り切らないはずはありません。何しろ身内からの賞賛ほど男たちにとって大切なものはないのですから。また、戦いで傷ついたときには妻や母親に手当てしてもらうことになりますが、女たちは傷口を見て怖がるどころか、その数を数えてよその家と比べ合うほどなのです。その上、戦場に弁当をもって行っては男たちを激励するのです。

8 ある時などは、すでに敗色濃厚で浮き足立っている兵士たちに対して、女たちが勇敢にも胸をはだけて「もし負けたらわたしたちは奴隷に売られることになるのよ」と訴えかけて、戦況を盛り返させたという話があります。ゲルマンの男たちは自分のことより何より、まず女たちが奴隷にされることを恐れるのです。だから、例えば人質の引き渡しを求めるときには、良家の娘たちを人質の中に含めさせておけば、あとでその部族の男たちをはるかに容易に支配できるのです。また彼らは、女にはある種の神聖な力が備わっていて未来を見抜く力があると考えているため、女たちに進んで助言を求め、また得られた意見をとても大切にします。ウェスパシアヌスが皇帝だった時代には、ゲルマン民族の間で長い間ヴェレーダという女性が神として崇められていました。それ以前にもアウリーナほか多くの女たちが同じように崇拝の対象になっています。これは純粋な気持ちから出た行為で、決してご機嫌とりなどの卑しい動機から出た行為ではありませんし、女を神と崇める振りをしているだけでもありません。

9 ゲルマン人は神々のなかで特にマーキュリー(Wednesdayの語源となったドイツ神ヴォーダン)を崇拝します。祭の日には生きた人間を犠牲に供することさえ罪とは感じないほどなのです。ヘラクレス(ドイツ神ドナール)やマルス(ドイツ神ツー)に対してはもっと穏やかに、動物を犠牲に供えてその慰めとします。スエビ族のなかにはエジプトの神イシスに犠牲を供える部族もあります。彼らがなぜ外国の神を崇拝するのかは不明ですが、その紋章がガレー船を型どったものであるところから、女神が渡来神であることは明らかだと思われます。ゲルマン人は神々を建物の中に閉じこめたり人間に似た絵姿に画くのは神々の尊厳を損なうことだと考えます。神々とは森や林の中にいる神秘的な存在で、信仰心の篤い者の前にだけ姿を顕すと考えているのです。

10 彼らほど占いやおみくじを重視する民族は他にないでしょう。おみくじのやり方は決まっています。まず、実をつける木から枝を一本切りとって短い木片に切り分け、それぞれに印を付けます。つぎにそれらを白い布の上に無作為にばらまきます。そして、公の占いなら国の神官が、個人的な占いなら一家の主人が、神々にお祈りをしてから上を向いたままで木片を一本ずつ三本拾い上げて、はじめに付けておいた印を見て吉凶を占います。もし占いが凶と出たら、その日はその件に関する占いはそれ以上行いません。もし吉と出たら、確証を得るためにさらに占いを続けます。ゲルマン人は鳥の飛び方や鳴き声を観察する占いもしますが、彼らだけの独特の占い方があります。それは馬を使って未来の前兆を読みとる方法です。労働によって汚れていない白馬がそれ専用の馬として国の費用で神の森に飼われています。この馬に神の御みこしを引かせて、王や神官などの国の代表者がその傍で馬のいななきや鼻息を観察するわけです。彼らはどんな占いよりこの占いに信頼を置いています。それは一般民衆だけではなく、自らを神の召使と任じている貴族や神官たちも同様です。なぜなら、彼らは馬が神の意志を知っていると信じているからです。そのほかにもう一つ、重大な戦争の前にあらかじめその結果を知るための占いがあります。それは戦争をする相手の部族の誰か一人を何らかの方法で捕まえてきて、味方の中のより抜きの兵士と一騎打ちをさせる方法です。その際二人にはそれぞれの部族に特有の武器を持たせて競わせるのです。そして、この戦いの結果で戦争の結果を占うのです。

11 なにか問題が起きたときは、長老たちが集まって相談しますが、重大な問題の場合は、部族の全員が集まって会議を開きます。決定権は一般民衆にありますが、前もって家長たちだけで問題を検討しておきます。会議は予期せぬ緊急事態が発生した場合のほかに、新月か満月のころの決まった日にも開かれます。新月か満月のころは縁起がいいと考えているのです。彼らは私たちのように太陽暦ではなく、太陰暦を使っています。何かを決める時、何かを約束する時にはこの歴に従います。彼らは夜が先で昼が後だと考えているのです。ところで、自由な気風にありがちな欠点でしょうか、会議が招集されても誰も命令とは受け取らないため集まり方が非常に遅いのです。一斉に集合することはなく、遅刻するもののために二日や三日は無駄に過ぎてしまいます。武器を携えてきた民衆が会議を始める気になって席に着くとやっと会議が始まります。すると神官が彼らに静粛を命じます。以後の議事進行を司るのは神官の役割です。それから、年齢、身分、戦功、弁舌の才に応じて、王や長老たちに演説をする機会が与えられます。民衆が誰の意見に賛成するかは、発言者の地位ではなく、ひとえに発言内容が説得力をもっているかどうかにかかっています。発言が気に入らなければ、民衆は大きな声を立てて不満を示します。逆に気に入ったときには槍を打ち鳴らします。このように武器の音による賛意を得ることが、発言者にとってもっとも名誉なことだとされているのです。

12 また、この会議は軍法会議の役割を果たしていて、死刑を言い渡す権限を持っています。罰則は悪事の内容によって異なっていて、反逆者と脱走兵は絞首刑になるのに対して、戦いを恐がった者・戦いを拒否した者と同性愛者は簀の子をかぶされて泥沼に沈められることになっています。犯罪者は衆目監視の中で罰せられるべきなのに対して、不名誉なことをした者はこっそり処分すべきだと考えられているからです。また、微罪にもそれ相応の刑が適用されます。この場合有罪となった者は馬や牛で罰金を支払います。罰金は王や部族全体の財産になりますが、一部は被害者やその肉親に対して支払われます。また、各村で法の執行にあたる長老はこの会議で選ばれます。その長老に加えて、この長老に助言を与えたり長老の決定を承認したりする委員が一般人の中からそれぞれ百人ずつ選ぱれます。

13 彼らは公私の区別なく何をするときも常に武器を携えています。しかし誰でも武器を持つことができるわけではなく、それができるのは部族から武器の携行を許された時からです。そしてその時がくれば、まさにこの全体会議の場で若者に対して軍の司令官や父親や親類の手から盾と槍が渡されるのです。そしてこれがゲルマン民族の成人式となります。またこれによって若者は初めて一人前と認められます。つまり、それまでは家族の一員としか見られなかった者が、これからは国家の一員と見られるようになるのです。

 非常に高貴な生まれの若者や、親が著しい戦功を立てた若者は、いきなり司令官の地位が与えられます。そして自分よりも年上でずっと経験豊かな者たちの群を任されるのです。また若者はこうした大勢の部下を従えることを大いに誇りにします。

 また、司令官は部下たちにランク付けを行います。そのために、兵士たちは司令官に自分が一番優れていることを認めさせようと競い合います。一方司令官たちもまた優秀な部下を一番多く持っているのは誰かを競い合います。多くのすぐれた若者たちに囲まれていることは司令官にとっては、平時における勲章であり、戦場における砦となるのです。そして、それが司令官自身の高い地位と大きな力の源となります。優秀な部下を大勢率いている司令官の名声は、単に自国の中のみならず、近隣の国々までも広がっていきます。こうした司令官のもとへ外国の人間が贈り物を携えて挨拶しにやってくることもあります。また戦場でこの名声が勝敗の帰趨を決することはよくあることなのです。

14 司令官はいったん戦場に出れば、勇敢さで部下に引けをとることは恥とされています。また、部下の方でも司令官の勇敢さに遅れをとることを許されません。部下たるものが、戦死した上官をあとに残して戦場から引き上げてくるなどは論外で、その男は生涯消えることのない汚名を背負い続けることになります。敵から上官の命を守りぬき、しかも上官の名誉のために手柄を立てることこそ、部下たるものの使命なのです。すなわち司令官たちが勝利のために戦うとすれば、部下たちは司令官のために戦うのです。血筋のすぐれた若者たちは、祖国に平和が続いて戦争がないときには、どこかに戦争をしている国はないかとわざわざ出かけて行きます。その理由としては、平穏無事でいることを国民が歓迎しないこと、戦乱状態の方が名を上げるチャンスが多いこと、そして戦争なしでは大勢の部下たちを維持していくことが難しいことなどが挙げられます。部下たちはすでに述べた軍馬やフラメアと呼ばれるあのすぐれた武器が、自分の司令官から交付されるのを待っています。彼らは給料として食料を受け取ります。それは粗末ではあっても大量に供給されます。この大量供給のの源は戦争とそれに伴う略奪です。田を耕して一年先の収穫を待つように彼らに説得するよりも、敵に立ち向かって傷つくことを勧めるほうがはるかにたやすいことなのです。彼らにしてみれば、血を流せば手に入るものを、汗を流して手に入れようとするのは退屈なだけでなく、女々しいことでもあるのです。

15 戦争がないときを狩りをして過ごすことはよくありますが、何もしないでいることのほうが多いと言えるでしょう。戦場で勇敢に戦う怪力の持ち主も、家では屋敷の管理も畑の世話もすべて女や年寄りなど力のない連中にすべて任せて、自分はひたすら食べては寝るという怠惰な生活をおくるのです。彼らは、一方で平穏無事を憎みながら、同時にこのように何もしないでいることを好むという何とも矛盾した性質をもった人たちなのです。また、これらの国々の兵士たちは皆すすんで司令官に牛や作物を贈ります。司令官はこれを自分に対する敬意の表れとして受け取りますが、同時にこの贈り物で日々の生活をやりくりするのです。しかし彼らが特に喜ぶのは近隣諸国の人々や公の使節によって届けられた贈り物です。それはより抜きの駿馬であったり、光輝く武具であったり、胸飾りや首飾りであったりします。最近では金も受け取るようになりましたが、それは我々が教えたからなのです。

16 よく知られているように、ゲルマン民族は都市に集まって暮らすことがありません。彼らは家と家がくっついていることに耐えられないのです。水辺や牧草地や木立の近くなど、各人が気に入ったところにばらばらに離れて住むのです。村はあっても中の配置は我々の場合とは全く異なります。建物が軒を連ねて立っているということはありません。ほかの建て方を知らないからか、火事が燃え移るのを防ぐためか、いずれにせよそれぞれの家のまわりは広い空き地で囲まれています。また彼らは壁に石材を使うことも屋根を瓦でふくことも知りません。使われる木材はすべて何の手も加わっていない自然のままの木で、見て楽しむような飾りは何一つ施されてはいません。所々に明るい色の上質の土が念入りに塗り付けてあって、それが壁画のようになっているだけです。また、地下に穴蔵を掘ってその上を大量の牛の糞で作った屋根で覆うのが彼らのやり方です。これを冬場の待避所として、また作物の貯蔵庫として使います。そこは冬の厳しい寒さを和らげてくれるのです。また、敵が来襲して地上部分が荒らされたときの隠れ家としても使われます。地下にあるため見つかることはめったにありません。

17 冬場は全員ウールのマントで体を覆ってピンで留めます。ピンがないときは植物のトゲで代用します。それだけを身にまとって一日中炉端で過ごすのです。下着を着るのはよほどの金持ちだけができることです。下着はサルマティア人やパルティア人のようにふっくらとしたものではなく、体にフィットして手足の線をはっきり際だたせるものです。

 また、彼らは獣の毛皮をまとうこともあります。同じ毛皮を着るにしても、ライン川やドナウ川の近くに住む人たちはただ無造作に着るだけなのに対して、奥地の人たちは非常に凝った着方をします。それは奥地の人たちは交易によってほかの装身具を手に入れることができないからなのです。彼らは自分の気に入った獣の毛皮をはいだら、その上に我々の知らない北の方の海でとれる獣の毛皮で斑点の模様をつけます。女も男も似たような服を着ていますが、女は紫の柄のリネンのドレスもよく着ます。また、女の衣服は上着に袖がなく腕がむき出しになっており、胸の近くまで大きな切り込みが開いています。

18 こんな服装にもかかわらず、ゲルマン民族は結婚に対しては非常に厳格な考え方をしています。彼らの風習のなかでもこの点に関してはいくら賞賛しても足りないくらいです。というのは、ゲルマン民族は外国人のなかでは一夫一婦制を採用しているほとんど唯一の民族なのです。例外は非常に少なくて、二人以上の妻を持つとしてもそれは女好きだからというわけではありません。家柄の良さのために引く手あまたでやむをえずそうするだけなのです。

 持参金に相当するものはありますが、それは花嫁から花婿に対して贈られるのではなく、花婿から花嫁に対して贈られます。二人の仲立ちをするのは、二人の両親と親戚です。彼らは贈られたものの中身を確認する役割をします。贈り物といっても女がもらって喜ぶようなものでも花嫁の体を飾るようなものでもありません。それはよく仕込こまれた牛や馬であったり、剣や槍や盾だったりします。この贈り物と交換に男は花嫁を迎え入れるのです。花嫁の方でもお返しとして夫に武具の贈り物をします。ゲルマン民族は、この贈り物が結婚の強い絆になると考えているのです。彼らにとってこの贈り物の交換は縁結びの神が司る神聖な儀式なのです。女たちはこの最初の儀式によって、たとえ女でも戦争の危険から免れているわけではなくいつでも戦いにのぞむ心構えを忘れてはならないこと、そして戦争が起きても平和なときと同じようにあらゆる苦しみと危険を夫と共に勇敢に乗り越えていかねばならないということを学ぶのです。くびきにつながれた牛も、はみをかませた馬も、贈られた武具の数々も、全てこの教えを示しているのです。こうしてこの贈り物によって女は妻として生き方を学びます。また女たちには、受け取った贈り物を大切にとっておいて自分の子供に伝えるという母親としての大切な仕事があります。それは息子からその妻の手にゆだねられて、孫の代へと受け継がれていくのです。

19 このようにして女たちは貞淑な妻として一生を送ります。競技場やパーティーで男に誘惑されて堕落するなどということはないのです。男女が秘密の手紙を交わすなどということもありません。彼らの人口の多さを考えると不倫は極めてまれと言わねばなりません。不倫をした妻は夫によって即座に罰せられます。親類縁者の目の前で髪を切られ服をはがれて家から追い出されて村中を鞭で打たれながら追い回されるのです。不倫をした女に哀れみをかけるような男は一人も現れません。たとえ若くて美人で金持ちでも二度と結婚できません。不倫がもてはやされたり、不倫がはやるなどということはゲルマニアではあり得ないことなのです。ゲルマン民族の中には処女の女しか結婚できない部族もあります。したがって、一度結婚を経験した女は別の結婚への希望やあこがれを捨てなければなりません。この部族の女たちには人生が一度しかなく肉体が一つしかないように、たった一人の夫しか持つことができないのです。夫以外の男と結婚しようと考えたり、夫の死後別の男と結婚しようとすることは許されません。ですから、彼女たちは自分の夫のことを単なる一人の夫としてではなくいわば結婚そのものように考えて愛するほかありません。

 ゲルマニアでは子供の数を制限したり、跡取りが生まれたらそのあとに産まれた子供を殺してしまうことは良くないことだと考えられています。このように、よその国では法律によってさえ実現できないことがゲルマニアでは常識としてすでに実現されているのです。

20 彼らはみなすばらしい肉体の持ち主ですが、子どものころは誰も皆ろくな服も着せてもらえず、ほとんど裸で成長します。子どもは、けっして乳母に育てさせたり、子守女に預けたりせず、母親が自分で乳をやって育てます。主人の子も甘やかされることなく召使いの子と同じように育てられます。どちらも家畜といっしょに土にまみれて、いっしょに遊んで大きくなるのです。両者の生まれの違いは成長するにつれて勇敢さとして現れてくるものです。

 男子は晩婚で、成人したころにはもう人生にくたびれ果てているということはありません。娘たちも結婚を急ぎません。男と似たような青春時代を過ごして、男と大差ない背丈まで成長します。こうして、女たちは男と同じくたくましい肉体をもって結婚するので、子供たちも同じく丈夫な体を持って生まれてくるのです。

 男たちは自分の妹が産んだ子供を自分の妻に産ませた子供と同じくらい大切にします。むしろ妹の子供の方が血のつながりが濃いと考えて大切にする部族もあります。そんな場合には、人質をとるときも相手の息子よりも相手の妹の子を要求します。その方が相手や相手の家族に対する支配を強めることができると考えるからです。いっぽう彼らには遺言の習慣はなく、一家の跡継ぎには家長の息子がなります。跡継ぎがいない場合の継承順位は、家長の兄弟、父方のおじ、母方のおじとなっています。婚姻によって大家族をもっている老人ほど偉いとされており、子供がないことが何かの得になることはありません。

21 跡継ぎになった者は親や親類の持っていた友人関係や敵対関係も相続します。しかしその敵対関係も永久に続くというわけではなく、和解の余地があります。身内を殺された場合でも、決まった数の牛や羊を償いとして受け取って和解するのです。それは被害者の一族全体に分配されます。自由な社会で私的な敵対関係が長引くことは大いに危険なため、和解の制度はこの社会にとって非常に有益なものなのです。

 ゲルマン民族ほど人を惜しみなくもてなす民族はありません。彼らは家に来た人を追い返すことを犯罪だと思っています。客に対するもてなしは財力の限りを尽くして豪華に行われます。そしてその家でもう食べる物がなくなると、主人は客人といっしょに隣の家へご馳走になりに行きます。招待されていてもいなくても、みな同じように手厚いもてなしを受けます。また、初対面であろうとなかろうと人をもてなす礼儀には何の違いもありません。客が帰るときには何でも好きな物をもって帰ることができます。それに対して主人も自分の好きな物をお返しに求めます。といっても、彼らは贈り物を交換することを楽しんでいるだけなのです。何かあげたからと恩に着せたり、何かもらったからと義理を立てているのではありません。

22 ゲルマン民族の人たちは、冬が長い地方によく見られるように、たいてい日が出てから起き出してきて、まず風呂に入って、それから朝食をとります。食事はばらばらに座って別々のお膳で食べます。それから武器を手にして仕事に出かけるのですが、そのまま宴会に行ってしまうことがよくあります。朝から晩まで酒を飲んでいても少しも悪いこととは思われないのです。そして酒を飲めば当然口論がよく起きますが、それが言い争いだけで終わることはまれで、刃傷沙汰に発展することがよくあります。しかし、紛争の和解から結婚の縁組みや指導者の選出、そしてなにより和平の話し合いは、たいていがこの酒の席で行われるのです。率直な意見を交換するには酒の席が一番だしこの方がいい考えが浮かぶと思っているのです。元々心を偽ることの少ない民族性の彼らは、酒が入ると最早自分の思いを隠してはおけなくなります。こうして全員が腹の内をさらけ出して話し合うのです。同じ話題は翌日もう一度話し合われます。嘘のつきにくいときにじっくり話し合って、間違いを犯しにくい時に結論を出すのです。彼らは両方の長所をこのようにして生かしています。

23 彼らは小麦や大麦を発酵させてつくったワインのような飲み物を飲みますが、ライン川やドナウ川の近くに住む人たちは輸入したワインも飲みます。食事は質素なもので、野山でとった果物や、狩りの獲物、それにチーズを食べますが、ろくな調理も味付けもせずとも飢えを満たしています。しかしその彼らも酒に関しては節度がありません。ですから好きなだけ酒を与えて彼らの酒癖の悪さを利用すれば、武力を使うよりも手っ取り早く彼らを征服できることでしょう。

24 彼らが好んで開く見せ物はただ一種類だけで、どんな集まりでもそれが行われます。それは裸の若者たちが、そそり立つ剣や槍の間を飛んだり跳ねたりして踊りまわるというものです。元々遊びとして始まったものですが、訓練で技を磨いて芸術の域にまで達しています。しかし、金儲けでやっているわけではありません。どんなに危険な技を演じようと、彼らにとっての唯一の報酬は観衆が喜んでくれることだけなのです。

 驚くべきことに、彼らは賭博を仕事の一つとして真剣に行います。勝つにしろ負けるにしろその賭け方は無謀そのもので、賭けるものがなくなると最後には自分自身の体を賭けます。そして負ければ自ら進んで奴隷になるのです。たとえ敗者が勝者よりも若く体力的に優っていても、敗者はだまって縄をかけられて売られていくのです。彼らはこの悪習に対してこれほどにも入れ込んでいるのです。彼ら自身はこれを信義の問題だと言っています。こうして手に入れた奴隷を売り払うことで勝者もまた自分の信義を果たします。

25 奴隷の扱いは我々ローマ人とは違って、家の仕事をさせるようなことはありません。それぞれが自分の家を持って暮らしています。主人は奴隷を小作人のように扱って穀物や家畜や布地を取り立てます。奴隷が主人に従うのはここまでで、主人の家の用事をするのはみなその家の女子供の仕事です。奴隷を鞭で打ったり拘束して強制労働させるようなことはほとんどありません。奴隷を殺すことはあってもそれは処罰するためではなく、喧嘩の場合のように腹立ち紛れの衝動的なものに限られます。ただし、奴隷を殺しても罰せられることはありません。

 奴隷は解放されてもたいして地位は上がりません。家の中で解放奴隷が幅を利かすなどということはめったにありません。また、解放奴隷が政治の世界で活躍するなどということは決してありません。ただ、王を戴く国は例外で、王国では解放奴隷が市民や貴族よりも出世します。逆にそれ以外の国で解放奴隷の地位が低いことは、その国が自由であることの証(あかし)なのです。

26 ゲルマン民族は高利で金を貸して利息を稼ぐということを知りません。したがって高利貸しを禁止するよりはるかに完璧に高利貸しの危険から守られています。

 農地は農民の数に応じた広さを順番に全員で耕作します。それから取り分をそれぞれの身分に応じて分配するのです。農地の広さは充分確保されているためこの分配は容易に行われます。農地は毎年変わりますが、農地にする土地はあり余っています。なぜなら土地は肥えているのに果樹園や牧草地や菜園を造成してそれを充分に活用しようとはせず麦を作ることしか考えないからです。そのため彼らの季節の分け方は我々と同じではありません。彼らにとって一年は春と夏と冬しかなく、また実際それらを意味する言葉しかありません。つまり、彼らは秋の恵みを知らないのと同じように、秋に相当する言葉を知らないのです。

27 彼らの葬式は質素なもので、すぐれた人物の火葬に特別の薪が使われるのが見られるだけです。火葬の薪の山に布や香木を積み上げるようなことは決してありません。自分の鎧のほかにときどき馬をいっしょに焼くことがあるくらいです。墓も土を盛り上げただけで、飾りたてた大きな墓石を立てるようなことはしません。死んだ者に重いだろうというのがその理由です。いつまでもめそめそ泣いたりはしませんが、悲しみをさっさと忘れてしまうようなことはありません。葬儀では女は涙を流すことが、男は黙って故人をしのぶことが美徳とされています。

 以上が、ゲルマン民族の全体について一般的に見られる民族的な特徴です。ここからは、個々の民族についてそれぞれの習慣の違いを述べていこうと思います。また、どの民族がゲルマニアからガリアに移動したかについても触れていくつもりです。

誤字脱字に気づいた方は是非教えて下さい。

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