最高に面白い小説を書いたアレクサンドル・デュマ


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 アレクサンドル・デュマ ( Dumas 1802-1870 ) といえば『モンテクリスト伯』である。この物語は本屋で見ると岩波文庫で七巻もあって、外見からはとてつもなく長いために、とても手が出ないと、誰もがしり込みしてしまう。しかし、実は、いったん読み出したら最後、物語の面白さに取りつかれて、とうていやめられなくなって、七巻で終わってしまうのがもったいないと思うほどの魅力に満ちた物語なのである。要するに、めちゃくちゃおもしろいのだ。

 物語は1815年2月24日(第一巻の最初にこの日付が登場する)に始まるのだが、これはナポレオンがエルバ島を脱出する2日前にあたる。このナポレオンの政権復帰のときの政治状況は、物語と密接にかかわり合っている。主人公エドモン・ダンテスは、ナポレオン皇帝を支持する皇帝派とルイ18世による王政復古を支持する王党派の争いに巻き込まれて、政治犯として牢獄にぶち込まれてしまうのである。(『岩窟王』の岩窟とは牢獄のことである)

 そして14年間もこの牢獄に閉じこめられるのだが、この直接のきっかけをつくったのが実は主人公の友人たちであり、王党派の検事であった。そして、脱獄したダンテスがモンテクリスト伯となって、かつての友人たちと検事に対して復讐をしていくのが物語のストーリーである。

 エドモン・ダンテスは、牢獄の同僚のファリア司祭からモンテクリスト島に隠された埋蔵金の在りかを示す文書の内容を教えられ、ファリア司祭の遺体にすり替わって脱獄に成功すると、その大金をもとにして伯爵の位を手に入れて、フランスの社交界に入り込んで、いまはそこで伯爵や男爵として羽振りを利かしているかつての友人たちと検事に復讐するのである。

 その復讐が実に手の込んだものであって、ダンテスは伯爵だけではなく、イギリス商人になったり、イタリア人神父になったりしながら、綿密な計画のもとに目的を達成していくのである。
 

 まったく、息を切らせぬ物語の進行とは、この物語のことを言うのである。この物語には、毒殺あり、姦通あり、替え玉あり、変装あり、逃走劇あり、美しいイタリアの海の描写あり、古代の歴史物語あり、惨殺あり、ラブストーリーあり、誘拐あり、有名な祭りの描写あり、歴史探索あり、死刑執行の場面ありと、まさに何でもある。
 
 翻訳は岩波文庫、講談社文庫、旺文社文庫などがある。しかし、あとの二つは、図書館にはあっても本屋で目にすることはないようだ。つまり、一番手に入りやすい翻訳は岩波文庫のものなのである。岩波文庫の翻訳は、黒岩涙香の『巌窟王』という偉大な(と言っても読んだことはないが)先祖を持つゆえであろうか、実に流離な文体をもった非常にすぐれた日本語で書かれている。名文なのである。


 アレクサンドル・デュマの『王妃マルゴ』の訳が河出文庫に入っているが、これは翻訳そのものが不出来だ。「その上、誰もがモンモランシー元帥の非を咎めていた。一方、 こうした元帥に対して、国王、母后、アンジュー公、アランソン公は王家の祝宴でみごとに礼をつくしていたのだった」(上巻18頁)。来ていないモンモランシー元帥に礼をつくしたとは明らかな誤訳。原文には「 こうした元帥に対して」にあたる単語がない。実は、礼をつくした相手は、のこのことやってきた新教徒の「誰も」に対してである。

 文芸春秋社から出ている『王妃マルゴ』の訳も、ちょくちょく変な訳があって、いまいちである。この二つの訳を比べるとそれぞれのレベルが分かっておもしろい。

 それに対して、創元文庫に入っている『王妃の首飾り』の訳は少し冗長ではあるが、非常に優れたものだ。カリオストロ伯爵(ジョセフ・バルサモ)についての予備知識を身につけてから読むと、きっと楽しめるだろう。

 しかし、この翻訳には大きな欠点がある。その第一は漢字の用法の古さ、あるいは難解さである。現代一般には使われていない熟語、いまの新聞には出てこないような漢字が出てくるのだ。といっても一頁に何個も出てくるわけではなく、平均すればせいぜい五頁に一個ほどだから、読み方の正しさは無視して漢和辞典を引かずとも、文脈から推測を働かせて読み進むことは出来よう。 

 しかし、例えば、「一揖する」が「いちゆうする」と読み、これが[会釈をする]という意味であることは、いまの人間には、漢和辞典を引かなければ分からないのではあるまいか。さらに、それらがどの漢字辞典にも出ているような熟語ばかりならまだしも、簡野道明の『字源』にしか載っていないようなものがたくさんあるとすれば、これらをまとめて公開する価値ありと判断しても間違いではないだろう。しかも、これによって日本語の豊かな表現能力を再確認することも出来る。かくして私のサイトの一頁「 岩波版モンテクリスト伯を読むための用語集」が生まれたのである。

 もう一つの欠点というのは、ギリシャ・ローマの古典を出典とする人物名が、今日一般に通用しているものと違っていることが多いことである。そのために文章の意味を正しく理解できないことがある。ローマ字のつづりはどうなっているのかを、原文か英訳などで確認してはじめて分かる場合も間々ある。そこで、その主なものを含めたのである。

 この物語そのものの素晴らしさは言うまでもない。何と言っても、翻訳モノによくある登場人物名を覚えられないということはほとんどない。あらゆる人物がすべてその名前とともに、実に印象深く描かれているため、カタカナの名前を見て、この人は前にどこかで出てきたことのある人なのだろうかと、思案するようなことはまず無いといっていい。 

 その原因は何と言っても、物語の構成の仕方の巧みさであろうと思う。『モンテクリスト伯』に描かれる場面は、どれ一つとして無駄なものはなく、それら全てがこの作品の一本のストーリーを構成するものとして明確な意味を持っているのである。それらは、あたかも一つの有機体を形作るために無くてならない要素として、作品の中に完全に組み込まれているのだ。

 さらに、作者の博識には誰もが驚かされるであろう。『モンテクリスト伯』は世界のあらゆる文学の上に成り立っていると言っていい作品である。プルタークの偉人伝から、ホラティウスの詩から、タキトスの年代記から、モリエールの喜劇から、コルネイユとシェークスピアの悲劇から、千夜一夜物語から、ギリシャ神話や聖書にいたるまで、あらゆる文学作品から得た知識と言葉が、きら星のごとくに、作品の至る所に埋め込まれているのである。
 
 また、この物語にとって欠くことの出来ないアリ・パシャの話は、バイロンの『チャイルドハロルドの冒険』からヒントを得て作られたものである。さらに、この作品は情熱と正義感に満ちた文学であるが、それもまたバイロンに倣ったものである。またこの物語が、主人公の変装を含めて、復讐物語の嚆矢たる古代ギリシャの叙事詩『オデッセー』の伝統を引き継ぐものであることに疑いはない。

 誰かに不当な目に合わされたという思いを持たぬ人はこの世にいないであろう。誰かに復讐したいという気持ちのない人はこの世にいないだろう。そのために、この物語は誰にとっても面白いものたりうるのである。そのために、この物語はあらゆる人を引きつけてやまないのである。そしてそれが同時に正義の実現なのであるからたまらない。神に代わって天罰を下すのだ。

 ちなみに、この物語に登場するモンテクリスト島は物語が語る通りの場所に物語の語る通りの形で実在する島である。


                                        

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