偉人たちを笑いの対象に変えた

薄田泣菫








 薄田泣菫(1877-1945)は『白羊宮』という詩集で有名だが、これは文語で書いてあるため、読んでもちょっとやそっとでは理解できない。しかし、 その後口語詩の分野に進まずに新聞に散文でコラムを書いて飯のタネを稼ぐようになった。それが『茶話』という題でまとめられて今も残っている。このほうは 非常にわかりやすく、読んで楽しいものである。
 
 どんな偉人も、くだらない癖があったり、見栄を張って失敗したりするものだ。泣菫はそれをとらえて、いたずら心たっぷりの文章で描くのである。
 
 『茶話』には、過去の偉人だけでなく、当時の有名人がつぎつぎに登場する。しかし、どういう偉人かは『茶話』には書いてないし、名前を見ても知らない人 ばかりなので、インターネットで検索しながら読むのだが、検索に引っかかるホームページには泣菫のちゃかしの対象が、皆がみな当時の偉人として登場するか らおもしろい。
  
 たとえば、菅原道真に子供が24人もいたことや、エジソンの耳が遠かったこと、六代目尾上菊五郎がへたな狩猟を趣味にしていたことなど、偉人とされてい る人たちの弱点が次々に暴露される。
 
 良寛を扱ったものなどは、あまりに下品で、とてもまともには伝承されないような話が含まれている。
 
 泣菫は人の外見的特徴、とくにハゲ頭を好んでとりあげる。寺内正毅首相をからかうときには、いつもそうだ。これなどは、現代のような似非人道主義の時代 には考えられないことだ。ところが、泣菫は人の体の不具も笑いの対象にする。大隈重信の片方の足は義足だったが、それもからかうのである。いまなら人権侵 害だ差別だなどといわれるだろうが、それこそが笑いなのだ。

 つまり、笑いとはまず何をおいても人の外見を笑うのである。不細工な女に対して、初対面でいきなり大声で「ぶっさいくやなあ」と言うのがおもしろいので ある。

 『茶話』は新聞に連載されたことから、いまの新聞のコラムの先駆けのように言われる。しかし、『茶話』は特定の人物についての短いストーリーが中心で、 むしろ『徒然草』に近い。(『徒然草』はいい現代語訳が出ているので、ぜひ一度は通読したい。古文の教科書が扱わないような所に、本当にびっくりするよう なことが書いてあるから) 
  
 いまの日本の新聞のコラムと唯一似ているところがあるとすれば、それは首相の名前がよく出てくることだ。しかし、その出方は全然違う。泣菫は恐れ多くも 一国の首相に嫌味を言うなどということはしない。彼は首相の外見や癖をからかったり、役に立たないアドバイスをしたりして、ひたすら茶化すだけである。

 わたしの一番好きな話は「魚を食う人」だ。この話には『茶話』の特徴がよく現れている。それをここにそのまま引用するから味わってもらいたい。旧かなづ かいであるが、読み仮名(かっこに入れた)がついているので難しくない。
 
  魚を食ふ人

 天龍寺の峨山(がざん)和尚が、ある時食後の腹ごなしに境内の池の畔(ほとり)をぶらぶらしてゐた事があつた。池には肥えふとつた緋鯉だの、真鯉だの が、面白さうに、戯(ふざ)けあつて、時々水の上へ躍り上がるやうな事さへあつた。

 峨山和尚は立ちどまつて池のなかを覗き込んだ。世捨人の和尚の身にとつても、納所(なつしよ)坊主の他愛もないお談義を聴いてゐるよりか、鯉の戯けるの を見てゐる方がずつと面白かつた。和尚は夢中になつて凝(じつ)と見とれてゐた。すると、だしぬけに後から、
 「和尚さん。」
と呼ぶ声が聞えた。

 和尚は後方(うしろ)を振向いてみた。そこには近所の悪戯(いたずら)つ児が一人衝立(つゝた)つてゐた。
 「和尚さん、あの鯉一尾(ぴき)わてにお呉(く)なはんか。」
 子供は今和尚の目の前へ筋斗(とんぼ)がへりをした大きな鯉を指ざしながら言つた。
 「ならんならん。」和尚は木の株のやうな頭をふつた。「この鯉はみんな飼つたるのやさかいな。」
 「そない言はんと、一尾(びき)だけお呉(く)なはんか、和尚さん。」
 子供は嬌(あま)えたやうに和尚の袖を引張つた。和尚は笑ひ笑ひ袖を引き離した。
 「いや、ならんならん。鯉を捕(と)るのは殺生やよつてな。」
 子供はわざと戯けたやうに、指先で和尚を突(つゝ)つく真似をした。
 「そない言うたかて、和尚さん、自分でこつそり捕つとる癖に。」

 和尚は眼を円くして子供の顔を見入つたが、流石に何(ど)うと言ひ解くわけにも往(ゆ)かなかつた。

 ベンジヤミン・フランクリンは僧侶(ばう)さんのやうに菜食主義で暫く押し通して来たが、ある時何かの折に魚を料(れう)つてゐた事があつた。するとそ の魚の腹から小魚が二三尾(び)出て来た。
「何だ、魚め、仲間同士で友喰(ともぐ)ひをやつてるんだね。」フランクリンは腹の底から吃驚(びつくり)してしまつた。「そんなら、何も遠慮するんでは なかつたつけ。」

 それからといふもの、フランクリンはふつつり菜食主義を止(や)めて、魚を食べ出した。そして鰹(かつを)のやうに肥り出した。

(完本『茶話』中 冨山房百科全書38 625頁以下 大正7年9月19日大阪毎日新聞夕刊)
 
 天龍寺の名僧峨山和尚も泣菫の手に掛かると形無しである。しかも、峨山和尚の容疑は晴らされないままなのだ。泣菫はこういういたずらをする。その他に、 会話文の関西弁の言い回しも魅力である。
 
 もちろん、『茶話』に出てくる話をすべてが本当だと思って読む必要はない。
 
 たとえば、「戦争はいつ済むか」で、第一次大戦の連合国の元首たちの誕生年と即位年と治世と年齢を足し算すると、「不思議にも」みんな3834という同 じ数字になると書いている。しかし、どの元首の誕生年に年齢を足しても、即位年と治世の年数を足しても、その年の西暦年数になるのは当たり前である。だか ら、それらの四つの数字を全部足せば当時の年数である1917年の倍になるのは何の不思議もない。だから、茶話はヘロドトス流の眉唾話と思って楽しめばよ いのである。
 
 もっとも、これをそのように楽しめなかった人たちもかなりいたようで、さまざまな批判が出たのか、後期のものになってくると、個人を名指しにしたものは 影を潜め、対象となる人も外国人が多くなり、日本人もイニシャルだけになってしまう。
 
 英語の人名の表記がローマ字で書かれるようになったのも、カタカナ書きがよく分からないという批判があったからだろうか。
 
 わたしは、富山房から出ている完本『茶話』(全三巻)で読んだ。この本には最後に作品の題名による索引が付いているが、人名による索引はついていない。 そこで、わたしは人名索引を作りながら読んでいった。すると、後の方の話で出 てきた名前が、最初の方の話にも出ていることが分かったりして、意外な楽しみ方ができた。
 
 なお、この索引は富山房の『茶話』にしか使えない。しかし、これが手元にない人は、この索引を自分の子供の名前を付けるときに利用できるかもしれない。 なにせ、ここに出てくる人たちは各界の偉人ばかりだから。(注意! 殺人鬼が一人含まれている)


付1 陶庵侯と漱石 

    西園寺陶庵[公望(きんもち)]侯の雨声会が久(ひさ)し振(ぶり)に近日開かれるといふ事だ。招かれる文士のなかには例年通り今から、即吟の下拵(した ごしら)へに取蒐(とりかか)つてゐる向(むき)もあるらしいと聞いてゐる。

    いつだつたか雨声会に、夏目漱石氏が招待(せうだい)を受けて、素気(そつけ)なく辞退した事があつた。その後陶庵侯が京都の田中村に隠退してゐる頃、漱 石氏も京都へ遊びに来合せてゐたので、それを機会に二人をさし向ひに衝(つ)き合はせてみようと思つたのは、活花(いけばな)去風(こふう)流の家元西川 一草亭であつた。

    一草亭は[幸田]露伴、黙語[浅井忠(ちゆう)]、月郊[高安(たかやす)三郎]などにも花を教へた事のある趣味の男で、陶庵侯の邸(やしき)へもよく花 を活けに往(ゆ)くし、漱石氏へも教へに出掛けるしするので、ついこんな事を思ひついて、それを漱石氏に話してみた。

    皮肉な胃病持ちの小説家は、じろりと一草亭の顔を見た。

    「西園寺さんに会へつていふのかい、何だつてあの人に会はなければならないんだね。」
    「お会ひになつたら、屹度(きつと)面白い話があるでせうよ。」
    「何だつて、そんな事が判(わか)るね。」

    花の家元だけに一草亭は二人の会合を、苅萱(かるかや)と野菊の配合(あしらひ)位に軽く思つて、それを一寸取持つてみたいと思つたに過ぎなかつた。一草 亭はこれまで色々(いろん)な草花の配合をして来たが、花は一度だつて、
    「何だつて会はなければならないんだね。」
などと駄目を押した事は無かつた。胃病持ちは面倒臭(めんどくさ)いなと一草亭は思つた。

  一草亭が思ひついたやうに、この二人が無事に顔を合はせたところで、あの通り旋毛曲(つむじまが)りの人達だけに、二人はまさか小説の話や俳諧の噂もすま い。二三時間も黙つて向き合つた末、最後に椎茸(しひたけ)か高野豆腐(かうやどうふ)かの話でもしてその儘(まま)別れたに相違なからう。(完本『茶 話』上14頁 大正5年4月18日大阪毎日新聞夕刊)

付2 中村是公(ぜこう)泣く 7・4(夕)

 先日(こなひだ)の事、東京新橋の料亭花月でKといふ実業家が、客を待合はせる暫くの間(ま)を、意気な小座敷でひとりちびちびとやつてゐると、隣の一 室(ま)である男が芸者を相手のしんみりした話が襖越しに聞えて来た。

 実業家は当世人だけに、他人(ひと)の話を立聴きするのが何よりの好物であつた。談話(はなし)が儲け話か女の噂である場合には、とりわけ身体中(から だぢゆう)を兎の耳のやうにして偸(ぬす)み聴(ぎき)をした。隣の室(ま)ではかなり酒に醉つたらしい男が、時々腹でも立てたやうに調子を高めるのが聞 えた。

 「妓(おんな)でも口説(くど)いてるのだらう、困つた奴(やつこ)さんだ。」

 実業家は低声(こごゑ)で呟きながら、酒の冷(さ)めるのをも忘れて襖にぴつたりと耳をおし当ててゐた。

 すると、芸者の一人がしんみりとした声でいふのが聞えた。

 「さう承はつてみると、亡くなつた先生お一人がおいとしいわね。」

 「真実(まつたく)だわねえ。」

 今一人の妓が調子を合はせるのが聞えて、二人はそつと深い溜息を吐(つ)いたやうにさへ思はれた。

 「何だ、妓は二人なんか。それぢや一向詰らん。」

 実業家は蝸牛(かたつむり)のやうに襖に吸ひついてゐた耳を引き外しながら、下らなささうに呟(ぼや)いた。 すると、突如(だしぬけ)に男のおいおい 泣き出すのが聞えて来た。雌に逃げられた狗(いぬ)の泣くやうな声である。実業家は手にとつた盃(さかづき)を下において、慌ててまた襖にすり寄つた。

 「亡くなつたあの男に済まんよ。」と隣りの男はべそを掻きながら言つた。「俺といふ者が附いてゐて、そんな真似をさせたんぢや、全く・・・」

 男は後(あと)を言ひさしたまゝ、おい/\声を立てて泣き入つてゐるが、声柄(こゑがら)にどこか聞覚えがあるやうに思つて、そつと襖を細目に押しあけ て覗いてみた。そして飛上がるばかりに吃驚(びつくり)した。泣いてゐたのは、外でもない、鉄道院総裁の中村是公氏であつた。

 実業家は冷めた盃を啣(ふく)みながら、是公氏が何を泣いてゐるのだらうと色々想像してみた。後藤〔新平〕男が新聞記者に苛(いぢ)められたからといつ て泣く程の是公氏でもないと思つた。汽車が頻りに人を轢殺(ひきころ)すからといつて泣く程の是公氏でもないと思つた。実際そんな事で泣いてゐては、幾ら 涙があつても足りる訳はなかつた。実業家は廊下を通る芸者を呼びとめて理由(わけ)を訊いてみた。芸者は笑ひ/\言つた。

 「夏目漱石さんの未亡人(おくさま)がね、先生の書物から印税がどつさりお入りになるんで、近頃大層贅沢におなり遊ばしたとやらで、それをあんなに言つ て悔(くや)しがつてらつしやるんですわ。」

 実業家は漱石氏と是公氏とが仲のよかつた事を想ひ出して、感心だなと思つた。そしてその次の瞬間には、自分の女房(かない)が人並外れた贅沢家(や)な のを想ひ出した。

 「俺も是公と友達になつてやらう。」と実業家は腹のなかで一人で定(き)めた。「もしか明日(あす)にでも亡くなつたら、屹度あんな風に俺の為めに泣い てくれるだらうからな。」(完本『茶話』中576頁 大正7年7月4日大阪毎日新聞夕刊)



   ここで紹介したこの二つのコラムを資料として、京都漱石の會の丹治伊津子さんがその会の会報『虞美人草』にそれぞれ

           「『虞美人草』の頃 西園寺首相をソデにした漱石」(虞美人草3号)、
           「夏目鏡子と新島八重 -悪妻あっぱれ-」(虞美人草11号

と題する小論を発表されてい る。

   前者は、漱石が大学の職を辞して小説家として発表した第一作『虞美人草』の創作経緯を日記等から丹念にたどりながらに、この小説に賭ける漱石の並々ならぬ 意気込みをさらりと描き出した一文で、一見取っ付きにくいこの小説を読むきっかけを与えてくれるだろう。

    また後者は、鏡子夫人と八重夫人がともに夫の死後に浪費家として名を馳せたことを、温かい眼差しをもって流利な文章でつづられた興味深い佳編である(同10頁)。いずれも一読をおすすめしたい。

  




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