自由とは人に迷惑をかけないことだ

と言ったJ.S.ミル



 
 J.S.ミル(Mill 1806-1873 英国人)の『自由論』は明治の文明開化の時代に『自由之理』という題で訳されて日本でも有名になった本である。

 古い本のようだが中身は新しい。なぜなら、彼の議論は民主主義社会がすでに出来上がっていることを前提にした議論であるため、そこまで行っていないアジアの人間が読むと、これを論じるのはまだ早いのではと思わせるような内容なのだ。

 つまり、自由が圧政からの解放と民主政治確立を意味していた時代は、彼にとっては過去のものなのである。彼が言う自由とは世論(世間)からの個人の自由である。つまり「個人が自分自身だけに関することをどのようにしようとも自由だ。それを回りの人間(世論)はとやかく言う権利はない」という自由である。ここに彼は、人に迷惑をかけないかぎりという条件をつける。そうであるかぎり世論も官憲も個人の生活に口出しすべきではないと言うのである。
 
 曰く「個人は、他人の迷惑になってはならない」(岩波文庫114頁)
 曰く「個人は、彼の行為が彼自身以外の何人の利害とも無関係である限りは、社会に対して責任を負っていない」(同189頁)
 
 なぜ個人の自由が大切かというと、個人の生活に規制を加えるようになると、個性が育たなくなり、そうなると天才も生まれなくなり、その社会が発展しなくなってしまうからだと彼は言う(第三章)。

 だから例えば、教育を国がするのはよくない。国は教育の機会さえ平等に与えていればよい。その中身に国は口出しすべきではない。そんなことをすれば、誰も彼も同じ教育を受けた金太郎飴のような人間が出来上がってしまう。そうなると、個人は不幸になるし、国は発展しなくなる。
 
 曰く「個性の自由な発展が、幸福の主要な要素の一つである」(同115頁)
 曰く「賢明な、または高貴な一切の事物の創始は、個人から出て来るものであり、また個人から出て来ざるを得ないものなのである」(同134頁)
 曰く「およそ或る人民は、見受けるところ、或る期間は進歩して、やがて停止する。では、いかなる時に停止するか? その人民が個性を持たなくなるときである」(同143頁)
 
 ところが、世論(世間)というものは自分たちと違うものを認めようとはせず、異質なものを排除しようとする。強い好みや嗜好や欲求を持っている者を理解せず、普通にしろと口出しをしたがる。そして、
 
 曰く「人間性の諸部分のうち特に抜きん出て、その人物の輪郭を平凡な人と異なったものとするようなあらゆる部分を、中国の婦人の足のように緊縛して不具にしてしまう」(同141頁)
 
 この傾向は特に東洋で強く、そこでは、
 
 曰く「正義と公正とは慣習に一致することを意味している」(同143頁)
 
 このようにミルは個性を非常に重視する。

 言論の自由についても、ミルは一章をあてて、それがいかに大切であるかを詳細に論じている(第ニ章)。彼が言うには独善に陥らない最善の方法こそ、言論の自由である。反論される機会を作っておくことは、自分の考えの正しさを担保する唯一の手段であるというのである。逆に、言論の自由を奪うことは、自分の意見の正しさを絶対視することにつながり、それは結局は自分自身の失敗につながると言う。
 
 曰く「人間は、議論と経験とによって、自分の誤りを正すことが出来る。経験のみでは充分ではない。経験をいかに解釈すべきかを明らかにするためには、議論がなくてはならない」(同44頁)
 
 真理というものは必ず一面的なもので、仮に自分の考えが真理であるとしても、それに対する反論の中に自分の意見を補うような真理が必ず含まれていると言う。
 
 曰く「その問題に関して自分の主張を知るに過ぎない人は、その問題に関してほとんど知らないのである」(同76頁)
 
 そして反論を受けないようにしてしまった真理は真理としての力を失っていまうと言う。
 
 曰く「その意見がいかに真理であろうとも、もしもそれが充分に、また頻繁に、且つ大胆に論議されないならば、それは生きている真理としてではなく、死せる独断として抱懐されるであろう」(同73頁)
 曰く「論争が行われない場合には、意見の根拠が忘却されるだけではなく、また実にしばしば意見そのものの意味が忘却される」(同81頁)

 これは宗教について特によく当てはまる。その典型はキリストの言葉である。彼は例えば、「貧しき者、卑しき者、世に虐げられる者は幸いである」とか「もしも人が外套を取るならば、さらに上着をも彼に与えなくてはならない」とか「けっして誓ってはならない」などと言い、キリスト教が迫害された昔には、これが真実の言葉として意味を持っていた。

 しかし、今のキリスト教徒はこれを真剣に実践しようとする人はいないだろうし、これを実行していないと批判する人は嫌われてしまう。なぜなら、これらは単なるスローガンになってしまっているからである。

 曰く「キリストのことばは、好感のもてる柔和な言葉に単に耳を傾けることによってもたらされる快感以上には、ほとんどなんの効果をも生みだすことなく、彼らの精神の中に受動的に併存しているのである」(同87頁)
 
 ここで、ミルはキリスト教道徳を受動的服従の教説であると切り捨てている(同101頁)。キリスト教は
 
 曰く「積極的であろうとするよりもむしろ消極的であり、能動的であるよりむしろ受動的である。すなわち、高貴であることよりも、むしろ罪を犯さぬことを尊び、精力的に善を追及することよりも、むしろ悪より遠ざかることを尊ぶ」(同101頁)
 曰く「この道徳は、古代人の持っていた道徳の最善のものに比べて、はるかに劣っているし、また人間の道徳に対して、本質的に利己的な性格を付与しようとしつつあるものといわねばならない」(同101頁)
 
 それは何故かというと、
 
 曰く「キリストの言葉は真理の一部分を含んでいるに過ぎず、またその意図で語られていた」(同103頁)
 
 したがって、
 
 曰く「キリスト教の体系は、人間精神の不完全な状態においては真理にとっての利益のために意見の多様性を必要とするという規則に対して、何らの例外をなすものではない」
 
 キリスト教に対してこのような見方が存在するということを知るだけでも、この本を読む価値があるというものである。
 
 ここまでに紹介した内容は、第二章と第三章に書いてあることだが、第四章では、最初に述べた「個人の自由に対して社会や世論がどの程度に干渉する権利があるか」について、具体例をあげて論じている。その例としとはモルモン教と禁酒法があげられている。
 
 モルモン教に関しては、ミルはこの宗教をけしからぬもの、野蛮の復活であるとしつつも、それを弾圧することには反対の立場をとっている。その普及を阻止するためには、宣教師を派遣するなど、あくまで正当な手段を取るべきだという。なぜなら、
 
 曰く「野蛮が全世界を支配していたときにおいてすら、文明は野蛮に打ち勝ったのであるから、野蛮がすでに充分に征服された後において、それが復活して文明を征服するかもしれないなどと告白するのは、行き過ぎというものであろう。己の一旦征服した敵に負けるような文明は、まず第一に、すでに甚だしく退廃していて、それの任命した僧侶や教師も、その他のいかなる人物も、このような文明を擁護するために立ち上がる能力もなければ、またその労を取ろうとする意志もなくなっているに相違ない」(同187頁)
 
 そしてそのような文明の例として一旦自分たちが征服した野蛮人に滅ばされた西ローマ帝国をあげている。
 
 ところで、このモルモン教迫害の急先鋒だったのが新聞だったという。いつの時代でも新聞は知的であるよりは感情的なものなのである。新聞は一見自由を標榜しているようであるが、異端な個人の自由に対する最大の脅威としてしばしば機能する。

 曰く「大衆に代わって思想しつつあるのは、新聞紙を通じて時のはずみで大衆に呼びかけたり、大衆の名において語っているところの、大衆に酷似している人々にほかならない」(同134頁)

 第五章では、個人の自由と社会の介入の二つの原則、つまり
 
 「個人は、彼の行為が彼自身以外の何人の利害とも無関係である限りは、社会に対して責任を負っていない」(同189頁)

 という原則と、
 
 「他人の利益を害する行為については、個人に責任があり、また、社会がその防衛のためには社会的刑罰または法律的刑罰を必要とする意見である場合には、個人はそのいずれかに服さなければならないであろう」(同189頁)
 
 という原則の、二つの原則の境界線上にあることがらについて検討を加えている。例えとして、飲酒やギャンブルが検討に対象になっている。
 
 ギャンブルは個人その人にだけ関係している事柄である。純粋に個人の責任でやればよいはずだ。しかし、ギャンブルにのめり込んで不幸になる人が出て来たり、逆にこの営業によって大儲けする人が出て来る。そこで、ギャンブルを禁止したり、ギャンブルの営業を禁止したりする国がある。

 しかし、これらの禁止措置の合法性についてミルは疑問を投げかける。

 個人がギャンブルをすることを禁ずることは個人の自由の侵害であるから、禁止してはならない。その営業だけを禁止することもおかしい。ギャンブルをする本人を許しておきながら、それを助けるものだけを許さないというのでは本末転倒だと言うのである。(同199頁の「これに対する反論としては」から同200頁の「以上の議論には相当強いものがある」までが、営業だけの禁止を擁護する議論である)

 このようにミルはかなり広範囲に個人の自由を認めている。
 
 その他、最後の章では、国の官僚機構が肥大化するとに警告を発してる。そうなってしまうと、いかに民主国家であっても、出版言論の自由が確立していても、その自由は名前だけのものとなって国家は衰退すると言っている。
 
 曰く「国内に存在している広大な教養と練達した知能の一切が、厖大な官僚群の中に集中し、社会の残りの人々は、何もかもひたすら彼らにだけ期待することになるであろう。すなわち、一般国民は、自分たちの為さねばならぬ一切の仕事に関して、彼らの指導と命令を期待し、能力と野心をもつ者は、自己の立身出世をそこに求めるであろう」
 
 こうなると
 
 曰く「官僚群の利益に反するような改革は、けっして実現することは出来ないのである」
 
 日本の政治改革も行政改革も困難な所以である。以上のように、いろんな点で教えられることの多い書物である。一読を勧めたい。

 なお、日本語の訳書については、残念ながらよいのがない。現在入手可能なものはここで引用した岩波文庫のものと中央公論の世界の名著のものであるが、どちらも帯に短したすきに長しで、単独で読み切ることができない。

 岩波文庫のは上に見られるように文体が古いうえに直訳でまるで機械翻訳のため、日本語として読みにくいところが多いが、訳の正しさではこちらのほうがすぐれている。

 中公のものは日本語としては読めるが、議論がややこしくなってくると英語を正しく読み取れていないところが出てくるようだ。読めることは読めるが、よく分らないところが多いのである。

 岩波の訳は塩尻氏の訳を現代人に読み易くするために後から手を加えたものだそうだ。しかし、後ろへ行くほど手を加えた度合いが減ってくるのか、逆に読みやすくなる。訳語も次第に統一されてくる(例えば、convictionは確信、beliefは信念、self-regardingは自己配慮)。

 いずれにしても、二章のソクラテスのことが書いてあるあたりからは読みやすいから、そこからいきなり読んでいったらよいと思う。最初のところは飛ばしても充分理解できるし、上に示したようにキリスト教批判などかなりすごいことがいっぱい書いてある。

 特に、岩波文庫の翻訳は、第一章と第二章の初めが非常に読みづらいものになっている。そこで、自分で原典にあたって読んでみた。その際、日本語に訳しながら読むと意味が明快になることが多かった。ここに掲載したのは、その訳である。参考にしてもらえれば幸いである。

 岩波文庫の場合、最終章にも、原典を確認したくなる個所がたくさん出て来るため、現行の翻訳だけで全ての意味を読み取ることは不可能だと思われる。


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