ルソー『学問芸術論』より

 

第一部

 人間が自らの力によってなんらかの方法で無から旅立ち、自分たちを取り巻く闇を理性の光で切り開いて、さらには自分自身を乗り越え、精神の力で神の領域にまで上り詰め、太陽に比すべき巨人のような急速な歩みで広大な地球を走破し、そして何より困難で偉大なことには、自分自身の探求のために自己の内面に立ち戻って、人間の本質、人間の使命、人間の目的を極めていく、そのありさまを見ていくことはまさに壮観であります。そして、この素晴らしい歩みのすべてが、つい最近、再び繰り返されたのです。

 ヨーロッパは原始時代の未開状態に戻っていました。現在では文明化しているヨーロッパの人々が、つい数世紀前までは、無知よりもひどい状態の中で暮らしていたのです。無知以上に軽蔑すべき何かよく分らない隠語が知識の占めるべき場所を横取りして、知識の復帰を妨げる乗り越えがたい障害となっていたのです。

 並の判断力を取り戻すにさえ、一種の革命が必要でした。そして、それは思いも寄らぬ方角からやって来ました。私たちの文芸を復興させたのは、なんと文芸の永遠の敵、無知なるイスラム教徒だったのです。彼らがコンスタンチノープルを陥落させたおかけで、古代ギリシャの残骸がイタリアにもたらされ、次にフランスがこの貴重な遺品を受け継いで潤いました。文芸のあとからはすぐに学問が続きました。つまり書く技術に考える技術が加わったのです。この進み方は一見奇妙に見えますが、ごく自然の成り行きだったのです。

 そして人々は文芸の神ミューズとの付きあいから得られる代表的な利点に気づき始めました。その利点とは、人の称賛に値する作品をつくって好評を博したいという欲求が人々の間に生まれて、人々を社交的にするということです。

 肉体に欲求があるように、精神にも欲求があります。そして、肉体の欲求が人々の間に付き合いを生み出すとすれば、精神の欲求は人々の付き合いに楽しさを生み出します。

 国とか法律とかは、こうして集められた人々に安全と物質的な充足を保証しますが、おそらくそれらよりもやさしくはあってもはるかに強い力を持つ学問や文学や芸術が、人々をつないでいる鉄の鎖に花輪をかけて、生まれつき持っているはずの自由に対する気持を封じ込めて、束縛された状態を気に入るようにしていきます。こうしていわゆる文化的な国民が生まれるのです。

 いわば人々の欲求が王座を作り出して、学問や芸術がそれを強固なものにしていると言っていいでしょう。だから、この世の支配者たちは、いわゆる文化人を可愛がるべきです。そして、この文化人を援助している人たちを大切にすることです。また、文化的な国民もまた、文化人を援助すべきです。彼らが自慢にしている高尚な趣味をもてるのも、文化人がいてこそだからです。この高尚な趣味こそは、都会的な洗練さをもったやさしい人間をつくるのであり、人付き合いのうまい愛想のいい人間、つまり、見せかけだけの美徳を備えた人間を作り出すのです。こうして彼らは幸せな奴隷となるのです。

 かつて豪華と絢爛を誇ったローマやアテネが他に抜きんでていたのは、実を言えばこの隠すほど値打ちがあがるという趣味の高尚さだったのです。そして、現代が他のあらゆる時代に勝っているのも、わが国が他のあらゆる国に勝っているのも、疑いなくこの趣味の高尚さのおかげなのです。

 この国民が持っているてらいのない泰然とした態度、自然さを失わずしかも思いやりに満ちた行動様式は、ドイツ人の無骨さともイタリア人の大げさな身振りとも、等しく遠いものです。これこそは、よく勉強することで身につき、社交界のつきあいの中で完成される高尚な趣味のたまものなのです。

 もし人の顔を見れば、常にその人の心が分るなら、人生はどれほど楽になるでしょうか。慎みを美徳としていて、生き方が社会のルールと一致していて、哲学者の肩書きを持っている人が常に真の哲学者なら、この世はなんと素晴らしいものになるでしょうか。しかし実際には、これほど多くの長所を一人で持っている人はめったにいませんし、美徳がそんなに華麗な姿で現れることはまれなのです。

 確かに、飾り立てた服装をしている人が高尚な趣味の持ち主であるかもしれませんが、その人が立派な人かどうか、健全な人かどうかは、他のところを見なければなりません。頑強な肉体を見つけるには、宮廷の人間が着るような金ぴかな衣装の下ではなく、農民の着るような素朴な服装の下を探さねばなりませんが、それと同じように、美徳、すなわち頑強な精神は、虚飾とは無縁のものなのです。

 美徳を備えた人間とは、裸一貫で勝負することを好むいわば筋骨たくましい人のことです。そのような人は、つまらない飾りを嫌います。なぜならそのような飾りは力を発揮するときの邪魔になるし、もともとは何らかの欠点を隠すために作られたものが多いからです。

 今では文化が進んで礼儀作法が形成されて感情を素直な言葉で表現することがなくなっていますが、昔のわたしたちは粗野ではあってももっと自然な振舞い方をしていました。だから、昔は振舞い方の違いを見れば、すぐにその人の性格が分ったものでした。その頃の方が本質的に人間がすぐれていたとは言いませんが、互いに相手の気持が手に取るように分っただけに、安心して付きあえたことは確かです。そして、このおかげで、当時の人たちは多くの悪徳に手を染めずにすんだのです。しかし、現代のわたしたちは自然に振舞うことの値打ちが分らなくなってしまっています。

 この高尚な趣味はさらに洗練の度を加えていき、人の感情を害さない振舞いをすることが道徳にまでなってしまって、今日では人々の行動様式に安っぽいうわべだけの画一性が支配するようになってしまいました。人々の精神は全部同じ鋳型にはめられてしまったかのように見えるのです。いついかなる場合も、礼儀作法を守って、上品に振舞うことが要求され、いついかなる場合も、慣習に従って行動しなければならず、自分の生まれつきのままに生きることなど御法度です。人々は決してありのままの自分の姿を見せようなどとはしないのです。

 社会という名の集まりを形成した人たちは、こうして永遠に続く束縛状態の中に置かれて、何か強力な動機でもないかぎり、同じ状況下ではまったく同じ行動をするようになったのです。

 そのために、わたしたちは自分が相手をしている人間が一体何者なのかまったく分りません。そして、自分の友人がどんな人間かを知るためには、人生の重要な節目の時が来るのを待たなければならないのです。しかし、その時はもう手遅れです。なぜなら、まさにそんなときのためにこそ、自分の友人の本性を知っておく必要があるからです。

 相手の性格が分らないということからどれほど沢山の悪徳が生まれるでしょう。心からの友情も、偽りのない尊敬も、確固たる信頼感もなくなってしまうでしょう。そのかわりに生まれるのは、猜疑心であり、不信感であり、恐怖心であり、非情さであり、警戒心であり、憎しみであり、裏切りです。それらは上品さという画一的な偽りのベールの下に隠されることでしょう。それらは現代の英知のおかげで手に入れたご自慢の都会的洗練の下に隠されることでしょう。

 人々はもはや汚い言葉で悪態をついて神の名を汚すことはなくなりますが、そのかわりに神が冒涜されるのを耳にしても私たちの良心が痛むことはなくなるでしょう。自分の手柄を人前で自慢することはなくなりますが、そのかわりに人の手柄をおとしめるでしょう。自分の敵を面と向かってののしることはなくなりますが、巧妙に相手の評判を落とそうとするでしょう。国民同士の憎しみは弱まりますが、そのかわり愛国心も弱まってしまうでしょう。軽蔑すべき無知はなくなりますが、そのかわりにすべての認識を否定する危険な懐疑論が幅を利かせるでしょう。

 もちろん、いくつかの行き過ぎはいましめられるでしょうし、いくつかの悪徳は非難されるでしょう。しかし、また別のものが現れて美徳の名をかたることでしょう。なぜなら、美徳を持たないものも美徳を持っているふりをしなければならないからです。

 今日の有識者たちの節度を称賛する人もいるでしょうが、わたしはそれは一種の手の込んだ不節制でしかないと思います。だからそんなものは、彼らの取ってつけた率直さと同様に褒める気になれません。

 こうしてわが国民は完璧な行動様式を手に入れ、そろって有徳の士となったというわけです。確かに、文芸や学問や芸術は、この極めて有益な行動様式を確立するうえで、自分たちの果たした役割を主張する権利があります。しかし、わたしはここで一言言っておく必要があります。それは、もしここから遠く離れたどこかの国の住民がわが国の人間の行動様式を、わが国の学問の状況や、その完成した芸術や、礼儀正しい演劇や、人々の上品な振る舞いや、丁寧な会話や、必ず見せる親切な態度や、さらには、あらゆる年代のあらゆるクラスの人間が集まって騒々しく朝から晩まで互いに親切のしあいっこをしているありさまに基づいて理解しようとするなら、私たちの本当の行動様式とは正反対のものに行き当たるだろうということです。

 もし結果が不明ならば、原因を探求する必要はありません。しかし、今の場合は結果は明白です。それは精神の明らかな堕落です。学問と芸術が進歩して完成の度を高めるとともに、私たちの精神は堕落していくのです。この現象は現代だけのものでしょうか。いいえ、無益な好奇心がもとで起るこの病気は、人間の歴史が始まって以来ずっと存在しています。行動規範つまり道徳のレペルの変化は、学問と芸術の進歩と密接に結びついているのです。この二つは、海の満ち退きが夜を照らす月の運行と結びついているのと同じぐらい密接に結びついていると言えるでしょう。つまり、学問と芸術という光が水平線から昇っていくにしたがって、美徳は地上から消えていくのです。それはいつの時代、どこの国においても見られる現象です。
 
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第二部

 エジプトからギリシャに伝わった古い伝説に、人間の休息を嫌う神が学問を発明したのだというのがあります。学問の生みの親であるはずのエジプト人が、学問に関していったい何という意見を持っていたのでしょうか。これが、学問の始まる様子を近くで見ていた彼らの意見なのです。実際、
 
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 彼らは本心から美徳や私たちの信仰を嫌っているわけではありません。彼らが嫌っているのは、一般の人たちのものの考え方なのです。ですから、彼らをもう一度信仰に引き戻すには、彼らを無神論者だけが住む国に入れてやればいいのです。目立ちたいという気持だけで、彼らは何でもやりかねない人たちだからです。(岩波文庫p35)

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 わが国の政治家は商売のこととお金のことしか話そうとしません。そのうち、人間の値打ちをアルジェで売ったときの金額で測る国があると言う人が出てくるでしょう。すると、その計算方法では人間の値打ちがゼロになる国があるという人が出てきます。さらには、それでいくと人間の値打ちがゼロ以下になる国があるという人も出てくるでしょう。彼らは人間を家畜扱いしているのです。(岩波文庫p36)

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 この考えに対する反論は無意味です。なぜなら、そんな反論をすること自体がわたしの考えの正しさを証明しているからです。そもそも、彼らがこれほどご苦心されていることだけを見ても、その苦心が必要であることは明らかでしょう。治療が必要なのは、病気が存在する証拠なのです。

 しかし、この治療法が充分な効き目を現さず、特効薬となっていないのはなぜでしょうか。実際、学者たちのためにこれほど多くの団体が設立されているにもかかわらず、それがかえって学問の目標を見誤らせ、勉強ばかりする人間を作り出してしまっています。この治療法自体、まるで農民はありあまっているが哲学者は不足していると言っているかのように見えるのです。

 わたしはここで、哲学より農業の方が大切だと言いたいのではありません。わたしがここで問題にしたいのは、その哲学の中身なのです。有名な哲学書には一体何が書いてあるかご存知ですか。知性の友と言われるこの人たちは、いったい何ということを教えているのでしょうか。

 彼らの話しているのを聞くと、まるで広場に並んで大声をあげている香具師(やし)の集団かと見まごうほどなのです。「さあいらっしゃい、いらっしゃい、本当のことを知っているのはわたしだけだよ」と。

 ある人は「物質などは存在しない。あるのは人間の観念だけだ」と言い、ある人は、「この世に存在するのは物質だけだ。神など存在しない。宇宙があるだけだ」と言います。

 またある人は「善も悪も存在しない。そんなものは妄想だ」と言い、またある人は「人間は元々は互いに喰らいあっても平気な狼のような存在だ」と言うのです。

 哲学者とはかくも立派な連中なのです。こんな有り難い教えは、発表などせずに、自分の友達や子供たちだけに教えておいてくれたらよかったのです。そうすれば、彼らはすぐにその報いを受けたでしょうし、わたしたちも彼らの考えの信奉者が身内にいるのではないかと心配することもなかったでしょう。(岩波文庫p48,49)
 
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 スピノザやホッブスの書いたものは有名になりましたが、私たちの無知で粗野な祖先たちならそんな本をけっして認めることはなかったでしょう。しかし、そんな本が、今世紀の退廃した道徳のにおいが漂うはるかに危険な書物と一緒に次の世代に伝わり、それと同時に、わが国の学問と芸術がはたした進歩や、それらがもたらした利益が、後の時代に正確に伝えられるのです。もうそうなってしまえば、後の世代の人たちがこれらの本を読んでも、今日のわれわれが論じている問題について何の違和感も感じることはないでしょう。

 しかし、もし彼らがわれわれより馬鹿でないかぎり、彼らは天に両手をさし伸べて、苦々しい思いをしながらこう言うことでしょう。

 「神よ、わたしたちの精神をその手に握っている全能の神よ、わたしたちの先祖が伝えた文化と忌まわしい芸術からわたしたちを解放して下さい。そしてわたしたちを元の無垢で無知で貧しかった昔に戻して下さい。そうなるしか、わたしたちは幸福になることが出来ないのですから。無垢で無知で貧しいことだけが、神の目にとって貴いのですから」(岩波文庫p49,50)
 
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 彼らが努力することを学び、彼らが後に踏破することになる厖大な距離を踏破できるように自らを鍛えたのは、入門時の障害があったからこそなのです。(岩波文庫p52)
 
 

「社会契約論」の場合と同じく、「学問芸術論」も中央公論社の「世界の名著36 ルソー」の中の翻訳が一番すぐれているので、残りはそちらで。
 

誤字脱字に気づいた方は是非教えて下さい。

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