第10歌 願い事はほどほどに





 西はジブラルタルから東はガンジスまで広がるこの世界で、自分の心の迷いを吹き払って、本当の幸福とその正反対のことの違いを見分けることのできる人はまずいない。人が理性に従うかぎり、いったい何かそんなに恐いものが、また何かそんなに欲しいものがあるだろうか。がんばって願い事を叶えたところで、後になって後悔しないような、そんな確実な幸福をもたらす願い事がどこにある。願い事が叶ったおかげで、家族がすっかり崩壊してしまったという不幸な人は多い。平和なときも戦争のときも、人はいつも結局は自分を不幸にすることばかりを願っている。すらすらと流れるように話す弁論の技術は、しばしば本人にとって致命的になる。自分の腕力の強さを過信したために、命を落とした力自慢のレスラーの例もある。しかしながら、それよりも、人並み外れた努力によってせっせと貯め込んだ金の重みに押しつぶされたり、ブリタニアのクジラがイルカより大きいほどに、他人のどんな財産よりも大きな財産を貯め込んだおかげで、身を滅ぼした例ははるかに多い。金持ちのロンギノスの家も、セネカの広大な庭園も、ラテラヌスの立派な館も、あの恐ろしい時代にネロの命令で軍隊に占領された。兵隊がちっぽけな屋根裏部屋にやってくることはないものだ。たとえ小さく飾り気のないものでも、銀製品を携えた夜中の旅は、刃物と棍棒に対する恐怖に満ちたものになる。月影に映る葦の影の動きにさえ、ふるえ上がることだろう。手ぶらの旅人なら盗賊に出会っても鼻歌交じりでいられるはずだ。

 どこの神社でもお祈りといえばまずはお金だ。

 「お金が貯まりますように」

 「広場の誰よりも大きな金庫が持てるようになりますように」

 ところが、貧しい陶器にトリカブトの毒が盛られることはないけれども、金の杯に高級なワインが赤く燃え立つときや、宝石をちりばめた杯(さかずき)を手渡されたときには毒に対する用心が必要になる。

 ここまで聞けば、かの二人の哲学者が一歩自宅を後にして世間に目をやった途端に、一人(デモクリトス)は可笑しくてたまらず、もう一人(ヘラクレイトス)は反対に悲しくてたまらなかったわけが、もうお分かりだろう。もっとも、容赦なく世間を笑いの対象にして批判することは別段珍しいことではないが、ヘラクレイトスの目にどうして涙が貯まったのか不思議ではある。

 そのころの町には、真紅の縁取りをした神官服も、騎士の着る縞柄のローブも、執政官の権威を表わすファスケス(斧に縛り付けた棒の束)も、元老の奥様専用の豪華な駕籠(かご)も、法務官用の立派な判事席もなかったにもかかわらず、デモクリトスは腹の皮をよじらせて笑い続けた。いま法務官がローマの競技場の真ん中の土ぼこりの中で背の高い車の上に意気揚々として立っているところを見たら、デモクリトスはなんと言うだろう。その法務官の着ている上着はシュロの葉の縁取りがついたジュピターのチュニックで、肩からはトュロスの紫地に金の縁取りがつくカーテンのような式服(トガ)が下がり、頭には首がおれるほどの馬鹿でかい王冠が乗っかっているのだ。おまけに、この未来の執政官の慢心をいさめる役で同乗している奴隷が、その王冠を後ろから大汗かきながら支えているのである。それだけではない。この法務官の手には象牙の王笏が握られ、その上には一羽の鷲がとまっているのだ。また、車の前にはラッパ吹きの一団と、この法務官の庇護下にある者たちの長い行列が進み、さらには白い服を着たローマ市民の一団が馬の手綱を取っているという具合だ。しかも、この市民たちの財布は、この法務官の取り巻きになることでせしめた小遣いで膨らんでいる。

 デモクリトスは、自分の生きていた時代でさえ人間の集まる所どこであろうと、笑いの種を見つけ出した。人に立派な手本を示せるような第一級の人間が愚者の国アブデラの濁った空気の中にも生まれることを、この哲学者の知性は証明している。人々の悩みだけでなく、喜びも、ときには悲しみさえも彼は笑いの対象にした。運命の女神が悪い兆しを見せるときでも、女神に対して中指を立てて「くたばっちまえ」と言う男なのだ。

 願い事がこんなにも余計なものか危険なものなら、我々はいったいどんな願いを板に書いて神々の座像の膝に並べるべきなのだろう。

 権力者は往々にしてひどい妬みを買うために、転落の憂き目を見るものだ。要職を歴任した輝かしい経歴が、かえって命取りになる。

 銅像がロープを掛けられて引き倒させれて、その馬車の車輪までもが斧で打たれて粉々にされ、罪なき馬たちの足も砕かれる。いま炎がしゅうしゅうと音をたてたと思うと、炉の中でふいごの風に燃えさかる火は、人々の憧れを集めた銅像の首を焼いている。大物政治家セイヤーヌスが轟音とともに燃えている光景だ。世界で二番目の地位にあった男の首は、いま水差しと、洗面器と、フライパンと、おまるに鋳直されている。

 さあ、お祝いだ。戸口を月桂樹で飾ったら、立派な牡牛を白塗りしてからジュピターの神殿に引いていけ。処刑されたセイヤーヌスの体が鈎(かぎ)で引かれて、見世物にされている。それを悲しむ者など誰もいない。

 「見たか、あの唇を、あの表情を。おれは前からあいつが嫌いだったんだ。ところで、あいつは何で処刑されたんだい? いったい誰があいつを密告し、誰があいつを売り、誰があいつの罪を証言したんだい?」

 「そんなものが要るものか。延々と書きつづられた長い手紙が皇帝の住むカプリ島から届いただけさ」

 「結構。それ以上は聞かなくてもわかる」

 ところで、ローマの一般大衆の反応はと言えば、彼らはいつも罪人を敵視して、勝ち馬に乗りたがる。もし同じ頃に運命の女神がセイヤーヌスに微笑んで、老いた皇帝(ティベリウス)の不意を襲って命を奪っていたなら、彼らはセイヤーヌスにアウグストゥスの称号を与えただろう。我々民衆は、投票権を失って票の売買ができなくなって以来、国政に対する関心をなくしてしまった。かつては政治と軍事の全てにおいて権威のみなもとだった民衆は、今では余計なことは考えずに、もっぱら二つのものだけを、すなわちパンと見世物だけを熱心に求めるようになっている。

 「巻き添えを食って命を落とす人間の数はかなりの数に昇るそうだ」

 「銅像を溶かす炉の広さから言えば当然だ」

 「マルスの社で会った知り合いのブルッティディウスは顔から血の気が引いていたよ」

 「してみると、身の危険を感じた皇帝は、争いに破れたアイアスさながらに、手当り次第に仕返ししないとも限らない。今なら皇帝のかたきの死体が川岸に転がっているから、急いで蹴飛ばしに行こうじゃないか。しかも、その様子を奴隷たちによく見せておくのだ。あとで奴隷に否定されて、青くなって首に縄かけられて法廷にひきずり出されては大変だ」

 これが当時のセイヤーヌスをめぐる会話であり、当時の民衆の秘かなつぶやきだった。いったい誰が、得意の絶頂にあったセイヤーヌスが受けていたような挨拶を受けたいだろう。誰があれほどの富に恵まれて、官職を授けたり将軍を任命したりする権能を託され、カプリの険しい岩場で占い師の一団に囲まれている皇帝の守護者と見なされたいだろうか。

 確かに、誰でも武器を、部隊を、できれば騎士の精鋭と、自分の近衛兵を持ちたいものだ。それはそうだろう。誰かを殺したくはなくても、人の命を左右できる権力を、誰もが欲しがるものだ。だが、いいことがあれば必ず同じだけ悪いことがあるものだとすれば、成功や名声にどれほどの価値があろうか。

 いま引きずられていくあの男のように、高い地位について縁飾りのついた礼服を着るのがいいか、それとも、フィデナかガビイかウルブラエのような寂しい町の役人になって、さえない身なりで、量目争いに裁きを下して、容積不足の計量枡を打ち壊しているのがいいかは明らかだろう。

 ここまでくれば、セイヤーヌスが何を願うべきかを知らなかったということは、誰の目にも明白だ。無限に高い地位を求め、無限に大きな富を求め続けたセイヤーヌスは、幾層にもわたって無限に高い塔を積み上げていたのだ。そこからの転落はますます危険の度を極め、いったんくずれ始めると、一挙に崩壊してしまう塔なのだ。

 クラッススやポンペイウスを破滅させたのは何だったのか。ローマ市民を手なずけて自らの奴隷に変えたシーザーを破滅に導いたのは何だったのか。それが、あらゆる手管を尽くして手に入れた高い地位であり、意地悪な神々によって成就された大きな願いであったことは確かである。王が暗殺の危険にさらされず、独裁者が血にまみれずに、天寿をまっとうして黄泉路の神のもとに降ることはほとんどないのだ。

 小さな通学かばんを抱えた奴隷をお供に従え、まだわずか一アス硬貨の賽銭を握りしめて、知恵の女神ミネルバの祭日に、この女神の社に安上がりのお参りに行く子供たちは、誰もみなまずデモステネスやキケロの雄弁と名声をくださいとお祈りする。

 しかし、この二人の雄弁家はその雄弁ゆえに身を滅ぼした。二人を破滅させたのは、くめども尽きない豊かな才能の泉だったのだ。キケロはその才能のために頭と手首を切り落とされた。もし凡庸な弁護士ならば演壇を自分の血で染めることはなかったはずだ。

 「われ執政官になりし日より幸いなるローマよ」彼の言葉がすべてこの詩のように拙いものだったら、アントニーの剣とは何の関わりもなく一生を過ごせただろう。最も有名な彼の演説『第二フィリッピカ』よりも、こんなこっけいな詩ばかり書いていたほうが、よほどましだったのだ。

 その流れるような弁舌で満員のアテナイの聴衆を魅了したデモステネスもまた、キケロに劣らず非業の死を遂げている。神々に憎まれ、不運を背負って生まれた彼を弁論家の先生のもとに通わせたのは、鍛冶屋を営む彼の父だった。石炭と火箸と鉄床と火で剣を作る埃まみれの仕事場から息子を送り出した彼の父は、焼けた鉱石から出るススのために目がよく見えなかったのだ。

 戦争で勝ち取った戦利品、戦勝記念の木の枝に釘付けにされる鎧(よろい)の胸当て、つぶれた兜(かぶと)に付属するあご当て、壊れた馬車のくびき、分捕った軍船の舟飾り、凱旋門の上で苦悩する捕虜の像、こうしたものがこの世の何にもまさる幸運の印であると思われている。ローマと言わず、ギリシャと言わず、どの国の将軍もみなこれを求めて奮い立つ。これこそあらゆる危険を冒して彼らが奮闘努力する原因なのだ。立派な行動に対する欲求よりも、名声に対する欲求の方が大きくなるわけである。実際、何の報酬もなしに誰が立派な行動をしようとするだろうか。

 しかし、かつて一握りの人間が、自分の栄光のため、自分の名声と称号に対する欲望のために、祖国を滅亡させた例は多い。彼らは自分の遺骨を守る墓石にその称号を刻むつもりなのだが、その墓石も寿命が来たときには、実を結ばぬ無花果の木の残酷な力によって真っ二つに砕かれるのだ。

 ハンニバルがいくら優れた将軍だといっても、その体重を計ってみれば、どれほどの目方があるだろうか。その男が、波荒いモロッコの海から西は暖かいナイル川まで、南は黒人と象の住むエチオピアにまで広がるアフリカを狭しとばかりに飛び出して、スペインを領土に加え、さらにピレネー山脈を越えて来た のだ。雪深いアルプスに、行く手を阻まれても、酢を利用して岩壁を打ち割って山々を粉砕した。そしてとうとうイタリアを占領するに及んだが、彼はさらに前 進しようとして

 「カルダゴの兵士でローマの城門を打ちこわし、その歓楽街の真ん中にカルタゴの旗を立てるまでは、何も成し遂げていないのと同じだ」

 と言ったそうだ。

 ああ、この片目の将軍が象にまたがったその勇姿は、まさに絵に描いたような素晴らしさであったことだろう。で、その彼がどんな最期を迎えたのか。ああ、栄光のむなしさよ。誰もが知るごとく彼もいくさに敗れ、祖国を逃れて、ビトゥニア(小アジア)の王宮のたいそうご立派な居候になった。そして王に対する毎朝の挨拶以外は無為に時間を過ごしたのだ。かつて世界を震撼させたこの男の魂に終わりの時をもたらしたのは、剣でも石でも槍でもなく、自分の指輪に隠した毒だった。かつてカンネーの戦いに勝利したとき、ローマ軍の兵士の死体から大量の指輪を略奪したハンニバルは、こうしてあの戦いで流した大量の血に対する報いを受けたのだ。

 いくさに取付かれた狂人たちよ、子供たちを楽しませ、彼らの模擬演説の材料になりたければ、ハンニバルをまねてアルプスの野山を駆け巡るがいい。

 マケドニアの若きアレクサンダーは、世界を一つ征服しても満足しなかった。不幸な彼は、まるでエーゲ海の小島に閉じ込められた囚人のように、狭い地球に引かれた境界線に苛立った。しかし、その彼もレンガの壁で囲まれた町バビロンに入って命を落としたときは、小さな石の棺で満足したことだろう。死は人の体のいかに小さいことかを明らかにするものだ。

 ペルシャ王クセルクセスがアトス山を船で通り過ぎたとか、海一面を船で覆って道を作って戦車を通したとか、ペルシャ軍が昼食をとったら川がみんな干上がったとか大きな川が涸れたとか、嘘つきのヘロドトスが歴史の本のなかで恥知らずにも書いたことを、我々は信じているが、そのクセルクセスがサラミスのいくさに敗れて帰ったときの姿の惨めなことはどうだろう。

 風の神アイオロスさえ洞窟にいる風たちに加えたことのない鞭打ちの刑を、この異国の王クセルクセスは風たちに課したという。この王が海の神ポセイドンに足かせをはめたのは、王の慈悲のなせるわざだろう。なぜなら、王はこの海に焼印を押すべきだと思っていたという話もあるからだ。だが、いくら奴隷扱いされようとも、神々は誰もこの王の言いなりにはならなかった。

 この王がギリシャから逃げるときの惨めな姿はどうだったか。たった一隻の船で、血に染まった海に漂う死体の群れをかき分けながら、やっとのことで故国へ逃げ帰ったのだ。

 誰もが望む栄光とは、しばしばこうした代償を伴うものである。

 「ジュピターよ、私にたくさんの時間をください。私に長生きさせてください」

 元気な若者もまたこれを願い、病気の老人はひたすらこれだけを願う。しかし、長寿がどれほどたくさんの不幸に満ちているかを考えてみよ。何よりも若い頃とは似ても似つなぬほど醜くゆがんだ老人の顔を見ればよい。人間の皮膚とは思えぬほど変質した顔の皮、垂れ下がった頬肉、北アフリカの海岸沿いの深い森の中に住むという猿の老いた口元に刻まれているのと同じような深い皺を見ればよい。

 若者には人によってさまざまな違いがある。人より美形な者もいれば、人より活発な者もいる。また人よりたくましい者もいる。ところが、老人はみな似たり寄ったりだ。もうろくして、手足にも声にもふるえがきて、頭は薄くなり、鼻からは鼻水が垂れている。情けないことに、パンを歯のない歯茎でかまねばならない。女房や子供たちには気持ち悪るがられ、遺産狙いの男にも吐き気をもよおされて、自分自身うんざりする。舌の感覚が鈍くなって、食べ物もワインも以前と同じようには味わえない。

 性的な快楽にいたっては、どんなものだったかとっくに忘れてしまっている。思い出そうとしても、静脈瘤のできた萎びたペニスには元気がない。一晩中可愛がってももう元気にはなりっこない。白髪の生えた陰部に今さら何が期待できよう。その上、できもしない情事を求める性欲が、あるかどうかさえ大いに疑わしい。

 役に立たなくなった体の器官は他にもある。例えば、金ぴかの衣装をいつも着ている有名な歌手の歌声が、耳の遠い老人にどんな楽しみを与えるだろう。トランペットのファンファーレも聞こえないとしたら、広い劇場のどの席に座っても同じことだ。召使は客の来訪や時間を告げるたびに、主人に聞こえるように大声を出さねばならないあり様だ。

 冷えきった体には血の量が余りに少なく、体温が上がるのは病気で熱が出るときぐらいのもの。あらゆる種類の病気が、隊列を組んで体のまわりを飛び回る。その名前をいちいち挙げるくらいなら、オッピアの浮気相手を、テミソンが秋の間に殺した患者を、バシルスが騙した仲間を、ヒルスが罠に掛けて財産を騙しとった子供たちを、長身のマウラ嬢が一日の間に干上がらせた男たちを、男色家のハミッルスが誘惑した学生たちを、列挙するほうがまだ早い。また、私の若い頃に大きな音を立てて濃い髭を剃ってくれた床屋がいま持っている別荘の数を数えるほうがまだ早い。

 あちらには肩の痛い老人が、こちらには腰の痛い老人が、またこちらには視力を失って、片目の人を羨んでいる老人がいる。さらに、こちらには、血の気のない口元へご飯を運んでもらい、餌で口をふくらませて空腹のまま飛んできた母鳥を見つけたつばめの雛鳥のように、食事を見るとひたすら大きく口を開けている老人がいる。

 しかし、体の不具合の中で一番やっかいなのは頭がぼけることだ。この病に犯されると、召使の名前も、前日の晩に食事をした友達の顔も、自分が生んで育てた子供たちも、誰が誰だか分からなくなる。それから、ひどい遺言を書いて、子供たちを相続人にせず、全財産を遊女のだれそれにやってしまう。売春窟で長年商売をしてきただけあって、彼女のテクニックに満ちた口から漏れる熱い息には、それくらい力があるのだ。

 たとえ頭がもうろくしなくても、長く生きていれば、息子の棺の先導をしたり、愛する妻や兄弟の火葬の薪や、妹たちの骨壺を目にする羽目になる。これが長生きしたことの報いなのだ。年を取るにつれて、家の中で不幸がつぎづきと起こって、悲しみに包まれるようになる。悲しみは止むときがなく、喪服ばかり着て老いの日々を過ごすことになる。

 偉大な詩人ホーマーの言うことを信じるなら、鴉(からす)ほどではないが、ピュロスの王ネストールは長生きの代表だ。三世代つまり百年以上も生きた彼は、きっと幸せものだったろう。それほど長年にわたって毎年ワインの新酒を飲むことができたのだから。しかし、ちょっと待ってくれ。息子のアンティロコスに若くして死なれたときに、ネストールは運命の法則と自分の長寿をどれほど嘆いたか、そして、自分は何のために今まで長生きしてきたのか、どんな罪を犯したからこんなに長生きしているのかを、その場にいた仲間の一人一人に聞いて回ったということを忘れてはならない。息子のアキレスを亡くして嘆いたペレウスも、息子のオデュッセウスが海をさまよっているのを死んだと思って嘆いたラエルテスも、同じように自分の長寿を恨んだのだ。

 トロイの王プリアモスも、息子のパリスが大胆にもヘレンをさらおうと船をつくる以前に死んでいたなら、まだトロイが滅亡しないうちに、トロイの女たちの嘆きの中で、立派な葬儀をしてもらい、息子のヘクトールや他の兄弟たちの肩に棺を担がれて、あの世に旅立つことができたろうに。その頃なら娘のカッサンドラもポリュクセナも、衣を裂いて悲しみの行列の先頭に立てたことだろう。いったい、長生きしたおかげで彼が手にしたものは何だろう。それは、全てがひっくり返って、小アジアの帝国が炎と剣によって滅亡する光景でしかなかった。そしてその時、王冠を外して武器取り、足元さえおぼつかない一兵士に成り下がったプリアモスは、最高神ゼウスの祭壇の前で倒れたのだ。その様子はまるで、長年の労苦も報われることなく老いを迎え、鍬を引く力のなくなった牡牛が、主人のナイフの前にみすぼらしい首を差し出すのとそっくりだった。

 とにもかくにもプリアモスは、人間として最期を迎えたのだが、その後も生き延びた彼の妻ヘカベは、神によって恐ろしい雌犬に姿を変えられ、大口を開けて吠えたりうなったりした。

 賢者ソロンの雄弁によって、人生の幸不幸は最期を見なければ分からないと諭されたリディア王クロイソスの話や、ポントスの王ミトリダテスの話は省略して、急いで我々ローマ人の例に移ろう。

 かのマリウスが政敵に追われて、アッピア街道沿いの沼に隠れなければならなかったのも、見つかって投獄されたのも、その後亡命生活を余儀なくされたのも、かつてローマが打ち負かしたカルタゴで物乞い生活しなければならなかったのも、すべては彼が長生きしたことの結果である。もしテュートン人の討伐後、大量の捕虜をつれてローマをパレードしたのちテュートン人の戦車からまさに降りようとしたあの得意の絶頂の瞬間に、彼が息を引き取っていたなら、彼ほど幸せなローマ市民はこの世に二人と出なかっただろう。

 また、ポンペイウスがカンパニア地方で熱病にかかったことは、その後の経緯(いきさつ)を考えれば、実に僥倖(ぎょうこう)と言うべきだった。しかし、多くの町の多くの人たちの祈りが通じて、彼の病気は直ってしまった。こうしてローマとポンペイウスは、運命の女神によっていったん命を救われたけれども、結局ポンペイウスは後の戦いでシーザーに敗れて、首を切り落とされることになったのである。国家転覆罪で殺されたレンテュルスもカテグスも、こんな残酷な目に会うことはなかったのだ。その首謀者カティリナさえも、五体は完全なまま戦場で討ち死にしたのである。

 熱心な母親ならビーナスの神殿を目にすると、子供が男の子ならハンサムな子になりますようにと小さな声で、子供が女の子なら美人になりますようにと大きな声で、身の程知らずなお願いをするものである。そしてこういうのだ。

 「何が悪いの。ラトーナ様も娘の女神ディアナが美人になったことをお喜びだわ」

 しかし、凌辱を受けて自害したルクレティアは、自分のような美しさを願うべきでないと人々にすすめ、ウェルギニアはせむしのルティラの背中の膨らみと自分の胸の膨らみを交換したいと思ったはずだ。

 一方、ハンサムな息子は親にとって心配の種となる。男前の子が奥手であることはまずないからだ。昔のサビニー人の厳格な風習を見習ったような素朴な家庭に育って、汚れない生き方をして、幸いにも生まれつきおとなしい性格で、恥ずかしいとすぐに顔が赤くなるような(どんな保護者よりも赤面症の方が子供を悪徳から守るのに役立つものだ)男の子であったら、今度はその子は大人の男にはならせてもらえない。この子を誘惑するためなら、金に糸目を付けない連中が、まず親をたらしこみにかかる。買収ほど確実な手段はないからだ。醜い男の子を残酷な独裁者が宮廷の宦官にしたという話は聞いたことがない。がにまたの子、こぶのある子、お腹のふくれた子、せむしの子をネロはけっしてレイプしなかった。

 自分の息子がハンサムだと言って喜ぶ親たちよ、よく聞くのだ。その子には十人並みの子よりも大きな危険が待ち受けている。あちこちで不倫を働いて、あげくに怒った亭主の仕返しを恐れなければならなくなる。浮気の現場を網で捕まえられた不運な神マルスよりも運がいいとは限らないのだ。怒った亭主は 法の定めを超えた仕返しを求めるものだ。刃物で刺し殺される者もいれば、むちで血が出るほど打たれる者もいる。さらには、魚のボラを尻に突き刺される者もいる。

 確かに、お宅のエンデュミオン(=ハンサムボーイ)は自分の惚れた一人の女性の愛人になるだけかも知れない。しかしすぐに、金をくれる好きでもない女の愛人になって、その女の宝石から何から身ぐるみはがすようになる。その女がオッピアかカトュッラかは知らないが、濡れた股間の女が何を拒否できよう。身を持ち崩した女の人格は、全てそこにあるのだから。

 「だけど、汚れのない生き方をしているなら、美しいことのどこが悪い?」

 しかし、義理の母パエドラに誘惑されたヒッポリュトスと、旅先の女主人ステネボエアに言い寄られたベレロフォンにとって、純潔を守る固い決心が何の役に立っただろうか。拒否されたパエドラは馬鹿にされたと赤面し、ステネボエアは怒りに震えた。その挙げ句に二人の女は、彼らに不倫の罪を押しつけたのだ。女は誇りを傷つけられて憎しみを抱いたときが一番残酷になる。

 皇帝の妻メッサリナが結婚すると決心した相手の男に、人は一体どんな助言ができるだろう。名門の出で飛び抜けてハンサムだったこの男は、気の毒にもメッサリナの目に留まったことで破滅の道に引き込まれた。

 女はすでに結婚のベールに包まれて座っている。また、紫に染めた婚姻の床は庭に伸べられて、誰の目にも明らかになっている。そして、仕来りどおり、持参金が百万渡されることになっている。おまけに、結婚式の立ち会い人が証人を連れて来ることになっているのだ。おまえはこの結婚がだれにも知らされず秘密にされると思っていたというのか。だが、さにあらず。女は正式の結婚でなくては嫌だと言うのだ。さあ、どうする。もし女の言いなりになりたくなければ、 日が暮れる前に死ぬしかない。また、この大罪をあえて犯しても、しばらくの時間稼ぎはできるだろう。だが、それも事件が町中の人たちに知れ渡って、皇帝の耳に達するまでのことだ。最後には皇帝クラウディウスも自分の家の不祥事を知るだろう。もしそれまでのわずかな人生がそれほどありがたいなら、その間メッサリナの言うがままにするがいい。おまえがどちらを良しとしようと、どちらが楽だと思おうとも、そのきれいな白い首を剣の前に差し出さねばならないのは変わらない。

 それでは何も神にお祈りしてはいけないのか。もし私にひとこと言わせてもらえるなら、どんな幸福が自分自身にふさわしいか、何が自分に役立つかを決めるのは神様に任せることだ。神様は、喜ばしいものではなく、常に最もふさわしいものを下さるだろう。人間が自分のことを考えている以上に、神様は人間 のことをよく考えて下さっている。我々人間は一時の感情と、盲目の衝動に突き動かされて、結婚して妻と子供を持ちたくなるが、どんな女を妻とし、どんな子供が生まれてくるかは神様がご存じなのだ。

 それでも、白豚の臓物やソーセージを神殿にお供えして、何か願いごとを神様にお祈りしたいのであれば、心身ともに健康であることを祈るがよい。死に対する恐怖から解放され、長生きを自然の恵みのうちでも最低のものと考え、どんな苦労にも耐え、怒らず、何も欲しがらず、美食と贅沢と快楽に溺れたアッ シリアの最後の王サルダナパルスよりも、人類のために厳しい苦難に耐えたヘラクレスの方が素晴らしいと思えるような、健全な心を求めるがよい。私が勧めること は、すべてだれでも自分で出来ることばかりである。自らの行ないを正しくしさえすれば、人生を平穏に過ごす道は必ず開かれる。

 運命の女神よ、我々に知恵さえあるなら、そなたには何の力もない。そなたを神の座に祭り上げたのは我々人間なのだから。


使用したテキストと注釈は JUVENAL THE SATIRES by John Ferguson(1979 Macmillan)
である。

 誤字脱字に気づいた方は是非教えて下さい。

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