『枕草子春曙抄』本文



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 これはYuhodoのMakuranososhiをヴァージニア大学のSachiko Iwabuchi氏が入力し
公開されてゐるものを、 北村季吟古注釈集成3、4『枕草子春曙抄(上下)』(新典社)の草書体の
影印テキストと読み比べながら、文字の食ひ違ひを正し、漢字に振り仮名を付け、
かなの一部を漢字化した。その場合、必要に応じて元のかなは( )に入れて残した。
送り仮名は原文より多くなつてゐる。例へば「思ひ出(いで)」は「思ひ出(い)で」。

(・・・)はふりがな、(イ・・・)は北村季吟による異本の読み方の注、
(=・・・)はこの頁の編者による主語や意味の注釈あるひは写本情報(詳しくは末尾)、
注釈は春曙抄から読むことを想定してここが最もくわしい。
<・・・>は春曙抄本文にはなく、脱落したとして他の本から補ふべきもの、
仮名遣ひはすべて歴史的仮名遣ひによつた。
段数は春曙抄にはなく、
各段の前にある漢数字は『枕冊子全注釈』による段数、
各段の最後に付した算用数字は新典社版『枕草子春曙抄』(上下)にあるその段の冒頭にあるページ数(上下の別はない)である。


巻一

枕草紙は、清少納言の筆作也。少納言は、清原ノ元輔(モトスケ)のむすめなれば、其姓(シヤウ)を用ひて、清少納言といへり。父の元輔は後撰(ゴセン)集の撰者梨壺(ナシツボ)の五人のひとり也。[天暦五年梨壺にて、能宣、元輔、順、時文、望城等、後撰を選べり]
  清原氏系図

天武天皇-舎人(イエヒトノ)親王[日本紀撰者]-貞代王-有雄(ヲ)-通雄(ミチヲ)[清原ノ姓ヲ賜(タマ)フ]-海雄[筑前守]-房則(フサノリ)[豊前守]-深養父(フカヤブ)[内近ノ允(=じょう)蔵人所ノ雑色]-顕正(アキタダ)[イ泰光下野守]-元輔[肥後守]-清少納言[此草紙の作者也]

玄旨法印(=細川幽斎、1534~1610年)ノ御説に、「清少納言は、一条院(=一条天皇の諱、在位986~1011年)の皇后宮の女房」と云々。此皇后宮と申し侍るは、中(ナカノ)関白道隆(タカ)公の御むすめ、定子と申し侍りし。此草紙の所々に、宮のお前と侍る是也。然るに、栄花物語に、三条院(在位1011~1016年)の女御淑景舎(シゲイシヤ)[道隆公女定子妹]の御もとに、宮づかへせしよし見えたり。愚案ルニ、此草紙に、淑景舎(シゲイシヤ)の御事は所々に出でたれど、此御局(ミツボネ)に宮づかへせし事は見え侍らず。但、此草紙にあらはせる人々の、官(クワン)などを勘(カンガ)へ侍れば、一条院の長徳年中、長保元年、二年(995~1000年)などの事どもにて、其のちの事見えざるにや。彼皇后宮は、長保二年十二月十五日にかくれさせ給へり。淑景舎は、三条院の東宮にておはしましけるほどに(=三条天皇の皇太子時代に)、まゐり給ひて、四年ばかりや宮づかへし給へりけん。さて長保四年(1002)八月廿日にかくれ給へれど、猶皇后宮には、二とせいきのこり給ひければ、かの皇后宮隠(カクレ)給ひてのち、はらからの御かたなれば、もし清少納言もまゐりかよひたるにや。然らば、栄花物語に赤染衛門のしるせる所は、此草紙かける後の事にてや侍らん、可尋之。

新古今集ニ云、(=巻第十六 雑歌上 1580)「元輔がむかしすみ侍りける家のかたはらに、清少納言すみける頃、雪いみじうふりて、へだての垣もたふれ侍りければ、申しつかはしける。赤染衛門

 跡もなく雪ふる里は荒れにけり[家集たるを]、いづれ昔(むかし)の垣(かき)ねなるらん[家集とかみる]」。

又玄旨法印百人一首抄云、「清少納言老後には、四国の方(かた)におちぶれたるもの」と云々。愚案スルニ、一条院の御代のはじめに、道隆公関白し給ひ、定子皇后宮に立ち給ひて、御威光(イクワウ)もめでたかりしに、清少納言も、かの皇后宮にめしまつはされて、上臈の次にてまじらひ、其才(ざへ)いみじかりければ、内侍になすべき沙汰などの事、此草紙に見えたり。しかるに、中ノ関白殿道隆かくれさせ給ひて、御兄弟ながら、御中よからざりし御堂殿、関白し給ひて、上東門院入内ありて、中宮に立たせ給ひなどして、後には、伊周公、隆家卿など遠流の事ありき。皇后宮は、女みこ男みこなどうませ給ひけれど、ほどなくかくれさせ給ひ、御いもうとの淑景舎(しげいしや)も、うちつづきてうせ給へれば、彼御かたの人は時をうしなひて、成り出づべきやうもなくなりゆきしに、清少納言も、さるあれたる所にすみ、四国にもさまよひ給ひしにこそ。此草子にも其昔をしたふ思ひをのべて、此皇后宮の御威勢ありしほどの事を、所々に書きあらはし、我身の世にほめはやされし事ども、数多(=あまた)かかれ侍しにや。或説に、清少納言誓願寺にて出家して、帝の御かへりみをかうぶり、いみじき往生をとげて、彼寺に墓も有りと、縁起に見ゆ。時代にあはで、一旦はおちぶれしかども、終焉(しうえん)のさまはいみじかりけん事、才ありし人の、しるしめでたく侍るにや。

題号を枕草紙といへる心は、此草紙に「ことことなる物」「めでたき物」など枕詞をかきて、さてそれそれと書つらねられたれば、枕草紙といへるにや。但し、此草紙の奥に云ク、「宮のおまへに内のおとどの奉り給へりしを、『是に何をかかまし。うへの御前には、史記(シキ)といふ文(フミ)をなんかかせ給へる』、とのたまはせしを、『枕にこそはし侍らめ』、と申ししかば、『さはえよ』、とて賜はせたりしを、あやしきを、こよ(イこじ)や何やと、つきせずおほかるかみのかずを書きつくさんとせしに、いと物おぼへぬことぞおほかるや」と云々。枕にこそし侍らめとて、申しうけたる物にかかれたる草紙なれば、まくらざうしと、申し侍るなるべし。草紙は、双紙ともかけり。草紙は、物の下がきを草案(アン)、草稿(カウ)などいへる。其心にて、いまだ清書をもしあへざる物とのこころにや。双紙は、かみをならべてかきつらねし心なるべし。いづれも、昔物がたりなどの惣名(=そうみやう)をいふ也。

此さうしの文体、やごとなき物にて、我国の至宝(シハウ)といはれし源氏物語に双び称(セウ)せられて源氏・枕草紙と、申しつづけ侍るにや。吉田の兼好ほうしがつれづれ草にも、此草紙を庶幾(=真似)せる所々おほし。其筆のあや、詞の優美(イウビ)、心の幽玄(イウゲン)、更にいはんも、いまめかしき義なるべしや。

此草紙、異本さまざまあり。或は二冊、或は三冊、或は五冊、一決(ケツ)しかたし。古今和歌集、後撰集、源氏物語等は、定家卿の証本ありて、世に定まり侍るに、枕草紙には、いまだ此卿の御本を見出だし侍らず。承應(=じょうおう)二年(1653年)の春、尾州より一本を得たり[上下二冊]。其本、紙ふるく、手跡中古の筆体なりき。其文意、あざやかにて、所々に朱点をくはへ、且又、人々の伝、官考などしるされたり。奥に異本両通かきくはへられ侍りしは、此本、多本を合せて、用捨(ヨウシヤ)せられし事しられ侍り。其奥書ニ云ク、

往時所持之愚本紛失季久、更借出一両之本、令書写之、依無証本不散不審、但管見之所及、勘合旧記等註付時代季月等、謬案歟

往時所持之愚本紛失シテ季(トシ)久シ、更ニ一両之(ノ)本ヲ借出テ之ヲ書写セ令ム、証本無キニ依テ不審不散、但管見之(ノ)及ブ所、旧記等ヲ勘合テ註(チユウシ)付ク時代季月等ヲ、謬案歟(ナカランカ)

安貞ニ季三月 耄及愚翁[在判]

文明乙未之仲夏、広橋亜槐実相院准后本、下之本末両冊、見示曰、余書写所希也、厳命弗獲黙馳禿毫、彼旧本不及切句、此新写読而欲容易、故比校之次加朱点畢

文明乙未(七年1475)之仲夏、広橋ノ亜槐(アクハイ)、実相院ノ准后(ゴウ)ノ本ヲ送ル、下之(下巻の)本末両冊、見示(シメサレテ)曰ク、余ガ書写希(コヒネガフ)所也、厳命(=将軍義政の命)弗獲黙(モクスルヲエズ=無視できない)禿毫ヲ馳(ハス)、彼ノ旧本ハ句ヲ切ルニ不及(=句読点がないので読みにくい)、此ノ新写読ミ而(テ)容易(ナラント)欲ス、此ノ故ニ之ヲ校シ次ニ朱点ヲ加畢

  正二位行権大納言藤原朝臣教秀

此耄及愚翁誰人にや。勘物(カンガヘモノ)は此作にて、朱点は教秀(ノリヒデ)卿と見ゆ。此奥書のさま、証本と用ひ侍らんに、とがあるまじくや。又一本[上下二冊]、堺本とて、宮内卿清原氏の奥書あり。発端より一紙がほどは、よのつねの本に大かた似て、其次枕詞の次第など大きに異(コト)也。又、清少納言の歌よみし物語一段も、書つらねず。此本も、先達の用ひ給へる由の、奥書など見えたれど、只、此耄及愚翁(モウギユウグヲウ)、教秀卿(ノリヒデキヤウ)等(トウ)の奥書の本のおもむきを、古人の用ひ給へる証拠おほし。まづ、後拾遺、千載集、新古今、続古今、玉葉集等にいりし清少納言の歌詞書までも、皆此本のさまと見えたり。其外、順徳院の禁秘抄、八雲御抄等に、「清少納言が記にあり」、としるさせ給へる事ども、又、基俊の悦目抄に、香炉峰(カウロホウ)の雪の事あり。兼好法師が徒然(ツレヅレ)草に、「かれたる葵(アフヒ)の事」などかけるも、此草紙の此本をもちひられし事なるべし。又、此本のたぐひにも、少々異本(イホン)ありて、所々かはりめありといへど、多本を見合せて、中によろしきを用ひ侍りし。

此草紙に、中古に季経の抄十冊ありと聞き伝へ侍れど、いまだ見侍らず。只、多年此草紙をよみて、心に会(クワイ)する事あれば、食をも忘れて、かきくはへおき侍りし。禁中の事どもは、延喜式、西宮(サイキユウ)抄、北山抄、又、此草紙より後の書ながら、其事のたよりあれば、江次第(=ガウシダイ)、禁秘抄、雲図抄(ウンヅセウ)、二条太閤御所(=持通)の年中行事の歌合の註、一条ノ禅閣(ゼンカク)御所(=兼良)の公事根源などをかんがへ、官位の事は、官位令(リヤウ)、職原抄、百寮訓要(レウクンエウ)抄などを用ひ、家々所々は順(シタガフ)の和名集、拾芥抄(=シフガイセウ)に勘(カンガ)へ、名所は歌枕等ありといへど、此草紙をよく沙汰せさせ給へる故に、八雲ノ御抄をとり分きて用ひ侍り。彼耄及愚翁の勘物にもらせる人々の官考(クワンカウ)、系図(ケイヅ)、伝(デン)などは、公卿補任(フニン)、大系図、栄花物語、大鏡、作者部類等にておぎなへり。引歌は、万葉集、古今六帖(ココンロクデウ)、三代集よりこのかた、代々の撰集(センジフ)、家々の集等に勘(カンガ)へ、神社は、日本紀、三代實録(ジツロク)、延喜式など、卜部(ウラベ)の家説(カセツ)等を引きまじへ、仏のうへは其経々を勘へ、古語は、漢家(カンカ)の諸書(シヨシヨ)にかんがへ、古詩は、文選、文集のたぐひ、菅家文草、本朝文粋、朗詠集など用ふといへど、猶、我朝の詩文には、疑(ウタガ)はしきを闕(カ)く事おほし。此国の詩集(シシウ)、数多は見侍(パンべ)らねば也。衣服(イフク)の色々は、飾抄(カザリセウ)、桃華蘂葉(タウクワズイエフ)など、河海抄(カカイセフ)、花鳥余情などの類(タグヒ)、やまと詞の品々(シナシナ)は、源氏、伊勢物語の諸抄を証(シヨウ)とし、土佐日記、大和物語、狭衣(サゴロモ)、宇治拾遺(シフヰ)、古今著聞(チヨモン)、江談(ガウダン)、おちくぼ等の古物語、其外、多年見し所の歌書の中にて、この双紙の便りとすべきを用ひ註(チユウ)して、偏(ヒトへ)に門人の歌学(カガク)のためとし侍り。


一 春は曙(あけぼの)、やうやう白くなりゆく、山際(やまぎは)すこし明かりて、紫だちたる雲の細く棚引きたる。

 夏は夜(よる)、月の頃はさらなり、闇もなほ蛍飛びちがひたる、雨などの降るさへをかし。

 秋は夕ぐれ、夕日はなやかにさして、山際いと近くなりたるに、烏(からす)の寝どころへゆくとて、三つ四つ二つなンど飛びゆくさへあはれなり。まいて雁などの連(つら)ねたるが、いとちひさく見ゆる、いとをかし。日入り果てて、風の音(おと)、虫の音(ね)なンど、いとあはれなり。

 冬は雪の降りたるは、言ふべきにもあらず。霜なンどのいと白く、またさらでもいと寒き。火なンど急ぎおこして、炭持て渡るも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもてゆけば、炭櫃(すびつ)・火桶(ひをけ)の火も、白き灰がちになりぬるはわろし。15 


二 頃(ころ)は、正月(しやうぐわつ)、三月、四五月(しごぐわつ)、七月、八九月(はつくぐわつ)、十月、十二月、すべてをりにつけつつ、一年(ひととせ)ながらをかし。16 


三 正月(むつき)一日(ついたち)は、まいて空の景色(けしき)うらうらと珍(めづら)しく、霞(かすみ)こめたるに、世にあるとある人は、姿容(すがたかたち)心ことにつくろひ、君をも我身をも祝ひなンどしたるさま、殊(こと)にをかし。

 七日(なぬか)は、雪間(ゆきま)の若菜(わかな)青(あを)やかに摘(つ)み出(い)でつつ、例(れい)は、さしも、さる物目近(めぢか)からぬ所(=高貴な所)に、持てさわぎ、白馬(あをむま)見んとて、里人は車清(きよ)げにしたてて見にゆく。中の御門(みかど=待賢門)の戸閾(とじきみ=敷居)引き入るる程(ほど)、頭(かしら)ども一所(ひとところ)にまろびあひて、指櫛(さしぐし)も落ち、用意(ようい)せねば折れなンどして、笑ふもまたをかし。左衛門(さゑもん)の陣(ぢん)などに、殿上人あまた立ちなンどして、舎人(とねり)の馬どもをとりて(イ弓ども取りて馬ども)驚(おどろ)かして笑ふを、僅(はつか)に(=私たちが)見入れたれば、立蔀(たてじとみ)などの見ゆるに、主殿司(とのもりづかさ)、女官(によくわん)などの、行(ゆ)きちがひたるこそをかしけれ。いかばかりなる人、九重(ここのへ)をかく立ち馴らすらんなど思ひやらるる。内(うち)にも見るはいと狭(せば)きほどにて、舎人(とねり)が顔(かほ)の衣(きぬ=肌)もあらはれ、白き物(=おしろい)の行きつかぬ所は、真(まこと)に黒き庭に雪のむら消(ぎ)えたる心地して、いと見ぐるし。馬のあがり騒ぎたるも恐ろしく覚ゆれば、引き入られてよくも見やられず。

 八日、人々よろこびして(イいはひして)走りさわぎ、車の音も、つねよりはことに聞こえてをかし。

 十五日は、望粥(もちかゆ)の節供(せく=節供の料理)まゐる(=差し上げる)。粥の木ひき隠して、家の御達(ごだち)、女房(イニ家の子の君だちわかき女房=能因本)などのうかがふを、打たれじと用意(ようい=注意)して、常に後(うしろ)を心づかひしたる気色もをかしきに、いかにしてけるにかあらん、打ちあてたるは、いみじう興(きよう)ありとうち笑ひたるも、いと栄々(はえばえ)し。妬(ねた)しと思ひたる、ことわりなり。

 去年(こぞ)より新しう通ふ婿の君などの、内裏(うち)へ参るほどを、心もとなく、所につけて我はと思ひたる女房ののぞき、奥の方(かた)にたたずまふを、前にゐたる人は心得て笑ふを、「あなかま、あなかま」と招きかくれど、君(きみ=姫君)見知らず顔にて、おほどかにて居給へり。「ここなる物とり侍(はべ)らん」など言ひ寄り、走り打ちて逃ぐれば、あるかぎり笑ふ。男君(をとこぎみ)も憎からず愛敬(あいぎやう)づきて笑(ゑ)みたる。(=女君も)ことに驚かず、顔少し赤みてゐたるもをかし。また互(かたみ)に打ちて、男(をとこ)などをさへぞ打つめる。いかなる心にかあらん、泣き腹立ち、打ちつる人を呪ひ、まがまがしく言ふもをかし。内(うち)辺(わた)りなど、やむごとなきも、今日(けふ)はみな乱れて(=慶安刊本。能因本は「みだれたる」)、かしこまり(=遠慮)なし。

 除目(ぢもく=人事異動)の程など、内裏(うち)辺(わた)りはいとをかし。雪降り、氷(こほ)りなどしたるに、申文(まふしぶみ=任官申請書)持てありく。四位五位、若(わか)やかに心地よげなるは、いとたのもしげなり。老いて頭(かしら)白きなどが、人にとかく案内(あんない)言ひ、女房の局(つぼね)に寄りて、おのが身のかしこきよしなど、心をやりて説き聞かするを、若き人々(=女房たち)は真似をし笑へど、いかでか知らん。「よきに奏し給へ、啓し給へ」など言ひても、得たるはよし、得ずなりぬるこそ、いとあはれなれ。

 三月(やよひ)三日(みか)、うらうらとのどかに照りたる。桃の花の今咲き始むる。柳などいとをかしきこそ更(さら)なれ。それもまだ、繭(まゆ)にこもりたるこそをかしけれ。広(ひろ)ごりたるは憎し。花も散りたる後(のち)はうたてぞ見ゆる。おもしろく咲きたる桜(=能因本は「梅」)を長く折りて、大きなる花瓶(がめ)にさしたるこそをかしけれ。桜(=能因本は「梅」)の直衣(なほし)に、出袿(いだしうちぎ)して、客人(まらうど)にもあれ、御兄(せうと)の君達(=定子皇后の兄弟)にもあれ、そこ近くゐて物などうち言ひたる、いとをかし。その辺(わた)りに、鳥、虫の額(ひたひ)つきいと美しうて飛びありく、いとをかし。

 祭の頃はいみじうをかしき。木々の木(こ)の葉、まだ繁(しげ)うはなうて、若やかに青みたるに、霞も霧も隔てぬ空の景色の、何(なに)となくそぞろにをかしきに、少し曇りたる夕つかた、夜(よる)など、忍びたる郭公(ほととぎす)の、遠う空耳(そらみみ)かと覚ゆるまで、たどたどしきを聞きつけたらん、何心地かはせん。

 祭近くなりて、青朽葉(あをくちば)二藍(ふたあゐ)などの物ども押し巻きつつ、細櫃(ほそびつ)の蓋(ふた)に入れ、紙などにけしきばかり包みて、行(ゆ)きちがひ持てありくこそをかしけれ。末濃(すそご)斑濃(むらご)巻染(まきぞめ)など、常よりもをかしう見ゆ。童女(わらはべ)の頭(かしら)ばかり洗ひつくろひて、形(なり=服装)はみな痿(な)えほころび(=写本は「ほころびたえ」)、うち乱れかかりたるもあるが、屐子(けいし)沓(くつ)などの緒(を)すげさせ、裏をさせなど、もて騒ぎ、いつしかその日にならんと、急ぎ走りありくもをかし。怪しう踊りてありく者どもの、装束(さうぞ)きたてつれば、いみじく定者(ぢやうざ)といふ法師(ほふし)などのやうに、練りさまよふ(イいかに心もとなからん。=能因本)こそをかしけれ。ほどほどにつけて、親(おや)・伯母(をば)の、嫗(おんな)・姉などの供(とも)して、つくろひ歩くもをかし。16 


四 ことことなるもの(=異言なるもの)

 法師の言葉(ことば)。男女(をとこをんな)の言葉。下衆(げす)の言葉には必ず文字余りしたり。26 


五 思はん(=愛する)子を法師になしたらんこそは、いと心苦しけれ。さるは、いとたのもしきわざを、ただ木の端(はし)などのやうに思ひたらんこそ、いといとほしけれ。精進物(さうじもの)の悪(あ)しきを食ひ、寝(い)ぬるをも。若きは物もゆかしからん。女などのある所をも、などか忌みたるやうに、さし覗(のぞ)かずもあらん。それをも安からず言ふ。まして、験者(げんじや)などの方(かた)は、いと苦しげなり。御嶽(みたけ)、熊野(くまの)、かからぬ(=至らぬ)山なく歩くほどに、恐ろしき目も見、験(しるし=効き目)ある聞こえ出できぬれば、ここかしこに呼ばれ、時めくにつけて安げもなし。いたく患(わづら)ふ人にかかりて、物怪(もののけ)調(てう)ずるも、いと苦しければ、困(こう)じてうち眠(ねぶ)れば、「ねぶりなどのみして」と咎(とが)むるも、いと所狭(ところせ)く(=窮屈で)、いかに思はんと。これは昔のことなり。今様はやすげなり。26 


六 大進(だいしん)生昌(なりまさ)が家に、宮の出でさせ給ふに、東(ひんがし)の門(かど)は四足(よつあし)になして、それより御輿(みこし)は入(い)らせ給ふ。北の門(かど)より女房の車ども、陣屋(ぢんや)の居ねば入りなんやと思ひて、髪(かしら)つきわろき人も、いたくもつくろはず、寄せて下(お)るべきものと思ひあなづりたるに、檳榔毛(びらうげ)の車などは、門ちひさければ、さはりてえ入らねば、例の筵道(えんだう)敷きておるるに、いと憎く腹立たしけれど、いかがはせん。殿上人(てんじやうびと)、地下(ぢげ)なるも、陣に立ち添ひ見るも妬(ねた)し。

 御前(おまへ)に参りて、ありつるやう啓すれば、「ここにも人は見るまじくやは。などかはさしも打ち解け(=油断)つる」と笑はせ給ふ。「されど、それは(=この方が)皆目馴れて侍れば、よくしたてて侍らんにしこそ驚く人も侍らめ。さても、かばかりなる家に、車入らぬ門やはあらん。(=大進が)見えば笑はん」など言ふ程にしも、「これまゐらせん」とて、御硯などさしいる。「いで、いと悪ろくこそおはしけれ。などてかその門(かど)狭(せば)く造(つく)りて、住み給ひけるぞ」と言へば、笑ひて、「家の程、身の程に合はせて侍るなり」と答(いら)ふ。「されど門(かど)の限りを、高く造りける人も聞こゆるは」と言へば、「あな、おそろし」と驚きて、「それは于定国(うていこく)(イニうこう)がことにこそ侍るなれ。古き進士(しんし=文章生)などに侍らずば、承(うけたまは)り知るべくも侍らざりけり。たまたまこの道にまかり入りにければ、かうだに弁(わきま)へられ侍る」と言ふ。「その御道もかしこからざンめり。筵道敷きたれば、皆おち入りて騒ぎつるは」と言へば、「雨の降り侍れば、実(げ)にさも侍らん。よしよし、また仰せ掛くべき事もぞ侍る、罷(まか)り立ち侍りなん」とて往(い)ぬ。「何事ぞ、生昌(なりまさ)がいみじう怖(お)ぢつるは」と問はせ給ふ。「あらず、車の入らざりつること言ひ侍る」と申しておりぬ。同じ局に住む若き人々などして、万(よろづ)の事も知らず、ねぶたければ皆寝ぬ。東の対(たい)の西の廂(ひさし)かけてある北の障子(さうじ)には、掛け金(がね)もなかりけるを、それも尋ねず。家主(いへぬし)なれば、案内(あんない)をよく知りて開けてけり。あやしう涸(か)ればみたる者の声にて、「候(さぶら)はんにはいかが」と数多(あまた)たび言ふ声に、驚きて見れば、几帳(きちやう)の後(うしろ)に立てたる灯台(とうだい)の光も(=慶安刊本。能因本は「火の光は」)顕(あらは)なり。障子(さうじ)を五寸ばかり開けて言ふなりけり。いみじうをかし。更にかやうの好き好きしきわざ、ゆめに(イゆめゆめ)せぬ者の、(=定子が)家におはしましたりとて、無下(むげ)に心にまかするなンめりと思ふもいとをかし。

 わが傍(かたは)らなる人を起して、「かれ見給へ、かかる見えぬものあンめるを」と言へば、頭(かしら)をもたげて見やりて、いみじう笑ふ。「あれは誰(た)そ。顕証(けそう)に」と言へば、「あらず。家主人(いへあるじ)、局主人(つぼねあるじ)と定め申すべき事の侍るなり」と言へば、「門の事をこそ申しつれ、『障子(さうじ)開(あ)け給へ』とやは言ふ」「なほその事申し侍(はべ)らん、そこに候はんはいかにいかに」と言へば、「いと見苦しき事、更にえおはせじ」とて笑ふめれば、「若き人々おはしけり」とて、引き立てて往ぬる後(のち)に笑ふ事いみじ。開けぬとならば、ただまづ入(い)りねかし。消息(せうそこ)をするに、よかンなりとは誰(たれ)かは言はんと、げにをかしきに、翌朝(つとめて)御前(おまへ)に参りて啓すれば、「さる事(=そんな人だとは)も聞こえざりつるを、昨夜(よべ)のことに愛(め)でて、入りにたりけるなンめり。(=あなたが)あはれ彼(あれ)をはしたなく言ひけんこそ、いとほしけれ」と笑はせ給ふ。

 姫宮(=脩子内親王)の御方(かた)の童女(わらはべ=侍女)の装束(さうぞく)せさすべきよし仰せらるるに、「童(わらは)の衵(あこめ)の上襲(うはおそひ)は何色(なにいろ)に仕(つかうまつ)るべき」と申すを、また笑ふもことわりなり。

 「姫宮の御前の物(=膳部)は、例のやうにては憎げに候(さぶら)はん。ちうせひ(=慶安刊本。能因本は「ちうせい」)折敷(をしき)、ちうせひ高杯(たかつき)にてこそよく候はめ」と申すを、「さてこそは、上襲(うはおそひ)着(き)たる童女(わらはべ)もまゐりよからめ」と言ふを、「なほ例の人の(イつらにこれなわらひそ=能因本)やうにかくな言ひ笑ひそ、いと生(き)直(すぐ)(イきんかう=三巻本)なるものを、いとほしげに」と制したまふもをかし。中間(ちうげん)なる折(をり)に、「大進もの聞こえんとあり」と人の告ぐるを聞し召して、「またなでふこと言ひて笑はれんとならん」と仰せらるるもいとをかし。「行(ゆ)きて聞け」とのたまはすれば、わざと出でたれば、「一夜(ひとよ)の門のことを中納言(=兄)に語り侍りしかば、いみじう感じ申されて、いかでさるべからん折に対面(たいめん)して、申しうけ給はらんとなん申されつる」とて、又事もなし。一夜(ひとよ)のことや言はんと、心ときめきしつれど、「今静(しづ)かに御局(つぼね)に候はん」と辞して往ぬれば、帰り参りたるに、「さて何事ぞ」とのたまはすれば、申しつる事を、さなんとまねび啓して、「わざと消息(せうそこ)し、呼び出づべきことにもあらぬを、おのづから静(しづ)かに局(つぼね)などにあらんにも言へかし」とて笑へば、「おのが心地に賢(かしこ)しとおもふ人の褒めたるを、嬉しとや思ふとて、告げ知らするならん」とのたまはする御気色(けしき)もいとをかし。28 


七 上(うへ=天皇)に候ふ御猫(おほんねこ)は、冠(かうぶり)給はりて、命婦(みやうぶ)のおとど(イおもと)とて、いとをかしければ、寵(かしづ)かせ給ふが、端(はし)に出でたるを、乳母(めのと)の馬(むま)の命婦「あな、正無(まさな)や、入(い)り給へ」と呼ぶに、聞かで、日のさし当りたるにうち眠(ねぶ)りてゐたるを、おどすとて、「翁丸(おきなまろ=犬)いづら、命婦のおとど食へ」と言ふに、まことかとて、痴れ者(しれもの)走りかかりたれば、おびえ惑ひて、御簾(みす)の内に入(い)りぬ。朝餉(あさがれひ)の間(ま)に上はおはします。御覧じて、いみじう驚ろかせ給ふ。猫は御懐(ふところ)に入(い)れさせ給ひて、男(をのこ)ども召せば、蔵人忠隆(ただたか)まゐりたるに、「この翁丸打ち調(てう)じて、犬島(いぬしま)につかはせ。只今」と仰せらるれば、集りて狩りさわぐ。馬の命婦もさいなみ(=叱責)て、「乳母(めのと)変(か)へてん、いとうしろへたし(=慶安刊本。能因本は「うしろめたし」)」と仰せらるれば、かしこまりて、御前にも出でず。犬は狩り出でて、滝口などして追ひつかはしつ(=追放)。

 「あはれ、いみじくゆるぎ歩(あり)きつるものを。三月(やよひ)三日(みか)に、頭の弁、柳の鬘(かづら)をせさせ、桃の花挿頭(かざし)にささせ、桜腰に挿させなどして、歩(あり)かせ給ひしをり、かかる目見んとは思ひ懸けけんや」と哀れがる。「御膳(おもの)のをりは、必ず向ひ候ふに、さうざうしくこそあれ」など言ひて、三四日(みかよか)になりぬ。

 昼つかた、犬のいみじく鳴く声のすれば、なにぞの犬の、かく久しく鳴くにかあらんと聞くに、よろづの犬ども走り騒ぎ訪(とぶ)らひに行(ゆ)き、御厠人(みかはやうど)なるもの走り来て、「あないみじ、犬を蔵人二人して打ちたまひ、死ぬべし。流させ給ひけるが帰りまゐりたるとて、調じ給ふ」と言ふ。心憂(こころう)のことや。翁丸(おきなまろ)なり。「忠隆(ただたか)実房(さねふさ)なん打つ」と言へば、制(せい)しに遣(や)る程に、からうじて鳴きやみぬ。「死にければ門の外(ほか)にひき棄てつ」と言へば、哀れがりなどする夕つかた、いみじげに腫(は)れ、あさましげなる犬のわびしげなるが、わななき歩(あり)けば、「哀れ、丸(まろ)か、かかる犬やはこの頃は見ゆる」など言ふに、翁丸(おきなまろ)と呼べど耳にも聞き入れず。「それぞ」と言ひ、「あらず」と言ひ、口々申せば、「右近ぞ見知りたる、呼べ」とて、下(しも)なるを「まづ、頓(とみ)の事」とて召せば参りたり。「これは翁丸か」と見せさせ給ふに、「似て侍れども、これはゆゆしげにこそ侍るめれ。また、翁丸と呼べば、よろこびてまうで来るものを、呼べど寄りこず、あらぬなンめり。それは打ち殺して棄て侍りぬとこそ申しつれ。さるものどもの二人して打たんには、生きなんや」と申せば、心憂がらせ給ふ。

 暗うなりて、もの食はせたれど食はねば、あらぬもの(=別の犬)に言ひなして止(や)みぬる。翌朝(つとめて)、御梳髪(おほんけづりぐし)に(=私が)まゐり、御手水(おほんてうづ)(=中宮が)まゐりて、御鏡(かがみ)(=私に)持たせて御覧ずれば、(=私が)候(さぶら)ふに、犬の柱のもとについ居たるを、「あはれ、昨日(きのふ)、翁丸をいみじう打ちしかな。死にけんこそ悲しけれ。何の身にか、この度(たび)はなりぬらん。いかにわびしき心地しけん」とうち言ふほどに、この寝(ね)たる犬ふるひわななきて、涙をただ落としに落とす。「いとあさまし。さはこれ翁丸にこそありけれ。夜ンべは隠れ忍びてあるなりけり」と、あはれにて、をかしきことかぎりなし。御鏡をも打ち置きて、「さは翁丸」と言ふに、ひれ伏していみじく鳴く。

 御前にもうち笑はせ給ふ。人々参り集りて、右近の内侍(うこんのないし)召して、「かく」なンど仰せらるれば、笑ひののしるを、上にも聞し召して、渡らせおはしまして、「あさましう犬などもかかる心あるものなりけり」と笑はせ給ふ。上の女房たちなども聞きに(=慶安刊本。能因本は「ききて」)、まゐり集りて、呼ぶにも(=慶安刊本三巻本、能因本は「よぶにただ」)今ぞ立ち動く。なほ顔など腫れたンめり。「物(=薬か餌)調(てう)ぜさせばや(=慶安刊本三巻本「もののてをせさせばや」、能因本「ゆくてをせさせばや」)」と言へば、「終(つひ)に(=あなたは翁丸に対する本心を)言ひあらはしつる」など笑はせ給ふに、忠隆(ただたか)聞きて、台盤所(だいばんどころ)の方より、「まことにや侍らん、かれ見侍らん」と言ひたれば、「あなゆゆし、さる者なし」と言はすれば、「さりとも終に見つくる折(をり)も侍らん、さのみもえ隠させ給はじ」と言ふなり。

 さて後、畏(かしこまり)勘事(かうじ)許(ゆる)されて、元のやうになりにき。猶、あはれがられて震ひ鳴き出でたりし程(ほど)こそ、世に知らずをかしくあはれなりしか。人々にも言はれて鳴きなどす。36 


八 正月(むつき)一日(ついたち)、三月(やよひ)三日(みか)は、いとうららかなる。五月(さつき)五日(いつか)は曇(くも)りくらしたる。七月(ふんづき)七日(なぬか)は曇り(=能因本「くもりて」)、夕がたは(=慶安刊本三巻本、能因本は「七夕」)晴れたる空に月いとあかく、星のすがた(イニかずも=三巻本)見えたる。九月(ながつき)九日(ここぬか)は、暁(あかつき)がたより雨少し降りて、菊の露もこちたくそぼち、覆(おほ)ひたる綿(わた)などもいたくぬれ、移しの香ももてはやされたる。翌朝(つとめて)は止(や)みにたれど、なほ曇りて、ややもすれば、降り落ちぬべく見えたるもをかし。44 


九 慶(よろこ)び奏するこそをかしけれ。後(うしろ)をまかせて、笏(しやく)とりて、御前の方(かた)に向ひて立てるを(=立っているよ)。拝(はい)し舞踏(ぶたふ)しさわぐよ。44 


十 今内裏(いまだいり)の東(ひんがし)をば、北の陣(ぢん)とぞ言ふ。楢(なら)の木の遥(はるか)に高きが立てるを、常に見て、「幾尋(いくひろ)かあらん」など(=私が)言ふに、権中将(ごんちゆうじやう=成信)の、「もとより(=木の根本から)打ち切りて、定澄(じやうちやう)僧都(そうづ)の枝扇(えだあふぎ)にせさせばや」とのたまひしを、山階寺(やましなでら)の別当(べつたう)になりて、慶(よろこ)び申すの日、近衛府(このゑづかさ)にてこの君の出で給へるに、高き屐子(けいし=下駄)をさへ履(は)きたれば、ゆゆしく高し。出でぬる後(のち)こそ、「などその枝扇(えだあふぎ)は持たせ給はぬ」と言へば、「もの忘れせず」と笑ひ給ふ。45 


十一 山は小倉山。三笠山。このくれ山。わすれ山。いりたち山。鹿背山(かせやま)。ひは(=能因本は「え」)の山。かたさり山こそ、誰(たれ)に所置(ところお=遠慮)きけるにかとをかしけれ(=堺本、イニいかなるらんとをかしけれ=能因本)。五幡山(いつはたやま)。後瀬山(のちせのやま)。笠取山(かさとりやま)。ひらの山。鳥籠(とこ)の山は「わが名もらすな」と御門(みかど)の詠ませ給ひけん、いとをかし。伊吹山。朝倉山、よそに見るらんいとをかしき(イニこそ見るがをかしき)。岩田山(いはたやま)。大比礼山(おほひれやま=慶安刊本三巻本、能因本は「おひれやま」)もをかし。臨時の祭の使(つかひ)などおもひ出でらるべし。手向山(たむけやま)。三輪の山、いとをかし。音羽山(おとはやま)。待兼山(まちかねやま)。玉坂山(たまさかやま)。耳無山(みみなしやま)。末(すゑ)の松山。葛城山(かつらぎやま)。美濃の御山(みののおやま)。柞山(ははそやま)。位山(くらゐやま)。吉備の中山(きびのなかやま)。嵐山。更級山(さらしなやま)。姨捨山(をばすてやま)。小塩山(をしほやま)。浅間山。かたため山。かへる山。妹背山(いもせやま)。46 


十二 峰(みね)はゆづるはの峰。阿弥陀(あみだ)の峰。弥高(いやたか)の峰。48 


十三 原は竹原(たけはら)。甕の原(みかのはら)。朝の原(あしたのはら)。その原。萩原(はぎはら)。粟津原(あはづのはら)。奈志原(なしはら)。うなゐごが原。安倍の原(あべのはら)。篠原(しのはら)。48 


十四 市(いち)は辰(たつ)の市。椿市(つばいち)は、大和(やまと)に数多(あまた)ある中(なか)に、長谷寺(はせでら)にまうづる人の、かならずそこにとどまりければ、観音(くわんおん)の御縁(えん)あるにやと、心ことなるなり。おふさの市。飾磨(しかま)の市。飛鳥(あすか)の市。49


十五 淵(ふち)は、かしこ淵、いかなる底(そこ)の心を見えて、さる名をつけけんと、いとをかし。ないりその淵、誰にいかなる人の教へしならん。青色の淵こそまたをかしけれ。蔵人などの身にしつべくて。いな淵。かくれの淵。のぞきの淵。玉淵。49


十六 海は、水うみ。与謝の海。かはぐちの海。伊勢の海。50


十八 わたりは、しかすがの渡(わたり)。みつはしの渡。こりずまの渡。50


十七 山陵(みささぎ)は、うぐひすの陵(みささぎ)。柏原(かしはばら)の陵。あめの陵。51


十九 家(いへ)は、近衛(このゑ)の御門(みかど)。二条、一条もよし。染殿(そめどの)の宮。清和院(せかゐ)(イせかゐん)。菅原(すがはら)の院。冷泉院(れんぜいゐん)。朱雀院(すさくゐん)。とうゐ。小野宮(をののみや)。紅梅(こうばい)。県(あがた)の井戸。東三条(とうさんでう)。小六条(ころくでう)。小一条(こいちでう)。51


二十 清涼殿の丑寅の隅の北の隔てなる御障子には、荒海の絵(かた)、生きたる物どものおそろしげなる、手長足長(てながあしなが)をぞ書かれたる。うへの御局の戸、押しあけたれば、常に目に見ゆるを、にくみなどして笑ふほどに、高欄(かうらん)のもとに、青き瓶(かめ)の大きなる据ゑて、桜のいみじくおもしろき枝の五尺ばかりなるを、いと多くさしたれば、高欄のもとまでこぼれ咲きたるに、昼つ方、大納言殿、桜の直衣(なほし)の少しなよらかなるに、濃き紫の指貫(さしぬき)、白き御衣(ぞ)ども、うへに濃き綾(あや)の、いとあざやかなるを出だして参り給へり。うへのこなたにおはしませば、戸口の前なる細き板敷に居給ひて、ものなど奏し給ふ。御簾(みす)のうちに、女房桜の唐衣(からぎぬ)どもくつろかにぬぎ垂れつつ、藤(ふぢ)山吹(やまぶき)などいろいろにこのもしく、あまた小半蔀(こはじとみ)の御簾(みす)より押し出でたるほど、昼(ひ)の御座(おまし)のかたに御膳(おもの)まゐる。足音高し。けはひなど、「おしおし」と言ふ声聞こゆ。うらうらとのどかなる日の景色(けしき)いとをかしきに、終(はて)の御飯(ごはん)持たる蔵人参りて、御膳(おもの)奏すれば、中の戸より渡らせ給ふ。

 御供に大納言参らせ給うて、ありつる花のもとに帰り居給へり。宮の御前(まへ)の御几帳(きちやう)押しやりて、長押(なげし)のもとに出でさせ給へるなど、ただ何事もなく万(よろづ)にめでたきを、さぶらふ人も、思ふ事なき心地するに、「月も日もかはりゆけども、ひさにふるみ室の山の」と言ふ故事(ふるごと)を、ゆるるかにうち詠(よ)み出だして居給へる、いとをかしと覚ゆる。げにぞ千歳(ちとせ)もあらまほしげなる御ありさまなるや。

 陪膳(はいぜん)仕(つかうまつ)る人の、男(をのこ)どもなど召すほどもなく渡らせ給ひぬ。「御硯(すずり)の墨(すみ)すれ」と仰せらるるに、目はそらにのみにて、ただおはしますをのみ見奉れば、ほど遠き目も放ちつべし。白き色紙おしたたみて、「これに只今覚えん故事(ふること)、一つづつ書け」と仰せらるる。外(と)に居給へるに、「これはいかに」と申せば、「疾(と)く書きて参らせ給へ、男(をのこ)はことくはへ候ふべきにもあらず」とて、御硯とりおろして、「とくとく、ただ思ひめぐらさで、難波津(なにはづ)も何もふと覚えん事を」と責めさせ給ふに、などさは臆(おく)せしにか、すべて面(おもて)さへ赤みてぞ思ひみだるるや。春の歌、花の心など、さ言ふ言ふも、上臈(じやうらふ)二つ三つ書きて、「これに」とあるに、

年経(としふ)れば齢(よはひ)は老いぬ、しかはあれど花をし見れば物思ひもなし

といふことを、「君をし見れば」と書きなしたるを御覧じて、「ただこの心ばへどもの、ゆかしかりつるぞ」と仰せらる。序(ついで)に、「円融院(ゑんゆうゐん)の御時(おほんとき)、『御前(ごぜん)にて、草紙(さうし)に歌一つ書け』と、殿上人に仰せられけるを、いみじう書きにくく、すまひ申す人々ありける。『更に手の悪しさ善さ、歌の折にあはざらんをも知らじ』と仰せられければ、わびて皆書きける中に、只今の関白殿の、三位中将(さんみのちゆうじやう)と聞こえける時、

しほの満ついつもの浦のいつもいつも君をば深く思ふはやわが

といふ歌の末(すゑ)を、『たのむはやわが』と書き給へりけるをなん、いまじくめでさせ給ひける」と仰せらるるも、すずろに汗あゆる心地ぞしける。若からん人は、さもえ書くまじき事のさまにやとぞ覚ゆる。例いとよく書く人も、あいなく皆つつまれて、書きけがし(=書き損じ)などしたるもあり。

 古今(こきん)の草紙(さうし)を御前(おまへ)に置かせ給ひて、歌どもの本(もと)を仰せられて、「これが末(すゑ)はいかに」と仰せらるるに、すべて夜昼心にかかりて、覚ゆるもあり。げによく覚えず、申し出でられぬ事は、いかなる事ぞ。宰相の君ぞ十ばかり。それも覚ゆるかは。まいて五つ六つなどは、ただ覚えぬよしをぞ啓すべけれど、「さやは、け悪(に)くく、仰事(おほせごと)を栄(は)えなくもてなすべき」と言ひ口をしがるもをかし。知ると申す人なきをば、やがて詠みつづけさせ給ふを、さてこれは皆知りたる事ぞかし。「などかく拙(つたな)くはあるぞ」と言ひ嘆く中にも、古今あまた書き写しなどする人は、皆覚えぬべきことぞかし。

 「村上の御時、宣耀殿(せんえうでん)の女御(にようご)と聞こえけるは、小一条の左大臣殿(との)の御女(むすめ)におはしましければ、誰かは知り聞こえざらん。まだ姫君(ひめぎみ)におはしける時、父大臣(おとど)の教へ聞こえさせ給ひけるは、『一つには御手(おほんて)を習ひ給へ、次(つぎ)にはきんの御琴(こと)を、いかで人にひきまさんとおぼせ、さて古今の歌二十巻(はたまき)を、皆うかべさせ給はんを、御学問にはせさせたまへ』となん聞こえさせ給ひけると、きこしめしおかせ給ひて、御物忌(いみ)なりける日、古今をかくして持てわたらせ給ひて、例ならず御几帳(きちやう)をひきたてさせ給ひければ、女御『あやし』とおぼしけるに、御草紙をひろげさせたまひて、その年その月、何(なに)のをり、その人の詠みたる歌はいかにと、問ひきこえさせたまふに、『かうなり』と心得させ給ふもをかしきものの、ひがおぼえもし、忘れたるなどもあらば、いみじかるべき事と、わりなく思(おぼ)し乱れぬべし。そのかたおぼめかしからぬ人、二三人ばかり召し出でて、碁石して数を置かせ給はんとて、聞こえさせ給ひけんほど、いかにめでたくをかしかりけん。御前に候ひけん人さへこそ羨(うらやま)しけれ。せめて申させ給ひければ、賢(さか)しうやがて末までなどにはあらねど、すべてつゆ違(たが)ふ事なかりけり。いかでなほ少しおぼめかしく、僻事(ひがごと)見つけてを止(や)まんと、ねたきまで思(おぼ)しける。十巻(とまき)にもなりぬ。更に不用なりけりとて、御草紙に夾算(けふさん)して、みとのごもりぬるもいとめでたしかし。いと久しうありて起きさせ給へるに、『猶このこと左右(さう)なくて止まん、いとわろかるべし』とて、下(しも)の十巻を、明日(あす)にもならば異(こと)をもぞ見給ひ合はするとて、今宵(こよひ)定めんと、大殿油(おほとなぶら)近くまゐりて、夜更くるまでなんよませ給ひける。されど終(つひ)に負け聞こえさせ給はずなりにけり。うへ渡らせ給うて後、『かかる事なん』と、人々殿に申し奉りければ、いみじう思(おぼ)し騒ぎて、御誦経(ずきやう)など数多(あまた)せさせ給うて、そなたに向ひてなん念じ暮らさせ給ひけるも、すきずきしくあはれなる事なり」など語り出でさせ給ふ。うへも聞しめして、めでさせ給ひ、「いかでさ多くよませ給ひけん、我は三巻(みまき)四巻(よまき)だにもえよみはてじ」と仰せらる。「昔はえせものも皆数寄(すき)をかしうこそありけれ。この頃かやうなる事やは聞こゆる」など、御前(まへ)に候ふ人々、うへの女房のこなたゆるされたるなど参りて、口々言ひ出でなどしたる程は、真(まこと)に思ふ事なくこそ覚ゆれ。52


二十一 生(お)ひさきなく、まめやかに、えせさいはひなど見てゐたらん人は、いぶせくあなづらはしく思ひやられて、猶さりぬべからん人の女(むすめ)などは、さしまじらはせ、世の中の有様も見せならはさまほしう、内侍(ないし)などにても暫時(しばし)あらせばやとこそ覚ゆれ。

 宮仕(みやづかへ)する人をば、あはあはしうわろきことに思ひゐたる男こそ、いとにくけれ。実(げ)にそもまたさる事ぞかし。かけまくも畏(かしこ)き御前(おまへ)を始め奉り、上達部(かんだちめ)、殿上人、四位、五位、六位、女房は更にも言はず、見ぬ人は少なくこそはあらめ。女房の従者(ずんざ)ども、その里(さと)より来るものども、長女(をさめ)、御厠人(みかはやうど)、礫瓦(たびしかはら)といふまで、いつかはそれを恥ぢかくれたりし。殿ばらなどは、いとさしもあらずやあらん。それもある限りは、さぞあらん。

 うへなど言ひてかしづきすゑたるに、心にくからず覚えんことわりなれど、内侍(ないし)のすけなど言ひて、をりをり内裏(うち)へ参り、祭の使(つかひ)などに出でたるも、面(おも)だたしからずやはある。さて籠(こもり)りゐたる人はいとよし。受領(ずりやう)の五節(ごせち)など出だすをり、さりともいたう鄙(ひな)び、見知らぬ他人(ことびと)に問ひ聞きなどはせじと、心にくきものなり。64

巻二

二十二 すさまじきもの

 昼(ひる)ほゆる犬。春の網代(あじろ)。三四月の(イ卯月ばかりの)紅梅の衣(きぬ)。嬰児(ちご)のなくなりたる産屋(うぶや)。火おこさぬ火桶(おけ)、炭櫃(すびつ)。牛(うし)にくみたる(イしにたる)牛飼(うしかひ)。博士(はかせ)のうちつづき女子(によし)うませたる。方違(かたたがへ)にゆきたるにあるじせぬ所。まして節分(せちぶん)はすさまじ。人の国よりおこせたる文の物なき。京のをもさこそは思ふらめども、されどそれはゆかしき事をも書きあつめ、世にある事を聞けばよし。人の許(もと)にわざと清(きよ)げに書きたててやりつる文の、返事見ん、今は来(き)ぬらんかしと、あやしく遅きと待つほどに、ありつる文の結びたるも立て文(ぶみ)も、いときたなげに持ちなしふくだめて、うへにひきたりつる墨さへ消えたるをおこせたりけり。「おはしまさざりけり」とも、もしは「物忌(いみ)とて取り入れず」などもて帰りたる、いとわびしくすさまじ。また、かならず来(く)べき人の許に、車をやりて待つに、入り来る音すれば、さなンなりと人々出でて見るに、車やどりに入りて、轅(ながえ)ほうとうち下(おろ)すを、「いかなるぞ」と問へば、「今日(けふ)はおはしまさず、渡り給はず」とて、牛の限りひき出でていぬる。また、家動(ゆす)りてとりたる婿の来ずなりぬる、いとすさまじ。さるべき人の宮仕する許(がり)やりて、いつしかと思ふも、いと本意なし。

 児(ちご)の乳母(めのと)のただあからさまとて往(い)ぬるを、もとむれば、とかくあそばし慰めて、「疾く来(こ)」と言ひ遣(や)りたるに、「今宵(こよひ)はえ参るまじ」とて返しおこせたる、すさまじきのみにもあらず、にくさわりなし。

 女などむかふる男(をとこ)、ましていかならん。待つ人ある所に、夜少し更けて、しのびやかに門を叩(たた)けば、胸少し潰(つぶ)れて、人出だして問はするに、あらぬよしなき者の名のりして来たるこそ、すさまじといふ中にも、かへすがへすすさまじけれ。

 験者(げんじや)の物怪(もののけ)調(てう)ずとて、いみじうしたり顔に、独鈷(とこ)や数珠(ずず)などもたせて、せみ声(イせめこゑ)にしぼり出し読み居たれど、いささか退気(さりげ)もなく、護法(ごほふ)もつかねば、集めて念じゐたるに、男も女も怪(あや)しと思ふに、時のかはるまで読みこうじて、「更につかず、立ちね」とて数珠(ずず)とりかへしてあれど、「験(げん)なしや」とうち言ひて、額(ひたひ)より上(かみ)ざまに頭(かしら)さぐりあげて、あくびを己(おのれ)うちして、よりふしぬる。

 除目(ぢもく)に官(つかさ)得(え)ぬ人の家、今年はかならずと聞きて、はやうありし者どもの、外々(ほかほか)なりつる、片田舎に住む者どもなど、皆集り来て、出で入る車の轅(ながえ)もひまなく見え、物まうでする供(とも)にも、われもわれもと参り仕(つかうまつ)り、物食ひ酒飲み、ののしりあへるに、はつる暁(あかつき)まで門(かど)叩く音もせず。「怪し」など耳立てて聞けば、さきおふ声々(こゑごゑ)して上達部など皆出で給ふ。もの聞きに、宵(よひ)より寒がりわななき居りつる下衆(げす)をのこなど、いと物うげに歩(あゆ)み来(く)るを、をる者どもは、問ひだにもえ問はず。外よりきたる者どもなどぞ、「殿は何にかならせ給へる」など問ふ。答(いら)へには、「何(なに)の前司(ぜんじ)にこそは」と、必ずいらふる。まことに頼(たの)みける者は、いみじう嘆(なげ)かしと思ひたり。翌朝(つとめて)になりて、隙(ひま)なくをりつる者も、やうやう一人二人づつすべり出でぬ。ふるきものの、さもえ行(ゆ)き離(はな)るまじきは、来年の国々を手を折りて数へなどして、ゆるぎ歩(あり)きたるも、いみじういとほしう、すさまじげなり。

 よろしう詠みたりと思ふ歌を、人の許に遣りたるに返しせぬ。懸想文(けさうぶみ)はいかがせん、それだに折(をり)をかしうなどある返事(かへりごと)せぬは、心劣(こころおと)りす。またさわがしう時めかしき所(ところ)に、うちふるめきたる人の、おのがつれづれと暇(いとま)あるままに、昔覚えて、ことなる事なき歌よみして遣(おこ)せたる。

 物の折(をり)の扇(あふぎ)、いみじと思ひて、心ありと知りたる人に言ひつけたるに、その日になりて、思はずなる絵(ゑ)など書きてえたる。

 産養(うぶやしなひ)、馬餞(むまのはなむけ)などの使(つかひ)に、禄(ろく)などとらせぬ。はかなき薬玉(くすだま)、卯槌(うづち)などもてありく者などにも、なほ必ずとらすべし。思ひかけぬことに得たるをば、いと興(きよう)ありと思ふべし。これはさるべき使ぞと、心ときめきして来たるに、ただなるは、真(まこと)にすさまじきぞかし。

 婿とりて、四五年まで産屋(うぶや)のさわぎせぬ所。大人(おとな)なる子供あまた、ようせずば、孫(むまご)などもはひありきぬべき人の親どちの昼寝したる。傍(かたは)らなる子供の心地にも、親の昼寝したるは、よりどころなくすさまじくぞありし。寝起きてあぶる湯は、腹だたしくさへこそ覚ゆれ。十二月(しはす)の晦日(つごもり)の長雨、一日ばかりの精進(しやうじん)の懈怠(けだい)とやいふべからん。八月(はづき)の白襲(しらがさね)。乳(ち)あへずなりぬる乳母(めのと)。67


二十三 たゆまるるもの

 精進(さうじ)の日のおこなひ。日遠き急(いそ)ぎ。寺に久しくこもりたる。75


二十四 人にあなづらるるもの

 家の北面(きたおもて)(イニこの一句なし=三巻本)。あまり心よきと人に知られたる人。年老いたるおきな(イニ此一句なし=三巻堺本)。またあはあはしき女。築地(ついぢ)のくづれ。76


二十五 にくきもの

 急ぐ事あるをりに長言(ながごと)する客人(まらうど)。あなづらはしき人ならば、「後に」など言ひても追ひやりつべけれども、さすがに心はづかしき人、いとにくし。

 硯(すずり)に髪の入りてすられたる。また墨(すみ)の中に石こもりて、きしきしときしみたる。

 俄(にはか)にわづらふ人のあるに、験者(げんざ)もとむるに、例(れい)ある所にはあらで、外(ほか)にある、尋ねありくほどに、待遠(まちどほ)に久しきを、からうじて待ちつけて、よろこびながら加持(かぢ)せさするに、この頃物怪(もののけ)に困(こう)じにけるにや、ゐるままに即(すなはち)ねぶり声(ごゑ)になりたる、いとにくし。

 何(なん)でふことなき人の、すずろにえがちに物いたう言ひたる。火桶(おけ)すびつなどに、手のうらうちかへし、皺(しわ)おしのべなどしてあぶりをるもの。いつかは若やかなる人などの、さはしたりし。老(おい)ばみうたてあるものこそ、火桶のはたに足をさへもたげて、物言ふままに、おしすりなどもするらめ。さやうのものは、人のもとに来てゐんとする所を、まづ扇(あふぎ)して塵払(ちりはら)ひすてて、ゐも定まらずひろめきて、狩衣(かりぎぬ)の前、下(しも)ざまにまくり入れてもゐるかし。かかることは、言ひかひなきものの際(きは)にやと思へど、少しよろしき者の式部大夫(しきぶのたいふ)、駿河前司(するがのぜんじ)など言ひしがさせしなり。

 また、酒飲みて、赤き(イあめき)口を探(さぐ)り、鬚(ひげ)あるものはそれを撫でて、盃(さかづき)人に取らするほどのけしき、いみじくにくしと見ゆ。「また飲め」など言ふなるべし、身ぶるひをし、頭(かしら)ふり、口わきをさへひきたれて、「わらはべのこうどのに参りて」など、謡(うた)ふやふにする。それはしも真(まこと)によき人のさし給ひしより、心づきなしと思ふなり。

 物うらやみし、身のうへなげき、人のうへ言ひ、つゆばかりの事もゆかしがり、聞かまほしがりて、言ひ知らぬをば怨(ゑん)じそしり、またわづかに聞きわたる事をば、われもとより知りたる事のやうに、他人(ことびと)にも語りしらべ言ふも、いとにくし。

 物聞かんと思ふほどに泣く児(ちご)。烏(からす)の集りて飛びちがひ鳴きたる。忍びて来る人見しりて吠(ほ)ゆる犬は、うちも殺しつべし。

 さるまじう、あながちなる所に、隠し伏せたる人の、鼾(いびき)したる。また密(みそか)に忍びてくる所に、長烏帽子(ながえぼし)して、さすがに人に見えじと惑ひ出づるほどに、物につきさはりて、そよろと言はせたる、いみじうにくし。伊予簾(いよす)など懸けたるをうちかづきて、さらさらとならしたるも、いとにくし。帽額(もかう)の簾(す)はましてこはき物のうちおかるる(イこはしのうちおかるる)、いとしるし。それもやをら引きあげて出入するは、更に鳴らず。

 また、遣戸(やりど)など荒(あら)くあくるも、いとにくし。少しもたぐるやうにて開(あ)くるは、鳴りやはする。あしうあくれば、障子(さうじ)などもたほめかし、こぼめくこそしるけれ。

 ねぶたしと思ひて臥したるに、蚊のほそ声に名のりて、顔のもとに飛びありく、羽風(はかぜ)さへ身のほどにあるこそ、いとにくけれ。

 きしめく車に乗りて歩くもの、耳も聞かぬにやあらんと、いとにくし。我乗りたるは、その車のぬしさへにくし。

 物語などするに、さし出でて我ひとり才まぐるもの。すべてさし出は、童(わらは)も大人もいとにくし。

 昔物語などするに、我知りたりけるは、ふと出でて言ひくたしなどする、いとにくし。鼠の走りありく、いとにくし。

 あからさまにきたる子供童(わらはべ)をらうたがりて、をかしき物など取らするに、ならひて、常に来て居入りて、調度(てうど)やうち散(ち)らしぬる、にくし。

 家にても宮仕(みやづかひ)所にても、会はでありなんと思ふ人の来たるに、虚寝(そらね)をしたるを、わが許にあるものどもの起こしよりきては、いぎたなしと思ひ顔(がほ)に、ひきゆるがしたるいとにくし。

 新参(いままゐり)のさしこえて、物しり顔にをしへやうなる事言ひ、後見たる、いとにくし。

 わが知る人にてあるほど、はやう見し女の事、褒め言ひ出だしなどするも、過ぎてほど経(へ)にけれど、なほにくし、ましてさしあたりたらんこそ思ひやらるれ。されどそれは、さしもあらぬやうもありかし。

 鼻ひて誦文(ずもん)する人(イはなひててづからずんじいのる人)。大かた家の男主(し〈ゆ〉う)ならでは、高くはなひたるもの、いとにくし。

 蚤(のみ)もいとにくし。衣(きぬ)の下(した)に踊(をど)りありきて、もたぐるやうにするも、また犬のもろ声に長々となきあげたる。まがまがしくにくし。76


二十六 乳母(めのと)の男こそあれ(此段イ本奥の宮仕へ所はの奥にあり)、女はされど近くも寄らねばよし。男子(をのこご)をば、ただわが物にして、立ちそひ領(りやう)じて後見、いささかもこの御事に違ふものをば讒(ざん)し、人をば人とも思ひたらず、怪(あや)しけれど、これがとがを心に任せて言ふ人もなければ、所得(え)いみじきおももちして、事を行なひなどするに。84


二百四十一 小一条院(でうのいん)をば、今内裏(いまだいり)とぞいふ。おはします殿は清涼殿にて、その北なる殿におはします。西東(にしひがし)は渡殿にて渡らせ給ふ。常に参(ま)うのぼらせ給ふ。御前は壷なれば、前栽(せんざい)などうゑ、笆(ませ=垣)結(ゆ)ひていとをかし。

 二月(きさらぎ)十日(イ廿日)の日の、うらうらと長閑(のどか)に照りたるに、渡殿の西の廂(ひさし)にて、上の御笛ふかせ給ふ。高遠(たかとほ)の大弐(だいに)、御笛の師にて物し給ふを、異笛(ことぶえ)二つして、高砂ををりかへし吹かせ給へば、猶いみじうめでたしと言ふも、世の常なり。御笛の師にて、そのことどもなど申し給ふ、いとめでたし。御簾(みす)のもとに集り出でて見奉るをりなどは、わが身に「芹(せり)つみし」など覚ゆる事こそなけれ。

 すけただは木工允(もくのじよう)にて蔵人には成りにたる。いみじう荒々しうあれば(イうたてあれば=能因本)、殿上人女房は「あらわに(イあらはこそ)」とぞつけたるを、歌につくりて「さうなしのぬし、尾張人(をはりうど)(イをはりそこ)の種(たね)にぞありける」とうたふは(イをば=能因本)、尾張の兼時が女(むすめ)の腹なりけり。これを笛に吹かせ給ふを、添ひ(イそひに=三巻本)候(さぶら)ひて、「なほ高う吹かせおはしませ、え聞きさぶらはじ」と申せば、「いかでか、さりとも聞き知りなん」とて密(みそか)にのみ吹かせ給ふを、あなたより渡らせおはしまして、「このものなかりけり、只今こそふかめ」と仰せられて吹かせたまふ。いみじうをかし。85


二十七 文ことばなめき人こそ、いとど憎けれ。世をなのめに書きなしたる、言葉の憎きこそ。さるまじき人のもとに、あまり畏(かしこ)まりたるも、実(げ)に悪ろき事ぞ。されど我(わが)得たらんはことわり、人のもとなるさへ憎くこそあれ。

 大方(おほかた)さし向ひても、なめきは、などかく言ふらんと、片腹痛し。まして、よき人などをさ申す者は、さるは痴(をこ)にていと憎し。

 男(をとこ)しうなど悪く言ふ、いと悪ろし。わが使ふ者など、「おはする、のたまふ」など言ひたる、いとにくし。「ここもとに侍る」といふ文字をあらせばやと聞くことこそ多かめれ。「愛敬(あいぎやう)なくと、ことば品(しな)めき」など言へば、言はるる人も聞く人も笑ふ。かく覚ゆればにや、あまり嘲弄(てうろう)するなど言はるるまである人も、悪ろきなるべし。

 殿上人、宰相などを、ただ名告(なの)る名を、聊(いささ)か慎ましげならず言ふは、いとかたはなるを、げによくさ言はず、女房の局(つぼね)なる人をさへ、「あのおもと」「君」など言へば、めづらかに嬉しと思ひて、褒むる事ぞいみじき。

 殿上人、君達を、御前より外(ほか)にては官(つかさ)を言ふ。また御前にて物を言ふとも、聞こしめさんには、などてかは「まろが」など言はん。さ言はざらんにくし。かく言はんに、わろかるべき事かは。

 ことなる事なき男(をとこ)の、引き入れ声して艶(えん)だちたる。墨つかぬ硯。女房の物ゆかしうする。ただなるだに、いとしも思はしからぬ人の、憎げ事(ごと)したる。一人車に乗りて物見る男、いかなる者にかあらん、やんごとなからずとも、若き男どもの物ゆかしう思ひたるなど、引き乗せても見よかし。透影(すきかげ)にただ一人耀(かが)よひて、心一つにまもりゐたらんよ。88


二十八 暁にかへる人の、昨夜(よべ)おきし扇(あふぎ)懐紙(ふところがみ)もとむとて、暗ければ、探(さぐ)りあてん、さぐりあてんと、たたきもわたし、「怪(あや)し」などうち言ひ、もとめ出でて、そよそよと懐(ふところ)にさし入(い)れて、扇引きひろげて、ふたふたとうちつかひて、まかり申したる、にくしとは世(よ)の常(つね)、いと愛敬(あいぎやう)なし。おなじごと夜深(ふか)く出(い)づる人の 烏帽子(えぼし)の緒(を)強(つよ)くゆひたる、さしもかためずともありぬべし。やをらさながらさし入れたりとも、人の咎むべきことかは。いみじうしどけなう、頑(かたく)なしく(イなと)、直衣(なほし)狩衣(かりぎぬ)などゆがみたりとも、誰(たれ)かは見知(し)りて笑(わら)ひそしりもせんとする。

 人は、なほ暁のありさまこそ、をかしくもあるべけれ。わりなくしぶしぶに起きがたげなるを、強ひてそそのかし、「明け過ぎぬ、あな見苦(ぐる)し」など言はれて、うちなげくけしきも、げにあかず物うきにしもあらんかしと覚(おぼ)ゆ。指貫(さしぬき)なども居ながら着(き)もやらず、まづさしよりて、夜(よ)ひと夜言ひつることののこりを、女の耳に言ひ入れ、何わざすとなけれど、帯(おび)などをばゆふやうなりかし。格子(かうし)あけ、妻戸(つまど)ある所(ところ)は、やがて諸共(もろとも)に出(い)で行(ゆ)き、昼のほどのおぼつかなからん事なども、言ひいでにすべり出でなんは、見送(おく)られて名残(なごり)もをかしかりぬべし。

 名残も出所(でどころ)あり。いときはやかに起(お)きて、ひろめきたちて、指貫(さしぬき)の腰(こし)強(つよ)くひきゆひ、直衣(なほし)、袍(うへのきぬ)、狩衣(かりぎぬ)も袖かいまくり、よろづさし入(い)れ、帯(おび)強(つよ)くゆふ、にくし。開(あ)けて出(い)でぬる所たてぬ人、いとにくし。91


二十九 心ときめきするもの

 雀(すずめ)の子飼(こが)ひ。児(ちご)遊ばする所の前わたりたる。よき薫物(たきもの)たきて一人臥したる。唐鏡(からのかがみ)の少し暗き見たる。よき男の車とどめて物言ひ案内(あない)せさせたる。頭(かしら)洗ひ化粧(けさう)じて、香(かう)にしみたる衣(きぬ)着たる。殊に見る人なき所にても、心のうちは猶をかし。待つ人などある夜、雨の脚(あし)、風の吹きゆるがすも、ふとぞおどろかるる。94


三十 すぎにしかたのこひしきもの

 枯れたる葵(あふひ)。雛(ひひな)遊びの調度(てうど)。二藍(ふたあゐ)、葡萄染(えびぞめ)などのさいでの、押しへされて、草紙(さうし)の中にありけるを見つけたる。また、折からあはれなりし人の文(ふみ)、雨などの降りて徒然(つれづれ)なる日さがし出でたる。去年(こぞ)の蝙蝠(かはほり)。月の明かき夜。95


三十一 こころゆくもの

 よくかいたる女絵の言葉(ことば)をかしう続けておほかる。物見のかへさに乗りこぼれて、男(をのこ)どもいと多く、牛よくやるものの車走らせたる。白く清げなる陸奥紙(みちのくがみ)に、いとほそう書くべくはあらぬ筆して文かきたる。川船のくだりざま。歯黒めのよくつきたる。調食(てうばみ=ちょう、はん)に調(てう)多くうちたる。うるはしき糸のねりあはせぐりしたる。物よく言ふ陰陽師(おんやうじ)して、河原に出でて呪詛(ずそ)の祓(はらへ)したる。夜(よる)寝起きて飲む水。徒然(つれづれ)なるをりに、いとあまり睦(むつま)しくはあらず、踈(うと)くもあらぬ賓客(まらうど)のきて、世の中の物がたり、この頃ある事の、をかしきも、にくきも、怪(あや)しきも、これにかかり、かれにかかり、公私(おほやけわたくし)おぼつかなからず、聞きよきほどに語りたる、いと心ゆくここちす。社寺(やしろてら)などに詣(まう)でて物申(まう)さするに、寺には法師、社(やしろ)にて禰宜(ねぎ)などやうのものの、思ふほどよりも過ぎて、とどこほりなく聞きよく申したる。95


三十二 檳榔毛はのどやかにやりたる。急(いそ)ぎたるは軽々(かろがろ)しく見ゆ。網代(あじろ)は走(はし)らせたる。人の門より渡(わた)りたるを、ふと見るほどもなく過ぎて、供(とも)の人ばかり走(はし)るを、誰ならんと思ふこそをかしけれ。ゆるゆると久(ひさ)しく行(ゆ)けばいとわろし。(=この段三巻本30)97


三十三 牛は額(ひたひ)いとちひさく白みたるが、腹(はら)のした、足のしも、尾のすそ白き。98


三十四 馬は紫(むらさき)の斑(まだら)づきたる。芦毛(あしげ)。いみじく黒(くろ)きが、足肩(あしかた)の辺(わた)りなどに、白(しろ)き所(ところ)、うす紅梅の毛(け)にて、髪尾(かみを)などもいとしろき、実(げ)にゆふかみとも言ひつべき。


三十五 牛飼(うしかひ)は大(おほ)きにて、髪赤白髪(かみあかしらが)にて、顔(かほ)の赤(あか)みて廉々(かどかど)しげなる。


三十六 雑色(ざふしき)随身(ずいじん)は細やかなる。よき男(をのこ)も、なほ若(わか)きほどは、さるかたなるぞよき。いたく肥(こ)えたるは、ねぶたからん人と思はる(イニおぼゆ=能因本)。


三十七 小舎人(こどねり)はちひさくて、髪(かみ)のうるはしきが、すそさはらかに、声をかしうて、畏(かしこま)りて物など言ひたるぞ、りやうりやうじき。 99


三十八 猫はうへのかぎり黒(くろ)くて、他(こと)はみな白からん。99


三十九 説経師(せつきやうし)は顔よき。つとまもらへたるこそ、その説く事の尊(たふと)さも覚ゆれ。外目(ほかめ イひがめ=三巻本)しつればふと忘るるに、憎げなるは罪や得(う)らんと覚ゆ。この言葉はとどむべし。少し年などのよろしき程こそ、かやうの罪は得方(えがた)のことば書き出でけめ。今は罪いとおそろし。また、「尊(たふと)きこと、道心おほかり」とて、説経すといふ所に、最初(さいそ)に行きぬる人こそ、猶この罪の心地には、さしもあらで見ゆれ。99


四十 蔵人おりたる人、昔は、御前(ぜん)などいふ事もせず、その年ばかり、内裏(うち)あたりには、まして影(かげ)も見えざりける。今はさしもあらざンめる。蔵人の五位とて、それをしもぞ忙(いそ)がしう仕(つか)へど、なほ名残(なごり)つれづれにて、心一つは暇(いとま)ある心地ぞすべかンめれば、さやうの所(=説教)に急ぎ行くを、一(ひと)たび二(ふた)たび聞きそめつれば、常にまうでまほしくなりて、夏などのいと暑きにも、帷子(かたびら)いとあざやかに、薄二藍(うすふたあゐ)、青鈍(あをにび)の指貫(さしぬき)など踏み散らしてゐたンめり。烏帽子に物忌つけたるは、今日さるべき日なれど、功徳(くどく)の方(かた)には障(さは)らずと見えんとにや。いそぎ来てそのことする聖(ひじり)と物語して、車立つるさへぞ見入れ、事に付きたる気色なる。久しく会はざりける人などの、まうで会ひたる、めづらしがりて、近くゐより物語し、うなづき、をかしき事など語り出でて、扇広うひろげて、口にあてて笑ひ、装束(さうぞく)したる数珠(ずず)かいまさぐり、手まさぐりにし、こなたかなたうち見やりなどして、車のよしあし褒めそしり、某(なにがし)にてその人のせし八講(はつかう)、経供養(くやう)など(イにと)言ひくらべゐたるほどに、この説経の事もきき入れず。なにかは、常に聞くことなれば、耳馴れて、めづらしう覚えぬにこそはあらめ。

 さはあらで講師(かうじ)ゐてしばしある程に、先(さき)少し追(お)はする車とどめて降(お)るる人、蝉(せみ)の羽(は)よりも軽げなる直衣(なほし)、指貫(さしぬき)、生絹(すずし)の単衣(ひとへ)など着たるも、狩衣(かりぎぬ)姿にても、さやうにては若く細やかなる三四人(みたりよたり)ばかり、侍(さふらひ)の者またさばかりして入れば、もとゐたりつる人も、少しうち身じろきくつろぎて、高座(かうざ)のもと近き柱のもとなどにすゑたれば、さすがに数珠おしもみなどして、伏し拝みゐたるを、講師もはえばえしう思ふなるべし、いかで語り伝ふばかりと説き出でたる、聴問すると立ち騒ぎ額(ぬか)づくほどにもなくて、よきほどにて立ち出づとて、車どものかたなど見おこせて、われどち言ふ事も何事ならんと覚ゆ。見知りたる人をばをかしと思ひ、見知らぬは誰ならんそれにや彼にやと、目をつけて思ひやらるるこそをかしけれ。「説経しつ、八講しけり」など人言ひ伝ふるに、「その人はありつや」「いかがは」など定りて言はれたる、あまりなり。などかは無下にさしのぞかではあらん。あやしき女だに、いみじく聞くめるものをば。さればとて、はじめつ方(かた)は徒歩(かちありき)する人はなかりき。たまさかには、壷装束(つぼさうぞく)などばかりして、なまめき化粧(けさう)じてこそありしか。それも物詣(ものまうで)をぞせし。説経などは殊に多くも聞かざりき。この頃その折さし出でたる人の、命(いのち)長くて見ましかば、いかばかりそしり誹謗(ひばう)せまし。


四十一 菩提(ぼだい)といふ寺に結縁(けちえん)八講(はつかう)せしが、聴きに詣でたるに、人のもとより「疾く帰り給へ、いとさうざうし」と言ひたれば、蓮(はちす)の花びらに、

求めてもかかる蓮の露を置きて憂き世にまたは帰るものかは

と書きてやりつ。真(まこと)にいと尊くあはれなれば、やがてとまりぬべくぞ覚ゆる。湘中(さうちう)(イ常たう)が家の人のもどかしさも忘れぬべし。105


四十二 小白川といふ所は、小一条の大将(たいしやう)殿の御家ぞかし。それにて上達部(かんだちめ)、結縁(けちえん)の八講(はつかう)し給ふに、いみじくめでたき事にて、世の中の人の集まり行きて聴く。

 遅からん車は寄るべきやうもなしと言へば、露と共に急ぎ起きて、げにぞ隙(ひま)なかりける。轅(ながえ)の上にまたさし重ねて、三つ(=三列目)ばかりまでは、少し物も聞こゆべし。六月(みなづき)十日余(とをかあまり)にて、暑きこと世に知らぬほどなり。池の蓮(はちす)を見やるのみぞ、少し涼しき心地する。

 左右(ひだりみぎ)の大臣(おとど)たちをおき奉りては、おはせぬ上達部なし。二藍(ふたあゐ)の直衣(なほし)・指貫(さしぬき)、浅葱(あさぎ)の帷子(かたびら)をぞ透かし給へる。少し大人び給へるは、青にびの指貫(さしぬき)、白き袴も涼しげなり。安親(やすちか)の宰相なども若やぎだちて、すべて尊きことの限りにもあらず、をかしき物見なり。廂(ひさし)の御簾(みす)高く巻き上げて、長押(なげし)の上に上達部、奥に向ひて、長々と居給へり。その下(しも)には殿上人、若き君達、狩装束(かりさうぞく)・直衣(なほし)なども、いとをかしくて、居もさだまらず、ここかしこに立ちさまよひ、遊びたるもいとをかし。実方(さねかた)の兵衛佐(ひやうゑのすけ)、長明(ながあきら)の侍従(じじゆう)など、家の子にて、今すこし出で入りたり。まだ童(わらは)なる君達など、いとをかしうておはす。

 少し日たけたるほどに、三位(さんみの)中将とは関白殿(くわんぱくどの=道隆)をぞ聞こえし、香(かう)の羅(うすもの)、二藍(ふたあゐ)の直衣(なほし)、おなじ指貫(さしぬき)、濃き蘇枋(すはう)の御袴に、張りたる白き単衣(ひとへ)のいと鮮やかなるを着給ひて、歩み入り給へる、さばかり軽(かろ)び涼しげなる中に、暑かはしげなるべけれど、いみじうめでたしとぞ見え給ふ。細塗(ほそぬりぼね=三巻本は「ほを、ぬりぼね」)など、骨はかはれど、ただ赤き紙を同じなみにうちつかひ持ち給へるは、瞿麦(なでしこ)のいみじう咲きたるにぞ、いとよく似たる。

 まだ講師ものぼらぬほどに、懸盤(かけばん)どもして、何にかはあらん物まゐるべし、義懐(よしちか)の中納言の御有様、常よりも勝りて清げにおはするさまぞ限りなきや。上達部の御名など書くべきにもあらぬを、誰(たれ)なりけんと、少しほど経れば(=慶安刊本。他の能因系写本この後「なるによりなん」)。色あひ花々といみじく、匂(にほひ)あざやかに、いづれともなき中の、帷子(かたびら)を、これはまことに、ただ直衣(なほし)一つを着たるやうにて、常に車(=女車)のかたを見おこせ(イ見やり)つつ、物など言ひおこせ給ふ。をかしと見ぬ人なかりけんを、

 後(のち)にきたる車の隙(ひま)もなかりければ、池に引き寄せて立てたるを(=義懐)見給ひて、実方(さねかた)の君に、「人の消息(せうそこ)つきづきしく言ひつべからん者一人」と召せば、いかなる人にかあらん、選(え)りて率(ゐ)ておはしたるに、「いかが言ひ遣るべき」と、近く居給へるばかり言ひ合はせて、やり給はん事は聞こえず。いみじく装(よそ)ひして(=能因本は「よういして」)、車のもとに歩みよるを、かつは笑ひ給ふ。後(あと=慶安刊本、能因本は「しり」)の方に寄りて言ふめり。久しく立てれば、「歌など詠むにやあらん、兵衛佐(ひやうゑのすけ=実方)返し思ひ設(まう)けよ」など笑ひて、いつしか返事(かへりごと)聞かんと、おとな上達部まで、皆そなたざまに見やり給へり。実(げ)に顕証(けそう)の人々まで見やりしもをかしう(イ見るもをかしう=能)ありしを。

 返事(かへりごと)聞きたるにや、すこし歩みくるほどに、扇(あふぎ)をさし出でて呼び返せば、「歌などの文字を言ひ過ちてばかりこそ呼び返さめ。久しかりつる程に、あるべきことかは、直すべきにもあらじものを」とぞ覚えたる。近く参りつくも心もとなく、「いかにいかに」と誰も問ひ給へども言はず。権中納言(=義懐)見給へば、そこによりて、けしきばみ申す。三位中将(=道隆)、「疾く言へ、あまり有心(うしん)過ぎてしそこなふな」とのたまふに、「これもただおなじ事になん侍る」と言ふは聞こゆ。藤大納言(=為光)は人よりも異(け)に覗きて、「いかが言ひつる」とのたまふめれば、三位中将、「いと直き木をなん押し折りたンめる」と聞こえ給ふに、うち笑ひ給へば、皆何となくさと笑ふ声、聞こえやすらん。

 中納言「さて呼び返されつる先には、いかが言ひつる。これや直したること」と問ひ給へば、「久しう立ちて侍りつれども、ともかくも侍らざりつれば、さは参りなんとて帰り侍るを、呼びて」とぞ申す。「誰(たれ)が車ならん、見知りたりや」などのたまふ程に、講師ののぼりぬれば、みな居しづまりて、そなたをのみ見る程に、この車は掻ひ(=能因本は「い」)消つやうに失せぬ。下簾(したすだれ)など、ただ今日始めたりと見えて、濃き単襲(ひとへがさね)に、二藍(ふたあゐ)の織物、蘇枋(すはう)の羅(うすもの)の表着(うはぎ)などにて、後(しり)に摺りたる裳、やがて広げながらうち懸けなどしたるは、何人(なにびと)ならん。何かは、人の偏(かたほ=中途半端)ならんことよりは、実(げ)にと聞こえて、中々いとよしとぞ覚ゆる。

 朝座(あさざ)の講師(かうじ)清範(せいはん)、高座(かうざ)の上も光り満ちたる心地して、いみじくぞあるや。暑さの侘びしきに添へて、しさすまじき事の、今日過(すぐ)すまじきをうち置きて、ただ少し聞きて帰りなんとしつるを、敷並(しきなみ)に集(つど)ひたる車の奥になんゐたれば、出づべき方もなし。朝(あした)の講(かう)果てなば、いかで出でなんとて、前なる車どもに消息(せうそこ)すれば、(=講師に)近く立たんうれしさにや、早々と引き出で開けて出だすを(=上達部など)見給ふ。いとかしがましきまで人ごと言ふに、老(おい)上達部さへ笑ひにくむを、聞きも入れず、答(いらへ)もせで狭(せば)がり出づれば、権中納言「やや、まかりぬるもよし」とて、うち笑ひ給へるぞめでたき。それも耳にもとまらず、暑きに惑ひ出でて、人して、「五千人の中には入(い)らせ給はぬやうもあらじ」と聞こえかけて帰り出でにき。

 その初めより、やがて果つる日まで立てる車のありけるが、人寄り来とも見えず、すべてただあさましう絵などのやうに(=動かずに)て過ごしければ、「ありがたく、めでたく、心にくく、いかなる人ならん、いかで知らん」と問ひけるを聞き給ひて、藤大納言、「何かめでたからん、いと憎し、ゆゆしきものにこそあンなれ」とのたまひけるこそをかしけれ。さてその二十日(はつか)あまりに、中納言の法師になり給ひにしこそあはれなりしか。桜などの散りぬるも、なほ世の常なりや。「老(おい)を待つ間の」とだに言ふべくもあらぬ御有様にこそ見え給ひしか。106

四十三 七月(ふんづき)ばかり、いみじく暑ければ、よろづの所開けながら夜も明かすに、月の頃は寝起きて見いだすもいとをかし。闇もまたをかし。有明はた言ふも愚かなり。

 いとつややかなる板の端(はし)近う、あざやかなる畳一枚(ひとひら)かりそめにうち敷きて、三尺の几帳(きちやう)、奥の方に押しやりたるぞ味気(あぢき)なき。端(はし)に(イとに)こそ立つべけれ、奥のうしろめたからんよ。人(=男)は出でにけるなるべし。薄色の裏いと濃くて、上は少し返りたるならずは、濃き綾(あや)のつややかなるが、いたくは萎えぬを、頭(かしら)籠(こ)めて引き着てぞ寝ためる。香染(かうぞめ)の単衣(ひとへ)、紅のこまやかなる生絹(すずし)の袴の、腰いと長く衣(きぬ)の下より引かれたるも、まだ解けながらなンめり。傍(そば)の方(かた)に髪のうち畳(たた)なはりてゆららかなるほど、長き推し量られたるに、またいづこよりにかあらん、朝ぼらけのいみじう霧(きり)満ちたるに、二藍(ふたあゐ)の指貫(さしぬき)、あるかなきかの香染(かうぞめ)の狩衣(かりぎぬ)、白き生絹(すずし)、紅のいとつややかなるうちぎぬの、霧に(イ紅のとほすにこそあらめつややかなるが、霧に)いたく湿りたるを脱ぎ垂れて、鬢(びん)の少しふくだみたれば、烏帽子(えぼし)の押し入れられたるけしきもしどけなく見ゆ。朝顔の露落ちぬ先に文書かんとて、道のほども心もとなく、「麻生(をふ)の下草」など口ずさびて、我が方へ行くに、格子の上がりたれば、御簾(みす)のそばを聊か上げて見るに、起きて去(い)ぬらん人もをかし。露をあはれと思ふにや(イと入)、しばし見たれば、枕上(まくらがみ)の方に、朴(ほを)に紫の紙はりたる扇ひろごりながらあり。陸奥紙(みちのくにがみ)の畳紙(たたふがみ)の細やかなるが、花か紅(くれなゐ)か少し匂(にほひ)移りたるも、几帳(きちやう)のもとに散りぼひたる。

 人のけはひあれば、(=女が)衣(きぬ)の中より見るに、うち笑みて長押(なげし)に押しかかりゐたれば、恥ぢなどする人にはあらねど、うちとくべき心ばへにもあらぬに、妬(ねた)ふも見えぬるかなと思ふ。「こよなき名残の御朝寝(あさい)かな」とて、簾(す)の中(うち)に半(なから)ばかり入りたれば、「露より先なる人のもどかしさに」といらふ。をかしき事とりたてて書くべきにあらねど、かく言ひ交はす気色ども憎からず。枕上(まくらがみ)なる扇を、(=男が)我持ちたるして及びてかき寄するが、あまり近う寄り来るにやと心ときめきせられて、(イひきぞくだらるる)今少し引き入らるる。(=扇を)取りて見などして、「疎(うと)くおぼしたる事」などうちかすめ恨みなどするに、明(あ)かうなりて、人の声々し、日もさし出でぬべし。霧の絶間(たえま)見えぬほどにと急ぎつる文も、たゆみぬるこそうしろめたけれ。出でぬる人も、いつの程にかと見えて、萩の露ながらあるに(=文を)付けてあれど、えさし出でず。香(かう)の香(か)のいみじう染(し)めたる匂(にほひ)いとをかし。あまりはしたなき程になれば、立ち出でて、我が来つる所もかくやと思ひやらるるもをかしかりぬべし。117

巻三

四十四

 木の花は 梅の濃くも薄くも紅梅(こうばい)。桜の花びら大きに、葉色(はいろ)濃きが、枝細くて咲きたる。

 藤(ふぢ)の花、しなひ長く色よく咲きたる、いとめでたし。

 卯(う)の花は品劣りて何となけれど、咲く頃のをかしう、郭公(ほととぎす)の陰に隠るらんと思ふにいとをかし。祭の帰(かへ)さに、紫野(むらさきの)の辺(わた)り近きあやしの家ども、おどろなる垣根などに、いと白う咲きたるこそをかしけれ。青色のうへに白き単襲(ひとへがさね)かづきたる青朽葉(あをくちば)などにかよひていとをかし。四月(うづき)のつごもり、五月(さつき)のついたちなどの頃ほひ、橘(たちばな)の濃く青きに、花のいと白く咲きたるに、雨の降りたる翌朝(つとめて)などは、世になく心あるさまにをかし。花の中より、実(み)の黄金(こがね)の玉かと見えて、いみじく際(きは)やかに見えたるなど、朝露に濡れたる桜にも(イ春のあさぼらけの桜にもとあり=堺本)劣らず、郭公(ほととぎす)の縁(よすが)とさへ思へばにや、猶更に言ふべきにもあらず。梨の花、世にすさまじく怪しき物にして、目にちかく、はかなき文つけなどだにせず、愛敬おくれたる人の顔など見ては、譬(たと)ひに言ふも、実(げ)にその色よりしてあいなく見ゆるを、唐土(もろこし)にかぎりなき物にて、文にも作るなるを、さりともある様(やう)あらんとて、せめて見れば、花びらの端に、をかしき匂ひこそ、心もとなくつきためれ。楊貴妃(やうきひ)、皇帝(みかど)の御使(みつかひ)に会ひて泣きける顔に似せて、「梨花一枝(りくわいつし)春雨(はるのあめ)を帯びたり」など言ひたるは、おぼろげならじと思ふに、猶いみじうめでたき事は類(たぐひ)あらじと覚えたり。

 桐の花、紫に咲きたるは猶をかしきを、葉のひろごり、様うたてあれども、また他木(ことき)どもと等しう言ふべきにあらず。唐土(もろこし)に事々しき名付きたる鳥(=鳳凰)の、これにしも住むらん、心異(こころこと)なり。まして琴(こと)に作りて様々なる音(ね)の出でくるなど、をかしとは尋常(よのつね)に言ふべくやはある。いみじうこそはめでたけれ。

 木の様ぞ憎げなれど、樗(あふち)の花いとをかし。枯れ花に(イかれ葉に)、様ことに咲きて、必ず五月(さつき)五日(いつか)に合ふもをかし。123


四十五 池は、勝間田(かつまた)の池。盤余(いはれ)の池。贄野(にへの)の池、初瀬(はつせ)に参りしに、水鳥の隙(ひま)なくたち騒ぎしが、いとをかしく見えしなり。水なしの池、あやしう、などて付けけるならんと言ひしかば、「五月(さつき)など、すべて雨いたく降らんとする年は、この池に水といふ物なくなんある、また日のいみじく照る年は、春のはじめに水なん多く出づる」と言ひしなり。「無下になく乾きてあらばこそさも付けめ、出づる折もあるなるを、一すぢにつけけるかな」と答(いら)へまほしかりし。猿沢(さるさは)の池、采女(うねめ)の身を投げけるを聞しめして、行幸(みゆき)などありけんこそ、いみじうめでたけれ。「ねくたれ髪を」と人麻呂が詠みけんほど、言ふもおろかなり。御まへの池、また何の心につけけるならんとをかし。鏡の池。狭山(さやま)の池、三稜草(みくり)といふ歌のをかしく覚ゆるにやあらん。こひぬまの池。原の池、「玉藻はな刈りそ」と言ひけんもをかし。ますだの池。127


四十六 節(せち)は、五月(さつき)にしくはなし。菖蒲(さうぶ)、蓬(よもぎ)などの薫(かをり)合ひたるもいみじうをかし。九重(ここのへ)の内をはじめて、言ひ知らぬ民(たみ=能因系「たみしかはら」←「たびしかはら」)の住家(すみか)まで、いかで我が許(もと)に繁(しげ)く葺(ふ)かんと葺きわたしたる、猶いとめづらしく、いつか他折(ことをり)は、さはしたりし。空の景色の曇りわたりたるに、后宮(きさいのみや)などには、縫殿(ぬいどの)より、御薬玉(おほんくすだま)とて色々の糸を組み下げて参らせたれば、御帳(みちやう)たてまつる母屋(もや)の柱の左右につけたり。九月(ながつき)九日(ここぬか)の菊を、綾(あや)と生絹(すずし)の衣(きぬ)に包みて参らせたる、同じ柱に結ひつけて、月頃ある薬玉取り替へて捨つめる。また、薬玉は菊の折まであるべきにやあらん。されどそれは皆糸を引き取りて物結ひなどして、しばしもなし。

 御節供(おほんせく)参り、若き人々は菖蒲(さうぶ)の挿し櫛(ぐし)さし、物忌(ものいみ)つけなどして、さまざま唐衣(からぎぬ)、汗衫(かざみ)、ながき根、をかしき折り枝ども、斑濃(むらご)の組(くみ)して結(むす)び付けなどしたる、珍しう言ふべきことならねどいとをかし。さて(イさても可用)春ごとに咲くとて、桜をよろしう思ふ人やはある。

 辻(つじ)歩(あ)りく童女(わらはべ)の、程々につけては、いみじきわざしたると、常(つね)に袂(たもと)を守り(=見守り)、人に見比(くら)べ、えもいはず興(きよう)ありと思ひたるを、戯(そば)へたる小舎人童(こどねりわらは)などに引き取られて、泣くもをかし。紫の紙に樗(あふち)の花、青き紙に菖蒲(さうぶ)の葉、細う巻きて引き結ひ、また白き紙を根にして結ひたるもをかし。いと長き根など文の中に入れなどしたる人どもなども、いと艶なる返り事書かんと言ひ合はせ語らふどちは、見せ合はしなどする、をかし。人の女(むすめ)、やんごとなき所々に御文聞こえ給ふ人も、今日は心異(こころこと)にぞなまめかしうをかしき。夕暮のほどに郭公(ほととぎす)の名告(なの)りしたるも、全てをかしういみじ。129


四十七 木は、桂(かつら)。五葉(ごえふ)。柿(イ柳=能因本)。橘。そばの木、はしたなき心地すれども、花の木ども散りはてて、おしなべたる緑になりたる中に、時もわかず濃き紅葉(もみぢ=紅葉すること)の艶(つや)めきて、思ひかけぬ青葉の中よりさし出でたる、めづらし。檀(まゆみ)更にも言はず。そのものともなけれど、やどり木といふ名いとあはれなり。榊(さかき)、臨時(りんじ)の祭、御神楽(みかぐら)の折などいとをかし。世に木どもこそあれ、神の御前(みまへ)の物と言ひ始めけんも、とりわきをかし。楠(くす)の木は、木立(こだち)多かる所にも殊に交じらひ立てらず、おどろおどろしき思ひやりなどうとましきを、千枝(ちえ)に分かれて、恋する人の例(ためし)に言はれたるぞ、誰(たれ)かは数(かず)を知りて言ひ始めけんと思ふにをかし。檜(ひのき)、人近(ひとぢか)からぬ物なれど、三つ葉四つ葉の殿造りもをかし。五月に雨の声(こゑ)学(まね)ぶらんもをかし。楓(かへで)の木、ささやかなるにも、萌え出でたる梢(こずゑ)の赤みて、同じ方にさし広ごりたる葉のさま、花もいと物はかなげにて、虫などの枯れたるやうにてをかし。

 明日檜木(あすはひのき)、この世近くも見えきこえず、御嶽(みたけ)に詣でて帰る人など、然(しか)持てありくめる。枝差(えださし)などのいと手触れ憎げに荒々しけれど、何の心ありて「あすはひの木」とつけけん、あぢきなき兼言(かねごと=予言)なりや。誰に頼めたるにかあらんと思ふに、知らまほしうをかし。ねずもちの木、人並々なるべき様にもあらねど、葉のいみじう細かに小さきがをかしきなり。樗(あふち)の木。(イやまたちばな なしの木)山梨の木。椎の木は、常磐木(ときはぎ)はいづれもある(=落葉しない)を、それしも葉替(が)へせぬ例(ためし)に言はれたるもをかし。

 白樫(しらかし)などいふもの、まして深山木(みやまぎ)の中にもいと気遠(けどほ)くて、三位二位の袍(うへのきぬ)染(そ)むる折ばかりぞ、葉をだに人の見るめる。めでたき事、をかしき事にとり出づべくもあらねど、いつとなく雪の降りたるに見まがへられて、素戔嗚尊(そさのをみこと=「そさのをのみこと」慶安刊本)の出雲国(いづものくに)におはしける御(イともにて=能因本)事を思ひて、人丸が詠みたる歌などを見る、いみじうあはれなり。言ふ事にても、折につけても、一節(ひとふし)あはれともをかしとも聞きおきつる物は、草も木も鳥虫(とりむし)も、おろかにこそ覚えね。

 楪(ゆづりは)のいみじうふさやかに艶めきたるは、いと青う清げなるに、思ひかけず似るべくもあらず(イぬ=能因本)。茎の赤うきらきらしう見えたるこそ、賤(いや)しけれどもをかしけれ。なべての月頃はつゆも見えぬものの、十二月(しはす)の晦日(つごもり)にしも時めきて、亡人(なきひと)の食ひ物にも敷くにやとあはれなるに、また齢(よはひ)延(の)ぶる歯固(はがため)の具(ぐ)にもして使ひたンめるは、いかなるにか。「紅葉(もみぢ)せん世(よ)や」と言ひたるもたのもし。柏木(かしはぎ)いとをかし。葉守(はもり)の神のますらんもいとかしこし(イをかし=能因本)。兵衛佐(ひやうゑのすけ)、尉(じよう)などを(=柏木と)言ふらんもをかし。姿なけれど、棕櫚(すろ)の木、唐(から)めきて、悪ろき家のものとは見えず。132


四十八 鳥は、他所(ことどころ)の物なれど、鸚鵡(あうむ)いとあはれなり。人の言ふらんことを学(まね)ぶらんよ。郭公(ほととぎす)。水鶏(くひな)。鴫(しぎ)。みこ鳥。鶸(ひは)。火焼(ひたき)。山鳥は友を恋ひて鳴くに、鏡(かがみ)を見せたれば慰むらん、いとあはれなり。谷隔てたるほどなどいと心ぐるし。鶴はこちたき様なれども、鳴く声雲井(くもゐ)まで聞こゆらん、いとめでたし。頭(かしら)赤き雀(すずめ)。斑鳩(いかるが)の雄鳥(をどり)。巧鳥(たくみどり)。

 鷺(さぎ)はいと見る目もみぐるし。まなこゐなども、うたて万(よろづ)になつかしからねど、「万木(ゆるぎ)の森に一人は寝じ」と、争(あらそ)ふらんこそをかしけれ。はこ鳥。水鳥(みづとり)は鴛鴦(をし)いとあはれなり。互(かたみ)に居替(かは)りて、羽のうへの霜を払ふらんなどいとをかし。都鳥。川千鳥は友惑(まど)はすらんこそ。雁の声は遠く聞こえたるあはれなり。鴨は羽(はね)の霜うち払ふらんと思ふにをかし。

 鶯は文(=漢詩)などにもめでたき物につくり、声よりはじめて、様形(さまかたち)もさばかり貴(あて)に美しきほどよりは、九重の内に鳴かぬぞいとわろき。人のさなんある(=内裏で鳴かない)と言ひしを、さしもあらじと思ひしに、十年(ととせ)ばかり候ひて聞きしに、実(まこと)に更に音(おと)もせざりき。さるは竹も近く、紅梅(こうばい)もいとよく通ひぬべきたよりなりかし。まかンでて聞けば、あやしき家の見所(みどころ)もなき梅などには、花やかにぞ鳴く。夜鳴かぬもいぎたなき心地すれども、今はいかがせん。夏秋の末まで老声(おいごゑ)に鳴きて、「虫食ひ」など、用もあらぬ者は名を付け変へて言ふぞ、口惜しくすごき心地する。それも雀(すずめ)などやうに、常にある鳥ならば、さもおぼゆまじ。春鳴く故こそはあらめ。「年立ち返る」など、をかしきことに、歌にも文にも作るなるは。なほ春の内(=のみ)ならましかば、いかにをかしからまし。人をも人気(ひとげ)なう、世の覚え侮(あなづ)らはしうなり初めにたるをば、謗(そし)りやはする。鳶(とび)、烏(からす)などの上は、見入れ聞き入れなどする人、世になしかし。さればいみじかるべきものとなりたればと思ふに、心行かぬ心地するなり。祭の帰さ見るとて、雲林院、知足院などの前に車を立てたれば、郭公(ほととぎす)も忍ばぬにやあらん鳴くに、(=鶯が)いとよう学(まね)び似せて、木高き木どもの中に、諸声(もろごゑ)に鳴きたるこそ、さすがにをかしけれ。

 郭公は猶更に言ふべき方なし。いつしかしたり顔にも聞こえ、歌に、卯の花、花橘などに宿りをして、はた隠れたるも、妬(ねた)げなる心ばへなり。五月雨の短夜(みじかよ)に寝ざめをして、いかで人より先に聞かんと待たれて、夜深くうち出でたる声の、らうらうしう愛敬づきたる、いみじう心憧(こころあくが)れ、せん方(かた)なし。六月(みなづき)になりぬれば音(おと)もせずなりぬる、すべて言ふもおろかなり。夜(よる)鳴くもの、全ていづれもいづれもめでたし。児(ちご)どものみぞ、さしもなき。(=この段三巻本)138


四十九 あてなるもの

 薄色(うすいろ)に白重(しらがさね)の汗衫(かざみ)。雁の子(かりのこ)。削氷(けづりひ)の甘葛(あまづら)に入りて、新しき鋺(かなまり)に入りたる。水晶(すいさう)の数珠(ずず)。藤の花。梅の花に雪のふりたる。いみじう美しき児(ちご)の覆盆子(いちご)食ひたる。(この段三巻本)144


五十 虫は、鈴虫。松虫。促織(はたおり)。蟋蟀(きりぎりす)。蝶(てふ)。われから。蜉蝣(ひをむし)。蛍(ほたる)。蓑虫(みのむし)いとあはれなり。鬼(おに)の生みければ、親に似て、これも恐ろしき心地ぞあらんとて、親の悪しき衣(きぬ)ひき着せて、「今秋風吹かん折にぞ来(こ)んずる、侍てよ」と言ひて逃げて去(い)にけるも知らず、風の音聞き知りて、八月(はづき)ばかりになれば、「ちちよ、ちちよ」とはかなげに鳴く、いみじくあはれなり。

 茅蜩(ひぐらし)、叩頭虫(ぬかづきむし)またあはれなり。さる心に道心(だうしん)おこして、つきありくらん。また、思ひかけず暗き所などにほとめきたる、聞きつけたるこそをかしけれ。

 蝿(はへ)こそ憎きもののうちに入れつべけれ。愛敬(あいぎやう)なく憎きものは、人々しう(=一人前として)書き出づべき物のやうにあらねど、万(よろづ)の物にゐ、顔などに濡れたる足して居たるなどよ。人の名につきたるは必ず難(かた)し。

 夏虫(なつむし)、いとをかしくらう < たげなり。火近く取り寄せて、物語など見るに、草子 >(=慶安刊古活字本もヌケ)の上飛びありく、いとをかし。蟻(あり)は憎けれど、軽びいみじうて、水のうへなどをただ歩(あゆ)みありくこそをかしけれ。145


五十一 七月(ふつき)ばかりに、風のいたう吹き、雨などのさわがしき日、大方いと涼しければ、扇もうち忘れたるに、汗の香(か)少し抱(かか)へたる衣(きぬ)の薄き引きかづきて、昼寝(=男と)したるこそをかしけれ。147


五十二 にげなきもの

 髪あしき人のしろき綾(あや)の衣(きぬ)着たる。しじかみたる髪に葵(あふひ)つけたる。あしき手を赤き紙に書きたる。下衆の家に雪の降りたる。また月のさし入りたるもいとくちをし。月のいと明かきに、屋形(やかた)なき車に会ひたる。またさる車に黄牛(あめうじ)かけたる。老いたる者の腹高くて喘(あへ)ぎありく。また若き男もちたる、いと見ぐるしきに、他人(ことびと)の許(もと)に行くとて妬(ねた)みたる。老いたる男の寝惑(ねまど)ひたる。またさやうに鬚がちなる男の椎(しひ)つみたる。歯もなき女の梅食ひて酸がりたる。下衆の紅(くれなゐ)の袴(はかま)着たる、この頃はそれのみこそあンめれ。

 靫負佐(ゆげひのすけ)の夜行(やかう)(イやから)、狩衣(かりぎぬ)姿も、いといやしげなり。また、人に恐(お)ぢらるるうへの衣(きぬ)、はたおどろおどろしく、たちさまよふも、人見つけばあなづらはし。「嫌疑(けんぎ)の者やある」と戯(たはむれ)にも咎(とが)む。六位蔵人、うへの判官(はうぐわん)とうち言ひて、世になくきらきらしきものに覚え、里人下衆などは、この世の人とだに思ひたらず、目をだに見あはせで恐ぢわななく人の、内裏(うち)辺(わた)りの細殿(ほそどの)などに忍びて入りふしたるこそ、いとつきなけれ。空薫物(そらだきもの)したる几帳(きちやう)にうちかけたる袴(はかま)の、おもたげに賤(いや)しうきらきらしからんもと、推(お)し量(はか)らるるなどよ。さかしらにうへの衣(きぬ)腋(わき)あけにて、鼠(ねずみ)の尾(を)のやうにて、わがねかけたらん程ぞ、似気(にげ)なき夜行の人々なる。この司(つかさ)のほどは、念じてとどめてよかし。五位の蔵人も。148


五十三 細殿(ほそどの)に人とあまたゐて、ありく者ども見、やすからず呼び寄せて、ものなど言ふに、清げなる男(をのこ)、小舎人童(こどねりわらは)などの、よき裹袋(つつみぶくろ)に衣(きぬ)どもつつみて、指貫(さしぬき)の腰などうち見えたる。袋に入りたる弓、矢、楯、鉾(ほこ)、剣(たち)などもてありくを「誰(た)がぞ」と問ふに、ついゐて某殿(なにがしどの)のと言ひて行くはいとよし。気色ばみやさしがりて、「知らず」とも言ひ、聞きも入れで往(い)ぬる者は、いみじうぞにくきかし。151


五十四 月夜に空車(むなぐるま)歩(あり)きたる。清げなる男の憎げなる妻(め)もちたる。鬚黒(ひげぐろ)に憎げなる人の年老いたるが、物語する人の児(ちご)もてあそびたる(=にげなし)。152


五十五 主殿司(とのもりづかさ=女官)こそ猶をかしきものはあれ。下女(しもをんな)の際(きは)はさばかり(=これほど)羨しきものはなし。よき人にせさせまほしきわざなり。若くて容貌(かたち)よく、容体(なり)など常によくてあらんは、ましてよからんかし。年老いて物の例(れい)など知りて、面(おも)なき様したるもいとつきづきしうめやすし。主殿司(とのもりづかさ)の顔、愛敬づきたらんを持たりて、装束(さうぞく)時に従ひて、唐衣(からぎぬ)など今めかしうて、歩(あり)かせばやとこそ覚ゆれ。152


五十六 男はまた随身(ずいじん)こそあめれ。いみじく美々(びび)しくをかしき君達も、随身なきはいとしらじらし。弁などをかしくよき官(つかさ)と思ひたれども、下襲(したがさね)の裾(しり)短くて、随身なきぞいと悪ろきや。153


五十七 職(しき)の御曹司(みざうし)の西面(にしおもて)の立蔀(たてじとみ)のもとにて、頭弁(とうのべん=行成)の、人と物をいと久しく言ひたち給へれば、さし出でて、「それは誰(たれ)ぞ」と言へば、「弁の内侍なり」とのたまふ。「何かはさもかたらひ給ふ。大弁見えば、うち捨て奉りて往(い)なんものを」と言へば、いみじく笑ひて、「誰かかかる事をさへ言ひ聞かせけん、それさなせそとかたらふなり」とのたまふ。

 いみじく見えて、をかしき筋などたてたる事はなくて、ただありなるやうなるを、皆人さのみ知りたるに、なほ奥ふかき御心ざまを見知りたれば、「おしなべたらず」など御前にも啓し、またさしろしめしたるを、常に「女はおのれをよろこぶ者のために顔づくりす、士(し)はおのれを知れる人のために死ぬと言ひたる」と、言ひ合はせつつ申し給ふ。

 「遠江(とほたあふみ)の浜柳(はまやなぎ)」など言ひ交(か)はしてあるに、わかき人々はただ言ひにくみ、見ぐるしき事どもなどつくろはず言ふに、「この君こそうたて見にくけれ。他人(ことびと)のやうに読経(どきやう)し、歌うたひなどもせず、けすさまじ」など謗(そし)る。更にこれかれに物言ひなどもせず、「女は目は縦様(たてさま)につき、眉は額(ひたひ)におひかかり、鼻は横ざまにありとも、ただ口つき愛敬づき、頤(おとがひ)のした、頸(くび)などをかしげにて、声憎からざらん人なん思はしかるべき。とは言ひながら、なほ顔のいと憎げなるは心憂し」とのみのたまへば、まいて頤(おとがひ)ほそく愛敬おくれたらん人は、あいなう敵(かたき)にして、御前にさへあしう啓する。

 物など啓せさせんとても、その初(はじめ)言ひそめし人をたづね、下(しも)なるをも呼びのぼせ、局(つぼね)にも来て言ひ、里なるには文書きても、みづからもおはして、「遅く参らば、さなん申したると申しに参らせよ」などのたまふ。「その人の候ふ」など言ひ出づれど、さしも受け引かずなどぞおはする。「あるに従ひ、定めず、何事ももてなしたるをこそ、よき事にはすれ」と後見聞こゆれど、「わがもとの心の本性(ほんじやう)」とのみのたまひつつ、「改(あらた)まらざるものは心なり」とのたまへば、「さて憚(はばか)りなしとは、いかなる事を言ふにか」と怪しがれば、笑ひつつ、「仲よしなど人々にも言はるる。かう語(かた)らふとならば何か恥づる、見えなどもせよかし」とのたまふを、「いみじく憎げなれば、『さあらんはえ思はじ』とのたまひしによりて、え見え奉らぬ」と言へば、「実(げ)に憎くもぞなる。さらばな見えそ」とて、おのづから見つべき折も顔を塞(ふた)ぎなどして、まことに見給はぬも、真心(まごころ)に虚言(そらごと)し給はざりけりと思ふに、三月晦日(つごもり)頃、冬の直衣(なほし)の着にくきにやあらん、うへの衣(きぬ)がちにて、殿上の宿直(とのゐ)姿もあり。翌朝(つとめて)日さし出づるまで、式部のおもとと廂(ひさし)に寝たるに、奥の遣戸(やりど)をあけさせ給うて、うへの御前(おまへ)、宮の御前(おまへ)出でさせ給へれば、起きもあへずまどふを、いみじく笑はせ給ふ。唐衣(からぎぬ)を髪(かみ)のうへにうち着て、宿直物(とのゐもの)も何もうづもれながらある上におはしまして、陣(ぢん)より出で入るものなど御覧ず。殿上人のつゆ知らで、寄り来て物言ふなどもあるを、「けしきな見せそ」と笑はせ給ふ。さて立たせ給ふに、「二人ながらいざ」と仰せらるれど、今顔などつくろひてこそとてまゐらず。

 入らせ給ひて、猶めでたき事ども言ひあはせてゐたるに、南(みんなみ)の遣戸のそばに、几帳(きちやう)の手のさし出でたるにさはりて、簾(すだれ)の少しあきたるより、黒みたるものの見ゆれば、のりたかが居たるなンめりと思ひて、見も入れで、なほ事どもを言ふに、いとよく笑みたる顔のさし出でたるを、「のりたかなンめり、そは」とて見やりたれば、あらぬ顔なり。あさましと笑ひさわぎて几帳(きちやう)ひき直し隠(かく)るれど、頭弁(とうのべん)にこそおはしけれ。見え奉らじとしつるものをと、いと口惜し。もろともに居たる人は、こなたに向きてゐたれば、顔も見えず。立ち出でて、「いみじく名残なく見つるかな」とのたまへば、「のりたかと思ひ侍れば、あなづりてぞかし。などかは見じとのたまひしに、さつくづくとは」と言ふに、「女は寝起きたる顔なんいとよきと言へば、ある人の局に行きて、垣間見(かいばみ)して、またもし見えやするとて来たりつるなり。まだうへのおはしつる折からあるを、え知らざりけるよ」とて、それより後(のち)は、局の簾(すだれ)うちかづきなどし給ふめり。154


五十八 殿上の名謁(なだいめん=点呼)こそ猶をかしけれ。御前に人候(さぶら)ふ折は、やがて問ふもをかし。足音どもして崩(くづ)れ出づるを、上(うへ)の御局(みつぼね)の東面(ひんがしおもて)に、耳を調(とな)へて(=女房たちが)聞くに、知る人(=恋人)の名告(なの)りには、ふと胸つぶるらんかし。また、ありともよく聞かぬ人をも、この折に聞きつけたらんは、いかが覚ゆらん。名告りよしあし、聞きにくく定むるもをかし。果てぬなりと聞くほどに、滝口の弓鳴らし、沓(くつ)の音そそめき出づるに、蔵人(くらうど)のいと高く踏みこほめかして、丑寅(うしとら)の隅(すみ)の高欄(かうらん)に、高ひざまづきとかやいふ居ずまひに、御前の方(かた)に向ひて、後(うしろ)ざまに「誰々か侍る」と問ふ程こそをかしけれ。(=滝口のそれぞれが)細う高う名告り、また、人々候(さぶ)らはねばにや、名謁(なだいめん)仕(つかうまつら)ぬよし奏するも、「いかに」と問へば障(さは)る事ども申すに、(=蔵人は)さ聞きて帰るを、方弘(まさひろ=その時の蔵人)はきかず、とて君達の教へければ、いみじう腹立ち叱りて、勘(かんが)へて、滝口にさへ笑はる。

 御厨子所(みづしどころ)の御膳棚(おものだな)といふものに(=方弘が)沓(くつ)置きて、祓(はら)へ言ひ罵(ののし)るを(イニはらへ三字なし)、いとほしがりて、「誰(た)が沓(くつ)にかあらん、え知らず」と主殿司(とのもりづかさ)、人々の言ひけるを、「やや、方弘(まさひろ)がきたなき物ぞや」(=方弘)とりに来てもいとさわがし。162


五十九 若くてよろしき男(をのこ)の、下衆女(げすをんな)の名(な)を言ひ慣れて呼びたるこそ、いと憎くけれ。知りながらも、何とかや、片文字(かたもじ)は覚えで言ふはをかし。宮仕所(みやづかへどころ)の局(つぼね)などに寄りて、夜(よる)などぞ、さおぼめかんは悪しかりぬべけれど、主殿司(とのもりづかさ)、さらぬ所にては侍(さぶらひ)、蔵人所にある者を率(ゐ)て行(ゆ)きて呼ばせよかし。手づから(=自ら)は声もしるきに。はした者、童(わらは)べなどはされどよし。164


六十 若き人と児(ちご)は肥えたるよし。受領(ずりやう)など大人(おとな)だちたる人は、太きいとよし。あまり痩せ枯(か)らめきたるは、心苛(こころいら)れたらんと推し量らる。165


六十一 よろづよりは、牛飼童(うしかひわらは)の形(なり)悪しくて持たるこそあれ。他者(こともの)どもは、されど、後(しり)に立ちてこそ行け、先につとまもられ行く者、穢(きたな)げなるは心憂し。車のしりに殊なることなき男(をのこ)どもの連れ立ちたる、いと見ぐるし。細らかなる男(をのこ)、随身(ずいじん)など見えぬべきが、黒き袴の末濃(すそご)なる、狩衣(かりぎぬ)は何もうち馴ればみたる、走る車の方などに、のどやかにてうち添ひたるこそ、わが者とは見えね。なほ大かた様子(なり)あしくて、人使ふは悪ろかりき。破(や)れなど時々うちしたれど、馴ればみて罪なきは、さるかたなりや。使人(つかひびと)などはありて、童(わらは)べの穢げなるこそは、あるまじく見ゆれ。家にゐたる人も、そこにある人とて、使(つかひ)にても、客人(まらうど)などの往(い)きたるにも、をかしき童(わらは)の数多(あまた)見ゆるは、いとをかし。165


六十二 人の家の前を渡るに、侍(さぶらひ)めきたる男(をのこ)、つちに居(を)る者などして、男児(をのこご)の十(とを)ばかりなるが、髪をかしげなる、引きはへても、さばきて垂るも、また、五つ六つばかりなるが、髪は頸(くび)のもとにかいくくみて、面(つら)いと赤うふくらかなる、あやしき弓、笞(しもと)だちたる物など捧げたる、いとうつくし。車とどめて抱(いだ)き入れまほしくこそあれ。また、さて往くに、薫物(たきもの)の香(か)のいみじく抱(かか)へたる、いとをかし。167


六十三 よき家の中門(ちゆうもん)あけて、檳榔毛(びらうげ)の車の白う清げなる、櫨蘇枋(はじすはう)の下簾(したすだれ)の匂ひいと清げにて、榻(しぢ)に立ちたるこそめでたけれ。五位六位などの下襲(したがさね)の裾(しり)はさみて、笏(ささ)(=慶安刊本「さゝ」、能因本は「さく」)のいと白き、肩にうち置きなどして、とかくいき違ふに、また、装束(さうぞく)し壼胡簶(つぼやなぐひ=矢入れ)負ひたる随身の出で入る、いとつきづきし。厨女(くりやめ)のいと清げなるがさし出でて、「某殿(なにがしどの)の人や候(さぶら)ふ」など言ひたる、をかし。


六十四 滝は、音無(おとなし)の滝。布留(ふる)の滝は、法皇(ほふわう)の御覧じにおはしけんこそめでたけれ。那智(なち)の滝は熊野(くまの)にあるがあはれなるなり。轟(とどろき)の滝はいかにかしがましく怖ろしからん。168


二百二十二 川は(イ本 此一段奥の「人の家につきづきしき物」の次「むまやは」といふ前にあり)

 飛鳥川、淵瀬(ふちせ)定めなくはかなからむと、いとあはれなり。大井川(おほゐがは)。泉川。水無瀬川(みなせがは)。耳敏川(みみとがは)、また何事をさしもさかしく聞きけん(=能因本は「さかしがりけん」)とをかし。音無川、思はずなる名と、をかしきなり(=能因本は「なめり」)。細谷川(ほそたにがは)。玉星川(たまほしがは)。貫川(ぬきがは)。沢田川(さはだがは)、催馬楽などの思ひはするなるべし。なのりその川。名取川(なとりがは)もいかなる名を取りたるにかと聞かまほし。吉野川。天の川、この下にもあるなり。「七夕(たなばた)つ女(め)に宿からん」と業平が詠みけんも、ましてをかし。 169


六十五 橋は、あさむつの橋。長柄(ながら)の橋。あまびこの橋。浜名(はまな)の橋。ひとつ橋。佐野(さの)の船橋(ふなばし)。うたじめの橋。轟(とどろき)の橋。小川(をがは)の橋。かけはし。勢多(せた)の橋。木曾路(きそぢ)の橋。堀江(ほりゑ)の橋。鵲(かささぎ)の橋。ゆきあひの橋。小野(をの)の浮橋(うきはし)。山菅(やますげ)の橋。名を聞きたるをかし。仮寝(うたたね)の橋。170


六十六 里は、逢坂(あふさか)の里。ながめの里。いさめの里。ひとづまの里。たのめの里。朝風(あさふ)の里。夕日の里。十市(とをち)の里。伏見の里。長井の里。つまとりの里、人にとられたるにやあらん、わが取りたるにやあらん、いづれもをかし。(=慶安刊本。季吟は朝風にあさかぜと振り仮名す)171


六十七 草は、菖蒲(さうぶ)。菰(こも)。葵(あふひ)いとをかし。祭のをり、神代よりしてさる挿頭(かざし)となりけん、いみじうめでたし。物のさまもいとをかし。沢潟(おもだか)も名のをかしきなり、心あがりしけんとおもふに。三秡草(みくり)。蛇床子(ひるむしろ)。苔(こけ)。こだに。雪間の青草(あをば)(イわか葉)。酢漿(かたばみ)、あやの紋にても他物(こともの)よりはをかし。

 あやふ草は岸(きし)の額(ひたひ)に生(お)ふらんも、実(げ)にたのもしげなくあはれなり。いつまで草は生ふる所いとはかなくあはれなり。岸の額よりもこれはくづれやすげなり。まことの石灰(いしばひ)などには、え生ひずやあらんと思ふぞわろき。事なし草は思ふ事なきにやあらんと思ふもをかし、またあしき事を失ふにやと、いづれもをかし。

 しのぶ草いとあはれなり。屋の端(つま)、さし出でたる物の端(つま)などに、あながちに生ひ出でたるさま、いとをかし。蓬(よもぎ)いとをかし。茅花(つばな)いとをかし。浜茅(はまち)の葉はましてをかし。荊三稜(まろこすげ)。蘋萍(うきくさ)。浅茅(あさぢ)。青鞭草(あをつづら)。

 木賊(とくさ)といふ物は風に吹かれたらん音こそ、いかならんと思ひやられてをかしけれ。薺(なづな)。ならしば、いとをかし。蓮(はす)のうき葉のらうたげにて、のどかに澄(す)める池の面(おもて)に、大きなると小さきと、ひろごりただよひてありく、いとをかし。とりあげて物おしつけなどして見るも、よにいみじうをかし。八重葎(やへむぐら)。麦門冬(やますげ)。山藺(やまゐ)。女蘿(ひかげ)。浜木綿(はまゆふ)。葦(あし)。葛(くず)の風に吹きかへされて裏のいとしろく見ゆる、をかし。172


六十八 集(しふ)は、古万葉集(こまんえふしふ)。古今。後撰(ごせん)。174


六十九 歌の題は、都(みやこ)。葛(くず)。三稜草(みくり)。駒(こま)。霰(あられ)。笹(ささ)。壼菫(つぼすみれ)。ひかげ。蒋(こも)。高瀬(たかせ)。鴛鴦(をし)。浅茅(あさぢ)。芝(しば)。青鞭草(あをつづら)。梨(なし)。棗(なつめ)。あさがほ。175 


七十 草の花は、なでしこ、唐のは更なり、大和(やまと)のもいとめでたし。女郎花(をみなへし)。桔梗(ききやう)。菊の所々うつろひたる。刈萱(かるかや)。竜胆(りんだう)は枝ざしなどもむつかしげなれど、他花(ことばな)みな霜がれはてたるに、いと花やかなる色合ひにてさし出でたる、いとをかし。わざととりたてて、人めかすべきにもあらぬ様なれど、かまつかの花らうたげなり。名ぞうたてげなる。雁の来る花と、文字には書きたる。

 かに(イる=能因本)ひの花、色は濃からねど、藤の花にいとよく似て、春と秋と咲く、をかしげなり。壼菫(つぼずみれ)、すみれ、同じやうの物ぞかし。(是より以下義通ぜず他本を見合すべし)老いていけば同じなど憂し。しもつけの花。

 夕顔は朝顔に似て、言ひ続けたるもをかしかりぬべき花の姿にて、憎き実の有様こそいと口惜しけれ。などてさはた生ひ出でけん。ぬかづき(=ほほづき)などいふもののやうにだにあれかし。されどなほ夕顔といふ名ばかりはをかし。

 葦(あし)の花、更に見どころなけれど、御幣(みてぐら)など言はれたる、心ばへ(=意味)あらんと思ふに、ただならず(=優れてゐる)。文字も(イもえしも)薄(すすき)には劣(おと)らねど、水の面(つら)にてをかしうこそあらめと覚ゆ。「これに薄を入れぬ、いとあやし」と人言ふめり。秋の野のおしなべたるをかしさは、薄(すすき)にこそあれ。穂先(ほさき)の蘇枋(すはう)にいと濃きが、朝霧(あさぎり)に濡れてうち靡(なび)きたるは、さばかり(=これほど)の物やはある。秋の終(はて)ぞいと見所なき。色々に乱れ咲きたりし花の、かたもなく散りたる後(のち)、冬の末(すゑ)まで、頭(かしら)いと白く、おほどれたるをも知らで、昔思ひ出で顔になびきて、かひろぎ立てる人にこそいみじう似ためれ。よそふる事ありて、それをしもこそあはれとも思ふべけれ。

 萩はいと色ふかく、枝たをやかに咲きたるが、朝露に濡れてなよなよとひろごり臥したる、さ牡鹿の分きて立ち馴らすらんも心ことなり。唐葵(からあふひ=ひまわり)はとりわきて見えねど、日の影に従ひて傾(かたふ)くらんぞ、なべての草木の心とも覚えでをかしき。花の色は濃からねど、咲く山吹には、山石榴(いはつつじ)も異なることなけれど、「折りもてぞ見る」と詠まれたる、さすがにをかし。薔薇(さうび)は近くて、枝の様などはむつかしけれど、をかし。雨など晴れゆきたる水の面(つら)、黒木(くろき)の階(はし)などの面(つら)に、乱れ咲きたる夕映(ゆふば)え。175


七十一 おぼつかなきもの

 十二年の山籠(やまごもり)の法師の女親(めおや)。知らぬ所に闇なるに行きたる(イニゆきあひたるとあり可用也)に「顕(あらは)にもぞある(=人目につく)」とて、火も点(とも)さで、さすがに並みゐ(=並んで座つてゐる)たる。いま出で来たる(=出仕)者の心も知らぬに、やんごとなき物持たせて人の許(もと)やりたるに、遅くかへる。物言はぬ児(ちご)の、反(そ)り覆(くつがへ)りて人にも抱かれず泣きたる。暗きに覆盆子(いちご)食ひたる。人の顔見しらぬ物見。180


七十二 たとしへなきもの

 夏と冬と。夜と昼と。雨降ると日照ると。若きと老いたると。人の笑ふと腹立つと。黒きと白きと。思ふ(=愛する)と憎むと。藍(あゐ)と黄蘗(きはだ)と。雨と霧と。同じ人ながらも志(こころざし=愛情)失せぬるは、真(まこと)にあらぬ人とぞ覚ゆるかし。180


七十三 常磐木(ときはぎ)おほかる所に烏(からす)の寝て、夜中ばかりに寝(い)ね、騒がしく(イさがなく)落ちまどひ(イまろび)、木づたひて、寝おびれ(=寝ぼけ)たる声に鳴きたるこそ、昼の見目(みめ)には違(たが)ひてをかしけれ。181


七十四 忍びたる所にては夏こそをかしけれ。いみじう短かき夜のいとはかなく明けぬるに、つゆ寝ずなりぬ。やがて万(よろづ)の所あけながらなれば、涼(すず)しう見わたされたり。なほ今少し言ふべき事のあれば、互(かたみ)に答(いらへ)どもする程に、ただ居たる前(まへ)(イうへ)より、烏(からす)の高く鳴きて行くこそ、いと顕証(けそう)なる心地してをかしけれ。181


七十五 冬のいみじく寒きに、思ふ人とうづもれ臥して聞くに、鐘(かね)の音(おと)のただ物の底なるやうに聞こゆるもをかし。烏(からす)の声もはじめは羽(はね)のうちに口をこめながら鳴けば、いみじう物深く遠きが、つぎつぎになるままに近く聞こゆるもをかし。182


七十六 懸想人(けさうびと)にて来たるは言ふべきにもあらず。ただうち語らひ、またさしもあらねど、おのづから来などする人の、簾(す)の内にて、あまた人々ゐて、物など言ふに、入りて頓(とみ)に帰りげもなきを、供(とも)なる男童(をのこわらは)など(イをのこわらはなどのうきけしきみるにをののえも)、「斧(をの)の柄も朽ちぬべきなンんめり」とむつかしければ、永やかにうち眺めて(イあくびて)、密(みそか)にと思ひて言ふらめども「あなわびし、煩悩(ぼんなう)苦悩(くなう)かな、今は夜中にはなりぬらん」など言ひたる、いみじう心づきなく、かの言ふ者はとかくも覚えず、この居たる人こそ、をかしう見聞きつる事も失(う)するやうに覚ゆれ。

 また、さは色に出でてはえ言はずあると、高やかにうち言ひ呻(うめ)きたるも、「下ゆく水の」といとをかし。立蔀(たてじとみ)、透垣(すいがい)のもとにて、(=供の者が)「雨降りぬべし」など聞こえたるもいと憎し。よき人、君達などの供なるこそ、さやうにはあらね、ただ人などさぞある。数多(あまた)あらん中にも、心ばへ見てぞ率(ゐ)てありくべき。182

巻四

七十七 ありがたきもの

 舅(しうと)に褒めらるる婿。また姑(しうとめ)に思はるる婦(よめ)の君(きみ)。物よく抜くる白銀(しろがね)の毛抜(けぬき)。主(しう)謗(そし)らぬ人の従者(ずざ)。つゆの癖(くせ)片輪(かたは)なくて、形(かたち)心様(こころざま)もすぐれて、世にある程、聊(いささ)かの瑕瑾(きず)なき人。同じ所に住む人の、互(かたみ)に慚(は)ぢかはし、聊かの隙(ひま)なく用意(ようい=気遣ひ)したりと思ふが、遂(つひ)に見えぬ(=珍しい)こそかたけれ。物語、集(しふ)など書き写す本に墨つけぬ事。よき双紙(さうし)などは、いみじく心して書けども、必らずこそ穢(きたな)げになるめれ。男も女も法師も、ちぎり深くて語らふ人の、末まで仲よき事かたし。使ひよき従者(ずんざ)。掻練(かいねり)うたせたるに、あなめでたと見えておこす。189


七十八 内裏(うち)の局(つぼね)は、細殿(ほそどの)いみじうをかし。かみの小蔀(こじとみ)あけたれば、風いみじう吹き入りて夏もいと凉し。冬は雪、霰(あられ)などの風にたぐひて入りたるもいとをかし。せばくて童(わらべ)などののぼり居たるもあしければ、屏風(びやうぶ)の後(うしろ)などに隠しすゑたれば、他所(ことどころ)のやうに声たかく笑ひなどもせでいとよし。昼などもたゆまず心づかひせらる。夜(よる)はたまして聊(いささ)かうちとくべくもなきが、いとをかしきなり。

 沓(くつ)の音(おと)の夜(よ)ひと夜聞こゆるがとまりて、ただ指(および)一つしてたたくが、その人なンなりと、ふと知るこそをかしけれ。いと久しくたたくに音もせねば、寝いりにけるとや思ふらん。ねたく少しうち身じろく音、衣(きぬ)のけはひも、さなンなりと思ふらんかし。扇(あふぎ)などつかふもしるし。冬は火桶(ひおけ)にやをら立つる火箸(ひばし)の音も、忍びたれど聞こゆるを、いとどたたきまさり、声にても言ふに、陰(かげ)ながらすべりよりて聞く折もあり。

 また、数多(あまた)の声にて詩を誦(ず)し、歌などうたふには、叩(たた)かねどまづあけたれば、ここへとしも思はぬ人も立ちとまりぬ。入るべきやうもなくて、立ちあかすもをかし。御簾(みす)のいと青くをかしげなるに、几帳(きちやう)の帷子(かたびら)いとあざやかに、裾(すそ)のつま少しうち重なりて見えたるに、直衣(なほし)の後(うしろ)にほころび絶えず着たる君達、六位の蔵人の青色など着て、うけばりて、遣戸(やりど)のもとなどにそばよせてえ立てらず、塀(へい)の前などに(イかたに)、後(うしろ)押して袖うち合はせて立ちたるこそをかしけれ。

 また、指貫(さしぬき)いと濃(こ)う直衣(なほし)のあざやかにて、いろいろの衣(きぬ)どもこぼし出でたる人の、簾(す)を押し入れて、なから入りたるやうなるも、外(と)より見るは、いとをかしからんを、いと清げなる硯ひきよせて文書き、もしは鏡こひて鬢(びん)などかき直したるも、すべてをかし。三尺の几帳(きちやう)をたてたるに、帽額(もかう)のしもはただ少しぞある、外(と)に立てる人、内にゐたる人と物言ふ顔のもとに、いと憎く当りたるこそをかしけれ。長(たけ)のいと高く、短かからん人などやいかがあらん。なほ尋常(よのつね)のは、さのみぞあらん。190


七十九 まして臨時の祭の調楽(てうがく)などはいみじうをかし。殿主(とのもり)の官人(くわんにん)などの長き松を高く灯(とも)して、頸(くび)はひき入れて行けば、(=炬火の)さきは(=物に)さし付けつばかりなるに、をかしう遊び、笛吹き出でて(イたてて)、心ことに思ひたるに、君達の昼(ひ)の装束(さうぞく)して立ち止まり物言ひなどするに、殿上人の随身どもの、先(さき)を忍びやかに短く、おのが君達の料(れう=ため)に追(お)ひたるも、遊びに交りて、常に似ずをかしう聞こゆ。

 夜更けぬれば猶あけて帰るを待つに、君達の声にて、「荒田(あらた)に生ふる富草(とみくさ)の花」と歌ひたるも、この度は今少しをかしきに、いかなるまめ人にかあらん、すくすくしうさし歩みて出でぬるもあれば、笑ふを、「暫(しば)しや。『など、さ夜を捨てて急ぎ給ふ』とありて」など言へど、心地などやあしからん、倒(たふ)れぬばかり、もし人や追ひて捉ふると見ゆるまで、惑ひ出づるもあンめり。194


八十 職(しき)の御曹司(みざうし)におはしますころ、木立(こだち)など遥(はるか)に物古(ものふ)り、屋(や)の様も高う(イけうとくすずろに=古活字版)けどほけれど、すずろにをかしう覚ゆ。母屋(もや)は鬼ありとて皆隔(へだ)て出だして、南の廂(ひさし)に御几帳(みきちやう)立てて、又廂(またびさし)に女房は候(さぶら)ふ。近衛(このゑ)の御門(みかど)より左衛門の陣(ぢん)に入り給ふ上達部の前駆(さき)ども、殿上人のは短かければ、大前駆(おほさき)小前駆(こさき)と聞きつけて騒ぐ。数多(あまた)たびになれば、その声どもも皆聞きしられて、「それぞかれぞ」と言ふに、また「あらず(=違ふ)」など言へば、人して見せなどするに、言ひ当てたるは、「さればこそ」など言ふもをかし。

 有明のいみじう霧わたりたる庭におりて歩(あり)くを聞こし召して、御前にも起きさせ給へり。上(うへ)なる人(イ人々のかぎりはみな)は皆おりなどして遊ぶに、やうやう明けもてゆく。「左衛門の陣にまかりて見ん(=行つてみよう)」とて行けば、われもわれもと追ひつぎて行くに、殿上人あまた声して、「なにがし一声の秋」と誦(ず)んじて入(い)る(イまゐる)音すれば、遁(に)げ入りて物など言ふ。「月を見給ひける」などめでて、歌詠むもあり。夜も昼も殿上人の絶ゆる折(イよ)なし。上達部まかンでまゐり給ふに、おぼろげに急ぐ事なきは、必ず(=この職に)まゐり給ふ。195


八十一 あぢきなきもの

 わざと思ひ立ちて宮仕へに出で立ちたる人の、物憂がりてうるさげに思ひたる。人にも言はれ、むづかしき事もあれば、いかでかまかンでなんといふ言草(ことぐさ)をして、出でて親をうらめしければ、また参りなんと言ふよ。養子(とりこ)の顔にくさげなる。しぶしぶに思ひたる人を忍びて婿にとりて、思ふ様ならずと嘆く人。197


八十二 いとほしげなきもの

 人に詠みて取らせたる(=代作した)歌の褒めらるる、されどそれはよし。遠(とほ)き歩(あり)きする人の、「つぎつぎ縁(えん)尋ねて文得ん」と言はすれば、知りたる人の許(がり)等閑(なほざり)に書きて(=紹介状を)遣りたるに、なまいたはりなりと腹立ちて、返事(かへりごと)も取らせで無徳(むとく=無効)に言ひなしたる。198


八十三 心地よげなるもの

 卯杖(うづゑ)の祝言(ことぶき)(=堺本 イほうし=能因本)。神楽の人長(にんぢやう)。池の蓮(はちす)の村雨にあひたる。御霊会(ごりやうゑ)の馬長(むまをさ)。また御霊会の振幡(ふりはた)。199


八十四 とりもてるもの

 傀儡(くぐつ)のこととり(イことり)。除目(ぢもく)に第一の国得たる人。200


八十五 御仏名(おぶつみやう)のあした(イ又の日=三巻本)、地獄絵(ぢごくゑ)の(イちこくのゑの)御屏風(みびやうぶ)とり渡して、宮に御覧ぜさせ奉り給ふ。いみじう由々しき事限りなし。「これ見よかし」と仰せらるれど、「更に見侍らじ」とて、由々しさにうへ屋に隠れ臥しぬ。

 雨いたく降りて徒然(つれづれ)なりとて、殿上人うへの御局(みつぼね)に召して御遊びあり。道方(みちかた)の少納言琵琶(びは)いとめでたし。済政(なりまさ)の君筝(さう)の琴(こと)、行成(ゆきなり)笛、経房(つねふさ)の中将笙(さう)の笛など、いと面白う一渡(ひとわた)り遊びて、琵琶(びは)弾きやみたるほどに、大納言殿の、「琵琶の声(こゑ)は止(や)めて物語すること遅し」といふ事を誦(ず)んじ給ひしに、隠れ臥したりしも起き出でて、「罪は恐ろしけれど、なほ物のめでたきはえ止むまじ」とて笑はる。御声などの勝れたるにはあらねど、折(をり)のことさらに作りいでたるやうなりしなり。200


八十六 頭中将のそぞろなる虚言(そらごと)を聞きて、いみじう言ひおとし、「何しに人と思ひけん」など殿上にてもいみじくなんのたまふと聞くに、はづかしけれど、「まことならばこそあらめ、おのづから聞きなほし給ひてん」など笑ひてあるに、黒戸(くろど)のかたへなど渡るにも、声などする折は、袖を塞(ふた)ぎてつゆ見おこせず、いみじう憎み給ふを、とかくも言はず、見もいれで過ぐす。二月(きさらぎ)つごもりがた(イのころ)、雨いみじう降りてつれづれなるに、「御物忌にこもりて、さすがにさうざうしくこそあれ。物や言ひにやらましとなんのたまふ」と人々かたれど、「よにあらじ」など答(いら)へてあるに、一日(ひとひ)しもに暮らして参りたれば、夜(よる)のおとどに入(い)らせ給ひにけり。長押(なげし)の下(しも)に火近く取りよせて、さし集(つど)ひて篇(へん)をぞつく。「あなうれしや、疾(と)くおはせ」など見つけて言へど、すさまじき心地して、何しにのぼりつらんとおぼえて、炭櫃(すびつ)のもとにゐたれば、またそこに集まりゐて物など言ふに、「なにがし候(さぶら)ふ」といと花(はな)やかに言ふ。

 「あやしく、いつの間(ま)に何事のあるぞ」と問はすれば殿守司(とのもりづかさ)なり。「ただここに人伝(ひとづて)ならで申すべき事なん」と言へば、さし出でて問ふに、「これ頭中将殿の奉(たてまつ)らせ給ふ、御返へり疾(と)く」と言ふに、いみじく憎み給ふをいかなる御文ならんと思へど、「ただいま急ぎ見るべきにあらねば、いね、今きこえん」とて懐(ふところ)にひき入れて入(い)りぬ。なほ人の物言ふ聞きなどするに、すなはち立ちかへりて、「さらばその有りつる文を給はりて来(こ)となん仰(おほ)せられつる。疾くとく」と言ふに、「あやしく伊勢(いせ)の物語なるや」とて見れば、青き薄様(うすやう)にいと清(きよ)げに書き給へるを、心ときめきしつるさまにもあらざりけり。「蘭省(らんせう)の花の時(ときの)錦帳(きんちやう)の下(もと)」と書きて、「末(すゑ)はいかにいかに」とあるを、如何(いかが)はすべからん。御前のおはしまさば御覧ぜさすべきを、これがすゑ知り顔に、たどたどしき真字(まんな)に書きたらんも見ぐるしなど、思ひまはす程もなく、責めまどはせば、ただその奥に、すびつの消えたる炭のあるして、「草の庵(いほり)を誰かたづねん」と書きつけて取らせつれど、返事(かへりごと)も言はで、みな寝て、

 翌朝(つとめて)いと疾く局(つぼね)におりたれば、源中将の声して、「草の庵やある。草の庵やある」とおどろおどろしう問へば、「などてか、さ人げなきものはあらん。『玉の台(うてな)』もとめ給はましかば、いで聞こえてまし」と言ふ。「あなうれし、下(しも)にありけるよ。上(うへ)まで尋ねんとしつるものを」とて、昨夜(よべ)ありしやう、「頭中将の宿直(とのゐ)所にて、少し人々しきかぎり、六位まで集りて、万(よろづ)の人のうへ、昔(むかし)今と語りて言ひし序(ついで)に、『猶このもの無下(むげ)に絶えはてて後(のち)こそ、さすがにえあらね。もし言ひ出づる事もやと待てど、いささか何とも思ひたらず。つれなきがいとねたきを、今宵(こよひ)悪(あ)しとも善(よ)しとも定めきりて止(や)みなんかし』とて、皆言ひ合はせたりし事を、『「只今は見るまじき」とて入り給ひぬ』とて、主殿司(とのもりづかさ)来(きた)りしを、また追ひ帰へして、『ただ袖をとらへて、東西(とうざい)をさせず、こひとり持てこずば、文を返しとれ』と誡(いまし)めて、さばかり降る雨の盛(さかり)に遣りたるに、いと疾く帰りきたり。これとてさし出でたるが、ありつる文なれば、返してけるかとうち見るに合はせて喚(をめ)けば、『あやし、いかなる事ぞ』とてみな寄りて見るに、『いみじき盗人(ぬすびと)かな。猶えこそ捨(す)つまじけれ』と見さわぎて、『これがもとつけてやらん、源中将つけよ』など言ふ。夜更(ふ)くるまでつけ煩(わづら)ひてなん止(や)みにし。このこと必ず語り伝ふべき事なりとなん定めし」と、いみじく傍(かたは)ら痛きまで言ひきかせて、「御名は今は草の庵となんつけたる」とて急ぎたち給ひぬれば、「いとわろき名の末まであらんこそ口惜しかるべけれ」と言ふほどに、修理助(しゆりのすけ)則光(のりみつ)「いみじきよろこび申しに、うへにやとて参りたりつる」と言へば、「なぞ司召(つかさめし)ありとも聞こえぬに、何になり給へるぞ」と言へば、「いで、まことにうれしき事の昨夜(よべ)侍しを、心もとなく思ひあかしてなん。かばかり面目(めんぼく)ある事なかりき」とて、はじめありける事ども、中将の語りつる同じ事どもを言ひて、「この返事(かへりごと)に従ひてさる物ありとだに思はじと、頭中将のたまひしに、ただに来(きた)りしは中々よかりき。持て来りしたびは、如何(いか)ならんと胸つぶれて、まことにわろからんは、兄(せうと)のためもわろかるべしと思ひしに、なのめにだにあらず。そこらの人の褒め感じて、『兄こそ聞け』とのたまひしかば、下心(したごころ)にはいとうれしけれど、『さやうのかたには更にえ候ふまじき身になん侍る』と申ししかば、『言加(ことく)はへ聞き知れとにはあらず、ただ人に語れとて聞かするぞ』とのたまひしなん、少し口惜しき兄(せうと)のおぼえに侍りしかど、『これがもとつけ試(こころみ)るに、言ふべきやうなし。殊(こと)にまたこれが返しをやすべき』など言ひ合はせ、わろき事言ひては中々ねたかるべしとて、夜中までなんおはせし。これは身のためにも人のためにも、さていみじきよろこびには侍らずや。司召(つかさめし)に少将のつかさ得て侍らんは、何(なに)とも思ふまじくなん」と言へば、実(げ)に数多(あまた)して、さる事あらんとも知らで、ねたくもありけるかな。これになん胸つぶれて覚ゆる。この妹兄(いもうとせうと)といふ事をば、うへまで皆しろしめし、殿上にも官(つかさ)名をば言はで、「せうと」とぞつけたる。

 物語などして居たる程に、「まづ」と召したれば参りたるに、このこと仰せられんとてなりけり。うへの渡らせ給ひて、語り聞こえさせ給ひて、「男(をのこ)どもみな扇に書きて持たる」と仰せらるるにこそ、あさましう何の言はせける事にかと覚えしか。さてのちに袖几帳(そできちやう)など取りのけて、思ひなほり給ふめりし。202


八十七 返る年の二月(きさらぎ)二十五日に、宮、職(しき)の御曹司(ざうし)に出でさせ給ひし。御供(とも)にまゐらで梅壼に残り居たりしまたの日、頭中将(=藤原斉信)の消息(せうそこ)とて、「きのふの夜鞍馬へ詣(まう)でたりしに、こよひ方(かた)の塞(ふた)がれば、違(たが)へになん行く。まだ明けざらんに帰りぬべし。必ず言ふべき事あり、いたくたたかせで待て」とのたまへりしかど、「局(つぼね)に一人はなどてあるぞ、ここに寝よ」とて御匣殿(みくしげどの)めしたれば参りぬ。

 久しく寝起きて下りたれば、「夜(よる)いみじう人のたたかせ給ひし。からうじて起きて侍りしかば、『うへにかたらば斯(か)くなん』とのたまひしかども、『よもきかせ給はじ』とて臥し侍りにき」と語る。心もとなの事やとて聞くほどに、主殿司(とのもりづかさ)きて、「頭の殿の聞こえさせ給ふなり。只今まかり出づるを、聞こゆべき事なんある」と言へば、「見るべきことありて、うへになんのぼり侍る。そこにて」と言ひて、局はひきもやあけ給はんと、心ときめきして、わづらはしければ、梅壼の東おもての半蔀(はじとみ)あげて、「ここに」と言へば、めでたくぞ歩み出で給へる。桜の直衣(なほし)いみじく花々と、うらの色つやなどえも言はず清(けう)らなるに、葡萄染(えびぞめ)のいと濃き指貫(さしぬき)に、藤の折り枝ことごとしく織りみだりて、紅の色、擣目(うちめ)など、輝くばかりぞ見ゆる。次第に白きうす色など、あまた重りたる、狭(せば)きままに、片つ方はしもながら、少し簾(す)のもと近く寄りゐ給へるぞ、まことに絵に書き、物語のめでたきことに言ひたる、これにこそはと見えたる。

 御前の梅は、西は白く東(ひがし)は紅梅(こうばい)にて、少し落ちかたになりたれど、猶をかしきに、うらうらと日の気色のどかにて、人に見せまほし。簾(す)の内に、まして若やかなる女房などの、髪(かみ)うるはしく長くこぼれかかりなど、そひ居たンめる、いま少し見所あり、をかしかりぬべきに、いとさだ過ぎ、ふるぶるしき人の、髪なども我にはあらねばや、所々わななきちりぼひて、大かた色ことなる頃なれば、あるかなきかなる薄(うす)にびども、間(あはひ)も見えぬ衣(きぬ)どもなどあれば、つゆの映えも見えぬに、おはしまさねば裳も着ず、袿(うちぎ)すがたにて居たるこそ、物ぞこなひに口惜しけれ。

 「職へなんまゐる、ことづけやある、いつかまゐる」などのたまふ。さても昨夜(よべ)あかしもはてで、されどもかねてさ言ひてしかば待つらんとて、月のいみじう明かきに、西の京より来るままに、局(つぼね)を叩きしほど、辛うじて寝おびれて起き出でたりしけしき、答(いらへ)のはしたなさなど語りてわらひ給ふ。「無下にこそ思ひ倦(う)んじにしか。などさる者をば置きたる」など実(げ)にさぞありけんと、いとほしくもをかしくもあり。暫(しば)しありて出で給ひぬ。外(と)より見ん人はをかしう、内にいかなる人のあらんと思ひぬべし。奥のかたより見いだされたらん後ろこそ、外(と)にさる人やともえ思ふまじけれ。

 暮れぬればまゐりぬ。御前(おまへ)に人々多く集(つど)ひゐて、物語のよきあしき、にくき所などをぞ、定め言ひしろひ誦(ずう)じ、仲忠がことなど、御前にも、劣りまさりたる事など仰せられける。「まづこれは如何にとことわれ。仲忠が童生(わらはおひ)のあやしさを、切(せち)に仰せらるるぞ」などいへば、「何かは、琴(きん)なども天人(てんにん)降(お)るばかり弾きて、いとわろき人なり。みかどの御むすめやは得たる」と言へば、仲忠が方人(かたうど)と心を得て「さればよ」など言ふに、「この事どもよりは、ひる斉信(ただのぶ)が参りたりつるを見ましかば、いかにめで惑はましとこそ覚ゆれ」と仰せらるるに、人々「さてまことに常よりもあらまほしう」など言ふ。「まづその事こそ啓せんと思ひて参り侍りつるに、物語の事にまぎれて」とて、ありつる事を語り聞こえさすれば、「誰も誰も見つれど、いとかく縫ひたる糸針目(いとはりめ)までやは見とほしつる」とて笑ふ。

 「『西の京といふ所の荒れたりつる事、諸共(もろとも)に見る人あらましかばと、なん覚えつる。垣(かき)なども皆破れて、苔(こけ)生ひて』など語りつれば、宰相の君の、『瓦(かはら)の松はありつや』と答(いら)へたりつるを、いみじうめでて、『西のかた都門(ともん)を去れることいくばくの地ぞ』と口ずさびにしつる事」など、かしがましきまで言ひしこそをかしかりしか。212


八十八 里にまかでたるに、殿上人などの来るも、安からずぞ人々言ひなすなる。いとあまり心に引き入りたる覚(おぼえ=心にやましいこと)はた無ければ、さ言はん人も憎からず。また夜も昼も来る人をば、何か話しなどもかがやき(=恥をかかせて)返さん。真(まこと)に睦(むつま)じくなどあらぬも、さこそは(=よけいに)来めれ。あまりうるさくも実(げ)にあれば、このたび出でたる所をば、いづくともなべてには知らせず。経房(つねふさ)済政(なりまさ)の君などばかりぞ知り給へる。

 左衛門尉(さゑものじよう)則光(のりみつ)が来て、物語などする序(ついで)に、「昨日も宰相中将殿(=斉信)の『妹(いもうと=清少)の在り所さりとも知らぬやうあらじ』と、いみじう問ひ給ひしに、更に知らぬよし申ししに、あやにくに強ひ給ひし事」など言ひて、「ある事あらがふは、いと佗しうこそありけれ。ほとほと笑(ゑ)みぬべかりしに、左中将(=経房)のいとつれなく知らず顔にて居給へりしを、かの君に見だに合はせば笑みぬべかりしに佗びて、台盤(だいばん)の上に怪しき和布(め=ワカメ)のありしを、ただ取りに取りて食ひまぎらはししかば、中間(ちゆうげん=時間外)にあやしの食ひ物やと人も見けんかし。されど、かしこうそれにてなん申さずなりにし。笑ひなましかば不用ぞかし。まことに知らぬなめりと思したりしも、をかしうこそ」など語れば、「更にな聞こえ給ひそ」などいとど言ひて、日頃久しくなりぬ。

 夜いたく更けて、門おどろおどろしく叩けば、「何のかく心もとなく遠からぬ程を叩くらん」と聞きて、(=どなたですかと)問はすれば、滝口なりけり。左衛門の文とて、文を持て来たり。皆ねたるに、火近く取りよせて見れば、「明日(あす)御読経(みどきやう)の結願(けちぐわん)にて、宰相中将の御物忌に籠り給へるに、『妹の在所(ありどころ)申せ』と責めらるるに、術(ずち)なし、更にえ隠し申すまじき。そことや聞かせ奉るべき。いかに仰(おほせ)に従はん」とぞ言ひたる。返事も書かで、和布(め)を一寸ばかり紙に包みて遣(や)りつ。

 さて後に来て、「一夜責めて問はれて、すずろなる所に率てありき奉りて(イし)、まめやかにさいなむに、いとからし。さてとかくも御返りのなくて、そぞろなる和布(め)の端(はし)を包みて給へりしかば、取り違(たが)へたるにや」と言ふに、怪しの違物(たがへもの)や。人のもとにさる物包みて送る人やはある。いささかも心得ざりけると見るが憎ければ、物も言はで、硯のある紙の端に、

かづきする蜑(あま)の住家はそこなりとゆめ言ふなとや、めをくはせけん

と書きて出だしたれば、「歌詠ませ給ひつるか、更に見侍らじ」とて(=歌の紙を)扇(あふ)ぎ返して遁(に)げていぬ。

 かう互(かたみ)に後見(うしろみ)語らひなどする中(うち)に、何事ともなくて、少し仲悪しくなりたるころ、文(ふみ)遣(おこ)せたり。「便(びん)なき事侍るとも、ちぎり聞こえし事は捨て給はで、よそにてもさぞ(=妹背)などは見給へ」と言ひたり。常に言ふ事は、「おのれをおぼさん人は、歌など詠みてえさすまじき。すべて仇敵(あだかたき)となん思ふべき。今はかぎりありて絶えなん(=絶交)と思はん時、さる事(=歌)はいへ」と言ひしかば、この返しに、

くづれよる妹脊の山のなかなればさらによし野のかはとだに見じ

と言ひ遣りたりしも、真(まこと)に見ずやなりけん、返事もせず。

 さて冠(かうぶり=位階)得て遠江介(とほたふみのすけ)など言ひしかば、憎くしてこそやみにしか。219


八十九 物のあはれ知らせがほなるもの

 鼻垂(はなた)る間もなく、かみて物言ふ声。眉ぬく。225


九十 さて、その左衛門の陣にいきて後、里に出でて暫しあるに、「疾く参れ」など仰事(おほせごと)の端に、「左衛門の陣へいきし朝ぼらけなん、常におぼし出でらるる。いかでさつれなく、うち古(ふ=厭う)りてありしならん。いみじくめでたからんとこそ思ひたりしか」など仰せられたる御返事に、かしこまりのよし申して、「私(わたくし)にはいかでか、めでたしと思ひ侍らざらん。御前にも、さりとも、『中なるをとめ(=「朝ぼらけほのかに見れば飽かぬかな中なるをとめしばしとめなむ」と仲忠がライバルの凉の琴を褒めた歌)』とはおぼしめし御覧じけんとなん思ひ給へし」と聞こえさせたれば、たち帰り「いみじく思ふべかンめるなりたが(=能因本は「なりかたたが」→仲忠が)面伏せなる事(=仲忠の歌)をば、いかでか啓(けは=能因本は「けい」)したるぞ。ただ今宵(こよひ)のうちに万(よろづ)の事を捨てて参られよ。さらずばいみじく憎ませ給はんとなん仰事(おほせごと)ある」とあれば、よろしからんにてだにゆゆし。まして「いみじく」とある文字には、命もさながら捨ててなんとて参りにき。226


九十一 職(しき)の御曹司(みざうし)におはしますころ、西の廂(ひさし)に不断(ふだん=昼夜連続)の御読経(みどきやう)あるに、仏などかけ奉り、法師のゐたるこそ更(さら)なる事なれ。(227)

 二日ばかりありて、縁(えん)のもとにあやしき者の声(こゑ)にて、「猶その仏供(ぶつく=お供へ)のおろし(=お下がり)侍りなん」と言へば、「いかで。まだきには」と答(いら)ふるを、何の言ふにかあらんと立ち出でて見れば、老いたる女の法師(ほふし)の、いみじく煤(すす)けたる狩袴(かりばかま)の、筒とかやのやうに細く短きを、帯より下五寸ばかりなる、衣(ころも)とかや言ふべからん、同じやうに煤けたるを着て、猿のさまにて言ふなりけり。「あれは何事言ふぞ」と言へば、声ひきつくろひて、「仏の御弟子に候へば、仏のおろし賜(た)べと申すを、この御坊達(ごばうたち)の惜(を)しみたまふ」と言ふ、花やかに雅(みやび)かなり。「かかる者は、うち屈(くん)じたるこそあはれなれ、うたても花やかなるかな」とて、「他物(こともの)は食はで、仏の御おろしをのみ食ふが、いと尊き事かな」と言ふけしきを見て、「などか他物(ことも)も食べざらん。それが候はねばこそ取り申し侍れ」と言へば、菓子(くだもの)、ひろき餅(もちひ)などを、物に取り入れて取らせたるに、無下に仲よくなりて、万(よろづ)の事を語る。

 若き人々出できて、「男やある、いづこにか住む」など口々に問ふに、をかしき言、添へ言などすれば、「歌はうたふや、舞などするか」と問ひも果てぬに、「夜は誰と寝ん、常陸介(ひたちのすけ)と寝ん、寝たる膚(はだ)もよし」これが末(すゑ)いと多かり。また、「男山の峰のもみぢ葉、さぞ名はたつたつ」と頭(かしら)をまろがし振る。いみじくにくければ笑ひ憎みて「往(い)ね、往ね」と言ふもいとをかし。「これに何取らせん」と言ふを聞かせ給ひて、「いみじう、などかく傍(かたは)ら痛き事はせさせつる。えこそ聞かで、耳を塞(ふた)ぎてありつれ。その衣(きぬ)一つとらせて、疾く遣りてよ」と仰事(おほせごと)あれば、取りて「それ賜(たま)はらするぞ。衣(きぬ)煤(すす)けたり。白くて着よ」とて投げ取らせたれば、伏し拝みて、肩にぞうちかけて舞ふものか。真(まこと)に憎くて皆入りにし。

 後(のち)には慣(な)らひたるにや、常に見えしらがひて歩(あり)く。やがて常陸介(ひたちのすけ)とつけたり。衣も白めず、同じ煤けにてあれば、いづち遣りにけんなど憎むに、右近の内侍の参りたるに、「かかるものなん語らひつけて置きたンめる。かうして常にくること」と、ありし様(やう)など小兵衛といふ人してまねばせて聞かせ給へば、「あれ(=それを)いかで見侍らん。必ず見せさせ給へ。御得意(=御ひいき)なンなり。更によも語らひ取ら(=横取り)じ」など笑ふ。その後(のち)また、尼なる片端(かたは)のいとあてやかなるが出で来たるを、また呼び出でて物など問ふに、これははづかしげに思ひてあはれなれば、衣(きぬ)一つ給はせたるを、伏し拝むはされどよし。扨(さて)うち泣き喜びて出でぬるを、はやこの常陸介いき合ひて見てけり。その後(のち)いと久しく見えねど、誰かは思ひ出でん。

 さて十二月(しはす)の十余日(とをかあまり)のほどに、雪いと高う降りたるを、女房どもなどして、物の蓋(ふた)に入れつついと多く置くを、同じくば庭にまことの山を作らせ侍らんとて、侍(さぶらひ)召して仰事(おほせごと)にて言へば、集りて作るに、主殿司(とのもりづかさ)の人にて御清めに参りたるなども皆寄りて、いと高く作りなす。宮司(みやづかさ)など参り集りて、言(こと)加へ異(こと)に作れば、所の衆(しゆう)三四人まゐりたる。主殿司(とのもりづかさ)の人も二十人ばかりになりにけり。里なる侍(さぶらひ)召しに遣(つかは)しなどす。「今日この山つくる人には禄(ろく=褒美)賜(たま)はすべし。雪山に参らざらん人には、同じからず、留めん」など言へば、聞きつけたるは惑(まど)ひ参(まゐ)るもあり。里遠きはえ告げやらず。

 作り果てつれば、宮司(みやづかさ)召して、衣(きぬ)二ゆひ取らせて、縁(えん)に投げ出づるを、一(ひとつ)づつ取りに寄りて、拝(をが)みつつ腰にさして皆まかンでぬ。袍(うへのきぬ)など着たるは、片方(かたへ)去らで狩衣(かりぎぬ)にてぞある。

 「これいつまでありなん」と人々のたまはするに、「十余日(とをかあまり)はありなん」ただこの頃のほどを、ある限り(=全員が)申せば、「いかに」と問はせ給へば、「正月(むつき)の十五日まで候ひなん」と申すを、御前にも、「えさはあらじ」と思すめり。女房などは、すべて「年の内、晦日(つごもり)までもあらじ」とのみ申すに、「あまり遠くも申してけるかな。実(げ)にえしもさはあらざらん。朔日(ついたち)などぞ申すべかりける」と下には思へど、「さばれ、さまでなくと、言ひ初(そ)めてんことは」とて、かたう争(あら)がひつ。

 二十日のほどに雨など降れど、消ゆべくもなし。長(たけ)ぞ少し劣りもてゆく。「白山(しらやま)の観音(くわんおん)、これ消(き)やさせ給ふな」と祈るも物狂ほし。

 さてその山作りたる日、式部の丞(じよう)忠隆(ただたか)御使にて参りたれば、褥(しとね)さし出だし物など言ふに、「今日の雪山つくらせ給はぬ所なんなき。御前の壷(つぼ)にも作らせ給へり。春宮(とうぐう)、弘徽殿(こきでん)にも作らせ給へり。京極殿(きやうごくどの)にも作らせ給へり」など言へば、

ここにのみめづらしと見る雪の山ところどころにふりにけるかな

と傍(かたはら)なる人して言はすれば、たびたび傾(かたぶ=思案)きて、「返しはえ仕(つかうまつ)り穢(けが)さじ。あざれたり。御簾(みす)の前に人にを語り侍らん」とて立ちにき。歌はいみじく好むと聞きしに、あやし。御前に聞こしめして、「いみじくよくとぞ思ひつらん」とぞのたまはする。

 晦日(つごもり)がたに、少し小(ちひ)さくなるやうなれど、猶いと高くてあるに、昼つかた縁に人々出で居などしたるに、常陸介出で来たり。「などいと久しく見えざりつる」と言へば、「何か。いと心憂き事の侍りしかば」と言ふに、「いかに。何事ぞ」と問ふに、「なほかく思ひ侍りしなり」とて長やかに詠み出づ。

「うらやまし足もひかれずわたつ海のいかなるあまに物たまふらん

となん思ひ侍りし」と言ふを憎み笑ひて、人の目も見入れねば、雪の山にのぼり、かかづらひ歩(あり)きて往ぬる後に、右近の内侍にかくなんと言ひ遣りたれば、「などか人添へてここには給はせざりし。かれがはしたなくて、雪の山までかかり伝ひけんこそ、いと悲しけれ」とあるをまた笑ふ。雪山はつれなく(=無事)て年もかへりぬ。

 ついたちの日また雪多く降りたるを、「うれしくも降り積みたるかな」と思ふに、「これはあいなし。初(はじめ)のをば置きて、今のをばかき棄てよ」と仰せらる。うへにて局(つぼね)へいと疾う下(お)るれば、侍(さぶらひ)の長(をさ)なる者、柚(ゆ)の葉の如くなる宿直衣(とのゐきぬ)の袖の上に、青き紙の松に付けたるを置きて、わななき出でたり。「そはいづこのぞ」と問へば、「斎院より」と言ふに、ふとめでたく覚えて、取りて参りぬ。

 まだ大殿籠(おほとのごも)りたれば、母屋にあたりたる御格子を、碁盤(こなはん=能因本は「五はん」)などかき寄せて、一人念じて上ぐる、いと重し。片つ方なればひしめくに、おどろかせ給ひて、「などさはする」とのたまはすれば、「斎院より御文の候はんには、いかでか急ぎあけ侍らざらん」と申すに、「実(げ)にいと疾(と)かりけり」とて起きさせ給へり。御文あけさせ給へれば、五寸ばかりなる卯槌(うづち)二つを、卯杖(うづゑ)のさまに頭(かしら)つつみなどして、山橘、日陰、山菅(やますげ)など美しげに飾りて、御文はなし。ただなるやう有らんやはとて御覧ずれば、卯槌の頭つつみたる小さき紙に、

山とよむ斧(をの)の響きをたづぬればいはひの杖の音にぞありける

 御返し書かせ給ふ程もいとめでたし。斎院にはこれより聞こえさせ給ふ。御返しもなほ心ことに書きけがし(=書き損じ)、多く御用意見えたる。御使に、白き織物の単衣(ひとへ)、蘇枋(すはう)なるは梅なめりかし。雪の降りしきたるに、かづきて参るもをかしう見ゆ。このたびの御返事を知らずなりにしこそ口惜しかりしか。

 雪の山は真(まこと)に越(こし=北陸)のにやあらんと見えて、消えげもなし。黒くなりて、見るかひもなき様ぞしたる。勝ちぬる心地して、いかで十五日待ちつけさせんと念ずれど、「七日をだにえ過さじ」と猶言へば、いかでこれ見果てんと皆人思ふ程に、俄(にはか)に三日内裏(うち)へ入(い)らせ給ふべし。いみじう口惜しく、この山の果てを知らずなりなん事と、まめやかに思ふほどに、人も「実(げ)にゆかしかりつるものを」など言ふ。御前にも仰せらる。同じくは言ひ当てて御覧ぜさせんと思へる甲斐なければ、御物の具運び、いみじう騒がしきに合はせて、木守(こもり)といふ者の、築地(ついぢ)のほどに廂(ひさし)さしてゐたるを、縁(えん)のもと近く呼びよせて、「この雪の山いみじく守りて、童(わらはべ)などに踏みちらさせ毀(こぼ)たせで、十五日までさぶらはせ。よくよく守りて、その日に当らば、めでたき禄(ろく)給はせんとす。わたくしにも、いみじき喜び言はん」など語らひて、常に台盤所(だいばんどころ)の人、下衆(げす)などに乞(こ)ひて呉(く)るる菓子(くだもの)や何やと、いと多くとらせたれば、うち笑みて、「いと易きこと。たしかに守り侍らん。童などぞのぼり侍らん」と言へば、「それを制して聞かざらん者は、事のよしを申せ」など言ひ聞かせて、入らせ給ひぬれば、七日まで候ひて出でぬ。

 その程も、これが後(うしろ)めたきままに、おほやけ人、すまし(=清掃人)、長女(をさめ)などして、絶えず(=木守を)いましめにやり、七日の御節供のおろし(=お下がり)などをやりたれば、(=木守が)拝みつる事など、帰りては笑ひあへり。

 里にても、(=夜)明くる即ちこれを大事にして見せにやる。十日のほどには五六尺ばかりありと言へば、うれしく思ふに、十三日の夜雨いみじく降れば、これにぞ消えぬらんと、いみじく口惜し。今一日(ひとひ)も待ちつけでと、夜(よる)も起き居て嘆けば、聞く人も物狂ほしと笑ふ。人の起きて行くにやがて起きゐて、下衆起こさするに、更に起きねば、憎み腹立たれて、起き出でたるを遣りて見すれば、「円座(わらふだ)ばかりになりて侍る。木守いとかしこう童(わらはべ)も寄せで守りて、『明日(あす)明後日(あさて)までもさぶらひぬべし。禄たまらん』と申す」と言へば、いみじくうれしく、「いつしか明日(あす)にならば、いと疾う歌よみて、物に入れてまゐらせん」と思ふも、いと心もとなうわびしう、まだ暗きに、大きなる折櫃(をりびつ)など持たせて、「これに白からん所、ひたもの(=いつぱい)入れて持て来(こ)。汚なげならんは掻き捨てて」など言ひくくめて遣りたれば、いと疾く、持たせてやりつる物引き下げて、「はやう失せ侍りにけり」と言ふに、いとあさまし。

 をかしうよみ出でて、人にも語り伝へさせんとうめき誦(ず)んじつる歌も、いとあさましくかひなく、「いかにしつるならん。昨日(きのふ)さばかりありけんものを、夜(よ)のほどに消えぬらんこと」と言ひ屈(くん)ずれば、「木守が申しつるは、『昨日いと暗うなるまで侍りき。禄を給はらんと思ひつるものを、給はらずなりぬる事』と、手をうちて申し侍りつる」と言ひさわぐに、内裏より仰事(おほせごと)ありて、「扨(さて)雪は今日(けふ)までありつや」とのたまはせたれば、いと妬(ねた)く口惜しけれど、「年のうち朔日(ついたち)までだにあらじと人々啓し給ひし。昨日の夕暮まで侍りしを、いとかしこしとなん思ひ給ふる。今日まではあまりの事になん。夜の程に、人の憎がりて取り捨て侍るにや、となん推しはかり侍ると啓せさせ給へ」と聞こえさせつ。

 さて二十日に参りたるにも、まづこの事を御前にても言ふ。「みな消えつ」とて蓋(ふた)の限り(=だけ)引き下げて持て来たりつる帽子(ほうし=能因本は漢字で「法師」)のやうにて、即ち詣で来たりつるが、あさましかりし事。物の蓋(ふた)に小山うつくしう作りて、白き紙に歌いみじく書きて参らせんとせし事など啓すれば、いみじく笑はせ給ふ。御前なる人々も笑ふに、「かう心に入れて思ひける事を違へたれば罪得らん。まことには、四日の夕さり、侍(さぶらひ)ども遣りて取り捨てさせしぞ。返事(かへりごと)に、言ひ当てたりしこそをかしかりしか。その翁(おきな)出できて、いみじう手をすりて言ひけれど、『仰事(おほせごと)ぞ、かのより来たらん人にかう聞かすな。さらば屋うち毀(こぼ)たせん』と言ひて、左近の司(つかさ)(イの入)、南の築地(ついぢ)の外(と)にみな取り捨てし。『いと高くて多くなんありつ』と言ふなりしかば、実(げ)に二十日までも待ちつけて、ようせずは、今年の初雪にも降り添ひなまし。上にも聞こし召して、『いと思ひより難くあらがひたり』と、殿上人などにも仰せられけり。さてもかの歌を語れ、今はかく言ひ顕(あらは)しつれば、同じ事、勝ちたり。語れ」など御前にものたまはせ、人々ものたまへど、「何せんにか。さばかり(=これだけ)の事を承(うけたまは=聞く)りながら啓し侍らん」などまめやかに憂く、心憂がれば、上も渡らせ給ひて、「真(まこと)に年頃はおほくの人(=能因本は「おぼえの人」中宮のお気に入り)なンめりと見つるを、これにぞ怪しく思ひし」など仰せらるるに、いとどつらく、うちも泣きぬべき心地ぞする。「いであはれ。いみじき世の中ぞかし。後(のち)に降り積みたりし雪をうれしと思ひしを、それはあいなしとて、かき捨てよと仰事(おほせごと)侍りしか」と申せば、「実(げ)に勝たせじと思(おぼ)しけるならん」と、上も笑はせおはします。227

巻五

九十二 めでたきもの

 唐錦(からにしき)、飾太刀(かざりだち)、作仏(つくりぼとけ)のもく、色あひよく花房(はなぶさ)長くさきたる藤の松にかかりたる。六位の蔵人こそ猶めでたけれ。いみじき君達なれども、えしも着給はぬ綾織物(あやおりもの)を、心にまかせて着たる、青色(あをいろ)すがたなど、いとめでたきなり。所の衆(しう)、雑色(ざふしき)、ただの人の子供などにて、殿原(とのばら)の四位五位六位も、官位(つかさ)あるが下(しも)にうち居て何と見えざりしも、蔵人になりぬれば、えも言はずぞあさましくめでたきや。宣旨(せんじ)もてまゐり、大饗の甘栗の使などに参りたるを、もてなし饗応(きやうよう)し給ふさまは、いづこなりし天降人(あまくだりびと)ならんとこそ覚ゆれ。

 御むすめの女御、后におはします、まだ姫君など聞こゆるも、御使にてまゐりたるに、御文とり入るるよりうちはじめ、褥(しとね)さし出づる袖口(そでぐち)など、明け暮れ見しものともおぼえず。下襲(したがさね)の裾(しり)ひきちらして、衛府(ゑふ)なるは今すこしをかしう見ゆ。みづから盃さしなどしたまふを、我心にも覚ゆらん。いみじうかしこまり、べちにゐし家の君達をも、けしきばかりこそかしこまりたれ、同じやうにうちつれありく。うへの近くつかはせ給ふ様など見るは、ねたくさへこそ覚ゆれ。御文かかせ給へば、御硯の墨すり、御団扇(うちは)などまゐり給へば、われ仕(つかうまつ)るに、三年(みとせ)四年(よとせ)ばかりのほどを、なりあしく物の色よろしうてまじろはんは、言ふかひなきものなり。かうぶり得て、おりんこと近くならんだに、命よりはまさりて惜しかるべき事を、その御たまはりなど申して惑ひけるこそ、口惜しけれ(イいと口)。昔の蔵人は、今年の春よりこそ泣きたちけれ。今の世には、走りくらべをなんする。

 博士(はかせ)の才(ざえ)あるは、いとめでたしと言ふも愚かなり。顔もいと憎げに、下臈(げらふ)なれども、世にやんごとなき者に思はれ、かしこき御前に近づきまゐり、さるべき事など問はせ給ふ御文(ふみ)の師にて候(さぶら)ふは、めでたくこそおぼゆれ。願文(ぐわんもん)も、さるべきものの序(じよ)作り出だして褒めらるる、いとめでたし。

 法師の才(ざえ)ある、すべて言ふべきにあらず。持経者(ぢきやうじや)の一人して読むよりも、数多(あまた)が中にて、時など定まりたる御読経(みどきやう)などに、なほいとめでたきなり。暗うなりて「いづら御読経あぶらおそし」などと言ひて、読みやみたる程、忍びやかにつづけ居たるよ。

 后(きさき)の昼の行啓(ぎやうけい)。御産屋(うぶや)。宮はじめの作法(さほふ)。獅子(しし)、狛犬、大床子(だいしやうじ)など持てまゐりて、御帳(みちやう)の前にしつらひすゑ、内膳(ないぜん)、御竃(おほんへつひ)わたしたてまつりなどしたる、姫君など聞こえしただ人とこそつゆ見えさせ給はね。

 一の人の御ありき。春日詣(まう)で。葡萄染(えびぞめ)の織物。すべて紫なるは、何も何もめでたくこそあれ、花も、糸も、紙も。紫の花の中には杜若(かきつばた)ぞ少しにくき。色はめでたし。六位の宿直姿(とのゐすがた)のをかしきにも、紫のゆゑなめり。ひろき庭に雪のふりしきたる。

 今上(きんじやう)一の宮、まだ童(わらは)にておはしますが、御叔父(をぢ)に上達部(かんだちめ)などの、わかやかに清げなるに抱(いだ)かれさせ給ひて、殿上人(てんじやうびと)など召しつかひ、御馬(おほんむま)ひかせて御覧じ遊ばせ給へる、思ふ事おはせじと覚ゆる。251


九十三 なまめかしきもの

 細やかに清げなる君達の直衣(なほし)姿。をかしげなる童女(わらはめ)の、うへの袴(はかま)など、わざとにはあらで、ほころびがちなる汗袗(かざみ)ばかり着て、薬玉(くすだま)(イうつちくすたま)など長くつけて、高欄(かうらん)のもとに、扇(あふぎ)さしかくして居たる。若き人のをかしげなる、夏の几帳(きちやう)の裾(した)うち懸けて、白き綾(あや)、二藍(ふたあゐ)引き重ねて、手習ひしたる。薄様(うすやう)の草紙、斑濃(むらご)の糸してをかしく綴(と)ぢたる。柳の萌えたる(イもえ出たる)に青き薄様(うすやう)に書きたる文つけたる。鬚籠(ひげこ)のをかしう染めたる、五葉(ごえふ)の枝につけたる。三重(みへ)がさねの扇(あふぎ)。五重(いつへ)はあまり厚くなりて、もと(=手許)など憎げなり。能くしたる檜破子(ひわりご)。白き組(=組み紐)の細き。新しくもなくて、いたく古りてもなき檜皮屋(ひはだや)に、菖蒲(さうぶ)うるはしく葺(ふ)き渡したる。青やかなる御簾(みす)の下より、朽木形(くちきがた)の(イ几丁のくちきかたのトアリ可用)あざやかに、紐いとつややかにて、かかりたる紐の吹きなびかされたるもをかし。夏の帽額(もかう)の鮮やかなる、簾(す)の外(と)の高欄の辺(わた)りに、いとをかしげなる猫の、赤き首綱(くびづな)に白き札(ふだ)つきて、碇(いかり)の緒(を)食ひつきて引き歩(あり)くもなまめいたり。五月(さつき)の節(せち)のあやめの蔵人、菖蒲(さうぶ)の鬘(かづら)、赤紐の色にはあらぬを、領巾(ひれ)裙帯(くたい)などして、薬玉(くすだま)を皇子(みこ)たち上達部(かんだちめ)などの立ち並(な)み給へるに奉るも、いみじうなまめかし。取りて腰にひきつけて、舞踏(ぶたう)し拝し給ふもいとをかし。火取(ひとり)の童(わらは)。小忌(をみ)の君達もいとなまめかし。六位の青色の宿直(とのゐ)姿。臨時の祭の舞人(まひうど)。五節(ごせち)の童(わらは)なまめかし。256


九十四 宮の五節(ごせち)出ださせ給ふに、かしづき十二人、他所(ことどころ)には御息所(みやすどころ=女御、更衣 イ女御、御息所の)の人出だすをば悪ろき事にぞすると聞くに、いかにおぼすか、宮の女房を十人出ださせ給ふ。今二人は女院(にようゐん)、淑景舎(しげいしや)の人、やがて姉妹(はらから)なりけり。

 辰(たつ)の日の青摺(あをすり)の唐衣(からぎぬ)、汗衫(かざみ)を着せ給へり。女房にだにかねてさしも知らせず、殿上人にはましていみじう隠して、みな装束(さうぞく)したちて、暗うなりたるほどに持て来て着す。赤紐(あかひも)いみじう結(むす)び下げて、いみじく瑩(やう)じたる白き衣(きぬ)に、樫木(かたぎ)のかた絵にかきたる、織物の唐衣(からぎぬ)のうへに(イ二からきぬうへに)着たるは、真(まこと)にめづらしき中に、童(わらは)は今少しなまめきたり。下仕(しもづかへ)まで続き立ちてゐたる、上達部(かんだちめ)、殿上人驚き興(きよう)じて、小忌(をみ)の女房とつけたり。小忌(をみ)の君達は、外(と)に居て物言ひなどす。

 「五節の局を皆こぼちすかして、いと怪しくてあらする、いと異様(ことやう)なり。その夜までは猶うるはしくこそあらめ」とのたまはせて、さも惑はさず、几帳(きちやう)どものほころび結(ゆ)ひつつ、こぼれ出でたり。小兵衛(イ小弁=能因本)といふが赤紐の解けたるを、「これを結ばばや」と言へば、実方の中将寄りつくろふに、ただならず。

あしびきの山井の水はこほれるをいかなる紐のとくるならん

と言ひかく。年若き人の、さる顕証(けそう)の程なれば、言ひにくきにやあらん、返しもせず。その傍らなるおき(=能因本は「と」)な人達も打ち捨てつつ、ともかくも言はぬを、宮司(みやつかさ)などは耳とどめて聴きけるに、久しくなりにける傍(かたは)ら痛さに、他方(ことかた)より入りて、女房の許によりて、「などかうはおはする」などぞささめくなるに、四人(よたり)ばかりを隔てて居たれば、よく思ひ得たらんにも言ひにくし。まして歌詠むと知りたらん人の、おぼろげならざらんは、いかでかと、つつましきこそはわろけれ。「詠む人はさやはある。いとめでたからねど、妬(ねた)ふと(=慶安刊本「めてたう、ねたふと」←古活字本能因本「めてたうねと、ふと」←「から」と「う」の類似による誤写)こそは言へ」と爪はじきをして歩(あり)くも、いとをかしければ、

うす氷あはに結べる紐なればかざす日かげにゆるぶばかりを

と弁のおとど(=慶安刊古活字本。能因本は「おもと」)といふに伝へさすれば、消え入りつつえも言ひやらず。「などかなどか」と耳を傾(かたぶ)けて問ふに、少し言吃(ことども)りする人の、いみじうつくろひ、めでたしと聞かせんと思ひければ、えも言ひ続けずなりぬるこそ、中々恥隠(はぢかく)す心地してよかりしか。

 (=舞姫が)下り上る送りなどに、悩まし(=気分が悪い)と言ひ入れぬる人をも、のたまはせしかば(=中宮が命じたので)、ある限り群れ立ちて、他(こと)にも似ず、あまりこそうるさげなンめれ。舞姫は、相尹(すけまさ)の馬頭(むまのかみ)の女(むすめ)、染殿(そめどの)の式部卿(しきぶきやう)の宮の御弟の四の君(きみ)の御腹、十二にていとをかしげなり。果ての夜も、負ひ被(かづ)きいく(=能因本は「をひかへに」←「つ」と「へ」の類似+「きて」と「に」の類似←「をひかつきて」)もさわがず。やがて仁寿殿(じじゆうでん)より通りて、清涼殿(せいりやうでん)の前の東の簀子(すのこ)より舞姫を先にて、上の御局へ参りしほど、をかしかりき。260


九十五 細太刀(ほそだち)の平緒(ひらを)つけて、清げなる男(をのこ)の持てわたるも、いとなまめかし。紫の紙を包みて封(ふん)じて、房長き藤につけたるも、いとをかし。266


九十六 内裏(だいり)は五節の程こそすずろにただならで、見る人もをかしう覚ゆれ。主殿司(とのもりづかさ)などの、色々の割出(さいく=能因本は「さいで」)を、物忌のやうにて、釵子(さいし=かんざし)き(=能因本は「さいしき」←「き」と「に」の類似←「さいしに」)つけたるなども、めづらしく見ゆ。清涼殿の反橋(そりはし)に、元結(もとゆひ)の斑濃(むらご)、いとけざやかにて(=女房たちが)出でたるも、様々につけてをかしうのみ。上雑仕(うへざふし)、童(わらはべ)ども、いみじき色節(いろふし=光栄)と思ひたる、いとことわりなり。山藍(やまあゐ)日蔭(ひかげ)など柳筥(やないばこ)に入れて、冠(かうぶり)したる男(をのこ)持てありく、いとをかしう見ゆ。殿上人の直衣(なほし)脱ぎ垂れて、扇や何やと拍子(ひようし)にして、「司(つかさ)まされとしきなみぞ立つ」といふ歌をうたひて、局(つぼね)どもの前渡るほどはいみじく、添ひ立ちたらん人の心騒ぎぬべしかし。まして颯(さ)と一度に笑ひなどしたる、いとおそろし。

 行事(ぎやうじ)の蔵人の掻練襲(かひねりがさね)、物よりことに清らに見ゆ。褥(しとね)など敷きたれど、中々えも(=褥に)のぼりゐず。女房の出でたるさま褒めそしり、この頃は他事(ことごと=他の話題)はなかンめり。

 帳台(ちやうだい=試楽)の夜、行事の蔵人いと厳(きび)しうもてなして、かいつくろひ(=介添え役)二人、童(わらは)より他(ほか)は入るまじとおさへて、面(おも)憎きまで言へば、殿上人など「猶これ(=自分)一人ばかりは」などのたまふ。「羨(うらや)みあり。いかでか」など固く言ふに、宮の御方の女房二十人ばかりおし凝(こ)りて、ことごとしう言ひたる蔵人何ともせず、戸を押し開けてさざめき入れば、あきれて、「いとこは術(ずち)なき世かな」とて立てるもをかし。それに付きてぞ、かしづきどもも皆入る。(=それを見る蔵人の)気色(けしき)いと妬(ねた)げなり。上もおはしまして、いとをかしと御覧じおはしますらんかし。

 童舞(わらはまひ)の夜はいとをかし。灯台(とうだい)に向ひたる顔ども、いとらうたげにをかしかりき。266


九十七 無名(むみやう)といふ琵琶(びは)の御琴(こと)を、うへの持てわたらせ給へるを、見などして、掻(か)き鳴らしなどすと言へば、ひくにはあらず、緒(を)などを手まさぐりにして、「これが名よ、いかにとかや」など聞こえさするに、「ただいとはかなく名もなし」とのたまはせたるは、猶いとめでたくこそ覚えしか。

 淑景舎(しげいしや)などわたり給ひて、御物語の序(ついで)に、「まろがもとにいとをかしげなる笙(さう)の笛こそあれ。故殿(ことの)の得させ給へり」とのたまふを、僧都の君の「それは隆円(りうえん)にたうべ。おのれが許(もと)にめでたき琴(きん)侍り、それにかへさせ給へ」と申し給ふを、聞きも入れ給はで、なほ他事(ことごと)をのたまふに、答(いら)へさせ奉らんと数多(あまた)たび聞こえ給ふに、なほ物のたまはねば、宮の御前の「否(いな)かへじとおぼいたる物を」とのたまはせけるが、いみじうをかしき事ぞ限りなき。この御笛の名を僧都の君もえ知り給はざりければ、ただうらめしとぞおぼしたンめる。これは職(しき)の御曹司(みざうし)におはしましし時の事なり。うへの御前に、いなかへじといふ御笛の候なり。

 御前に候ふ者どもは、琴(こと)も笛も皆めづらしき名付きてこそあれ。琵琶は玄上(げんじやう)、牧馬(ぼくば)、井上(ゐうへ)(イゐで)、渭橋(ゐけう)、無名など、また和琴(わごん)なども、朽目(くちめ)、塩竈(しほがま)、二貫(ふたぬき)などぞ聞こゆ。水竜(すいろう)、小水竜(こすいろう)、宇多法師(うだのほふし)、釘打(くぎうち)、葉二(はふたつ)、何くれと多く聞こえしかど忘れにけり。「宜陽殿(ぎやうでん)の一の棚に」といふ言(こと)ぐさは、頭(とうの)中将こそしたまひしか。269


九十八 上の御局(つぼね)の御簾(みす)の前にて、殿上人、日一日(ひとひ)、琴、笛吹き、遊びくらして、まかで別るるほど、まだ格子をまゐらぬに、大殿油(おほとなぶら)を差し出でたれば、戸の開き(イとりいれ=能因本)たるが、顕(あらは)なれば、琵琶(びは)の御琴(こと)を縦様(たたさま)に持たせ給へり。紅(くれなゐ)の御衣(ぞ)のいふも世の常なる、袿(うちき)また(=慶安刊本。能因本は「うちも」)張りたるも数多(あまた)たてまつりて、いと黒くつややかなる御琵琶に、御衣の袖をうちかけて、捕(とら)へさせ給へるめでたきに、傍(そば)より御額(ひたひ)のほど白くけざやかにて、僅(わづか)に見えさせ給へるは、譬(たと)ふべき方なくめでたし。近く居給へる人にさし寄りて、「半(なかば)隠したりけんも、えかうはあらざりけんかし。それは只人にこそありけめ」と言ふを聞きて、心地もなきを(=慶安刊古活字本。能因本は「みちなきを」)、わりなく分け入りて啓すれば、笑はせ給ひて、「我(われ)は知りたりや」となん仰せらるると伝ふるもをかし。272


九十九 御乳母(めのと)の大輔(たいふ)の今日(=「け婦」←「け(変体仮名で介)」と「命」の類似←「命婦」)日向(ひうが)へ下るに、(=定子中宮が)給(たま)はする扇(あふぎ)どもの中に、片つ方には、日いと花やかにさし出でて、旅人(たびびと)のある所、井手の中将(=慶安刊古活字本「井中将」、能因本「ゐ中将」←「の(変体仮名で能)」と「将」の類似←「ゐ中の」)の館(たち)などいふ様いとをかしう書きて、今片つ方には、京の方、雨いみじう降りたるに、眺めたる人など書きたるに、

あかねさす日に向ひても思ひいでよ都は晴れぬ眺めすらんと

言葉に御手づから書かせ給ひし、あはれなりき。さる君(=中宮)をおき奉りて、遠くこそえ往(い)くまじけれ。274


百 ねたきもの

 これより遣(や)るも、人の言ひたる返しも、書きて遣りつる後(のち)、文字一つ二つなど思ひ直(なほ)したる。頓(とみ)のもの縫(ぬ)ふに、縫ひはてつと思ひて針を抜きたれば、はやうしりを結ばざりけり。また、かへさまに縫ひたるもいと妬(ねた)し。

 南の院におはします頃、西の対に殿のおはします方に宮もおはしませば、寝殿に集りゐて、さうざうしければ、ふれあそびをし、渡殿に集り居などしてあるに、「これ只今頓(とみ)の物なり、誰もだれも集りて、時かはさず縫ひて参らせよ」とて平縦(ひらぬき)の御衣(ぞ)を給はせたれば、南面(みなみおもて)に集り居て、御衣片身づつ、誰か疾く縫ひ出づると挑(いど)みつつ、近くも向はず縫ふさまもいと物狂ほし。命婦の乳母(めのと)いと疾く縫ひ果ててうち置きつる。裄丈(ゆだけ)の片の御身を縫ひつるが、そむき様(ざま)なるを見つけず、とぢ目もしあへず、惑ひ置きて立ちぬるに、御背合はせんとすれば、早う違(たが)ひにけり。笑ひののしりて、「これ縫ひ直せ」と言ふを、「誰かあしう縫ひたりと知りてか直さん、綾(あや)などならばこそ、裏を見ざらん、縫ひ違への人のげに直さめ。無紋の御衣なり。何をしるしにてか。直す人誰かあらん。ただまだ縫ひ給はざらん人に直させよ」とて聞きも入れねば、「さ言ひてあらんや」とて、源少納言、新中納言など、言ひ直し給ひし顔見やりて居たりしこそをかしかりしか。これは夜さりのぼらせ給はんとて、「疾く縫ひたらん人を思ふと知らん」と仰せられしか。

 見すまじき人に、外(ほか)へ遣りたる文とり違(たが)へて持て行きたる、ねたし。「げに過ちてけり」とは言はで、口かたう抗(あらが)ひたる、人目をだに思はずば、走りも打ちつべし。面白き萩(はぎ)薄(すすき)などを植ゑて見るほどに、長櫃(ながびつ)持たる者、鋤(すき)など提(ひきさ)げて、ただ掘りに掘りていぬるこそ、佗(わび)しう妬(ねた)かりけれ。よろしき人などのある折は、さもせぬものを、いみじう制すれど「ただすこし」など言ひていぬる、言ふかひなく妬(ねた)し。受領などの来て無礼(なめ)げにもの言ひ、「さりとて我をばいかが」と思ひたるけはひに、言ひ出でたる、いと妬(ねた)げなり。

 見すまじき人の、文を引き取りて、庭におりて見立てる、いとわびしうねたく、追ひて行けど、簾(す)の許にとまりて見るこそ、飛びも出でぬべき心地すれ。

 すずろなること腹立ちて、同じ所にも寝ず、身じくり出づるを、忍びて引きよすれど、わりなく心ことなれば、あまりになりて、人も「さはよかンなり」と怨(ゑ)じて、かいくぐみて臥しぬる後(のち)、いと寒き折などに、ただ単衣(ひとへぎぬ)ばかりにて、あやにくがりて、大かた皆人も寝たるに、さすがに起き居たらん怪しくて、夜の更(ふ)くるままに、妬(ねた)く、「起きてぞいぬべかりける」など思ひ臥したるに、奥にも外(と)にも物うち鳴りなどして恐ろしければ、やをらまろび寄りて衣(きぬ)引きあぐるに、虚寝(そらね)したるこそいと妬(ねた)けれ。「猶こそ強(こは)がり給はめ」などうち言ひたるよ。 275


百一 かたはらいたきもの

 客人(まらうど)などに会ひて物言ふに、奥の方(かた)に打ち解け事、人(=家族)の言ふを制せで聞く心地。思ふ人のいたく酔ひて(=慶安刊本。能因本は「ゑひさかしがりて」)同じことしたる(=繰言)。聞きゐたるをも知らで、人(=その人)のうへ言ひたる。それは(=それが)何ばかりならぬ使ひ人なれど、傍(かたは)ら痛し。旅だちたる所近き所などにて、下衆(げす)どもの戯(ざ)れ交はしたる。憎げなる児(ちご)を、おのれが心地に愛(かな)しと思ふままに、慈(うつく)しみ遊(あそ)ばし、これが声の真似にて言ひける事など語りたる。才(ざえ)ある人の前にて、才(ざえ)なき人の物覚え顔に人の名など言ひたる。殊に良しとも覚えぬわが歌を人に語り聞かせて、人の褒めし事など言ふも傍(かたは)ら痛し。人の起きて物語などする傍らに、あさましう打ち解けて寝たる人。まだ音(ね)も弾き整(ととの)へぬ琴(こと)を、心一つをやりて、さやうのかた知りつる人の前にて弾く。いとどしう(イいととう)住まぬ婿(むこ)の、さるべき所にて舅(しうと)に会ひたる。280


百二 あさましきもの

 指櫛(さしぐし)みがくほどに、物にさへて折れたる。車のうち返されたる。さるおほのかなる物は、所狭(ところせ)く久しくなどやあらんとこそ思ひしが、ただ夢の心地して浅(あさ)ましう、あやなし。

 人のためにはづかしき事、つつみもなく、児(ちご)も大人も言ひたる。必ず来(き)なんと思ふ人を待ち明して、暁(あかつき)がたに、ただ聊(いささ)か忘れて寝入りたるに、烏のいと近く「かう」と鳴くに、うち見あげたれば、昼になりたる、いとあさまし。調半(てうばみ)に筒(どう)取られたる。無下に知らず、見ず、聞かぬ事を、人のさし向ひて、あらがはすべくもなく言ひたる。物うちこぼしたるもあさまし。賭弓(のりゆみ)にわななくわななく久しうありて外(はづ)したる矢の、もて離れて他方(ことかた)へ行(ゆ)きたる。282


百三 くちをしきもの

 節会(せちえ)仏名(ぶつみやう)に雪降らで、雨のかき暮らし降りたる。節会、さるべきをりの、御物忌に当りたる。営みいつしかと思ひたる事の、障(さ)はる事出で来て俄(にはか)に止まりたる。いみじうする(=慶安刊古活字本。能因本は「いみじうほしうする」)人の、子産まで年頃(=妻を)具したる。遊びをもし、見すべき事もあるに、必ず来(き)なんと思ひて呼びに遣りつる人の、障はる事ありてなど言ひて来ぬ、くちをし。男も女も宮仕所(みやづかへどころ)などに同じやうなる人、諸共(もろとも)に寺へ詣で物へも行くに、好(この)もしうこぼれ出でて用意(ようい)は怪(け)しからず(=並々でない)、あまり見苦しとも見つべくはあらぬに、さるべき人の馬にても車にても行き会ひ見ずなりぬる、いとくちをし。わびては、「好き好きしからん下衆などにても、人に語りつべからん、にてもがな」と思ふも、けしからぬなめりかし。284


百四 五月の御精進(さうじ)のほど職(しき)におはしますに、塗籠(ぬりごめ)の前、二間(ふたま)なる所を、殊(こと)にしつらひしたれば、例ざまならぬもをかし。朔日(ついたち)より雨がちにて曇りくらす。「つれづれなるを、郭公(ほととぎす)の声尋ねありかばや」と言ふを聞きて、われもわれもと出でたつ。「賀茂の奥になにがしとかや、七夕の渡る橋にはあらで、にくき名ぞ聞こえし。その辺(わた)りになん日ごとに鳴く」と人の言へば、「それは蜩(ひぐらし)なり」と答(いら)ふる人もあり。そこへとて、五日のあした、宮づかさ車の事言ひて、北の陣(ぢん)より、「五月雨(さみだれ)はとがめなきものぞ」とて、さしよせて四人(よたり)ばかりぞ乗りて行(ゆ)く。うらやましがりて、「今一つして同じくば」など言へば、「いな」と仰(おほ)せらるれば、聞きも入れず、なさけなきさまにて行くに、馬場(むまば)といふ所にて人多くさわぐ。「何事するぞ」と問へば、「手結(てつがひ)にて真弓(まゆみ)射るなり。しばし御覧じておはしませ」とて車止(とど)めたり。「右近の中将みな着(つ)き給へる」と言へど、さる人も見えず。六位などの立ちさまよへば、「ゆかしからぬことぞ、はやく過ぎよ」とて行きもて行けば、道も祭のころ思ひ出でられてをかし。かういふ所には、明順朝臣(あきのぶのあそんの)家あり。そこもやがて見んと言ひて車よせておりぬ。田舎だち事そぎて、馬の絵(かた)書きたる障子(さうじ)、網代(あじろ)屏風(びやうぶ)、三稜草(みくりの)簾(すだれ)など、殊更(ことさら)に昔の事を写し出(い)でたり。屋(や)の様もはかなだちて、端近(はしちか)く浅はかなれど(イろうめきてはしぢかなれど)、をかしきに、げにぞかしがましと思ふばかりに鳴きあひたるほととぎすの声を、口をしう御前に聞こしめさず、さばかり慕ひつる人々にもなど思ふ。所につけては、かかる事をなん見るべきとて、稲(いね)といふもの多く取り出でて、わかき女どものきたなげならぬ、その辺(わた)りの家のむすめ女などひきゐて来て、五六人してこかせ、見も知らぬくるべきもの二人してひかせて、歌うたはせなどするを、珍しくて笑ふに、郭公の歌よまんなどしつる、忘れぬべし。唐絵(からゑ)にあるやうなる懸盤(かけばん)などして物くはせたるを、見いるる人なければ、家あるじ「いとわろくひなびたり。かかる所に来ぬる人は、ようせずば、ある(イなほ尤可然か)ものなど責め出だしてこそ参るべけれ。無下にかくてはその人ならず」など言ひてとりはやし、「この下蕨(したわらび)は手づから摘みつる」など言へば、「いかで女官などのやうに、つきなみてはあらん」など言へば、とりおろして、「例のはひぶしに習はせ給へる御前(おまへ)たちなれば」とて、とりおろしまかなひ騒ぐほどに、「雨ふりぬべし」と言へば、急ぎて車に乗るに、「さてこの歌は、ここにてこそ詠(よ)まめ」と言へば、「さばれ道にても」など言ひて、卯花(うのはな)いみじく咲きたるを折りつつ、車の簾傍(すだれそば)などに長き枝を葺(ふ)き挿(さ)したれば、ただ卯花重(うのはながさね)をここに懸けたるやうにぞ見えける。供なる男(をのこ)どももいみじう笑ひつつ、網代をさへつきうがちつつ、「ここまだし、ここまだし」とさし集(あつ)むなり。人もあはなんと思ふに、更にあやしき法師、あやしの言ふかひなき者のみ、たまさかに見ゆる、いとくちをし。

 近(ちか)う来ぬれば、「さりともいとかうて止まんやは。この車のさまをだに人に語らせてこそ止(や)まめ」とて、一条殿の許にとどめて、「侍従殿やおはす、郭公の声聞きて、今なんかへり侍る」と言はせたる。使(つかひ)「『只今まゐる。あが君あが君』となんのたまへる。さぶらひに間(ま)拡げて、指貫(さしぬき)たてまつりつ」と言ふに、待つべきにもあらずとて、はしらせて、土御門(つちみかど)ざまへやらするに、いつの間にか装束(さうぞく)しつらん、帯は道のままにゆひて、「しばしば」と追ひくる。供に、侍(さぶらひ)、雑色(ざふしき)、物はかで走るめる。「とくやれ」といとど忙しくて、土御門にきつきぬるにぞ、あへぎ(=能因本は「あつち」)惑(まど)ひておはして、まづこの車のさまをいみじく笑ひ給ふ。「うつつの人の乗りたるとなん更に見えぬ。猶おりて見よ」など笑ひ給へば、供なりつる人どもも興(きよう)じ笑ふ。「歌はいかにか、それ聞かん」とのたまへば、「今御前(おまへ)に御覧ぜさせてこそは」など言ふ程に、雨まことに降りぬ。「などか他(こと)御門(みかど)のやうにあらで、この土御門(つちみかど)しもうへもなく造りそめけんと、今日(けふ)こそいとにくけれ」など言ひて、「いかで帰らんずらん。こなたざまはただ後(おく)れじと思ひつるに、人目も知らず走られつるを、あう往(い)かんこそいとすさまじけれ」とのたまへば、「いざ給へかし、内(うち)へ」など言ふ。「それも烏帽子(えぼうし)にてはいかでか」「とりに遣(や)り給へ」など言ふに、まめやかにふれば、笠(かさ)なき男(をのこ)ども、ただひきに引き入れつ。一条より笠を持てきたるをささせて、うち見かへりうち見かへり、このたびはゆるゆると、物憂(う)げにて、卯花(うのはな)ばかりを取りおはするもをかし。(290)

 さて参りたれば、ありさまなど問はせ給ふ。うらみつる人々、怨(ゑ)じ心(ごころ)憂(う)がりながら、藤侍従、一条の大路走りつるほど語るにぞ、皆(みな)笑ひぬる。「さていづら歌は」と問はせ給ふ。かうかうと啓(けい)すれば、「くちをしの事や。うへ人などの聞かんに、いかでかをかしきなくてあらん。その聞きつらん所にて、ふとこそよまましか。あまり儀式ことざめつらんぞ怪しきや。ここにてもよめ。言ふかひなし」などのたまはすれば、げにと思ふに、いとわびしきを、言ひ合はせなどする程に、藤侍従の、ありつるうの花につけて、卯花(うのはな)の薄様(うすやう)に、

ほととぎすなく音(ね)たづねに君ゆくときかば心をそへもしてまし

 かへしまつらんなど、局(つぼね)へ硯(すずり)とりに遣(や)れば、「ただこれして疾(と)くいへ」とて、御硯の蓋(ふた)に紙など入れて賜はせたれば、「宰相の君かきたまへ」と言ふを、「なほそこに」など言ふほどに、かきくらし雨降りて、神(かみ)もおどろおどろしう鳴りたれば、物も覚えず、ただおろしにおろす。職(しき)の御曹子(みざうし)は、蔀(しとみ)をぞ御格子(みかうし)にまゐり渡し惑ひしほどに、歌のかへりごとも忘れぬ。いと久しく鳴りて、少し止(や)むほどはくらくなりぬ。只今なほその御返事奉らんとて、取りかかるほどに、人々上達部など、神(かみ)の事申しにまゐり給ひつれば、西面に出でて物など聞こゆるほどにまぎれぬ。人はた、「さしてえたらん人こそ知らめ」とてやみぬ。「大かたこの事に宿世(すくせ)なき日なり、どうじて、今はいかでさなん往(い)きたりしとだに人に聞かせじ」などぞ笑ふを、「今もなどそれ往(い)きたりし人どもの言はざらん。されどもさせじと思ふにこそあらめ」と物しげに思しめしたるもいとをかし。「されど今はすさまじくなりにて侍るなり」と申す。「すさまじかるべき事かは」などのたまはせしかば、やみにき。二日ばかりありて、その日の事など言ひ出づるに、宰相の君、「いかにぞ手づから折りたると言ひし下蕨は」とのたまふを聞かせ給うて、「思ひ出づることのさまよ」と笑はせ給ひて、紙のちりたるに、

したわらびこそこひしかりけれ

とかかせ給ひて、「もといへ」と仰せらるるもをかし。

ほととぎすたづねてききし声よりも

と書きて参らせたれば、「いみじううけばりたりや。かうまでだに、いかで郭公の事をかけつらん」と笑はせ給ふも恥づかしながら、「何か、この歌すべて詠み侍らじとなん思ひ侍る物を、物(もの)のをりなど人のよみ侍るにも、よめなど仰せらるれば、えさぶらふまじき心地(ち)なんし侍る。いかでかは、文字の数知らず、春は冬の歌をよみ、秋は春のをよみ、梅のをりは菊などをよむ事は侍らん。されど歌よむと言はれ侍りしすゑずゑは、少し人にまさりて、そのをりの歌はこれこそありけれ、さは言へどそれが子なればなど言はれたらんこそ、かひある心地し侍らめ。つゆとり分きたるかたもなくて、さすがに歌がましく、われはと思へるさまに最初(さいそ)に詠み出で侍らんなん、なき人のためいとほしく侍る」などまめやかに啓すれば、笑はせ給ひて、「さらばただ心にまかす。われは詠めとも言はじ」とのたまはすれば、「いと心やすく成り侍りぬ。今は歌のこと思ひかけ侍らじ」など言ひてある頃、庚申(かうじん)せさせ給ひて、内大臣殿(うちのおほいとの)、いみじう心まうけせさせ給へり。夜うち更くるほどに題(だい)出だして、女房(ばふ)に歌よませ給へば、皆けしきだちゆるがし出(いだ)すに、宮の御前に近くさぶらひて、物啓しなど他(こと)事をのみ言ふを、大臣(おとど)御覧じて、「などか歌はよまで離れゐたる、題とれ」とのたまふを、「さる事承りて、歌(うた)よむまじくなりて侍れば、思ひかけ侍らず」「異様(ことやう)なる事、まことにさる事やは侍る。などかは許させ給ふ。いとあるまじき事なり。よし異(こと)時は知らず、今宵(こよひ)はよめ」など責めさせ給へど、けぎよう聞きも入れで候(さぶら)ふに、こと人ども詠み出だして、よしあしなど定めらるるほどに、いささかなる御文をかきて賜はせたり。あけて見れば、

もとすけが後(のち)と言はるる君しもやこよひの歌にはづれてはをる

とあるを見るに、をかしき事ぞ類(たぐひ)なきや。いみじく笑へば、「何事ぞ何事ぞ」と大臣(おとど)ものたまふ。

その人の後と言はれぬ身なりせばこよひの歌はまづぞよままし。

「つつむ事さふらはずば、千歌なりとも、これよりぞ出でまうで来まし」と啓しつ。285


百五 御方々(かたがた)、君達、上人(うへびと)など、御前に人多く候(さぶら)へば、廂(ひさし)の柱に寄りかかりて、女房と物語してゐたるに、物をなげ給はせたる。あけて見れば、「思ふべしやいなや、第一ならずばいかが」と問はせ給へり。

 御前にて物語などする序(ついで)も、「すべて人には一に思はれずば、更に何にかせん。ただいみじうにくまれ、悪しうせられてあらん。二三にては死ぬともあらじ、一にてをあらん」など言へば、「一乗の法(のり)」なりと人々笑ふ事の筋(すぢ)なンめり。筆(ふんで)紙(かみ)給はりたれば、「九品蓮台(くほんれんだい)の中には、下品(げほん)といふとも」と書きてまゐらせたれば、「無下(むげ)に思ひ屈(くん)じにけり。いとわろし。言ひそめつる事は、さてこそ有らめ」とのたまはすれば、「人に従ひてこそ」と申す。「それがわろきぞかし。第一の人に、また一に思はれんとこそ思はめ」と仰せらるるもいとをかし。301


百六 中納言殿(=隆家)まゐらせ給ひて、御扇奉らせ給ふに、「隆家(たかいへ)こそいみじき骨をえて侍れ。それを張らせて参らせんとするを、おぼろげの紙は張るまじければ、もとめ侍るなり」と申し給ふ。「いかやうなるにかある」と問ひ聞こえさせ給へば、「全ていみじく侍る。『更にまだ見ぬ骨のさまなり』となん人々申す。まことにかばかりのは侍らざりつ」と言高く申し給へば、「さて扇のにはあらで海月(くらげ)のなり」と聞こゆれば、「これは隆家が言(こと)にしてん」とて笑ひ給ふ。

 かやうの事こそ、傍(かたは)ら痛き物のうちに入れつべけれど、「ひとことな落としそ」と侍ればいかがはせん。302


百七 雨のうちはへ(=長く)降るころ、今日(けふ)も降るに、御使にて式部丞(しきぶのじよう)信経(のぶつね)まゐりたり。例の褥(しとね)さし出だしたるを、常よりも遠く押し遣りてゐたれば、「あれは誰が料(れう)ぞ(=誰のため)」と言へば、笑ひて「かかる雨に(=褥に)のぼり侍らば足形(あしがた)つきて、いと不便(ふびん)に汚なげになり侍りなん」と言へば、「など、洗足料(せんぞくれう=氈褥料にかけた)にこそはならめ」と言ふを、「これは御前(=あなた)に賢(かし)こう仰せらるるにはあらず。信経が足形の事を申さざらましかば、えのたまはざらまし」とて、返す返す言ひしこそをかしかりしか。あまりなる御身褒(ぼ)めかなと傍らいたく。

 「はやう、太后宮(おほきさいのみや)に、ゑぬたきと言ひて名高き下仕(しもづかへ)なんありける。美濃守(みののかみ)にて失せにける藤原時柄(ふじわらのときがら)、蔵人なりける時、下仕(しもづかへ)どもある所に立ち寄りて、『これやこの高名のゑぬたき。などさ(=その名前のやうに)も見えぬ』と言ひける返事に、『それは時柄(ときがら)もさも(=慶安刊本。能因本は「それときはに」←「から」と「は」の類似)見ゆる名なり』と言ひたりけるなん、『敵(かたき)に選(え)りてもいかでかさる事はあらん』。殿上人上達部までも、興(きよう)ある事にのたまひける。また、さりけるなめりと、今までかく言ひ伝ふるは」と聞こえたり。「それまた時柄が(=能因本は「と」)言はせたるなり。すべて題出だし柄(がら)なん、詩(ふみ)も歌もかしこき」と言へば、「実(げ)にさる事あることなり。さらば題出ださん、歌よみ給へ」と言ふに、「いとよき事、一つはなにせん、同じうは数多(あまた)を仕(つかうまつ)らん」など言ふほどに、御題は出でぬれば、「あなおそろし、まかり出でぬ」とて立ちぬ。「手もいみじう真字(まな)も仮字(かんな)もあしう書くを、人も笑ひなどすれば、隠してなんある」と言ふもをかし。

巻六

 (=時柄が)作物所(つくもどころ)の別当する頃、誰(たれ)が許(もと)に遣りけるにかあらん、物の絵様(ゑやう=下書き)やるとて、「これがやうに仕(つかうまつ)るべし」と書きたる真字(まんな)のやう、文字(もじ)の世に知らずあやしきを(=私が)見付けて、それが傍らに、「これがままに仕(つかうまつ)らば、異様(ことやう)にこそあるべけれ」とて、殿上に遣りたれば、人々取りて見ていみじう笑ひけるに、大腹立ちてこそ恨みしか。304


百八 淑景舎(しげいしや)春宮(とうぐう)にまゐり給ふほどの事なンど、いかがはめでたからぬ事なし。正月(むつき)十日にまゐり給ひて、宮の御方に御文などは繁(しげ)う通(かよ)へど、御対面などはなきを、二月(きさらぎ)十日、宮の御方に渡り給ふべき御消息(せうそこ)あれば、常(つね)よりも御設(しつら)ひ心ことに磨(みが)きつくろひ、女房なども皆用意(ようい)したり。夜中(よなか)ばかりに渡らせ給ひしかば、幾何(いくばく)もなくて明けぬ。登華殿(とうくわでん)の東(ひんがし)の二間(ふたま)に御設(しつら)ひはしたり。翌朝(つとめて)いと疾く御格子まゐりわたして、暁(あかつき)、殿(=道隆)、上(=北の方)、一つ御車にて参り給ひにけり。宮は御曹司(みざうし)の南に、四尺の屏風(びやうぶ)西東(にしひがし)に隔(へだ)てて、北向に立てて、御畳褥(たたみしとね)うち置きて、御火桶(ひおけ)ばかり参りたり。御屏風の南御帳(みなみみちやう)の前に、女房いと多くさぶらふ。

 こなたにて御髪(みぐし)など参るほど、「淑景舎(しげいしや)は見奉りしや」と問はせ給へば、「まだいかでか。積善寺(しやくぜんじ)供養(くよう)の日、御後(うし)ろをわづかに」と聞こゆれば、「その柱と屏風とのもとによりて、我が後ろより見よ。いと美しき君ぞ」とのたまはすれば、嬉しくゆかしさまさりて、いつしかと思ふ。紅梅の固紋(かたもん)、浮紋(うきもん)の御衣(ぞ)どもに、紅(くれなゐ)のうちたる御衣(ぞ)、三重(みへ)が上にただ引き重ねて奉りたるに、「紅梅には濃き衣(きぬ)こそをかしけれ。今は紅梅は着でもありぬべし。されど萌黄(もえぎ)などの憎ければ。紅には合はぬなり」とのたまはすれど、只いとめでたく見えさせ給ふ。奉りたる御衣(ぞ)に、やがて御容(かたち)の匂ひ合はせ給ふぞ、なほ他(こと)よき人(=妹君)も、かくやおはしますらんとぞ、ゆかしき。

 (=中宮様は)さてゐざり出でさせ給ひぬれば、やがて御屏風に添ひつきて覗(のど)くを、「あしかンめり、うしろめたきわざ」と聞こえごつ人々もいとをかし。御障子(しやうじ)の広うあきたれば、いとよく見ゆ。上(=北の方)は白き御衣(ぞ)ども、紅(くれなゐ)の張りたる二つばかり、女房の裳なンめり、引きかけて、奥によりて、東面(ひんがしおもて)におはすれば、ただ御衣などぞ見ゆる。淑景舎(しげいしや)は北にすこしよりて南向におはす。紅梅どもあまた濃く薄くて、濃き綾(あや)の御衣(ぞ)、少しあかき蘇枋(すはう)の織物の袿(うちぎ)、萌黄(もえぎ)の固紋(かたもん)のわかやかなる御衣(ぞ)奉りて、扇をつとさし隠し給へり。いといみじく、実(げ)にめでたく美しと見え給ふ。殿は薄色(うすいろ)の直衣(なほし)、萌黄(もえぎ)の織物の御指貫(さしぬき)、紅の御衣ども、御紐さして、廂(ひさし)の柱に後(うしろ)を当てて、こなたざまに向きておはします。めでたき御有様どもを、うち笑みて、例の戯言(たはぶれごと)をせさせ給ふ。淑景舎(しげいしや)の、絵に書きたるやうに、美しげにてゐさせ給へるに、宮いとやすらかに、今すこしおとなびさせ給へる御けしきの、紅の御衣に匂ひ合はせ給ひて、なほ類(たぐひ)はいかでかと見えさせ給ふ。

 御手水(てうづ)まゐる。かの御方は宣耀殿(せんえうでん)、貞観殿(ぢやうぐわんでん)を通りて、童(わらは)二人、下仕(しもづかへ)四人(よたり)して持てまゐるめり。唐廂(からびさし)のこなたの廊(らう)にぞ、女房六人ばかりさぶらふ。狭(せば)しとて、片方(かたへ=半分)は御送りして皆帰りにけり。桜の汗衫(かざみ)、萌黄(もえぎ)紅梅などいみじく、汗衫(かざみ)長く裾(しり)引きて、(=童が)取り次ぎまゐらす、いとなまめかし。織物の唐衣(からぎぬ)どもこぼれ出でて、相尹(すけまさ)の馬頭の女(むすめ)小将の君、北野の三位の女(むすめ)宰相の君などぞ近くはある。あなをかしと見るほどに、この御方の御手水番(てうづばん)の釆女(うねめ)、青末濃(あをすそご)の唐衣(からぎぬ)、裙帯(くんたい)、領巾(ひれ)などして、面(おもて=顔)などいと白くて、下仕(しもづかへ)など取り次ぎてまゐるほど、これはた公(おほやけ)しう唐めいてをかし。

 御膳(おもの)の折(をり)になりて、御髪上(みぐしあ=女官)げまゐりて、蔵人(=雑事女官)どもまかなひ(=陪膳女官)の髪(かみ)あげてまゐらする程に、隔てたりつる屏風も押し開けつれば、垣間見(かいまみ)の人、隠れ蓑とられたる心地して、飽かず侘びしければ、御簾(みす)と几帳(きちやう)との中にて、柱(はしら)のもとよりぞ見奉る。衣(きぬ)の裾(すそ)、裳(も)など、唐衣(からぎぬ)は皆御簾(みす)の外(そと)に押し出だされたれば、殿の、端(はし)の方(かた)より御覧じ出だして「誰(た)そや、霞の間(ま)より見ゆるは」と咎(とが)めさせ給ふに、「少納言が、物ゆかしがりて侍るならん」と申させ給へば、「あなはづかし。かれ(=彼女)は古き得意(=知り合ひ)を、(=私が)いと憎げなる女(むすめ)ども持ちたりともこそ見侍れ」などのたまふ御けしき、いとしたり顔なり。

 あなた(=淑景舎)にも御膳(おもの)まゐる。「羨しく、方々(かたがた)のは皆まゐりぬめり(=能因本「かたつかたのはまゐりぬ」)。疾くきこしめして、翁(おきな)嫗(おんな)におろしをだに給へ」など、ただ日一日(ひとひ)、猿楽言(さるがうごと)をし給ふ程に、大納言殿(=伊周)、三位中将(=隆家)、松君(=伊周の子)も将(ゐ)てまゐり給へり。殿いつしかと抱(いだ)き取り給ひて、膝に据ゑ給へる、いと美し。狭(せば)き縁(えん)に、所せき昼(ひ)の御装束(さうぞく)の下襲(したがさね)など引き散らされたり。大納言殿は物々しう清げに、中将殿は労々じう、いづれもめでたきを見奉るに、殿をばさるものにて、上の御宿世(すくせ)こそめでたけれ。御円座(わらふだ)など(=道隆が)聞こえ給へど、「陣につき侍らん」とて(=息子たちは)急ぎ立ち給ひぬ。

 しばしありて、式部の丞(じよう)某(なにがし)とかや、御使に参りたれば、御膳(おもの)やどり(=能因本「やりと」)の北に寄りたる間(ま)に、褥(しとね)さし出でて据(す)ゑたり。御返りは今日は疾く出ださせ給ひつ。まだ褥(しとね)も取り入れぬほどに、春宮の御使に、周頼(ちかより)の少将参りたり。御文とり入れて、渡殿(わたどの)は細き縁(えん)なれば、こなたの縁に褥(しとね)さし出でたり。御文とり入れて、殿、上、宮など御覧じわたす。「御返り、はや」などあれど、頓にも聞こえ給はぬを、「某(なにがし)が見侍れば出で給はぬなンめり。さらぬ折(=私がゐない時)は間もなくこれよりぞ聞こえ給ふなる」など申し給へば、御面(おもて)はすこし赤みながら、少しうち微笑(ほほゑ)み給へる、いとめでたし。「疾く」など上も聞こえ給へば、奥ざまに向きて書かせ給ふ。上、近く寄り給ひて、諸共(もろとも)に書かせ奉り給へば、いとど慎(つつ)ましげなり。宮の御方より、萌黄(もえぎ)の織物の小袿(こうちぎ)袴おし出だされたれば、三位中将(さんみのちゆうじやう)かづけ(=禄として与へる)給ふ。(=周頼は)苦しげに思ひて立ちぬ。松君のをかしう物のたまふを、誰も誰もうつくしがり聞こえ給ふ。「宮(=定子)の御子(みこ)たちとて引き出でたらんに、わろくは侍らじかし」などのたまはする。「実(げ)になどか、今までさる事(=御産)の」とぞ心もとなき。

 未(ひつぢ)の時ばかりに、「筵道(えんだう)まゐる」と言ふ程もなく、うちそよめき入(い)らせ給へば(=天皇が)、宮もこなたに寄らせ給ひぬ。やがて御帳(みちやう)に入らせ給ひぬれば、女房南面(みなみおもて)にそよめき出でぬめり(=慶安刊本。能因本は「出でぬ」)。廊(らう)(=慶安刊本。能因本は「らうめんだう」)に殿上人いと多かり。殿(=道隆)の御前(おまへ)に宮司(みやづかさ)召して菓子(くだもの)肴(さかな)(=殿上人に)召さす。「人々酔はせ」など仰(おほ)せらる。真(まこと)に皆ゑひて、女房と物言ひ交はすほど、互(かたみ)にをかしと思ひたり。

 日の入るほどに起きさせ給ひて(=天皇)、山井(やまのゐ)の大納言召し入れて、御袿(みうちぎ=調髪係の女房)まゐらせ給ひて、帰らせ給ふ(=能因本は「帰らせ給ふに、殿、大納言」)。桜の御直衣(なほし)に、紅(くれなゐ)の御衣(ぞ)の夕映(ゆふば)えなども、かしこければ、とどめつ。山井の大納言は、入り立たぬ御兄(せうと)にても、いとよくおはすかし。匂ひやかなる方(=点)は、この大納言にもまさり給へるものを、世の人は、切(せち)に言ひ落とし聞こゆるこそいとほしけれ。殿、大納言、山井の大納言、三位の中将、内蔵頭(くらのかみ=頼親)など皆さぶらひ給ふ。

 宮のぼらせ給ふべき(=天皇の)御使にて、馬(むま)の内侍のすけ、参り給へり。「今宵は、え」などしぶらせ給ふを、殿聞かせ給ひて、「いとあるまじき事、早(はや)のぼらせ給へ」と申させ給ふに、また春宮(とうぐう)の御使しきりにある程いと騒がし。御迎(むかへ)に、女房(=天皇の)、春宮(とうぐう)のなども参りて、「疾く」とそそのかし聞こゆ。「まづ、さは、かの君わたし聞こえ給ひて」とのたまはすれば、「さりともいかでか」とあるを、「なほ見送り聞こえん」などのたまはするほど、いとをかしうめでたし。「さらば遠きをさきに」とて、まづ淑景舎(しげいしや)渡り給ひて、殿など帰らせ給ひてぞ、のぼらせ給ふ。道の程も、殿の御猿楽言(さるがうごと)にいみじく笑ひて、殆(ほとほと)打橋(うちはし)よりも落ちぬべし。307


百九 殿上より梅の花の皆散りたる枝を、「これはいかに」と言ひたるに、「ただ早く落ちにけり」と答(いら)へたれば、その詩を誦(じゆ)じて、黒戸に殿上人いと多く居たるを、上の御前聞かせおはしまして、「よろしき歌など詠みたらんよりも、かかる事はまさりたりかし。よう答へたり」と仰せらる。(=この段、三段本)321


百十 二月(きさらぎ)の晦日(つごもり)、風いたく吹きて、空いみじく黒きに、雪すこしうち散りたる程、黒戸(くろど)に主殿司(とのもづかさ)来て、「かうしてさぶらふ」と言へば、寄りたるに、「公任(きんたふ)の君、宰相中将殿の」とあるを見れば、懐紙(ふところがみ)に、ただ、

すこし春ある心地こそすれ

とあるは、実(げ)に今日(けふ)の景色にいとよく合ひたるを、これがもとは、いかがつくべからんと思ひ煩ひぬ。「誰々か」と問へば、それそれと言ふに、みな恥づかしき中に、宰相中将の御答(いらへ)をば、いかが事なしびに言ひ出でんと、心ひとつに苦しきを、御前に御覧ぜさせんとすれども、うへのおはしまして、おほとのごもりたり。主殿司は「とくとく」と言ふ。実(げ)に遅くさへあらんは取り所なければ、さばれとて、

そら寒み花にまがへて散る雪に

と、わななくわななく書きて取らせて、いかが見たまふらんと思ふもわびし。これが事を聞かばやと思ふに、そしられたらば聞かじと覚ゆるを、「俊賢(としかた)の中将など、『なほ内侍に申してなさん』と定めたまひし」とばかりぞ、兵衛佐(ひやうゑのすけ)中将にておはせしが語りたまひし。322


百十一 はるかなるもの

 千日の精進(さうじ)始むる日。半臂(はんぴ)の緒ひねり始むる日。陸奥国(みちのくに)へゆく人の逢坂の関(せき)越(こ)ゆるほど。産まれたる児(ちご)の大人(おとな)になるほど。大般若経(だいはんにやきやう)御読経(みどきやう)一人して読み始むる。十二年の山籠りの初めて登る日。324


百十二 (なし。物のあはれ知らせ顔なるもの 八十九と同じ)


百十三 方弘(まさひろ)はいみじく人に笑はるる者かな。親などいかに聞くらん。供(とも)に歩(あり)く者ども、いと人々しきを呼びよせて、「何しにかかる者には使はるるぞ、いかが覚ゆる」など笑ふ。物いとよくするあたり(=家)にて、下襲(したがさね)の色、袍(うへのきぬ)なども、(=方弘は)人よりはよくて着たるを、「これは他人(ことびと)に着せばや」など言ふに。実(げ)にぞ言葉遣ひなどのあやしき。里に宿直物(とのゐもの)とりにやるに、「男二人まかれ」と言ふに、「一人して取りにまかりなんものを」と言ふに、「あやしの男や、一人して二人の物をばいかで持つべきぞ。一升瓶(ひとますがめ)に二升(ます)は入(はい)るや」と言ふを、なでふ事と知る人はなけれど、いみじう笑ふ。人の使(つかひ)の来て「御返事(かへりごと)疾く」と言ふを、「あな、にくの男(をのこ)や、竈(かまど)に豆やくべたる。この殿上の墨(すみ)・筆は何者の盗み隠したるぞ。飯(いひ)、酒ならばこそ、欲しうして人の盗まめ」と言ふを、また笑ふ。

 女院(=詮子)なやませ給ふとて、(=方弘が)御使(つかひ)にまゐりて帰りたるに(イきたるに)、「院の殿上人は誰々(たれたれ)かありつる」と人の問へば、「それかれ」など四五人ばかり言ふに、「または(=そのほかに)」と問へば、「さては往ぬる人どもぞありつる」と言ふを、また笑ふも、またあやしき事にこそはあらめ。

 人間(ひとま)に寄りきて、「わが君こそ。まづ物聞こえん。まづまづ。人ののたまへる事(=人の言ひ間違へたこと)ぞ」と言へば、「何事にか」とて几帳(きちやう)のもとに寄りたれば、「『躯籠(むくろごめ)に寄り給へ』と言ふを、『五体(ごたい)ごめに』となん言ひつる」と言ひて、また(人々が=)笑ふ。除目(ぢもく)の中(なか)の夜、指油(さしあぶら)するに、灯台(とうだい)の打敷(うちしき)を踏みて立てるに、新しき油単(ゆたん)なれば、つよう捕らへられにけり。さし歩(あゆ)みて返へれば、やがて灯台は倒(たふ)れぬ。襪(したうづ=足袋)は打敷に付きてゆくに、まことに道こそ震動したりしか。

 頭(とう=蔵人頭)つき給はぬほどは、殿上の台盤(だいばん)に人もつかず。それに方弘(まさひろ)は豆一盛(ひともり)を取りて、小障子(さうじ)の後(うしろ)にてやをら食ひければ、ひき現はして笑はるる事ぞ限りなきや。324


百十四 関は、逢坂(あふさか)の関。須磨の関。鈴鹿の関。くきだの関。白川の関。衣(ころも)の関。ただこえの関は、はばかりの関と、たとしへなくこそ覚ゆれ。よこばしりの関。清見が関。みるめの関。よしなよしなの関こそ、いかに思ひ返したるならんと、いと知らまほしけれ。それを勿来(なこそ)の関とは言ふにやあらん。逢坂などをまで思ひ返したらば、佗(わび)しからんかし。足柄(あしがら)の関。328


百十五 森は、大荒木(おほあらぎ)の森。忍(しのび)の森。こごひの森。木枯(こがらし)の森。信太(しのだ)の森。生田(いくた)の森。うつきの森。きくだの森。いはせの森。立聞の森。常磐(ときは)の森。くるべき(イくろつき)の森。神南備(かみなび)の森。仮寝(うたたね)の森。浮田(うきだ)の森。うへ木の(イうへつきの)森。石田(いはた)の森。かうたての森といふが耳とどまるこそあやしけれ。森など言ふべくもあらず、ただ一木(ひとき)あるを、何につけたるぞ。こひの森。木幡(こはた)の森。329


百十六 卯月の晦日に、長谷寺に詣づとて、淀(よど)の渡(わたり)といふものをせしかば、船に車をかき据ゑてゆくに、菖蒲(さうぶ)菰(こも)などの末短く見えしを、取らせたれば、いと長かりける。菰(こも)積みたる船のありきしこそ、いみじうをかしかりしか。「高瀬(たかせ)の淀に」は、これを詠みけるなンめりと見えし。三日といふに帰るに、雨のいみじう降りしかば、菖蒲(さうぶ)刈るとて、笠のいと小さきを着て、脛(はぎ)いと高き男(をのこ)、童(わらは)などのあるも、屏風の絵にいとよく似たり。330


百十七 湯は、七久里の湯。有馬の湯。玉造の湯。331


百十八 常よりもことに聞こゆるもの

 元三(ぐわんさん)の車の音。鳥の声(こゑ)。暁の咳(しはぶき)。物の音(ね)はさらなり。(=能因本はここから下巻)331


百十九 絵にかきて劣るもの

 瞿麦(なでしこ)。桜。山吹。物語にめでたしと言ひたる男(をとこ)女(をんな)の形。332


百二十 描きまさりするもの

 松の木。秋の野。山里(やまざと)。山路(やまぢ)。鶴。鹿。332


百二十一 冬は、いみじく寒き。332


百二十二 夏は、世にしらず暑き。332


百二十三 あはれなるもの

 孝(けう)ある人の子。鹿の音(ね)。よき男の若きが御嶽精進(みたけさうじ)したる。隔(へだ)てゐてうち行なひたる暁の額(ぬか=礼拝)など(イいでゐたらんあかつきのぬかなど)、いみじうあはれなり。睦(むつ)ましき人などの目覚まして聞くらん思ひやり(イる)、詣づる程の有り様、いかならんと慎みたるに(イおぢたるに)、平(たいらか)に詣でつきたるこそいとめでたけれ。烏帽子(えぼうし)の様などぞ少し人悪ろき。なほいみじき人と聞こゆれど、こよなくやつれて詣づとこそは知りたるに、右衛門佐(うゑもんのすけ)信賢(のぶかた=実は宣孝のぶたか、紫式部の夫)は「あぢきなきことなり。ただ清き衣(きぬ)を着て詣でんに、なでふ事かあらん、必ずよも『悪しくてよ』と御嶽(=の神)のたまはじ」とて、三月(やよひ)晦日(つごもり)に、紫のいと濃き指貫(さしぬき)、白き襖(あを)、山吹のいみじくおどろおどろしきなどにて、隆光(=宣孝の息子)が主殿亮(とのもりのすけ)なるは、青色の紅(くれなゐ)の衣(きぬ)、摺(す)り斑(もどろ)かしたる水干袴(すいかんはかま)にて、うち続き詣でたりけるに、帰る人も詣づる人も、珍しく怪しき事に、「すべてこの山道に、かかる姿の人見えざりつ」とあさましがりしを、四月(うつき)晦日(つごもり)に帰りて、六月(みなづき)十余日(とをかあまり)の程に、筑前の守失せにし代はりになりにしこそ(=990年にあつた出来事)、「実(げ)に言ひけんに違はずも」と聞こえしか。これはあはれなる事にはあらねども、御嶽の序(ついで)なり。

 九月(ながつき)三十日(つごもり)、十月(かんなづき)一日(ついたち)の程に、只あるかなきかに聞きつけたる蟋蟀(きりぎりす)の声。鶏(にはとり)の子抱(いだ)きて伏したる。秋深き庭の浅茅(あさぢ)に、露のいろいろ玉のやうにて光りたる。川竹の風に吹かれたる夕暮。暁に目覚したる夜なども。すべて思ひ交はしたる若き人の中に、せく方ありて心にしも任せぬ。山里の雪。男も女も清げなるが黒き衣(きぬ)着たる。二十日六七日(はつかあまりむゆかなぬか)ばかりの暁に、物語して居明して見れば、あるかなきかに心細げなる月の、山の端(は)近く見えたるこそいとあはれなれ。秋の野。年うち過(すぐ)したる僧たちの行(おこな)ひしたる。荒れたる家に葎(むぐら)這(は)ひかかり、蓬(よもぎ)など高く生(お)ひたる庭に、月の隈(くま)なく明かき。いと荒うはあらぬ風の吹きたる。332


百二十四 正月に寺に籠りたるはいみじく寒く、雪がちに氷(こほ)りたるこそをかしけれ。雨などの降りぬべき景色(けしき)なるはいと悪し。

 初瀬(はつせ)などに詣でて、局(つぼね)などするほどは、呉階(くれはし)のもとに車引きよせて立てるに、帯(おび)(イおひ=笈)ばかりしたる若き法師ばらの、足駄(あしだ)といふものを履きて、聊(いささ)かつつみ(イつつが)もなく下(お)り上(のぼ)るとて、何ともなき経(きやう)の端うち読み、倶舎(くしや)の頌(じゆ)を少し言ひ続けありくこそ、所につけてをかしけれ。わが上(のぼ)るはいとあやふく、傍(かたは)らに寄りて高欄(かうらん)抑へて行くものを、ただ板敷などのやうに思ひたるもをかし。「局(つぼね)したり」など言ひて、沓(くつ)ども持(も)て来ておろす。

 衣(きぬ)かへさまに引き返しなどしたるもあり。裳(も)唐衣(からぎぬ)などこはごはしく装束(さうぞ)きたるもあり。深沓(ふかぐつ)半靴(はうくわ)など履きて、廊(らう)のほどなど沓(くつ)すり入るは、内裏(うち)辺(わた)りめきてまたをかし。内外(うちと=ないげ)など許されたる若き男ども、家の子など、また立ち続きて、「そこもとは、落ちたる所に侍るめり。上がりたる」など教へゆく。何者にかあらん。いと近くさし歩み、先立(さいだ)つ者などを、「しばし、人のおはしますに、かくはまじらぬわざなり」など言ふを、実(げ)にとて少し立ち後(おく)るるもあり。また聞きも入れず、「われまづ疾く仏の御前(みまへ)に」と行くもあり。局(つぼね)に行くほども、人の居並(ゐな)みたる前を通り行けば、いとうたてあるに、犬防ぎの中を見入れたる心地、いみじく尊く、などて月頃もまうでず過しつらんとて、まづ心も起こさる。

 御灯(みあかし)、常灯(じやうとう)にはあらで、内にまた人の奉りたる、恐ろしきまで燃えたるに、仏のきらきらと見え給へる、いみじく尊(たふと)げに、手ごとに文を捧げて、礼盤(らいばん)に向(むか)ひて論議(ろぎ)誓ふも、さばかりゆすり満ちて、これはと取り放ちて聞き分くべくもあらぬに、せめて絞(しぼ)り出だしたる声々(こゑごゑ)の、さすがにまた紛れず。「千灯(せんとう)の御志(みこころざし)は、某(なにがし)の御為(みため)」と僅(わづか)に聞こゆ。帯うちかけて拝み奉るに、「ここにかう候(さぶら)ふ」と言ひて、樒(しきみ)の枝を折りて持てきたるなどの尊きなども猶をかし。

 犬防ぎの方より法師寄り来て、「いとよく申し侍りぬ。幾日(いくか)ばかり籠らせ給ふべき」など問ふ。「しかじかの人籠らせ給へり」など言ひ聞かせて往ぬる、すなはち火桶(ひおけ)菓子(くだもの)など持てきつつ貸す。半挿(はんざふ)に手水(てうず)など入れて、盥(たらひ)の手(=取つ手)もなきなどあり。「御供の人はかの坊に」など言ひて呼びもて行けば、代はりがはりぞ行く。

 誦経(ずきやう)の鐘(かね)の音(おと)、「我がなンなり」と聞けば、たのもしく聞こゆ。傍らによろしき男の、いと忍びやかに額(ぬか)などつく。立ち居のほども心あらんと聞こえたるが、いたく思ひ入りたる気色にて、いも寝ず行ふこそいとあはれなれ。うちやすむ程は、経高くは聞こえぬほどに読みたるも尊げなり。高くうち出でさせまほしきに、まして鼻などを、けざやかに聞きにくくはあらで、少し忍びてかみたるは、何事を思ふらん、かれを叶へばやとこそ覚ゆれ。

 日頃籠りたるに、昼は少しのどかにぞ早うは(=以前は)ありし。法師の坊に、男(をのこ)ども童(わらはべ)など行きて徒然(つれづれ)なるに、ただ傍らに貝(かひ)をいと高く、俄(にはか)に吹き出だしたるこそ驚ろかるれ。清げなる立て文など持たせたる男(をのこ)の、誦経(ずきやう)の物うち置きて、堂童子(だうどうじ)など呼ぶ声は、山響きあひてきらきらしう聞こゆ。鐘の声響きまさりて、いづこならんと聞く程に、やんごとなき所の名うち言ひて、「御産(ごさん)たひらかに」など教化(けうけ)などしたる、すずろにいかならんと覚束(おぼつか)なく念ぜらるる。これはただなる折の事なンめり。正月(むつき)などには、ただいと物騒がしく、物望みなどする人の隙(ひま)なく詣づる見るほどに、行(おこなひ)もしやられず。

 日のうち暮るるに詣づるは、籠る人なンめり。小法師ばらの、もたぐべくもあらぬ屏風などの高き、いとよく進退(しんたい=扱ふ)し、畳などほうと立て置くと見れば、ただ局に出でて、犬防ぎに簾(すだれ)をさらさらと掛くるさまなどぞ、いみじく仕付けたるは安げなり。そよそよと数多(あまた)おりて、大人だちたる人の、卑(いや)しからず、忍びやかなる御けはひにて、帰る人にやあらん、「そのうちあやふし。火の事制(せい)せよ」など言ふもあり。七つ八つばかりなる男子(をのこご)の、愛敬づきおごりたる声にて、侍人(さぶらひびと)(イさふらひの人となりにも)呼びつけ、物など言ひたるけはひもいとをかし。また三つばかりなる児(ちご)の寝おびれて、うち咳(しはぶ)きたるけはひもうつくし。乳母(めのと)の名、母など(=口に)うち出でたらんも、これならんといと知らまほし。

 夜一夜(よひとよ)、いみじう罵り行なひ明かす。寝も入らざりつるを、後夜(ごや)など果てて、少しうち休み寝ぬる耳に、その寺の仏経(ぶつきやう)を、いと荒々しう、高くうち出でて読みたるに、わざと尊しともあらず。修行者(ずぎやうじや)だちたる法師の読むなンめりと、ふとうち驚かれて、あはれに聞こゆ。

 また、夜などは、顔知らで、人々しき人の行なひたるが、青鈍(あをにび)の指貫(さしぬき)のはたばりたる、白き衣(きぬ)どもあまた着て、子供なンめりと見ゆる若き男(をのこ)の、をかしううち装束(さうぞ)きたる、童(わらは)などして、侍(さぶらひ)の者ども、あまた畏(かしこ)まり囲繞(ゐねう)したるもをかし。かりそめに屏風立てて、額(ぬか)など少しつくめり。

 顔知らぬは誰ならんと、いとゆかし。知りたるは、さなンめりと見るもをかし。若き人どもは、とかく局どもなどの辺(わた)りにさまよひて、仏の御方(かた)に目見やり奉らず、別当(べたう)など呼びて、打ちささめき物語して出でぬる、えせ者とは見えずかし。

 二月(きさらぎ)晦日(つごもり)、三月(やよひ)朔日(ついたち)ごろ、花盛りに籠りたるもをかし。清げなる男どもの、忍ぶと見ゆる二三人(ふたりみたり)、桜(さくら)青柳(あをやぎ)などをかしうて、括(くく)りあげたる指貫(さしぬき)の裾(すそ)も、あてやかに見なさるる、つきづきし男(をのこ)に、装束(さうぞく)をかしうしたる餌袋(ゑぶくろ=弁当)いだかせて、小舎人童(こどねりわらは)ども、紅梅(こうばゐ)萌黄(もえぎ)の狩衣(かりぎぬ)に、色々の衣(きぬ)、摺(す)り斑(もどろ)かしたる袴など着せたり。花など折らせて、侍(さぶらひ)めきて、細やかなるものなど具して、金鼓(こんく)打つこそをかしけれ。「さ(=あの人)ぞかし」と見ゆる人あれど、いかでかは知らん。うち過ぎて往ぬるこそ、さすがにさうざうしけれ。「気色(=そぶり)を見せましものを」など言ふもをかし。

 かやうにて寺ごもり、すべて例ならぬ所に、使ふ人の限りして(=使用人だけと)あるは、甲斐(かひ)なくこそ覚ゆれ。猶同じ程にて、一つ心にをかしき事も、様々言ひ合はせつべき人、かならず一人二人(ひとりふたり)、あまたも誘(さそ)はまほし。そのある人の中にも、口惜しからぬもあれども、目馴れたるなるべし。男(をとこ)などもさ思ふにこそあめれ。わざと尋ね呼びもて歩(あり)くめるはいみじ。336


百二十五 こころづきなきもの

 祭、御禊(みそぎ)など、すべて男の見る物見車に、ただ一人乗りて見る人こそあれ。いかなる人にかあらん。やんごとなからずとも、若き男どもの物ゆかしと思ひたるなど、引き乗せて見よかし。透き影にただ一人耀(かが)よひて、心ひとつにまもり居たらんよ。(=以下三巻本)いかばかり心狭(せば)く、け憎きならんとぞ覚ゆる。物へも往き、寺へも詣づる日の雨。使ふ人などの、「我をば思(おぼ)さず、某(なにがし)こそ只今時の人」など言ふをほの聞きたる。人よりは少し憎しと思ふ人の、推し量り事うちし、すずろなる物怨(うらみ)し、我れさかしがる。349


百二十六 わびしげに見ゆるもの

 六七月の午未(むまひつじ)の時ばかりに、穢(きたな)げなる車にえせ牛かけて、ゆるがし行くもの。雨降らぬ日、張り筵(むしろ)したる車。降る日、張り筵せぬも。年老いたる乞丐(かたゐ)。いと寒き折も暑きにも、下衆女の形(なり)悪しきが子を負ひたる。小(ちひ)さき板屋の黒うきたなげなるが、雨に濡れたる。雨のいたく降る日、小さき馬に乗りて前駈(ぜんく)したる人の、冠(かうぶり)もひしげ、袍(うへのきぬ)も下襲(したがさね)も一つになりたる、いかに侘びしからんと見えたり。夏はされどよし。350


百二十七 暑げなるもの

 随身(ずいじん)の長(をさ)の狩衣(かりぎぬ)。衲(なふ)の袈裟(けさ)。出居(いでゐ)の少将。いみじく肥えたる人の髪(かみ)多かる。琴(きん)の袋。六七月の修法(ずほふ)の阿闍梨(あざり)、日中の時など行ふ。また、同じ頃の銅(あかがね)の鍛冶(かぢ)。351


百二十八 はづかしきもの

 男の心のうち。いざとき(イニいさきよき)夜居(よゐ)の僧。密(みそか)盗人(ぬすびと)のさるべき隈(くま)に隠れ居て、いかに見るらんを、誰かは知らん、暗きまぎれに、懐(ふところ)に物引き入るる人もあらんかし。それは同じ心にをかしとや思ふらん。

 夜居の僧は、いとはづかしきものなり。若き人の集りては、人のうへを言ひ笑ひ、謗(そし)り憎みもするを、つくづくと聞き集むる心のうちもはづかし。「あなうたて、かしがまし」など、御前近き人々の物けしきばみ言ふを聞き入れず、言ひ言ひての果ては、うち解けて寝ぬる後(のち)もはづかし。

 男は、うたて思ふさまならず、もどかしう心づきなき事あり、と見れど、さし向ひたる人をすかし頼むるこそ恥づかしけれ。まして情けあり、好ましき人に知られたるなどは、疎(おろ)かなりと思ふべくももてなさずかし。心のうちにのみもあらず。また、皆これが事はかれに語り、かれが事はこれに言ひ聞かすべかンめるを、我が事をば知らで、かく語るをばこよなきなンめりと思ひやすらん、と思ふこそ恥づかしけれ。いであはれ、また会はじ、と思ふ人に会へば、心もなきものなンめりと見えて、恥づかしくもあらぬものぞかし。

 いみじくあはれに、心苦しげに見捨てがたき事などを、いささか何事とも思はぬも、いかなる心ぞとこそあさましけれ。さすがに人の上をばもどき、物をいとよく言ふよ。ことに頼もしき人もなき宮仕の人などを語らひて、ただにもあらずなりたる有様などをも、知らでやみぬるよ。352

巻七

百二十九 むとくなるもの(=ぶざまなもの)

 潮干(しほひ)の潟(かた)なる大きなる船。髪(かみ)短かき人の、鬘(かづら)取りおろして髪(かみ)けづる程。大きなる木の風に吹き倒(たふ)されて、根を捧(ささ)げて横たはれ臥(ふ)せる。相撲(すまひ)の負けて入るうしろ手。えせ者(=身分の低い者)の従者(ずさ)勘(かん=罰する)がふる。翁の髻(もとどり)放ちたる(=冠を脱ぐ)。人の妻(め)なンどの、すずろなる物怨(ゑん=嫉妬)じして隠れたる(=家出)を、必らず尋ね騒(さわ)がんものをと思ひたるに、さしも思ひたらず、妬(ねた)げにもてなしたるに、さてもえ旅だち居たらねば、心と出できたる。狛犬しく(=慶安刊本。能因本は「こまいぬしゝ」。古活字本の「ゝ」は「く」と酷似)舞ふ者(=獅子舞)の、面白(おもしろ)がり逸(はや)り出でて踊る足音。(=新典社の春曙抄はここから下巻)5 


百三十 修法(ずほふ)は、仏眼真言(ぶつげんしんごん)など読みたてまつりたる、なまめかしう尊(たふと)し。6 


百三十一 はしたなきもの

 他人(ことびと)を呼ぶに「我(われ)か」とてさし出でたるもの。まして物とらする折はいとど。おのづから人の上などうち言ひ謗(そし)りなどもしたるを、幼(おさな)き人の聞き取りて、その人のある前に言ひ出でたる。

 哀れなる事など人の言ひてうち泣くに、実(げ)にいと哀れとは聞きながら、涙(なみだ)のふつと出でこぬ、いとはしたなし。泣顔つくり、気色ことになせど、いと甲斐(かひ)なし。めでたき事を聞くには、またすずろにただ出で来にこそ出で来れ。

 八幡(やはた)の行幸(みゆき)の帰らせ給ふに(=天皇が)、女院御桟敷(さじき=母后の桟敷)のあなたに御輿(こし)を留めて、御消息(せうそこ)申させ給ひしなど、いみじくめでたく、さばかりの御有様(=天皇であること)にて、かしこまり申させ給ふが、世に知らずいみじきに、真(まこと)に(=清少の感涙が)こぼるれば、化粧(けさう)したる顔も皆あらはれて、いかに見苦しかるらん。宣旨(せんじ)の御使にて、斉信(ただのぶ)の宰相中将の御桟敷(=女院の桟敷)に参り給ひしこそ、いとをかしう見えしか。ただ随身(ずいじん)四人(よたり)、いみじう装束(さうぞ)きたる、馬副(むまぞひ)の細うしたてたるばかりして、二条の大路(おほぢ)、広う清らにめでたきに、馬をうちはやして急ぎ参りて、少し遠くより降りて、そばの御簾(みす)の前に候(さぶら)ひ給ひし。院の別当ぞ(=宣旨の伝言)申し給ひし。御返し承(うけたまは)りて、また走らせ帰り参り給ひて、御輿のもとにて奏し給ひし程、言ふも愚かなりや。さて、内(=天皇)渡らせ給ふを見奉らせ給ふらん女院の御心、思ひ遣り参らするは、飛び立ちぬべくこそ覚えしか。それには長泣きをして笑はるるぞかし。よろしき際(きは)の人だに、なほ(=息子の出世は)この世にはめでたきものを、(=私が)かうだに思ひ参らするもかしこしや。6 


百三十二 関白殿の黒戸(くろど)より出でさせ給ふとて、女房の廊(らう)に隙(ひま)なくさぶらふを、「あないみじの御許(おもと)たちや。翁(おきな)をばいかに痴(をこ)なりと笑ひ給ふらん」と分け出でさせ給へば、戸口に人々(=女房たち)の色々の袖口して(=戸口の)御簾(みす)を引き上げたるに、権大納言殿、御沓(くつ)取りてはかせ奉らせ給ふ。いと物々しう清げに装(よそ)ほしげに、下襲(したがさね)の裾(しり)長く、所狭くさぶらひ給ふ。まづ、「あなめでた。大納言ばかりの人に沓をとらせ給ふよ」と見ゆ。山の井の大納言(=道頼)、その次々、さらぬ人々、黒き(=慶安刊三巻本、能因本は「こき」)物をひき散らしたるやうに、藤壺の塀(へい)のもとより、登華殿(とうくわでん)の前まで居並(な)みたるに、いと細(ほそ)やかにいみじうなまめかしうて、御佩刀(みはかし)など引きつくろひ、やすらはせ給ふに、宮の大夫殿(=道長)の、清涼殿の前に立たせ給へれば、それは居させ給ふまじきなンめりと見る程に、少し歩み出でさせ給へば、ふと居させ給ひしこそ、猶いかばかりの昔の御行(おほんおこなひ)のほどならんと見奉りしこそいみじかりしか。

 中納言の君(=女房の一人)の忌(いみ)の日とて、奇(くす)しがり(=勤行)行なひ給ひしを、「給(た)べ、その数珠(ずず)しばし。行なひてめでたき身にならんとか」とて集りて笑へど、なほいとこそめでたけれ。御前に聞しめして、「仏になりたらんこそ、これよりは勝(まさ)らめ」とて打ち笑ませ給へるに、まためでたくなりてぞ見まゐらする。大夫殿(だいぶどの)の居させ給へるを、かへすがへす聞こゆれば、「例の思ふ人」と笑はせ給ふ。ましてこの後(のち)の御ありさま、見奉らせ給はましかば、ことわりとおぼしめされなまし。9 


百三十三 九月(ながつき)ばかり、夜一夜降りあかしたる雨の、今朝(けさ)はやみて、朝日の花やかにさしたるに、前栽の菊の露、こぼるばかり濡れかかりたるも、いとをかし。透垣(すいがい=垣根)、羅文(らもん=垣根の上の飾り)、薄(すすき)などの上にかいたる蜘蛛(くも)の巣の、こぼれ残りて所々に糸も絶えざまに雨のかかりたるが白き玉を貫(つらぬ)きたるやうなるこそ、いみじうあはれにをかしけれ。

 少し日たけぬれば、萩などのいと重げなりつるに(「に」イニナシ可然か=堺本)、露の落つるに、枝のうち動きて、人も手触れぬに、ふと上様(かみざま)へあがりたる、「いみじういとをかし」と言ひたること、人の心地には、「つゆをかしからじ」と思ふこそ、またをかしけれ。12 


百三十四 七日の若菜を、人の六日(むゆか)にもてさわぎ取り散らしなどするに、見も知らぬ草を子供の持てきたるを、(=私が)「何とかこれをば言ふ」と言へど、頓(とみ)にも言はず、「いざ」など此彼(これかれ)見合はせて、「耳無草(みみなぐさ)となんいふ」と言ふ者のあれば、「むべなりけり、(=子供が)聞かぬ顔(がほ=耳がないから)なるは」など笑ふに、またをかしげなる菊の生(お)ひたるを持てきたれば、

摘め(=つねる)どなほ耳無草こそ(=無反応で)つれなけれ数多(あまた)しあれば菊(=聞く)もまじれり

と言はまほしけれど、(=子供は)聞き入るべくもあらず。13 


百三十五 二月、官の司(くわんのつかさ)に、定考(かうじやう=任官)といふ事するは何事にあらん。釈奠(しやくてん=孔子を祭る儀式)もいかならん(=この一文どの写本にもなし)。孔子(くじ)などは掛け奉りてする事なるべし。聡明(そうみやう)とて、上にも宮にも、怪しき物など土器(かはらけ)に盛りてまゐらする。13 


百三十六 「頭弁(とうのべん=行成)の御許(もと)より」とて、主殿司(とのもづかさ)、絵(ゑ)などやうなる物を、白き色紙(しきし=白い紙)に包みて、梅の花のいみじく咲きたるにつけて持てきたる(=「きたる」は慶安刊本のみ。能因本は「きたり」)。絵にやあらんと急ぎ取り入れて見れば、餠餤(へいだん)といふ物を、二つ並べて包みたるなりけり。添へたる立て文に、解文(げもん)のやうに書きて
 進上(しんじやう)
 餠餤(へいだん)一包(ひとつつみ)
 例に依りて進上如件(しんじやうくだんのごとし)
 少納言殿に
とて、月日かきて、「任那成行(みまなのなりゆき)」とて、奥に、「この男(をのこ)は自ら参らんとするを、昼は形(かたち)悪ろしとて参らぬなり」と、いみじくをかしげに書き給ひたり。御前に参りて御覧ぜさすれば、「めでたくも書かれたるかな。をかしうしたり」など褒めさせ給ひて、御文はとらせ給ひつ。「返事(かへりごと)はいかがすべからん。この餠餤もてくるには、物などや取らすらん。知りたる人もがな」と言ふを聞しめして、「惟仲(これなか)が声しつる、呼びて問へ」とのたまはすれば、端に出でて、「左大弁にもの聞こえん」と、侍(さぶらひ)して言はすれば、いとよくうるはしうて来たり。「あらず、私事(わたくしごと)なり。もしこの弁、少納言などのもとに、かかる物もてきたる下部(しもべ)などには、することやある」と問へば、「さる事も侍らず、只とどめて食ひ侍る。何しに問はせ給ふ。もし上官(じやうくわん)のうちにて、えさせ給へるか」と言へば、「いかがは」と答(いら)ふ。ただ返しをいみじう赤き薄様(うすやう)に、「みづから持て詣(まう)でこぬ下部は、いと冷淡(れいたう=へいだんとの洒落)なりとなん見ゆる」とて、めでたき紅梅につけて奉るを、即ちおはしまして、「下部さふらふ」とのたまへば、出でたるに、「さやうのもの(=赤い薄様)ぞ、歌よみして遣(おこ)せ給へると思ひつるに、美々しくも言ひたりつるかな。女、少しわれはと思ひたるは、歌よみがましくぞある。さらぬこそ語らひよけれ。まろなどにさる事言はん人は、かへりて無心ならんかし」とのたまふ。「則光(のりみつ)成康(なりやす=慶安刊本三巻本、能因本は「なりや」)」(=歌嫌ひの人たち)など、(=私は)笑ひて止みにし事を、殿の前に人々いと多かりけるに、(=行成が)語り申し給ひければ、「『いとよく言ひたる』となんのたまはせし」と人の語りし。これこそ見苦しき我褒(われぼ)めどもなりかし。16 


百三十七 「などて官(つかさ)得はじめたる六位(ろくゐの)笏に、職(しき)の御曹司(みざうし)の巽(たつみ)の隅(すみ)の築地(ついぢ)の板をせしぞ。更に(=慶安刊古活字本。能因本は「さらば」)西東をもせよかし。また五位もせよかし」などいふことを言ひ出でて、「あぢきなき事どもを。衣(きぬ)などにすずろなる名どもを付けけん、いとあやし。衣の名に、『ほそなが』をばさも言ひつべし。なぞ、汗衫(かざみ)は。尻長(しりなが)と言へかし、男童(をのわらは)の着るやうに。なぞ、唐衣(からぎぬ)は。短き衣(きぬ)とこそ言はめ。されどそれは、唐土(もろこし)の人の着るものなれば」「上の衣(きぬ)の袴(はかま)(=慶安刊古活字本)(イうへのはかま可用歟)(=能因本は「うへのきぬうへのはかま」)、さ言ふべし(=さう言ふのはよい)。下襲(したがさね)もよし。また、大口(おほくち)。長さよりは口ひろければ」「袴いとあぢきなし。指貫(さしぬき)も、なぞ。足衣(あしぎぬ)、もしは、さやうのものは足袋(あしぶくろ)なども言へかし」など、万(よろづ)の事を言ひののしるを、「いで、あなかしがまし。今は言はじ。寝給ひね」といふ答(いらへ)に、夜居(よゐ)の僧の「いとわろからん。夜一夜(よひとよ=能因本は「よひひととき」)こそ猶のたまはめ」と、憎しと思ひたる声様(こゑざま)にて言ひ出でたりしこそ、をかしかりしに添へて驚ろかれにしか。20 


百三十八 故殿の御ために、月ごとの十日、御経仏供養(みきやうほとけくやう)せさせ給ひしを、九月(ながつき)十日、職(しき)の御曹司(みざうし)にてせさせ給ふ。上達部(かんだちめ)、殿上人(てんじやうびと)いと多(おほ)かり。清範(せいはん)、講師(かうじ)にて、説く事どもいと悲しければ、殊に物の哀れ深かるまじき若き人も、皆泣くめり。

 果てて、酒飲み詩誦(ず)んじなどするに、頭中将(とうのちゆうじやう)斉信(ただのぶ)の君、「月、秋と期(き)して身いづくにか(=秋とともに名月ももどつてきたのに、あなたはもどつてこない)」といふ事をうち出(い)だし給へりしかば、いみじうめでたし。いかでかは(=この詩を)思ひ出で給ひけん。(=中宮の)おはします所に分け参るほどに、(=中宮もこちらへ)立ち出でさせ給ひて、「めでたしな。いみじう今日(けう)の事に言ひたる事にこそあれ」とのたまはすれば、「それを啓しにとて、物も見さして参り侍りつるなり。猶いとめでたくこそ思ひはべれ」と聞こえさすれば、「まして(=あなたの場合ひとしほ)さ覚ゆらん」と仰せらるる。

 わざと呼びも出で、おのづから会ふ所にては、「などかまろを、真面(まほ)に近くは語らひ給はぬ。さすがに憎しなど思ひたるさまにはあらずと知りたるを、いと怪しくなん。さばかり年頃になりぬる得意(=親友)の、疎(うと)くて止(や)むは無し。殿上などに明け暮れ無き折もあらば、何事をか思ひ出でにせん」とのたまへば、「さらなり。(=夫婦になる事は)難(かた)かるべき事にもあらぬを、さもあらん後には、え(=あなたを)褒め奉らざらんが口惜しきなり。上の御前などにて、役(やく)と集まりて褒め聞こゆるに、いかでか。ただおぼせかし。(=結婚すれば)傍(かたは)ら痛く、心の鬼(=良心の呵責)出で来て、言ひにくく侍りなんものを」と言へば、笑ひて、「など。さる人しも、他目(よそめ)より外(ほか)に(=他人以上に)、褒むるたぐひ多かり」とのたまふ。「それが憎からずばこそあらめ。男も女も、けぢかき人を方引(かたひ=贔屓)き思ふ人の、(=他人が)いささかあしき事を言へば腹だちなどするが、わびしう覚ゆるなり」と言へば、「たのもしげなの事や」とのたまふもをかし。21 


百三十九 頭弁(とうのべん=行成)の職にまゐり給ひて、物語などし給ふに、夜いと更けぬ。「明日(あす)御物忌(ものいみ)なるに籠(こ)もるべければ、丑(うし=午前一時)になりなば悪しかりなん」とてまゐり給ひぬ。

 翌朝(つとめて)、蔵人所の紙屋紙(かうやがみ)ひき重ねて、「後(のち)の朝(あした=後朝と洒落た)は残り多かる心地なんする。夜を通して昔物語も聞こえ明かさんとせしを、鶏(とり)の声に催(もよほ)されて」と、いといみじう清げに、裏表(うらうへ=うらおもて)に事多く書き給へる、いとめでたし。御返(かへり)に、「いと夜深く侍りける鳥の声は、孟嘗君(まうしやうくん)のにや」と聞こえたれば、立ち返へり、「『孟嘗君の鶏(にはとり)は函谷関(かんこくくわん)を開きて、三千の客(かく)僅(わづか)に去れり』と言ふは(=能因本は「といふこれは」)。逢坂(あふさか)の関(せき)の事なり」とあれば、

「夜をこめて鳥のそらねははかるとも 世に逢坂の関はゆるさじ

心かしこき関守(せきもり)侍るめり」と聞こゆ。立ち返へり、

「逢坂は人越えやすき関なれば 鳥も鳴かねど開けて待つとか」

とありし文どもを、はじめのは僧都(そうづ)の君(=隆円)の額(ぬか)をさへつきて取り給ひてき。後々(のちのち)のは御前(おまへ)にて、「さて逢坂の歌は詠(よ)みへされて、返しもせずなりにたる、いとわろし」と笑はせ給ふ。

 さて「その(=あなたの)文は、殿上人みな見てしは」と(=行成が)のたまへば、「(=私の事を)実(まこと)におぼしけりとは、これにてこそ知りぬれ。めでたき事など人の言ひ伝へぬは、甲斐(かひ)なき業(わざ)ぞかし。また、見苦しければ、御文はいみじく隠して、人につゆ見せ侍らぬ、志(こころざし)の程を比(くら)ぶるに、等しうこそは」と言へば、「かうもの思ひ知りて言ふこそ、なほ人々には似ず思へ」と、「『思ひぐま(=思ひやり)なく悪(あ)しうしたり』など、例の女のやうに言はんとこそ思ひつるに」とて、いみじう笑ひ給ふ。「こはなぞ。よろこびをこそ聞こえめ」など言ふ。「まろが文をかくし給ひける、また猶うれしきことなり。いかに心憂くつらからまし。今よりもなほ頼み聞こえん」などのたまひて、後に経房(つねふさ)の中将「頭弁(とうのべん)はいみじう褒め給ふとは知りたりや。一日の文の序(ついで)に、ありし事など語り給ふ。思ふ人々の(=能因本は「人々に」)褒めらるるは、いみじく嬉しく」など、まめやかにのたまふもをかし。「嬉しき事も二つにてこそ。かの褒め給ふなる(=三巻本イらん=能因本)に、また(=あなたが)思ふ人の中に侍りけるを」など言へば、「それはめづらしう、今の事(=今初めて知つた事)のやうにもよろこび給ふかな」とのたまふ。24 


百四十 五月ばかりに、月もなくいとくらき夜、「女房やさぶらひ給ふ」と、声々して言へば、「出でて見よ。例ならず言ふは誰そ」と仰せらるれば、出でて、「こは誰(た)そ。おどろおどろしう、際(きは)やかなるは」と言ふに、物も言はで、御簾(みす)をもたげて、そよろとさし入るるは、呉竹(くれたけ)の枝なりけり。「おい、『この君』にこそ」と言ひたるを聞きて、「いざや、これ殿上に行きて語らん」とて、中将、新中将、六位どもなどありけるは往(い)ぬ。

 頭弁(とうのべん=行成)はとまり給ひて、「怪しく往ぬる者どもかな。御前の竹を折りて歌詠まんとしつるを、『職(しき)にまゐりて、同じくは、女房など呼び出でてを』と言ひて来つるを、呉竹の名をいと疾く言はれて、往ぬるこそをかしけれ。誰(たれ)が教(をしへ)をしりて、人のなべて知るべくもあらぬ事をば言ふぞ」などのたまへば、「竹の名とも知らぬものを、なま妬(ねた)し(イなまめかし=能因本)とや思(おぼ)しつらん」と言へば、「実(まこと)ぞ。え知らじ」などのたまふ。

 まめごとなど言ひ合はせて居給へるに、「この君と称(しよう)す」といふ詩を誦(ず)じて、また集まり来たれば、「殿上にて言ひ期(き)しつる本意(ほい)もなくては、など帰り給ひぬるぞ。いと怪しくこそありつれ」とのたまへば、「さる事には何の答(いらへ)をかせん。いと中々ならん。殿上にても言ひののしりつれば、上も聞しめして、興ぜさせ給ひつる」と語る。弁もろともに、かへすがへす同じ事を誦(ず)んじて、いとをかしがれば、人々出でて見る。とりどりに物ども言ひかはして帰るとて、なほ同じ事を諸声(もろごゑ)に誦(ず)んじて、左衛門の陣に入るまで聞こゆ。

 翌朝(つとめて)、いと疾く、少納言の命婦(=帝の女房)といふが御文まゐらせたるに、この事を啓したれば、下(しも)なる(=私を)を召して、「さる事やありし」と問はせ給へば、「知らず。何とも思はで言ひ出で侍りしを、行成(ゆきなり)の朝臣(あそん)の取り成したるにや侍らん」と申せば、「取り成すとても」と打ち笑ませ給へり。誰(たれ)が事をも、殿上人褒めけりと聞かせ給ふをば、さ言はるる人をよろこばせ給ふもをかし。28 


百四十一 円融院(ゑんゆうゐん)の(=服喪の)御果ての年、皆人御服(ぷく=喪服)脱ぎなどして、あはれなる事を、おほやけより始めて、院の人も、「花の衣(ころも)に」(=遍照の歌)など言ひけん世の御事など思ひ出づるに、雨いたう降る日、藤三位(=一条天皇の乳母)の局に、蓑虫(みのむし)のやうなる童(わらは)の、大きなる木の白きに立て文をつけて、「これ奉らん」と言ひければ、(=藤三位の召使)「いづこよりぞ、今日明日御物忌なれば、御蔀(しとみ)もまゐらぬぞ」とて、下(しも)は閉(た)てたる蔀(しとみ)の上(かみ)より取り入れて、「さなん」とは聞かせ奉らず、「物忌なればえ見ず」とて、上につい差して置きたるを、翌朝(つとめて)手洗ひて、「その巻数(くわんじゆ)」と請ひて、伏し拝みて開けたれば、胡桃色(くるみいろ)といふ色紙(しきし)の厚肥(あつご)えたるを、あやしと見てあけもてゆけば、老法師(らうほふし)のいみじげなるが手にて、

これをだに形見(かたみ)と思ふに 都には葉替(はが)へやしつる椎柴(しひしば)の袖

と書きたり。「あさましく妬(ねた)かりけるわざかな。誰(たれ)がしたるにかあらん。仁和寺(にわじ)の僧正のにやと思へど、よもかかる事のたまはじ。なほ誰(たれ)ならん。藤大納言ぞかの院の別当におはせしかば、そのし給へる事なめり。これをうへ(=一条天皇)の御前、宮などに、疾う聞こしめさせばや」と思ふに、いと心もとなけれど、なほ恐ろしう言ひたる物忌をし果てむと念じ暮らして、また翌朝(つとめて)、藤大納言の御許(もと)に、この御返しをしてさし置かせたれば、すなはちまた返事して置かせ給へりけり。

 それを二つながら取りて、急ぎ参りて、「かかる事なん侍(はべ)りし」と、上もおはします御前にて語り申し給ふを、宮はいとつれなく御覧じて、「藤大納言の手のさまにはあらで、法師にこそあめれ」とのたまはすれば、「さは、こは誰(たれ)が仕業(しわざ)にか。好き好きしき上達部、僧綱(そうがう)などは、誰かはある。それにやかれにや」など、おぼめきゆかしがり給ふに、上「この辺(わた)りに見えしにこそは、いとよく似たンめれ」と打ち微笑(ほほゑ)ませ給ひて、今一筋(すぢ=もうひとつ)御厨子(みづし)のもとなりけるを、取り出でさせ給へれば、「いで。あな心憂、これおぼされよ(イおほせられよ=能因本「仰せられよ」、慶安刊古活字本は「おぼさるれよ」)。あな、頭(かしら)痛や。いかで聞き侍らん」と、ただ責めに責め申して、恨み聞こえて笑ひ給ふに、やうやう仰せられ出でて、「御使に往きたりける鬼童(おにわらは)は、台盤所の刀自(とじ)といふ者の供(とも)なりけるを、小兵衛(こひやうゑ)が語らひ出だしたるにやありけん」など仰せらるれば、宮も笑はせ給ふを、引きゆるがし奉りて、「などかく謀(はか)らせおはします。なほ疑ひもなく手を打ち洗ひて伏し拝み侍りしことよ」と笑ひ妬(ねた)がり居給へるさまも、(=主上の寵愛を)いと誇(ほこ)りかに愛敬(あいぎやう)づきてをかし。

 さて、上の台盤所にも笑ひののしりて、局(つぼね)におりて、この童尋ね出でて、文取り入れし人に見すれば、「それにこそ侍るめれ」と言ふ。「誰(たれ)が文を、誰(たれ)がとらせしぞ」と言へば、しれじれとうち笑みて、ともかくも言はで走りにけり。藤大納言後に聞きて、笑ひ興じ給ひけり。32 


百四十二 つれづれなるもの

 所(ところ)去りたる物忌(ものいみ)。馬(むま)下りぬ双六(すぐろく)。除目(ぢもく)に官(つかさ)得ぬ人の家。雨うち降りたるは、まして徒然(つれづれ)なり。37


百四十三 つれづれなぐさむるもの

 物語。碁。双六(すぐろく)。三つ四つばかりなる児(ちご)の物をかしう言ふ。また、いと小(ちひ)さき児(ちご)の物語したるが、笑(ゑ)みなどしたる。菓子(くだもの)。男(をとこ)のうち猿楽(さるが)ひ物よく言ふが来たるは(イに=能因本)、物忌なれど入れつかし。37 


百四十四 とりどころなきもの

 形憎げに心悪しき人。御衣(みそ)ひめ(=糊)の濡れ(=慶安刊本。能因本は「ぬり」)たる。これいみじう悪ろき事言ひたると、万(よろづ)の人憎むなる事とて、いま止(とど)むべきにもあらず。

 また、後火(あとび)の火箸といふ事、などてか、世になき事ならねば、皆人知りたらん。実(げ)に書き出で人の見るべき事にはあらねど、この草紙を見るべきものと思はざりしかば、怪しき事をも、憎き事をも、ただ思はん事の限りを書かんとてありしなり。37 


百四十五 なほ世にめでたきもの

 臨時の祭の御前ばかり(=と同じ程)の事は、何事にかあらん(=諸本、能因本(学習院大本)のみ「ばかりの事にかあらん」、前田本「お前の臨時の祭の事、何事かはあらむ」)。試楽(しがく)もいとをかし。春は空の景色のどかにて、うらうらとあるに、清涼殿の御前の庭に、掃部司(かもりづかさ)の畳どもを敷きて、使(つかひ)は北面(きたおもて)(=諸本、能因本(学)のみ「北向」)に、舞人は御前の方(かた)に。これらは僻事(ひがごと=記憶違ひ)にもあらん。

 所(=蔵人所)の衆ども、衝重(ついがさね=お膳)ども取りて(=舞人の)前ごとに据ゑわたし、陪従(べいじゆう=伴奏者)もその日は御前に出で入るぞかし。公卿(=慶安刊本。能因本は「出で入るぞかしこきや」で「公卿」ナシ)殿上人は、かはるがはる盃(さかづき)とりて、はてには夜久貝(やくがひ)といふ物<して飲みて立つ、すなはち取りばみといふ物、>(=三巻本より、能因本ヌケ、「物」から「物」への目移りによる一行脱落か)男(をのこ)などのせんだにうたてあるを、御前に女ぞ出でて取りける。思ひかけず人やあらんとも知らぬに、火焼屋(ひたきや)よりさし出でて、多く取らんと騒ぐものは、中々うち溢(こぼ)して扱ふ程に、軽(かろ)らかにふと取り出でぬる者には遅れて(=慶安刊本。能因本前田本は「おくれぬ」)、かしこき納殿(おさめどの=物置)に火焼屋をして、取り入るるこそをかしけれ。掃部司(かんもりづかさ)の者ども、畳とるやおそきと、主殿司(とのもりづかさ)の官人ども、手ごとに箒(ははき)とり、砂子(すなご)均(なら)す。承香殿(じようきやうでん)の前のほどに、笛を吹きたて、拍子(ひやうし)うちて遊ぶ(=音楽)を、「疾く出で来(こ)なん」と待つに、『有度浜(うどはま=駿河舞)』うたひて、竹の籬(ませ=垣根)のもとに歩み出でて、御琴(みこと)うちたる程など、いかにせんとぞ覚ゆるや。一の舞(=第一の舞人たち)の、いとうるはしく袖を合はせて、二人走り出でて、西に向ひて立ちぬ。次々出づるに、足踏みを拍子に合はせては、半臂(はんぴ)の緒(を)つくろひ、冠(かうぶり)・衣(きぬ)の領(くび)などつくろひて、「あやもなきこま山」などうたひて舞ひ立ちたるは、すべていみじくめでたし。大比礼(おほひれ)など舞ふは、日一日見るとも飽くまじきを、終(は)てぬるこそいと口惜しけれど、またあるべしと思ふはたのもしきに、御琴舁(か)き返(か)へして、この度(たび)やがて竹の後(うしろ)から舞ひ出でて、脱ぎ垂れつる様どものなまめかしさは、いみじくこそあれ。掻練(かいねり)の下襲(したがさね)など乱れ合ひて、こなたかなたに渡りなどしたる、いで、更に言へば世の常(=ありきたり)なり。

 このたびは又も(=舞は)あるまじければにや、いみじくこそ終(は)てなん事は口惜しけれ。上達部(かんだちめ)なども、続きて出で給ひぬれば、いとさうざうしう口惜しきに、賀茂の臨時の祭は、還立(かへりだち)の御神楽(みかぐら)などにこそ慰めらるれ。庭燎(にはび)の烟(けぶり)の細うのぼりたるに、神楽の笛のおもしろうわななき、細う吹きすましたるに、歌の声もいとあはれに、いみじくおもしろく、寒く冴(さ)え凍(こほ)りて(=慶安刊本。能因本は「さえのぼりて」さむくナシ)、(=私は)打ちたる衣(きぬ)もいと冷たう、扇持たる手の冷ゆるもおぼえず。才(ざえ)の男(をのこ)ども召して跳び来たるも、人長(にんぢやう=舞人の長)の心良(こころよ)げさなどこそ、いみじけれ。

 里なる時は、ただ渡るを見るに、飽かねば、御社(みやしろ)まで行きて見るをりもあり。大きなる木のもとに車立てたれば、松の烟(けぶり)たなびきて、火の影に半臂(はんぴ)の緒(を)、衣のつやも、昼よりはこよなく勝(まさ)りて見ゆる。橋の板を踏み鳴らしつつ声合はせて舞ふ程も、いとをかしきに、水の流るる音、笛の声などの合ひたるは、実(まこと)に神も嬉(うれ)しとおぼしめすらんかし。少将(=実方か、『徒然草』67段)と言ひける人の、年毎(ごと)に舞人にて、めでたきものに思ひ沁(し)みけるに、亡くなりて、上の御社(みやしろ)の一の橋のもとにあンなるを聞けば、ゆゆしう(=気味が悪い)、切(せち)に物思ひ入れ(=執着)じと思へど、猶この(=祭)めでたき事をこそ、更にえ思ひ捨つまじけれ。

 「八幡(やはた)の臨時の祭の名残こそいとつれづれなれ。などて還(かへ)りて、また舞ふわざをせざりけん。さらばをかしからまし。禄を得て後(うしろ)よりまかンづるこそ口惜しけれ」など言ふを、上の御前に聞し召して、「明日(あす)還(かへ)りたらん、召して舞はせん」など仰せらるる。「実(まこと)にや候ふらん。さらばいかにめでたからん」など申す。うれしがりて、宮の御前にも、「猶それ舞はせさせ給へ」と集まりて申し惑(まど)ひしかば、その度(たび)還(かへ)りて舞ひしは、嬉しかりしものかな。「さしもやあらざらん」と打ちたゆみつるに、舞人(まひびと)前に召すを聞きつけたる心地、物に当たるばかり騒ぐもいと物狂(ものぐる)ほしく、下(しも)にある人々(=女房たち)まどひ上(のぼ)る様こそ、人の従者(ずさ)、殿上人などの見るらんも知らず、裳を頭(かしら)にうちかづきて上るを、笑ふもことわりなり。38 


百四十六 故殿などおはしまさで、世の中に事出でき、物騒がしくなりて、宮また内にも入らせ給はず、小二条といふ所におはしますに、(=清少は)何ともなくうたてありしかば、久しう里に居たり。御前辺(わた)りおぼつかなさにぞ、猶えかくては(=里籠りでは)あるまじかりける。

 左中将(=斉信)おはして物語し給ふ。「今日は宮に参りたれば、いみじく物こそあはれなりつれ。女房の装束(さうぞく)、裳(も)唐衣(からぎぬ)などの折(=季節)に合ひ、たゆまずをかしうても候(=勤める)ふかな。御簾(みす)の傍(そば)の開(あ)きたるより見入れつれば、八九人ばかり居て、黄朽葉(きくちば)の唐衣(からぎぬ)、薄色の裳、紫苑(しをん)、萩などをかしう居並(な)みたるかな。御前の草のいと高きを、『などかこれは茂りて侍る。はらはせてこそ』と言ひつれば、『露置かせて御覧ぜんとて殊更(ことさら)に』と、宰相の君の声にて答(いら)へつるなり。をかしくも覚えつるかな。『(=清少の)御里居いと心憂し。(=宮が)かかる所に住居(すまゐ)せさせ給はんほどは、いみじき(=大変つらい)事ありとも、必ず候ふべき者に思し召されたるかひもなく』など、あまた(=女房たちの)言ひつる。語り聞かせ奉れとなめりかし。参りて見給へ。あはれげなる所のさまかな。露台の前に植ゑられたりける牡丹(ぼうたん)の、唐(から)めきをかしき事」などのたまふ。「いさ、人の憎しと思ひたりしかば、また憎く(=能因本学は「ききにくく」)侍りしかば」と答(いら)へ聞こゆ。「おいらかにも(=神経質にならなくても)」とて笑ひ給ふ。

 実(げ)にいかならんと思ひまゐらする。御気色にはあらで、候ふ人たちの、「左(ひだんの)大殿(おほとの=道長)の方(かた)の人、知る筋(すぢ)にてあり」などささめき、さし集(つど)ひて物など言ふに、下(しも)より参るを見ては言ひ止み、放ち立てたる(=のけ者にする)さまに見馴らはず憎ければ、「まゐれ」などある度(たび)(=能因本学は「度々」)の仰せをも過して、実(げ)に久しうなりにけるを、宮の辺(へん)には、ただあなた方(がた=道長方)(=慶安刊古活字本能因本は「あなたかなた」)になして、虚言(そらごと)なども出で来べし。

 例ならず仰事などもなくて日頃(ひごろ)になれば、心細くてうち眺(なが)むる程に、長女(をさめ=雑用係)文をもてきたり。「御前より左京の君して、忍びて賜(たま)はせたりつる」と言ひて、ここにてさへ引き忍ぶもあまりなり。人伝(ひとづて)の仰事にてあらぬなめりと、胸つぶれて開けたれば、紙には物も書かせ給はず、山吹の花びらをただ一つ包ませ給へり。それに「言はで思ふぞ(=心には下ゆく水のわきかへり言はで思ふぞ言ふにまされる)」と書かせ給へるを見るもいみじう、日頃の絶間(たえま)思ひ嘆かれつる心も慰みて嬉しきに、まづ知る(=涙する)さまを、長女(をさめ)も打ちまもりて、「『御前にはいかに、物の折毎(をりごと)に思(おぼ)し出で聞こえさせ給ふなるものを』とて、誰(たれ)も怪しき御長居(=里居)とのみこそ侍るめれ。などか参らせ給はぬ」など言ひて、「ここなる所(=この近く)に、あからさまにまかりて(=立ち寄つてからまたここに)参らん」と言ひて往ぬる後(のち)に、御返事書きてまゐらせんとするに、この歌の本(もと)更(さら)に忘れたり。「いとあやし。同じ故事(ふるごと=古歌)と言ひながら、知らぬ人やはある。ここもとに(=すぐそこまで)覚えながら、言ひ出でられぬはいかにぞや」など(=清少が)言ふを聞きて、小さき童(わらは)の前に居たるが、「『下ゆく水の』とこそ申せ」と言ひたる。などてかく忘れつるならん。これに教へらるるもをかし(=慶安刊本三巻本、能因系は「これはをしへらるるもおもふもをかし」)。

 御返りまゐらせて、少しほど経て参りたり。いかがと、例よりはつつましうして、御几帳(みきちやう)に半隠(はたかく)れたるを、「あれは今参(いままゐり=新参者)か」なンど笑はせ給ひて、「憎き歌なれど、この折は、さも言ひつべかりけりとなん思ふを、(=あなたを)見つけでは暫時(しばし)えこそ慰むまじけれ」などのたまはせて、変はりたる御気色(けしき)もなし。童(わらは)に教へられし言葉(=能因学「事」)など啓すれば、いみじく笑はせ給ひて、「さる事ぞ。あまり侮(あなづ)る故事(ふるごと)は、さもありぬべし」など仰せられて、序(つい)でに、「人の謎々合はせしける所に、頑(かたく)なにはあらで、さやうの事に労々(らうらう=教養ある)じかりけるが、『左(ひだり)の一番はおのれ言はん、さ思ひ給へ』など頼(たの)むるに、さりとも悪ろき事は言ひ出でじ <かしとたのもしくうれしくて、みな人々つくりいだし>(=三巻本より補、能因本ヌケ、「いてし」から「いたし」へ目移りによる一行脱落か。三巻本ではこの二つの言葉が真横に並んでゐる)と(=「と」慶安刊本のみあり)、選(え)り定むるに、『その言葉を聞かん。いかに』など問ふ。『ただ任(まかせ)てものし給へ、さ申していと口惜しうはあらじ』と言ふを、実(げ)にと推(お)しはかる。日いと近うなりぬれば、『なほこの事のたまへ。非常(ひざう=思ひがけず)にをかしき事(=原文「おかしき事」、慶安刊など全て「おなじ事」)もこそあれ』と言ふを、『いさ知らず。さらばな頼(たの)まれそ』などむつかれば、覚束なしと思ひながら、その日になりて、みな方人(かたうど)の男(をとこ)女居分(ゐわ)けて、殿上人など、よき人々多く居並(な)みて合(あ)はするに、左の一番にいみじう用意しもてなしたるさまの、いかなる事をか言ひ出でんと見えたれば、あなたの人もこなたの人も、心もとなく打ちまもりて、『なぞなぞ』と言ふ程、いと心もとなし。『天に張り弓』と言ひ出でたり。右の方の人は、いと興(きよう)ありと思ひたるに、こなた(=左)の方の人は、物も覚えずあさましうなりて、いと憎く愛敬なくて、『あなたに寄りて、殊更に負けさせんとしけるを』なンど、片時(かたとき)のほどに思ふに、右の人、痴(をこ)に思ひて、うち笑ひて、『やや。さらに知らず』と、口引き垂れて、猿楽(さるがう)しかくるに、(=左の一番が)『籌(かず=得点)させ、籌させ』とてささせつ。『いと怪しき事、これ知らぬもの誰(たれ)かあらん。更に籌さすまじ(=能因本系「かずまじ」)』と論ずれど、『知らずと(=能因本系「しらずとは」)言ひ出でんは、などてか負くるにならざらん』とて、次々の(=右の人)もこの人に論じ(=「論じ」慶安刊本、古活字能因本学「論」)勝たせける。『いみじう人の知りたる事なれど覚えぬ事は、さこそあれ(=負けても仕方がない)。何しかは「え知らず」と言ひし』と、後に恨みられて、罪去り(=謝つた)ける事」を語り出でさせ給へば、御前なるかぎりは、「さは思ふべし。口をしく思ひけん。こなた(=左)の人の心地、聞し召したりけん(=慶安刊古活字本。能因本学は「ききはじめたりけん」)、いかに憎かりけん」など笑ふ。これ(=私の場合と違つて、この謎の答)は忘れたることかは、皆人知りたることにや。46 


百四十七 正月(むつき)十日、空いとくらう、雲も厚く見えながら、さすがに日はいとけざやかに照りたるに、似非者(えせもの)の家の後(うしろ)、荒畠(あらばたけ)などいふものの、土もうるはしう直(なほ)からぬに、桃の木若立ちて、いと細枝(しもと)がちにさし出でたる、片つ方は青く、いま片枝は濃くつややかにて、蘇枋(すはう)のやうに(=能因本「の日影に」)見えたるに、細(ほそ)やかなる童(わらは)の、狩衣(かりぎぬ)は掛け破(や)りなどして、髪(かみ)は麗(うるは)しきが、登りたれば、また紅梅(こうばい)の衣(きぬ)白きなど、引きはこえ(=たくし上げ)たる男子(をのこご)、半靴(はうくわ)履きたる、木のもとに立ちて、「我によき木切りて。いで」など乞ふに、また髪(かみ)をかしげなる童女(わらはべ)の、衵(あこめ)ども綻(ほころ)びがちにて、袴(はかま)は萎(な)えたれど、色などよき打ち着(き)たる、三四人(みたりよたり)、「卯槌(うつち)の木のよからん切りておろせ、ここに召す(イ御前にもめす)ぞ」など言ひて、降ろしたれば、走り交(が)ひ、取り分き、「我に多く」など言ふこそをかしけれ。黒き袴着たる男(をのこ)走り来て乞ふに、「待て」など言へば、木のもとに寄りて引き揺るがすに、危(あや)ふがりて、猿のやうに掻(か)い付きて居(を)るもをかし。梅などのなりたる折も、さやうにぞあるかし。56 


百四十八 清げなる男(をのこ)の、双六(すぐろく)を日一日(ひとひ)打ちて、なほ飽かぬにや、短き(=低い)灯台(とうだい)に火を明かく掲(かか)げて、敵(かたき)の采(さい=手許のサイコロ)を請(こ=呪ふ)ひ責めて頓(とみ)にも入れねば、筒(どう)を盤の上に立てて待つ。狩衣(かりぎぬ)の領(くび)の顔にかかれば、片手して押し入れて、いと強(こは)からぬ烏帽子(えぼうし)を振り遣(や)りて、「さはいみじう(=能因本三巻本「さいいみしう」)呪ふとも、うち外(はづ)してんや」と、心許無げにうち守りたるこそ、誇りかに見ゆれ。58 


百四十九 碁をやんごとなき人の打つとて、紐(ひも)うち解き、ないがしろなる気色に拾ひ置くに、劣りたる人の、居ずまひも畏(かしこ)まりたる気色に、碁盤よりは少し遠くて、及びつつ、袖の下いま片手にて引きやりつつ打ちたるもをかし。58 


百五十 おそろしきもの

 橡(つるばみ=どんぐり)のかさ。焼けたる所(=慶安刊古活字本。能因本は「やけ所」)。水ぶき(=オニバス)(=慶安刊古活字本。能因本は「水ふうき」)。菱(ひし=水草)。髪(かみ)多かる男(をのこ)の頭(かしら)洗ひて干すほど。栗のいが。59 


百五十一 きよしと見ゆるもの

 土器(かはらけ)。新しき鋺(かなまり)。畳にさす薦(こも=むしろ)。水を物に入るる透き影(=光)。新しき細櫃(ほそひつ)。59 


百五十二 きたなげなるもの

 鼠の住処(すみか)。早朝(つとめて)手遅く洗ふ人。白き洟(つきはな=痰)。洟(すすばな=はなすすり)し歩(あり)く児(ちご)。油入るる物。雀(すずめ)の子。暑きほどに久しく湯浴(ゆあ)みぬ。衣(きぬ)の萎えたるは、いづれもいづれも穢(きたな)げなる中に、練色(ねりいろ=白)の衣(きぬ)こそ汚なげなれ。59 

巻八

百五十三 いやしげなるもの

 式部丞(しきぶのじよう)の爵(しやく)(=慶安刊本。能因本は「さく」)。黒き髪(かみ)の筋太き。布屏風(ぬのびやうぶ)の新らしき。旧(ふ)り黒みたるは、さる言ふ甲斐なき物にて(=卑しげではない)、中々何とも見えず。新しくしたてて、桜の花多く咲かせて、胡粉(ごふん)、朱砂(すさ)など色どりたる絵書きたる(=布屏風)。遣戸厨子(やりどづし=引き戸のついたタンス)。何も田舎物はいやしきなり。筵張(むしろば)りの車のおそひ(=覆ひ)(=能因本「車のすそ」)。検非違使の袴。伊予簾の筋太き。人の子に法師子(ほふしご)の太りたる。真(まこと)の出雲筵(むしろ)の畳。61 


百五十四 むねつぶるるもの

 競馬(くらべむま)見る。元結(もとゆひ)撚(よ)る。親などの心地悪しうして、例ならぬ気色(けしき)なる。まして世の中など騒がしき(=疫病)頃、万(よろづ)の事(=慶安刊本。能因本は「よろづ」)覚えず。また、物言はぬ児(ちご)の泣き入りて乳(ち)も飲まず、いみじく乳母(めのと)の抱(いだ)くにも止(や)まで、久しう泣きたる。例の所(=慶安刊本。能因本「けどころ」)などにて、ことにまた著(いちじる=はつきりとした恋人)からぬ人の声聞き付けたるはことわり、人などのその上(=その人について)など言ふに、まづこそつぶるれ。いみじく憎き人の来たるもいみじくこそあれ。昨夜(よべ)来たる人の、今朝(けさ)の文の遅き、聞く人さへつぶる。思ふ人の文取りてさし出でたるも、またつぶる。62 


百五十五 うつくしきもの

 瓜(ふり=姫瓜)(=慶安刊本。能因本は「うり」)に書きたる児(ちご)の顔。雀(すずめ)の子の鼠鳴(ねずな)きするに踊(をど)りくる(イよる)。また、綜(へ=ひも)になどつけて据(す)ゑたれば、親雀(おやすずめ)の虫など持て来て含(くく)むるも、いとらうたし。三(=能因本系「二」)つばかりなる児(ちご)の、急ぎて這ひくる道に、いと小さき塵(ちり)などのありけるを、目敏(めざと)に見つけて、いとをかしげなる指(および)に捉(とら)へて、大人(おとな)などに見せたる、いとうつくし。尼に(=おかつぱ頭に)そぎたる児(ちご)の目に髪(かみ)の覆(おほ)ひたるを掻きは遣らで、打ち傾(かたぶ)きて物など見る、いとうつくし。襷掛(たすきが)けに結(ゆ)ひたる腰の上(かみ)の、白うをかしげなるも、見るにうつくし。

 大(おほ)きにはあらぬ殿上童(わらは)の、装束(さうぞ)き立てられて歩(あり)くも、うつくし。をかしげなる児(ちご)の、あからさまに抱(いだ)きて慈(うつく)しむ程に、掻(か)い付(つ)きて寝入りたるも、らうたし。

 雛(ひひな)(=能因本は「ひゐな」)の調度(てうど)。蓮(はちす)の浮き葉のいと小さきを、池より取り上げて見る。葵(あふひ)の小さきも、いとうつくし。何も何も小さき物はいとうつくし。

 いみじう肥えたる児(ちご)の二つばかりなるが、白ううつくしきが、二藍(ふたあゐ)の薄物など、衣(きぬ)長くて、襷(たすき)上げたるが、這ひ出でくるも(=慶安刊本。能因本は「たるも」)、< またみじかきがそでがちなるきてはしりありくも>(=前田本より、能因本ヌケ、「も」から「も」の目移りにより一行脱落か)いとうつくし。八つ九つ十ばかりなる男(をのこ)の、声幼(をさな)げにて文(ふみ)読みたる、いとうつくし。

 鶏(にはとり)の雛(ひな)の、足高(あしだか)に、白うをかしげに、衣(きぬ)短かなる様(さま)して、ひよひよと囂(かしがま)しく鳴きて、人の後(しり)に立ちて歩(あり)くも、また親のもとに連れ立ち歩(あり)く、見るもうつくし。雁(かり)の子。舎利(さり)の壺。瞿麦(なでしこ)の花。63 


百五十六 人ばへするもの(=人前で調子付くもの)

 殊(こと)なることなき人の子(=何のとりえもない子供)の、かなしくし慣(な)らはされたる(=親に甘やかされてゐる)。咳(しはぶき)、恥づかしき人に物言はんとするにも、まづ先に立つ。

 あなたこなた(=あちこち)に住む人の子供の、四つ五つなるは、あやにくだちて(=いたづら好き)、物など取り散らして損(そこな)ふを、常(つね)は引きはられなど(=能因本学、イひきいられなんど=慶安刊本)制せられて、心の儘(まま)にも得(え)あらぬが、親の来たる(=能因本学は「きたるに」)所得て、ゆかしかりける物を、「あれ見せよや、母」など引き揺るがすに、大人(おとな)など物言ふとて、ふとも聞き入れねば、手づから引き捜し出でて見るこそいと憎けれ。それを「まさな(=やめなさい)」とばかりうち言ひて、取り隠さで、「さなせそ、損(そこな)ふな」とばかり笑みて言ふ親も憎し。われ得(え)はしたなく(=厳しく)も言はで(=その子供を)見るこそ、心もとなけれ(=もどかしい)。66 


百五十七 名おそろしきもの

 青淵(あをぶち)。谷の洞(ほら)。鰭板(はたいた=板塀)。鉄(くろがね)。土塊(つちくれ)。雷(いかづち)は名のみならず、いみじうおそろし。暴風(はやち=はやて)。不祥雲(ふさうぐも=不幸を呼ぶ雲)。戈星(ほこぼし)(イひこぼし=堺本)。狼(おほかみ)。牛は白眼(さめ)。牢(らう)。籠(ろう)の長(をさ)。いにすし(=いのしし?)。それも名のみならず、見るも恐ろし(=堺本、能因本は「名こそは、みるおそろし」)。縄筵(なはむしろ)。強盗(がうたう)、また万(よろづ)に恐ろし。肘笠雨(ひぢかさあめ=俄雨)。蛇苺(くちなはいちご)。生霊(いきすだま)。鬼ところ(=つる草)。鬼蕨(おにわらび)。荊棘(むばら)。枳殻(からたち)。煎炭(いりすみ)(=慶安刊本。能因本は「いかすみ」)。牡丹(ぼたん)。牛鬼(うしおに)。67 


百五十八 見るに殊(こと)なることなき物の文字に書きて事々しきもの

 覆盆子(いちご)。鴨頭草(つゆくさ)。水ぶき(=慶安刊本。能因本「水ふうき」)。<こも>(=能因本学より、慶安刊古活字本ヌケ)。胡桃(くるみ)。文章博士(もんじやうはかせ)。皇后宮(くわうごうぐう)の権大夫(ごんだいぶ)。楊梅(やまもも)。いたどりはまして虎の杖(つゑ)と書きたるとか(=「とか」慶安刊本、能因本は「と」)。杖無くともありぬべき顔つきを。68 


百五十九 むつかしげなるもの(=ややこしい)

 縫物(ぬひもの)の裏。猫の耳の中(うち)。鼠の未(いま)だ毛も生(お)ひぬを、巣の中(うち)より数多(あまた)まろばし出でたる。裏まだ付かぬ皮衣(かはぎぬ)の縫目。<ももほとき>(能因本より、古活字本「もこほとき」、慶安刊本ヌケ)。殊に清げならぬ所の暗き。

 殊(こと)なる事なき人の、小さき子供など数多(あまた)持ちて扱(あつか)ひたる。いと深うしも志(こころざし)なき(=たいして好きでもない)女の、心地悪しうして、久しく悩みたる(=病気)も、男の心の中には、むつかしげなるべし。69 


百六十 えせものの所うるをりの事

 正月の大根(おほね)。行幸の折(をり)の姫大夫(ひめまうちぎみ)。六月(みなづき)十二月(しはす)の三十日(つごもり)の節折(よをり=天皇の身長を測る宮中の儀式)の蔵人(=女蔵人)。季(き)の御読経(みどきやう)の威儀師(ゐぎし)。赤袈裟(あかげさ)着て僧の文(=慶安刊本。イ名=能因本三巻本)ども読みあげたる、いとらうらうじ。<宮の辺(へ)のまげ庵(いほ)ども>(=能因本より、慶安刊本ヌケ)。御読経(みどきやう)仏名(ぶつみやう)などの御装束(さうぞく=式場係)の所(=蔵人所)の衆。春日祭(かすがまつり)の舎人(とねり)ども。大饗(だいきやう)の所(ところ=蔵人所?)の歩(あゆ)み。正月(むつき)の薬子(くすりこ=毒見)(=慶安刊本。能因本は「くすりのこ」)。卯杖(うづゑ)の法師。五節(ごせち)の試(こころみ)の御髪上(みぐしあ)げ。節会(せちゑ)御陪膳(はいぜん)の采女(うねめ)。大饗の日の史生(ししやう=書記)。七月(ふづき)の相撲(すまひ)。雨降る日の市女笠(いちめがさ)。渡りする折の楫取(かんどり)。69 


百六十一 くるしげなるもの

 夜泣といふもの(イわざ=三巻本)する児(ちご)の乳母(めのと)。思ふ人二人持ちて、此方彼方(こなたかなた)に恨み燻(ふす=嫉妬)べられたる男(をとこ)。強(こは)き物怪(もののけ)あづかりたる験者(げんじや)。験(げん=効果)だに早くば良かるべきを、さしもなきを(=さうならないので)、さすがに人笑はれにあらじと念(ねん=祈祷)ずる、いと苦しげなり。わりなく物疑ひする男に、いみじう思はれたる女。一の所に時めく人(=摂政関白)も、え安(=気楽に)くはあらねど、それはよかンめり。心苛(いら)れしたる人。74 


百六十二 うらやましきもの

 経(きやう)など習ひて、いみじくたどたどしくて、忘れがちにて、返す返す(かへすがへす)同じ所を(=私は)読むに、法師はことわり(=もちろん)、男も女も、くるくるとやすらかに読みたるこそ、あれがやうに何時(いつ)の折とこそ、ふと覚ゆれ。心地など煩(わづら)ひて臥(ふ)したるに、うち笑ひ物言ひ、思ふ事なげにて歩(あゆ)みありく人こそ、いみじく羨やましけれ。

 稲荷(いなり=伏見稲荷)に思ひ起して参りたるに、中の御社(みやしろ)のほど、わりなく苦しきを念じて登る程に、いささか苦しげもなく、後(おく)れて来(く)と見えたる者どもの、ただ行(ゆ)きに先立ちて詣づる、いとうらやまし。二月(きさらぎ)午(むま)の日の暁(あかつき)に、急ぎしかど、坂のなからばかり歩みしかば、巳(み)の時(=午前十時)ばかりになりにけり。やうやう暑くさへなりて、まことに侘びしう「かからぬ人も世にあらんものを、何しに詣でつらん」とまで涙落ちて休むに、三十(みそぢ)余(あまり)ばかりなる女の、壷装束(つぼさうぞく)などにはあらで、ただ引きはこえたるが、「まろは七度詣(ななたびまうで=一日に七回詣る)し侍るぞ。三度は詣でぬ、四度はことにもあらず、未(ひつじ=午後二時)には下向しぬべし」と道に会ひたる人にうち言ひて、下(くだ)りゆきしこそ、只なる(=普通の)所にては目も止まるまじきことの彼(かれ)が身に、只今成(な)らばや、と覚えしか。

 男も女も法師も、よき子持ちたる人、いみじう羨まし。髪長く麗(うるは)しう、下がり端(ば)など目出度(めでた)き人。やんごとなき人の、人にかしづかれ給ふも、いと羨まし。手よく書き、歌よく詠みて、物の折にもまづ取り出(い=選出)でらるる人。

 よき人の御前に女房いと数多(あまた)候(さぶら)ふに、心にくき所へ遣(つかは)すべき仰書(おほせがき)などを、誰も鳥の跡(あと)のやうにはなどかはあらん。されど、下(しも)などにあるをわざと召して、御硯おろして書かせ給ふ、うらやまし。さやうの事(=代筆)は、所の大人などになりぬれば、実(まこと)に難波(なには=難波津の歌を習ふ初心者レベル)辺(わた)りの遠からぬ(=悪筆)も、事に従ひて書くを、これはさはあらで、上達部のもと、また初めて参らんなど申さする人の女(むすめ)などには、心ことに、上(うへ)より始めてつくろはせ給へるを、集りて、戯(たはぶれ)に妬がり言ふめり。

 琴笛習ふに、さこそは、まだしき程は、彼がやうにいつしかと覚ゆめれ。内・東宮の御乳母(めのと)。上の女房の御方々(おほんかたがた=女御・皇后)許されたる(=慶安刊古活字本。能因本は「許されて」。その後、「いづくもかけておぼつかなからずまゐり通ふ。寺造り」(前田本より)が脱落か。「て」から「て」への目移りにより「・・かよふて」までの一行が脱落し、意味不明の「らつくり」が残された後、これも削除されたか)。三昧堂(さんまいだう)(=慶安刊古活字本、能因本前田本は「三昧」)建てて、宵(よひ)・暁に祈られたる人。双六(すぐろく)打つに敵(かたき)の賽利(き=よい目)きたる。真(まこと)に世を思ひ捨てたる聖(ひじり)。75 


百六十三 とくゆかしきもの(=早く見たい聞きたいもの)

 巻染(まきぞめ)斑濃(むらご)括物(くくりもの)など染めたる(=絞り染のできばえ)。人の子産みたる、男女疾く聞かまほし。よき人はさらなり、似非者(えせもの)下衆(げす)の際(きは)だに聞かまほし。除目(ぢもく)のまだ翌朝(つとめて)。必ず知る人の(=受領に)なるべき折も(=慶安刊本。能因本系は「しる人のさるべきなどがなきをりも」)聞かまほし。思ふ人の遣(おこ)せたる文。79 


百六十四 こころもとなきもの

 人の許(もと)に、頓(とみ)のもの縫(ぬ)ひにやりて待つほど。物見に急ぎ出でて、今や今やと苦(くる)しう居入り(=慶安刊本。能因本系は「ゐはり」、「い」と「ハ」の類似による誤写か)つつ、あなたをまもらへたる心地。子産むべき人の、程(ほど=予定日)過ぐるまでさる気色のなき。遠き所より思ふ人の文を得て、固く封(ふん)じたる続飯(そくひ=糊)など放ち開くる、心もとなし。物見に急ぎ出でて、事なりにけり(=行列がきた)(イ事なりにけりとて=堺本)、白き笞(しもと)など見付けたるに、近く遣(や)り寄(よ)する程、佗(わび)しう、降りても往(い=帰つてしまふ)ぬべき心地こそすれ。

 知られじと思ふ人のあるに、前なる人に教へて物言はせたる(イ二我はかくれゐてしられじと思ふ人の来るに前なる人に物言はせてききゐたるここち=堺本)。いつしかと待ち出でたる(=誕生した)児(ちご)の、五十日(いか)百日(ももか)などの程になりたる行末(ゆくすゑ)(=慶安刊本。能因本学「などになりたる行ゑ」、他本全て「行末」)いと心もとなし。

 頓(とみ)の物縫ふに、暗きをり針に糸つぐる(=慶安刊本堺本、イすぐる)。されど我は(=能因本堺本、慶安刊三巻前田本は「それは」、「ワ」と「そ」の類似による)さるものにて、ありぬべき所(=慶安刊三巻本、能因前田本は「あり、ぬふ所」)をとらへて、人につげさするにそれも急げばにやあらん頓にも(=三巻本タダシ「すげさするに」。慶安刊本能因本系この一節ヌケ。一行脱落か)えさし入れぬを(=諸本「え」ナシ)、「いで、只(=もう)なすげそ」と言へど(=慶安刊本「いへば」、能因本「こへど」、三巻本「いふを」)、さすがになどてかはと思ひ顔にえ去らぬは、憎ささへ添ひぬ。

 何事にもあれ、急ぎて物へ行くをり、まづ我(わ)がさるべき所へ行(ゆ)くとて、「只今遣(おこ)せん」とて出でぬる車待つ程こそ心もとなけれ。大路(おほぢ)往(い)きける(=車)を、さなりけると喜びたれば、他(ほか)ざまに往ぬる、いと口惜し。まして物見に出でんとてあるに、「事はなりぬらん」など言ふを聞くこそ侘びしけれ。

 子産みける人の、後(のち=後産)のこと久しき。物見にや、また御寺(みてら)詣(まう)でなどに、諸共(もろとも)にあるべき人を乗せに往(い)きたるを、車さし寄せ立てるが(イに)、頓にも乗らで待たするもいと心もとなく、うち捨てても往ぬべき心地する。頓に煎炭(いりずみ)おこす、いと久し(イ心もとなし=堺本)。

 人の歌の返し疾くすべきを、え詠み得ぬ程、いと心もとなし。懸想人(けさうびと)などはさしも急ぐまじけれど、おのづからまたさるべき折もあり。また、まして女も男も、ただに言ひ交(か)はす程は、「疾きのみこそは」と思ふ程に、あいなく僻事(ひがごと=やり損なひ)も出でくるぞかし。

 また、心地あしく、物恐ろしき程、夜の明くる待つこそ、いみじう心もとなけれ。まつ(?)歯黒め(=お歯黒)の干(ひ)る程も心もとなし。80 


百六十五 故殿の御服(おんふく)の頃、六月三十日(つごもり)の御祓(はらへ)といふ事に出でさせ給ふべきを、職(しき)の御曹司(みざうし)は方悪(かたあ)しとて、官の司(つかさ)の空(あ)いたる所(=能因本、イ(あいたんところ=朝所)=慶安刊本)に渡らせ給へり。

 その夜は、さばかり暑く、わりなき闇にて、何事も(<おぼえず、せばくおぼつかなくて明かしつ。つとめて見れば、屋のさまいと平にみじかく、>(三巻本より)が脱落したか)、狭(せば)う、瓦葺(かはらぶき)にて(<唐めき>三巻本より)、様(さま)異(こと)なり。例のやうに格子などもなく、ただめぐりて御簾(みす)ばかりをぞかけたる、なかなか珍(めづら)しうをかし。女房、庭におりなどして遊ぶ。前栽には萱草(くわんざう)といふ草を、架垣(ませ)ゆひて、いと多く植ゑたりける、花、際(きは)やかに重なりて(=慶安刊本。能因本は「ふさなりて」)咲きたる、むべむべし(=格式ばつた)き所の前栽にはよし。時司(ときづかさ)などはただ傍(かたは)らにて、鐘の音も例には似ず聞こゆるを、ゆかしがりて、若き人々(=女房たち)二十余人ばかり、そなたに行(ゆ)きて走り寄り、高き屋(や)に登りたるを、これより見あぐれば、薄鈍(うすにび)の裳、唐衣、同じ色の単襲(ひとへがさね)、紅(くれなゐ)の袴(はかま)どもを着て登り立ちたるは、いと天人などこそえ言ふまじけれど、空より降(お)りたるにやとぞ見ゆる。同じ若さなれど、押し上げられたる人(=上臈)はえ混(ま)じらで、羨やましげに見上げたるもをかし。

 日暮れて暗(くら)まぎれにぞ、過したる人々皆立ちまじりて、右近の陣へ物見に出できて、戯(たはぶ)れ騒ぎ笑ふもあめりしを、「かうはせぬ事なり、上達部(かんだちべ)の着き給ひし(<椅子>三巻本)などに、女房ども登り、上官(じやうくわん)などの居る障子(しやうじ=「床子」三巻本)を皆打ち通し損(そこ)なひたり」など苦しがる者もあれど、聞きも入れず。

 屋のいと古くて、瓦葺なればにやあらん、暑さの世に知らねば、御簾(みす)の外(と)に夜(よる)も臥(ふ)したるも(=慶安刊古活字本。イに=能因本)、古き所なれば、蜈蚣(むかで)といふ物、日一日(ひひとひ)落ちかかり、蜂の巣の大きにて、付き集まりたるなど、いと恐ろしき。殿上人日ごとに参り、夜(よる)も居明かし、物言ふを聞きて、「秋ばかりにや、太政官の地の、今やかうの庭(には)とならん事を」(=諸本意味不明)と誦し出でたりし人こそをかしかりしか。

 秋になりたれど、「かたへ涼し」(=一方は涼しい)からぬ風の、所がらなンめり。さすがに虫の声などは聞こえたり。八日ぞ(イに)還(かへ)らせたまへば、七夕祭などにて、例より(=星が)近う見ゆるは、ほど(=広さ)の狭(せば)ければなンめり。83 


百六十六 宰相中将斉信(ただのぶ)、宣方(のぶかた)の中将と(=七夕に)参り給へるに、人々出でて物など言ふに、序(ついで)もなく(=突然)、「明日はいかなる詩をか」と言ふに、いささか思ひめぐらし、とどこほりなく、「人間の四月をこそは」と答(いら)へ給へる、いみじうをかしくこそ。過ぎたることなれど、心得て言ふはをかしき中にも、女房などこそさやうの物忘れはせね、男はさもあらず、詠みたる歌をだになま覚えなるを、まことにをかし。内なる人も、外(と)なる人も、(=なぜこの詩なのか)心得ずと思ひたるぞ、ことわりなるや。

 この三月三十日(つごもり)、細殿(ほそどの)の一の口に、殿上人あまた立てりしを、やうやうすべり失せなどして、ただ頭中将、源中将(=宣方)、六位(=蔵人)一人残りて、よろづの事言ひ、経よみ、歌うたひなどするに、「明けはてぬなり、帰りなん」とて、「露は別れの涙なるべし」と言ふことを、頭中将うち出だし給へれば、源中将もろともに、いとをかしう誦(ず)んじたるに、(=清少が)「いそぎたる七夕かな」と言ふを、いみじう妬(ねた)がりて、「暁の別れの筋の、ふと覚えつるままに言ひて、侘びしうもあるわざかな」と、「すべてこの辺(わた)りにては、かかる事思ひ回(まは)さず言ふは、口惜しきぞかし」など言ひて、あまり明かくなりにしかば、「葛城(かづらき)の神、今ぞ筋(すぢ)なき」とて、分けて(=慶安刊古活字本、注「露分て帰給也」。能因本は「かけて」)おはしにしを、「七夕の折、この事を言ひ出でばや」と思ひしかど、「宰相になり給ひにしかば(=四月)、必ずしもいかでかは、その程に見付けなどもせん、文書きて、主殿司(とのもづかさ)してやらん」など思ひし程に、七日(=七月)に参り給へりしかば、うれしくて、「その夜の事など言ひ出でば、心もぞ得たまふ。すずろにふと言ひたらば、『怪し』などや打ち傾(かたぶ)き給はん。さらばそれには、ありし事言はん」とてあるに、つゆおぼめか(=不審がる)で答(いら)へ給へりしかば、実(まこと)にいみじうをかしかりき。月ごろいつしかと思ひ侍りしだに、わが心ながら好き好きしと覚えしに、いかで、さはた、思ひ設(まう)けたるやうにのたまひけん(=七月に四月の詩を述べてやり返すこと)。もろともにねたがり言ひし中将(=源中将)は、思ひも寄らで居たるに、「ありし暁の言葉いましめらるるは、知らぬか」とのたまふにぞ、「実(げ)に < げに」と笑ふ。わろしかし。

 人と言ふ事を碁になして、近く語らひなどしつるをば、「手ゆるしてける」「けち>(=能因本学より、慶安刊古活字本はヌケ。「げに」から「けち」の目移りによる二行脱落か。その場合、この文が行の途中にある能因本学は親本ではない)さしつ(=終局で駄目をつめる)」など言ひ、「男は手受けん(=女の方が上手で男が置石をする)」などいふことを、人には知らせず、この君(=斉信)と心得て言ふを、「何事ぞ何事ぞ」と源中将は添ひつきて問へど、言はねば、かの君に「猶これのたまへ」と怨(うら)みられて、よき中なれば聞かせてけり。

 (=一般的に男女が)いとあへなく、言ふ程もなく、近うなりぬるをば、「おしこぼちの程(=碁が終局、原文「をし小路の程」)ぞ」など言ふに、我(=源中将)も知りにけると、いつしか知られんとて、わざと(=私を)呼び出でて、「碁盤侍りや、まろも打たんと思ふはいかが。手はゆるし給はんや。頭中将とひとし碁(=慶安刊本「ひとしこ」、能因本は「ひとし」)なり。なおぼしわきそ(=差別してくれるな)」と言ふに、「さのみあらば定めなく(=不節操)や」と答(いら)へしを、かの君に語り聞こえければ、「嬉しく言ひたる」とよろこび給ひし。なほ過ぎたること忘れぬ人はいとをかし。

 宰相に成り給ひしを、上の御前にて(=私は)、「詩をいとをかしう誦(ず)んじ侍りしものを、『蕭会稽(せうくわいけい)の古廟(こべう)をも過ぎにし』なども、誰か(=斉信ほどに)言ひ侍らんとする。暫(しば)し(=宰相に)成らでもさぶらへかし。口惜しきに」など申ししかば、いみじう笑はせ給ひて、「さなん言ふとて、なさじかし」など(=帝は)仰せられしも、をかし。されど成り給ひにしかば、真(まこと)にさうざうしかりしに、源中将おとらずと思ひて、故立(ゆゑだ=気取つて)ち歩(あり)くに、(=私が)宰相中将の御うへを言ひ出でて、「『未だ三十の期(ご)に及ばず』といふ詩を、他人(ことびと)には似ず、をかしう誦(ず)し給ふ」など言へば、「などかそれに劣らん、勝(まさ)りてこそせめ」とて詠むに、「更にわろくもあらず」と言へば、「わびしの事や、いかで、あれがやうに誦(ず)んぜで」などのたまふ。「『三十の期』といふ所なん、すべていみじう、愛敬づきたりし」など言へば、妬(ねた)がりて笑ひありくに、陣につき給へりける折に、わきて(=斉信を)呼び出でて、「かうなん言ふ。猶そこ教へ給へ」と言ひければ、笑ひて教へけるも知らぬに、局(つぼね)のもとにて、いみじくよく似せて詠むに、あやしくて、「こは誰(た)そ」と問へば、笑み声になりて、「いみじき事聞こえん。かうかう昨日陣に(=斉信が)着きたりしに、(=歌ひ方を)問ひ来て、立ちにたるなめり。『誰(たれ)ぞ』と、にくからぬ気色にて問ひ給へれば」と言ふも、わざとさ習ひ給ひけん、をかしければ、(=その後は)これ(=朗誦)だに聞けば、出でて物など言ふを、「宰相の中将の徳見る事、そなた(イ四方=能因本)に向ひて拝むべし」など言ふ。(=私は居留守を使ふときは)下(しも)にありながら「上に」など言はするに、(=源中将宣方が)これをうち出づれば、「真(まこと)はあり」など言ふ。御前にかくなど申せば、笑はせ給ふ。

 内裏(うち)の御物忌なる日、右近の将曹(さうくわん)(=慶安刊本。能因本は「上官」)光(みつ)何とかや言ふものして、畳紙(たたうがみ)に書きておこせたるを見れば、「参ぜんとするを、今日は御物忌にてなん。『三十の期(ご)に及ばず』は、いかが」と言ひたれば、返事(かへりごと)に、「(=あなたは)その期(ご)は過ぎぬらん、朱買臣(しゆばいしん)が妻(め)を教へけん年(=四十九才の時に五十になれば富貴になるから我慢しろと妻に言つた話)にはしも」と書きてやりたりしを、また妬(ねた)がりて、上の御前にも奏しければ、宮の御方(かた)に渡らせ給ひて、「いかでかかる事は知りしぞ。『四十九になりける年こそ、さは誡(いまし)めけれ』とて、宣方(のぶかた)は『わびしう言はれにたり』と言ふめるは」と笑はせ給ひしこそ、物ぐるほしかりける君かなとおぼえしか。

 弘徽殿(こきでん)とは、閑院(かんゐん)の太政大臣(だいじやうだいじん)の女御(にようご)とぞ聞こゆる。その御方に、うちふしといふ者の女(むすめ)、左京と言ひて候(さぶら)ひけるを、「源中将語らひて思ふ」など人々笑ふ頃、宮の職(しき)におはしまいしに参りて、「時々は御宿直(とのゐ=夜の警護)など仕(つかうまつ)るべけれど、さるべき様(さま)に女房などもてなし給はねば、いと宮仕へ疎(おろ)かに候(さぶら)ふ。宿直所をだに給はりたらんは、いみじう忠実(まめ)に候ひなん」など言ひ居給ひつれば、人々「げに」など言ふ程に、「真(まこと)に人は、うち伏しやすむ所のあるこそよけれ。さるあたりには繁(しげ)く参り給ふなるものを」とさし答(いら)へたりとて、「すべて物聞こえず。方人(かたうど)と頼み聞こゆれば、人の言ひふるしたる様に取りなし給ふ」など、いみじうまめだちて恨み給ふ。「あなあやし、いかなる事をか聞こえつる。更に聞きとどめ給ふことなし」など言ふ。傍(かたは)らなる人を引きゆるがせば、「さるべきこともなきを、熱(ほとほ)り出で給ふさまこそあらめ」とて、花やかに笑ふに、「これも彼の言はせ給ふならん」とて、いと物しと思へり。「更にさやうの事をなん言ひ侍らぬ。人の言ふだに憎きものを」と言ひて、引き入りにしかば、後(のち)にもなほ、「人に恥ぢがましきこと言ひつけたる」と恨みて、「殿上人の、笑ふとて言ひ出でたるなり」とのたまへば、「さては一人を恨み給ふべくもあらざンめる、あやし」など言へば、その後(のち)は絶えてやみ給ひにけり。87


百六十七 昔おぼえて不用なるもの

 繧繝縁(うげんべり)の畳の旧(ふ)りて節(ふし)出できたる。唐絵(からゑ)の屏風の表(おもて)そこなはれたる。藤のかかりたる松の木枯れたる。地摺(ぢずり)の裳の花返へりたる。衛士(ゑじ)の目暗き。几帳(きちやう)の帷子(かたびら)の旧(ふ)りぬる。帽額(もかう)のなくなりぬる。七尺の鬘(かづら)の赤くなりたる。葡萄染(えびぞめ)の織物の灰返へりたる。色好みの老(お)い頽(くづを)れたる。面白き家の木立焼けたる。池などはさながらあれど、萍(うきくさ)水草(みくさ)茂りて。98


百六十八 たのもしげなきもの

 心短くて人忘れがちなる。婿の夜離(よが)れがちなる。六位の頭(かしら)白き。虚言(そらごと)する人の、さすがに人の事なし顔に大事うけたる。一番に勝つ双六。六七八十なる人の、心地悪しうして日ごろになりぬる。風吹くに(イはやきに)帆あげたる船。99


百六十九 経は不断経。


百七十 近くて遠(とほ)きもの

 宮のほとりの祭。思はぬ兄弟(はらから)親族の仲。鞍馬の九折(つづらをり)といふ道。十二月(しはす)の晦日、正月一日のほど。100


百七十一 遠くて近きもの

 極楽。船の道。男女の中。101


百七十二 井は、堀兼(ほりかね)の井(ゐ)。走井(はりりゐ)は逢坂(あふさか)なるがをかしき。山の井、さしも浅きためしになり始めけん。飛鳥井、「御水(みもひ)も寒し」と褒めたるこそをかしけれ。玉の井。少将井(せうしやうゐ)。桜井。后町(きさきまち)の井。千貫(ちぬき)の井。101


百七十三 受領は、紀伊守(きのかみ)。和泉(いづみ)。


百七十四 やどりのつかさの権守(ごんのかみ)は、下野(しもつけ)。甲斐。越後。筑後。阿波(あは)。


百七十五 大夫は、式部大夫(しきぶのたゆふ)。左衛門大夫(さゑもんのたゆふ)。史大夫(しのたゆふ)。102


百七十六 六位蔵人、思ひ掛くべき事にもあらず。冠(かうぶり)得て、何の大夫(たゆふ)、権(ごん)の守などいふ人の、板屋せばき家持(も)たりて、また小桧垣(こひがき)など新しくし、車やどりに車ひきたて、前近く木おほくして、牛つながせて、草など飼(か)はするこそいとにくけれ。庭いと清げにて、紫革(むらさきがは)して、伊予簾(いよす)かけわたして、布障子(ぬのさうじ)はりて住居たる。夜は「門強くさせ」など事行なひたる、いみじう生(お)ひ先なく、こころづきなし。

 親の家、舅(しうと)はさらなり、伯父(をぢ)兄などの住まぬ家、そのさるべき人のなからんは、おのづから睦(むつ)ましううち知りたる受領(ずりやう)、また国へ行きていたづらなる、さらずば女院、宮ばらなどの屋あまたあるに、官(つかさ)待ち出でて後、いつしかとよき所尋ね出でて住みたるこそよけれ。102


百七十七 女のひとり住む家などは、ただ甚(いた)う荒れて、築地(ついぢ)なども全(ま)たからず、池などのある所は水草(みくさ)ゐ、庭などもいと蓬(よもぎ)茂りなどこそせねども、所々砂子(すなご)の中より青き草見え、淋しげなるこそあはれなれ。物かしこげに、なだらかに修理(すり)して、門いたう固め、きはぎはしきは、いとうたてこそ覚ゆれ。104


百七十八 宮仕へ人の里なども、親ども二人あるはよし。人繁く出で入り、奥の方(かた)に数多(あまた)様々の声多く聞こえ、馬の音して騒がしきまであれ、とがなし。

 されど、忍びても、あらはれても、「おのづから出で給ひけるを知らで」とも、「またいつか参り給ふ」なども言ひにさし覗く。心かけたる人は、「いかがは」と門開けなどするを、(=親が)うたて騒しうあやふげに「夜中(よなか)まで」など思ひたるけしき、いとにくし。「大御門(おほみかど)はさしつや」など問はすれば、「まだ人のおはすれば」など、なまふせがしげに思ひて答(いら)ふるに、「人出で給ひなば疾くさせ。この頃は盗人いと多かり」など言ひたる、いとむつかしううち聞く人だにあり。この人の供なる者ども、この客(かく)今や出づると、絶えずさしのぞきてけしき見る者どもを、笑ふべかンめり。真似うちするも、聞きてはいかにいとど厳しう言ひ咎めん。いと色に出でて言はぬも、思ふ心なき人は、必ず来(き)などやする。されど健(すくよか)なるかたは、「夜更けぬ、御門(みかど)も危ふかンなる」と言ひてぬる(イいぬる)もあり。真(まこと)に志(こころざし)ことなる人は、「はや」など数多度(あまたたび)遣らはるれど、なほ居明かせば、度々ありくに明けぬべき気色をめづらかに思ひて、「いみじき御門を、今宵らいさうと開け広げて」と聞こえごちて、あぢきなく暁にぞさすなる。いかがにくき。親添ひぬるは猶こそあれ。まして真(まこと)ならぬは、いかに思ふらんとさへつつましうて。兄(せうと)の家なども、実(げ)に聞く(=三巻能因本「けにくき」)にはさぞあらん。

 夜中暁ともなく、門いと心賢こくもなく、何の宮、内裏(うち)辺(わた)りの殿ばらなる人々の出で逢ひなどして、格子なども上げながら、冬の夜を居明かして、人の出でぬる後(のち)も、見出だしたるこそをかしけれ。有明などはましていとをかし。笛など吹きて出でぬるを、我は急ぎても寝られず、人の上なども言ひ、歌など語り聞くままに、寝入りぬるこそをかしけれ。105


百七十九 雪のいと高くはあらで、うすらかに降りたるなどは、いとこそをかしけれ。

 また、雪のいと高く降り積みたる夕暮より、端(はし)近う、同じ心なる人二三人ばかり、火桶、中(なか)に据ゑて、物語などする程に、暗うなりぬれば、こなたには火も灯(とも)さぬに、大かた雪の光いと白う見えたるに、火箸して灰など掻きすさびて、あはれなるもをかしきも、言ひ合はするこそをかしけれ。

 宵(よひ)も過ぎぬらんと思ふほどに、沓(くつ)の音近う聞こゆれば、怪しと見出だしたるに、時々かやうの折、おぼえなく見ゆる人なりけり。「今日の雪をいかにと思ひきこえながら、何(なん)でふ事に障(さ)はり、そこに暮らしつる」よしなど言ふ。「今日来ん人を」などやうの筋(すぢ)をぞ言ふらんかし。昼よりありつる事どもをうち始めて、よろづの事を言ひ笑ひ、円座(わらふだ)さし出だしたれど、片つ方の足は下(しも)ながらあるに、鐘(かね)の音の聞こゆるまでになりぬれど、内にも外(と)にも、言ふ事どもは飽かずぞおぼゆる。昧爽(あけぐれ=暁)のほどに帰るとて、「雪何の山に満てる」とうち誦(ず)んじたるは、いとをかしきものなり。女の限りしては、さもえ居明さざらましを、只なるよりはいとをかしう、好きたる有様などを言ひあはせたる。108


百八十 村上の御時、雪のいと高う降りたりけるを、楊器(やうき)にもらせ給ひて、梅の花をさして、月いと明きに、「これに歌よめ、いかが言ふべき」と兵衛の蔵人に給(た)び(イ給はらせ)たりければ、「雪月花(せつげつくわ)の時」と奏したりけるこそ、いみじうめでさせ給ひけれ。「歌など詠まんには世の常なり、かう折に合ひたる事なん、言ひ難き」とこそ仰せられけれ。同じ人を御供にて、殿上に人候(さぶら)はざりける程、佇(たたず)ませおはしますに、炭櫃(すびつ)の烟(けぶり)の立ちければ、「かれは何の烟ぞ、見て来」と仰せられければ、見てかへり参りて、

わたつみの沖に漕(こ)がるる物見ればあまの釣して帰るなりけり

と奏しけるこそをかしけれ。蛙(かへる)の飛び入りて焦(こ)がるるなりけり。110


百八十一 御形(みあれ)の宣旨、五寸ばかりなる殿上童(わらは=人形)のいとをかしげなるを作りて、髻(みづら)結ひ、装束(さうぞく)などうるはしくして、名書きて奉らせたりけるに、「ともあきらのおほきみ」と書きたりけるをこそ、いみじうせさせ給ひけれ。111

巻九


百八十二 宮に初めて参りたる頃、物の恥づかしきこと数知らず、涙も落ちぬべければ、夜々(よるよる)まゐりて、三尺の御几帳(きちやう)の後(うしろ)に候ふに、絵など取り出でて見せさせ給ふだに、手もえさし出だすまじう、わりなし。これはとあり、かれはかかりなどのたまはするに、高杯(たかつき)にまゐりたる大殿油(おほとのあぶら)なれば、髪の筋なども、中々昼よりは顕証(けしよう)に見えてまばゆけれど、念じて見などす。いと冷たきころなれば、さし出ださせ給へる御手のわづかに見ゆるが、いみじう匂ひたる薄紅梅(うすこうばい)なるは、限りなくめでたしと、見知らぬさとび心地には、「いかがはかかる人こそ世におはしましけれ」と、驚かるるまでぞまもりまゐらする。

 暁には疾くなど急がるる。「葛城(かづらき)の神も暫(しば)し」など仰せらるるを、いかで筋違(すぢか)ひても御覧ぜんとて臥したれば、御格子もまゐらず。女官まゐりて、「これ(=格子)放たせ給へ」と言ふを、女房聞きて放つを、「待て」など仰せらるれば、笑ひて帰りぬ。物など問はせ給ひのたまはするに、久しうなりぬれば、「降りまほしうなりぬらん、さは早(はや)」とて、「夜さりは疾く」と仰せらるる。

 ゐざり帰る(=三巻慶安刊本。イかくるるや=三巻陽甲能因本)や遅きと(=格子を)開けちらしたるに、雪いとをかし。「今日は昼つ方参れ、雪に曇りて露(あらは)にもあるまじ」など、たびたび召せば、この局主人(つぼねあるじ)も、「さのみや籠(こも)り居給ふらんとする。いとあへなきまで御前許されたるは、思(おぼ)しめすやうこそあらめ。思ふに違(たが)ふは憎きものぞ」と、ただ急がしに出だせ(「に」慶安刊本、「急がし出だせ」古活字本、イ急がしに急がせ?)ば、我にもあらぬ心地すれば、参るもいとぞ苦しき。火焼屋(ひたきや)の上に降り積みたるも珍しうをかし。御前近くは、例の炭櫃の火こちたくおこして、それには態(わざ)と人も居ず。宮は沈(ぢん)の御火桶(ひおけ)の梨絵(なしゑ)したるに向ひておはします。上臈(じやうらふ)御まかなひし給ひけるままに近くさぶらふ。次の間に長炭櫃(すびつ)に間(ま)なく居たる人々、唐衣(からぎぬ)着垂れたるほどなり。安らかなるを見るも羨しく、御ふ(=能因本。イふみ=三巻本)とりつぎ、立ち居振る舞ふ様など、慎ましげならず、物言ひゑ笑ふ。いつの世にか、さやうに交ひならんと思ふさへぞ慎ましき。奥(あう)寄りて、三四人(みたりよたり)集(つど)ひて絵など見るもあり。

 暫時(しばし)ありて、前駆(さき)高う追ふ声すれば、「殿(との=藤原道隆)参らせ給ふなり」とて、散りたる物ども取りやりなどするに、奥に引き入りて、さすがにゆかしきなンめりと、御几帳(きちやう)のほころびより僅(はつ)かに見入れたり。

 大納言殿(=藤原伊周)の参らせ給ふなりけり。御直衣(なほし)指貫(さしぬき)の紫の色、雪に映(は)えてをかし。柱のもとに居給ひて、「昨日(きのふ)今日物忌にて侍れど、雪のいたく降りて侍れば、おぼつかなさに」などのたまふ。「『道もなし』と思ひけるに、いかでか」とぞ御答(いらへ)あンなる。うち笑ひ給ひて、「『あはれ』ともや御覧ずるとて」などのたまふ御有様は、これよりは何事かまさらん。物語にいみじう口にまかせて言ひたる事ども、違(たが)はざンめりとおぼゆ。

 宮は白き御衣(ぞ)どもに、紅(くれなゐ)の唐綾(からあや)二つ、白き唐綾と奉りたる、御髪(みぐし)のかからせ給ふる(=慶安刊古活字本。能因学三巻本「給へる」)など、絵に書きたるをこそ、かかることは見るに、現(うつつ)にはまだ知らぬを、夢の心地ぞする。

 女房と物言ひ戯(たはぶ)れなどし給ふを、答(いらへ)いささか恥づかしとも思ひたらず聞こえ返し、空言(そらごと)などのたまひかかるを、争(あらが)ひ論じなど聞こゆるは、目もあやに、浅ましきまで、あいなく面(おもて)ぞ赤(あか)むや。御菓子(くだもの)まゐりなどして、御前にも参らせ給ふ。

 「御几帳(きちやう)の後(うしろ)なるは誰ぞ」と問ひ給ふなるべし。「さぞ」と申すにこそあらめ、立ちておはするを、外(ほか)へにやあらんと思ふに、いと近う居給ひて、物などのたまふ。まだ参らざりしとき聞きおき給ひける事など、のたまふ。(=慶安刊古活字本。能因学「のたまふ」ナシ)「実(まこと)にさありし」などのたまふに、御几帳(きちやう)隔(へだ)てて、よそに見やり奉るだに恥づかしかりつるを、いとあさましう、さし向ひ聞こえたる心地、現(うつつ)とも覚えず。行幸など見るに、車の方(かた)にいささか見おこせ給ふは、下簾(したすだれ)ひきつくろひ、透影(すきかげ)もやと扇(あふぎ)をさし隠す。猶いと我心ながらも、おほけなくいかで(=宮仕に)立ち出でにしぞと、汗零(あせあ)えていみじきに、何事をか<いらへも>(=能因学。慶安刊古活字本ヌケ)聞こえん。かしこき陰と捧(ささ)げたる扇をさへ取り給へるに、振りかくべき髪のあやしささへ思ふに、「すべて真(まこと)にさる気色やつきて(=能因本は「やつれて」)こそ見ゆらめ、疾く立ち給へ」など思へど、扇を手まさぐりにして、「絵は誰(た)が書きたるぞ」などのたまひて、頓(とみ)にも立ち給はねば、袖を押しあてて、うつぶし居たるも、唐衣(からぎぬ)に白い物うつりて、まだらにならんかし。

 久しう居給ひたりつるを、論なう苦しと思ふらんと(=中宮は)心得させ給へるにや、「これ見給へ、これは誰(た)が書きたるぞ」と聞こえさせ給ふを、嬉しと思ふに、「給ひて見侍らん」と申し給へば、「猶ここへ」とのたまはすれば、「人をとらへて立て侍らぬなり」とのたまふ。いといまめかしう、身の程年には合はず、傍(かたは)ら痛し。人の草仮名(さうかな)書きたる草紙、取り出でて御覧ず。「誰がにかあらん、かれに見せさせ給へ。それぞ世にある人の手は見知りて侍らん」と怪しき事どもを、ただ答(いら)へさせんとのたまふ。

 一所だにあるに、また前駆(さき)うち追はせて、同じ直衣(なほし)の人参らせ給ひて、これは今少し花やぎ、猿楽言(さるがうごと=冗談)などうちし、褒め笑ひ興じ、我も「某(なにがし)が、とある事、かかる事」など、殿上人の上など申すを聞けば、猶いと変化(へんげ)の物、天人などの降り来たるにやと覚えてしを、候(さぶら)ひ馴れ、日ごろ過ぐれば、いとさしもなき業(わざ)にこそありけれ。かく見る人々も、家の内出で初(そ)めけん程は、さこそは覚えけめど、かく為(し)もて行くに、おのづから面馴(おもな)れぬべし。

 物など仰せられて、「我をば思ふや」と問はせ給ふ。御答(いらへ)に、「いかにかは」と啓するに合はせて、台盤所のかたに、鼻を高く嚔(ひ)たれば、「あな心憂、虚言(そらごと)するなりけり。よしよし」とて入らせ給ひぬ。「いかでか虚言にはあらん。よろしうだに思ひ聞こえさすべき事かは。鼻こそは虚言しけれ」とおぼゆ。「さても誰(たれ)かかく憎きわざしつらん」と、「大かた心づきなし」と覚ゆれば、わがさる折(=くしやみ)も、押し拉(ひし)ぎ返してあるを、まして憎しと思へど、まだ初々(うひうひ)しければ、ともかくも啓し直(なほ)さで、明けぬれば降りたるすなはち、浅緑なる薄様(うすやう)に、艶(えん)なる文をもてきたり。見れば、

「いかにしていかに知らまし偽(いつは)りを空にただすの神なかりせば

となん、御気色は」とあるに、めでたくも口惜しくも思ひ乱るるに、なほ昨夜(よべ)の人ぞ尋(たづ)ね聞かまほしき。

「薄きこそ(=能因本は「薄さ濃さ」)それにもよらぬ花故(はなゆゑ)に憂き身の程を知るぞわびしき

猶こればかりは啓し直させ給へ、式神(しきのかみ)もおのづから。いと畏(かしこ)し」とて、参らせて後(のち)も、うたて、折しも、などてさはたありけん、いとをかし(=能因本は「なげかし」)。113


百八十三 したり顔なるもの

 正月一日の早朝(つとめて)、最初(さいそ)に鼻ひたる人。きしろふ度(たび)の蔵人に、かなしうする子なしたる人の気色(けしき)。除目(ぢもく)に、その年の一の国得たる人の、喜びなど言ひて、「いとかしこうなり給へり」など人のいふ答(いら)へに、「何か。いと異様(ことやう)に亡(ほろ)びて侍る(=国)なれば」など言ふも、したり顔なり。

 また人多く挑(いど)みたる中に、選(え)られて婿に取られたるも、我はと思ひぬべし。こはき物怪(もののけ)調(てう)じたる験者(げんじや)。韻塞(ゐんふたぎ)の明(あけ)疾うしたる。小弓射るに、片つ方の人しはぶきをし紛(まぎら)はして騒ぐに、念じて音高う射てあてたるこそ、したり顔なるけしきなれ。碁を打つに、さばかりと知らで、ふくつけさ(イき)は、またこと所にかかぐりありくに、こと方(かた)より、目も無くして、多く拾ひ取りたるも嬉しからじや。誇りかに打ち笑ひ、ただの勝よりは誇りかなり。

 ありありて受領になりたる人の気色こそ嬉しげなれ。僅(わづ)かにある従者(ずんざ)の無礼(なめげ)にあなづるも、妬(ねた)しと思ひ聞こえながら、いかがせんとて念じ過しつるに、我にもまさる者どもの、かしこまり、ただ「仰(おほ)せ承(うけたま)はらむ」と追従(ついしよう)するさまは、ありし人とやは見えたる。女房うちつかひ、見えざりし調度(てうど)装束(さうぞく)の湧き出づる。受領したる人の中将になりたるこそ、もと君達のなりあがりたるよりも、気高(けだか)うしたり顔に、いみじう思ひたンめれ。125


百八十四 位(くらゐ)こそ猶めでたきものにはあれ。同じ人ながら、大夫(たいふ)の君や、侍従(じじゆう)の君など聞こゆる折りは、いと侮(あなづ)り易きものを、中納言、大納言、大臣などになりぬるは、無下にせんかたなく、やんごとなく覚え給ふ事のこよなさよ。ほどほどにつけては、受領(ずりやう)もさこそはあンめれ。数多(あまた)国に行きて、大弐(だいに)や四位などになりて、上達部(かんだちべ)になりぬれば、おもおもし。

 されど、さりとてほど過ぎ、何ばかりの事かはある。また多くやはある。受領の北の方にてくだるこそ、よろしき人の幸福(さいはひ)には思ひてあンめれ。只人の上達部の女(むすめ)にて、后(きさき)になり給ふこそめでたけれ。

 されどなほ男は、わが身のなり出づるこそ目出度くうち仰ぎたるけしきよ。法師の「某(なにがし)供奉」など言ひてありくなどは、何とかは見ゆる。経たふとく読み、みめ清げなるにつけても、女にあなづられて、形懸(なりか)かりこそすれ、僧都僧正になりぬれば、仏のあらはれ給へるにこそとおぼし惑ひて、かしこまるさまは、何にかは似たる。127


百八十五 風は、嵐(あらし)。こがらし。三月(やよひ)ばかりの夕暮にゆるく吹きたる花風(イあまかぜ)、いとあはれなり。

 八九月ばかりに、雨にまじりて吹きたる風、いとあはれなり。雨の足(あし)横ざまに、さわがしう吹きたるに、夏通(とほ)したる綿衣(わたぎぬ)の、汗の香など(=能因本は「などせしが」)乾き、生絹(すずし)の単衣(ひとへ)に引き重ねて着たるもをかし。この生絹だにいと暑かはしう、捨てまほしかりしかば、いつの間にかう成りぬらんと思ふもをかし。

 暁(あかつき)、格子(かうし)妻戸(つまど)など押し上げたるに、嵐の颯(さ)と吹き渡りて、顔に染みたるこそいみじうをかしけれ。

 九月(ながつき)三十日(つごもり)、十月(かんなづき)一日(ついたち)の程の空うち曇りたるに、風のいたう吹くに、黄(き)なる木の葉どもの、ほろほろとこぼれ落つる、いとあはれなり。桜の葉、椋(むく)の葉などこそ落(お)つれ。

 十月(かんなづき)ばかりに木立多かる所の庭は、いとめでたし。129


百八十六 野分(のわき)の又の日こそ、いみじうあはれにおぼゆれ。立蔀(たてじとみ)、透垣(すいがい)などの伏し並(な)みたるに(イ乱れたるに)、前栽(せんざい)ども心ぐるしげなり。大きなる木ども倒(たふ)れ、枝など吹き折られたるだに惜(を)しきに、萩(はぎ)女郎花(をみなへし)などの上に、よろぼひ(イよころび=慶安刊本)這ひ伏せる、いと思はずなり。格子の壷などに、颯(さ)と際(きは)を殊更にしたらんやうに、細々(こまごま)と吹き入りたるこそ、荒(あら)かりつる風の仕業(しわざ)ともおぼえね。

 いと濃き衣のうは曇りたるに(=三巻本)、朽葉(くちば)の織物、羅(うすもの)などの小袿(こうちき)着て、まことしく清げなる人の、夜は風のさわぎに寝覚(ねざ)めつれば(イ本ねられざりつれば)、久しう寝起きたるままに、鏡うち見て、母屋(もや)より少しゐざり出でたる、髪は風に吹きまよはされて、少しうちふくだみたるが、肩にかかりたるほど、実(まこと)にめでたし。

 物あはれなる気色見るほどに、十七八ばかりにやあらん、小(ちひ)さうはあらねど、わざと大人などは見えぬが、生絹(すずし)の単衣(ひとへ)のいみじう綻(ほころ)びたる、花もかへり、濡れなどしたる、薄色の宿直物(とのゐもの)を着て、髪は尾花(おばな)のやうなるそぎ末(すゑ)も、長(たけ)ばかりは衣(きぬ)の裾(すそ)に外(は)づれて、袴(はかま)のみ鮮やかにて、側(そば)より見ゆる童(わらは)べの(=主語、全注釈はこの「の」を省略して「・」にして「若き人」につなげてゐるが説明は無し)、若き人の根ごめに吹き折られたる前栽(せんざい)などを取り集め起こし立てなどするを、羨ましげに推し量りて、付き添ひたる後ろもをかし。131


百八十七 心にくきもの

 物へだてて聞くに、女房とは覚えぬ声の、忍びやかに聞こえたるに、答(こた)へ若やかにして、うちそよめきて参るけはひ、物まゐる程にや、箸(はし)匙(かひ)などのとりまぜて鳴りたる、提(ひさげ)の柄(え)の倒(たふ)れふすも、耳こそとどまれ。打ちたる衣(きぬ)の鮮やかなるに、騒(さうが)しうはあらで、髪のふりやられたる。

 いみじうしつらひたる所の、大殿油(おほとなぶら)は参らで、長炭櫃(ながすびつ)に、いと多くおこしたる火の光に、御几帳(きちやう)の紐のいとつややかに見え、御簾(みす)の帽額(もかう)のあげたる、鈎(こ)の際(きは)やかなるも、けざやかに見ゆ。よく調(てう)じたる火桶の、灰(はひ)清げにおこしたる火に、よく書きたる絵の見えたる、をかし。箸(=火箸)のいときはやかに筋(すぢ)かひたるもをかし。

 夜いたう更けて、人の皆寝ぬる後に、外(と)の方(かた)にて、殿上人など物言ふに、奥に碁石笥(け)にいる音のあまた聞こえたる、いと心にくし。簀子(すのこ)に火ともしたる。物へだてて聞くに、人の忍ぶるが、夜中などうち驚ろきて、言ふ事は聞こえず、男も忍びやかに笑ひたるこそ、何事ならんとをかしけれ。133


百八十八 島は、浮島(うきしま)。八十島(やそしま)。たはれ島(じま)。水島(みづしま)。松が浦島(うらしま)。籬(まがき)の島。豊浦(とよら)の島。たと島。 135


百八十九 浜は、そとの浜。吹上(ふきあげ)の浜。長浜(ながはま)。打出(うちで)の浜。諸寄(もろよせ=慶安刊本)の浜。千里(ちさと)の浜こそ広う思ひやらるれ。 135


百九十 浦は、生(おふ)の浦。塩竈(しほがま)の浦。志賀(しが)の浦。名高(なだか)の浦。こりずまの浦。和歌の浦。136


百九十一 寺は、壺坂(つぼさか)。笠置(かさぎ)。法輪(ほふりん)。高野(かうや)(=能因本以外は「霊山」)は、弘法大師(こうぼふだいし)(=能因本以外は「釈迦仏」、これは能因本改訂版説の一因か)の御住処(すみか)なるがあはれなるなり。石山。粉川(こかは)。志賀。136


百九十二 経は、法華経はさらなり。千手経(せんじゆきやう)。普賢十願(ふげんじふぐわん)。随求経(ずいぐきやう)。尊勝陀羅尼(そんしようだらに)。阿弥陀の大呪(だいず)。千手陀羅尼(ぜんずだらに)。138


百九十三 文は、文集(もんじふ)。文選(もんぜん)。博士(はかせ)の申文(まふしぶみ)。139


百九十四 仏は、如意輪(によいりん)は、人の心をおぼしわづらひて、頬杖(つらづゑ)を突きておはする、世に知らずあはれにはづかし。千手、すべて六観音。不動尊(ふどうそん)。薬師仏(やくしぶつ)。釈迦(しやか)。弥勒(みろく)。普賢(ふげん)。地蔵。文珠(もんじゆ)。139


百九十五 物語は、住吉(すみよし)、宇津保(うつぼ)の類。殿(との)うつり。月まつ女。交野(かたの)の少将。梅壺(うめつぼ)の少将。人め。国譲(くにゆづり)。埋木(むもれぎ)。道心すすむる松が枝。こまのの物語は、古き蝙蝠(かはぼり)さし出でても往(い)にしが、をかしきなり。142


百九十六 野は、嵯峨野さらなり。印南野(いなびの)。交野(かたの)。こま野。粟津野(あはずの)。飛火野(とぶひの)。しめぢ野。そうけ野こそすずろにをかしけれ。などさつけたるにかあらん。安倍野(あべの)。宮城野。春日野。紫野。142


百九十七 陀羅尼は あかつき。読経は ゆふぐれ。143


百九十八 遊びは、夜(よる)、人の顔見えぬほど。143


百九十九 遊びわざは、さまあしけれども、鞠(まり)もをかし。小弓。韻塞(いんふたぎ)。碁。


二百 舞は、駿河舞。求子(もとめご)。太平楽(たいへいらく)はさまあしけれど、いとをかし。太刀(たち)などうたてくあれど、いとおもしろし。漢土(もろこし)に敵(かたき)に具(ぐ)して遊びけんなど聞くに。

 鳥の舞。抜頭(ばとう)は、頭(かしら)の髪(かみ)ふりかけたる目見(まみ)などは恐ろしけれど、楽もいとおもしろし。落蹲(らくそん)は、二人して膝ふみて舞ひたる。こまがた(イ狛杵ホコこまの一越調云々)。144


二百一 ひきものは、琵琶。筝(さう)のこと。しらべは 風香調(ふこうでう)。黄鐘調(わうしきでう)。蘇合(そかふ)の急(きふ)。鶯(うぐひす)のさへづりといふ調べ。相府蓮(さうふれん)。145


二百二 笛は、横笛いみじうをかし。遠(とほ)うより聞こゆるが、やうやう近うなりゆくもをかし。近かりつるが遥かになりて、いとほのかに聞こゆるも、いとをかし。車にても徒歩(かち)にても馬にても、すべて懐(ふところ)にさし入れてもたるも、何とも見えず、さばかりをかしき物はなし。まして聞き知りたる調子など、いみじうめでたし。暁などに、忘れて枕のもとにありたるを見つけたるも、猶をかし。人の許より取りにおこせたるを、おし包みて遣(や)るも、ただ文の(イたて文の)やうに見えたり。

 笙(さう)の笛は、月の明かきに、車などにて聞こえたる、いみじうをかし。所せく、もて扱(あつ)かひにくくぞ見ゆる。吹く顔やいかにぞ。それは横笛も吹きなしありかし(イなめりかし=三巻本)。篳篥(ひちりき)は、いとむつかし(イかしがまし=三巻本)う、秋の虫を言はば、轡虫(くつわむし)などに似て(イの心地し=三巻本て)、うたて気近(けぢか)く聞かまほしからず。ましてわろう吹きたるはいと憎きに、臨時の祭の日、いまだ御前には出で果てで、物の後ろにて横笛をいみじう吹き立てたる、あなおもしろと聞くほどに、半(なか)らばかりより、(=篳篥が)うちそへて吹きのぼせたる程こそ、ただいみじう麗(うるは)しき髪(かみ)持たらん人も、(=髪が)皆立ちあがりぬべき心地ぞする。やうやう琴(こと)笛あはせて歩(あゆ)み出でたる、いみじうをかし。146


二百三 見るものは、行幸。祭のかへさ。御賀茂詣(みかもまうで)。臨時の祭。

 空曇りて寒げなるに、雪少しうち散りて、挿頭(かざし)の花、青摺(あをずり)などにかかりたる、えも言はずをかし。太刀の鞘の、きはやかに黒うまだらにて、白く広う見えたるに、半臂(はんぴ)の緒の瑩(やう)じたるやうにかかりたる。地摺袴(ぢずりばかま)の中より、氷(こほり)かと驚くばかりなる打目など、すべていとめでたし。今少し多く渡らせまほしきに、使(つかひ)は必ず憎げなるもあるたびは、目も止まらぬ。されど藤の花に隠されたる程はをかしう、なほ過ぎぬるかたを見送らるるに、陪従(べいじゆう)の品おくれたる、柳の下襲(したがさね)に、挿頭の山吹、面無く見ゆれども、扇いと高くうちならして、「賀茂の社のゆふだすき」と歌ひたるは、いとをかし。(=この節、ほぼ三巻本)

 行幸に準(なずら)ふるものは何かあらん。御輿(みこし)に奉りたるを見参らせたるは(イみたてまつるには=三巻本)、明暮(あけくれ)御前に候ひ仕(つかうまつ)る事もおぼえず、神々(かうがう)しう厳(いつく)しう、常は何ともなき官(つかさ)、姫大夫(ひめまうちぎみ)さへぞ、やんごとなう珍しう覚ゆる。御綱助(みつなのすけ)、中・少将などいとをかし。

 祭のかへさ、いみじうをかし。きのふは万(よろづ)の事うるはしうて、一条の大路の広う清らなるに、日の影も暑く、車にさし入りたるも眩(まば)ゆければ、扇にて隠し、居直りなどして、久しう待ちつるも見苦しう、汗などもあえしを、今日はいと疾く(イいそぎ=三巻本)出でて、雲林院(うりんゐん)、知足院(ちそくゐん)などのもと(イかど=慶安刊古活字本)に立てる車ども、葵、桂もうちなえて見ゆ。日は出でたれど、空は猶うち曇りたるに、いかで聞かんと、目をさまし、起き居て待たるる郭公(ほととぎす)の、数多(あまた)さへあるにやと聞こゆるまで、鳴きひびかせば(イすは=三巻本)、いみじうめでたしと思ふ程に、鶯(うぐひす)の老いたる声にて、かれ(かれに=慶安刊古活字本)似せんとおぼしくうち添へたるこそ、憎けれどまたをかし(=慶安刊本。古活字本「をかしけれ」)。いつしかと待つに、御社(みやしろ)の方(かた)より、赤き衣(きぬ)など着たる者どもなど連れ立ちてくるを、「いかにぞ、事成りぬや」など言へば、「まだ無期(むご)」など答(いら)へて、御輿、腰輿(たごし)など持てかへる。これに奉りておはしますらんもめでたく、けぢかく如何(いか)でさる下衆などの候ふにかとおそろし。

 遥(はる)かげに言ふ程もなく帰らせ給ふ。葵(あふひ)より始めて、青朽葉(あをくちば)どものいとをかしく見ゆるに、所の衆の青色、白襲(しらがさね)をけしきばかり引きかけたるは、卯の花垣根近うおぼえて、郭公(ほととぎす)も陰(かげ)に隠れぬべう覚ゆかし。昨日(きのふ)は車一つに数多(あまた)乗りて、二藍(ふたあい)の直衣(なほし)、あるは狩衣(かりぎぬ)など乱れ着て、簾(すだれ)取りおろし、物ぐるほしきまで見えし君達の、斎院の垣下(ゑんが)にて、日(ひ)の装束(さうぞく)麗(うるは)しくて、今日は一人づつ、長々(をさをさ)しく乗りたる後(しり)に、殿上童(わらは)乗せたるもをかし。

 わたり果てぬる後(のち)には、などかさしも惑ふらん。我も我もと、危く恐ろしきまで、前(さき)に立たんと急ぐを、「かうな急ぎそ、のどやかに遣(や)れ」と扇をさし出でて制すれど、聞きも入れねば、わりなくて、少し広き所に強ひてとどめさせて立ちたるを、心もとなく憎しとぞ思ひたる。競(きほ)ひかかる車どもを見やりてあるこそをかしけれ。少しよろしき程にやり過して、道の山里めきあはれなるに、卯つ木垣根といふ物の、いと荒々しう、驚かしげにさし出でたる枝どもなど多かるに、花はまだよくも開(ひら)けはてず、蕾(つぼみ)がちに見ゆるを折らせて、車のこなたかなたなどに挿したるも、桂などの萎(しぼ)みたるが口惜しきに、をかしうおぼゆ。遠きほどは(=三巻本は「いとせばう」)えも通るまじう見ゆる(=堺本)行く先を(=能因本は「をかしうおぼゆる。行く先を」)、近う行きもてゆけば、さしもあらざりつるこそをかしけれ。男の車の誰とも知らぬが、後(しり)に引き続きて来るも、ただなるよりはをかしと見る程に、引き別るる所にて、「峰にわかるる」と言ひたるもをかし。148


二百四 五月ばかり、山里にありく、いみじくをかし。沢水(さはみづ)も実(げ)にただいと青く見えわたるに、上はつれなく草生ひ茂りたるを、長々と縦様(たたさま=まつすぐに)に行けば(イただざまにながながとゆけば=堺本)、下(した)はえならざりける(=普通ではない)水の、深うはあらねど、人の歩むにつけて、迸(とばし)り上げたるいとをかし。

 左右にある垣の(=諸本は「に」)枝などのかかりて、車の屋形に入るも、急ぎて捉(とら)へて折らんと思ふに、ふと外れて過ぎぬるも口惜し。蓬(よもぎ)の車に押しひしがれたるが、輪の舞ひ立ちたるに(イまひたりけるにおきあがりてふとかかへ=堺本)、近うかかへたる香もいとをかし。155


二百五 いみじう暑き頃、夕涼みといふ程の、物の様などおぼめかしき(=能因本は「物おぼめかしき」)に、男車の前駆(さき)追ふは、言ふべき事にもあらず、ただの人も、後(しり)の簾(すだれ)あげて、二人も一人も乗りて、走らせて行くこそ、いと涼しげなれ。まして、琵琶ひき鳴らし、笛の音(ね)聞こゆるは、過ぎて往ぬるも口惜しく、さやうなるほどに、牛の鞦(しりがい)の(=能因本は「も」)<知らぬにやあらん>(=能因本より、慶安刊本にもあり原文のみヌケ)、香(か)の怪しう嗅ぎ知らぬ様なれど、うち嗅がれたるが、をかしきこそ物ぐるほしけれ。いと暗う、闇なるに、さきにともしたる松の煙の香の、車にかかれるも、いとをかし。156


二百六 五日の菖蒲(さうぶ)の、秋冬過ぐるまであるが、いみじう白み枯れて怪しきを、引き折りあげたるに、その折の香残りて、かかへたるもいみじうをかし。 157


二百七 よく薫(た)き染(し)めたる薫物(たきもの)の、昨日、一昨日、今日などはうち忘れ(=三巻本。イすぎ=能因本)たるに、衣を引きかづきたる中に、煙の残りたるは、今のよりもめでたし。157


二百八 月のいと明かきに川を渡れば、牛の歩むままに、水晶などの割れたるやうに、水の散りたるこそをかしけれ。158


二百九 大(おほ)きにてよきもの

 法師。菓子(くだもの)。家。餌袋(ゑぶくろ)。硯の墨。男(をのこ)の目。あまり細きは女めきたり、また鋺(かなまり)のやうならんは恐ろし。火桶(ひおけ)。酸漿(ほほづき)。松の木。山吹の花びら(イ山ふき様の花ひら)。馬も牛も、よきは大きにこそあンめれ。158


二百十 短くてありぬべきもの

 頓(とみ)の物ぬふ糸。灯台(とうだい)。下衆(げす)女の髪(かみ)、うるはしく短くてありぬべし。人の女(むすめ)の声(こゑ)。158


二百十一 人の家につきづきしきもの

 厨(くりや)。侍(さぶらひ)の曹司(ざうし)。箒(ははき)のあたらしき。懸盤(かけばん)。童女(わらはめ)。はした者。衝立障子(ついたてさうじ)。三尺の几帳(きちやう)。装束(しやうぞく=慶安刊古活字本。能因本は「さうぞく」)よくしたる餌袋(ゑぶくろ)。からかさ。かきいた。棚厨子(たなづし)。ひさげ。銚子(てうし)。中の盤。円座(わらふだ)。ひぢをりたる廊(らう)。竹王絵(ちくあうゑ)かきたる火桶。159


二百十二 物へ行く道に、清げなる男の、立て文の細やかなる持ちて急ぎ行くこそ、何地(いづち)ならんとおぼゆれ。

 また、清げなる童女(わらはべ)などの、衵(あこめ)いと鮮やかにはあらず、萎えばみたる、屐子(けいし)のつややかなるが、革(かは)に土多く付いたるを履きて、白き紙に包みたる物、もしは箱の蓋に、草紙どもなど入れて持て行くこそ、いみじう、呼び寄せて見まほしけれ。門近(かどぢか)なる所をわたるを、呼び入るるに、愛敬なく答(いらへ)もせで往く者は、使ふらん人こそ推しはからるれ。160


二百十三 行幸はめでたきもの、上達部、君達(=能因本は「きんだちの」)車などのなきぞ少しさうざうしき。160


二百十四 よろづの事よりも、わびしげなる車に装束(さうぞく)わろくて物見る人、いともどかし。説経などはいとよし。罪失ふかたの事なれば。それだに猶あながちなる様にて見苦しかるべきを、まして祭などは見でありぬべし。下簾(したすだれ)もなくて、白き単衣(ひとへ)うち垂れなどしてあンめりかし。ただその日の料(れう)にとて、車も下簾(したすだれ)も仕立てて、いと口惜しうはあらじと出でたるだに、まさる車など見つけては、何しになど覚ゆるものを、まして如何(いか)ばかりなる心地にて、さて見るらん。

 下(お)り上りありく君達の車の、推し分けて近う立つ時などこそ、心ときめきはすれ。よき所に立てんと急がせば、疾く出でて待つほどいと久しきに、居張り立ちあがりなど、あつく苦しく、待ち困ずる程に、斎院の垣下(ゑんが)に参りたる殿上人、所の衆、弁、少納言など、七つ八つ引き続けて、院の方(かた)より走らせて来るこそ、「事なりにけり」と驚かれて、嬉しけれ。

 殿上人の物言ひおこせ、所々の御前(ごぜん)どもに水飯(すいはん)食はすとて、桟敷のもとに馬引き寄するに、覚えある人の子供などは、雑色など降りて、馬の口などし(=写本「ゝ」)てをかし。さらぬ者の、見も入れられぬなどぞ、いとほしげなる。

 御輿(みこし)の渡らせ給へば、簾(すだれ)も(イながえども)あるかぎり取りおろし、過ぎさせ給ひぬるに、まどひ上ぐるもをかし。その前に立てる車は、いみじう制するに、「などて立つまじきぞ」と強ひて立つれば、言ひわづらひて、消息(せうそこ)などするこそをかしけれ。所もなく立ち重なりたるに、よき所の御車、人給(ひとだまひ)引き続きて多く来るを、いづくに立たんと見る程に、御前どもただ降りに降りて、立てる車どもをただ退けに退けさせて、人給(ひとだまひ)続きて立てるこそ、いとめでたけれ。逐(お)ひ退けられたるえせ車ども、牛かけて、所ある方(かた)にゆるがしもて行くなど、いとわびしげなり。きらきらしきなどをば、えさしも推し拉(ひし)がずかし。いと清げなれど、また鄙び怪しく、下衆も絶えず呼び寄せ、ちご出だしすゑなどするもあるぞかし。161


二百十五 「廊(ほそどの=女房の局)に便なき人なん、暁(あかつき)に笠ささせて出でける」と言ひ出でたるを、よく聞けば我が上なりけり。地下(ぢげ)など言ひても、めやすく、人に許されぬばかりの人にもあらざンめるを、怪しの事やと思ふほどに、うへより御文もて来て、「返事只今」と仰せられたり。何事にかと思ひて見れば、大笠(おほかさ)の絵(かた)をかきて、人は見えず、ただ手のかぎり笠をとらへさせて、下(しも)に

「三笠山やまの端あけしあしたより」

と書かせ給へり。猶はかなき事にても、めでたくのみ覚えさせ給ふに、恥づかしく心づきなき事は、いかで御覧ぜられじと思ふに、さる虚言(そらごと)などの出でくるこそ苦しけれと、をかしうて、こと紙に、雨をいみじう降らせて、下(しも)に、

「雨ならぬ名のふりにけるかな

さてや濡れぎぬには侍らん」と啓したれば、右近内侍などにかたらせ給ひて、笑はせ給ひけり。164


二百十六 三条の宮におはしますころ、五日の菖蒲(さうぶ)の輿(こし)など持ちてまゐり。薬玉(くすだま)まゐらせなど若き人々 御匣殿(みくしげどの)など、薬玉(くすだま)して、姫宮(ひめみや)若宮(わかみや)つけさせ奉り、いとをかしき薬玉ほかよりも参らせたるに、青ざし(=麦菓子)といふものを人の持てきたるを、(=私が)青き薄様(うすやう)を艶(えん)なる硯の蓋(ふた)に敷きて、「これ(=青ざし)籬(ませ)ごしに候(さぶら)へば」とてまゐらせたれば、

みな人は花や蝶(てふ)やといそぐ日もわがこころをば君ぞ知りける

と、紙の端(はし)を引き破(や)りて、書かせ給へるもいとめでたし。166


二百十七 十月(かんなづき)十余日(とをかあまり)の月いと明かきに、歩(あり)きて物見んとて、女房十五六人ばかり、みな濃き衣(きぬ)を上に着て、引きかく(イかへ)しつつありし中に、中納言の君(=女房)の、紅(くれなゐ)の張りたるを着て、頸(くび)より髪をかいこし給へりしかば、あたらしきそとはに、いとよくも似たりしかな。靫負佐(ゆげひのすけ)とぞ若き人々はつけたりし。後(しり)に立ちて笑ふも知らずかし。167

 成信の中将こそ、人の声はいみじうよう聞き知り給ひしか。同じ所の人の声などは(イも)、常に聞かぬ人は、更にえ聞き分かず、殊に男は、人の声をも手をも、見分き聞き分かぬものを、いみじう密(みそか)なるも、かしこう聞き分き給ひしこそ。(この段、能因本にはなし)168


二百十八 大蔵卿(おほくらきやう)ばかり耳とき人なし。真(まこと)に蚊の睫(まつげ)の落つるほども、聞き付け給ひつべくこそありしか。職(しき)の御曹司(みざうし)の西おもてに住みし頃、(=私が)大殿の四位少将(=成信)と物言ふに(イ新中将とのゐにて物などいふに=三巻本)、側(そば)にある人、「この少(イ中)将に扇の絵のこと言へ」とさざめけば、「今かの君(=大蔵卿)立ち給ひなんにを」と密(みそか)に言ひ入るるを、その人だにえ聞きつけで、「何とか何とか(=三巻本 イなになに=能因本)」と耳をかたぶくるに、手をうちて(イ遠くゐて=三巻本)、「にくし、さのたまはば今日は立たじ」とのたまふこそ、いかで聞き給ひつらんと、あさましかりしか。168


二百十九 硯(すずり)穢(きたな)げに塵(ちり)ばみ、墨の片つ方にしどけなく磨り平め、頭(かしら[う]←能因本「かしら[ら]」)大きになりたる、笠挿(かささ)しなどしたる(=筆)こそ心もとなしと覚ゆれ。万(よろづ)の調度(てうど)はさるものにて、女は鏡、硯こそ心のほど見ゆるなンめれ。置き口の挟目(はざめ)に、塵ゐなど打ち捨てたるさま、こよなしかし。

 男はまして文机(ふづくゑ)清げに押し拭(のご)ひて、重ねならずば二つ懸子(かけご)の硯のいとつきづきしう、蒔絵(まきゑ)の様もわざとならねどをかしうて、墨、筆の様なども、人の目止(と)むばかり仕立てたるこそ、をかしけれ。

 とあれど、かかれど、おなじ事とて、黒箱(くろばこ)の蓋(ふた)も片方(かたし)落ちたる硯、僅(わづ)かに墨のゐたる、塵のこの世には払ひがたげなるに、水うち流して、青磁(あをじ)の瓶(かめ)の口おちて、首のかぎり穴のほど見えて、人わろきなども、つれなく人の前にさし出づかし。169


二百二十 人の硯を引き寄せて、手習ひをも文をも書くに、「その筆な使ひたまひそ」と言はれたらんこそ、いと侘びしかるべけれ。うち置かんも人わろし、猶使ふもあやにくなり。さ覚ゆることも知りたれば、人のするも(=私の筆を使ふなと)言はで見るに、手などよくもあらぬ人の、さすがに物書かまほしうするが、いとよく使ひかためたる(=私の)筆を、あやしのやうに、水がちにさしぬらして、「こはものややり」と、仮名に細櫃(おそびつ)の蓋などに書きちらして、横ざまに投げ置きたれば、水に頭(かしら)はさし入れてふせるも、にくき事ぞかし。されどさ言はんやは。人の前に居たるに「あな暗(くら)、奥(あう)寄り給へ」と言ひたるこそ、また侘びしけれ。さし覗きたるを見つけては、驚き言はれたるも。思ふ人の事にはあらずかし。170


二百二十一 めづらしと言ふべき事にはあらねど、文こそ猶めでたき物なれ(=慶安刊本)。遥かなる世界にある人の、いみじくおぼつかなく、いかならんと思ふに、文を見れば、ただ今さし向ひたるやうに覚ゆる、いみじき事なりかし。わが思ふ事を書き遣りつれば、あしこまでも行きつかざるらめど、心ゆく心地こそすれ。文といふ事なからましかば、いかにいぶせく、暮れふたがる心地せまし。よろづの事思ひ思ひて、その人の許(もと)へとて細々(こまごま)と書きて置きつれば、おぼつかなさをも慰む心地するに、まして返事見つれば、命を延ぶべかンめる、実(げ)にことわりにや。171
(イ本=能因本 此の次に「川はあすか川ふちせさだめなく」などあり。前に出だしたれば今其本を用いず)

巻十


二百二十三 むまやは、梨原(なしはら)。ひくれの駅(むまや)。望月(もちづき)の駅。野口(のぐち)の駅。山の駅、あはれなる事を聞き置きたりしに、またあはれなる事のありしかば、なほ取りあつめてあはれなり。177


二百二十四 岡は、船岡(ふなをか)。片岡(かたをか)。靹岡(ともをか)は笹の生(お)ひたるがをかしきなり。かたらひの岡。人見の岡。177


二百二十五 社は、布留(ふる)の社(やしろ)。生田(いくた)の社。龍田(たつた)の社。はなふちの社。美久理(みくり)の社。杉の御社、しるしあらんとをかし。任事(ことのまま)の明神(みやうじん)、いとたのもし。「さのみ聞きけん」とや言はれ給はんと思ふぞいとをかしき。

 蟻通(ありどほし)の明神、貫之(つらゆき)が馬のわづらひけるに、この明神の病(や)ませ給ふとて、歌よみて奉りけんに、やめ給ひけん、いとをかし。この蟻通とつけたる心は、まことにやあらん、昔おはしましける帝(みかど)の、ただ若き人をのみ思しめして、四十(よそぢ)になりぬるをば、失(うし)なはせ給ひければ、人の国の遠きに往(い)き隠れなどして、更に都のうちにさる者なかりけるに、中将なりける人の、いみじき時の人にて、心なども賢(かしこ)かりけるが、七十(ななそぢ)近き親二人を持たりけるが、「かう四十をだに制あるに、ましていと恐ろし」とおぢ騒ぐを、いみじう孝(けう)ある人にて、「遠き所には更に住ませじ、一日(ひとひ)に一度(ひとたび)見ではえあるまじ」とて、密(みそか)に夜々(よるよる)家の内の土を掘りて、その内に屋を建てて、それに籠(こ)めすゑて、行きつつ見る。おほやけにも人にも、うせ隠れたるよしを知らせてあり。などてか、家に入り居たらん人をば、知らでもおはせかし、うたてありける世にこそ。親は上達部などにやありけん、中将など子にて持たりけんは。いと心賢こく、万(よろづ)の事知りたりければ、この中将若けれど、才(ざえ)あり(イきこえあり=三巻本)、いたり賢くして、時の人に思(おぼ)すなりけり。

 唐土(もろこし)の帝(みかど)、この国の帝をいかで謀(はか)りて、この国うち取らむとて、常にこころみ、争事(あらがひごと)をして送り給ひけるに、つやつやとまろに美しげに削(けづ)りたる木の二尺ばかりあるを、「これが本末(もとすゑ)いづかたぞ」と問ひ奉りたるに、すべて知るべきやうなければ、帝思しめし煩(わづら)ひたるに、いとほしくて、親の許に行きて、かうかうの事なんあると言へば、「只早(はや)からん川に立ちながら、横ざまに投げ入れ見んに、かへりて流れん方を、末と記(しる)してつかはせ」と教(をし)ふ。参りて我しり顔にして、「こころみ侍らん」とて、人々具して投げ入れたるに、先にして行く方に印をつけて遣はしたれば、実(まこと)にさなりけり。

 また、二尺ばかりなる蛇(くちなは)の同じやうなるを、「これはいづれか男、女」とて奉れり。また更に人得知らず。例の中将行きて問へば、「二つを並べて、尾の方に細きすばえ(=木の枝)をさし寄せんに、尾働(はたら)かさんを女(め)と知れ」と言ひければ、やがてそれを内裏(だいり)のうちにてさ為(し)ければ、実(まこと)に一つは動かさず、一つは動かしけるに、また印つけて遣はしけり。

 ほど久しうて、七曲(ななわた)にわだかまりたる玉の中通りて、左右に口開きたるが小さきを奉りて、「これに緒(を)通して給はらん、この国に皆し侍ることなり」とて奉りたるに、いみじからん物の上手不用ならん。そこらの上達部より始めて、ありとある人知らずと言ふに、また往きて、かくなんと言へば、「大きなる蟻を二つ捕へて、腰に細き糸をつけ、またそれに今少し太きをつけて、あなたの口に蜜(みつ)(イみち)を塗りて見よ」と言ひければ、さ申して、蟻を入れたりけるに、蜜の香(か)を嗅ぎて、実(まこと)にいと疾う穴のあなたの口に出でにけり。さて、その糸の貫(つらぬ)かれたるを遣はしたりける後(のち)になん、なほ日本(ひのもと)は賢こかりけりとて、後々(のちのち)はさる事もせざりけり。

 この中将をいみじき人に思しめして、「何事(イ何わざ)をし、いかなる位(くらゐ)をか給はるべき」と仰せられければ、「更に官位(つかさくらゐ)をも給はらじ、ただ老いたる父母(ちちはは)の隠れうせて侍るを尋ねて、都に住ますることを許させ給へ」と申しければ、「いみじうやすき事」とて許されにければ、よろづの人の親これを聞きて、喜ぶ事いみじかりけり。中将は、大臣までになさせ給ひてなんありける。

 さてその人の神になりたるにやあらん、この明神の許へ詣でたりける人に、夜現れてのたまひける、

「七曲(ななわた)に曲がれる玉の緒を抜きてありとほしとも(イは)知らずやあるらん

とのたまひける」と、人のかたりし。178


二百二十六 ふるものは

 雪。霰(あられ)。霙(みぞれ)は憎けれど、雪の真白(ましろ)にて混じりたる(イまじりてふる)をかし。雪は檜皮葺(ひはだぶき)いとめでたし。少し消え方(がた)になりたる程、また、いと多うは降らぬが、瓦の目ごとに入りて、黒う真白に見えたる、いとをかし。時雨(しぐれ)。霰は板屋。霜も板屋。庭(イ本 庭の字なし)。(=この段、ほぼ三巻本。盤斎も)185


二百二十七 日は、入日、入りはてぬる山際に(イ山のはに)、光の猶とまりて赤う見ゆるに、うす黄ばみたる雲のたなびきたる(イたなびきわたりたる)、いとあはれなり。 185


二百二十八 月は、有明。東(ひがし)の山の端に、細うて出づるほどあはれなり。186


二百二十九 星は、昂星(すばる)。牽牛(ひこぼし)。明星(みやうじやう)。長庚(ゆふづつ)。流星(よばひぼし)(イすこしをかし)、尾(を)だになからましかば、まして。186


二百三十 雲は、白き。紫。黒き雲、あはれなり(イくろきもをかし)。風吹く折の天雲(あまぐも)。明け離るるほどの黒き雲の、やうやう白くなりゆくもいとをかし。朝にさる色とかや、文にも作りけり(イ作りたなる)。月のいと明き面(おもて)に、薄き雲いとあはれなり。186


二百三十一 さわがしきもの

 走り火。板屋の上にて烏(からす)の斎(とき)の生飯(さば)くふ。十八日清水に籠り合ひたる。暗うなりて、まだ火も点(とも)さぬ程に、外々(ほかほか)より人の来集りたる。まして遠き所、人の国などより家の主(ぬし)の上(のぼ)りたる、いと騒がし。近き程に火出で来ぬと言ふ。されど燃えは付かざりける。物見はてて車のかへり騒ぐほど。187


二百三十二 ないがしろなるもの

 女官どもの髪あげたるすがた。唐絵(からゑ)の革(かは)の帯のうしろ。聖僧(ひじり)の挙動(ふるまひ)。187


二百三十三 ことばなめげなるもの

 宮のめの祭文(さいもん)読む人。舟漕(こ)ぐ者ども。雷鳴(かんなり)の陣(ぢん)の舎人(とねり)。相撲(すまひ)。188


二百三十四 さかしきもの

 今やうの三年子(みとせご)。児(ちご)の祈(いのり)、祓(はらへ)などする女ども。物の具(ぐ)こひ出でて、いのりの物どもつくるに、紙あまたおし重(かさ)ねて、いと鈍(にぶ)き刀(かたな)して切るさま、一重(ひとへ)だに断(た)つべくも見えぬに、さる物の具と成りにければ、おのが口をさへ引きゆがめて押し、切目おほかる物どもしてかけ、竹うち切りなどして、いと神々(かうがう)しうしたてて、うちふるひ、祈る事どもいとさかし。かつは「何の宮のその殿の若君、いみじうおはせしを、かいのごひたるやうに、やめ奉りしかば、禄(ろく)多く賜はりし事、その人々召したりけれど、しるしもなかりければ、今に女をなん召す。御徳(とく)を見ること」など語るも(イかたりをるも)をかし。

 下衆(げす)の家の女あるじ。痴(し)れたるもの、添(そ)ひしもをかし。まことに賢(さか)しき人を、押(を)しなどすべし(イをしへなどすべし)。189


二百三十五 上達部は、春宮大夫(とうぐうのだいぶ)。左右(さう)の大将(だいしやう)。権大納言(ごんだいなごん)。権中納言。宰相中将(さいしやうのちゆうじやう)。三位(さんみ)の中将。東宮権大夫(とうぐうごんのだいぶ)。侍従宰相(じじゆうのさいしやう)。190


二百三十六 君達は、頭弁(とうのべん)。頭中将(とうのちゆうじやう)。権(ごんの)中将。四位(しゐの)少将。蔵人弁(くらうどのべん)。蔵人(くらうどの)少納言。春宮亮(とうぐうのすけ)。蔵人兵衛佐(くらうどのひやうゑのすけ)。192


二百三十七 法師は、律師(りつし)。内供(ないく)。192


二百三十八 女は、内侍(ないし)のすけ。掌侍(ないし)。192


二百三十九 宮仕所は、内(うち)。后宮(こうぐう)。その御腹(おほんはら)の姫君。一品(いつぽん)の宮。斎院(さいゐん)は罪深けれどをかし。ましてこの頃はめでたし。春宮(とうぐう)の御母女御。194


二百四十 ナシ(能因本は「にくきもの、乳母の男以下二十六と同じ」)


二百四十二 身をかへたらん人などはかくやあらんと見ゆるもの

 ただの女房にて候(さぶら)ふ人の、御乳母(めのと)になりたる。唐衣(からぎぬ)も着(き)ず、裳(も)をだに、よういなく(=慶安刊古活字本。能因本は「よういはば」)、白衣(はくぎぬ)にて御前(まへ)に添ひ臥して、御帳(みちやう)のうちを居所(ゐどころ)にして、女房どもを呼びつかひ、局(つぼね)に物言ひやり、文とりつがせなどしてあるさまよ。言ひ尽すべくだにあらず。

 雑色(ざふしき)の蔵人に成りたるめでたし。去年(こぞ)の霜月の臨時(りんじ)の祭に御琴(こと)持たりし人とも見えず。君達に連れてありくは、いづくなりし人ぞとこそおぼゆれ。外よりなりたるなどは、おなじ事なれどさしもおぼえず。194


二百四十三 雪高う降りて、今も猶降るに、五位も四位も、色うるはしう若やかなるが、袍(うへのきぬ)の色いと清らにて、革の帯のかたつきたるを、宿直(とのゐ)姿に引きはこえて、紫の指貫(さしぬき)も雪に映えて濃さ勝りたるを着て、衵(あこめ)の紅(くれなゐ)ならずば、おどろおどろしき山吹を出だして、傘(からかさ)をさしたるに、風のいたく吹きて、横ざまに雪を吹きかくれば、少し傾ぶきて歩みくる、深沓(ふかくつ)半靴(はうくわ)などの際(きは)まで、雪のいと白くかかりたるこそをかしけれ。195


二百四十四 細殿(ほそどの)の遣戸(やりど)いと疾う押し開けたれば、御湯殿(ゆどの)の馬道(めだう)よりおりてくる殿上人の、萎えたる直衣(なほし)、指貫(さしぬき)の、いたくほころびたれば、色々の衣(きぬ)どもの、こぼれ出でたるを、押し入れなどして、北の陣の方ざまに歩み行くに、開(あ)きたる遣戸の前を過ぐとて、纓(えい)をひきこして、顔に塞(ふた)ぎて過ぎぬるもをかし。(=この段ほぼ三巻本、盤斎はあまり変へず)196


二百四十五 ただ過ぎに過ぐるもの

 帆をあげたる舟。人の齢(よはひ)。春夏秋冬。197


二百四十六 ことに人に知られぬもの

 人の女親(めおや)の老いたる。凶会日(くゑにち)。197


二百四十七 五六月の夕方、青き草を細う麗(うるは)しく切りて、赤衣(あかぎぬ)着たる子児(ちご)の、小さき笠を着て、左右(ひだりみぎ)にいと多くもちて行くこそ、すずろにをかしけれ。197


二百四十八 賀茂へ詣づる道に、女どもの、新しき折敷(をしき)のやうなる物を笠にきて、いと多く立てりて、歌をうたひ、起き伏すやうに見えて、ただ何すともなく、後ろざまに行くは、いかなるにかあらん、をかしと見る程に、郭公(ほととぎす)をいとなめく歌ふ声ぞ心憂き。「ほととぎすよ、おれよ、かやつよ、おれなきてぞ、われは田に立つ」と歌ふに、聞きも果てず。いかなりし人か「いたく鳴きてそ」と言ひけん。仲忠(なかだ=宇津保物語の主人公なかただ)が童生(わらはお)ひ、いかで落とす人と「鶯に郭公は劣れる」と言ふ人こそ、いとつらう憎くけれ。鶯は夜鳴かぬいとわろし。すべて夜鳴くものはめでたし。児(ちご)どもぞはめでたからぬ。198


二百四十九 八月晦日(つごもり)がたに、太秦(うづまさ)に詣(まう)づとて見れば、穂(ほ)に出でたる田に、人多くてさわぐ。稲刈(いねか)るなりけり。「早苗(さなへ)とりしか、いつの間に」とはまこと、実(げ)にさいつころ、賀茂に詣づとて見しが、あはれにもなりにけるかな。これは女もまじらず、男の片手に、いと赤き稲の、もとは青きを刈りもちて、刀(かたな)か何にあらん、本(もと)を切るさまのやすげに、めでたき事に、いとせまほしく見ゆるや。いかでさすらん、穂を上にて並み居(を)る、いとをかしう見ゆ。庵(いほり)のさまことなり。199


二百五十 いみじくきたなきもの

 蚰蝓(なめくぢ)。えせ板敷(いたじき)の箒(ははき)。殿上の合子(がふし=食器)。200


二百五十一 せめて恐ろしきもの

 夜鳴る神。近き隣(となり)に盗人(ぬすびと)の入りたる。わが住む所に入りたるは、ただ物もおぼえねば、何とも知らず。(イちかき火と此次にあり)200


二百五十二 たのもしきもの

 心地(ここち)あしき頃、僧あまたして修法(ずほふ)したる。思ふ人の心地あしき頃、まことにたのもしき人の言ひ慰(なぐ)さめ頼めたる。もの恐ろしき折(をり)の親どもの傍(かたは)ら。200


二百五十三 いみじうしたてて婿(むこ)取りたるに、いと程なく住まぬ婿の、さるべき所などにて舅(しうと)に会ひたる、いとほしとや思ふらん。

 ある人の、いみじう時に合ひたる人の婿になりて、一月(つき)もはかばかしうも来(こ)で止(や)みにしかば、すべていみじう言ひ騒わぎ、乳母(めのと)などやうの者は、まがまがしき事ども言ふもあるに、そのかへる年の正月に蔵人になりぬ。「『あさましうかかる中(なか)らひに、いかで』とこそ人は思ひたンめれ」など言ひ扱かふは聞くらんかし。

 六月(みなづき)に、人の八講し給ひし所に、人々集りて聞くに、この蔵人になれる婿の、綾(れう)のうへの袴、蘇芳襲(すはふがさね)黒半臂(くろはんぴ)などいみじう鮮やかにて、忘れにし人の車の鴟(とみ)の尾(を)に、半臂(はんぴ)の緒(を)引き掛けつばかりにて居(ゐ)たりしを、いかに見るらんと、車の人々も、知りたる限りはいとほしがりしを、他人(ことびと)どもも、「つれなく居たりしものかな」など後にも言ひき。なほ男は物のいとほしさ、人の思はん事は知らぬなンめり。201

(ここから四段、能因本になし)

 世の中に猶いと心憂(う)き物は、人ににくまれん事こそあるべけれ。誰(たれ)てふ物ぐるひか、われ人にさ思はれんとは思はん。されど自然(しぜん)に、宮づかへ所にも、親はらからの中にても、思はるる思はれぬがあるぞ、いと侘(わび)しきや。よき人の御事はさらなり、下衆などのほども、親などのかなしうする子は、目立ち見立てられて、いたはしうこそおぼゆれ。見るかひあるはことわり、いかが思はざらんと覚(おぼ)ゆ。ことなる事なきは、またこれをかなしと思ふらんは、親なればぞかしとあはれなり。親にも君にも、すべてうち語らふ人にも、人に思はれんばかりめでたき事はあらじ。202

 男こそ猶いと有りがたく、怪(あや)しき心地したる物はあれ。いと清(きよ)げなる人をすてて、憎げなる人をもたるもあやしかし。おほやけ所に入り立ちする男(をとこ)、家の子などは、あるが中に、よからんをこそは選(え)りて思ひ給はめ。及ぶまじからん際(きは)をだに、めでたしと思はんを、死ぬばかりも思ひ掛かれかし。人のむすめ、まだ見ぬ人などをも、よしと聞くをこそは、いかでとも思ふなれ。かつ女の目にも、わろしと思ふを思ふは、いかなる事にかあらん。かたちいとよく、心もをかしき人の、手もよう書き、歌をもあはれに詠(よ)みておこせなどするを、返事はさかしらにうちする物から、寄りつかず、らうたげに打ち泣きて居(ゐ)たるを、見捨てて往(い)きなどするは、あさましうおほやけはらだちて、眷属(けんぞく)の心地も心憂く見ゆべけれど、身のうへにては、つゆ心ぐるしきを思ひ知らぬよ。203

 万(よろづ)の事よりも、情ある事は、男はさらなり、女もこそめでたく思(おぼ)ゆれ。なげの言葉なれど、せちに心にふかく入らねど、いとほしき事をいとほしとも、あはれなるをば実(げ)にいかに思ふらんなど言ひけるを伝へて聞きたるは、さし向かひて言ふよりもうれし。いかでこの人に、思ひ知りけりとも見えにしがなと、常にこそおぼゆれ。必ず思ふべき人、訪(と)ふべき人は、さるべき事なれば、取りわかれしもせず。さもあるまじき人のさし答(いら)へをも、心易(やす)くしたるは嬉しきわざなり。いと易き事なれど、更にえあらぬ事ぞかし。大かた心よき人の、実(まこと)にかどなからぬは、男も女もありがたき事なンめり。またさる人も多かるべし。205

 人のうへ言ふを、腹立つ人こそ、いとわりなけれ。いかでかはあらん、我身をさし置きて、さばかりもどかしく、言はまほしき物やはある。されどけしからぬやうにもあり。またおのづから聞きつきて恨(うら)みもぞする、あいなし。また思ひ放(はな)つまじきあたりは、いとほしなど思ひ解けば、念(ねん)じて言はぬをや。さだになくば、うち出(い)で笑ひもしつべし。206


三百十二 人の顔に、とりわきてよしと見ゆる所は、度(たび)ごとに見れども、あなをかし、珍(めづら)しとこそ覚ゆれ。絵(ゑ)などは数多(あまた)たび見れば、目も立たずかし。近(ちか)う立てる屏風の絵などは、いとめでたけれども見もやられず。人の貌(かたち)はをかしうこそあれ。憎げなる調度(てうど)の中にも、一つよき所のまもらるるよ。見にくきもさこそはあらめと思ふこそわびしけれ。(=「いみじうしたてて」からこの段まで三巻本では一続きになつてゐる。テキストも三巻本系)207


二百五十四 うれしきもの

 まだ見ぬ物語の多かる。また一つを見て、いみじうゆかしう覚ゆる物語の、二つ見付けたる。心劣りするやうもありかし。

 人の破(や)り捨てたる文を見るに、同じ続き数多(あまた)見つけたる。

 いかならんと、夢を見て、恐ろしと胸つぶるるに、事にもあらず合はせなどしたる、いとうれし。

 よき人の御前に人々あまた候ふ折に、昔ありける事にもあれ、いま聞しめし世に言ひける事にもあれ、語らせ給ふを、われに御覧じ合はせて(=私と目を合はせて)のたまはせ、言ひきかせ給へる、いとうれし。

 遠き所は更なり、同じ都の内ながら、身にやんごとなく思ふ人の悩むを聞きて、いかにいかにと覚束(おぼつか)なく嘆くに、おこたりたる消息(せうそこ)得たるもうれし。

 思ふ人の、人にも褒められ、やんごとなき人などの、口惜しからぬものに思(おぼ)しのたまふ。

 物のをり、もしは、人と言ひ交はしたる歌の、聞こえてほめられ、打聞(うちぎき)などに褒めらるる、自(みづから)らの上には、まだ知らぬ事なれど、なほ思ひやらるるよ。

 いたう打ち解けたらぬ人の言ひたる古き事の知らぬを、聞き出でたるもうれし。後に物の中などにて、見つけたるはをかしう、「ただこれ(イかう)にこそありけれ」と、かの言ひたりし人ぞをかしき。

 陸奥紙(みちのくにがみ)、白き色紙(しきし)、ただのも、白う清きは得たるもうれし。

 恥づかしき人の、歌の本末(もとすゑ)問ひたるに、ふと覚えたる、我ながらうれし。常には覚ゆる事も、また人の問ふには、清く忘れてやみぬる折ぞ多かる。

 頓(とみ)に物求むるに、見出でたる(イいひ出たる)。只今見るべき文などを、求め失ひて、万(よろづ)の物を返すがへす見たるに、捜し出でたる、いとうれし。

 物合はせ、何くれと挑(いど)むことに勝ちたる、いかでか嬉しからざらん。また、いみじう我はと思ひてしたりがほなる人、はかり得たる。女どち(イなど)よりも、男はまさりてうれし。これが答(たふ=仕返し)は必ずせんずらんと常に心づかひせらるるもをかしきに、いとつれなく、何とも思ひたらぬやうにて、たゆめ過すもをかし。

 にくき者のあしきめ見るも、罪は得(う)らんと思ひながらうれし。

 指櫛(さしぐし)結ばせて、をかしげなるも又うれし。

 <日ごろ月ごろなやみたるがおこたりたるも、いとうれし。>(=慶安刊古活字本もヌケ) 思ふ人は我身よりも勝りてうれし。

 御前に人々所もなく居たるに、今のぼりたれば、少し遠き柱(はしら)もとなどに居たるを、御覧じつけて、「こち来」と仰せられたれば、道あけて、近く召し入れたるこそ嬉しけれ。208


二百五十五 御前に人々あまた物仰せらるる序(ついで)などにも、「世の中の腹だたしう、むつかしう、片時あるべき心地もせで、いづちもいづちも往(い)き失せなばやと思ふに、ただの紙のいと白う清らなる、よき筆、白き色紙、陸奥紙(みちのくにがみ)など得つれば、かくても暫時(しばし)ありぬべかりけりとなん覚え侍る。また、高麗縁(かうらいべり)の畳(たたみ)の筵(むしろ)、青うこまかに、縁(へり)の紋あざやかに、黒う白う見えたる、引き広げて見れば、何か猶さらにこの世は得思ひ放つまじと、命さへ惜しくなんなる」と申せば、「いみじくはかなき事も慰むなるかな。姥捨山(おばすてやま)の月は、いかなる人の見るにか」と笑はせ給ふ。さぶらふ人も、「いみじくやすき息災(そくさい)の祈りかな」と言ふ。

 さて後(のち)に程経て、すずろなる事を思ひて、里にある頃、めでたき紙を二十包みに包みて給はせたり。仰事(おほせごと)には、「疾く参れ」などのたまはせて、「これは聞しめし置きたる事ありしかばなん。わろかンめれば、寿命経(じゆみやうきやう)もえ書くまじげにこそ」と仰せられたる、いとをかし。無下(むげ)に思ひ忘れたりつることを、思(おぼ)しおかせ給へりけるは、猶ただ人にてだにをかし、ましておろかならぬ事にぞあるや。心も乱れて、啓すべき方もなければ、ただ、

「かけまくもかしこきかみのしるしには鶴のよはひになりぬべきかな

あまりにや」と啓せさせ給へとてまゐらせつ。台盤所(だいばんどころ)の雑仕(ざうし)ぞ、御使には来たる。青き単衣(ひとへ)などぞ取らせて。

 まことに、この紙を草紙に作りてもてさわぐに、むつかしき事も紛(まぎ)るる心地して、をかしう心のうちもおぼゆ。

 二日ばかりありて、赤衣(あかぎぬ)着たる男の、畳を持て来て「これ」と言ふ。「あれは誰ぞ、顕(あらは)なり」など物はしたなう言へば、さし置きて往ぬ。「いづこよりぞ」と問はすれば、「まかりにけり」とて取り入れたれば、殊更に御座(ござ)といふ畳のさまにて、高麗(かうらい)などいと清(きよ)らなり。心の中(うち)にはさにやあらんと思へど、猶おぼつかなきに、人ども出だし求めさすれど、失せにけり。怪しがり笑へど、使(つかひ)のなければ言ふかひなし。所違(ところたが)へなどならば、おのづからもまた言ひに来なん。宮のほとりに案内(あない)しに参らせまほしけれど、なほ誰(たれ)すずろにさるわざはせん、仰事(おほせごと)なめりといみじうをかし。

 二日ばかり音(おと)もせねば、疑(うたが)ひもなく、左京の君の許に、「かかる事なんある。さる事や気色見給ひし。忍びて有様のたまひて、さる事見えずば、かく申したりとも、なも(イち=三巻能因本とも)らし給ひそ」と言ひ遣りたるに、「いみじう隠させ給ひし事なり。ゆめゆめまろが聞こえたるとなく、後にも」とあれば、「さればよ」と思ひしもしるくをかしくて、文書きて、また密(みそかに)に御前の高欄(かうらん)におかせしものは、惑ひしほどに、やがてかき落として、御階(みはし)のもとに落ちにけり。212


二百五十六 関白殿、二月(きさらぎ)十日のほどに、法興院(ほこゐん)の積善寺(しやくぜんじ)といふ御堂(みだう)にて、一切経(いつさいきやう)供養(くやう)せさせ給ふ。女院、宮の御前もおはしますべければ、二月朔日のほどに、二条の宮へ入らせ給ふ。夜更けてねぶたくなりにしかば、何事も見入れず。翌朝(つとめて)、日のうららかにさし出でたる程に起きたれば、いと白うあたらしうをかしげに作りたるに、御簾(みす)より始めて、昨日(きのふ)かけたるなンめり。御しつらひ、獅子、狛犬など、いつのほどにや入り居けんとぞをかしき。桜の一丈(ぢやう)ばかりにて、いみじう咲きたるやうにて、御階(みはし)のもとにあれば、いと疾(と)う咲きたるかな、梅こそ只今盛なンめれと見ゆるは、作りたるなンめり。すべて花の匂ひなど、咲きたるに劣らず、いかにうるさかりけん。雨降らば、萎(しぼ)みなんかしと見るぞ口惜しき。小家(こいへ)などいふ物の多かりける所を、今作らせ給へれば、木立(こだち)などの見所(みどころ)あるは、いまだなし。ただ宮のさまぞ、けぢかくをかしげなる。

 殿渡らせ給へり。青鈍(あをにび)の固紋(かたもん)の御指貫(さしぬき)、桜の直衣(なほし)に、紅の御衣(おんぞ)三つばかり、ただ直衣(なほし)にかさねてぞ奉りたる。御前より初めて、紅梅(こうばい)の濃きうすき織物、固紋(かたもん)、立紋(りうもん)など、あるかぎり着たれば、ただひかり満ちて、唐衣(からぎぬ)は萌黄(もえぎ)、柳、紅梅などもあり。

 御前に居させ給ひて、物など聞こえさせ給ふ。御答(いら)へのあらまほしさを、里人に僅(わづ)かにのぞかせばやと見奉る。女房どもを御覧じ渡して、「宮に何事を思(おぼ)しめすらん。ここらめでたき人々を並(な)べすゑて御覧ずるこそ、いと羨(うらや)ましけれ。一人わろき人なしや、これ家々の女(むすめ)ぞかし。あはれなり。よく顧(かへり)みてこそ候らはせ給はめ。さてもこの宮の御心をば、いかに知り奉りて集まり参り給へるぞ。いかにいやしく物惜しみせさせ給ふ宮とて、われは生(む)まれさせ給ひしよりいみじう仕(つかうまつ)れど、まだおろしの御衣(ぞ)一つ給はぬぞ。何か後言(しりうごと)には聞こえん」などのたまふがをかしきに、みな人々笑ひぬ。「まことぞ、痴(をこ)なりとてかく笑ひいまするが恥づかし」などのたまはする程に、内裏(うち)より御使(つかひ)にて、式部丞(じよう)某(なにがし)まゐれり。

 御文は、大納言殿取り(イより=慶安刊本)給ひて、殿に奉らせ給へば、ひき解きて、「いとゆかしき文かな。許され侍らば開けて見侍らん」とのたまはすれば怪(あや)しうとおぼいためり。「辱(かたじけな)くもあり」とて奉らせ給へば、取らせ給ひても、拡げさせ給ふやうにもあらず、もてなさせ給ふ、御用意(ようい)などぞありがたき。隅の間より(イみすのうちより=三巻本)、女房褥(しとね)さし出でて、三四人御几帳(きちやう)のもとに居たり。「あなたにまかりて、禄(ろく)のこと物し侍らん」とて立たせ給ひぬる後に、御文御覧ず。御返しは紅梅(こうばい)の紙(イうすやう=三巻本)に書かせ給ふが、御衣の同じ色に匂ひたる、なほ斯(か)うしも推し量り参らする人はなくやあらんとぞ口惜しき。今日は殊更にとて、殿の御方より禄は出ださせ給ふ。女の装束(さうぞく)に紅梅の細長(ほそなが)添へたり。肴(さかな)などあれば、酔(ゑ)はさまほしけれど、「今日はいみじき事の行幸に、あが君許させ給へ」と大納言殿にも申して立ちぬ。(221)

 君達などいみじう化粧(けさう)じ給ひて、紅梅の御衣(ぞ)も劣らじと着給へるに、三の御前は御匣(みくしげ)殿なり。中の姫君よりも大(おほき)に見え給ひて、うへなど聞こえんにぞよかンめる。

 うへも渡らせ給へり。御几帳(きちやう)引き寄せて、新しく参りたる人々には見え給はねば、いぶせき心地す。さし集(つど)ひて、かの日の装束(さうぞく)、扇などの事を言ひ合はするもあり。また挑(いど)み交はして、「まろは何か、ただあらんに任せてを」など言ひて、「例の君」など憎まる。夜さりまかンづる人も多かり。かかる事にまかンづれば、え止(とど)めさせ給はず。

 うへ日々(ひび)に渡り、夜もおはします。君達などおはすれば、御前人少なく候はねばいとよし。内裏(うち)の御使(おつかひ)日々に参る。御前の桜、色はまさらで、日などにあたりて、萎(しぼ)み、悪(わる)うなるだに侘しきに、雨の夜降りたる翌朝(つとめて)、いみじうむとくなり。いと疾く起きて、「泣きて別れん顔に、心劣りこそすれ」と言ふを聞かせ給ひて、「げに雨のけはひしつるぞかし、いかならん」とて驚ろかせ給ふに、殿の御方より侍(さぶらひ)の者ども、下衆(げす)など来て、数多(あまた)花のもとにただ寄りによりて、引き倒し取りて、「密(みそか)に往きて、まだ暗からんに取れとこそ仰せられつれ、明け過ぎにけり、不便(ふびん)なるわざかな、疾くとく」と倒し取るに、いとをかしくて、「言はばいはなん」と、兼澄が事を思ひたるにやとも、よき人ならば言はまほしけれど、「かの花盗む人は誰(たれ)ぞ、あしかンめり」と言へば、笑ひて、いとど逃げて引きもていぬ。なほ殿の御心はをかしうおはすかし。茎(くき)どもに(=花が)濡れまろがれつきて、いかに見るかひなからましと見て入りぬ。

 掃殿寮(かもんづかさ)まゐりて御格子(みかうし)まゐり、主殿(とのもり)の女官(によくわん)御清めまゐりはてて、起きさせ給へるに、花のなければ、「あなあさまし。かの花はいづち往にける」と仰せらる。「あかつき『盗人(ぬすびと)あり』と言ふなりつるは、なほ枝などを少し折るにやとこそ聞きつれ。誰(た)がしつるぞ。見つや」と仰せらる。「さも侍らず。いまだ暗くて、よくも見侍らざりつるを、白みたるものの侍れば、花を折るにやと、うしろめたさに申し侍りつる」と申す。「さりともかくはいかでか取らん。殿の隠させ給へるなンめり」とて笑はせ給へば、「いで、よも侍らじ。春風の為(し)て侍りなん」と啓するを、「かく言はんとて隠すなりけり。盗みにはあらで、ふりにこそふるなりつれ」と仰せらるるも、珍しき事ならねど、いみじうめでたき。

 殿おはしませば、寝くたれの朝顔も、時ならずや御覧ぜんと引き入らる。おはしますままに、「かの花うせにけるは、いかにかくは盗ませしぞ、いぎたなかりける女房たちかな。知らざりけるよ」と驚ろかせ給へば、「されど『我よりさきに』とこそ思ひて侍るめりつれ」と忍びやかに言ふを、いと疾く聞きつけさせ給ひて、「さ思ひつる事ぞ、世に他人(ことびと)いでて見付けじ、宰相とそことの程ならんと推し量りつ」とて、いみじう笑はせ給ふ。「さりげなる物を、少納言は春風(かぜ)に負(おほ)せける」と宮の御前にうち笑ませ給へる、めでたし。「虚言(そらごと)をおほせ侍るなり。今は山田も作るらん」とうち誦(ずん)ぜさせ給へるも、いとなまめきをかし。「さてもねたく見つけられにけるかな。さばかり誡(いまし)めつるものを、人の所に、かかるしれもののあるこそ」とのたまはす。「春風は空にいとをかしうも言ふかな」と誦ぜさせ給ふ。「ただ言(こと)には、うるさく思ひよりて侍りつかし。今朝(けさ)のさまいかに侍らまし」とて笑はせ給ふを、小若君「されどそれはいと疾く見て、『雨に濡れたりなど面(おもて)ぶせなり』と言ひ侍りつ」と申し給へば、いみじうねたがらせ給ふもをかし。

 さて八日九日の程にまかンづるを、「今少し近うなして」など仰せらるれど、出でぬ。いみじう常よりも長閑(のどか)に照りたる昼つかた、「花の心開けたりや、いかが言ふ」とのたまはせたれば、「秋はまだしく侍れど、よにこの度(たび=ここのたび)なんのぼる心地し侍る」など聞こえさせつ。

 出でさせ(=二条の宮へ)給ひし夜(よ)、車の次第もなく、まづまづとのり騒ぐが憎ければ、さるべき人三人(みたり)と、「猶この車に乗るさまのいとさわがしく、祭の帰(かへ)さなどのやうに、倒(たふ)れぬべく惑ふいと見ぐるし。たださはれ、乗るべき車なくてえ参らずば、おのづから聞しめしつけて賜はせてん」など笑ひ合ひて立てる前より、押し凝(こ)りて、惑ひ乗り果てて出でて、「かうか」と言ふに、「まだここに」と答(いら)ふれば、宮司(みやづかさ)寄り来て、「誰々かおはする」と問ひ聞きて、「いと怪しかりける事かな。今は皆乗りぬらんとこそ思ひつれ。こはなどてかくは遅れさせ給へる。今は得選(とくせん)を乗せんとしつるに。めづらかなるや」など驚きて寄せさすれば、「さはまづその御志(こころざし)ありつらん人を乗せ給ひて、次にも」と言ふ声聞き付けて「けしからず腹ぎたなくおはしけり」など言へば、乗りぬ。その次には、真(まこと)に御厨子(みづし)が車にあれば、火もいと暗きを、笑ひて、二条の宮に参りつきたり。

 御輿(みこし)は疾く入(い)らせ給ひて、皆しつらひ居させ給ひけり。「ここに呼べ」と仰せられければ、右京(イ左京)小左近(イ小弐右近)などいふ若き人々、参る人ごとに見れど、なかりけり。降るるに従ひ、四人(よたり)づつ御前に参り集ひて候ふに、「いかなるぞ」と仰せられけるも知らず、ある限り降り果ててぞ、辛うじて見付けられて、「かばかり仰せらるるには、などかく遅く」とて率(ひき)ゐて参るに、見れば、いつの間(ま)に、かうは年頃の住居(すまひ)のさまに、おはしましつきたるにかとをかし。「いかなれば、かう何かと尋ぬばかりは見えざりつるぞ」と仰せらるるに、とかくも申さねば、諸共に乗りたる人、「いとわりなし。最果(さいは)ての車に侍らん人は、いかでか疾くは参り侍らん。これもほとほとえ乗るまじく侍りつるを、御厨子(みづし)がいとほしがりて、ゆづり侍りつるなり。暗う侍りつる事こそ、侘びしう侍りつれ」と笑ふわらふ啓するに、「行事するもののいとあやしきなり。またなどかは。心知らざらん者こそつつまめ、右衛門(うゑもん)などは言へかし」など仰せらる。「されどいかでか走りさき立ち侍らん」など言ふも、かたへの人、憎しと聞くらんと聞こゆ。「さまあしうて、かく乗りたらんも賢(かし)こかるべき事かは。定めたらん様の、やんごとなからんこそよからめ」と物しげに思し召したり。「降り侍るほどの待遠に、苦しきによりてにや」とぞ申しなほす。

巻十一

 御経のことに、明日(あす)渡らせおはしまさんとて、今宵参りたり。南院(みなみのいん)の北面(おもて)にさしのぞきたれば、高坏(たかつき)どもに火をともして、二人(ふたり)三人(みたり)四人(よたり)、さるべきどち、屏風引き隔てつるもあり、几帳(きちやう)中に隔てたるもあり。また、さらでも集まり居て、衣(きぬ)ども閉ぢ重ね、裳(も)の腰さし、化粧(けさう)ずるさまは、更にも言はず、髪なンどいふものは、明日より後は有りがたげにぞ見ゆる。「寅の時になん渡らせ給へるなり。などか今まで参り給はざりつる。扇もたせて、尋ね聞こゆる人ありつ」など告ぐ。

 「まて、実(まこと)に寅の時か」と装束(さうぞ)き立ちてあるに、明け過ぎ、日もさし出でぬ。西の対の唐廂(からびさし)になん、さし寄せて乗るべきとて、あるかぎり渡殿(わたどの)へ行く程に、まだうひうひしき程なる今参(いままゐり)どもは、いと慎(つつ)ましげなるに、西の対に殿住ませ給へば、宮にもそこにおはしまして、まづ女房車に乗せさせ給ふを御覧ずとて、御簾(みす)の中(うち)に、宮、淑景舎(しげいしや)、三四の君、殿のうへ、その御弟三所(みところ)、立ち並(な)みておはします。

 車の左右(ひだりみぎ)に、大納言、三位中将二所して、簾(すだれ)うちあげ、下簾(したすだれ)引き上げて乗せ給ふ。皆うち群れてだにあらば、隠れ所やあらん。四人(よたり)づつ書立(かきたて)に従ひて、それそれと呼び立てて、乗せられ奉り、歩み行く心地、いみじう実(まこと)にあさましう、顕証(けそう)なりとも世の常なり。御簾(みす)のうちに、そこらの御目どもの中に、宮の御前の見苦しと御覧ぜんは、更に侘しきことかぎりなし。身より汗のあゆれば、繕(つくろ)ひ立てたる髪なども上がりやすらんとおぼゆ。辛うじて過ぎたれば、車のもとに、いみじう恥づかしげに清げなる御さまどもして、うち笑みて見給ふも現(うつつ)ならず。されど倒(たふ)れず、そこまでは往き着きぬるこそ、かしこき顔もなきかとおぼゆれど、皆乗り果てぬれば、引き出でて、二条の大路に榻(しぢ)立てて、物見車のやうにて立ち並べたる、いとをかし。人もさ見るらんかしと、心ときめきせらる。四位五位六位など、いみじう多う出で入り、車のもとに来て、つくろひ、もの言ひなどす。

 まづ院の御迎へに、殿を始め奉りて、殿上と地下(ぢげ)と皆参りぬ。それ渡らせ給ひて後、宮は出でさせ給ふべしとあれば、いと心もとなしと思ふほどに、日さしあがりてぞおはします。御車ごめに十五、四つは尼車(あまぐるま)、一の御車は唐(から)の車なり。それに続きて尼の車、後口(しりぐち)より水晶(すいさう)の数珠(ずず)、薄墨の袈裟衣(けさぎぬ)(イころも)などいみじくて、簾(すだれ)は上げず。下簾(したすだれ)も薄色の裾(すそ)少し濃き。次にただの女房の十(とを)、桜の唐衣(からぎぬ)、薄色の裳、紅をおしわたし、固織(かとり)の表着(うはぎ)ども、いみじうなまめかし。日はいとうららかなれど、空は浅緑に霞み渡るに、女房の装束(さうぞく)の匂ひ合ひて、いみじき織物の色々の唐衣(からぎぬ)などよりも、なまめかしう、をかしき事限りなし。

 関白殿、その御次(つぎ)の殿ばら、おはする限りもてかしづき奉らせ給ふ、いみじうめでたし。これら見奉り騒ぐ、この車どもの二十立ち並べたるも、またをかしと見ゆらんかし。

 いつしか出でさせ給はばなど、待ち聞こえさするに、いかならんと心もとなく思ふに、辛うじて、采女(うねめ)八人馬に乗せて引き出づめり。青裾濃(あをすそご)の裳、裙帯(くたい)、領巾(ひれ)などの風に吹きやられたる、いとをかし。豊前(ぶぜん)といふ采女は、くすし(イ典薬頭)重雅が知る人なり。葡萄染(えびぞめ)の織物の指貫(さしぬき)を着たれば、「重雅は色許されにけり」と山の井の大納言は笑ひ給ひて、皆乗り続きて立てるに、今ぞ御輿(みこし)出でさせ給ふ。めでたしと見え奉りつる御有様に、これは比ぶべからざりけり。

 朝日はなばなとさし上がる程に、木の葉のいと花やかに輝きて、御輿の帷子(かたびら)の色艶(いろつや)などさへぞいみじき。御綱(つな)張りて出でさせ給ふ。御輿の帷子(かたびら)のうちゆるぎたる程、実(まこと)に「頭の毛」など人の言ふは更に虚言(そらごと)ならず。さて後に髪あしからん人もかこちつべし。あさましう、いつくしう、猶いかで、かかる御前に馴れ仕らんと、わが身もかしこう覚ゆる。御輿過ぎさせ給ふほど、車の榻(しぢ)ども、人給(ひとだまひ)にかき下ろしたりつる、また牛ども掛けて、御輿の後(しり)に続きたる心地のめでたう興あるありさま、言ふ方なし。

 おはしまし着きたれば、大門(だいもん)のもとに高麗(こま)唐土(もろこし)の楽(がく)して、獅子、狛犬、踊(をど)り舞ひ、笙(そう)の音、鼓(づづみ)の声に物もおぼえず。こはいづくの仏の御国(みくに)などに来にけるにかあらんと、空に響きのぼるやうにおぼゆ。内に入りぬれば、いろいろの錦のあげばりに、御簾(みす)いと青くてかけ渡し、屏幔(へいまん)など引きたるほど、なべて惟にこの世とおぼえず。御桟敷(さじき)にさし寄せたれば、またこの殿ばら立ち給ひて、「疾く降りよ」とのたまふ。乗りつる所だにありつるを、いま少しあかう顕証(けしよう)なるに、大納言殿、いと物々しく清げにて、御下襲(したがさね)の裾(しり)いと長く所せげにて、簾(すだれ)うち上げて、「はや」とのたまふ。つくろひ添へたる髪も、唐衣(からぎぬ)の中にてふくだみ、あやしうなりたらん。色の黒さ赤ささへ見分かれぬべき程なるが、いと侘びしければ、ふとも得降りず。「まづ後(しり)なるこそは」など言ふ程も、それも同じ心にや、「退(しりぞ)かせ給へ、かたじけなし」など言ふ。「恥ぢ給ふかな」と笑ひて、立ちかへり、辛うじて降りぬれば、寄りおはして、「『むねたかなどに見せで、隠しておろせ』と宮の仰せらるれば来たるに、思ひぐまなき」とて、引きおろして率(ゐ)て参り給ふ。さ聞こえさせ給ひつらんと思ふもかたじけなし。(240)

 参りたれば、初め降りける人どもの、物の見えぬべき端(はし)に、八人ばかり出で居にけり。一尺と二尺ばかりの高さの長押(なげし)の上におはします。「ここに立ち隠して、率て参りたり」と申し給へば、「いづら」とて几帳(きちやう)のこなたに出でさせ給へり。まだ唐(から)の御衣(おんぞ)も奉りながらおはしますぞいみじき。紅の御衣よろしからんや、中に唐綾(からあや)の柳の御衣、葡萄染(えびぞめ)の五重(いつえ)の御衣に、赤色の唐の御衣、地摺(ぢずり)の唐の羅(うすもの)に、象眼(ざうがん)重ねたる御裳など奉りたり。織物の色、更になべて似るべきやうなし。

 「我をばいかが見る」と仰せらる。「いみじうなん候ひつる」なども、言に出でては世の常にのみこそ。「久しうやありつる。それは殿の大夫(たいふ=道長)の、院の御供に着て人に見えぬるおなじ下襲(したがさね)ながら、宮の御供にあらん、わろしと人思ひなんとて、殊に下襲(したがさね)縫はせ給ひけるほどに、遅きなりけり。いと好き給へり」などとうち笑はせ給へる、いとあきらかに晴れたる所は、いま少しけざやかにめでたう、御額(ひたひ)あげさせ給へる釵子(さいし)に、御分目(わけめ)の御髪(みぐし)の聊(いささ)か寄りて、著(しる)く見えさせ給ふなどさへぞ、聞こえんかたなき。三尺の御几帳(きちやう)一双(ひとよろひ)をさし違(ちが)へて、こなたの隔(へだて)にはして、その後ろには、畳一枚(ひとひら)を、長(なが)さまに縁(へり)をして(=慶安刊古活字本)、長押の上に敷きて、中納言の君といふは、殿の御伯父の兵衛督(ひやうゑのかみ)忠君(ただきみ)と聞こえけるが御女(むすめ)、宰相の君とは、富小路(とみのこうぢ)の左大臣の御孫、それ二人ぞ上にゐて見え給ふ。御覧じわたして、「宰相はあなたに居て、うへ人どもの居たる所、往きて見よ」と仰せらるるに、心得て、「ここに三人いとよく見侍りぬべし」と申せば、「さば」とて召し上げさせ給へば、しもに居たる人々、「殿上許さるる内舎人(うどねり)なンめりと笑はせんと思へるか」と言へば、「馬副(むまさへ)のほどぞ」など言へば、そこに入り居て見るは、いとおもだたし。かかる事などを自(みづか)ら言ふは、吹き語りにもあり、また君の御ためにも軽々しう、「かばかりの人をさへ思しけん」など、おのづから物しり、世の中もどきなどする人は、あいなく畏(かしこ)き御事にかかりて、かたじけなけれど、あなかたじけなき事などは、またいかがは。真(まこと)に身の程過ぎたる事もありぬべし。

 院の御桟敷、所々の桟敷ども見渡したる、めでたし。殿はまづ院の御桟敷に参り給ひて、暫時(しばし)ありてここに参り給へり。大納言二所、三位中将は陣近う参りけるままにて、調度を負ひて、いとつきづきしうをかしうておはす。殿上人、四位五位、こちたううち連れて、御供に候ひ並み居たり。入らせ給ひて見奉らせ給ふに、女房あるかぎり、裳、唐衣(からぎぬ)、御匣殿(みくしげどの)まで着給へり。殿のうへは、裳のうへに小袿(こうちぎ)をぞ着給へる。「絵に書きたるやうなる御さまどもかな。今以来(いらへ)今日はと申し給ひそ。三四の君の御裳ぬがせ給へ。この中の主君には、御前こそおはしませ。御桟敷の前に陣(ぢん)をすゑさせ給へるは、おぼろげのことか」とてうち泣かせ給ふ。実(げ)にと、見る人も涙ぐましきに、赤色桜の五重の唐衣(からぎぬ)を着たるを御覧じて、「法服(ほふふく)ひとくだり足らざりつるを、俄に惑ひしつるに、これをこそかり申すべかりけれ。さらばもしまた、さやうの物を切り調(しら)めたるに」とのたまはするに、また笑ひぬ。大納言殿すこし退(しぞ)き居給へるが、聞き給ひて、「清僧都のにやあらん」とのたまふ。一言としてをかしからぬ事ぞなきや。

 僧都の君、赤色の羅(うすもの)の御衣(ころも)、紫の袈裟(けさ)、いと薄き色の御衣(ぞ)ども、指貫(さしぬき)着たまひて、菩薩(ぼさち)の御(おほん)やうにて、女房にまじりありき給ふもいとをかし。「僧綱(さうがう)の中に、威儀(ゐぎ)具足(ぐそく)してもおはしまさで、見ぐるしう女房の中に」など笑ふ。

 父の大納言殿、御前より松君率(ゐ)て奉る。葡萄染(えびぞめ)の織物の直衣(なほし)、濃き綾(あや)の打ちたる、紅梅の織物など着給へり。例の四位五位いと多かり。御桟敷に女房の中に入れ奉る。何事のあやまりにか、泣きののしり給ふさへいとはえばえし。

 事始りて、一切経を、蓮の花のあかきに、一花(ひとはな)づつに入れて、僧俗、上達部、殿上人、地下、六位、何くれまで持てわたる、いみじう尊(たふと)し。大行道(だいぎやうだう)導師(だうし)まゐり、回向(ゑかう)しばし待ちて舞などする、日ぐらし見るに、目もたゆく苦しう。うちの御使に五位の蔵人まゐりたり。御桟敷の前に胡床(あぐら)立てて居たるなど、実(げ)にぞ猶めでたき。夜さりつかた、式部丞(しきぶのじよう)則理(のりまさ)まゐりたり。「やがて夜さり入らせ給ふべし。『御供に候へ』と、宣旨侍りつ」とて帰りも参らず。宮は「なほ帰りて後に」とのたまはすれども、また蔵人の弁まゐりて、殿にも御消息(せうそこ)あれば、ただ「仰せのまま」とて、入らせ給ひなどす(イなんとす)。

 院の御桟敷より、「千賀(ちか)の塩竈(しほがま)」などのやうの御消息(せうそこ)、をかしき物など持(も)て参り通ひたるなどもめでたし。事はてて院還(かへ)らせ給ふ。院司、上達部など、このたびは片方(かたへ)ぞつかう奉り給ひける。宮は内裏(うち)へ入らせ給ひぬるも知らず、女房の従者(ずざ)どもは、「二条の宮にぞおはしまさん」とて、そこに皆往き居て、待てど待てど見えぬ程に、夜いたう更(ふ)けぬ。内裏(うち)には宿直物(とのゐもの)持て来たらんと待つに、きよく見えず。あざやかなる衣(きぬ)の、身にもつかぬを着て、寒きままに、にくみ腹立てど甲斐なし。翌朝(つとめて)来たるを、「いかにかく心なきぞ」など言へば、となふる如(ごと)もさ言はれたり。

 またの日雨降りたるを、殿は「これになん、わが宿世(すくせ)は見え侍りぬる。いかが御覧ずる」と聞こえさせ給ふ。御心おちゐ(イおごりも)ことわりなり。217


二百五十七 たふときもの

 九条錫杖(くでうしやくじやう)。念仏の回向(ゑかう)。252


二百五十八 歌は、杉立てる門(かど)。神楽歌(かぐらうた)もをかし。今様(いまやう)は長くて曲(くせ)づきたる。風俗(ふぞく)よく歌ひたる。


二百五十九 指貫は、紫の濃き。萌黄(もえぎ)。夏は二藍(ふたあゐ)。いと暑き頃、夏虫の色したるも凉しげなり。


二百六十 狩衣は、香染(かうぞめ)の薄き。白き。袱紗(ふくさ)の赤色。松の葉色したる。青葉。桜。柳。また、青き藤(ふぢ)。男は何色のきぬも。(=この段三巻本)


二百六十一 単衣は、白き。昼(ひ)の装束(さうぞく)の紅(くれなゐ)の単衣衵(ひとへあこめ)など、かりそめに着たるはよし。されど、なほ色黄ばみたる単衣(ひとへ)など着たるは、いと心づきなし。練色(ねりいろ)の衣(きぬ)も着たれど、なほ単衣(ひとへ)は白うてぞ、男も女も万(よろづ)の事まさりてこそ。


二百六十二 わろきものは、言葉の文字あやしくつかひたるこそあれ。ただ文字一つに、あやしくも、あてにも、いやしくもなるは、いかなるにかあらん。さるは、かう思ふ人、万(よろづ)の事に勝(すぐ)れても、えあらじかし。いづれを善き悪しきとは知るにかあらん。さりとも人を知らじ、たださ打ち覚ゆるも言ふめり。

 難義(なんぎ)の事を言ひて、「その事させんとす」と「言はんといふ」を、「と」文字を失ひて、ただ「言はんずる」「里へ出でんずる」など言へば、やがていとわろし。まして文を書きては、言ふべきにもあらず。物語こそ(イさへ)あしう書きなどすれば、言ひかひなく、作り人さへいとほしけれ。「なほす」「定本(ぢやうほん)のまま」など書きつけたる、いと口惜し。「ひてつ車に」など言ふ人もありき。「もとむ」と言ふ事を「みん」と皆言ふめり。いと怪しき事を、男などは、わざとつくろはで、殊更に言ふはあしからず。わが言葉にもてつけて言ふが、心劣りする事なり。254


二百六十三 下襲(したがさね)は、冬は躑躅(つつじ)。掻練襲(かいねりがさね)。蘇枋襲(すはうがさね)。夏は二藍(ふたあゐ)。白襲(しらがさね)。256


二百六十四 扇の骨は青、色(イほをいろ=朴、色)は赤き。紫は緑。256


二百六十五 檜扇(ひあふぎ)は無紋(むもん)。唐絵(からゑ)。256


二百六十六 神は、松の尾。八幡(やはた)。この国の帝(みかど)にておはしましけんこそいとめでたけれ。行幸(みゆき)などに、水葱(なぎ)の花の御輿に奉るなど、いとめでたし。大原野。賀茂は更なり。稲荷(いなり)。春日いとめでたく覚えさせ給ふ。佐保殿(さほどの)などいふ名さへをかし。平野はいたづらなる屋(や)ありしを、「ここは何する所ぞ」と問ひしかば、「神輿宿(みこしやどり)」と言ひしもめでたし。斎垣(いがき)に蔦(つた)などの多くかかりて、紅葉(もみじ)の色々ありし、「秋にはあへず」と、貫之が歌おもひ出でられて、つくづくと久しう立たれたりし。水分(みこもりの)神いとをかし。257


二百六十七 崎は唐崎(からさき)。いかが崎。みほが崎。259


二百六十八 屋は丸屋(まろや)。四阿(あづまや)。


二百六十九 時奏(そう)するいみじうをかし。いみじう寒きに、夜中ばかりなどに、こほこほとこほめき、沓(くつ)すり来て、弦(つる)打ちなどして、「何家(なんけ)の某(なにがし)、時丑三つ、子四つ」など、あてはかなる声に言ひて、時の杭(くひ)さす音などいみじうをかし。「子九つ、丑八つ」などこそ里びたる人は言へ、すべて何も何も、四つのみぞ杭はさしける。259


二百七十 日のうらうらとある昼つ方、いたう夜ふけて子(ね)の時など思ひ参らするほどに、男(おのこ)ども召したるこそ、いみじうをかしけれ。夜中(よなか)ばかりに、また、御笛の聞こえたる、いみじうめでたし。260(ここでは盤斎本は三巻本をとる)


二百七十一 成信(なりのぶの)中将は、入道兵部卿の宮の御子にて、かたちいとをかしげに、心ばへもいとをかしうおはす。伊予守兼輔(かねすけ)がむすめの忘られて、伊予へ親のくだりしほど、いかにあはれなりけんとこそ覚えしか。あかつきに往(い)くとて、今宵(こよい)おはしまして、有明の月に帰り給ひけん直衣(なほし)すがたなどこそ。

 そのかみ常に居て、ものがたりし、人のうへなど、わろきは「わろし」などのたまひしに。物忌(いみ)などくすしうするものの、名を姓(さう)にて持たる人のあるが、こと人の子になりて、平(たいら)などいへど、ただもとの姓(しやう)を、若き人々言種(ことぐさ)にて笑ふ。ありさまも異なることなし。兵部とて、をかしき方などもかたきが、さすがに人などにさしまじり心などのあるは、御前(まへ)辺(わた)りに「見苦し」など仰せらるれど、腹ぎたなく知り告ぐる人もなし。

 一条の院つくられたる一間(ひとま)のところには、つらき人をば更(さら)に寄せず。東の御門(みかど)につと向ひて、をかしき小廂(こびさし)に、式部のおとど諸共(もろとも)に、夜も昼もあれば、うへも常に物御覧じに出でさせ給ふ。「今宵は皆(みな)内(うち)に寝ん」とて南の廂(ひさし)に二人臥(ふ)しぬる後(のち)に、いみじう叩く人のあるに、「うるさし」など言ひ合はせて、寝たるやうにてあれば、猶いみじうかしがましう呼ぶを、「あれおこせ、虚寝(そらね)ならん」と仰せられければ、この兵部来て起せど、寝たるさまなれば、「更に起き給はざりけり」と言ひに往(い)きたるが、やがて居つきて物言ふなり。しばしかと思ふに、夜いたう更(ふ)けぬ。権中将にこそあンなれ。「こは何事をかうは言ふ」とてただ密(みそか)に笑ふも、いかでか知らん。あかつきまで言ひ明(あか)して帰りぬ。「この君いとゆゆしかりけり。更におはせんに物言はじ。何事をさは言ひあかすぞ」など笑ふに、遣戸(やりど)をあけて女は入りぬ。

 翌朝(つとめて)例の廂(ひさし)に物言ふを聞けば、「雨のいみじう降る日きたる人なん、いとあはれなる。日ごろおぼつかなうつらき事ありとも、さて濡れて来(きた)らば、憂き事も皆忘れぬべし」とはなどて言ふにかあらんを。昨夜(よべ)も昨日(きのふ)の夜も、それがあなたの夜も、すべてこの頃(このごろ)は、うちしきり見ゆる人の、今宵もいみじからん雨にさはらで来たらんは、一夜も隔(へだ)てじと思ふなンめりと、あはれなるべし。さて日頃(ひごろ)も見えず、おぼつかなくて過(すぐ)さん人の、かかる折にしも来(こ)んをば、更にまた志(こころざし)あるにはえせじとこそ思へ。人の心々なればにやあらん。物見しり思ひ知りたる女の、心ありと見ゆるなどをばかたらひて、数多(あまた)いく所もあり、もとよりのよすがなどもあれば、繁(しげ)うしもえ来ぬを、猶さるいみじかりし折に来たりし事など、人にも語りつがせ、身をほめられんと思ふ人のしわざにや。それも無下(むげ)に志(こころざし)なからんには、何しにかは、さも作事(つくりごと)しても見えんとも思はん。されど雨の降る時は、ただむつかしう、今朝(けさ)まではればれしかりつる空とも覚えず、にくくて、いみじき廊(ほそとの)のめでたき所ともおぼえず。ましていとさらぬ家などは、疾く降り止みねかしとこそ覚ゆれ(=三巻本。イぞおぼゆる=能因本)。

 月のあかきに来たらん人はしも、十日二十日一月もしは一年にても、まして七八年になりても、思ひ出でたらんは、いみじうをかしと覚えて、え会ふまじうわりなき所、人目(ひとめ)つつむべきやうありとも、かならず立ちながらも、物言ひて返し、またとまるべからんをば留(とど)めなどしつべし。月のあかき見るばかり、遠く物思ひやられ、過ぎにし事、憂かりしも、嬉しかりしも、をかしと覚えしも、只今のやうに覚ゆる折やはある。こまのの物語は、何ばかりをかしき事もなく、言葉もふるめき、見物多からねど、月に昔を思ひ出でて、むしばみたる蝙蝠(かはぼり)とり出でて、もと見し駒(こま)にと言ひて立てる門(かど)あはれなり。

 雨は心もとなきものと思ひしみたればにや、片時降るもいとにくくぞある。やんごとなき事、おもしろかるべき事、尊くめでたかるべき事も、雨だに降ればいふかひなく口惜しきに、何かその濡れてかこちたらんがめでたからん。実(げ)に交野(かたのの)少将もどきたる落窪(おちくぼの)少将などはをかし。それも昨夜(よべ)一昨日(おととひ)の夜も、有りしかばこそをかしけれ。足洗(あら)ひたるぞ、にくくきたなかりけん。さらでは何か。

 風などの吹く、荒荒しき夜きたるは、たのもしくてをかしう(=能因本。イうれしう=三巻本)もありなん。

 雪こそいとめでたけれ。忘れめやなどひとりごちて、忍びたる事は更(さら)なり。いとさあらぬ所(ところ)も、直衣(なほし)などは更にも言はず、狩衣(かりぎぬ)、袍(うへのきぬ)、蔵人(くらうど)の青色(あをいろ)などの、いとひややかに濡れたらんは、いみじうをかしかるべし。緑衫(ろうさう)なりとも、雪にだに濡れなばにくかるまじ。昔の蔵人は、夜など人の許などに、ただ青色を着(き)て、雨にぬれても、しぼりなどしけるとか。今は昼(ひる)だに着(き)ざンめり。ただ緑衫(ろうさう)をのみこそ、うちかづきたンめれ。衛府(ゑふ)などの着(き)たるは、ましていとをかしかりしものを。

 かく聞きて、雨にありかぬ人やはあらんずらん。月のいと(=能因本。イいみじう=三巻本)あかき夜、紅の紙のいみじう赤きに、ただ「あらずとも」書きたるを、廂(ひさし)にさし入れたるを、月にあてて見しこそをかしかりしか。雨降らん折はさはありなんや。261


二百七十二 常に文おこする人の、「何かは今は言ふかひなし。今は」など言ひて、またの日音(おと)もせねば、さすがにあけたてば、文の見えぬこそさうざうしけれと思ひて、「さてもきはぎはしかりける心かな」なンど言ひて暮らしつ。またの日、雨いたう降る昼まで音もせねば、「無下に思ひ絶えにけり」など言ひて、端のかたに居たる夕暮に、笠さしたる童(わらは)の持(も)てきたるを、常よりも疾くあけて見れば、「水ます雨の」とある、いと多くよみ出だしつる歌どもよりはをかし。270


二百七十三 ただ朝(あした)はさしもあらず。さえつる空の(=慶安刊本。イけさはさしも見えざりつるそらの=三巻本)、いと暗うかき曇りて、雪のかきくらし降るに、いと心ぼそく、見出だすほどもなく、白く積りて、猶いみじう降るに、随身(ずいじん)だちて細やかに美々しき男(をのこ)の、唐傘さして、側(そば)の方(かた)なる家の戸より入りて、文をさし入れたるこそをかしけれ。(=ここから三巻本)いと白き陸奥紙(みちのくにがみ)、白き色紙(しきし)の結べたる、上に引き渡しける墨の、ふと氷りにければ、裾薄(すそうす)になりたるを開けたれば、いと細く巻きて、結びたる巻目(まきめ)は、こまごまとくぼみたるに、墨のいと黒う薄く、行(くだ)り狭(せ)ばに、裏表(うらうへ)書き乱りたるを、うち返し久しう見るこそ、何事ならんと、よそにて見やりたるもをかしけれ。まいて、うちほほゑむ所はいとゆかしけれど、遠う居たるは(イゐれば)、黒き文字などばかりぞ、さなンめりと覚ゆるかし。

 額髪(ひたひがみ)ながやかに、おもやうよき人の、暗きほどに文を得て、火ともす程も心もとなきにや。火桶(ひをけ)の火を挟(はさ)みあげて、たどたどしげに見居たるこそをかしけれ。270


二百七十四 きらきらしきもの

 大将の御前駆(さき)追ひたる。孔雀経の御読経(みどきやう)。御修法(ずほふ)は五大尊(ごだいそん)。蔵人の式部の丞(じよう)、白馬(あをうま)の日、大路(おほぢ)練りたる。御斎会(ごさいゑ)。左右衛門佐(ゑもんのすけ)、摺衣(すりぎぬ)やりたる。(イそんしやうわうの御修法。)季(き)の御読経(みどきやう)。熾盛光(しじやうくわう)御修法。272


二百七十五 神のいたく鳴る折に、神鳴りの陣こそいみじう恐ろしけれ。左右(さうの)大将、中少将などの、御格子(かうし)のつらに候ひ給ふ、いとをかしげなり。果てぬる折、大将の仰せて(=能因系写本「大将、大殿の」)昇り「降り」とのたまふらん。


二百七十六 坤元録(こんげんろく)の御屏風(みびやうぶ)こそ、をかしう覚ゆる名なれ。漢書(かんじよ)の御屏風は、雄々(おお)しくぞ聞こえたる。月次(つきなみ)の御屏風もをかし。


二百七十七 方違(かたたがへ)などして夜深く帰る、寒きこといとわりなく、頤(おとがひ)なども皆落ちぬべきを、辛うじて来着きて、火桶引き寄せたるに、火の大きにて、つゆ黒みたる所なくめでたきを、細かなる灰の中より起し出でたるこそ、いみじう嬉しけれ。

 物など言ひて、火の消ゆらんも知らず居たるに、他人(ことびと)の来て、炭入れておこすこそいと憎けれ。されどめぐり(イはいをめぐり)に置きて、中に火をあらせたるはよし。皆火を外(ほか)ざまにかき遣りて、炭を重ね置きたる頂きに、火ども置きたるが、いとむつかし。275


二百七十八 雪いと高く降りたるを、例ならず御格子(みかうし)まゐらせて、炭櫃(すびつ)に火起(おこ)して、物語などして集(あつま)り候(さぶら)ふに、「少納言よ、香炉峰(かうろほう)の雪はいかならん」と仰せられければ、御格子あげさせて、御簾(みす)高く巻き上げたれば、笑はせたまふ。人々も「皆さる事は知り、歌などにさへうたへど、思ひこそよらざりつれ。猶この宮の人には、さるべきなめり」と言ふ。276


二百七十九 陰陽師(おんみやうじ)の許(もと)なる童(わらはべ)こそ、いみじう物は知りたれ。祓(はらへ)など為(し)に出でたれば、祭文(さいもん)など読む事、人はなほこそ聞け。そと立ちはしりて、白き水いかけさせよとも言はぬに、為(し)ありくさまの、例(れい)知り、いささか主(しう)に物言はせぬこそ羨(うらやま)しけれ。さらん人もがな、つかはんとこそ覚ゆれ。277


二百八十 三月(やよい)ばかり物忌しにとて、かりそめなる人の家にいきたれば、木どもなどはかばかしからぬ中に、柳と言ひて、例のやうになまめかしくはあらで、葉広う見えて憎げなるを、「あらぬものなンめり」と(=私が)言へば、「かかるもあり」など言ふに、

さかしらに柳のまゆのひろごりて春のおもてをふする宿かな

とこそ見えしか。その頃また同じ物忌しに、さやうの所に出でたるに、二日といふ昼つかた、いとど徒然(つれづれ)まさりて、只今も参りぬべき心地する程にしも、仰事(おほせごと)あれば、いとうれしくて見る。浅緑の紙に、宰相の君いとをかしく書き給へり。

「いかにしてすぎにしかたを過(すぐ)しけん暮らしわづらふ昨日今日(けふ)かな

となん。私(わたくし)には、今日しも千年(ちとせ)の心地するを、暁だに疾く」とあり。この君ののたまはんだにをかしかるべきを、まして仰事(おほせごと)の様には、おろかならぬ心地すれど、啓せん事とはおぼえぬこそ。

「雲の上に暮らしかねける春の日を所がらとも眺めつるかな

私には、今宵の程も、少将にやなり侍らんずらん」とて、暁に参りたれば、「昨日(きのふ)の返し『暮らしかねける』こそいと憎し。いみじう謗(そし)りき」と仰せらるる、いと侘びしう真(まこと)にさる事も。278


二百八十一 清水に籠りたる頃、茅蜩(ひぐらし)のいみじう鳴くをあはれと聞くに、わざと御使してのたまはせたりし。唐(から)の紙の赤みたるに、(コノアト 或本ニさうにて=三巻前田本)

「山近き入相(いりあひ)の鐘の声ごとに恋ふる心の数は知るらん

ものを、こよなの長ゐや」と書かせ給へる。紙などの無礼気(なめげ)ならぬも取り忘れたる旅にて、紫なる蓮(はちす)の花びらに書きてまゐらする。281


二百八十二 十二月二十四日、宮の御仏名(おぶつみやう)の初夜(そや)の御導師(だうし)聞きて出づる人は、夜中(よなか)も過ぎぬらんかし。里へも出で、もしは忍びたる所へも、夜のほど出づるにもあれ、あひ乗りたる道の程こそをかしけれ。

 日ごろ降りつる雪の、今朝はやみて、風などのいたう吹きつれば、垂氷(たるひ)のいみじう垂(しだ)り、土などこそむらむら黒きなれ、屋の上は只おしなべて白きに、あやしき賤(しづ)の屋も面隠(おもがく)して、有明の月のくまなきに、いみじうをかし。金(かね)など押しへぎたるやうなるに、水晶の茎(くき)など言はまほしきやうにて、長く短く、殊更(ことさら)かけ渡したると見えて、言ふにも余りてめでたき垂氷(たるひ)に、下簾(したすだれ)も懸けぬ車の簾(すだれ)を、いと高く上げたるは、奥までさし入りたる月に、薄色(うすいろ)、紅梅(こうばい)、白きなど、七つ八つばかり着たる上に、濃き衣のいとあざやかなる艶(つや)など、月に映えて、をかしう見ゆる(=女)傍(かたはら)に、葡萄染(えびぞめ)の固紋(かたもん)の指貫(さしぬき)、白き衣(きぬ)どもあまた、山吹、紅(くれなゐ)など着こぼして(=男)、直衣(なほし)のいと白き引き解きたれば、脱ぎ垂(た)れられて、いみじうこぼれ出でたり。指貫(さしぬき)の片つ方は、軾(とじきみ)の外(と)に踏み出だされたるなど、道に人の会ひたらば、をかしと見つべし。月影のはしたなさに、後(うしろ)ざまへすべり入りたる(=女)を、引き寄せあらはになされて笑ふもをかし。「凛々(りんりん)として氷(こほり)鋪(し)けり」といふ詩を、かへすがへす誦(ず)んじておはするは、いみじうをかしうて、夜一夜も歩(あり)かまほしきに、往く所の近くなるも口惜し。281


二百八十三 宮仕する人々の出で集りて、君々(=主人)の御事めで聞こえ、宮の内、外のはし(=三巻本は「とのばら」)の事ども、互(かたみ)に語り合はせたるを(=「君々」からここまで三巻本)、おのが君々、その家主(いへあるじ)にて聞くこそをかしけれ。284

巻十二

二百八十四 家広く清げにて、親族は更なり、只うち語らひなどする人には、宮仕へ人、片つ方に据ゑてこそあらまほしけれ。さるべき折は、一所(ひとところ)に集りゐて物語し、人の詠みたる歌、何くれと語りあはせ、人の文など持てくる、諸共(もろとも)に見、返事(かへりごと)書き、また睦(むつま)しう来る人もあるは、清げにうちしつらひて入れ、雨など降りてえ帰らぬも、をかしうもてなし、参らん折はその事見入れて、思はん様にして出だし立てなどせばや。よき人のおはします御有様など、いとゆかしきぞ、けしからぬ心にやあらん。285


二百八十五 見ならひするもの

 欠伸(あくび)。児(ちご)ども。生(なま)けしからぬえせ者。286


二百八十六 うちとくまじきもの

 悪(あ)しと人に言はるる人。さるはよしと知られたるよりは、うらなく(=腹蔵がない)ぞ見ゆる。船の路。

 日のうららかなるに、海の面(おもて)のいみじう長閑(のどか)に、浅緑のうちたるを引き渡したるやうに見えて、聊(いささ)か恐ろしき気色もなき若き女の、衵(あこめ)ばかり着たる、侍(さぶらひ)の者の若やかなる諸共に、櫓(ろ)といふものを押して、歌をいみじう歌ひたる、いとをかしう、やんごとなき人にも見せ奉らまほしう思ひ往くに、風いたう吹き、海の面(おもて)のただ荒れにあしうなるに、物も覚えず、泊るべき所に漕ぎつくるほど、船に浪のかけたる様などは、さばかり和(なご)かりつる海とも見えずかし。

 思へば船に乗りてありく人ばかり、ゆゆしきものこそなけれ。よろしき深さにてだに、様(さま)はかなき物に乗りて、漕ぎ行くべき物にぞあらぬや。まして底ひも知らず、千尋(ちひろ)などもあらんに、物いと積み入れたれば、水際は只一尺ばかりだになきに、下衆どもの、聊(いささ)か恐ろしとも思ひたらず、走りありき、つゆ荒らくもせば沈みやせんと思ふに、大きなる松の木などの、二三尺ばかりにて丸(まろ)なるを、五つ六つほうほうと投げ入れなどするこそいみじけれ。屋形といふ物にぞおはす。されど奥なるはいささかたのもし。端(はし)に立てる者どもこそ、目くるる心地すれ。早緒(はやを)つけて、のどかにすげたる物の弱(よわ)げさよ。絶えなば何にかはならん、ふと落ち入りなんを、それだにいみじう太くなどもあらず。

 わが乗りたるは清げに、帽額(もかう)の透影(すきかげ)(イ簾かけ=前田本)、妻戸、格子上げなどして、されど等しう重げになどもあらねば、ただ家の小さきにてあり。

 他船(ことふね)見やるこそいみじけれ。遠きはまことに笹の葉を作りて、うち散らしたるやうにぞ、いと能(よ)く似たる。泊りたる所にて、船ごとに火ともしたる、をかしう見ゆ。

 遊艇(はしぶね)とつけて、いみじう小さきに乗りて漕ぎありく早朝(つとめて)など、いとあはれなり。「跡(あと)の白浪(しらなみ)」は、真(まこと)にこそ消えてもゆけ。よろしき人は、乗りてありくまじき事とこそ猶おぼゆれ。陸路(かちぢ)もまたいと恐ろし(イいとおそろしかンなれど=盤斎抄)。されど、それは、いかにもいかにも地(つち)につきたれば、いとたのもしと思ふに、蜑(あま)のかづきしたるは憂きわざなり。腰につきたる物絶えなば、いかがせんとなん。男(をのこ)だにせば、さてもありぬべきを、女はおぼろげの心ならじ。男は乗りて、歌なンどうち歌ひて、この栲縄(たくなは)を海に浮(う)けありく、いと危く、うしろべたくはあらぬにや。蜑(あま)ものぼらんとては、その縄をなん引く。取り惑(まど)ひ繰り入るるさまぞ、ことわりなるや。船のはたを抑へて、放ちたる息などこそ、まことにただ見る人だに潮(しほ)垂るるに、落とし入れて漂(ただよ)ひありく男(をのこ)は、目もあやにあさまし。更に人の思ひかくべきわざにもあらぬ事にこそあめれ。286


二百八十七 右衛門尉(うゑもんのじよう)なる者の えせ親をもたりて、人の見るに面伏(おもてぶ)せなど、見苦しう思ひけるが、伊予国(いよのくに)よりのぼるとて、海に落とし入れてけるを、人の心憂がり、あさましがりけるほどに、七月(ふんづき)十五日、盆を奉るとて急ぐを見給ひて、道命阿闍梨(だうめいあざり)、

わたつ海(うみ)に親をおし入れてこの主(ぬし)の盆する見るぞあはれなりける

とよみ給ひけるこそ、いとほしけれ。291


二百八十八 また、小野殿の母上(ははうへ)こそは、普門寺(ふもんじ)といふ所に八講しけるを聞きて、またの日小野殿に人々集りて、遊びし、文作りけるに、

薪(たきぎ)こる事は昨日(きのふ)に尽きにしを今日は斧(をの)の柄(え)ここに朽(くた)さん

と詠み給ひけんこそめでたけれ。ここもとは打聞になりぬるなめり。293


二百八十九 また、業平が母の宮の、「いよいよ見まく」とのたまへる、いみじうあはれにをかし。引き開けて見たりけんこそ、思ひやらるれ。293


二百九十 をかしと思ひし歌などを、草紙(さうし)に書きて置きたるに、下衆のうち歌ひたるこそ心憂けれ。詠みにも詠むかし。294


二百九十一 よろしき男を、下衆女などの褒めて、「いみじうなつかしうこそおはすれ」など言へば、やがて思ひ落とされぬべし。謗(そし)らるるは中々よし。下衆に褒めらるるは女だにわろし。また、褒むるままに言ひそこなひつるものをば。294


二百九十二 大納言殿(=伊周)まゐり給ひて、文の事など奏し給ふに、例の夜いたう更けぬれば、御前(おまへ)なる人々、一二人(ひとりふたり)づつ失せて、御屏風・几帳(きちやう)の後(うしろ)などにみな隠れ伏しぬれば、ただ一人になりて、ねぶたきを念じて候(さぶら)ふに、「丑四つ」と奏するなり。「明け侍りぬなり」とひとりごつに、大納言殿、「今更に大殿籠(おほとのごも)りおはしますよ」とて、寝(ぬ)べきものにも思したらぬを、「うたて何しにさ申しつらん」と思へども、また人のあらばこそはまぎれもせめ。上の御前の柱に寄りかかりて、少し眠(ねぶ)らせ給へるを、「かれ見奉り給へ、今は明けぬるに、かく大殿籠るべき事かは」と申させ給ふ。「実(げ)に」など宮の御前にも笑ひ申させ給ふも知らせ給はぬほどに、長女(をさめ)が童(わらは)の、鶏(にはとり)を捕へて持ちて、「明日里へ往かん」と言ひて隠し置きたりけるが、いかがしけん、犬の見つけて追ひければ、廊(らう)の先に逃げ往きて、恐ろしう鳴きののしるに、みな人起きなどしぬなり。上もうち驚かせおはしまして、「いかにありつるぞ」と尋ねさせ給ふに、大納言殿の、「声(こゑ)明王(めいわう)の眠(ねぶり)を驚かす」といふ詩を、高う打ち出だし給へる、めでたうをかしきに、一人ねぶたかりつる目も大きになりぬ。「いみじき折の事かな」と宮も興(きよう)ぜさせ給ふ。猶かかる事こそめでたけれ。

 またの日は、夜(よる)の御殿(おとど)に入らせ給ひぬ。夜中(よなか)ばかりに、廊(らう)に出でて人呼べば、「下(お)るるか、われ送らん」と(=大納言が)のたまへば、裳・唐衣(からぎぬ)は屏風にうち懸けて往くに、月のいみじう明かくて、直衣(なほし)のいと白う見ゆるに、指貫(さしぬき)の半(なから)踏みくくまれて、(=私の)袖をひかへて、「倒(たふ)るな」と言ひて率(ゐ)ておはするままに、「遊子(いうし)なほ残(のこ)りの月に行(ゆ)けば」と誦(ず)んじ給へる、またいみじうめでたし。

 「かやうの事めで惑ふ」とて笑ひ給へど、いかでか、猶いとをかしきものをば。294


二百九十三 僧都の君(=道隆の四男隆円)の御乳母(めのと)のままと、御匣殿(みくしげどの)の御局(みつぼね)に居たれば、男(をのこ)ある、板敷(いたじき)のもと近く寄り来て、「辛(から)い目を見候ひつる。誰にかは憂(うれ)へ申し候はんとてなん」と(イとの字なし=慶安刊本)泣きぬばかりの気色にて言ふ。「何事ぞ」と問へば、「あからさまに物へまかりたりし間に、きたなく侍る所の焼けはべりにしかば、日ごろは寄居虫(がうな)のやうに、人の家に尻をさし入れてなん候ふ。厩寮(むまづかさ)の御秣(みまくさ)積みて侍りける家よりなん、(=火が)出でまうで来て侍るなり。ただ垣を隔てて侍れば、夜殿(よどの)に寝て侍りける童(わらはべ=妻)もほとほと焼け侍りぬべくなん、いささか物も取(と)う出侍らず」など言ひ居る。御匣殿も聞き給ひて、いみじう笑ひ給ふ。

御秣(みまくさ)を燃やすばかりの春の日(=火)に淀野(=夜殿)さへなど残らざるらん

と書きて、「これを取らせ給へ」とて投げ遣れば、笑ひののしりて、「このおはする人の、家の焼けたりとて、いとほしがりて給ふめる」とて取らせたれば、「何の御短冊(たんじやく)(イたんじやう=能因本)にか侍らん、物いくらばかりにか」と言へば、「まづ読めかし」と言ふ。「いかでか、片目も明き仕うまつらでは」と言へば、「人にも見せよ、只今召せば、頓(とみ)にて上へ参るぞ。さばかりめでたき物を得ては、何をか思ふ」とて皆笑ひ惑ひてのぼりぬれば、「人にや見せつらん。里にいきて、いかに腹立たん」など、御前に参りて、ままの啓すれば、また笑ひさわぐ。御前にも、「などかく物ぐるほしからん」とて笑はせ給ふ。298


二百九十四 男は女親(めおや)なくなりて、親一人ある、(=父親は)いみじく思へども、わづらはしき北の方(きた)の出で来て後は、内にも入れられず、装束(さうぞく)などの事は、乳母(めのと)また故上の人どもなどしてせさす。西東の対(たい)のほどに、客人(まらうど)にもいとをかしう、屏風(びやうぶ)障子(さうじ)の絵も見所ありて、住(す)まひたり。殿上のまじらひのほど、口惜しからず人々も思ひたり。上にも御気色よくて、常に召しつつ御遊びなどのかたきには思しめしたるに、なほ常に物なげかしう、世の中、心に合はぬ心地して、すきずきしき心ぞ、方端(かたは)なるまであるべき。上達部の又なきに、もてかしづかれたる妹(いもうと)一人あるばかりにぞ、思ふ事をもうち語らひ、慰め所なりける。301


二百九十五 「定澄(じやうちやう)僧都(そうづ)に袿(うちき)なし、すいせい君に衵(あこめ)なし」と言ひけん人もこそ、をかしけれ。302


二百九十六 「まことや、下(イ高)野にくだる(イまことや、やがて下る)」と言ひける人に、

思ひだにかからぬ山のさせも草たれか伊吹の里は告げしぞ


二百九十七 ある女房の、遠江(とほたふみの)守(かみ)の子なる人を語らひてあるが、(=その男が)同じ宮人を語らふと聞きて恨みければ、「『親などもかけて誓はせ給ふ。いみじき虚言(そらごと)なり、夢にだに見ず』となん言ふ。いかが言ふべき」と言ふと聞きて、

誓(ちか)へ君遠つあふみのかみかけて無下(むげ)に浜名の橋(=端)見ざりきや


二百九十八 便(びん)なき所にて人に物を言ひけるに、「胸のいみじう走りける、などかくはある」と言ひける答(いら)へに、

逢坂は胸のみつねに走り井の見つくる人やあらんと思へば


二百九十九 唐衣は、赤衣(あかぎぬ)。葡萄染(えびぞめ)。萌黄(もえぎ)。桜。すべて、薄色の類。304


三百 裳は大海(おほうみ)。しびら。304



汗衫(かざみ)は

 春は躑躅(つつじ)。桜。夏は青朽葉(あをくちば)、朽葉。(=この段、能因本になし)305


三百一 織物は紫。白き萌黄(もえぎ)に柏葉(かしは)織りたる。紅梅(こうばい)もよけれども、なほ見ざめこよなし。305


三百二 紋は(イあやのもんは=三巻本)葵(あふひ)。かたばみ。305


三百三 夏、薄物。

 片つ方の裄丈(ゆだけ)着たる人こそ憎けれど、数多(あまた)重ね着たれば、引かれて着にくし。綿(わた)など厚きは、胸(むね)なども切れて、いと見ぐるし。まぜて着るべき物にはあらず。なほ昔より様よく着たるこそよけれ。左右の裄丈(ゆだけ)なるはよし。それもなほ女房の装束(さうぞく)にては、所狭(ところせ)かンめり。男の数多(あまた)重(かさ)ぬるも、かたばかま(イかたつかた=堺本)重くぞあらんかし。清らなる装束(さうぞく)の織物、薄物など、今は皆さこそあンめれ。今様(いまやう)にまた様よき人の着給はん、いと便なきものぞかし。


三百四 形よき君達の弾正にておはする、いと見ぐるし(イ物ぐるし)。宮の中将(=源頼定)などの口惜しかりしかな。


三百五 やまひは、胸。物怪(もののけ)。脚気(あしのけ)。ただそこはかとなく物食はぬ。

 十八九ばかりの人の髪いと麗(うるは)しくて、長(たけ)ばかりすそ房(ふさ)やかなるが、いとよく肥(こ)えて、いみじう色白う、顔愛敬(あいぎやう)づき、よしと見ゆるが、歯をいみじく病み惑ひて、額髪(ひたひがみ)もしとどに泣きぬらし、髪の乱れかかるも知らず、面(おもて)赤くて押(お)さへ居たるこそをかしけれ。

 八月ばかり、白き単衣(ひとへ)、なよらかなる袴(はかま)よきほどにて、紫苑(しをん)の衣(きぬ)の、いと鮮やかなるを引きかけて、胸いみじう病めば、友だちの女房たちなど、かはるがはる来つつ、「いといとほしきわざかな、例もかくや悩み給ふ」など、事なしびに問ふ人もあり。心かけたる人(=愛人)は、真(まこと)にいみじと思ひ嘆き、人知れぬ中などは、まして人目思ひて、寄るにも近くもえ寄らず、思ひ嘆きたるこそをかしけれ。いと麗(うるは)しく長き髪を引きゆひて、物つく(=吐く)とて起きあがりたる気色も、いと心苦しく、らうたげなり。

 上にも聞し召して、御読経(みどきやう)の僧の声よき給はせたれば、訪人(とぶらひびと)どももあまた見来て、経(きやう)聞きなどするも隠れなきに、(=僧が女の方に)目を配りつつ読み居たるこそ、罪や得らんとおぼゆれ。307


三百六 心づきなきもの

 物へゆき、寺へも詣づる日の雨。使ふ人の我をばおぼさず、「某(なにがし)こそ只今の人」など言ふをほの聞きたる。人よりはなほ少し憎しと思ふ人の、推量事(おしはかりごと)うちし、すずろなる物恨(ものうらみ)し、我かしこげなる。

 心あしき人の(イめのとの=堺本)養(やしな)ひたる子、さるはそれが罪にもあらねど、かかる人にしもと覚ゆる故にやあらん。「数多(あまた)あるが中に、この君をば思ひおとし給ひてや、にくまれ給ふよ」など(=乳母が)あららかに言ふ。児(ちご)は思ひも知らぬにやあらん、(=乳母を)求めて泣き惑ふ、心づきなきなめり。大人(おとな)になりても、思ひ後見(うしろみ)もて騒ぐほどに、中々なる事こそ多(おほ)かンめれ。

 わびしく憎き人に思ふ人の、はしたなく言へど、添ひ付きて懇(ねんご)ろがる。聊(いささ)か心悪しなど言へば、常よりも近く臥(ふ)して、物食はせ、いとほしがり、その事となく思ひたるに、まつはれ追従(ついしよう)し、取り持ちて惑ふ。309


三百七 宮仕へ人の許(もと)に来などする男の、そこにて物食ふこそいとわろけれ。食はする人もいと憎し。思はん人の、「まづ」など志(こころざし)ありて言はんを、忌みたるやうに口を塞(ふた)ぎて、顔を持てのくべきにもあらねば、食ひをるにこそあらめ。いみじう酔(ゑ)ひなどして、わりなく夜更けて泊りたりとも更に湯漬けだに食はせじ。心もなかりけりとて来ずばさてなん。里にて、北面(きたおもて)よりし出だしてはいかがせん。それだに猶ぞある。311


三百八 初瀬(はつせ)に詣でて局(つぼね)に居たるに、あやしき下衆(げす)どもの、後(うしろ)さしまぜつつ、居並みたる気色こそ、ないがしろなれ。

 いみじき心を起して詣でたるに、川の音などの恐ろしきに、呉階(くれはし)をのぼり困じて、いつしか仏の御顔(みかほ)を拝み奉らんと、局に急ぎ入りたるに、蓑虫(みのむし)のやうなる者の、あやしき衣(きぬ)着たるが、いと憎き立居(たちゐ)額(ぬか)づきたるは、押し倒(たふ)しつべき心地こそすれ。

 いとやんごとなき人の局ばかりこそ、前(まへ)払ひ(=人払ひ)あれ、よろしき人は、制しわづらひぬかし。たのもし人の師を呼びて言はすれば、「足下(そこ)ども少し去れ」など言ふ程こそあれ、歩(あゆ)み出でぬれば、同じやうになりぬ。312


三百九 言ひにくきもの

 人の消息(せうそこ)、仰事(おほせごと)などの多かるを、序(ついで)のままに、初(はじめ)より奥(おく)までいと言ひにくし。返事(かへりごと)また申しにくし。恥づかしき人の物おこせたる返事(かへりごと)。大人になりたる子の、思はずなること聞きつけたる、前にてはいと言ひにくし。313


三百十 四位五位は冬、六位は夏。宿直(とのゐ)姿なども。314


三百十一 品(しな)こそ男も女もあらまほしき事なンめれ。家の君(=主婦)にてあるにも、誰かはよしあしを定むる。それだに物見知りたる使ひ人ゆきて、おのづから言ふべかンめり。まして交らひする人(=宮仕人)はいとこよなし。猫の土におりたるやうにて。314


三百十三 工匠(たくみ)の物食ふこそいと怪(あや)しけれ。新殿を建てて、東の対(たい)だちたる屋を作るとて、工匠(たくみ)ども居並(ゐな)みて物食ふを、東面(おもて)に出で居て見れば、まづ持てくるや遅きと、汁物取りて皆飲みて土器(かはらけ)はつい据ゑつつ、次に合はせ(=おかず)を皆食ひつれば、御物(おもの=ご飯)は不用なめりと見るほどに、やがてこそ(=ご飯を)失せにしか(イくひてしか)。二三人居たりし者、皆させしかば、工匠(たくみ)のさるなめりと思ふなり。あなもたいな(=不届き)の事どもや。314


三百十四 物語をもせよ、昔物語もせよ、さかしらに答(いらへ)うちして、他人(ことびと)と物言ひまぎらはす人いと憎し。315


三百十五 「ある所に、中(イ何)の君とかや言ひける人の許に、君達にはあらねども、その心いたく好きたる者に言はれ、心ばせなどある人の、九月(ながつき)ばかりに往きて、有明の月のいみじう照りて面白きに、名残思ひ出でられんと、言の葉を尽して言へるに、今はいぬらんと遠く見送るほどに、えも言はず艶なる程なり。出づるやうに見せて立ち帰り、立蔀(たてじとみ)合ひたる陰のかたに添ひ立ちて、猶ゆきやらぬ様も言ひ知らせんと思ふに、『有明の月のありつつも』とうち言ひて、さしのぞきたる髪の頭(かしら)にも寄りこず、五寸ばかり下がりて、火ともしたるやうなる月の光、催されて驚かさるる心地しければ、やをら立ち出でにけり」とこそ語りしか。315


三百十六 女房のまゐりまかン出でするには、車を借る折もあるに、心粧(よそ)ひしたる顔(=愛想よく)にうち言ひて貸したるに、牛飼童(うしかひわらは)の、例の牛よりも下(しも)ざまにうち言ひて、いたう走り打つも、あなうたてと覚ゆかし。男(をのこ)どもなどの、物むつかしげなる気色にて、「いかで夜更けぬさきに、追ひて帰りなん」と言ふは、なほ主(しう)の心推し量られて、頓の事なりと、また(=「貸してと」)言ひ触れんとも覚えず。

 業遠(なりとほの)朝臣(あそん)の車のみや、夜中・暁(あかつき)分かず人の乗るに、聊(いささ)かさる事(=牛飼の失礼な振舞)なかりけん、よくぞ教へ習はせたりしか。道に会ひたりける女車の、深き所に落とし入れて、え引き上げで、牛飼の腹立ちければ、わが従者(ずさ)して打たせさへしければ、まして心のままに、誡(いまし)めおきたるに見えたり。317


三百十七 すきずきしくて独住(ひとりずみ)する人の、夜(よる)はいづらにありつらん、暁に帰りて、やがて起きたる、まだねぶたげなる気色なれど、硯とり寄せ、墨こまやかに押し磨りて、事なしびに任せてなどはあらず、心とどめて書く。まひろげ姿をかしう見ゆ。

 白き衣(きぬ)どもの上に、山吹、紅(くれなゐ)などをぞ着たる。白き単衣(ひとへ)のいたく萎(しぼ)みたるを、うちまもりつつ書き立てて、前なる人にも取らせず、わざと立ちて、小舎人童(こどねりわらは)のつきづきしきを、身近く呼び寄せて、うちささめきて、往ぬる後も久しく眺めて、経(きやう)のさるべき所々など、忍びやかに口ずさびにし居たり。奥のかたに、御手水(てうづ)、粥(かゆ)などしてそそのかせば、歩み入りて、文机(ふづくえ)に押しかかりて文をぞ見る。面白かりける所々は、うち誦(ず)んじたるもいとをかし。

 手洗ひて、直衣(なほし)ばかりうち着て、録(ろく)をぞそらに読む。実(まこと)にいと尊(たふと)き程に、近き所なるべし、ありつる使(つかひ)うちけしきばめば、ふと読みさして、返事に心入るるこそいとほしけれ。318


三百十八 清げなる若き人の、直衣(なほし)も袍(うへのきぬ)も狩衣(かりぎぬ)もいとよくて、衣(きぬ)がちに袖口厚く見えたるが、馬に乗りて往くままに、供なる男(をのこ)、立て文を目を空にて取りたるこそをかしけれ。320


三百十九 前の木立(こだち)高う庭広き家の、東南の格子どもあげ渡したれば、涼しげに透きて見ゆるに、母屋(もや)に四尺の几帳(きちやう)立てて、前に円座(わらふだ)を置きて、三十余(みそぢあまり)ばかりの僧の、いと憎げなからぬが、薄墨(うすずみ)の衣(ころも)、羅(うすもの)の袈裟(けさ)など、いと鮮やかにうち装束(さうぞ)きて、香染(かうぞめ)の扇うち使ひ、千手陀羅尼(せんじゆだらに)読み居たり。

 物怪(もののけ)にいたう悩む人にや(イいたう悩めば)、移すべき人とて、大(おほ)きやかなる童(わらは=よりまし)の、髪など麗(うるは)しき、生絹(すずし)の単衣(ひとへ)、鮮やかなる袴(はかま)長く着なして、ゐざり出でて、横ざまに立てたる三尺の几帳(きちやう)の前に居たれば、(=僧)外(と)ざまにひねり向きて、いと細うにほやかなる独鈷(とこ)を取らせて、「おお」と目うち塞(ひさ)ぎて(イずずおしもみうちおがみなどして=堺本)読む陀羅尼(だらに)も、いと尊(たふと)し。

 顕証(けしよう)の女房あまた居て、集(つど)ひまもらへたり。久しくもあらで振るひ出でぬれば、(=童)もとの心失ひて、行ふままに従ひ給へる護法(ごはう)も、げに尊(たふと)し。兄(せうと)の袿(うつぎ)きたる、細冠者(ほそくわじや)どもなどの、後(うしろ)に居て、団扇(うちは)するもあり。皆尊(たふと)がりて集りたるも、例の心ならば、いかに恥づかしと惑はん。みづからは苦しからぬ事と知りながら、いみじうわび嘆きたる様の心苦しさを、付人(つきびと=病人)の知人(しりうど)などは、らうたく覚えて、几帳(きちやう)のもと近く居て、衣(きぬ)ひきつくろひなどする(イすかかる=堺本)程に、よろしとて、御湯(ゆ)など北面(きたおもて)に取り次ぐほどをも、若き人々は心もとなし。盤(ばん)も引き下げながら急いで来るや。単衣(ひとへ)など清げに、薄色の裳など萎(な)えかかりてはあらず、いと清げなり。

 申(さる)の時にぞ、いみじうことわり言はせなどして許しつ。(=童)「几帳(きちやう)の内にとこそ思ひつれ、あさましうも出でにけるかな。いかなる事ありつらん」と恥づかしがりて、髪を振りかけてすべり入りぬれば、暫(しば)しとどめて、加持(かぢ)少しして、「いかに、さはやかになり給へりや」とてうち笑みたるも恥づかしげなり。「しばし候ふべきを、時(じ)のほどにもなり侍りぬべければ」とまかり申して出づるを、「しばし、法施報当(ほうちはうたう)参らせん」などとどむるを、いみじう急げば、所につけたる上臈(じやうらふ)とおぼしき人、簾(す)のもとにゐざり出でて、「いと嬉しく立ち寄らせ給へりつるしるしに、いと堪へがたく思ひ給へられつるを、只今おこたるやうに侍れば、返すがへすよろこび聞こえさする。明日も御暇(いとま)の隙(ひま)には、物せさせ給へ」など言ひつつ。「いとしうねき御物怪に侍るめるを、たゆませ(=油断)給はざらんなんよく侍るべき。よろしく物せさせ給ふなるをなん、悦び申し侍る」と、言葉ずくなにて出づるは、いと尊(たふと)きに、仏のあらはれ給へるとこそ覚ゆれ。

 清げなる童(わらは)の髪ながき。また大きやかなるが、鬚(ひげ)生(お)ひたれど、思はずに髪麗(うるは)しき またしたたか(イしらかみ)に、むくつけげなるなど多くて、暇無(いとまな)げにて、ここかしこに、やんごとなき覚えあるこそ、法師もあらまほしきわざなンめれ。親などいかに嬉しからんとこそ、推し量らるれ。321


三百二十 見ぐるしきもの

 衣(きぬ)の背縫(せぬひ)片寄せて着たる人。また、のけくびしたる人。下簾(したすだれ)穢(きたな)げなる上達部の御車(みぐるま)。例ならぬ人の前に子を率(ゐ)ていきたる。袴(はかま)着たる童(わらは)の足駄(あしだ)履きたる、それは今様(いまやう)の者なり。壷装束(つぼさうぞく)したる者の、急ぎて歩みたる。法師、陰陽師の、紙冠(かみかうぶり)して祓(はらへ)したる。また、色黒う、痩(や)せ、憎げなる女の鬘(かづら)したる。鬚(ひげ)がちに痩せ痩せなる男と昼寝したる、何の見るかひに臥したるにかあらん。夜などは形(かたち)も見えず。また、おしなべてさる事(=寝る事)となりにたれば、我憎げなりとて、起き居るべきにもあらずかし。翌朝(つとめて)疾く起き往ぬる、めやすし。夏昼寝して起きたる、いとよき人こそ今少しをかしけれ。えせかたちはつやめき寝腫れて、ようせずば、頬(ほほ)ゆがみもしつべし。互(かたみ)に見かはしたらん程の、生けるかひなさよ(イや)。色黒き人の(イふくいとくろき男の白はりきたる)、生絹(すずし)単衣(ひとへ)着たる、いと見ぐるしかし。のし単衣(ひとへ)も同じく透きたれど、それはかたはにも見えず。臍(ほぞ)の通りたればにやあらん。326


三百二十一 もの暗うなりて、文字も書かれずなりたり。筆も使ひはてて、これを書きはてばや。

 この草紙は、目に見え心に思ふ(イ目に見えぬ心におもふ)事を、人やは見んずると思ひて、徒然(つれづれ)なる里居(さとゐ)のほどに、書き集めたるを、あいなく、人のため便なき言ひ過(すぐ)しなどしつべき所々もあれば、きよう隠したりと思ふを、涙せきあへずこそなりにけれ(イようかくしたりと思ひしを心よりほかにこそもり出にけれ)。

 宮の御前に、内大臣(うちのおとど)の奉り給へりけるを、「これに何を書かまし。上の御前には、史記といふ文を書かせ給へる」などのたまはせしを、「枕にこそはし侍らめ」と申ししかば、「さば得よ(イえてよ)」とて賜はせたりしを、あやしきを、こよや(イこじや)何やと、尽きせず多かる紙の数を、書きつくさんとせしに、いと物おぼえぬ事ぞ多かるや。

 大方これは、世の中にをかしき事を、人のめでたしなど思ふべき事、なほ選(え)り出でて、歌などをも、木、草、鳥、虫をも言ひ出だしたらばこそ、「思ふほどよりはわろし、心見えなり」ともそしられめ。ただ心ひとつに、おのづから思ふ事を、戯(たはぶ)れに書きつけたれば、物に立ちまじり、人並み並みなるべき耳(=評判)をも聞くべきものかはと思ひしに、「恥づかしき」なども、見る人はのたまふなれば、いとあやしくぞあるや。実(げ)にそれもことわり、人の憎むをもよしと言ひ、褒むるをもあしと言ふは、心の程こそ推し量らるれ。ただ、人に見えけんぞねたきや。328


三百二十二 左中将まだ伊勢守(いせのかみ)と聞こえし時、里におはしたりしに、端の方なりける畳さし出でし物は、この草紙乗りて出でにけり。惑ひ取り入れしかど、やがて持ておはして、いと久しくありてぞ帰りたりし。それより歩りき初めたるなめりとぞ。


  YuhodoのMakuranososhiは、北村季吟の『枕草子春曙抄』のテキストを主に、加藤盤斎(加藤磐斎)の『清少納言枕草子抄』のテキストを従(230段のあとに「霧は川霧」があることなどと、一部の漢字使ひから推定できる)にして作られたもので、和辻哲郎が読んだ戦前の有朋堂文庫のものであると思はれる。(ネットの、RIKO文庫の原文『枕草子』全巻と、平成花子の部屋にある『枕草子』清少納言(81枚)は、これをコピーして作られたものであることが、同じ漢字使ひと入力ミスを持つことから推定できる) 

  しかし、このテキストには漢字に振り仮名がなく、現代の読み方では枕草子の読み方とは大幅に異なつてしまふ。また、漢字の使ひ方も現行のものとは異なつてゐる。そこで、これを本ページで利用するに当つて、一部の漢字を現行に合はせ(例へば、壻→婿)、漢字の送り仮名も現行に従つて増やすことにした。

  仮名遣ひは、北村季吟のものは歴史的仮名遣ひとは異なる(例へば「をかし」が「おかし」、「さわぐ」を「さはぐ」)が、すでに有朋堂文庫本で歴史的仮名遣ひに改めてられてゐる。ここでもそれに従つて、読み仮名は季吟のテキストに従ふが、それも歴史的仮名遣ひによつた。その際、DDwinによつてパソコン版の広辞苑、大辞林、漢字源を逐一参照したことは言ふまでもない。

  歴史的仮名遣ひ以外にも、「う音便」が原文では例へば「物々しふ」などと表記されてゐる場合があるが、有朋堂のテキストでは「物々しう」などと正しく変へられてゐる。逆に、「今日」は原文では「けう」となつてゐる場合があるが、「けふ」に直されてゐる。それらにも従つた。

  また、「法師」は正しくは「ほふし」であり読み仮名もさうしたが、写本ではひらがな書きの場合はすべて「ほうし」と書かれてゐる。そこから、「帽子か法師か」といふ議論が生まれて、春曙抄ではその一箇所を「帽子」としてゐる。

  春曙抄の原文には濁点の表記があるが、場所がちがつてゐたりするので、適宜正しい位置に濁点を打つた。

  写本に関する表記は、例へば、

(=慶安刊本)は、春曙抄の本文が、能因本系の慶安刊本の本文と一致することを示し、
(=慶安刊本。能因本「・・」)は、春曙抄は能因本系の慶安刊本の本文と一致するが、学習院大学蔵の能因本(現存する能因本系最古の写本)はそれとは異なる「・・」といふ読みを持つことを示し、
(=能因本「・・」)は、能因本系(慶安刊本、古活字本、学習院大本はほぼ一致してゐる)は春曙抄とは異なる「・・」といふ読みであること、などを示す。 

  参照した写本はネットに公開されてゐる九州大学の慶安板本(ここでは慶安刊本)、十三行古活字本(ここでは古活字本)と、笠間書院から市販されてゐる『能因本(学習院大学蔵)上下』(ここでは能因本学)だけであり、また全文に渡つて比較したわけでもない。

  各段の最初にある漢数字は『枕冊子全注釈』で使はれてゐる段数(=『校本枕冊子』、『日本古典文学全集』)である。

 『枕草子春曙抄』には、明治時代に訂正増補と称する活字版のものが出てゐて、近代デジタルライブラリーで見ることが出来るが、無断で本文を訂正してゐたり、草書体の原本を読みそこなつてゐたり、あまり信用できないやうだ。その後出た、『枕草子春曙抄杠園抄』を活字化した日本文学古註釈大成―枕草子古註釈大成第二巻の方が信頼度が高い。

  春曙抄の本文は、現在よく見られるやうな一つか二つの写本をそのまま活字に組んで、分からないところはそのまま「未詳」などとして事足れりとするやうな安直な代物ではなくて、慶安刊本を基本としながらも(それは「頃は」の段の月の並びからも分かる)、三巻本や堺本などに伝へられた枕草子の伝承を全体としてとらへて、その中から編者がよしとするものを取捨選択して、これこそが真の枕草子だと思うものを作り出したものである。その意味で、これは知性の産物であり、現在の実証主義万能のやり方に飽き足らない人には、一度は取り組んでみる価値のあるものであると思はれる。

2008.10 -2017.1 Tomokazu Hanafusa / メール

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