母里村難恢復史略(1~57)

(もりそんなんかいふくしりゃく)
                                                                                                                   播磨国加古郡母里村元村長 北条直正編


凡例
一、原典写本は毛筆行書体の漢文読み下し文であり、仮名はカタカナであるが請願書等以外はひらがなに改めた。
二、原典写本には句読点がないので、適宜挿入した。
三、写本の仮名には濁点が殆どないので適宜濁点を付けた。
四、写本は手書きで旧字体と新字体の漢字が混淆してゐるが、新字体に統一した。異体字はそのままにした。
五、かな遣ひは文語体であるため歴史的かな遣ひのままとした。
六、本文以外の一覧表等にある漢数字は算用数字に改めた。計算すると合計や差引の数字が合はないことがあるが、あとでその数字が使はれることがあるのでそのままにした。
七、一般的でない用字、当て字、誤字、文脈等の理由で文字を訂正した場合は<>に入れその後に写本にある文字を[]に入れて残した。写本の欠字を補った場合も<>に入れて示した。なほ、所置(=処置)、所す(処す)はそのままにした。
八、ふりがなは現代かな遣ひを使つて()に入れ、注釈は(=)で示した。


緒言

 本村は元印南新村・蛸草(たこくさ)新村・野谷(のだに)新村・野寺(のでら)村・草谷(くさたに)村・下草谷(しもくさたに)村を合併して一村となしたるものなり。

 元来本村は土壌高燥(こうそう)にして水利に乏しく稲田僅少にして畑地大部を占め、其(その)畑地は綿作をなし<て>木綿をなし、木綿を以(もっ)て生産業となし、概(おおむ)ね稼穡(かしょく)の困難なる部落なりしが、

元治(げんじ)・慶応より明治初年に亘(わた)り凶旱(きょうかん)頻(しきり)りに臻(いた=至)り田圃(でんぽ)枯渇(こかつ)し、随(したがっ)て土地荏苒(じんぜん=次第に)荒蕪(こうぶ)し、

之(これ)に加ふるに其綿産業が外国綿糸輸入の圧迫にて販路頓(とみ)に杜絶(とぜつ)し、村中益々萎靡(いび)凋衰(ちょうすい)せる最中に、

地租(ちそ)改正を施行せられたる結果、実地不当の重租(じゅうそ)を賦(ふ)せられ、村民は言ふべからざるの惨状を極め、貧民東西に流離し、一村殆(ほと)んど頽廃(たいはい)せんとするの苦境に沈淪(ちんりん)せり。

 蓋(けだし)之を本村の三大難とす。

 本村有志者が此(この)窮難(きゅうなん)を恢復せんが為(た)め、水利を起して開墾をなし、猶(なお)其地租の軽減を謀(はか)り一村同心戮力(りくりょく=協力)三十又(ゆう)余年間、幾多の辛酸苦難を経て、漸(ようやく)にして恢復し、以て万世(ばんせい)不磨(ふま)の富源を開き、

従前(じゅうぜん)郡中の貧村たりしが、進(すすん)で郡中屈指の富裕村に伍(ご)するも敢(あえ)て遜色(そんしょく)無きに至れり。

 蓋此水利を起すには、古来賦役(ふえき)を以て行ひ、徳川幕府時代迄聯綿(れんめん)として該(がい)制度を継続したるに、維新以降廃藩と同時に賦役の制度を廃せし。

 爾来(じらい)水利土工は悉皆(しっかい)民営となり、是が為め水利を起すこと困難となりたるを以て、其砌(みぎり=時)、正が郡長在職中に付、県令に具状(ぐじよう)して、賦役に換ふるに国庫金を以て補正せられんことを申請したるに、正転任後遂(つい)に国庫金四万五千円を補助せられ、之に頼(よ)りて成功せり。

 然(しか)るに、歳月が既に久しく村中の子弟は父祖が多年労苦せる遺業(いぎょう)を諼(わす)れ、且(かつ)其当時県令知事及(および)郡長其他の功労者が非常の尽瘁(じんすい=苦労)の功績を知る者殆ど無きに至る。

 然かのみならず、本村難中被害の最も甚しき地租改正重租の大部は解決したるも、猶未(いま)だ解決せざるものあり。且其村中功労者の多くは已(すで)に故人となり、其功績も泯滅(びんめつ=消滅)して伝はらざるの有様となりたり。

 茲(ここ)に於(おい)てか、正は概然(がいぜん=嘆くこと)其事跡(じせき)を本史に載せ、後世子々孫々をして往時(おうじ)に鑑(かんが)み、父祖の遺産を永遠に保持して、苟(いやしく)も失墜すること無く

父祖の恩恵并(ならび)に村中功労者の恩徳及県令知事郡長の恩義を諼(わす)るゝことを無からしむと同時に、上記地租改正重租に係る被害の解決未済(みさい)の分を、将来に解決するの必要を感ぜり。

 而(しか)して其地租改正重租に係る被害の解決未済の分、四あり。

 其一 畑地価(ちか)特別修正にて減租(げんそ)となりたる租額は、官より地主へ正当還付なるべきものなるを、未だ還付せられず。其還付未済の惣額(そうがく=総額)金九千八百四拾七円拾四銭六厘。

 其二 重租の為め納租すること能(あた)はず、遂に其土地を公売せられ、土地の所有権利を剥奪されたる者、弐百拾九名、畑反別(たんべつ)七拾町。

 其三 重租の為め納租すること能はず、遂に其地を郡長(即(すなわち)正)が間接の注意(=忠告)にて売却し、其地代金を以て地租を償(つぐな)ひたる者、九拾四名、畑反別、六拾四町弐(に)反八畝拾九歩。

猶其他に重租の為め、其土地を維持すること能はず、人民相対(あいたい)にて売却し、其代金の内を以て地<租>[価]を償ひたる者、約六百名、畑反別弐百五拾町。

 其四 重租の為め其土地家屋を売り、亡産(ぼうさん)して四方に流寓(りゅうぐう)する者、百九拾七戸、人口約八百人。

 上記は皆地租改正官吏が不当の重租を賦し、村民をして如上(じょじょう)の極地に陥(おちい)らしめたるものなり。

 其内第一第二は政府が当然還付又は培償(ばいしょう=賠償)の義務あるものなり。第三第四とても道義上政府が被害賠償の責めあるべきものなるを、曖昧模糊の裏(うち)に埋伏(まいふく)せられあるを以て、正が在職中に其証跡(しょうせき)を挙げ政府に還付又は賠償の請求をなさんとせしも、

其砌、職劇に事(こと)繁(しげく)にして、其経歴(=経緯)を詳悉(しょうしつ=見極める)すること能はずして竟(つい)に其意を果さず、退職後、独力之が調査に数年を経て漸くにして其経歴を審(つまびらか)にすることを得たり。

 蓋此事たるや国家未曾有(みぞう)のことにして、一村に取りては重大事件につき、後任村長に於て其意志を必らず行なはれんことを要すると同時に、上記功労者に対し褒賞の上申を要すべきものにつき、茲に其経歴を逐次暢叙(ちょうじょ=詳述)すること左の如し。


(一)地形

 本村地方は東北より西南に傾斜せる十数方里(ほうり)の高野を形成したるものにして、本村は其東北部に位し、東南は明石郡神出(かんで)村・岩岡村に境し、西は本郡天満(てんま)村・加古新村・八幡(やはた)村に隣り、北は美嚢(みのう)郡別所村に接し、広袤(こうぼう)南北一里廿八町、東西一里余。

 村の東北部に字(あざ)広谷川(ひろたにがわ)と称(とな)ふる小河、草谷村・下草谷村を貫流し、其右側に草谷村字丸山より下草谷村に亘り丘陵起伏し、其北に相野(あいの)と称ふる原野ありしが、方今(ほうこん=最近)は已に開墾せり。


(二)地質

 上皮は赤粘土に真土(まつち)と砂を交(まじ)り、中層は粘土、下層は鏗質(けんしつ)なる小石交りの粘土、方言「豆とじ」にして、井の深さ五丈(じょう)に至るも湧出(ゆうしゅつ)少く、夏季は飲料に乏(とぼ)しかりしが、方今は疏水(そすい)により井水(せいすい)も溜(たま)りて飲料に差支(さしつか)へなし。


(三)開発時代

 本村の開発時代は野寺村・草谷村の一部分は中古に属するも、其他の各村は概(おおむ)ね二百年前後の開発に係り、其始めは広<漠>[漢](こうばく)たる高野なりしを、人民が三々五々来り耕牧し漸次(ぜんじ)部落をなし、

其内印南新村は、正徳年間、本郡加古新村の沼田喜平次の子理平次と云ふ仁(ひと)が来(きた)り開発せり。是が即ち同村の元大庄屋(おおじょうや)たりし沼田理平次の先祖なり。

 是に前後して、同村の丸尾茂平次の先祖山田屋喜平次と同村の丸尾市平の先祖山田屋喜兵衛とは叔姪(おじおい)の間柄なりしが、二人が河内国より来り開墾し、其喜兵衛が其砌に最も多く開墾したること口碑(こうひ)に伝はる。

 蓋古記(こき)に印南野(いなみの)と称ふるは此地方の惣称(そうしょう)なりと伝ふ。本村元六ヶ村の淡河川(おうごがわ)疏水に依(よ)り開墾せる新田反別六百拾町にして、猶続々開墾せり。


(四)旧藩治<時>代の村制

 本村の旧藩主は姫路の城主酒井雅楽頭(うたのかみ)にして、旧大庄屋組は、野寺村・草谷村・野谷新村は本郡岡村の山本組、蛸草新村は大野村の荒木組、印南新村は独立大庄屋にて沼田理平次代々支配す。廃藩前庄屋氏名左の如し。

 草谷村庄屋 魚住信貴太郎  野寺村 同 魚住完治
 下草谷村同 井澤松次郎   野谷新村同 松尾要蔵
 蛸草新村同 岩本須三郎   印南新村同 赤松治郎三郎
 印南新村同 丸尾茂平次


(五)戸数・人口

 明治初年には戸数八百三十、人口不詳。明治十三年には八百八戸、人口三千七百六十七。明治二十五年には戸数六百三十三戸。

 明治初年より戸数の減ずること百九十七戸。猶其他無届他出(たしゅつ)又は失踪者もあり。之が本村の戸数の減ずるの最も甚(はなはだ)しきときとす。

 之は地租改正重租の為(ため)に斯(か)く減じたるものなり。最近戸数六百九十二、人口四千三百四十八となりたり。是は疏水に依り追々恢復に向ひたるの徴候なり。


(六)旧高(たか)反別貢米(こうまい)金額

旧村名        旧高       反別    貢米    同金額
         石      町     石      円
印南新村  1,206.263   201.0126  137.515    701.063
草谷村    522.7834   67.0928   67.0928   647.656
野谷新村   164.075   36.4206   42.648    220.063
蛸草新村   223.895   48.7924   47.620    245.626
野寺村    237.105   51.8404   61.899    319.298
下草谷村   194.685   29.0029   35.6489   183.952
合計    2,548.8024  434.1827  450,8428  2,317.738


(七)廃藩置県

 明治四年七月廃藩置県。同五年二月飾磨県に合併。同六年本村元印南新村外五ヶ村は第六大区七区となり、戸長(こちょう)役場を野寺村高薗寺(こうおんじ)に設置す。

戸長   増田性蔵、副戸長 福田厚七、同 魚住完治、
副戸長 魚住信貴太郎、試補 岩本須三郎、同 松尾要蔵
試補   長谷川孫十郎


(八)区画改正

 明治七年区画改正。本村六ヶ村は第三小区となる。区役所は国岡新村に設<く>。区長・戸長左の如し。

区長 片山貞幹、副区長 有坂貞蔵、蛸草新村戸長 藤本勘十郎、野寺村戸長 魚住完治、草谷村戸長 魚住円次郎、野谷新村戸長 魚住藤三郎、下草谷村戸長 井澤松次郎、印南新村戸長 丸尾茂平次、同村戸長 赤松治郎三郎、同村戸長 沼田壽三郎、同村戸長 松田卯在門、同村戸長 大岡善平


(九)比年凶旱

 本村地方は元治慶応より明治初年に亘り凶旱頻<に>臻(いた)り田圃涸渇し禾稼(かか=作物)実らず土地荏苒荒蕪せり。之を本村衰態(すいたい)を表はしたるの始めとす。

 元来、本村は高燥、水に乏し<き>[く]土地につき、領主は貢租(こうそ)免割(めんわり=租率)を軽くしたるが上、凶旱には特別に手当米を給与せられたり。

 其当時旱害(かんがい)の最も甚しき印南新村の手当米を給与せられたる年別米額左の如し(但し、此外五ヶ村も同様に給与せられたれど、其額詳(つまびらか)ならず)

年別       米額       年別       米額
          石                 石
安政六己未年  33.000    元治<元>甲子年    34.000
慶応二丙寅年  17.400    慶応三丁卯年      30.000
明治元戊辰年  30.000    明治二己巳年      30.875
 合計 米額 199石3斗7升5合

 上記の外旧領主は、鰥寡(かんか=独り者)孤独に救助米を年々給与せられ、人民保護の途(みち)は克(よ)く行届き、藩閥政府の所置とは天壌(てんじょう=天地)の差あり。下に記する地租改正重租と対照比較せば、長歎痛哭(つうこく)せざらんと欲するも得(う)べからず。


(一〇)産業不振

 土地の景状上記の如く、田面(たのも)は僅少にして畑地大部を占め、生産物は綿作にて専ら木綿を産出し、姫路の名産たる晒(さらし)木綿の原料に供し、之を以て家々生計を営みたるも、

元来が水利に乏しき故に、夏季には其綿畑に井水を汲み揚げ、桔槹(きっこう=釣瓶)林の如く家々忙殺せるも、少しく照り続けば忽(たちま)ち涸渇し損害多く相当の収益の得ることは大抵三ケ年に一回に過ぎず。

 概ね稼穡(かしょく)の困難なるが上、維新以降外国綿糸輸入の影響にて、本村主要の綿産物の販路頓(とみ)に杜絶し、之が為め産業大(おおい)に不振を来し、村落一般に益々萎靡凋衰せり。之を本村第二の難患(なんかん=患難)とす。


(一一)地租改正重租の大難

 明治八年四月より地租改正準備をなし、同年十月県令を以て地租改正に係(かかわ)る条例及告諭(こくゆ)書、人民心得書を布達(ふたつ)せらる。

 其要旨は旧来の地租は寛苛(かんか)錯<雑>[難](さくざつ)にして不公平なるを以て、之を改正して公平至当に帰せしむるを本旨(ほんし)とす。

 而して其施行法は現地の収穫多寡(たか)を量(はか)り且運輓(うんばん=運搬)の便否(びんぴ)、耕鋤(こうじょ)の難易、水利の便否等を斟酌(かんしゃく)して其貢価(こうか)を求め、地価百分の三を地租とするの方法故に、 上諭の御旨趣(ししゅ=趣旨)を体認(たいにん=会得)して、苟も一時の私慾を謀り、後日の大害を醸(かも)しては臍(ほぞ)を噬(か)むも及ぶ事なし。

 依(より)て条例規則並(ならび)に人民心得書を反覆熟知して、着手の順序を誤らず、速に成功を奏すべき旨(むね)、頗(すこぶ)る厳格なる心得方を示され、猶改正掛りよりも、各大区各小区長よりも屡々(しばしば)改正の旨趣を丁寧反覆演達(えんだつ=口達)せり。

 斯く厳格なる条例規則心得書を発布せられ、其主幹たる改正掛が其旨趣の如くに施行するに於ては、人民に於ては素(もと)より何の事由(じゆう)、苦情もあるべき理由なきことなるに、

事実は之に反し改正掛が此改正施行を疎略に取扱ひ、下に記する如く不公平極まる改正賦租(ふそ)をなし之を人民に強ひ、人民は負荷に勘(た=堪)へざるを哀訴(あいそ)すれども、改正掛は威圧(いあつ)を以て之を竣拒(しゅんきょ=峻拒)し、人民は已(や)むを得ず其地を売り租を償ふも仍(な)ほ足らず、

終(つい)に亡産(ぼうさん)、四方に流寓するもの踵(きびす)を継(つ)ぎ、村中荒涼惨怛(=惨憺)、名状すべからざるの大難事を惹起(じゃっき)せり。凡(およそ)全国中地租改正に、如上の大難を被(こう)むりたるは絶無のことなるべし。之を本村難中最も大なるものとす。


(一二)反別丈量(じょうりょう)着手

 明治八年十月より明治九年に亘り、耕地一筆(いっぴつ)限(かぎり)丈量(=計測)に着手す。此地実地丈量に先き立て、各小区長及改正用掛を招集し県庁付近の地に於て、丈量手(しゅ)数十組をして丈量せしめて、

之を試験して各小区内の土地丈量を委托し、其丈量済みたる区より順次改正掛が点検し、其不合格なるものは再丈量をなさしめ、其丈量は正確にして、約一ケ年にて播磨全国耕地丈量を完了せり。


(一三)地等(ちとう=土地の等級)収穫調査議事始まる

 明治十年県令第一号布達に基き地等収穫議事始る。其方法は各大区に一の模範村を撰(えら=選)び、各町村の地等議員之を審査し加除修正して完全なる地位等級を定め一郡の模範とし、

各小区各町村之により比準議定したる上、更に各大区に一の模範地を定め、各大区各小区より各一名宛(ずつ)の地等議員を選挙し、議長は各小区長の内より選挙(之が副議長に正が当選す)し、以て各大区の模範地を比準議定するの順序なりき。


(一四)六ヶ村の地等収穫公平ならず

 上記地等収穫議事に関しては、本村元印南新村外五ヶ村の地等議員及戸長、村惣代(そうだい)等は、他町村の地等議員が本村の土地の真相を知らず、表面平坦開<濶>[潤](かいかつ)なるを見て普通地と同一視して、実地不当の地等収穫を議定して、

之に全国の耕地旧租額を予定額と定めて割当てられては非常の重租となるべきを憂へ、他町村の議員に対し之が弁解に勉め、猶改正掛へ此土地実況を弁解すること数十回なれども、遺憾(いかん)なることには、其実情貫通せず。

 改正掛は村民固陋(ころう=頑迷)にして、増租(ぞうそ)を忌みて苦情を唱ふるものとして、更に顧慮(こりょ)するところ無く、常に威圧を以て竣拒し、

強ひて述ぶれば、傲情者(ごうじょうもの)として呵責(かしゃく=叱る)せられたるを以て、旧六ヶ村の地価改正は、到底正当の賦租とならざるを予想し慨歎(がいたん)せり。


(一五)明治九年十年又凶旱

 此地租改正中に、九年十年夏季照り続き、田方(たかた)植付を六分減じ四分の植付をなし、他皆豆・粟(あわ)・蕎麦(そば)等の毛替(けがえ)作をなし、畑方(はたかた)収穫平均三、四分に過ぎず。

 村民は多年旱災(かんさい)に罹(かか)りたるが上に又引続きての旱災にて、旧地租にして年々年々(としどし)不納者多く、

印南新村の如きは庄屋手許(てもと)にて、年々貢米未進(みしん)の為に、其土地を引き上げ其土地を以て貢米を納むる反別二、三町にも及び、旧貢米取立にすら困難せる場合に、又凶旱に加ふるに改正増租となりては、負担に耐へざらんと深く憂慮せり。


(一六)地租改正調査遅緩(ちかん)

 此地租改正調査は明治九年に完了すべき旨を予(あらかじ)め県令の布達あるにも拘(かか)はらず、九年を超<え>[へ]十年を超過するも猶未だ完了せず、就(つい)ては村吏(そんり)及地等議員の旅費日当并調査費多大なるが、

九年十年の増租追徴額と十一年の新租額と都合三ケ年分を、十一年末に一時に徴収せられては、村民は如何にして生活し得べきやと、益々憂苦(ゆうく)啻(ただ)ならざりき。


(一七)地等収穫調査終はる   付 改正租額内示に付(つき)協議会

(一)新租額内示 此地等収穫調査は一年半にして漸く了(おわ)りたる以て、改正掛は其民議にて成り立ちたる地等収穫を標準として予定の租額を割り当て、各大区の租額を定めて各小区長に内示し、尚不公平なるところあれば此際一大区限り予定の新租額の範囲内にて各小区長に精議(せいぎ)して、修正の見込みを立つべき旨を演達せられる。

(二)租額協議会 当時三小区長片山貞幹より、印南新村外五ヶ村へ割当の租額を該村戸長に内示したるに、戸長は其割当の過重にして旧村辻(むらつじ=全村)租額に対し三倍以上となるを以て、区長へ大に不服を申立て、区長より改正掛へ数回申出、

改正掛は、本村元六ヶ村に限り実地を再巡視し、而して印南新村外五ヶ村へ割当の租額の内幾分を、本大区内の各小区中稍(やや)賦租の軽かるべきと見込む村と適宜譲り合ひをなし、以て印南新村外五ヶ村の負担を軽減する様の協議をなすべき旨示談(じだん)あり。即区長協議会を開きたり。

(三)協議整ひ難し 片山区長は印南新村外五ヶ村の難況(なんきょう)を具述(ぐじゅつ)して、租額の譲り合ひを協議せしに、他区長即ち正も亦同じく其難状を聞きて同情を寄せたれども、

已に一郡へ割当と定まりたる其内より交互譲合せは実際行ひ難く、種々協議の末、些少の譲り合せをなしたるも、些少の譲合せにては此難局を補ひ得ざりき。

 当時改正掛の意見には、本県地等収穫調査方は頗る精密なるを以て、決して不公平なることはあるまじと自信(=確信)せしも、

元来が普通耕作地を調査するの典型を以て一種特別の土地に引用したるもの故(ゆえ)に、益々実地と睽離(けいり=乖離)して、適当の賦租とならざることは最初より分り切つたることなれども、改正掛が思ひ爰(ここ)に至らざりしは六ヶ村の不幸とす。


(十八)印南新村畑作毛見(けみ=収穫検査)願(ねがい)

 印南新村旧田は僅(わずか)に三町五反、旧畑は百八十三町四反にして、畑地が非常に多く、加ふるに連年の旱災と産業不振にて肥料も行届(ゆきとど)かず、<反別>平均麦収穫は三、四斗(と)に過(すぎ)ず。

 其中には荒蕪して作付をなさざるものもあり。然るに区長の内示せる改正予定収穫は九<斗>[年]以上にて、普通畑地と同様の収穫を賦(ふ)しあるを以て甚(はなは)だ不当とし、左の請願及追願(ついがん)をなせり。

 収穫之儀願
 本年県令第一号御達(おたっし)ニ基キ各大区模範村ヲ初メ各小区模範村地等比準ニ至ル迄成功ニ相成(あいなり)候処(ところ)、稍不公平ニ付尚(なお)精議修正ノ御命令有之(これあり)、仍(より)テ今回当小区内比準協議会ヲ開カレ、既ニ協議決定収穫ノ内、本村畑方収穫ハ非常ニ高ク、実地ト格別ノ相違有之ニ付、向後(こうご)収穫会議ノ節、此小区内協議決定ノ収穫ニテ地租ヲ定メラレテハ永ク村民ノ不幸トナリ、尚地租改正ノ御旨意(しい)ニ悖(もと)リ候、仍テ本村ハ更ニ地等調査会ヲ設ケ、本村ノ模範実地ニ就キ、来ル明治十一年麦作収入ノ折柄(おりから)毛見ヲ以テ収穫御定被下度(くだされたく)此段連印ヲ以テ奏願候以上
              明治十年十一月 日
           播磨国第六大区三小区印南新<村>
                惣代人 赤松治三郎
                 同    井澤重太郎
                 同    松田宇在門
                 同    丸尾茂平次
                 同    松尾宗十郎
                 同    赤松治郎三郎
兵庫県令 森岡<昌>[正]純殿

右指令無之に付追願左の通り

 収穫之追願

 本村畑方収穫ノ義ニ付、村中協議ノ上去十年上願(ねがいあげ)仕(つかまつり)候、明治十一年麦作収入ノ季節ヲ待チ毛見御試験ノ上収穫御定(おさだめ)被下度願上候処、未ダ何分ノ御沙汰(さた)無之(これなく)何卒(なにとど)右御指令被下度、此段(このだん)追願(おってねがい)仕候也
  明治十一年二月十六日
    播磨国第六大区三小区
       印南新村戸長 丸尾茂平次
兵庫県令 森岡昌純殿

  右の指令もなし


(十九)地租改正小区長会議

 明治十一年四月地租改正事務所より、各小区長及改正用掛を召集し、姫路船場本徳寺に於て開会。曩(さき)に各小区地等議員が、各大区模範地を巡視し地等収穫を議定したるものを標準とし、別に全国(=播磨国)の総租額を定めて、之を全国の各耕地に割当てんとの提議ありて、原案に賛成者あり。

 又此地等収穫の儘(まま)にて予定租額を割当てば不公平と視認(みと)むる各村もあり。故に其不公平と視認むる各村を特に再調査をなし修正せんと主張<する>者あり。

 議纏(まと)まらず、依て此調査を一切改正掛に一任せんとの動議あり。之に賛成者あり又反対者あり(之には片山区長が大反対をなし、正も亦(また)反対者の一人なりき)取決の際改正掛に一任するに賛成者三四名の多数にて、遂に改正掛に一任するに決せり。

 故に印南新村外五ヶ村の地等収穫再調査の責任は改成掛にあるなり。


(二〇)地租改正新租額発表

 明治十一年七月二十四日地租改正姫路出張所より、播磨国各小区長及改正掛り・各町村戸長惣代を姫路坂田町妙光寺に招集し、改正租額仕訳(しわけ)書を各町村に下渡(さげわた)され、

即印南新村外五ヶ村へ配賦(はいふ)せられたる改正反別、租額の惣額を挙ぐれば左の如し。(注;1町=10反 1反=10畝 1畝=30歩=100厘 1歩=1坪)

一、改正惣反別 1140町5反8畝6歩
  旧反別    434町1反8畝24歩7厘
  差引増反別  706町2反1畝28歩
一、新租額  3/100 7,863円71銭1厘
一、同   2.5/100 6,553円 9銭2厘

 差引(注;旧租額は上記第六章の合計数字2,317円73銭8厘として計算)
3/100 増租額  5,545円97銭3厘  明治九年分追徴額
2.5/100増租額  4,235円35銭4厘   同十年分追徴額
追徴金合計    9,781円32銭7厘

右の通<り>新租額を発表せられたり。猶是に明治十一年分の新租額を合せて、同年末に納むべき惣額左の通<り>。

 一、16,334円41銭9厘 明治十一年末に納むべき惣租額
   内
     金9,781円32銭7厘 明治九年拾年分追徴額
     金6,553円 9銭2厘  同 十一年新租額

 上記明治十一年末に納むべき租額は、<旧>[田]租に対し七倍以上となる。

 素より正当賦租なれば仮令(たとえ)旧租に数倍するとも、敢て否(いな)むの理無しと雖(いえど)も、事実は之に反し不当も甚しき如上の重租を賦し、

之が為め六ヶ村の人民は土地を剥奪せられたるもの四百四十名、地を売り租を償ひたるもの九十四名、其土地を維持すること能はずして売払ひたる者六百名、又活路を失ひ四方に流寓するもの八百名なり。

 是(これ)皆改正掛が違法の所置をなしたる<に>職由(しょくゆう=原因)す。

 畏(かしこ)くも 聖天子上に在り、地租に関しては深く御軫念(しんねん=心配)あらせられ、明治六年に御懇篤(こんとく=親切)なる 上諭(じょうゆ)あり。凡(およそ)民情を御軫念あらせらるゝことは常に 御製(ぎょせい)の御詠歌にも彰(あら)はれたるにも拘はらず、

如上の非理無法なる改正賦租をなし人民を虐遇(ぎゃくぐう=虐待)し乍(なが)ら、政府を欺き己(おの)れは栄職を貪り、剰(あまつさ)へ民情を述ぶる郡長を讒(ざん)し己が頤指(いし=あごで使う)に便なる郡長をして、

如上の虐政を施(ほどこ)さしめたるは、其責(せめ)改正掛に止まらず、必竟(ひっきょう=結局)任用其人を得ず、県令に於ても其責を免がるべからず。其罪跡(ざいせき)は上述及下述するところの如し。


(二一)畑地新旧租額

 旧六ヶ村は、上記の如く畑地が非常に多く、随て改正増租も多し。田の改正増租は凌(しの)ぎ得べきも畑地の増租に至つては、凌ぎ得難(えがた)し。依て其地新旧租額を挙ぐること左の如し。

旧村名  畑 反別    旧租反当    新租反当   差引増額
蛸草新村 90町5反6畝09歩 0円17銭 8厘   0円87銭 9厘  円 70銭 1厘 
野谷新村 63 6 7 02    21  0     82  7    61  7
野寺村  80 8 0 15    15  7     82  8    67  0
草谷村  61 8 7 27    38  1     58  7    20  6
下草谷村 36 8 6 16    23  2     56  5    33  3
印南新村 272 1 8 03    22  0     70  5    48  5


(二二)印南新村改正租額

 旧六ヶ村中租額の最も重きは印南新村なり。其改正租額左の如し。

一、田反別   35町8反2畝21歩
  収穫米   307石7斗6舛7合
  平均反当     9斗5舛9合4勺

地価 金 12,396円63銭3厘
地租 金   371円89銭9厘  米相場石 5円8銭
               利子   6朱7厘2毛
   平均反当 1円3銭7厘

一、畑反別    272町1反8畝3歩
  収穫<麦>[米] 2,550石8斗1舛6合
  平均反当          9斗5舛1合8勺7才

地価 金 63,950円85銭2厘
地租 金  1,918円52銭6厘  麦相場石 3円5銭
               利子 6朱5厘028
 平均反当 70銭4厘9毛

一、 宅反別  20町2畝22歩

地価 金 8,890円48銭7厘
地租 金  260円71銭4厘
  平均反当 3円21銭

合計
 総反別    328町3畝16歩
 地価金合計 金85,237円97銭2厘

 此地租金計 金 2,537円97銭2厘   3/100
 同     金 2,130円94銭9厘  2.5/100

旧租     金  743円89銭7厘
  内 
 田租  100円86銭8厘 
 畑宅租 643円 2銭9厘

新旧租 地価 3/100  差引 1,813円20銭2厘 増
 同  同 2.5/100  差引 1,387円50銭2厘 増


(二三)改正地租に不服

 上記新租額発表の際、印南新村外五ヶ村戸長及地主惣代は此新租額にては負担に耐へ難き旨、改正掛へ申出(もうしいで)たるに、

改正掛は種々説諭(せつゆ)をなし、漸(ようや)くにして印南新村を除き外五ヶ村を請印(うけいん)をなしたるに、猶印南新村戸長丸尾茂平次は服せず。其砌丸尾戸長が改正掛に演述(えんじゅつ)したる要旨左の如し。

 丸尾戸長曰(いわく)

「若し此新租額の儘にて請印せば、吾村畑地二百七十二町を所有せる各地主は納租すること能はずして、窮境(きゅうきょう)は遂に其土地は公売に所(しょ)せられ、土地の権利は他に移り、其極亡村(ぼうそん)となるべきは必然に付、寧(むし)ろ此畑地を悉皆奉還しても此請印はなし難し」

 改正掛長曰[く]

「印南新村の畑地が悪(あし)きとても、一反に付六、七斗の収穫無き筈(はず)はなし。然るに之を拒むは奸物(かんぶつ=悪人)なり。若し此改正に不服なれば県令を被告として大審院(だいしんいん=最高裁)に訴ふべし」

 丸尾戸長曰

「決して長官に敵する意にはあらざれども、吾々は一村の代表者として、斯くの重租に請印をなしては、各地主へ申訳(もうしわけ)なし。此請印をなすと否とは一村の安危(あんき)存亡に関すること故に、強ひて斯く恐懼(きょうく)の至りなれども此請印は致し難く、

「且吾村は曩に地等収穫調査の際に、吾村は特別に麦作熟するを待つて毛見取(けみと)りをなして、正当の賦租をせられんこと<の>[を]要、再<々>も願ひたれども、御採用無くして斯くの不当の重租を賦せられては、到底御請(おうけ)は致(いたし)難し」

 此他に応答ありたれども丸尾戸長の意志堅くして奪ふべからず。然るに此日は播磨全国各町村戸長及び地主惣代数百人会合せるに、丸尾戸長一人の不服の為、改正掛長より全体へ演述の義あるも、之が為演述するを得ず。掛長は大いに困却(こんきゃく)せり。


(二四)丸尾戸長説諭嘱託(しょくたく)

 上記の手縺(てもつれ)につき、関係改正掛及区長よりも種々説諭するも、丸尾戸長は厳然として動かず。

 依て改正掛より隣小区長(=二小区長)、即正に説諭の嘱托あり。正は本人に説諭するの責なしとし、且は断<わ>[は]りたれども、改正掛は、正は全国各大区地等比準副議長にもあり、且本郡各小区模範地等議長にて六ヶ村の土地の景況(けいきょう)も粗(ほ)ぼ実検(じっけん)の廉もあり、旁々(かたがた)依頼するとのことにつき、

乃(すなわち)丸尾戸長を別室に招き、本人が改正の初めより職務に忠実なるを慰藉し且

「印南新村の難状は深く察するところなれども、現場全国各町村戸長及惣代に対し、改正掛長より演達の儀あるに、一人の不服の為めに其演達がならず、掛長も大に困り居(お)られ故に兎も角(ともかく)も枉(ま)げて請印をなし置き、追て実地再調査を請願しては如何(いかが)」

 と云ひしに、戸長は

「忠告の段は深く謝するところなれども、此請印をせば吾村は亡村するは必然に付、到底請印はなし難し」

 と述べたるに付、正は

「此場合余りに請印を拒(こば)まれては、或は違命(いめい)の廉(かど)を以て警官の手に罹(かか)る様(よう)なることがありてはならぬにより、敢て忠告する」

 旨を述べたるに、戸長は憤然(ふんぜん)として

「警官の手に罹ることは素より覚悟のことにて、本日家を出づるとき家累(かるい=家族)に無事では帰られまじと告げ置き、已に其覚悟は致して居る」

 との辞(ことば)に、正は感心して其事を改正掛に通じ、且斯く職務に忠実なる人物に正が<非>理なる忠告をなしたるを胸中愧(は)づると与(とも)に、

該村に人あるを知り、後該村に内務省葡萄園を設置となるに就ても、該戸長と熟議して成り立ち、

尋(つい)で内務卿・大蔵卿・農商務卿以下諸官員続々該園巡視の傍(かたわ)ら、該村及該村地方の状況が政府に貫通(かんつう)し、遂に水利土工費国庫補助金四万五千円下渡の端緒となれり。其詳細は下に述ぶるところの如し。


(二五)改正掛長各町村戸長及地主惣代に演達

 改正掛長は丸尾戸長を除き、其他の各町村戸長及地主惣代を一堂に集めて

「地租改正の肇(はじ)めより、改正の趣旨を体認して、励精(れいせい=努力)勤勉に依り漸くにして完了し、本日爰に新租額を発表するを得たるは、関係諸氏の尽瘁(じんすい)に由(よ)りて然るなり」

 と慰藉して何(いず)れも皆帰村せしめられたり。


(二六)印南新村戸長に決答を促す

 改正掛長は

「丸尾戸長が改正新租に不服を唱(とな)へ請印を拒むに於ては、更(さら)に考ふるところあるにより、弥々(いよいよ)此新租に不服にて請印を拒むや否や、此場にて即答すべき」

 旨を、片山区長に演達ありて、区長より猶精々説諭をなせども、丸尾戸長は其場にて即答をなさずして、旅宿へ引取りたり。


(二七)印南新村戸長漸く請印す

 片山区長及改正掛は、丸尾戸長の旅宿に至り、猶懇々(こんこん)説諭をなせども、戸長は矢張(やは)り前説を主張して服せず、畑地を悉皆奉還(ほうかん)すると云ふを、区長・改正掛は

「先づ請書(うけしょ)を出し、其上自然公売処分となれば、土地は自然奉還に斉(ひと)しきことになるにより、矢張り請印するが宜(よろ)しからん。併(しか)し乍ら其土地を公売処分となることは万々(ばんばん)あるまじ。万一にも其様なることがありたれば、区長・改正掛に於ても決して放棄はせぬにより、此場合兎も角も請印するが得策ならん」

 と説宥(ときなだ)め、其夜も深更(しんこう)に及び、戸長も魂気(こんき)尽き、

「然らば吾村は亡村する覚悟を以て請印すべし」

 と述べ、遂に其翌日請印をなし帰村せり。


(二八)六ヶ村人民不当の重租に憤慨す

 六ヶ村戸長及地主惣代は帰村し、各地主に改正租額を通知したるに、地主は不当の重租に驚き大に憤愷(ふんがい=憤慨)し、且曰

「抑(そもそも)地等収穫議事の肇(はじめ)より、不当の賦租とならざる様の予防に苦心斡旋し、改正掛に幾回と無く陳情せるときには叱付(しかりつ)けられ、今となりては多額、毫(ごう=少し)も其効なく、剰へ此調査の為め三年の長日月と莫大の費用を、普通村よりは多額に支消(ししょう=消費)し、且改正掛は常に公平至当の賦租とすべきを誓言しながら、斯く無理無法なる改正地租を強ひらるゝは、全く改正掛に欺(あざむ)かれたり」

 とて議論沸騰(ふっとう)し、是非共再調査を願ふべしと衆論一決し、六ヶ村戸長より其旨を区長に申出たれども、区長は之を止(とど)め、暫(しばら)く時期を竢(ま=待)つべしと精々説諭をなし、戸長は遺憾極まり無きも已むを得ず、其説諭に従ひたれども、

猶印南新村は畑反別多き故に凌ぎ方無く、実際此賦租にては負担に耐へず、結局土地は公売処分となり、伝来の土地に離るゝに至るべしとて村中<恟>[洶]擾(きょうゆう=恟恟騒擾=恐れ騒ぐ)せり。


(二九)地租改正請印取消上申

 印南新村戸長丸尾茂平次は、改正掛及区長の説諭に依り已むを得ず請印をなしたるものゝ、帰村猶篤(とく)と考ふれば、請印をなしたるは甚だ不得策なるを自悔(じかい)し、帰村数日を経て、県令へ事実を具し地租請印取消上申書を、区長を経由せず親展を以て提出したるも、此上申に対し何の沙汰も無かりき。


(三〇)山田川疏水事業創始

(一)発端 抑此山田川疏水の起因は、遠く明和年間に創始せしが、当時各藩境域(きょういき)を接し議熟せず爾後(じご=その後)に於て前志を継ぎ発起したる有志者氏名左の如し。

(二)第一の発起者 文政九丙戌(へいじゅつ)年、本郡国岡新村福田嘉左衛門(現淡河川水利組合委員福田秀一の祖父)が発起し、野寺村勘左衛門、同村藤左衛門、美嚢郡三木町の平兵衛等と相謀(はかり)、摂津国八部郡衝原(つくはら)村を貫流せる山田川を水源とし、明石郡紫合(ゆうだ)村字練部屋(ねりべや)に至る迄の疏水線を実測し、

福田嘉左衛門が自筆にて図面を製し(此図面は現存し此疏水線実測には之を標準とす)工費の見積をなし、領主へ出願し、領主に於ても種々評議もありたれども、疏水線が他領にも跨(またが)る故に、議遂に纏まらずして採用の運びに至らざりき。

(三)第二の発起者 前者に尋で発起したるは即野寺村里正(=惣代)魚住完治なり。之より先きに魚住完治は、元治慶応より明治初年に亘り、居村(きょそん)が屡々旱災に罹り、貧民は殆ど飢餓に迫るを深く憂慮し、

之を救済するに、村内山林数十町を村民を傭役(ようえき)して切払ひ、其地に新池を築きて新田四拾町を開墾し其傭工銭を以て救助せんとし、先づ之を姫路藩庁に請願したるに、藩庁に於ても其挙を嘉(よ)みし、之を許可し、仍(よりて)金四百円を与へて其費を補はしむ。

此藩命の下るや、挙村大に喜び魚住里正を推(お)して管理者となし、明治元年新池を起工し翌年竣工し、尋<い>[ひ]で新田を開き、遂に魚住里正<の>[を]見込通り工役金を以て貧民を救護し、一方に於ては永世無尽の富源を起せり。近時代に此地方に水利を起して開墾をなしたるは之を始めとす。

 魚住里正は、如上の経験を以て遂に山田川疏水事業を企て、其同志者は国岡新村福田厚七及同村花房権大夫、明石郡神出村西村茂左衛門等にて、同村の藤本増衛門を測量手とし、各自費を以て通水線実測し、

着手すること数月、魚住里正が主動となり、疏水線路を往復上下すること数十回、而して此測量費大半は自から負担し、猶別に一己(いっこ)にて測量手を拾数回雇ひ、疏水路線の見積りを屡々変更し、

実に焦心(しょうしん)苦慮、此測量の為めに費用尠(すくな)からず、殆んど家産を傾くに至り、其熱心なるを人皆感賞せり。


(三一)山田川疏水請願

 前号に記する如く、旧六ヶ村は此年(=明治十一年)凶旱・産業不振に加ふるに改正重租の大難に遭遇し、有志者は深く之を憂慮し、善後の方策を考案せる折柄、魚住里正は此大難を輓回(ばんかい=挽回)するには、即此山田川疏水を起すが急務なるを主唱(=主張)し、有志者之に賛同し遂に左の請願書を県令に提出せり。

 新流掘割(ほりわり)之儀願(本願書は三小区副区長有坂貞蔵氏の起案なりと聞く)

 当村ノ義ハ二百年前後ノ新田畑多クシテ、水源浅ク他ニ水利ヲ得ルノ方策無之(これなき)<ニ>ヨリ、一旦降雨少キ歳ニ遇(あ)ハバ忽チ旱害ニ罹リ、惨状実ニ言フベカラズ、且養水(ようすい=用水)ニ乏シキニヨリ畑方最モ多シ、其反別ノ広<漠>[漢]ナルヲ非常ノ労力ヲ以テ漸ク生産ヲ立来(たちきた)リ申候

 而シテ摂州山田ノ郷衝原村山田川ヨリ掘割ヲナシ、八月ヨリ翌年三月三十日迄ノ間(山田川井堰(いせき)養水ノ要時ヲ避ケ)引水スレバ、其掛リ数十ヶ村ニ陟(のぼ)リ、以テ各溜池ニ充合(じゅうごう=充満)シテ、旱歳(かんさい)ノ虞(おもんばかり)ヲナシ、

又畑ヲ以テ田トナサバ数層倍ノ労力ヲ省キ、此労力ヲ以テ田方ニ用ユレバ、地味益(ますます)肥饒(ひじょう)シ、収利多ク、随テ御国産ヲ増殖シ、実ニ一挙両得ノ鴻益(こうえき)ヲ得、永世不抜ノ大基礎ト存ジ、

旧藩主ヘ出願シ、掛官ニモ頗ル御尽力アラセラレ候得共(そうらえども)、各藩岐立(きりつ=分立)ノ状勢、遂ニ談判整ヒ兼(かね)、苦心モ水泡ニ属シ、遺憾ノ事ニ有之候処、

今ヤ公明正大ノ 聖詔(せいしょう)ニ基カセラレ、改租額御布令相成、謹ンデ奉御請(おうけたてまつり)候得共、前陳(ぜんじん=前述)ノ如ク、畑方多キヲ以テ、永世取<続>[績](とりつづ=生活)キ方ノ基礎ヲ確定セズンバ、凶年飢歳ノ予虞(よぐ)無之ヤト深ク憂慮仕候。

且小前(こまえ=百姓)末々ニモ安堵ノ思ヒヲナサシメ、倍々農事ニ奮励候様仕度(たき)ト、一同発起仕リ候。

然レドモ水道ハ工事ノ難易・永世ノ便否ヲ量リ、屈曲迂回ニ随ヒ、壑下(がくか)ニ沿ヒ或ハ巌石(がんせき)ヲ疏通スル等、数里間ヲ測量見積リ仕候得共、猶精確ヲ極メザレバ不成(ならず)ハ、贅言(ぜいげん)待タズ。

仰(あお)ギ冀(こいねがわ)クバ、厚生至仁ヲ垂レラレ、官ニ於テ測量被成下(なしくだされ)候上成否ノ御指揮被成下度、依テ絵図面及掛リ反別概略見積リ、別紙相添ヘ此段奉懇願候以上

  明治十一年九月七日
      加古新村惣代 畠  義一
      野谷新村 同
      印南新村 同  丸尾茂平次
      国岡野村 同  福田 厚七
      蛸草新村 同  岩本須三郎
      野寺村   同  魚住 完治
兵庫県令 森岡昌純殿

 右指令
 書面願之趣(おもむき)水利順逆実測之儀ハ聞届(ききとどけ)候条、追テ官員派出日限(にちげん)可相達候事
  明治十一年九月十四日  兵庫県令 森岡昌純

 上記請願が疏水に関する請願の始とす。


(三二)郡役所開始

 明治十二年一月八日播磨国各大小区を廃し、更に郡役所を加古川駅に設置に付、同十日正は元同大区二小区より本郡長に任ぜられ、旧<三>小区長片山貞幹より事務を同三十一日引継ぎ、二月三日開庁す。

 当時六ヶ村戸長氏名左の如し。
 野寺村戸長   魚住完治      蛸草新村戸長 岩本須三郎
 印南新村戸長 赤松次郎三郎   印南新村戸長 丸尾茂平次
 草谷村戸長   亀尾嘉平治    野谷新村戸長 魚住藤三郎
 下草谷村戸長 井澤松次郎

 一、地租改正に関する当座の所置

 本村元六ヶ村戸長が続々来庁し、地租改正重租の苦状を具陳せり。郡長正は就職以前より隣小区に在りて、六ヶ村の難状は粗ぼ聞知すれども、猶各戸長の具状に依り其実況を審にし、就中印南新村戸長丸尾茂平次は熱誠に重租の難状を具申せり。

 然れども、改正地租の納期は前年にして已に納期は過ぎ去り、不納処分をせざるを得ざる場合にて、租税課員出張して徴租督促(とくそく)をなし、郡長は板挟みとなりたり。

 然れども職務上地租条例に依り行はねばならぬにより、先づ戸長を召喚して、

「六ヶ村地租改正は一般の改正法に依り施行の結果、不幸にして過重の増租となりたるものにつき、情に於て実に忍び難きことなれども、今更急に之を改むるを得ざるにより、一旦賦課されたる地租は如何様にしても納めしむべし。

「若し之を拒み不納するに於ては、已むを得ず法通り処分せざるを得ざることに成行くにより、篤と利害を考へ、必ず納所(なっしょ=納付)の覚悟をなさしむべし。尤(もっとも)此難状は具(つぶさ)に県令に上申すべき」

 旨を演達し、爾来間断(かんだん=切れ目)なく徴租督促をなせり。

 二、疏水に関する当座の措置

 疏水に関しては、発起者魚住完治及同村魚住逸治(現本村郡会議員・村会議員魚住正継<の>実父なり)を始め其他の戸長より、山田川の来歴及将来<の>[に]企画の大要を熱誠に演述せり。

 正は開庁以来、前記地租改正重租に係る事件及此疏水事件は最も重大の要務とし、先づ関係村の気脉(きみゃく=気脈)を通ぜんが為め、魚住逸治を本郡書記に推薦し、仍ほ別に疏水掛専任書記を置き、専ら該事務を担当せしむ。


(三三)地租徴租督促

 地租改正増租に係る明治九年十年追徴額及明治十一年の新租額を合せて、同年十一月に一時に納むべき賦課令状を、県庁より旧三小区へ送付に付、区長より六ヶ村戸長へ屡々督促をなし、

尚期限に至るも不納のものは不納処分を行ふべき旨告諭をなし、引続き郡長よりも厳しく督促したれども、前記の如く三大難に遭遇せる場合にて、迚(とて)も一時に納むべき余地無く、六ヶ村は困苦を極めたり。


(三四)印南新村畑人民畑地全部買上願  附 地租掛長戸長を叱責す

 印南新村は改正租額発表の砌りより、戸長が屡々改正掛へ陳述の通り、僅に数月を経て土地公売処分となり終には亡村となるべき時期が已に到来に付、憂慮措(お)くこと能はず。村方協議をなし左の歎願書を郡区長を経由せず、県令へ親展を以て直接に提出せり。

 改正増租に付歎願
  兵庫県播磨国第六大区三小区印南新村
         惣代 丸尾彌三郎
          同  松田宇在門
          同  山口萬作

 右惣代人奉申上候、今般改正新租額賦課相成候ニ付、奉畏精々金調(=金策)ノ尽力仕候得共、迚モ改正増租ノ義務難相立、其[ヘ]儀ハ昨明治十一年姫路地租改正御出張<所>ニ於テ新租額被相達候節、

実地不当ノ収穫ヲ見積リ地価金ヲ定メラレ、仍ホ格別ノ増租ニ付、御請難出来旨屡々奉申上候処、御掛官及区長並御用掛等ノ説諭ニ押シ付ケラレ、素ヨリ愚昧ノ土民後日ノ困難ヲ不顧、当用ノ入費ヲ厭(いと)ヒ、一時請書差上候。

 就テハ方今直(ただち)ニ公売処分ヲ可仰筈ニ御座候得共、格別ノ増租ノ土地ニ付、方今御達ノ地価金ノ三分ノ一ニ<テ>モ買手無之ハ判然仕候。依テ今般公売ノ御処分奉受候テハ、貧民ハ勿論(もちろん)縦令(たとえ)相当有財ノ者ト雖モ、到底貧困トナル事ハ必然ナリ。

 左様相成リテハ地租改正ノ御趣意ニ悖ルノミナラズ、必死困難ニ陥リ迷惑至極ニ付、不得已奉歎願候。何卒前条御上察ノ上格別ノ御憐恤ヲ以テ、一応(=一度)実地御検査ノ上広ク入札払トナシ、代価御定被下候歟、又ハ相当ノ直段(ねだん=値段)ニ<テ>御買上被下候歟、両様ノ内御憐愍ヲ以テ、<本>[松]村一統生活ノ途相立候様成下度、此段伏テ奉歎願候以上

 明治十二年一月二十七日
         右村惣代人 丸尾彌三郎
          同         松田宇在門
          同         山口萬作
 右新租之儀歎願ノ情実相違無御座候以上
         右村戸長  丸尾茂平次
兵庫県令 森岡昌純殿

指令 
 書面願之趣難及(およびがたく)詮議候事
  明治十二年一月二十八日

 右願書を差出したれば、地租改正姫路出張所より戸長及び惣代に、明二十八日出頭すべき旨召喚状到達に付、丸尾戸長は必定今回は改正掛に大に叱られ法衙(ほうが=警察)へ移さるべしと覚悟し、家を出づるとき家内の者に今回は迚も無事では帰るまじと云ひ置き出頭したるに、景福寺内旧県庁に於て改正掛長及掛官列席にて、丸尾戸長に

「何[に]故に県令に直願したるや、不届千万なり」

 と、大に可責(かしゃく=呵責)せられ、其席に居るに耐へられぬ程に厳敷(きびしく)詰問(きつもん)せられたるに、丸尾戸長は落ち附き徐(おもむ)ろに答へて曰く

「甚だ恐れ入りしことなれども、一村人民が生活することを得ず亡村となるべきを深く心配の余りに直願を致したる次第に付、御咎(おとがめ)被むることは厭はざれども、何卒村民の立ち行く様御取計を偏(ひとへ)に願ふ」

 旨を述ぶ。掛長曰く、

「本来改正租額は民議にて成り立ちたるもの故に、今更に六ヶ村より如何程歎願するとも決して採用なるべきものにあらず。又印南新村の畑地が悪しきとても、一反に付六、七斗位の収穫の無き筈はなし

(掛長が反収穫六、七斗云々と述ぶれども、改正収穫は九斗五升九合の平均を以て地価を定めあり)。然るを種々難渋を唱ふるも、其申立は皆偽(いつ)はりなり」

 と申渡しの上、該願書に前記の指令を以て却下し、

「尚ほ此後に於て決して県令に直願すること相成らず。若し再び直願するに於ては容赦無く厳重の所罰に行ふべし。今回は特別を以て容赦する」

 と言ひ渡され、其砌<縲>[繰]絏(るいせつ=逮捕)は免れたれども、丸尾戸長は掛長が「難渋の申立ては皆偽はりなり」との語には憤慨し、遺憾骨髄に徹し、撓(たゆ=弛)まず屈せず倍々(ますます)反動力を起し、

爾後に於ても県令に直願し、猶進んで内務卿へ直願せんとしたること、下に記すところの如し。此前後丸尾戸長の行動は往事の義侠(ぎきょう)佐倉宗吾に酷似せりと人皆感賞せり。


(三五)印南新村戸長再び直願書を提出す

 印南新村戸長及惣代は、同年一月二十八日呼出しの上改正掛長が「幾回歎願するも皆偽はりなり」との云ひ渡しに大に憤慨し、且其播磨全国四十八小区の地等議員が何を視認めて吾村の土地に不当の地等収穫を定めたるやを、

其四十八小区地等議員に面会して其理由を質問せんとの覚悟をなし、先きに改正掛長に厳しく叱責せられたるにも拘はらず、左の願書を親展を以て又県令に提出せり。

 以書附(かきつけ)奉願候

 今般地租改正新租額格別増租ニ付、極難渋ノ歎願ヲ先月二十七日差出候処、翌廿八日御呼出ノ上該件ハ最早新租額御請済ミ相成居、殊ニ其以前耕地収穫ハ民議ニテ成立ノ廉有之ニ付、今更其一村ヨリ如何程歎願ヲ出シ候トモ、悉皆偽リト見做スベシト、御掛官ヨリ申渡シノ上、「歎願之趣難及詮議事」トノ事、御指令ヲ御下ゲ渡シニ相成奉畏候。

 乍併(しかしながら)元来民議ニテ成リ立ノ収穫員数モ、其議員衆ノ姓名不分明ニテ、素ヨリ愚昧(ぐまい)ノ土民疑惑ヲ生ジ候間、前条ノ始末詳細ニ承知仕度奉存候、依之(よっての)御手数ノ義ハ奉恐縮候得共、元来民議ヲ以テ耕地収穫ヲ定メタル当時奉差上候書面、今一応拝見仕度、此段伏テ奉願候以上。
 明治十二年二月四日
  兵庫県加古郡印南新村 惣代 丸尾彌三郎
             同                 松田宇在門
             同                 山口萬作
 前書願ヒ出デ候ニ付奥印仕候也
          右村戸長             赤松次郎三郎
兵庫県令 森岡昌純殿

右指令
 書面之趣、民議ニ関スル書類ハ悉皆姫路改正出張所ニ有之候条、同所ニ申立熟視可致事
 明治十二年二月十四日


(三六)郡長六ヶ村の難状具申及疏水線実測申請
               附 租税課長と地租に関する応答

 郡長正就職以降、数回上庁して地租改正に関し六ヶ村の難状を具申し、且之が善後策としては、地方有志者が企画せる山田川疏水事業を起す<が>[は]最も緊要に付、

客年(かくねん=去年)九月七日付請願に係る疏水線実測の為め土木課員を速に派出せられんことを申請し、猶土木課長にも事実を述べ速に土木課員<の>派出を乞(こ)ひたるに、土木課長は請願の意を諒察(りょうさつ=推察)し大に注意(=注目)せり。

 之に反し租税課長(即地租改正掛長)は事々物々反対せり。其砌租税課長と郡長との論旨左の如し。郡長曰、

「地租の徴収督促は間断無く励行し居るも、印南新村外五ヶ村は実際地租改正の結果不当も甚しき重租を賦せられたるが上に、改正調査が三年も掛りたるが為め、明治九年十年の増租追徴額と十一年の改正租額と三ヶ年分を合せて十一年末に一時に賦課せられ、其賦課惣額は旧租額に七倍余となれり。

「殊に印南新村の如きは八倍以上となり、加之(しかのみならず)累年(=毎年)凶旱の上に産業不振にて萎靡凋衰せるが上に、又明治九年十年の旱災にて益々衰態を表はし、今日の糊口(ここう=生活)に窮するの惨状実に見るに忍びず。

「然るに旧藩治時代には凶年には特に扶助米を給与せられしが、維新以後該制度をも廃せられたるもの故に、如何にしても納租せしむるの途なし。

「且其畑地の公定地価は平均二十三円なるに、其実価は毎反僅に二、三円に過ぎず。其荒蕪せる畑地に至つては無代価にても取るものなし。如何となれば、其土地が已に荒蕪せるが上に、旧租に三倍以上の<増租の>上に、明治九年十年の増租追徴額が附帯せる所以なり。斯くの有様に付、印南新村外五ヶ村の畑地租に限り特別の取扱にせざれば、迚も徴収し難し」

 租税課長曰く、

「其れは皆口実なり。印南新村外五ヶ村が如何程苦状を唱ふるも、他町村の地等議員が公平なる眼を以て地等収穫を定めたるもの故に、決して不当の賦租にあらず

(課長が民議にて成り立ちたりと云ふも、前に記せる如く、其民議にて成り立ちたる地等収穫は、会議に於て此六ヶ村の地等収穫<の>[は]不公平なることは議<決>[会]にて視認たるを、改正掛が再調査をなさず其儘になしたる故に、斯の不公平なる賦租となれり)。

「依て六ヶ村人民が不平を唱ふるも厳く督促して、猶不納の者は断然不納処分を行ふべし。且此程明石郡長の上申には、『加古郡の徴租が寛慢(かんまん=緩慢)なるに依り、接続せる明石郡村民は加古郡村民を見倣[做]ひ納租を怠るに因る』と申立てたり。加古郡村民の納租を怠るは、他郡村民にも差響き甚だ不都合なり」

 とて頻に正を嘲罵せり。郡長曰く

「決して口実にはあらず。斯くの不当なる賦租を人民に強ゆ、第一上諭の御趣旨に反し人民に信義を失ふこと故に、其様なる無理なること、官民の間に職を奉ずるものゝ行ふ能はざるところなり」

 と。課長は前説を主張して正を罵詈(ばり)するのみなりき。


(三七)不納処分を執行せず

 六ヶ村の難状を此後に於ても屡々具状すれども、遺憾なることには情実が貫通せず。加古郡民が地租不納するは他郡にまで差響くとて厳しく県令に叱られ、剰へ租税課長には罵詈せられ、実に心外千万なれども、

退いて熟々(つらつら)思ふに、此際長官に阿(おもね)り、村民の窮状を顧みず、租税課長の云ふ如くに法に依り不納処分を断行せば、郡長の任務は済むが如しと雖も、之を道義に基き考ふれば、無辜(むこ)純良の人民に対し苛虐(かぎゃく)の収斂(しゅうれん=取立て)を行ふは、素より政府の本旨にあらず。

 元来、地租不納所分法は、従前の緩苛(=寛苛)不公平なる地租を公平至当に<帰>[期]せしめ、然るが上に、納租の義務を怠るものを懲戒する機関なり。

然るを租税官が、実地不当の重租を賦して、殆ど一村が亡びんとするの惨状に陥りたるをも顧みず、其土地を公売に附せよと云ふは無法も甚だしく、封建時代と雖も斯くの収斂をなさず、況んや明治政府の下に於て莫須有(ばくすゆう=未曾有)の事なり。

 故に此場合仮令上司の命令に背むくとも、此六ヶ村の窮難を救済するを先きにし、即此山田川疏水事業を起すに鋭意励精し、而して不納処分は執行せざりき。


(三八)山田川疏水線巡視

 本疏水線巡視は、二月八日<郡>主任書記の巡視を始めとし、爾後郡長も屡々巡視せり。但(ただし)郡長巡視の都度は一々登記せず。


(三九)疏水線実測再願

 明治十一年九月七日<の>疏水線実測請願聞届け指令後、未だ土木課員出張なきにつき、六ヶ村惣代より左の再請願を提出せり。

 新流掘割測量之義懇願

 山田川ヨリ掘割実測之義、去明治十一年九月中奉願候処、同十四日付ヲ以テ、追テ掛官御派出云々ノ御指令相成候処、今以テ何分ノ御沙汰無之、何卒御実測被下度、此段奉願候也
 明治十二年二月十四日
  播磨国加古郡
     野寺村 
             惣代 魚住完治
     野谷新村
     下草谷村 同  井澤松次郎
     印南新村 同  赤松次郎三郎
     草谷村   同  亀尾嘉平治
     蛸草新村 同  岩本須三郎
 兵庫県令森岡昌純殿

指令
 書面測量ノ義ハ不日(ふじつ=近々)掛官派出可及実施候条、此旨可相心得事


(四〇)疏水関係村異同

 山田川疏水関係村は最初、国岡新村・野寺村・野谷新村・印南新村・蛸草新村・加古新村なりしが、国岡新村・加古新村は故無く分離し、更に草谷新村・下草谷村加盟し、爾来此六ヶ村<を>[は]疏水関係村とす。


(四一)疏水線実測発起者の測量と符合す

 同年三月七日、本県土木課より県属(けんぞく=県職員)藤井忠弘氏外弐名、疏水線の高低実測の為め出張に付、主任書記及び関係村戸長并に測量手藤本増右衛門等実地案内をなし、

水源八部郡衝原村分水岐点より、順次明石郡紫合村字練部屋迠(まで=迄)測量。五日間にして水源より練部屋迠の高低判然、通水の見込立ちたるを以て関係村へ其旨を通知せり。

 此間発起者魚住完治が先導をなし注意周到なりしが、弥々高低判然通水すべきの通知を得て、多年不完全なる和製の測量器を以て実測したると符合したるを以て、本人の喜び啻ならず、益々該事業に熱中せり。


(四二)疏水発起者の目的

 本疏水に関し発起者魚住完治の目的は、元来関係六ヶ村は如上の三大難に遭遇せる場合に斯くの大事業を起すことは素より不可能のことなれども、本事業を起し、傍ら現時の凶荒を救護するの目的にて、

始めより無理なる企業につき、到底、県庁にて工費を一時繰替を願ふか又は国庫金貸与を願ふか、何れにしても六ヶ村の民力のみにては行ひ難きにより、先づ最初に節約して設計し貰ひ度旨を土木課に請求せり。


(四三)疏水に関し明石・美嚢郡両郡長に交渉

 此山田川を疏通するには、水源八部郡衝原村より明石・美嚢両郡の山野を通過せざるを得ず。之を通過するには先<づ>其地元村の承認を経、土地の買上より在来の用水に支障なき様種々の協商を要し、

且は其線路に沿ひたる両郡の畑・山林・原野に灌漑して開墾せば約二千町の田を開くことは容易につき、乃正は両郡長に交渉せしに、美嚢郡は賛成を得ず、明石郡長とは兔に角一応実地を巡視することに協約せり。


(四四)明石・加古両郡長疏水線巡視

 予約通り明治十二年四月七日、疏水線を両郡長立合巡視す。発起者魚住完治先導、関係村戸長及測量手随行、八部郡衝原村疏水分岐点に至る

(此前夜大雨にて河川暴溢して徒渉(としょう=歩いて渡る)に難(かた)かりしを、正は上衣を脱し渡りて前岸に達せり。発起者魚住戸長之を見て喜び謝して曰く「之を疏水の紀念とせん」と)。

 此日衝原村「千年屋」に止宿。翌日順次線路の要部を巡視して、明石郡紫合村練部屋に出、野谷新村松尾要蔵宅に止宿。

 明石郡長(代理書記なり)に、同郡村に疏水に賛成を得んことを懇請(こんせい=懇願)し置きたるに、旬日(=十日程)を経て、該郡村は疏水に賛成<の>協議纏り兼ぬる旨報知ありたり

(後に両郡村共疏水に関係せざりしを悔<い>[ひ]屡々加盟を乞ひ、明治三十九年に至り漸く加盟せり)。


(四五)疏水協議会

 疏水線実測以降、関係六ヶ村の協議会を開きたることは数回なるも、現場<は>徴租督促厳急なるを以て、<爛>[火+閑]額(らんがく=焦眉)の急、他を顧みる遑(いとま=暇)なく、

且其疏水は頗る難工事につき、第一工費支弁の途なきに困却し、何づれも不揃につき、正も屡々臨席し、時あつては土木課長の臨席を乞ひ、与に勧誘奨励をなせり。


(四六)六ヶ村難状貫通せず

 六ヶ村戸長は、郡役所より徴租督促に依り、各地主へ厳しく督促すれども、各地主は積年の凶慌にて疲弊(ひへい)を極め、殆んど餬口(ここう=糊口)に窮するの現状に付、納租するを得ず、戸長より屡々其難状を具申せり。

 郡長に於ては其実状は深く察するところなれども、何分にも法則(=法律)を以て賦課せられたるもの故に、間断なく督促し置き、而して正は又上庁して此難状を具状すれども、其実情は依然として貫通せず。

 県令には徴租が捗取(はかど)らぬとて厳しく叱責せられ、租税課長には嘲罵せられ、正が述ぶることは毫も貫通せず、遺憾極まりなかりき。

 而して人民側に於ては、郡長が此難状を知り乍ら、県令には阿り無暗に徴租の督促するとて怨み、正は実に進退維(これ)谷(きわ)まりたり。

 蓋し此難状が何故に貫通せざるやと云ふに、是には因て起るの源因(=原因)が暗々裏に伏在せり。

 其原因は、本来播磨国の地租改正は明治八年に肇まり、九年に完成すべき旨令達ありたるにも拘はらず十一年に亘り、予定より殆んど二年を経過し、漸くに施行済みとなり、

而して之が施行には改正掛が机上の考へを以て区々たる地価利子の参酌(さんしゃく=取扱い)に細則を設け、各地毎筆(ひつ=区画)に頗る煩冗(はんじょう=複雑)なる算出法を定め、改正官吏を多人数雇ひ入れ、為に官民共に多大なる経費を要せり。

 去る替(かわり)には、改正掛は「播磨国の地租改正は各府県無比の好成績を得たり」と誇唱(こしょう=誇称、自慢)し、県令に良(よ)しなに復命し、主省へも報告あるなり。

 故に此印南新村外五ヶ村の改租の不成績が暴露せば、改正掛の責め免れ難く、延<い>[ひ]て累を官長(=長官)に及ぼすの虞あり。

 故に改正掛即租税官は、六ヶ村の難状を壅塞(ようそく=隠蔽)維勉め、正が其実況を具状するも、租税官は常に長官の傍にありて、

「実際六ヶ村は納租に耐へ難<く>はあらざるも、郡長が人民に欺かれ、徒(いたずら)に事情に拘泥(こうでい=固執)して事実の針小を棒大に主張<するは>[して]、己れが徴租の捗取らざる口実に過ぎず」

 と誹議讒謗(ざんぼう=悪口)至らざるなし。故に長官は之を信ぜられたるなり。

 如上の内情ある故に、正が六ヶ村の難状を幾回述ぶるも貫通せざるは、全く之が為めなり。正は至難の地位に在り。当時の長官には長く知遇を得たりしが、此徴租の事に付具状すれば忽ち意に逆ふ故に、上局へ出づる毎に苦心啻ならざりき。

(四七)此年又大旱に付き県令の巡視を請ひたるも容れられず

 此年(=明治十二年)挿秧(そうおう=田植)の季節より雨量甚だ少く、田は僅に三、四歩の植付をなし、其他は大豆・蕎麦等の毛替作をなしたるに、七、八月に亘り益々照り続き、田面は悉皆亀裂し、稲毛大半は枯凋(こちょう=枯れしぼむ)し、畑作は皆無に付、戸長より続々具状あり。

 郡長其<地>[他]を実検したるに、其惨状見るに忍びず。尚其村柄(むらがら=村の様子)を眺むれば、九、十年の旱災に引続きての大旱に、加ふるに徴租の督促厳急なるを以て、村民往々亡産して家出をなすもの多く、村中至るところに廃屋の痕迹(こんせき)をのこし、其存在せる家屋とても破壊し、荒涼惨担(=惨憺)名状すべからず。

 依て正又上庁して現状を具申。現状地租の督促どころにあらず、差向(さしむ=当面)き人民を救護せざるべからざる場合に付、県令<に>一応実地巡視を懇請すれども、県令は租税官の讒訴が先入主となり、人民が悪るものの如き念慮が脳裏に根ざされたるもの故に、正が述ぶることを信ぜずして巡視を肯ぜられず。依て責めては租税課長の巡視を申請せり。


(四八)租税課長巡視

 同年八月、租税課長が属官二名を従へ実地巡視に付、正も出張し、六ヶ村戸長<も>出迎ひ、印南新村戸長丸尾茂平次先導、同村字西場より南場に抵(いた)りたるに、田面<は>悉皆亀裂し、稲毛大半は已に枯凋し、畑作は殆んど皆無の現状なり。

 課長は之を視、胸中驚きたる体にて、暫く其畦畔(けいはん=あぜ)に息(いこ)ひて熟視し、其より所々巡視了はり、同村に休憩せり。

 此時村民は、此課長が地租改正の掛長にて不当の重租を賦し、剰へ其難状を訴ふるものを叱りつけたる<の>[を]怨み骨髄に徹し居る場合に付、此際に直接に此難状を述べんと、数十名集合し課長に面会を乞へり。

 課長は其機を視て恐怖心を発し、多人数の面会を避け、該村戸長及地主惣代数名と、蛸草新村外四ヶ村戸長に面会して曰く、

「本日は予(かね)て郡長の上申に依り、長官の命を受け旱害の実地を巡視したるに、如何にも非常の旱害を被むりたることは、克く視認めたり。

「何れ此趣きは委(く)は[わ]しく復命するにより、追つて何<ら>の沙汰あるべし。而して熟々当村の景状を察するに、斯く旱害のある土地は仮令免租にしても此地の維持は難かるべし。乍併一旦確定したる租額は六ヶ年を経ざれば修正するを得ず。

「依て此地方には水利を起して此荒蕪せる畑地を開墾して稲田とせば、収穫も多くして永遠に旱害の憂ひ無かるべきに依り、地租の軽減を願ふよりは、方面を変へて専ら水利を興すことに注意するが宜しかるべし。

「其工費を国庫に仰ぐことは、一通りでは六(むつ)かしけれども、本職は大蔵省に知る人もあるにより、都合によれば周旋(しゅうせん=斡旋)をすべし。乍併此工費を国庫に仰ぐことは郡長が余程に尽力せねば出来難し」

 と述べ、己が主管(しゅかん=管轄)外の事を持ち出して其場を胡麻化(ごまか)し帰県せり。

 租税課長が地租改正の主幹となり改正租額を発表し、戸長が負担に耐へざる旨訴ふるを偽はりなりと叱りつけ置き、実地の景状を視、始めて賦租の錯誤なるを自覚して、仮令免租にしても維持し難かるべし<抔>[杯](など)と自白せるは失態<も>亦甚しく、

「帰庁復命の上何分の沙汰もあるべし」と明言し置き乍、爾後何の沙汰も無く益々徴租督促をなすは実に言語道断、県令に於ても任用其人を得ざるの責免がるべからず。

 而して村民は租税課長の演述を真受(まう)けにして大に喜び、水利土工費貸下(かしさげ)を願ふことに尽力せり。


(四九)六ヶ村戸長水利土工費貸与を願出づ

 六ヶ村戸長は、租税課長が地方の難状を視認め帰庁復命すると云ひたるもの故、定めて何分の沙汰もあるべく、且疏水工費を国庫に仰ぐことは、課長が云ひたる如くなれば、貸下を願ひたれば貸下になるものと思惟し、

課長の巡視数日を経て郡役所へ出頭し、国庫貸与願を差出度につき、郡長正に請願書草案をなし貰ひ度旨を申出たれども、正は之に対し、

「国庫貸与の事は是迄に屡々県令に申出たれども之は容易に貸与なるべきものにあらず。依て此請願は見合せ、暫く時機を竢つべし」

 と説諭して之を止めたり。


(五〇)印南新村人民救助願

 上記租税課長巡視後数十日を経るも、何の沙汰も無きのみならず、徴租督促益々急迫なるに依り、村民は其苦に耐へず、村中惣寄合をなし協議の末、左の嘆願書を提出せり。

   嘆願書
        兵庫県播磨国加古郡印南新村

 右村惣代人奉申上候。去明治十年地租改正御調査ノ際、郡内地等議員ヨリ実地不当ノ収穫見込相立ラレ、其議決表ニ基キ、同十一年七月地租改正租額ヲ御達相成リ、其砌ヨリ屡々奉歎願候得共、更ニ御再調相成不申候。

 就テハ御達ノ新租ヲ速ニ上納可仕筈ノ処、当村ハ耕地反別広ク農民ハ尠ク、畑裏作ニ水利無之ニ付、旱魃ノ憂多ク、尤少シ田地アリト雖モ養水ニ乏シキニ付、多分井水ヲ釣リ揚ゲ養水ト致シ、隣村ニ此類無キ費用ヲ尽シ、既ニ秋収(しゅうしゅう=秋収穫)ノ間際ニ聊(いささ)カ照リ続ケバ旱損(かんそん=日照の損害)スルコト儘(=間々)多シ。

 斯クノ難状ノ土地ニ付、御達ノ通リ新租増額ノ儘上納ノ義務ヲ可尽ニ於テハ、本村農民ノ生活ノ道困難至極ニ奉存候。依テ恐ヲ顧ミズ再三奉歎願候条、何卒特別ノ御仁恤(じんじゅつ=仁徳)ヲ以テ、本村農民生活ノ道相立候様御救助被成下度、此段伏テ奉歎願候以上。

 明治十二年十一月十日

 右村惣代人
     赤松次郎三郎 丸尾茂平次
     赤松治三郎   丸尾彌三郎
     松尾宗十郎   山口萬作
     植田安次郎   厚見與平
     赤松彌一平   厚見伊三郎
     立花甚平     丸尾市郎平
     丸尾市平     澤田文左衛門
     沼田甚左衛門 赤松太郎平
 外廿七名ハ略ス

前書ノ通リ相違無御座候ニ付奥印仕候以上
 右村戸長 大岡善平
            沼田壽三郎
            松田宇在門
兵庫県令 森岡昌純殿

 右連署歎願書は、印南新村人民が凶慌(=凶荒、飢饉)に苦みたるが上に重租を賦せられ、其重租なることは改正を取扱ひたる掛長が人民<に>直接[に]「免租にしても維持は難かるべし」と明言しながら、帰庁後何の取扱をなさず却て益々徴租厳しく、

人民は怨み積り従前なれば銘々竹槍・席旗(むしろばた=蓆旗)を以て訴ふるところなれども其れをしては其罪を受けること故に、人民は実に困苦を極めたる余りに提出したる請願書なり。然るを租税課長が握り潰して何の指令をもなさざりき。


(五一)六ヶ村戸長水利土工費貸与請願書を携へ上庁

 租税課長が前記の如く、印南新村巡視の際に水利土工費国庫貸与の周旋をすると公言したるを以て、六ヶ村戸長が該請願をなさんとするを正が止め置きたるに、爾後地租に関しては何の沙汰も無きのみならず益々徴租督促厳しく、

人民は其苦に耐へず、正が止め置きたるにも拘はらず苦<し>さまぎれに、是非共工費貸与願をなさんとて請願書を認(したた)め、印南新村外五ヶ村戸長連署し、該請願を携へ、六ヶ村より壱名宛上庁する趣を郡長へ申出でたり。

 正は六ヶ村人民が斯くまでに決心したる故に、已むを得ず正も亦上庁し、租税課長が印南新村人民に対し公言したる要旨を摘記(てっき=メモ)し、尚意見を<添>[沿]へ上申書を提出せり。

 然るに受付にては該請願は土木事件に付土木課へ回送し、土木課長は之を上局に提出したるところ、上局に於ては租税課長が主管外の事を人民に告げたるは甚不都合なりとて租税課長が大に叱責せられ、租税課長は面色(めんしょく)土の如くになり、倉皇(そうこう=慌てる)狼狽戸長の扣所(ひかえしょ)に抵り、

「曩に談じたることは全く打解け懇話(=懇談)したるなり。然るを表て向きに願出られては甚だ困ることにより、該願書を下(さげ)戻し貰ひたし」

 と云ひたれども、戸長は今更に撤回するを得ざりしが、遂に県令は郡長の上申に左の指令を以て却下せられたり。

 書面属官ハ本年旱害ノ実況ノ為調査派遣候儀ニ付、起工事項云々ノ指示或ハ答弁スルヲ得ズ、即主管外ニ渉ルヲ以テ総テ可為(なすべし)無効、猶別紙願書指令之趣相心得下付(さげつけ)方可取計事
 明治十二年十一月二十日
    兵庫県令 森岡昌純

 上記租税課長の旱害巡視は何の詮(せん)も無きのみならず、徒らに無益の失費をなし益々人民怨みを増したりしが、其間も無く租税課長は辞職せり。

 蓋此租税課長の辞職につき租税課員は悪感情を抱き、六ヶ村人民が水利土工費貸与願を提出したるは、郡長が土木課長と共謀して人民を教唆(きょうさ)し、貸与願を差出さしめ、以て租税課長をして辞職の已むを得ざらしめたるが如くに狐疑(こぎ=猜疑)し、

爾来一層郡長を讒し、且租税課と土木課と軋轢(あつれき)を生じ、遂に土木課長と郡長排斥(はいせき)を企て、其密謀(みつぼう)成就し土木課長と郡長は排斥せられたり。其詳細は下に記するところの如し。


(五二)地租督促益々厳急  付 郡長討論

 而して租税課員は引続き郡役所へ出張し、地租の督促益々厳急に、県令の命なりとて郡長を罵り惨々(=散々)に侮辱せり。

 郡長は六ヶ村の景状益々窮迫し来り、米作は二、三歩に過ぎず、畑作は殆んど皆無となり、貧民は飢餓に迫り、旧藩治時代には扶助米を供給せしに廃藩後は給助を廃せられたる上に、

旧租額に対し三倍以上の増租をなし、猶其上に明治九年十年の増租追徴額と明治十一年の新租額と合せて旧租額に七、八倍の租額の上に、又十二年の地租を督促され、其惨状見るに忍びざる有様につき、

情に於て忍びざれども、何分にも長官の命を以て租税課員が迫るにつき、已むを得ず郡吏を派して督促したるに、農民は、此難状を熟知し乍ら県令に阿<り>[ひ]無法の取立をするは無情も甚しとて、郡長を腑甲斐(ふがい)無きものゝ如くに怨み、民情甚不穏に付郡長又上庁して此難状を具申したるに、長官の言はるゝには、

「地租改正の不納は六ヶ村のみなり。之が為め大蔵省より厳しく督促ありて、県庁に於ては大蔵省へ申訳無く、最早此上は情実を以て恕(ゆる)すべからず。不納者は断然所分すべし」

 と厳命せられたり。然れども正惟(おも)ふに、此場合若し法通<り>に所分せば、印南新村の如きは一村の畑地二百七十二町を挙(こぞ)つて公売に附せざるべからず。

 果して然するときは、先きに該村戸長丸尾茂平次が地租改正租額発表の際に論じたる如く、一村の畑地は悉皆他人の所有となり其亡村となるべきは必然に付、仮令長官の命令と雖も道義に背くのみならず、明治六年の 上諭に悖ることは行ふべきことにあらずと覚悟し、猶長官に反覆其事実を述べ諫(いさ)めたるに、長官大に怒られ、

「人民が如何程苦情を唱ふるとも容赦なく不納処分を断行すべし。此場合に譬(たと)ふれば県令は司令官なり郡長は兵士なり。兵士は司令官の命令なれば如何なる敵にても向ひ戦ふは当然の事なり。

「故に是非とも不納処分をなし、之が為め六ヶ村人民の土地を取り上げ人民が吃食(=乞食)になるとも又村が潰ぶれるとも、厭ふべきことにあらず」

 と極端なる語を発せられ、余りとや暴虐なることを言はれたるに付き、正は之に対し

「如何にも敵国に対し兵士が勇戦するは勿論なれども、敵国と人民とは大に異なり、民政に軍政を以て譬喩(ひゆ)せらるゝは以ての外なり。

「本来六ヶ村人民は無辜純良の良民なり。然るを租税官が地租改正に違法の賦租をなし、人民は其負荷に耐ず已むを得ず不納するものにして、必竟租税官が良民に対し不納者の悪名を負はしめたるものなり。

「苟も官民の間に立ち職を奉ずるものが民情を述ぶるは当然のことなり。故に斯くの非理無法なることは断じて行ふべからず」

 と討論し、之に対し長官は又激論を発せらるとも正は服せざりき。

 蓋当時の県令は、平素は温厚の長官にして斯く迠の極端なる語を発せらる人物にはあらざれども、租税官が己が非を掩(おお)はんが為め、<諛>[該]辞(ゆじ)巧言を以て欺きたるもの故に、

県令に於ては所謂浸潤の譖(しんじゅんのそしり)・膚受の愬(ふじゅのうったえ=讒言の浸透)にて、正が述ぶるが如きことは万無きことゝ堅く信ぜられて斯く言はれたものなれども、それにしても斯くの語を発せられたるは、県令の美徳を損なひたるもの謂つべし。

 但本文に述ぶる明治六年の 上諭は左記の如し。

 朕惟フニ租税ハ国ノ大事、人民休戚(きゅうせき=苦楽)ノ係ル所ナリ、従前其法一ナラズ、寛苛軽重率(おおむ)ネ其平ヲ得ズ、仍テ之ヲ改正セント欲シ乃所司ノ群議ヲ採リ、<地方官ノ>衆論ヲ尽シ、更ニ内閣諸臣ト弁論裁定シ、之ヲ公平<画>[盡]一ニ帰セシメ、地租改正法ヲ頒布ス、庶幾(こいねがわ)クハ賦ニ厚薄ノ弊(へい=害)ナク、民ニ労逸(ろういつ=苦楽)ノ偏ナカラシメン。主者奉行(ほうこう=執行)セヨ。

 如上の至仁至厚の 上諭あるにも拘はらず、租税官の行為斯くの如し。租税官は違勅の大罪人なり。

 附記 此日郡区長会議あり。郡区長は、上局に於て正が討論<せ>し言論の激しきを聞き、竒異(きい=奇異)の思をなし、其内知己の郡長二名が帰郡掛(が)け、正の宅を過訪(かほう=立寄)し<て>曰く,

「本日上局に於て<の>議論の可否は差置き、方今県治制度となりては、長官に対し余りに抗論するは宜しからず。若し長官の忌諱(きい=機嫌)に触るゝときは忽ち一封の書にて其職務を解かるゝものなり。

「然るを旧藩主に対し忠諫(ちゅうかん=忠義のいさめ)するが如き心を以て直諫(ちょくかん=直言)すれば、必ず其身に害あり、慎むべし」

 と忠告を受けたり。正は其忠告を感謝し且曰く、

「正も亦此利害を知らざるにあらず。実は困難の地位に陥り進退谷まり甚だ痛心せり。然れども此場合難を避けて職を辞するは職務に忠ならず。さればとて苟も吾身を謀り長官の命に遵(したが)ひ、其村が亡びんとするにも拘はらず、不納処分をするは道義を重んずるものゝ忍びざるところ。

「況や明治六年の 上諭あるに於てをや。故に寧ろ身を捐(す)<て>[げ]て義を守り、飽迄(あくまで)も忠諫して地方村の窮難を救護せざれば休(や)まざるの精神なり」

 と答へたり。


(五三)長官の内諭

 上記の如くに長官の意に触(ふ)るゝにも拘はらず、爾後に於ても丁寧反復地方の難状を具申せしに、長官も稍悟らるゝところありて曰く、

「地租改正の不都合は本職に於ても其責なしとせず。然れども播磨国の地等収穫は総て民議にて成り立ちたるものにして、当時郡長は其任に当たりたるにあらずや

「(此民議にて成立云々は前にも記するが如く、不公平なる掛官が修正することになりたるものなり)。果して然らば本職のみが其責を負<ふ>[う]べきにあらず。

「其論は差置き、現時地方村民の難状実に憫然(びんぜん=哀れ)なる訳なれども、何(いずれ)に<して>も租税官が改正法に依り施行の結果、過(あやま)つて爰に運び来りたるものにつき、今更急に之を改正するの途なし。

「村民に対しては気の毒なる訳なれども、克く村民に説諭して銘々負担の地租は如何様にしても差繰(さしくり=やりくり)して納済せしむべし。

「去る替りには山田川疏水工費を国庫に仰ぐことは関係六ヶ村位<ゐ>[ひ]の小事業には成難<き>ことなれども

「(其砌福島県<猪>苗代湖水を新田に開発し、其工費は国庫貸与となりたることが新聞に出たることありて、其事を長官に述べたりしが、後に長官の噂<話>には彼の工費は五十万円以上も掛り、悉皆国庫支弁となりたりと聞けり)

「此地方の難状を具申して工事の成り立つ様精々尽力すべし。然れども此疏水事業が成るからとて、肝<腎>[賢]の地租徴収を怠りてはならぬにより、人民が疏水事業の成立を望むなれば、先づ地租を完納せしむべし。

「若し地租を完納せずして唯(ただ)疏水のみを冀望(きぼう=希望)したりとても、其れは採用し難し。依て克く人民に利害を説き示すべし」

 と誠実に内諭(=内々にさとす)せられたり。正は此内諭を受け、稍々(しょうしょう)地方の難状が貫通せるを喜びしが、爾後数月を経て内務卿代理官の地方巡視となり、長官は此前言を跣行(せんこう=践行、実行)せられしことは下に記すところの如し。


(五四)納租の難状

 上記の如く長官の内諭を受け地方の難状も稍々貫通し、且多年企画せる疏水事業も長官が尽<力>すると言はれ、是れ程好時機はあらず。地方村に取りては寔(まこと)に喜ぶ<べき>ことなれども、唯納租の点に至りては頗る難事なることは上記の如し。

 蓋長官の考には、人民が地租を納むる<ことは>出来ぬと云ふも、其実は他の資産を以て差繰すれば納め得らるべきものゝ様に想像せられ斯く言はるゝなれども、当時各地主の内、他の資産を以て差繰して納め得べき余力のあるものは十分の一も無く、

皆其土地を抵当にして借入れるか、其土地を売りて租を償ふかの両様より外に差繰の仕方無く、又其土地を売らんとするも反僅に二、三円乃至(ないし=から)五十銭なれども、其れにても買手無きの現状なりき。

 現状斯くの如くにして、正は百方運慮(うんりょ=苦慮)すれども策の施し方無く、呻吟(しんぎん=苦悩)躊躇(ちゅうちょ)日又一日を過ごせり。

 然れども此時期を逸せば疏水事業も成らず、随(つい)て<は>此頽壊(たいかい=頽廃)せる村落の恢復も期すべからず。依て尚熟慮細思、此盤根錯<節>[切](ばんこんさくせつ=難渋)の中に在ては、

徒に常套を守株(しゅしゅ=墨守)して因循姑息(いんじゅんこそく=伝統に固執する)の時にあらず。此場合には機に投じ変に応じ、所謂変通(へんつう=臨機)策を行はざるべからず。

 此変通策を行ふには苟も一毫の私心を挟(さしはさ)むこと無く、唯一片の誠意を貫き地方人民と心を一つにし、患難(かんなん)を与にするの覚悟無かるべからずと自信し、蹶然(けつぜん=立上がる)奮起(ふんき=奮い立つ)して、益々納租の金策と疏水事業を起すに熱中せり。


(五五)老農者に諮問

 正は元武人にして農事は晦(くら)し。此大業を行ふには慎重にして、苟も失敗の悔<い>[ひ]無からしめんことを欲し、先づ地方の老農者の意見を聞くの必用<を>認め、乃其砌地方の重望を負ひ老農の聞こ<え>[へ]ある、本郡土山村増田性蔵、加古川駅大村清七、其他二、三の老農者に諮問したるに、其意見大略左の如し。

(一)山田川疏水事業 本事業は大に良し。先づ初めには規模を小にして僅にても通水せば、年を逐ふて浸潤し自然に水力を増すものなり。

 而して人民が其通水することを視認めたれば、自然に他の有力者が見込みて土地を買入れ、開拓するに随ひ漸次に疏水を拡張することは容易なり。

 且此事業が成立ちたれば土地の実価は騰貴し、彼の荒蕪せる畑地も変じて沃田(よくでん=肥沃な田)となり、所謂災を転じて福を得るは、此時に善後の方策之に如くものはなし。

(二)納租金策 当地方は旧藩時代には年貢を軽くしたるが上、仍凶歳には手当米を給し、成るべく移住民を多からしむる方略(=対策)を取られたるところ<なるに>、意外にも重租を賦せられたるが上に手当米も廃せられたる故に、到底此地方人民の資力のみにては、此大難を輓回し得べからず。

 依て人民の土地を維持し得べき丈(だ)けの土地を残し、其剰余の土地は坂神(=阪神)其他の地方の有力者に割譲し、其有力者に開拓せしめ、地方人民は之が小作者となり、其売払代金を以て地租を納めしむること。

(三)今一策は、稲田となる見込み無き荒畑には、松苗を植<ゑ>[し]森林となし、而して地種を変換して此重租を避くる事。

 右老農者が疏水事業に賛成を得たるは、大に正が意図を鞏固(きょうこ=強固)ならしめたり。然れども剰余地を売りて租を償はしむるの策<は>[に]、人民の所有権にまで侵入することゆ<ゑ>[へ]に、之は正道にあらず、

大に考ふべき事なれども、一時此窮難を解決するには、此変通策を執るにあらざれば他に方策無く、苟も正道にあらずとして此策を執らざれば、納租の金策も執れず疏水事業も成らず、土地は益々荒蕪し、随て村落は益々萎靡沈衰(ちんすい=凋衰)して、遂に土崩瓦解するに至るは必然につき、

寧ろ此剰余地を売らしむるの策を執るは頗る機宜(きぎ=時機)に適する良策と視認め、且は印南新村戸長丸尾茂平次が、村内に不用地が夥多(かた=多数)あるにより幾らにても売払ふと云ふことは、屡々正に語りたることもあり。

 旁々以て爾来其方針を執り、此地方には売払地が夥多あることを遠近に知らしめんが為め、其砌官民共に交際広く近府県<に>有名なる印南郡曽根村素封家亀田五一郎を始め、其他交際家に土地売払ひ周旋を委嘱せり。


(五六)納租の為め印南新村畑地を内務省葡萄園御用地に買上を願はしむ

(一)発端 前記の如く剰余地売払に関しては常に注意せしが、爰に地方に取りては真に天佑とも云ふべき大福音を得たり。

 其れは明治十二年十一月頃、内務省勧農局出仕(しゅっし=勤務)福羽逸人(ふくばはやと)氏(現宮内省内苑局長兼式部官)が葡萄園御用地選定の為、東海・山陽・南海・西海諸道の各県巡視に付、即兵庫県へも巡視の事が「大阪朝日新聞」に出でたり。

 正之を見て印南新村に此葡萄園を設置せられんことを欲し直に上庁、長官に此事を述べたるに、長官も可とせられ、後数日にして福羽氏来庁に付乃長官より談話せられ、正も亦上庁同氏に面会し懇請し置きたり

(同氏は曾(かつ)て東海・山陽・南海・西海諸道の温暖地の川沿又は荒廃地を開拓して葡萄を栽培し、追々繁殖(はんしょく)に随ひ、内地にて葡萄酒を製造して外国輸入の葡萄酒を防止するの策を松方内務卿に建白(けんぱく=提案)せられ、之を採用になりたりと聞く)。

(二)福羽氏来郡 同氏来郡に付、正が案内して印南新村に抵り、園地予定地巡視の上、同氏の照会に依り戸長丸尾茂平次を召喚、土地三十町を地続き一纏になし図面を製し、地主氏名・反別代価等を詳記し差出すべき旨通知し、

此取調には郡吏も出張して差図(さしず=指図)をなさしむ。後数日にして同氏又来郡に付、正も共に予定地に赴けり。然るに同氏は

「元来園地買上げの目的は、耕作地にあらざる川沿又は荒廃地を二、三円にて買上げの積りなるに、此予定地には作付をなしあり。此外に作付をなさゞる地は無きや」

 <と>[を]尋ねられ、正は

「此地は作付をなせども大半荒蕪して荒廃地も同様なり。且其川沿地又は荒廃地なれば開拓費を要すれども、此畑地なれば開墾費を要せず。且此地方は連年旱災に罹りたる上に地租改正に重租を賦せられ、頗る困難を極めたる場合に付、

「此地に園地を定められたれば、此地方には荒蕪せる畑地が数百町ある故に此荒畑にも葡萄を栽培せば、此地方に葡萄酒を盛大に製造し得べきに依り、何卒此地に園地を定められ度」

 旨を懇請せり。


(三)御用地買上に付苦情

 印南新村戸長より剰余地を買[ひ]取<り>貰ひ度と云ふことは常に談もあり、且此地に葡萄園を設置せられたれば、本村に取りては将来に最良のことゝ思惟し、正が頻に勧めたるに、売主四十三名は弥々買上げに定まると、伝来の土地を地租の為買上げになるは甚だ不条理なること故に苦情あり。

 其地主が云ふには、

「此買上となる畑地価は平均二十三円なり。然るに其地租が納まらぬとて厳しく督促されたる場合につき、其土地を買上になるなれば、其地価通りに買上げなるが当然なり。

「然るに同じ政府にて一方は大蔵省所管にて地価二十三円を賦せられ、其土地を内務省に於ては地価三分の一にも足らざる代価にて買上げらるゝは、甚だ歎かはしきこと故に、せめては反六円五十銭にて買上を願ひたし」

 と戸長へ申出たり。然るに福羽氏は

「斯の作付をなしたる土地を買上げの積りにはあらざれども、郡長より本村の難状の談もあり、且地続き一纏めにして買上るに付、旁々反六円までは買上に取計ふべし。其上は如何様の事情があるとも買上げには相成らず。尚篤と地主へ談ずべし。何れ五、六日先に今一応来るべきにより、其れまでに談を取極め置く様」

 <と>戸長に言ひ置きて去られたり。


(四)買上土地代価漸く定まる

 其後旬日を経て即同年十二月三十日福羽氏来郡。戸長及地主惣代と談じ合をなすも、代価六円と六円五拾銭との差にて双方の折合つかず。同氏は最早買上を止めて去らんとする模様を戸長より報知につき、正は之を聞き同三十一日該村へ出張、戸長及惣代を召喚し種々協話(=協議)をなせども、

「元来地租を納むるに其土地を郡長が売らしむるは甚だ不条理なり」

 とて頻に不平を述べ、結局

「六円五拾銭なれば買上を願ふべし。左も無くては買上は願はぬ」

 と強鯁(きょうこう=強硬)の談につき、随行の郡書記を仲裁に入れ、尚又種々利害を説き其夜深更に至るも談纏まらず。翌十三年一月一日午前二時に戸長・惣代を喚(よ)べども来らず。

「若し此機を逸せば本村の恢復は期すべからず。依て買上代価六円と六円五拾銭との差額、三十町に対する百五拾円は、正が私財を以て償ふにより、是非共買上請書を差出すべし」

 と言ひ渡したるに、尚疑ひて容易に承諾せざりしが、遂に地主も承諾したる旨を届出たるは同日午前十時なりき。

 此土地買上に付ては非常の苦情ありたるとも漸くにして地主も承諾したるは、戸長及地主惣代の尽力に由る。元来斯くの沒理的(ぼつりてき=不条理)の措置をなせしも、其根元を<繹>[訳](たず)ぬれば、全く租税官が改正賦租を誤りたるを、弥縫(びほう=取り繕う)綢繆(ちゅうびゅう=補強)せんが為、已むを得ざる苦策を取りたるものなり。

 然れども該村に葡萄園を設置せられたるは、正さしく本村難恢復に至大の効験を彰はせり。


(五七)御用地買上代金を以て地租を納めしむ

一、畑反別 参拾町弐反八畝弐歩 内務省勧農局買上地
  此地代 金千八百拾六円六拾九銭壱厘
  但し、一反に付六円

 上記畑地を普通売買価格より倍額以上に買上になりて、地主の利徳となりたるが如しと雖も、事実は之に反し此代金は地主へ渡さず。其買上となるべき土地<の>[を]他へ抵当に差入ある分を受戻す金は元地主へ渡<すも>[し]、其他は悉皆地主へ渡さずに地租の内へ納付せしめたり。

 尤此地主四十三名分の地租にのみ納めしめたるにはあらず。村辻惣租額へ納めて後に、地主相対にて差引勘定をなし、其取扱は戸長及地主惣代が立入り世話をなしたるなり。

 此土地買上代金を地租に納めしむることは、予て地主に言ひ含めて地主は承諾の上の事なれども、本来[が]地主が普通地租を怠慢にして納租の義務を欠きたるものにはあらず。前記の如く、全く租税官が不当の重租を賦したるが故に、斯く苛刻なる収斂を行はねばならぬ場合になり、地主に対し実に気の毒千万なる訳なり。

 此納租の為には正は非常の苦心をなし、表面地租の督促をなし置き、其裏面に立つては其地租を納めしむるが為、僅に一週(=周)年前に改正したる地価額<の>四分の一の低価にて其土地買上を願はしめ、其代金を以て地租を償はしむると云ふことは不条理なることにて、郡長が斯くことを行ふは素より正道にあらず。

 人民が怨む<も>[を]疑ふも無理にはあらざれども、先きに長官が「地租は如何様にしても差繰して納めしむべし。去る替りには山田川疏水事業の成立つ様には尽力する」と誠実なる内命がありたるを以て、

何にがな地租不納を片付け、疏水事業の早く成り立つ様せんが為、熱心の余に如上の取扱をなしたるものなり。

 若し疏水事業も無く、唯単純に地租のみの事なれば、決して土地を売らすが如きことはなさゞるなり。凡(およそ)本史<を>読むの諸君は此点を諒察せられんことを欲す。(了)




これは「稲美町の案内」といふページの私訳 母里村難恢復史略 を元に原文を再現して、32章から57章までを付加し、稲美町立図書館にある原典毛筆写本のコピーと照合して作成した物である。筆者の独特な漢字の用法に関しては、公刊されてゐる同じ筆者による『農政改革論』を参考にした。

『母里村難恢復史略』の全178章は、郷土誌「印南野文華」31号から44号までの巻末に分載されて活字化されてゐる。この雑誌は稲美町郷土資料館の事務所で閲覧できる。ただし誤字脱字が多い。

また、原典を昭和30年に手書きでガリ版刷りにしたもののコピーが稲美町と加古川市の図書館にある。この方が精度は高いが、文字が小さく現行にない略字が使はれてゐるので読みにくいのが難点である。

『母里村難恢復史略』 は稲美町史の原点といふべき書物で、稲美町の歴史はこの本抜きには語れないといふべき本である。また、一般的に、地租改正の有り様やそれが地方に与へた影響について考へる場合にも重要な資料と見做すことができる。

役場(
いなみ野ため池ミュージアム)がその後作成した全編のPDF版はこちら。なほこれは稲美町立図書館にある原典写本に当つて作られたものではなく、既存のガリ版刷りをそのままPDFにしたもので、文字は大きくなったが誤字はそのままである。


誤字脱字に気づいた方は是非教へて下さい。
2006.10-2014.8.12  Tomokazu Hanafusa / メール


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