『難太平記』



 伊予守入道了俊今川(1326~1414頃)作

現代語訳はこちら。章分けと小見出しはこの現代語訳と同じである。


                   
『難太平記』1

ー 執筆の動機 ー

  愚かなる身にはおのれが心をだに知らぬなるべし。たとへば、惜しき、欲しき、憎し、いとほしきなど思ひを知らざるにはあらず。かやうに覚ゆる心は、いかなる物ぞと知るべきを申すなり。

  また、己が親祖はいかなりし者、いかばかりにて世に有りけるぞとしるべきなり。人の事は知侍らず、我身にて思ふに、我が父より先の事はつやつや知らざるなり。おのづから故殿〈範国〉(=筆者の父)の昔物語りなどし給ひし次いでに、かたはし仰せられし事の今わづかに覚るを申すなり。

  是を思ふに我が子ども孫共は更に父がたゝずまひをだに知るべからず。

  昔山名修理大夫時氏(1303-1371)といひしは明徳〈後小松〉(1390-1394)に内野の戦に討たれし陸奥守(=山名氏清)が父なり。それが常に申しゝは、

  「我が子孫はうたがひなく朝敵に成ぬべし。その謂は我建武以来は当御代(みよ)(=足利氏)の御かげにて人となりぬれば、元弘以往はたゞ民百姓のごとくにて上野(かうづけ)の山名といふ所より出で侍しかば、渡世の悲しさも身の程も知りにき。または軍(いくさ)の難儀をも思ひしりにき。

  「されば此御代のお影の忝なき事もしり、世のたゝずまひも且つは弁へたるだに、今はやゝもすれば上をもおろそかにおもひたり。人をもいやしく思ふにて知りぬ。子どもが世と成ては君の御恩をも親の恩をもしらず、おのれをのみかゞやかして過分にのみ成行くべき程に、雅意(=我意)にまかせたる故に御不審をかふむるべきなり」と子息どもの聞く処にて申しき。

  案の如く御敵に成しかば、昔人はかやうの大すがたをばよく心得けるにや。実に此人一文字不通なりしかども、よく申しけるにこそ。

  されば我が身にも故殿の常に仰せられしことに、その世にはさまでよき事とも存ぜず、剰へもどかしき様にも思ひしを、今思ひ合はすれば、一つとして理(ことはり)ならずといふ事なし。

  我身今老いぼれぬれば、子どもにも生める子のごとくに思はれたれども、なからん跡に定めてまた思ひ知るべきや。

  その為に父の語給ひし事のはしばしを書付け侍るなり。是もひが覚え多かりぬべきをばみな略したり。たしかに覚え又支証分明の事計(ばか)りを申すなり。



『難太平記』2

- 足利歴代について -

  一、神代には唯二人の子なりけめども、その子孫さまざま生まれきて、その末々或ひは国王・大臣、或ひは民百姓となるぞかし。いやしく世の為無益の人は田を作り、人に仕へなどせしより氏なき者に成来けり。

  今も我等(=私)事はわづかに父の世ばかりこそ知侍れ、二三代の祖の事などはつやつや知らねば、終に我子孫は必定氏なき民と同じ者になりぬべし。されば今わづかに聞えたる片はし計り書き付るなり。

  八幡殿とは義家朝臣陸奥守鎮守府将軍の御子義国より義康、義包、義氏、泰氏などなり。泰氏を平石殿と申しき。その御子に頼氏。治部大輔殿と申す。その御子に家時。伊予守と号す。その御子に貞氏。讃岐入道殿と申す。その御子にて大御所〈尊氏〉、錦小路殿〈直義〉はわたらせ給ふなり。

  頼氏は平石殿の三郎にあたらせ給ひしかども、御当家を続かせ給ひき尾張の人々(=斯波氏)・渋川などは兄なりしかども皆庶子になりき。細川・畠山などは義包の御下より分かれたるにや。

  抑も義包はたけ八尺あまりにて、力人に勝れ給ひしなり。誠は為朝の子と云々。義康襁褓の上より養き。世にはゞかりて人にかくし給ひければ終に知る人なし。

  頼朝右大将には殊更近付給ひしかば、猶世に憚りて空物狂になり給ひて、その代は無為に過給ひしかば、「我子孫にはしばらく霊と成りて物くるはしき事おはしますべし」と仰せけると申し伝へたり。

  さればまた義家の御置文に云ふ「我七代の孫に吾生替りて天下を取るべし」と仰せられしは家時の御代に当たり、猶も時来らざる事をしろしめしければにや、八幡大菩薩に祈申給ひて、「我命をつゞめて、三代の中にて天下をとらしめ給へ」とて御腹を切り給ひしなり。

  その時の御自筆の御置文に子細は見えしなり。まさしく両御所(=尊氏・直義)の御前にて故殿も我等なども拝見申たりしなり。「今天下を取る事、唯此発願なりけり」と両御所仰せ有りしなり。

  此の如く一代ならず御志にて世の主と成給ひたりしを、「我等が先祖は当御所(=今の将軍)の御先祖(=頼氏)には兄の流れのよし」宝篋院殿〈義詮〉(1330-1367)に申し給ひて系図など御目にかけられたる人ありき。御意大きに背きて(=不興を蒙た)後に人に御物語有りしなり。

  天下をとらせ給ひて後は日本国の人誰かは此御恩の下ならぬ人有るべき。一族達(=一色家)などは殊更、今は謙下(へりくだ)りて然るべきことなり。

  「家によりて身を云ふべしとは努々(ゆめゆめ)思ふべからず。文道をたしなみて御代(=将軍)の御助けとなりて、その徳によりて立身す可き」と朝夕錦小路殿〈直義〉仰せ有りき。此事は石見直冬慈恩寺殿、宮内大輔と申すころ、畠山大蔵少輔直宗、一色宮内少輔直氏(=了俊の甥)、我等などに御おしへ有りし事、人も少々承り及びしにや。



『難太平記』3

- 今川一族について -


  一、我等が先祖事は義氏の御子に長氏上総介より吉良とは申すなり。その子に満氏(=吉良氏)の弟に国氏と云ひしより今川とは申すなり。

  貞義上総入道法名省観(=吉良満氏の子)と我等が祖父の基氏(=今川基氏)とは従父兄弟なり。吉良満義右兵衛督と故入道殿心省(=故殿)は三従兄弟(みいとこ)なり。

  関口・入野・木田などゝ云ふ人々は国氏の子共にて、我等が祖父の弟共の末なり。故殿の御為には、いとこの子共なり。

  今川をば基氏計り相続なり。関口は母方小笠原にて其方よりゆづり得たるなり。入野芸州は三浦、大多和の人々母方にて、一分ゆづり得て入野とは申すなり。今川の川端の人々と云ふは此人々の事なり。

  基氏の御いもうとあまたおはしまして、みな公家重縁(=親戚)になりしかば、その子共を今川の石川とも云ひ、名児耶とも云ふなり。これは基氏の御養子なりしかば、故殿の御為には連枝(=兄弟)なり。仍建武の頃御所(=足利尊氏)に申し入れ給ひて御一流(=一族)となりき。伊勢の国にそかといふ所の領家も基氏の妹聟とかや聞き及びしなり。石川三位公と云ひし父は法師宮の子なり。

  一色少輔太郎入道(=直氏)の父(=一色範氏=了俊の兄)は山臥にてありしを、基氏姉聟に取りし間(=~ので)、故殿には伯父にて一色入道と故殿はいとこにておはしましき。



『難太平記』4

- 今川庄について -


  一、今川庄をば左馬入道(=足利義氏)の御時より、長氏(=吉良長氏)の少年の御時装束料に給ひしを、吉良庄惣領、進退(=身代)と為す可しと沙汰ありし故に、基氏不会(=不和)になり給ひしにや。

  故殿の御代に省観上総入道、合躰(=和解)ありて父子の契約より違乱(=混乱)止めき。了俊(=筆者)ゆづり得し間、相続なり。

  東福寺仏海禅師は了俊が師なり。仍(より)て彼塔頭正法院に永代寄進申すなり。この和尚は、我等が先祖今川一名、此所知行せしはじめより政所にてありし高木入道と云ひし者の伯父にておはせしかば、旁々(かたがた)よしみ有りし上に、我が七世の父母の菩提に永代寄進申しき。

  然りと雖も若(もしく)は子孫の中にこの名字の地大切に存ずるものあらば、此処よりは公貢(=収入)も多く慥(たしか)ならん私領に、公方に申して替るべし。よろしくば塔頭の随意たる可きなり。此草子を支証(=証拠)たる可く申すなり。



『難太平記』5

- 足利高氏・直義の誕生 -

  一、大御所の御事を申つるに書落間、追ひて申すなり。大御所御うぶゆめしける時、山鳩二飛び来て、一は左の御肩先にゐる。一は扚の抦に居けり。錦の小路殿(=直義)御生湯の時は山鳩二羽来て、御扚の抦と湯桶のはたに居たりけり。

  先代(=北条氏)の世にはばかりて、その時は披露なかりける。当御代(=足利氏)に御年ごろ(=最近)の人々にも申出にや。



『難太平記』6

- 足利高氏の上洛 -

  一、元弘に御上洛の時、不思議のことありける。三河国八橋に御着きの時、御前人数の無き夕に、白き衣かづきたる女ひとり参りて云ふ、

  「御子孫悪事無くば七代守る(=続く)べし。その支証には毎度合戦に出給ふ時、雨風をもつて示し申す可し」と云て夢の如く失せにけり。

  それよりして、ひしと御謀反のこと思し召し定て、上杉兵庫入道(=憲房、尊氏の母方の伯父)御使と為し、まづ吉良上総禅門(=貞義、尊氏の親類)に仰せ合せられしに御返事に云ふ、「今まで遅くこそ存づれ。尤も目出かる可く云々」。その後人々にも御談合有りけり。

  此事関東御立ちの時より内々上杉兵庫入道は申し勧めけるにや。家時・貞氏この両御所(=家時・貞氏)の御造意(=企み)を、大方殿(=母方)の上杉計りに仰せ聞かせられけるとかや。是によりて殊更その人、骨を折て河原合戦(=『梅松論』29参照)に討死しけるとかや。今の上杉中務入道(=朝宗)の祖父なり。



『難太平記』7

- 『太平記』 -

  一、六波羅合戦の時、「大将名越(=高家)討たれしかば、今一方の大将足利殿先皇(=後醍醐天皇)に降参せられけり」と『太平記』に書たり。かへすがへす無念のことなり。

  此記の作者は宮方深重(=南朝側をひいき)の者にて、無案内にて押してかくの如く書きたるにや。寔(まこと)に尾籠(=失礼)のいたりなり。尤も切出さる(=削除)べきをや。

  すべて此『太平記』事誤りも空ごともおほきにや。むかし等持寺(=政府があつた場所)にて法勝寺の恵珍上人この記をまづ三十余巻持参し給ひて錦小路殿の御目にかけられしを、玄恵法印(?- 1350)に読ませられしに、おほく悪しきことも誤りも有りしかば、仰に云ふ、

  「是は且つ(=ちよつと)見及ぶ中にも、以てのほか違ひ目(=間違ひ)おほし。追ひて書き入れまた切出すべき事等あり。その程外聞有るべからずのよし」仰せ有りし。

  後に中絶なり。近代重ねて書き継けり。次でに、入れ筆(=加筆)共を多く所望してかゝせければ、人の高名(=武功)数を知らず書けり。さるから随分高名の人々も且つ勢ぞろへ計りに書入たるもあり。一向(=全く)略したるもあるにや。

  今は御代重ね行きて、此三四十年以来の事だにも、跡形無き事ども雅意に任せて申すめれば、哀々(あいあい)その代の老者共在世に此記の御用捨(=取捨、判断)あれかしと存ずるなり。

  『平家』は多分『後徳記』の確かなるにて書かれたるなれども、それだにもかく違ひ目ありとかや。ましてこの記は十が八九はつくり事にや。大かた(=大部分)はちがふべからず。人々の高名などの偽り多かるべし。

  また錦小路殿(=足利直義)の御前にて玄恵法印読みて、その代の事どもむねと(=主に)かの法勝寺上人(=恵珍)の見聞給ひしにだに、此の如く悪言(=批判)有りしかば、唯押して(=無理に)難じ申すにあらず。



『難太平記』8

- 九州落ち -

  一、九州に御退の時の事、御供申たりし人も多く『太平記』に名字入らざるにや。子孫の為不便(=不憫)のことか。此の如き事は諸家の異見書きなどにても記(しる)されたき事なり。すべて此の如きの事はそしり(=批判)有る事なり。『夢想記』と号して細川阿波守注したる物も、「さらぬやうにて私曲(=不正)有り」とこそ其代の人々は語られしか。九州より御上洛有りて所々戦(いくさ)にも高名申されたる人多きよし申すめり。



『難太平記』9

- 篠村八幡宮にての旗揚げ -

  一、丹州篠村八幡宮の御前にて御旗揚げ給ひしに、御願書を引田妙源書きしとは見えたり。同時(=その時)に両御所の御上矢を一宛神前に進ぜられしに、役人二人有りけり。一人は一色右馬介、一人は今川中務大輔なり。

  此事は子細(=くはしい事情)有る事にて、口伝(くでん)なき人は誤りも有るにや。此事などは尤も書入れられて、気味(=気持)有るべきにや。この中務大輔とは我等が兄の範氏の事なり。

  今川に細川そひて出ぬれば 堀口きれて新田流るる

  などいふ落書も有りけり。『平家』にも「赤じるし白たなごひ(=手拭い)に取かへて頭にまく小入道哉」などいふ比興(=面白い)の事もあれば、是も書き加へたらましかば、此人々の子孫の為面目ならまし。細川は卿公(=細川定禅)事云々。



『難太平記』10

- 八々王 -

  一、その比(ころ)大御所は東寺の御陣なり。先皇は山門に御座なり。四方の口々を宮方より塞ぎしかば、味方(=尊氏方)兵粮難儀にて、東は関山阿弥陀が峰、南は宇治路、西老の山、北は長坂口などに連々(れんれん)大将をつかはして破られしに、故入道殿、阿弥陀が峰に向ひて、諏訪今比叡の前にて戦ありて追ひ払給ひし時、左の肩先を射られ給ひき。

  その二三日ありて四宮河原(=山科)に勢を向けられけるに、重ねて故入道殿が向れしかば、鎧の射向(=左側)の袖を解きて向かひ給ひしに、まづ坂口には仁木右馬助義長、今の右京大夫なり。三井寺路めぐり地蔵には故殿向給ひしに、義長云ふ「今日は逃げず継ぐの戦なるべし」と云ひければ、故殿「勿論」と返事ありき。

  終日両所合戦に仁木手退く間、相坂手より伊勢国愛曾といふ大力の者只一騎うしろより来けるを、前のたゝかひの隙なきに是を知給はず、故殿の御あとに控へられたる安芸入道殿の甲のしころを切り落としければ落馬なり。ならびて控へたる範氏の卅六さしたる大征矢を払切りにしてけり。

  その時故殿馬を立て直して、先づ太刀をおられしに、愛曾甲の鉢をわられて馬の平首(=側面)に平(ひら)みて太刀にて払けるに、左の御籠手(こて)の二の板を切りて前なる敵の中に分け入けり。その時此戦もやみけるなり。

  後に故殿家人殿村平三と云ふ者、愛曾が知音(=親友)にて、此甲の鉢と半首(はつぶり)を取出て見せて、「今川殿はいかなる剣を持ち給ひて、随分某(それがし)がためしたる甲と半首をわり給ひて、鉢巻き切て頭にすこし疵をかうぶりき。眼(まなこ)くらく成りしかば引退し」と語りき。

  それより此太刀を八々王と名付け給ひしなり。八を二つ重ねたる故なりと仰せられしが、この太刀も籠手も故総州所望して今相伝なり。太刀は国吉が作なり。



『難太平記』11

- 清き武者の心は… -

  一、建武二年(1335)に駿河国手越河原の戦に御方打負けしに、錦小路殿御討死有るべきよし細川卿房(=定禅)勧め申す間、淵辺(=義博)といふ御年来の仁申して云ふ、「まづ御前(おんまへ)に討死仕るべし」と唯一騎大勢の中に馳入て討たれき。御方続くに及ばず。今川名児耶三郎入道この時討死なり。

  故入道殿申されけるは「是は御打死のつぼ(=急所)にあらず。御退有りて、味方をまとめられて、後日の御合戦目出たかる可きの由」申して御馬の口を押し返しければ、御馬廻りの人々一同に御馬の尻を打ちて退かせ申しけり。

  暗くなりければ故殿計りとどまられしか共、敵馳かゝらざりければ、夜に入りて御跡により興津(おきつ)(=清水)の宿に追付申されけり。

  この後、九州御退の時、兵庫魚御堂といふところにてみな腹切りの着到(=名簿)付けられしに、細川卿房は「御舟に召されるべし」と申し行(まうしおこなひ)(=進言)けり。故入道殿は「是にて御腹召されるべし」と張行申しけり。

  此事を後日に錦小路殿の常に御物語ありしは「この二ヶ度は既にはや御先途(せむど)と思し召し定めしを、両人の異見うしろあはせ(=あべこべ)なり。きよき武者の心は同じかるべしと思ふに、此違ひ目は今に不審なり」と仰せ有りしなり。

  此事などは殊更隠れ無き間、『太平記』にも申入れたき(=書き加え)事なり。若しさる御沙汰やとて今注付くる者なり。



『難太平記』12

- 中先代の乱 -

  一、式部大輔入道殿の事〈三郎頼国と号す〉(=故殿の兄)、中先代合戦の時、海道の大将として京都より下向し、遠江国佐夜の中山にて先代の大将名越といふ者討取き。

  相摸国湯本にて海道の敵要害を搆へて支ける間、北の山に打上りて式部入道殿の手勢計にて落されて、敵の大勢の中に馳入られしかば追ひ破られき。

  今この難所を見るに、更に人馬の通ふべき道ならず。一谷(いちのたに)より険(さがし)き岩崎(=崖)を五町計りか落されき。二条殿より給られける松風といふ名馬の荒馬に乗り給ひけり。馬の尻、足のはひ、すねの皮、みな破れけるとかや。

  さて相摸川にてまた大水の時分にて敵支へけるを、上下の渡しは佐々木判官入道(=道誉)以下渡しけり。中の手殊更こはかりしを渡されしかば、河中にて人馬ともに射殺(いころ)されてうたれ給ひき。今川三郎(=関口顕氏)と云ひしも、川端と云ひし人も、一所にて討たれき。式部入道殿は矢廿ばかり立ちたりけり。

  故殿は大御所の御供にて此戦にはづれ給ひしかば、後日に河底より此死骸を取り出されけるなり。あまりに鋭き(=気性が激しい)人におはしゝ故に、かゝる難所にてうせ給ひけるにや。此子に駿河守〈時に掃部〉頼貞、同く三河守〈式部大輔と号す〉頼兼、同く七郎見世(みつよ)、同く宮内少輔など云ひしも遁世してうせにき。

  刑部少輔殿範満は同時武蔵国小手指原にて討たれ給ひき。重病なりしを馬にかき乗せられて、力革(ちからがは)に両足を結付けさせられけるとかや。股(もゝ)を切落され給ひて、酒田左衛門と云ひし家人に頸を取らせられき。此跡なかりしかば、頼兼舎弟七郎を養せられしかども早世の間、跡絶しなり。

  仏満禅師と申すは四郎に当たり給ひしなり。建長寺、円覚寺の前住(=先代の住職)なり。

  故殿は〈五郎範国と号す〉、先代(=北条氏)の時、一天下(=一家全員)出家しける時、廿三にて出家し給ひけるにや、いかなりし事ぞや。基氏御在世の時より故入道殿をば、兄弟の中には一跡相続す可きと仰せられけり。故香雲院殿(=範国の母)の語給ひしなり。御童名松丸、五郎範国と申き。

  一、経国(=常氏)・俊氏など云ひし人々は、みな基氏の御舎弟等なり。今関口・入野・木田の人々の祖父と云ふなり。



『難太平記』13

- 北畠顕家との戦ひ -

  一、建武四年(1337)やらん、康永元年(1342)やらんに、奥勢(=奥州勢)とて北畠源大納言入道(=親房)の子息顕家卿三十万騎にて押して上洛せしに、桃井駿河守(=直常)に〈今播磨守〉宇都宮勢(=原文、宇津宮勢)・三浦介(=相摸勢)以下味方(=尊氏方)と為り、跡よりおそひ上りしに、故入道殿はその時は遠江国三倉山に陣どりて、此御方の勢に馳せ加りて海道所々にて合戦なり。

  三河国よりまた吉良右兵衛督満義朝臣〈時に兵衛佐〉、高刑部大輔(=高師兼)、三河勢など馳せ加はりて、二千余騎にて美濃国黒田(=木曽川町)に着けるに、当国の守護人土岐弾正少弼頼遠、「土岐山より討ち出て、青野原(=大垣市)にて揉み合(=戦ふ)べし」と申しけるに、

  「明日の合戦一大事」とて海道勢三手に分て、「一二三番の鬮を取て入替々々せらるべし」とてくじを取られしに、桃井・宇都宮勢は一のくじ、故殿・三浦介は二のくじ、吉良・三河勢・高刑部は三の鬮なり。

  桃井勢は皆たかの鈴を付けたり。故殿笠じるしを思案し給ひけるに、「赤鳥(=鞍と馬の背を掩う布)を馬に付けばや」とて其夜俄に付けられき。

  稲垣八郎・米倉八郎左衛門・加々爪又三郎・平賀五郎など云ふ若者共申しけるは、「鬮はさる事なれども、当手の人の中に少々一番勢の前駆けをすべし」とて、以上十一騎桃井より先に赤坂口あめ牛山といふ処に馳せ上けるを、御方は敵の馳上事かと見けるに、一番に上ける葦毛なる馬に乗たる若者切り落とされ、次々の武者みな切り落とされて麓にころびたる時、味方と見ければ一番勢合戦始めけるに、桃井・宇都宮勢等うち負けしかば、赤坂宿(=大垣市)の南を杭瀬河に退けり。

  故入道殿入替られて、敵山内と云ひける者以下打とり給ひて、西の縄手口にて母衣(ほろ)掛け、武者二騎を故殿射落とし給ひしなり。猶敵支ける間、杭瀬川の堤の上に非人の家ありけるにおりゐ給ひけり。夜に入りて雨降りしかば、

  「敵重ねてかゝらぬ時、黒田の味方に加り給ふべし」と人々が申しけるを、「只是にて明日味方を待つべし」と仰せられければ、米倉八郎左衛門手負ながら有りけるが云く、「此の如のおこがましき(=愚かな)大将をば焼き殺すにしかじ」とて火を付ければ、力なく此あかりにて黒田に加られけり。

  桃井申しけるは「戦の間、互に退かざれば身を全(=安全を保つ)する事なし。先ずる敵には水ばなに少し退て、また味方立て直してかゝるに敵も退くなり。物あひ(=機会)により勝利するを高名(=手柄)と云ひける」

  此事を後に故殿仰せられしは、「桃井は強からん敵には幾度も負け軍せんずる人なり。人の天命は左様に故実(=昔のやり方)によりて遁るゝ事有るべからず。まづ戦て力なく自の力尽くる時、退くは習ひなり」と仰せられしなり。

  さて土岐打出しかば、黒地(=関ヶ原)は京都(=高師直)より切りふさぎて支へ、海道は御方揉み合しかば、奥勢は青野原の軍の後、伊勢路にかゝりて、奈良天王寺の合戦もありしなり。京勢(=高師直)、伊勢雲津河に馳せ合て戦有りしかども、御方打負しなり。

  青野原の軍は土岐頼遠一人高名と聞きしなり。自身手負けるかや。これも『太平記』には書たれども、故入道殿など此の如くずいぶん手をくだき給ひし事、注さゞるは無念なり。但だ作者尋ねざるの間、また我等(=私)も注せざる間書かざるにや。後代には高名の名知る人有るべからず。無念なり。臨み申しても書き入るべき哉。




『難太平記』14

- 赤鳥 -

  一、駿河国并びに数十ヶ所の所領は、この後詰(ごづめ)の時の恩賞なり。国々入部(=領地に入ること)し給ひし時、我等少年の初めに供して、富士浅間宮に神拝し時、神女詫して云ふ、「遠江国近くして吾氏子にほしかりしかば、赤坂の軍の時、我告げしことは知れりや知れりや」と云へり。

  入道殿座を退て「何事にか候けむ、覚悟せず」と申し給ひしかば「笠じるしのことを案ぜし時、我赤鳥を給(た)びし故に勝つことも得、この国を給ひき」と詫宣せしかば、

  故殿その時思ひ合はせて、「女の具(とも)は軍には忌まふことぞかし、いかで思ひよりせむ。誠に神の御謀」と信を取り給ひしより以来、「我等も子孫も必ずこの赤鳥を用ふべし」と仰せられき。

  さるは鎮西(=九州)にても大事な陣にては毎度女騎あまた我等(=私)が夢にも見、人の夢にも見えしなり。必ず此の如くの勝利有りしなり。そははや我家の武具の随一になりき。



『難太平記』15

- 家督のこと -

  一、駿河国をば故殿は我等(=私)に譲り給ふべき御志ありしを、総州(=範氏、筆者の兄)の志浅からぬ事有りしかば、たびたび否み申しき。総州、故殿に先立ち給ひし後、また{故殿}仰せられしをも、{私は}故中務大輔入道(=氏家、範氏の子)に申し与しなり。

  かようことを大輔入道深く思ひ知りけるにや、一子も無くて身まかりし時、大夫入道いまだ孫松丸(=貞臣、筆者の子)と云ひしに譲り与てうせにき。なほ総州の草の陰にも見給ふこと悲しくて、今の上総入道泰範、僧にて建長寺に有りしを召し上させて頭を包ませて(=還俗)、国をも所領をも申し与しをば、時の管領細川武蔵守(=頼之)などは「世に例(ためし)無うぞ」申しか。

  その恩を更に思ひ知らで、{泰範}此度遠江国執心故、我等(=筆者)なほ野心有る由上聞に達と云へり。哀々その時駿河国事も泰範を召し出すこともなからましかば、今かゝる内心の嘆きにはならざらまし。「天の与ふるを取らざれば」と云ふ事、誠なる哉誠なる哉。

  駿河国を半分{筆者に}分かち給ひし事を、我等望申して預かりたる様に云なして、その恨みに今遠江国の事も申し給はり(=頂戴した)たるとかや。その時の事は世の知る事なれば、更に恥じ侍らず。且つはまた今も上としてしろしめすべければ、中々(=容易には)申すに及ばざる事なり。

  かやうの親類等の不義兼ねて(=予て)覧(み)給ひけるにや、「此一家のことも奉行す(=将軍の命令に従ふ)べし」と故入道殿の御置文も有けるなれども、上の明らか(=道理がある)にわたらせ給(=でいらつしやる)はぬ故に、かやうの不道不義の親類等も時にあひたるにや。恐らくはうたてしき御事也。

  前立て遠江国の事、仲高入道(=今川仲秋、筆者の弟)にも去与べしとの上意(=将軍の命令)も、意得がたき(=理解しにくい)事共成しかども、上意に任せて(=従つて)去るよしも、加様の御沙汰、故有り(=意味がある)けるゆゑにや。



『難太平記』16

- 細川清氏のこと・その1 -

  一、細川相摸守(=清氏)御不審(=謀叛)の時、故入道殿ずいぶん奉公忠節人に越え給ひしかど、かの『太平記』には只「新熊野(いまくまの)に入御」とばかり書たるにや。

  その時のことは既に御大事に及ぶべかりける間、右、御所(=義詮)にひそかに故入道殿申し給ひて、「貞世(=了俊)は清氏に内外(=裏表)なく申し承る者なり。彼を召し上せて清氏に刺しちがへさせられば、御大事にも及ぶべからず。人をもあまた失はるべからず」と申し請け給ひて、

  その時は遠州に有りしを飛脚を以て召し上せ給ひしかば、三州の山中まで上りしに、「清氏若狭国に落ちける」とて重ねて飛脚下りき。上着(=上洛)の時こそかゝる御用に召されつるとは語り給ひしか。言語道断のことなりき。

  このことを故殿申し請け給ひける故に、清氏野心のことは無実たる間、嘆き(=嘆願)申さんために越州直世(=今川直世、了俊の弟)を清氏内々呼びけるを、怖畏に依りてまからざりける時、「貞世在京あらば、さりとも来るべき物を」と清氏楽所(がくしよ)の信秋に申しけると聞きて、思ひ寄りて申し出られけるとかや。

  是はずいぶん故入道殿忠と存じて、子一人に替へて此御大事を無為にと存じ給ひし事隠れなかりしを、などや此『太平記』に書かざりけむ。是も此作者に後に申さざりけるにや。その時の落書に、

    細川に屈(かゝ)まりをりし海老名社、今川出て腰はのしたれ

  是は相摸守(=清氏)に海老名備中守憎まれて出仕無くなりしかば、斯の如く詠みけるとかや。此興の事なれども、その時の事なれば書のせ侍るばかりなり。



『難太平記』17

- 細川清氏のこと・その2 -

  一、細川清氏事、実には野心なかりけるにや。余に過分の思ひ有りて上意に背きし処に、或人の仕り落しけるにや。一つには子供を八幡にまいらせて、社頭に於て烏帽子着て八幡八郎と号しける事。一つには神殿に願文を納めけるに、天下執る可き文言ありけるを、社家に従ひて公方(=足利義詮)へ進ぜける故と云へり。「此願文は清氏が筆に非ざるか、判形も不審なりけり」とこそ故殿は語給ひしか。

  我等事は東寺合戦の時、清氏の手に同道すべき由あながち申しかば、一所にて両度合戦せしかば、別して(=特に)申し行ふ(=進言)べきの由堅く申す間、頼み入りしに、静謐(=平和)の後、遠江国笠原庄・浜松庄等その時闕所なりしかば望申しを終に申し行はず、みな清氏申し給はりき。

  無念に依り遠州に在国せし間、此時は在京せざりき。御所(=義詮)清氏と一躰の様に思し召す間、故殿了簡(=思案)して給ひて申し行はれけるとなり。是によつて我等上意に叶て、故殿隠居のいとま申されて、跡続(あとつぎ)の為め召使はれし也。



『難太平記』18

- 応永の乱(1399)と義満 -

  一、今度鎌倉殿(=鎌倉公方足利満兼)思食立ける事は、当御所(=足利義満)の御政道余りに人ごとに傾き(=偏つている)申す間、終に天下に有益の人出で来て天下をうばはゞ、御当家(=足利家)亡びん事をなげき思召して、他人に取られんよりはとて御発起有りて、只天下万民のための御むほんとあまねく聞えしかば、哀れ実(げ)に当御所も悉く御意をひるがへし給ひて、一向善政計り思召さずとも、此間の事に過ぎつる御悪行・御無道を少々止め給ひて、人の嘆きもやすまらんには、何しにかは今鎌倉殿も思し召し立つべき。

  是程人毎にうらみ申すぞと見え申しけるだにも、御運もつよく御威勢いかめしくわたらせ給ふに、まして御政道の少々もわたらせ給はゞ、誰の人かは鎌倉殿にも心よせ申し語らはれ申すべき。

  今も御怖畏によりて様々の御祈祷もしげく、関東御調伏などゝかや聞申す事も多かるを、何の御てうぶくも御祈りもうち捨させ給ひて、天下の天下たる道を少々なりとも覚しめされんに、殊更天道も仏神の御心にも立所に叶はせ給ふべきにと、愚かなる心には存ずるぞかし。

  合戦などにだにも申すにや。天地人の三つに当てゝ思ふに、天の利と云ふはその歳月日時等、吉方その人の生まれ性などに勘へあてゝ、よかりぬべきを用て天の利とは申すにや。

  地の利と云ふは或はよき要害の山、或は大海・難所などを前に当て、またよき城などにこもるを地の利といふなり。

  人の利と云ふは理(ことわり)なるべし。「人の心一同までその理に至らば、天地の二つの利は無用なるべし」と申すごとく、日本国中の人の心同じくして君の御恵の忝なき事を仰(あふ)がば、いかなる凶徒も出来る可からず。然らば御祈祷もさてこそ殊に叶ふべけれ。

  上(=義満)の御意に若し御悪事・非義わたらせ給ひて、御祈祷にてつぐのはせ給はんと思召さんに、秘法も如何とおぼゆるなり。



『難太平記』19

- 応永の乱と了俊 -

  一、大内(=義弘)和泉に攻めのぼりし時、我等野心の事かけても存ぜず。まして関東(=鎌倉公方)より一言も一紙も仰せを蒙りたること無かりき。唯大内申し行(=行う)けるにや、諸方の人並みの御教書とて持来りしかば、即時に上覧に及びしかば更に別心(=謀叛を起す心)無かりしを、「遠江国にて子ども家人等関東に心寄せ申す故に遅参のよし」人の申しけるにや。

  疑ひ思召すと内々承り及(=聞及ぶ)しかば、「九州に身一人海賊舟以て遣さるべし」にて有りし事なり。「若しや流し捨てられ申すべく御方便か」と心の鬼(=疑心暗鬼)有りしに合ひて、鎮西の輩御籌策(ちうさく)(=謀)有るべく、御故実(=昔の事)など申し入れて御計ひ有りし御教書・御下文なども皆々召返(=撤回)されて、唯了俊を差し下(=遣はす)さるなり(=といふ話だ)。

  忠節致すべしと計りの御教書三四通計り給りしに、いよいよ上意不審に存じて「国に下て我身は隠居して子共が事は上意に任せ、追て相計る可く、若し猶京都の御助けなくば、今天下を為すとて鎌倉殿思し召し立つ事は、御当家御運長久と云ひ、万人安堵成す可きにや」と思ふなりし也。

  その故は大御所・錦小路殿〈大休寺殿〉の御中違ひの時も一天下の人の思ひし事は「当家の御中、世を召(=治める)されん事まで、あながち御兄弟の間をばいづれとも申す可らず」とて、両御所に思ひ思ひに付申しき。その時も諸人の存じ様は「大休寺殿(=直義)は政道私わたらせ給はねば捨てがたし。大御所は弓矢の将軍にて更に私曲わたらせ給はず。これまた捨てがたし」となり。

  中御所と宝篋院殿(=義詮、尊氏の子)をば、大御所さすがに御父子の事にて捨て申させ給ひがたく、大休寺殿もまた同じ御兄弟ながらも、あはれなる御志どもにて、中先代の時箱根山よりして天下をも御当家をも譲り申し給ひし事を大御所は思し召し忘れ給はで、「只いかにもして大休寺殿より宝篋院殿へうつくしく天下を譲り与へ申させ給へかし」との御方便故に、摂州打出の合戦(=直義、尊氏に勝つ)の時も、師直・師泰(=直義方が殺す)討たれしをも{直義を}咎め給はざりき。

  また由比山の合戦の後、上杉民部大輔(=憲顕、直義方)、伊豆山より引分て落行きしにも、大御所とがめ申させ給はで、また御合躰(=仲直り)いとゞ定りたりき。

  夫れに就き、両御所ひそかに御談合有りけるにや。「京の坊門殿(=義詮)は如何に申させ給ふとも、御あらためさせ給ひがたし。然れば終に天下をたもたせ給ひ難かるべし。たとひ少々御政道たがふ事ありとも、関東大名等一同せば、日本の守護たるべし。然らばまた此御兄弟の御中(=兄弟の誰かを)に鎌倉殿を置申されて、京都の御守目になし申されて目出あるべし」と御内談がありて、板東八ヶ国をば光王御料基氏(1340-1367)に譲申されて、「御子々孫々、坊門殿の御代々の守りたれ」とくれぐれも申置かせ給ひしなり。

  その後両御所隠れ給ひし後、京都を恨申輩内々連々関東を勧め申す様なりしかども、終に大御所の御素意を専らとせさせ給ひしを、京都よりは大休寺殿の御申し(=お言葉として)によりて、鎌倉を別に取立て申さる(=特に重要な地位とされた)と思召しつめられて(=思詰る)、御内心は御怖畏有りしにや、「斯の如くにては終に天下の煩ひ有る可し」と思召して諸神に御ちかひありて、大鎌倉殿基氏、宝篋院殿(=義詮)に先立申させ給ひけるとこそ承り及びしかども。実説は人の知る可きにあらず。

  此度の事(=応永の乱)はその時大御所思召置し御事なれば、只「御当家の御中に天下をもたせ給ひて、政道の正しかるべきを仰ぐ可し」と申すとは遠江に下りて後、我等も思ひなしゝを、京都より遠江に打手下る事必定と聞えし頃、関東にも御和睦の事、上杉堅く申行と聞しかば、京都の御沙汰恐存ぜし程に、我身は藤沢に隠居し、子共の事は京鎌倉の御間に御助に随ふべしと存じて藤沢に有りしを、御和睦いよいよ定まりし後、「我等藤沢にては猶鎌倉殿を勧申すべき」となり、京都にも思召し上杉も存じけるにや、遠州の事は是非に就き関東執御(=決定)申し有るべきなり。

  御和睦の上は、京都と云ひ関東と云ひ「人々の分国并びに知行地相違有るべからずよし」さだめらるゝ上は、「隠居はいづくも同じ事成るべし。分国然るべきのよし」重々上杉申行間また帰国せしを、関東より御申す如きは、我等がこと京都御計になすべし。若し子細があるべければ関東としても退治らる可きのよし、京都に御申と聞えしかば、不便の事と存ぜしに、忝なくも「先の忠功に任せ、参洛せしめば御助け有るべしと度々上意のよし」仰蒙りし故参洛せしなり。

  かやうな事を思ふに、なまじひに昔の引きかけまた義理に勘ふ故に、身をいたづらにして、名利ともに長くむなしくすべき事、嘆くに猶余り有り。すべて我等九州に発向せし事(=応安三年=1370)を申さば身のほど覚悟せざりけり。

  その故は必ずしも当御所(=義満)の御事ことなる(=特別の)御情も御なじみも人程はなかりし身成りしかども、我等は御当家御為には殊更私を忘て忠致す可き事と思ひし故に、「西国をまづ治む可しのよし」聞えしかば、只志に任せて発向して、親類家人数百人討たせて終に面目を失ひ、本領にさへわかるゝ事は家人等はたゞ知らぬ事也。

  人はその身の位にしたがひて忠を致すべき事なりけり。「身の程より忠功の過ぎたるは、かならず恨みの出来る可きか」と思ふ故なり。




『難太平記』20

- 大内義弘のこと -

  大内義弘入道、先年大友(=親世)帰国の時、ひそかに来て云ふ。「大友がことは、始中終(しちゆうじゆう)御扶持(=了俊の援助)を以て一跡(=所領)をも安堵し、数多の新恩をも給ひし事、有り難く承り及(=聞及)びしに、今度此者上意に依りて難儀参洛の時、一度も貴方(=筆者)に礼をも申入れずして今下向の事、尤も遺恨、尾籠不義の仁なり。

  「然りと雖も、今度の事は先立の御芳恩を重られて御対面(=大友と)有りて下さるべし。いまだ兵庫の津に逗留の程に、御供申して御和睦あらば、向後いよいよ忠節致す可しか」と云へり。

  了俊云ふ、「もとより彼が事、身として不快(=不仲)を存ぜず、おのれが今度公方御咎めによりて参洛する事は、只吉弘右馬頭を討し故なり。『上洛の事をも平に我々の異見を指南為す可し』と(=大友が)申しかば、了俊参洛の時分にて、路次より申遣して、『上洛有る可き事尤も然るべし』と計り申しき。我等参洛の時、直に御尋ね有りて、『何事に大友はそれ(=あなた)の事をば敵仁に存じて、斯申す事(=大友による讒言)共候哉か』と御尋ね有りき。『更に心得難きの由』申しき。

  「仍(なほ)大友参洛にも終に音信に及ばず。然れども今までは一言も彼が事悪しざまに上聞に達したる事なし。但だ己の先非を悔て対面す可きの由申さば、我等否み存ずべからず。但だ今我々下向のこと、『急々下向す可し』と仰せ蒙り既に近日なり。それに就いて大友が事、条々仰せ蒙る事等有り。それに今身として対面の事申さば、上意恐れ有るべし。所詮此事御分(=あなた)口入れ(=仲介)有る間、対面仕る可き哉いなや。内々上意を得べき哉」と申す処、

  大内云ふ、「思ひ寄らぬ事なり。大友引級(いんぎゆう)(=支援)有るべからずと起請文(=誓文)を両度、仰せにより自筆以て書進き。只了俊が発起を為して内々御免(=許可)然るべし」と云り。

  「さては忽(たちまち)に了俊上意に背くべきなり」と申しゝ時、近く居寄りて大内云はく、「今御所(=義満)の御沙汰の様見及申すごとくば、弱き者は罪少なけれど御不審をかうぶり面目失ふ可く、強き者は上意に背くと雖も、さしおかれ申すべき条、みな人の知る処なり。

  「貴方も御忠といひ御身と云ひ、御心易(=安心)思し召とも、御自力弱き事あらば則ち御面目なきことも出来たる可きか。義弘が事も国々所領等、身に余りて拝領候し間、此上は国所領を失なはぬ様に了簡す可し。

  「所詮貴方も大友と義弘同心(=協力)申し候はゞ、たとひ上意悪しくとも煩有るべからず。まして御咎め有るべからず。今在京仕りて見及ぶ如くば、諸大名御一族達の事、さらに心にくゝ(=心引かれる)存ぜずなり。

  「貴方御供仕りて九州中国ひとへに(=一に)まつはり(=支配)候者、則ち身々の永代の安堵為る可きなり。さすがに大友事は九州に於ては大名なり。御重恩の下にて我々一味候はゞ、御心易く仕可く候。然る間、唯今義弘起請文を条々書進て、別して子々孫々に一味申す可きなり。此ために大友が事とり申すなり」と云へり。

  了俊重ねて云ふ。「元来御辺(=あなた)の御事、仲高入道縁者の事、世の知る所なり。私の見つぎ(=援助)も見継げられる事は、重ねて此の如く申し定る迄もなき事なり。また上意の為に御分(=あなた)も御不審蒙られ、我々も疑れ申す可き事あらんには、私の一味契約(=協力の約束)また重縁などぞ上を射申す事、愚身に於ては有るべからず。然る間御分もすべて我々故に一家を失ひ給ふ事ありがたし。

  「只相搆へて構へていよいよ公方(=義満)を仰ぎ奉らば、などか国も所領も召さるべきと存也。就中大友が事は今度なほ仰せ蒙る事等候あひだ、私の和睦(=勝手に手打をすること)無益なり。大友が事御扶持(=大内の援助)有る可くば、『向後その身をつゝしみて、天下を為すに私曲なかれ』と仰せらる可し」と申しき。

  無念に依りて、九州にても今度の事をも内外(ないげ)ともに、大内が方便(=都合)以て我々九州を離れき。

  是も申さば公方の仰せの条々みな相違(=筆者と食違ふ)の故に、一かう鎮西の輩は我等が作事(=罪)・私曲(=不正)と心得る(=理解)故に捨てられしかども、「参洛して御尋に就いて明らかに申さば、中々九州の事安堵すべきか」と存ぜしを、終に御尋に預らずして、永々九州の人々には我等が私曲と思ひかすめられ(=ほのめかす)たるにや。但だ実(まこと)によるべき事なれば、今は早御成敗の違ひ目(=間違ひ)とは誰も誰も思ひ知りたるべし。

  まして大内和泉に馳せ上りて、現形(=形を現す)の時は最前(=一番先)に御所(=義満)の我々に仰せありしは「大内が事今御分(=あなた)に落合(=符合)べき間、恥入りたり」とこそ仰せ有りしか。誰も承り及し事なり。

  能々(よくよく)思ふに、たゞかたはらいたき(=くだらない)を(=けれども)、昔心(むかしごころ)にて身を失ふ間、時に従ひて不道・不義・無礼を振舞て然る可きか。親に不孝の子、兄に不義の弟、主に不忠・不奉公の家人、不道・尾籠の輩、町人・土民なども時にあへば人の頭を尚(この)む。世はいかでも同じ事なり。

  是は我が子孫に相搆へて搆へてよくつゝしめとて書置くなり。了俊在世には更に他見あるまじき事なり。おそろしおそろし。

    子よ孫よ己れさかしと思ふとも親のおろかに猶やおとらん

      応永九歳二月日      徳翁〈時に七十八歳〉



『難太平記』21

- 名乗りについて -

  鎌倉の瑞泉寺殿〈基氏〉(=足利基氏)の御名乗り(=元服名)計、我等(=筆者)が祖父(=今川基氏)の名乗りなり。此の如く、その一家親類等(=足利家)の中に無徳の人(=出世しなかつた人)の名乗りを取りて名乗る事、幸のあることとかや申たり。さてやらんと存ずるなり。新田方の人々の名乗にも、此方がたの先祖達の名乗をするもありしにや。

  大夫入道(=貞臣。筆者の子)が初めは義範(=足利義範と同名)と故殿の名乗られし(=名付けた)もこの故なりしかども、近年九州にて我と改めて貞臣と名乗りしにや(=名乗つた為か)、不孝のことなりきし。

  今年中となりて以ての外に中風気ある間、時々右筆叶はず、思ひの外の方に筆が曲がる間、もとよりの鳥の跡いよいよ比興(=おもしろい)なり。文字落ち仮字などは、また老いぼれの所行なり。はからひ読むべし。





『難太平記』22

- 九州探題のこと -

  世人の中なるは「了俊が九州に離るゝことは、人二人のたくみ(=二人の人の企み)に落つ」と云々。「大内入道(=義弘)探題の大望故」と云々。または「渋川(=満頼、了俊の後任)を探題と為す可きために勘解由小路(=斯波義将)方便」云々。「大敵難儀は了俊骨を折り、静謐の時になりて功無き縁者に申し与ふなど利口有り」と云々。「げにも備中国事(=満頼が備中守護を罷免されたこと)を思ふに、渋川事は我々はづかしかるべき(=情けない)ことぞかし。閉口す可し」云々。

※誤字脱字間違いに気づいた方は是非教えて下さい。

2005  Tomokazu Hanafusa / メール

これは芝蘭堂氏製作の上記現代語訳をもとに、続群書類従完成会発行『群書類従』第二十一輯のテキストに従つて作成したものである。私の解釈によつて、送りがななどは適宜増やした。また、明らかに誤字と思はれるテキストは修正した。

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