『オデュッセイア』



ツイート

第一巻「主なき家」



 歌の女神ミューズよ、聖なるトロイの都を滅ぼしたのち至るところをさすらひ続けたあの知略に富む男の話をして下さい。彼は仲間を連れた帰国の途次、多くの町を見、多くの人を知り、大海原で多くの苦難をなめた。
 願ひ叶はず仲間の命は救へなかつたが、仲間の死は自業自得だつた。彼らは愚かにも日の神ヘリオスの牛を食らひ、そのため帰国の日を神に奪はれてしまつた。では、女神よ、ゼウスの娘よ、私たちにこの話をして下さい。


 破滅を免れたほかの男たちは、戦争と海から逃れてみんなもう家にゐたのに、この男だけはひとり妻のもとにも故郷にも帰れずにゐた。それはカリュプソという名の美しい妖精が、男を自分の夫にしようと洞穴のなかに引き止めてゐたからである。

 月日は巡つて、男がイタカへ帰ると神々の定めた年がやつてきたのに、男の苦難は終はらず家族のもとへ帰れずにゐた。そのために、ポセイドン以外の神々はみな彼のことを哀れんだ。この神は神のやうなオデュッセウスに対して怒つてゐた。その怒りは彼が帰国するまで続いた。

 しかし、ポセイドンは牛と羊のささげ物を受けるために、遠く離れたエチオピア人のもとへと出かけてゐた。エチオピア人は地の果てに住む民族で、日が昇るところと日が沈むところに分かれてをり、ポセイドンは彼らの宴の席で楽しんでゐた。

 一方、残りの神々はオリンポスの山のゼウスの宮殿に集まつてゐた。話の口を切つたのは神々と人間の父ゼウスだつた。彼は有名なアガメムノンの子オレステスに殺された伊達男アイギストスのことを考へてゐた。ゼウスはこの男について神々に向かつてかう言つた。

「全くどうして人間は神々に責任を押しつけるのか。彼らは分を越えて自分から馬鹿なまねをして不幸になつておきながら、それをみな神々の仕業だと言ふのだ。今度のアイギストスも破滅を免れないことを知りながら、身の程をわきまへずにアガメムノンの奥さんを横取りするだけでなく、帰国した旦那の方も殺してしまつた。

「わしはあいつがアガメムノンを殺したり奥さんを誘惑したりしないやうに、前もつて眼差し鋭いヘルメス、あのアルゴス殺しを送つて、息子のオレステスが成長して祖国に帰つて来たら復讐されるぞと言つたのだ。それなのにあの男はこの親切な忠告にも耳を貸さず、今すべての償ひをしたといふわけだ」

 それに対して輝くひとみの女神アテナはかう言つた。

「クロノスの子で、神々の中の最高の神であるお父さま、あの男が殺されたのは当然ですわ。あんなことをする男はみんな殺されたらいいのよ。それより、わたしが心配なのは頭のよいオデュッセウスのこと。かはいさうに、あの人はもう長いこと家族から離れて、海の真ん中の離れ小島で不幸な日々を送つてゐるのです。

「木々の生ひ茂つたこの島にはカリュプソが住んでゐますが、彼女の父親はアトラスで、世界の海を知りつくして、天と地を隔てる巨大な柱を一人で支へてゐる恐ろしい神様です。その神様の娘が、泣き暮らす可哀想なオデュッセウスを引き留めて、故郷イタカのことを忘れさせようと、甘い言葉で誘惑し続けてゐるのです。

「でもオデュッセウスは故郷の空に立ち昇る煙を見てから死にたいと言ふばかり。お父さま、あなたはこれが気にならないのですね。トロイにゐたときオデュッセウスがアルゴスの船のそばであなたに捧げた品物が気に入らないのですか? お父さま、いつたいあの男のどこがそんなに憎いのですか?」

 雲を引き連れたゼウスは彼女に答へてかう言つた。

「娘よ、お前はいつたい何を言ひ出すんだ。あの神のやうなオデュッセウスは、頭のよさだけでなく、大空に住む神々への捧げ物にかけても、誰にも引けをとつたことのない男だ。どうしてわたしがそんな男のことを忘れたりするものか。悪いのは大地を支へるポセイドンだ。あいつは神のやうなポリュフェーモスがオデュッセウスに目をつぶされたことをいつまでもしつこく恨んでゐるのだ。

「このポリュフェーモスは、荒海の支配者フォルキュスの娘トーサが洞穴の中でポセイドンと結ばれて産んだ子で、一つ目族のキュクロプスの中でも一番の豪傑なのだ。あの事件があつてから、大地を揺るがすポセイドンはオデュッセウスを殺しはせぬものの、彼の帰国をひたすら妨げてゐるのだ。

「そういふわけだから、ここに集まつた我々で、オデュッセウスの帰国が実現するやう考へてやらうぢやないか。ポセイドンもそのうち怒りをしづめるだらうし、たつた一人で神々全員を敵に回すやうなこともできまい」

 それに対して輝くひとみの女神アテナはかう言つた。

「クロノスの子で、神々の中の最高の神であるお父さま、頭のよいオデュッセウスを帰国させることを幸せな神々がかうして決めたのなら、眼差し鋭いヘルメス、あのアルゴス殺しをオーギュギエ島へやつて、辛抱強いオデュッセウスが帰国することになつたと、髪の美しいカリュプソに私たちの決定を早速伝へませう。

「一方、わたしはイタカへ行つてきます。そこで彼の息子を励まして、髪の長いアカイア人たちを広場に集めて、群をつくる羊や曲がつた角でよたよた歩く牛などの彼の家畜を屠殺し続ける求婚者たち全員に対して家から出て行くやうに命じる勇気を彼に授けてやりませう。

「それから、父親が帰つて来ることを聞きだして、あの子に対する人々の評価を高めるために、あの子をスパルタと砂の多いピュロスに送りだしてきませう」

 かう言ふと彼女は美しいサンダルを足に結はへてすぐれた槍を手に取つた。そのサンダルは女神を風の息吹とともに大地と水の上を運んでいく神々の金色のサンダルで、その槍はするどい青銅の刃をもつ重くてがつしりした槍で、女神を怒らせる英雄たちをまとめて懲らしめるのに使はれた。

 女神はオリュンポスの山頂から飛び立つて、イタカの町のオデュッセウスの家の門の前に降り立つた。青銅の槍を手に中庭の入口に立つたこの客人の姿は、タポス人の王メンテスそつくりだつた。

 女神は立派な求婚者たちを見つけたが、彼らは門の前に腰を下ろしてさいころ遊びに興じてゐた。腰の下には自分たちが屠殺した牛の皮を敷いてゐた。きびきびと働く召使ひたちや使ひ走りの子供たちが、彼らのために原酒を鉢の中で水で割つたり、穴がたくさんあいた海綿でテーブルを拭いて置いたり、大量の肉を切り分けたりしてゐた。

 最初に女神に気付いたのは神のやうな姿のテレマコスだつた。彼は頭を悩ませながら求婚者たちの間に座つてゐた。そして、いつか立派な父親が帰つてきて求婚者たちを家から追ひ払つて、この家の主人として名誉を回復する日を夢見てゐた。

 求婚者たちの間でこんなことを考へてゐたテレマコスだが、女神アテナの姿が目にとまると、客を門口で長く待たせるのは失礼だと思つて門のところへ直行した。そして、女神の前に来て右手で握手をしてから青銅の槍を受け取ると、彼は女神に対して翼のある言葉でかう言つた。

「お客さま、ようこそいらつしやいました。お食事がおすみ次第ご用件を承ります」

 女神アテナは、かう言つて案内する彼のあとに付いていつた。二人が屋敷の中に入ると、テレマコスは女神の槍を辛抱強いオデュッセウスの槍がたくさん置いてある磨きたてた槍置き場の太い柱に立てかけてから、求婚者たちの席から離れたところに女神を案内した。

 それは客が行儀の悪い者たちの騒ぎにうんざりして食事がまづくならないための配慮であつたが、同時に不在の父親について客に質問するためであつた。テレマコスは豪華な作りの肘掛け椅子にリンネルを敷いて女神を座らせ、足の下に足置きを置いた。そして、自分も横の細工物の椅子に腰を掛けた。

 そこへ召使ひが美しい金の水差しをもつてきて、手洗ひ水を銀の鉢に注いでから、二人の前によく磨いたテーブルを並べた。そして品の良い上役の召使ひがパンなどのいろんな食べ物をどつさり運んできた。給仕係りは様々な肉を切り分けて大皿に盛つてテーブルに出してから、金色のグラスを二人の前に置いた。その間に使ひ走りの子供が忙しさうに酒をついで回つた。

 そのとき立派な求婚者たちが家に入つてきて順にそれぞれの椅子に座りだした。使ひ走りの子供たちは彼らに手洗ひ水を注ぎ、召使ひたちがパンをバスケットに山と積んで出して、別の子供たちが原酒を割る鉢を酒で一杯にみたした。

 かうして食事の用意が整ふと、求婚者たちはそれぞれ自分の前の食べ物に手をつけはじめた。そして酒と食事に飽きた求婚者たちの次の興味は、宴会のクライマックスである歌と踊りだつた。

 そこで使ひ走りの子供が美しい竪琴をフェーミオスの手に渡した。彼は求婚者たちのために仕方なく歌ふのだつた。フェーミオスが竪琴を弾きながら甘美な歌声をあげたとき、テレマコスは人に聞かれないやうに輝くひとみの女神アテナに顔を近づけてかう言つた。

「お客さま、少しお話ししてもよろしいでせうか。この人たちがかうして歌や踊りにのんきに興じてゐるのは、他人の財産をただ食ひしてゐるからなんですよ。その当人の骨はどこかで雨ざらしになつてゐるか海の波にもまれてゐるのです。でも、彼がもしイタカに帰つてきてこの人たちと遭遇したら、彼らはきつときれいな服やお金のことを忘れて、もつと足が速ければと思ふに違ひないんですがね。

「でも、今では彼も不幸な死をとげてしまひ、いつか彼は帰つて来ると言つてくれる人がゐても、わたしには何の気休めにもなりません。彼が帰つてくることはもうないのです。

「ところで、ぜひ本当のところをお聞かせください。あなたはどなたさまですか。また、あなたはどちらからいらしたのですか。あなたのご出身はどこの国で、ご両親はどなたですか。また、あなたは歩いてここに来られたやうにはお見受けしませんが、どのやうな船で来られたのですか。その船乗りはどの航路を通つてあなたをイタカにお連れしたのですか。その船乗りはどこの国の者ですか。わたしによく分るやうに正直なところをお聞かせください。そもそもあなたはこの家には初めてのお客さまでせうか、それとも父のお友だちですか。なにせ父は付合ひの多い人でしたので、この家にはたくさんのお客さまがいらつしやいます」

 それに対して輝くひとみの女神アテナはかう言つた。

「では、それらのご質問に対して嘘偽りないところをお話しませう。わたしは頭のよいアンキアラオスの子メンテスといふ者で、オールを愛するタフォス人の支配者でございます。今日こちらへは仲間と一緒に船で参りました。銅を買ふために輝く鉄を積んでワイン色の海を越えてテメサの異国人たちの所へ行くところでございます。船は町から遠く離れた田舎の、木々の茂つたネイオン山のふもとにあるレイトロス港に泊めてあります。

「わたしたちはお爺さんの代からの古いおつきあいで、何なら勇士ラエルテス老人にお尋ねになればいい。聞くところによると、老人も今では町にはやつて来ずに、遠く離れた田舎でご苦労されてゐるさうではないですか。お世話してゐるのは老女ひとりで、老人が山の斜面のブドウ畑を這ひ回つて疲れた体で帰つてきたときに、酒と食事を出してゐるさうですね。

「今日わたしがお宅に寄せてもらつたのは、あなたのお父さまがお帰りになつたといふ噂を耳にしたからです。でも実際は神々のために帰国を邪魔されてゐるのですね。といふのは、神のやうなオデュッセウス殿は決して野垂れ死になどされてゐないからです。それどころか、あの方は広い海のどこかの離れ小島で囚はれの身となつて生きてをられます。たぶん、どこかの手に負へない野蛮人があの人を無理やり引き留めてゐるのです。

「もつとも、わたしは神々が心に命ずるまま、実現するとわたしが信じるままに申し上げてゐるだけで、わたしは予言者でも鳥占ひ師でもありません。でも、お父さまは、たとへ鉄の鎖に縛られてゐても、遠からずきつと祖国に帰つて来られます。知恵の豊かな方ですから、帰る方法はきつとご自分で工夫されますよ。

「ところで、わたしにもぜひ本当のところをお聞かせください。あなたのやうなこんな立派な方が本当にオデュッセウス殿の息子さんなのですか。あなたは顔も目もあの方に驚くほど似ておられる。わたしはお父さんとはアルゴスのお偉い人たちと一緒にうつろな船に乗つてトロイに出征される前に何度もお会ひしたものですが、あれ以来わたしとオデュッセウス殿は互ひに顔を合はせることが無くなつてしまひました」

 それに対して賢明なテレマコスは女神に向かつてかう言つた。

「では、わたしも嘘偽りないところをお話しませう。わたしはあの人の子だと母親は申してをりますが、どうでせうか。自分の生まれを確かめられる人はゐませんから。むしろ自分の屋敷で晩年を迎へられるやうな人の子だつたらよかつたのです。ところが、わたしはこの世で一番不幸な人の子だと言はれてゐるのです。あなたがお尋ねだから申しますが」

 それに対して輝くひとみの女神アテナはかう言つた。

「いえいえ、あなたの家を神々は決して見捨ててはをりませんよ。ペネロペイヤさまはあなたのやうな立派な方をお産みになつたのですから。ところで、わたしにもぜひ本当のところをお聞かせください。この食事のありさまは何ですか。この集まりはどういふことなのです。一体何のためにこんなことをしてをられるのです。普通の食事会ではなささうですが、宴会ですか結婚の披露ですか。それにしても、あなたのお屋敷で食事をしてゐるこの人たちの何と無遠慮で行儀の悪いことでせうか。まともな人間がここに入つて来てこのありさまを見たら誰だつて腹が立つでせうよ」

 それに対して賢明なテレマコスは女神に向かつてかう言つた。

「お客さま、この家のことをお聞きになりたいのであれば申します。昔まだ父が家にゐたころは、この家も真つ当に富み栄えてをりました。ところが、今では神々が心変はりをして、わが家に不幸を企んでをられるのです。神々は父の姿をこの世から消してしまはれたのですから。

「たとへ父がトロイで仲間とともに戦死しても、あるいは戦ひのあとで仲間に看取られて死んだとしても、わたしは父の死でこれほど困らなかつたでせう。その時には、きつと父はアカイア人にお墓を作つてもらへたでせうし、息子にも大きな名誉を残してくれたでせうから。

「ところが、不名誉にも父は神隠しに会つたやうに行方知れずになつてしまひ、わたしには悲しみと苦しみだけが残されたのです。しかし、わたしが嘆き悲しんでゐるのは父のことだけではありません。神々はほかにもわたしに災ひをもたらしたのです。

「といふのは、岩だらけのイタカの有力者だけでなく、サメー(ケファロニア)やドリキオン(レウカス)や木々の茂つたザキュントスなど、イタカを囲む島々を支配する王子たちが、こぞつてわたしの母に求婚しに来て、わが家の財産をすり減らし続けてゐるのです。それに対して、わたしの母は再婚は嫌だと断ることもなく、決着を付けることもできないので、わが家は彼らによつて食べ尽くされて、そのうちわたし自身もだめにされてしまひさうです」

 それを聞いて腹を立てた女神アテナはかう言つた。

「オデュッセウス殿がゐないばかりに、あなたは大変な目に会つてをられるのですね。あの人ならきつと恥知らずな求婚者どもを懲らしめてくださるでせうに。わが家で酒盛りをされてゐるオデュッセウス殿にわたしが初めてお目にかかつた時のお若い姿そのままに、いまあの方が兜と盾に身を固めて、二本の槍を携へて、この家の玄関に立たれて、求婚者どもと対決されたなら、こいつらは全員皆殺しの目に会つて、不幸な結婚式を迎へるでせうに。

「あの時オデュッセウス殿は、銅の矢に塗る猛毒を求めて、エヒゥレーに住むメルメロスの子イロス殿のもとへ船で出向かれたのですが、不死の神を恐れるイロス殿に断られて、わが家に来られたのでした。しかし、わたしの父があの方をとても気に入つて、件の品を差し上げたのでした。

「しかし、あの方がご自分の家に帰つてきて復讐することについては神々におまかせして、あなたはご自分でどうやれば求婚者たちを家から追ひ出せるかをお考へにならないといけません。さあ、わたしがこれから言ふことを注意してよく聞くのです。まづは、あしたアカイヤ人の名士たちを広場に呼んでみなさんにお話をなさいませ。その際、神々に証人になつてもらへばよろしい。

「そして、求婚者たちに自分の国へ帰れと言ひなさい。また、お母さまには再婚のご意志がおありなら、裕福な父親のもとに帰つてもらひなさい。実家では結婚の支度や、大事な娘が携へていくのにふさはしい立派な用意をしてくれるでせう。

「あなた自身については、いい考へがありますからよくお聞きなさい。それは一番よい船に二十人のこぎ手を乗せて、お父さまの消息を尋ねて旅立つことです。何かを知つてゐる人がゐるかも知れませんし、人間にとつて大切な情報源であるゼウスさまの言葉を聞けるかも知れないからです。

「まづ最初にあなたはピュロスへ行つて、神のごときネストール殿の話を伺ひなさい。つぎにそこからスパルタに住む金髮のメネラオス殿のもとへ行きなさい。彼は青銅の鎧を着るアカイヤ人の中でトロイから一番最後に帰つてきた人だからです。

「そして、もしお父さまが元気で家に向かつてをられることが分かつたら、辛くても今の暮らしをもう一年我慢しなさい。しかしながら、もうお亡くなりになつてこの世にはゐないことが分かつたら、ご自分の国へ帰つて、お父さまにふさはしい立派なお葬式をあげてお墓を建てた上で、お母さまを別の男に嫁がせなさい。

「そしてそれが終はると、あなたはお屋敷にゐる求婚者たちを企みをもちゐて殺すか公の場で殺すか、その方法を自分の頭でよく考へるのです。あなたは子供ではないのですから、もう子供じみた振舞いは許されないのですよ。

「神のごときオレステスが世の中にどれほどの名声を獲得したかをあなたは聞いてゐないのですか。彼は自分の有名な父親をずるい方法で殺したアイギストスを討ちとつたのですよ。お見受けしたところ、あなたもすでに一人前の立派な大人ですから、勇気のあるところを見せて後世に名を残しなさい。

「わたしはそろそろお暇して船にゐる仲間のところへ戻ることにしませう。今頃はきつと待ちくたびれてゐることでせう。あなたはわたしが言つたことをよく考へてしつかりやるのですよ」

 それに対して賢明なテレマコスは女神に向かつてかう言つた。

「お客さま、あなたが自分の息子に対するやうに親身になつて話して下さつたことを、わたしは決して忘れません。さあ、お客さま、お急ぎかもしれませんが、どうぞ風呂に入つてごゆつくりおくつろぎ下さい。船へお戻りの際には手土産を持つて、気持よくお帰り下さい。わが家の宝物の中から友人として差し上げるのにふさわしい何かよい物をご用意させていただきます」

 それに対して輝くひとみの女神アテナはかう言つた。

「わたしは先を急いでをりますので、引き止めないで下さい。あなたが用意してくださる土産の品は、帰りに立ち寄る時に頂いて国に持ちかへることに致しませう。その時までに何かよいものを選んでおいて下さい。わたしの方も負けないほどのお返しをご用意しておきますから」

 かう言ふと輝くひとみの女神アテナは鳥に姿を変へて空へ飛び去つて行つた。一方、女神に勇気と力をもらつたテレマコスは、前にも増して父のことを考へるやうになつてゐた。また彼は頭の中で今の出来事を振り返つて不思議に思ひ、あの人は神であると考へてゐた。そして、神にも等しいこの人は求婚者たちの間に戻つた。

 求婚者たちは腰をおろして有名な歌手が歌ふうたに静かに耳を傾けてゐた。彼は女神アテナがアカイア人たちに課したトロイからの悲しい帰国を歌つてゐた。

 イカリオスの娘で思慮深いペネロペイヤはこの美しい歌を上の階で聞いてゐたが、やがて彼女は二人の召使ひを従へて、屋敷の大きな階段を降りてきた。神のやうに美しい彼女は求婚者たちのゐる広間にやつて来て、二人の忠実な召使ひを両側にして太柱のところに立つた。そして輝くベールで顔を隠して、神のごとき歌手に向かつて泣きながらかう言つた。

「フェーミオスさま、あなたは詩人たちが讃へる神と人間の出来事をほかにもたくさんご存じなのですから、そのうちの一つを選んで、この人たちのために腰をおろして歌つてあげて下さい。この人たちはお酒を飲みながら静かに聞いてくださるでせう。

「でも、その歌をうたふのはやめて下さい。その歌を聞くといつもわたしの心は悲みで引き裂かれるのです。この悲しみはいつまでも消えずにわたしから離れないのです。それほどにもわたしは、ギリシアに広き名声をもつあの人に会ひたくて、あの人のことばかり思つてゐるのです」

 それに対して賢明なテレマコスは彼女に向かつてかう言つた。

「お母さん、どうして人のいい歌ひ手にやつ当たりなさるのですか。この人はこの人の考へでみんなを楽しませてゐらつしやるのです。歌手には何の責任もないのですよ。責任があるのはたぶんゼウスさまです。ゼウスさまが苦しみ多い人間の運命を好き勝手に決めてをられるのです。だから、ダナオイ勢の不運をこの人が歌つたとしても、誰もこの人を責めることはできないのです。

「それに人は誰でも今まで聞いたことのないやうな新しい出来事の歌を喜ぶものです。だからあなたは歌が聞こえても我慢しなければいけません。トロイから帰国しないのはオデュッセウス一人ではないのです。トロイで倒れた人はほかにもたくさんゐるのですから。

「さあ、あなたは部屋に戻つてご自分の仕事である機織りと糸巻きをなさいませ。そして女たちに自分の仕事につくやう命じて下さい。演説は男たちにお任せください。特にこのわたしに。今やこの家の主人はわたしなのですから」

 これを聞いて驚いたペネロペイヤは自分の部屋にもどつて行つた。彼女は息子の賢明な話振りに感銘を受けてゐた。そして、召使ひの女たちといつしよに上の階にあがると、輝くひとみの女神アテナが彼女のまぶたに甘い眠りをそそぎこむまで、愛しい夫のことを思つて泣き続けた。

 一方、求婚者たちは誰もがペネロペイヤとベッドをともにしたいと願ひながら祈りの声をあげたので、薄暗い広間は騒然となつた。そこで賢明なテレマコスは彼らに向かつてかう言つた。

「母の求婚者のみなさん、みなさんは今日のところは遠慮なく好きなだけ食事を楽しんで、静かに歌をお聞きください。神のやうな声を持つすばらしい歌手のうたを聞くのは楽しいことですから。

「でも、明日の朝はみなさん全員広場に集まつて下さい。その場でわたしははつきりとあなたたちに屋敷からの退去を求める演説をするつもりです。今後あなたたちは家を替へて別の場所で自分の金で宴会を開いて下さい。また、もしこのまま一人の財産をただで食ひ尽くす方がいいとお考へなら、そうするがいいでせう。わたしは永遠の命をもつ神々に対して、ゼウスさまがこの仕返しを許して下さるやうにと訴へるだけです。さうなれば、きつとあなたたちはこの屋敷の中でただ死にすることになるのです」

 テレマコスがかう言ふと、求婚者たちは彼の大胆な話しぶりに驚いて、唇をかんで黙つて聞いていたが、エウペイテスの子アンティノースは彼に向かつてかう言つた。

「テレマコスよ、お前がそんなに大胆になつて偉そうな口がきけるのは、きつと神様のお力添へがあつてのことだらうよ。お前は血筋から言へばイタカ島の王だが、ゼウスさまがお前を王にしないことを祈るよ」

 それに対して賢明なテレマコスは彼に向かつてかう言つた。

「アンティノースよ、お前はわたしの言ふことを不思議に思ふかもしれないが、わたしはゼウスさまのお許しがあるなら喜んで王になるつもりだ。お前は王になることが人間にとつて不幸なことだと思つてゐるのか。だが王になるのは悪いことではない。王になればすぐに家が富み栄えるやうになるし、本人の位も上がる。

「また、神のやうなオデュッセウスが亡くなつたからには、このイタカ島に老若を問はずたくさん居られるアカイヤ人のお偉い方たちの中からどなたかが王になられるかもしれない。しかし、その時でもわたしが神のやうなオデュッセウスの残したこの家とこの召使ひたちの主人であることに変はりはない」

 それに対してポリュボスの子エウリュマコスは彼に向かつてかう言つた。

「テレマコスよ、アカイヤ人の誰がイタカ島の王になるかといふ問題は神々におまかせして、わたしはお前が自分の財産と召使ひたちを大切に守れるやうに祈つてやらう。このイタカが無人島でもないのに、誰かがお前の意に反してお前の財産をかすめ取つて行くやうなことは、あつてはならないことだからな。

「ところで君、さつきのお客さんについて聞きたいのだが、あの人はどこの国の人で、どこから来て、誰の子で、家の土地をどこにもつてゐる人なんだ。また、あの人はお父さんの帰国の知らせを何か持つてきたのか。それとも私用でここまでやつて来たのか。我々とお知り合いになる間もなく、まるで飛ぶやうにして急いでお帰りになつてしまつたが、見たところなかなか立派な方だつたな」

 それに対して賢明なテレマコスは彼に向かつてかう言つた。

「エウリュマコスよ、わたしの父はもう帰つて来ない。そんな知らせがあつたとしても、わたしは信じないよ。母親が占師を家に呼んで占はせたところで、わたしはそんなものに興味はない。 

「あの客人はタフォス島から来た父のお友だちだ。頭のよいアンキアラオスの子メンテスで、オールを愛するタフォス人の支配者だと言つてをられる」

 テレマコスはかう言つたが、頭ではあの人が不死の神であると分かつてゐた。

 一方、求婚者たちは愉快な歌と踊りに心を奪はれて、楽しみながら日が暮れるまでこの家に留まつてゐた。しかしながら、まつ暗な夕暮れが訪れると、遊び興じてゐた者たちも各々自分の家へ寝に帰つた。

 テレマコスは頭の中でいろんな考へ事をしながら、美しい中庭を望む高い塔の上に建てられた寝室に入つた。善良なエウリュクレヤが彼のために燃えさかる松明をかかげてゐた。彼女はペイセノールの子オープスの娘で、若いころにラエルテスによつて牛二十頭と引き替えに買はれて来たのだつた。

 ラエルテスは屋敷で彼女を本当の妻のやうに大切にしたが、妻の怒りを恐て、彼女を自分のベッドに引き入れることはしなかつた。その彼女がテレマコスのために燃えさかる松明をかかげてゐた。彼女はテレマコスの乳母だつたので、彼に対する愛情はほかの召使ひの誰よりも強かつた。

 テレマコスは立派な寝室のドアを開けてベッドに腰掛けると、シャツを脱いで思慮深い老婆エウリュクレヤの手に渡した。老婆はそれをきちんと折りたたんで穴付き寝台のそばのハンガーにつるした。

 それからエウリュクレヤは寝室を出て銀の取つ手を持つて戸をしめると、外からひもを引いて内鍵をはめた。テレマコスは一人毛布にくるまつて、女神アテナに教へられた旅立ちのことを頭の中で一晩中考へてゐた。

誤字脱字に気づいた方は是非教へて下さい。

(c)2004 Tomokazu Hanafusa / メール

ホーム





inserted by FC2 system