カント『純粋理性批判』序論

(第二版)



Ⅰ 純粋な知識と経験による知識の違い


 我々のあらゆる知識が経験から始まることは疑いがない。なぜなら、我々の認識能力は、対象となるものに出会わないで、どうして働き出すだろうか。対象が我々の感覚に働きかけて、一方でそのイメージを作らせ、一方で知性の活動を喚起してその様々なイメージを比べさせたり、組み合わさせたり、分離させたりして、その結果、感覚の印象から来た生の素材を知識に作り変えるのである。この知識こそは経験と呼ばれるものである。

 したがって、時間的な順序で考える限りは、経験に先立つ知識などあり得ないことになる。つまり、経験によって全ての知識は始まるのである。しかし、全ての知識が経験によって始まるといっても、我々の全ての知識が経験の中から生まれてくるわけではない。

 なぜなら、我々の経験による知識は、外から受け取る印象と、(その感覚的印象によって喚起された)我々の認識能力がもともと自分自身で用意しているものが合わさって、はじめて生まれてくるものである可能性が高いのである。

 この我々の認識能力が用意しているものと元の素材との違いは、そう簡単には見分けられず、そこに注目してその違いが分かるようになるには長年の訓練が必要だろう。

 これが本当にそうなのかはよく調べてみないと分からないし、とても簡単に答えられないことである。いったい、経験にも感覚的印象にも依存しないような知識が存在するのだろうか。そのような知識は、経験によって後天的に生まれた知識である経験的知識とは区別して、先天的知識と呼ばれている。

 しかし、先天的知識というだけでは、我々の問題が意味することを充分正確に表しているとは言えない。なぜなら、我々は経験から得た知識であっても、その時には直接経験せずに常識で考えて分かったことを、「そんなことははじめから分かっていた」と言いがちだからである。しかし、常識は経験から手に入れたものにすぎない。

 例えば、家の土台の下に穴をあけたために家が倒れた人がいると、そんなことはあらかじめ分かるはずだ、つまり、家が実際に倒れるという経験がなくても分かるはずだと言うだろう。しかし、その人が前もってそのことを知らなかった可能性はある。なぜなら、そのことを前もって知っているためには、少なくとも、物体には重さがあって、支えがなくなると落下するということを経験を通じて知っていなければならないからである。

 したがって、我々が以降において先天的知識と言う場合は、特定の経験に依存しない知識ということではなく、どんな経験にも依存しない知識を意味するものとする。その反対が経験的知識であり、経験を通じて後天的にしか手に入れることのできない知識を意味する。そして、先天的知識のうちでも、経験に依存する要素が少しも混じっていないものを、純粋な知識と呼ぶことにする。

 たとえば、「あらゆる変化には原因がある」という命題は、先天的ではあるが純粋ではない。なぜなら、この命題の中の「変化」という概念は経験によらなければ手に入らないからである。


II 我々はある種の先天的知識を持ってる。常識さえもこれを欠いては成立しない


 次に問題なのは、純粋な知識と経験による知識を明確に区別する基準は何かという問題である。経験によって我々が知ることができるのは、あるものがこれこれであるということだけである。それが必然的にそうであるということは経験によって知ることはできない。

 したがって、第一に、もし我々に必然的にそうであると思われるような内容の命題があれば、それは先天的な判断を表していることになる。そして、その命題がさらに先天的な判断を内容とする命題から引き出されたものだとすれば、それは完全に先天的な判断を表していることになる。

 第二に、経験から引き出された判断(帰納法)は、例外のない普遍性を備えていない。それは比較的多くの場合に当てはまるだけである。つまり、これまで観察した範囲では、これこれの法則には例外が見つからなかったと言うことしかできない。したがって、ある判断が例外のない普遍性を備えている場合、その内容は経験から引き出されたものではなく、完全に先天的だということになる。

 経験的な普遍性を持つ命題は、多くの場合に当てはまることを全てに当てはまるように言っているだけである。例えば「全ての物体は重さを持っている」という命題がそうである。それに対して、ある判断が例外のない普遍性を備えている場合、その判断は先天的認識能力という特殊な源泉から引き出されたものである。つまり、その内容が必然性と例外のない普遍性を備えていることが、先天的知識の基準であって、この二つの基準は互いに密接に結び付いているのである。

 しかしながら、ある判断が必然的でないことを示すより、例外のない普遍性を持たないことを示す方が簡単であるし、ある判断の必然性を示すより例外のない普遍性を示す方が分かりやすかったりする。だから、これらの二つの基準は別々に使うのが望ましい。片方だけで充分正確だからである。

 さて、ここまでくれば実際に人間の認識の中に、必然的で例外のない普遍性を持つような判断、すなわち、純粋で先天的な判断があるかどうかを示すことは簡単である。

 学問から例を求めるなら、数学の様々な命題を思い浮かべればよい。また、常識的な頭の働きから例を引くなら、「全ての変化には原因がある」という命題をあげれば充分だろう。

 後者について言うなら、「原因」という概念そのものの中に、原因と結果の結びつきという必然的な概念と、原因結果の法則の持つ例外のない普遍性が含まれているのは明らかである。したがって、もし原因の概念が(ヒュームの言うように)ある出来事とそれに先立つ出来事を何度もいっしょにして、その二つを結びつけて考える習慣から引き出されたもので、主観的な必然性しか持たないものだとしたら、それはもはや原因とは言えなくなるだろう。

 いや、このような例に頼らなくても、我々の認識能力には経験によらない純粋な原則(Grundsätze)が存在することを証明できるし、人間の認識が可能となるには経験によらない原則がなければならないことを示すことができる。

 なぜなら、人間の認識が従うべき原則(Regeln)がことごとく経験から引き出され、何の必然性も備えていないとしたら、人間の認識はどこで確実さを手に入れられるだろう。そのような原則はとても原則(Grundsätze)としては扱えないだろう。

 とは言え、今のところは、我々の認識能力に純粋な用法があることを確認し、そのような用法の特徴を示すだけにとどめておこう。

 しかし、判断だけでなく、概念そのものの中にも先天的な起源を持つものがあることは示しておこう。たとえば、諸君が経験を通じてもっている「物体」の概念から、色や硬さや柔らかさ、重み、不可侵性など、あらゆる経験的な要素を一つ一つ取り除いてみたまえ。しかし、物体が占めていた「空間」は物体そのものが消え去ったあとでも残る。諸君はそれを取り除くことはできないのである。

 このように、形のあるなしにかかわらず、諸君が何かの対象について経験を通じて持っている概念から、経験によって学んだあらゆる性質を取り除いても、(実体の概念の方が一般的な対象の概念よりも多くの性質を含んでいるにもかかわらず)諸君がその対象を実体であると見なせるような性質、あるいはその対象がなんらかの実体に属していると考えさせるような性質を取り除くことはできない。

 諸君は何についてであれその本質について考えざるを得ないのである。そのために、諸君は本質という概念が諸君の先天的な認識能力のなかに存在することを認めざるをえない。



III あらゆる先天的認識の可能性、その原則(Prinzipien)と範囲を明らかにする学問が哲学には必要である



 これまで述べたことよりもさらに重要なことは、ある種の認識が、経験の領域に留まっていずに、経験の世界に対応するものがないような概念を使って、経験の領域を越えて我々の判断の範囲を拡大しているように見えることである。

 我々の理性は、現象の世界で知ることができるどんな事よりもはるかに重要ではるかに高級な問題を探求し続けているが、この探求はまさにそのような認識に属しており、経験を手がかりに真実を探求する感覚の世界を越えたところで行われている。

 実際、我々は、どれほど疑いの目で見られようと、どれほど軽蔑され無視されようと、あらゆる誤謬の危険を冒してまで、この重要な問題の探求を止めようとはしない。この純粋理性にとって避けることのできない問題とは、神と自由と、霊魂の不死の問題である。

 そして、形而上学とは、これらの問題を解決することにあらゆる精力を注ぎ込んできた学問である。この学問は最初から、独断的に、つまり理性の能力を前もって見極めることなしに、これほど重大な問題に自信満々で取り組んできた。

 しかしながら、経験という土台を離れる以上は、我々がこれからうち立てようとする建物の土台が大丈夫なのかどうかをよく調べておくのが自然である。どのような知識でも、それがどこから来たかを確かめずには使えないし、どんな原則(Grundsätze)でもそれがどんな起源を持つものかを知らずに信用するわけにはいかないからである。

 つまり、我々の知性はどうやって上記の先天的な認識能力を手に入れるのか、そして、先天的な認識能力はどの程度のもので、どれほど有効で、どんな値打ちがあるのかという問題を、前もって考えるのは自然なことである。もし「自然」という言葉が、「ふさわしくて合理的に起こるべきこと」を意味するなら、実際これ以上に自然なことはない。

 しかし、もし「自然」という言葉が「普通に起きること」を意味するなら、逆に理性の能力に対する検査がこれまでずっとなおざりにされてきたことほど、自然で分かりやすいことはない。なぜなら、先天的な認識の一つである数学的認識の信頼性はずっと昔から確立されているので、数学とはまったく性格を異にするかもしれない他の先天的な認識も数学と同じようなものだと思われてきたからである。

 しかも、いったん経験の世界の外に出てしまうと、もはや経験と矛盾する心配はなくなってしまうし、認識を拡大する魅力は抗しがたいものなので、明らかな矛盾に直面しない限り、拡大の歩みは止まりようがない。しかも、この明白な矛盾は虚構の世界を念入りに組み立てることによって避けられるのである。しかし、虚構は虚構でしかない。

 数学は、我々が経験から離れて先天的な認識の世界でどれほどうまくやれるかを示す輝かしい先例である。数学は直観でとらえられる限りはどんな対象でもどんな知識でも相手にすることができる。ところが、「直観でとらえられる限り」という条件を我々は忘れがちである。なぜなら、数学における直観は経験によらなくても与えられることから、直観が単なる純粋な概念と混同されてしまい、概念だけが扱われているように思われるからである。

 こうして数学によって理性の力の大きさが証明されてしまうと、認識の拡大への欲求はとどまるところを知らない。まるで軽やかな鳩が空気の中を抵抗なく自由に飛び回れるようになると、真空の中ならもっと楽に飛べるのではと想像するようなものである。

 このようにして、プラトンは、知性の活動範囲を制限している感覚の世界を捨てて、理念(イデア)の翼に乗って、純粋な知性という真空の中に飛び出していったのである。彼には、自分の拠り所とし、自分の支えとし、知性を働かせるための足場とすべきものがなかったから、いくらがんばっても前へ進むことはできなかった。しかし、自分ではそれには気づかなかったのである。

 理論によって何らかの構築物をうち立てようとするとき、人々はできるだけ急いでそれを完成して、その基礎がしっかりしているかは後から調べようとする。それが思索の場での人間の理性のいつものやり方である。しかも、その基礎が大丈夫だと得心するために、あるいは手遅れの危なっかしい検査を無しで済ませるために、あらゆる言い訳を探し求めるのである。

 建築の途中では基礎について何の疑問も不安も抱かず、しっかりした基礎の上に建てていると思い込んでしまうのは、我々の理性が行うことの大部分が、対象についてすでに我々が持っている概念を分析することだからである。

 概念の分析というものは非常に多くの知識を我々にもたらしてくれる。しかし、分析は、実際には既存の概念の中ですでに(混乱した形ではあるが)考えられていたことを明るみに出したり明確にしたりするだけである。ところが、少なくとも形の上からは、それらは新たな知識のように思われがちである。しかし、その内容や素材に関する限り、既存の概念を拡大したわけではなく、それをただ分析しただけなのである。

 しかし、この分析というものは実際に先天的な認識(分析的判断)をもたらしてくれるし、その認識は確かなもので役立ちもする。この見せかけにだまされて、人々はいつの間にか、概念の分析だけで元の概念とはまったく別の認識、つまり、既存の概念にそれとは違う先天的な概念を付け加えるような認識(総合的判断)を生み出せると思い込んでしまった。ところが、どうすれば総合的判断を生み出せるかは誰も知らないし、そんな疑問を抱いた人さえもいないのである。

 そこで、次にこの二つの判断の違いを論じることにする。



IV 分析的判断と総合的判断の違い


 主語と述語の組み合わせで表現される判断(ここで扱うのは肯定判断だけだが、以下に述べることは否定判断にも容易に応用できる)には、二つの種類が可能である。その一つは、主語Aと述語Bがあるとして、Bの概念がAの概念に(隠れて)含まれている場合。もう一つは、二つの概念の間につながりはあるが、Bの概念がAの概念とは別にある場合である。

 最初の場合をわたしは分析的判断と呼び、あとの場合を総合的判断と呼ぶ。分析的判断では(肯定の場合)、同一性によって主語と述語が結びつけられている。それに対して総合的判断では、同一性なしに主語と述語が結びつけられる。

 前者の場合は、述語は主語の概念に何も付け加えることはない。それは、主語の概念の中に(混乱した形ではあるが)すでに存在すると思われる部分的な概念に分解するだけである。したがって、これは注釈的な判断と呼ぶことができる。

 それに対して、後者の場合、述語は、主語の中にはけっして存在しない概念、主語の概念をいくら分析しても引き出せない概念を主語の概念に付け加える。したがって、これは拡張的な判断と呼ぶことができる。

 たとえば、もしわたしが「全ての物体には大きさがある」と言えば、それは分析的判断である。なぜなら、わたしは「大きさ」が「物体」と結び付いていることを発見するには、「物体」と結びつけて考えられる概念を越える必要はなく、「物体」の概念を分析していき、わたしがいつも「物体」の概念の中にあると思っている様々なものを想起すれば、この述語を見つけ出すことができる。したがって、これは分析的判断である。

 それに対して、もしわたしが「全ての物体には重さがある」と言えば、この述語はわたしが一般的に「物体」という概念の中にあると思っているのとは全く違う概念である。そこで、このような述語を付け加えるのは総合的判断だということになる。

 ところで、経験に基づくあらゆる判断は、本質的に総合的判断である。なぜなら、分析的判断の根拠を経験におくのは無意味だからである。わたしが分析的判断をする場合には、自分の持っている概念の外に出る必要はないし、その判断の正しさを経験によって証明する必要もないからである。

 「物体には大きさがある」というのは、先天的に成立する命題であり、経験に基づく判断ではない。なぜなら、経験するまでもなく、「物体」の概念の中を探せば、この判断を下すのに必要なものは全て揃っているからである。だから、わたしは「物体」の概念から、矛盾律(「AがBであると同時にBでないことはあり得ない」という法則)にしたがって述語を引き出せばよいのである。そうすれば同時に、この判断は、決して経験から得ることのできない必然性を備えたものとなる。

一方、わたしは「重さがある」という述語を「物体」の概念に含めて考えることはないが、「物体」の概念は経験の一部となることによって経験の対象となる。すると、わたしは経験の一部となった物体の概念に、同じ経験の他の一部(重さ)を付け加えることができるようになる。こうして、重さの概念は物体の概念に結びつけられる。

 わたしはその前に、「物体」の概念を「大きさ」や「不可侵性」や「形態」などどれも「物体」の概念の中に存在すると思われる特徴によって分析的に認識することができる。しかし、今わたしは、自分の認識を拡大しようとしている。

 つまり、わたしは物体の概念を引き出した際の経験を想起して、上記の様々な特徴に「重さ」という特徴が結びついていることに気づいたとき、この「重さを持つ」という述語を「物体」の概念に付け加えるのである。

 このように、「物体」という概念と「重さ」という述語を総合的に組み合わせることができるかどうかは、経験に依存している。一方の概念は他方の概念に含まれてはいないが、両者はそれぞれ、たとえ偶然であっても、経験という全体の中の一部として互いに結び付いている。経験とはそれ自体様々な直観を総合的に組み合わせたものだからである。

 しかし、総合的判断の中でも先天的なものの場合には、この経験の助けを全く得ることができない。では、わたしはAという概念の外へ出て、Bという概念がAという概念と結び付いていることを知るには、何を頼りにすればよいだろうか。何によって総合的な結合は可能となるのだろうか。なぜなら、この頼りとすべきものを経験の領域の中で探すことはできないからである。

 例えば、「全ての出来事には原因がある」という命題を考えてみよう。「出来事」という概念には、ある存在とそれが存在する前になにがしかの時間が経過していることなどを考えることができる。そして、この「出来事」という概念から分析的判断を引き出すことはできる。しかしながら、「原因」という概念は「出来事」という概念とは完全に別のところにあって、「出来事」という概念とは全く異なるものであり、「出来事」という概念には決して含まれてはいない。

 では、どうして、わたしは「出来事」について、それとは全く異なる述語を加えて、「原因」の概念が「出来事」の概念に含まれていないにもかかわらず、それが「出来事」の概念に必然的に結びついていると認識するのだろうか。

 我々が、概念Aの外側に、それとは異なるが、同時にそれと結び付いていると思われる述語Bを発見できたと思うとき、その裏付けとなる未知のXとは何だろうか。それは経験ではあり得ない。なぜなら、ここで問題にしている命題は、前の概念に後の概念を、例外のない普遍性と必然性をもって結びつけるものであり、概念だけに基づいており、完全に経験から独立した命題だからである。

 つまり、我々の経験に依存しない理論的な認識の最終的な目標は、このような総合的命題、つまり、拡大的な命題である。なぜなら、確かに、分析的命題は非常に重要で無くてはならないものだが、それは総合的結合を確実かつ広範囲に行って新たな知識を手に入れるためには概念の明確化が欠かせず、そのためには分析的命題が役立つというだけのことだからである。



Ⅴ 経験に依存しない総合的判断は、理性がたずさわる全ての理論的な学問の原理(Prinzipien)となる


1. 数学上の判断はすべて総合的判断である。この事実は議論の余地のないほど確かであり、それがもたらす結果から見ても非常に重要である。にもかかわらず、これまでのところ、理性の分析に携わる人たちはこの事実を知らないでいる。いやそれどころか、彼らはこれとは全く反対の考え方をしているのである。

 なぜなら、彼らは全ての数学者の推論が(例外のない必然性を確保するために)矛盾律によって行われることを発見したので、数学の原理(Grundsätze)もまた矛盾律によって導かれる(分析的判断)と考えているからである。しかし、これは間違っている。

 確かに、総合的命題を矛盾律によって説明することができる場合もある。しかし、それは、その命題が引き出された元の総合的命題が別にある場合に限られていて、総合的命題が単独で矛盾律によって説明されるわけではない。

 まず第一に、厳密な意味での数学的命題はつねに先天的な判断であって経験による判断ではないことに注目しなければならない。なぜなら、数学的命題は経験からは引き出せない高いレベルの必然性を備えているからである。これに異議を唱える人がいるなら、この特徴を純粋数学に限ってもよい。ということは、純粋で先天的な知識だけを含み、経験的な知識を含まない数学(代数や幾何など)ということである。

 例えば、7+5=12 という命題は分析的命題で、7と5の合計という概念から矛盾律にしたがって引き出されると考える人がいるかもしれない。しかし、よく見ると7と5の合計という概念は、二つの数を結びつけて一つにすること以外には何も含んでいないことが分かる。

 二つの数を合わせた一つの数が何であるかという情報は、その中には含まれていないのである。わたしは7と5を結びつけることを考えるだけでは、決して12という概念を導き出すことはできない。わたしはそのようなありうべき合計という概念をどれだけ分析してみても、そこに12という数を見つけることはできないのである。

 そのために我々は7と5の合計という概念の外に出て、直観の助けを借りなければならない。その直観とは例えば二つの数の一方に対応する五本の指や、ゼンガーがその『算数』の中で示したような五つの点である。そして、この直観によって与えられた5の一つ一つを順番に7の概念に加えていくのである。

 つまり、わたしは7から出発して、5という概念の代わりに手の五本の指を直観として使って、取りのけておいた一つ一つを5になるまで、このイメージにしたがって、7に対して順番に足していくのである。そうして12という数字が出来上がるのを目にするのである。

 7に5を足すということは、「7と5の合計」という概念の中に見つけることができるが、その合計が12という数に等しいということは、その概念の中にはない。つまり、数学的命題はつねに総合的なのである。これはもっと大きな数を扱うならさらにいっそう明らかになるだろう。その場合には、どれだけ手元にある概念をひねくり回してみても、直観の助けなしにそれらを分析するだけでは、けっして合計の数を発見できないことが明白だからである。

 同様に、純粋な幾何の原理(Grundsatz)はどれもけっして分析的命題ではない。「二点間を結ぶまっすぐな線は最短の線である」というのもまた総合的命題である。なぜなら、わたしの中の「まっすぐな」という概念には、質に関する内容は含まれていても、量(長短)に関する内容は含まれてはいないからである。「最短」という概念は、完全によそから付け加えられたものであって、「まっすぐな線」という概念をどう分析しても、そこから引き出すことはできない。

 したがって、ここでも直観の助けが必要である。この助けがあってはじめて総合は可能となるのである。

 幾何学者が前提としている原理(Grundsätze)のなかには、確かに分析的なものがあって、それらは矛盾律に基づいている。しかし、そのような命題は、同一律(A=B)と同じく、演繹法や帰納法でつなぎの役割をしているだけで、単独で原理(Prinzipien)として機能しているわけではない。

 たとえば、A=A、つまり「全体はそれ自身に等しい」とか、(A+B)>A、つまり「全体はその部分より大きい」などがそうである。確かにこれらの命題は直観なしに概念だけで有効であるが、それらが数学のなかに含まれているのは、直観で捉えられるからにほかならない。

 数学の場合、このような例外のない必然性を備えた命題の述語は、我々の概念の中にすでに含まれており、その命題は分析的なものだと一般的に信じられているとすれば、その原因はひとえにこのような命題の表現方法の曖昧さにある。

 というのは、我々は数学の命題においては一つの与えられた概念に何か一つの述語を付け加えて考えるべきなのであるが、この結び付きの必然性はすでにその概念に付随しているからである。しかしながら、問題とすべきは、与えられた概念に何を付け加えて考えるべきかではなく、その概念の中に、たとえかすかではあっても、実際に何があると考えるかである(訳注:数学の命題の場合には、概念の中には何も考えてはいない)。

 そうすれば、その述語は、与えられた概念自身の中にあると考えられたものとしてではなく、その概念に付け加えられるべき直観をつうじで、その概念と必然的に結び付いていることが明らになる。

2. 自然科学(物理学)の法則の中には、経験によらない総合的判断が含まれている。そのうちから二つだけ挙げてみよう。「物質の世界の変化においては物質の量は不変である」と「動きの伝達においては作用と反作用は常に大きさが等しい」である。これらの法則が両方とも、必然性と先天的起源を持っているだけでなく、総合的命題であることは明らかである。

 なぜなら、わたしは物質という概念の中では不変ということを考えたりはしない。物質が空間を占めていることから、わたしはそれが空間の中に存在するということだけを考える。そこで、わたしは物質の概念の外側に行って、その概念の中では考えることのできない先天的な何かをその概念に付け加えて考える。したがって、この命題は分析的ではなく総合的であって、しかも経験に依存しないものである。自然科学の他の純粋な分野の命題もこれと同様である。

3.形而上学は、これまで単に試みとしてなされただけの学問であるとはいえ、人間理性の特性のおかげで、無くてはならない学問であり、その中には経験によらない総合的な認識が含まれているはずである。なぜなら、その役割は、物事に対して我々が先天的に自ら持っている概念を分析して明らかにするだけでなく、我々の先天的な認識を拡大することでもあるからである。

 そして、そのためには、我々は与えられた概念に、その概念に含まれていない何かを付け加えるような原理(Grundsätze)を使わねばならない。そして、先天的かつ総合的な判断を通じて、もはや経験によっては確認できない世界の探求に乗り出すのである。それは、例えば「世界には最初の始まりがある」というような命題を探求することである。このように、形而上学とは、完全に総合的な命題を経験によらずに探求することである。少なくとも、形而上学の目的とはそういうものである。



VI 純粋理性についての一般的な問題


 多くの問題を一つの問題の形にすることができれば、それだけですでに大きな収穫だろう。そうすれば、問題が正確に定義されて、仕事がやりやすくなるだけでなく、我々の意図が実際に達成されているかどうか確かめようとする人たちにとっても、判断がつけやすくなる。

 ところで、純粋理性の問題は「経験によらない総合的な判断はどのようにして可能か」という問題の形に集約できる。この問題はこれまで一度も検討されずにきている。そのために、形而上学はこれまでずっと矛盾と混乱の間を行ったり来たりしてきた。いやそれどころか、分析的判断と総合的判断の違いさえもよく検討されずにきたのである。

 この問題がもし解明されるなら、形而上学は着実な進歩を始めるだろう。しかし逆に、総合的な判断は経験によらなければ不可能であることが充分に証明されれば、形而上学は存在できないことになる。

 多くの哲学者たちの中でもデビッド・ヒュームはこの問題に最も近づいた人である。しかし、彼は充分明確にしかも普遍的なやり方でこの問題を考察したとは言えない。彼はひたすら原因と結果の関係という総合的命題(因果律)に取り組んだ。そして、彼はそのような命題は経験によらなければ全く不可能であるということを明らかにしたと信じた。

 彼の結論によれば、我々が形而上学と呼んでいるものは全くの妄想でしかない。つまり、実際には経験から借りてきたものが習慣によって必然性を持っているように見えるだけのものを、我々は理性による認識だと思い込んでいるのである。

 彼がもし我々の問題を普遍的な観点から考察していたら、あらゆる純粋哲学を破壊するこのような結論に陥ることはなかっただろうし、自分の説に従えば、総合的命題を経験によらずに扱う純粋数学が不可能になることに彼も気づいていただろう。頭のいい彼が純粋数学が不可能だと言うはずはないからである。

 上記の問題を解くことは、すなわち、対象に対する経験によらない理論的知識を含むようなあらゆる学問を純粋理性を使用することによって創設し完成させることは可能であるかどうかを問うことである。要するにそれは、次の問に答えることである。

 「純粋数学はどのようにして可能か」
 「純粋な自然科学はどのようにして可能か」

 これらの学問が実際に存在する以上、このように問うてみることは決して間違ってはいない。なぜなら、そもそもこれらの学問が可能であること自体はそれらが存在することによってすでに証明されているからである。(原注)

原注 それでもなお純粋な自然科学の存在を疑う人がたくさんいるかもしれない。しかしながら、経験に基づく物理学についても、その初期の頃に発見された様々な法則、質量保存の法則や慣性の法則や作用反作用の法則などのことを考えてみればよい。すると、これらの法則が実は純粋な物理学を構成するものであることが容易に分かるはずだ。このような理性に基づく純粋な物理学は、たとえそれが扱う範囲は狭くても、独立した学問として扱うに値する。


 いっぽう、形而上学のこれまでの歩みは遅々としており、また、これまでに提案された形而上学はどれ一つとってみても、この学問の本質的な目的に照らせば、それが実際に存在するとは言えないものである以上、この学問がそもそも可能かどうかを疑ってもよいのである。

 しかし、ある意味では、この学問が標榜するような知識は、すでに誰にも与えられていると考えるべきでもある。つまり、形而上学は現実に存在しており、それはたとえ学問とは言えないとしても、人間の本質的な傾向なのである(metephysica naturalis)。

 なぜなら、人間の理性は、単なる虚栄心に満ちた博識の欲求に駆られることはなくても、内面の欲求に駆られて、ある問い──理性の能力を経験の世界に働かせても、経験から得た原則(Prinzipien)を使用しても答えられないような問──に向かって、ひたすら突き進むものだからである。そのために、どんな人間も、理性が成熟して物を考えるようになると、心の中に何らかの形而上学がいつも存在するようになり、決して消えることがない。そこで

「人間の本質的な傾向としての形而上学はどのようにして可能か」

という問いが生まれる。それは言い換えると「どのようにして、一般的な理性の本質的傾向として、あの問い──純粋な理性が自らに問いかけ、何とかして答えようと必至になるあの問い──は生まれてくるのか」ということである。

 これまでのところ、このような問い──例えば、世界には始まりがあるのか、それとも昔からずっと存在するのかという問い──に答えようとするどのような試みも、矛盾に直面せずにはいられなかった。そのために、我々は形而上学をめざす本質的傾向には満足できないでいる。それはとりもなおさず、何らかの形而上学(その成否は問わず)を常に生み出してきた純粋理性の能力に不満を感じているということである。

 しかし、我々はそもそも形而上学の対象となるものを認識できるかどうかなら、我々の理性によって確かめることができるにちがいない。つまり、形而上学は何を研究対象とすべきか、あるいはその研究対象に関して判断を下す能力が理性にはあるのかどうか、あるいは我々は安心して純粋理性の扱う領域を拡大してよいのか、それともちゃんとした境界線を引くべきかどうかを明確にすることなら、我々の理性にもできるにちがいない。

 したがって、上記の漠然とした問題「経験によらない総合的な判断はどのようにして可能なのか」から始まった我々の問いは、次のように言い換えることができる、

 「学問としての形而上学はどのようにして可能か」。

 要するに、理性の能力を批判的に検討することこそ学問としての形而上学への道であり、それに対して、理性を批判せず、根拠のない主張に基づいてそれを独断的に使用することは、別の同じく根拠のないな反対意見を生み出すだけであり、結局それは懐疑主義に至る道である。

 学問としての形而上学は驚くほど膨大なものとなることはない。なぜなら、この学問は、無限に複雑多岐にわたる理性の対象を扱うのではなく、理性自身を扱うのであって、理性の内側だけから発生する問題、理性とは異なるものの本質ゆえにではなく、理性の本質ゆえに自分に課せられる問題を扱うからである。

 しかも、経験の世界に現れる対象についての理性の能力を批判を通じて前もって完全に理解しておけば、形而上学という経験の世界の境界線を越えたところで理性の使用を試すときにも、その使用範囲と限界を誤りなく決定するのはたやすいに違いない。

 したがって、形而上学を独断的に実現しようとしたこれまでの試みは全てなかったものと見なすことができるし、また見なさねばならない。なぜなら、これまでの試みの中に見られる分析的な部分は、我々の理性に先天的に宿っている概念を単に分析しただけで、それは本来の形而上学の目標ではなく、その準備に過ぎないからである。本来の形而上学とは先天的認識を総合によって拡大することだからである。

 この目的にとっては、概念の分析は役に立たない。それは概念の中に何が含まれているかを明らかにするだけで、どのようにして概念を手に入れたかを明らかにはしないからである。ある概念をどのようにして手に入れたかが分かれば、そのような概念をあらゆる認識の対象について有効に活用することができるのである。

 形而上学を独断的に実現する要求の全てを放棄することはたいした忍耐を必要としない。これまでの形而上学は、理性が独断的に使用されたために理性が自己矛盾に陥らざるを得ず、ずっと昔にどれも権威を失ってしまっている。

 しかしながら、この学問は人間にとって無くてはならないものである。それは、次々に生えてくる幹を切り取っても、根っ子まで破壊することのできない植物に似ている。この学問を知的困難にも外的抵抗にもめげずにこれまでとは違うやり方で成長させて実を実らせるまでには、過去の形而上学を放棄するよりももっと大きな忍耐を必要とするだろう。



VII 『純粋理性批判』という名の特別な学問の構想とその内容



 そして、まさにこの形而上学の再生のために、『純粋理性批判』という名の特別な学問の構想が生まれたのである。

 つまり、理性は経験によらない認識原理(Prinzipien)を提供する能力であり、純粋理性は全く経験によらない認識原理を提供する能力である。すると純粋理性はオルガノン(学問研究の道具)となり、あらゆる純粋な知識を経験によらずに手に入れる原理の総体ということになる。そして、そのような万能の道具を網羅的に適用すれば、純粋理性の一個の体系を作れるかもしれない。

 しかし、それは過大な要求であり、そもそもそれで我々の認識は拡大するのか、またそれはどういう場合に可能なのかはまだ分からない。したがって、純粋理性の体系を作る前段階として、純粋理性に評価を下して、純粋理性の源と限界を明らかにするためだけの学問が必要なのである。

 純粋理性についてのこの学問は、理論ではなく批判と呼ぶべきものであり、思索の場におけるその役割も実際には消極的なものとならざるを得ない。この学問は理性の能力を拡大するのではなく、それをはっきりさせて、過ちを犯さないようにするためにだけ存在する。しかし、それだけでも大きな収穫となるだろう。

 わたしは、知識は知識でも対象についての知識ではなく、対象を経験によらずに知る方法についての知識のことを「超越的」と呼んでいる。

 そして、そのような知識を集めて体系化したものが「超越的哲学」と呼ばれることになるだろう。しかし、そのような哲学は最初の間は荷が重すぎる。なぜなら、そのような学問は総合的認識と分析的認識の両方の先天的認識を完全に含まねばならないため、我々の目的からは、あまりにも遠すぎるからである。

 というのは、我々が分析を行うのは、経験によらない総合的認識の原理の全体像を把握するためにどうしても必要な場合だけに限らねばならないからである。我々にとって重要なのはこの原理をつかむことだけなのである。

 我々のこの研究は理論ではなく、単に超越的な批判と呼ばれるべきなのである。なぜなら、この研究の目的は、我々の認識を拡大することではなく、我々の認識を修正することであり、我々が持っているあらゆる先天的な認識の価値を見極める手段を提供することだからである。

 したがって、この批判は、もし可能ならば、オルガノン(上記)の準備をすることであり、もしそれができないなら、あらゆる先天的認識の規準の準備をすることである。そして、その基準に従えば、純粋理性哲学の方法の全体像を──この哲学が、純粋理性の認識領域を拡大することになるか、限定することになるかは分からないが──総合的かつ分析的に描くことができるはずである。

 このような批判のシステムを構築することが可能なこと、そしてそれがとても完成できないほど巨大なものではないことは、あらかじめ次の事実から容易に推測できる。つまり、我々がここで扱うのは物の本質ではなく──それなら膨大な量になる──物の本質について判断を下す知性(悟性)、しかもただ先天的な認識について判断を下す知性だけを扱うのである。

 しかもその知性の武器庫(=原理と方法)は我々の内側を探せばよいのだから、それはきっと見つかるはずである。また、どう考えてもそんなにたくさんあるはずはないから、それらを完璧に理解してその価値を正しく評価することができるにちがいない。読者はこの本の中に純粋理性に関する書物に対する批判やその理論に対する批判が書かれていると思わないでもらいたい。ここにあるのは、純粋理性の能力に対する批判だけである。

 我々は、この批判に基礎を置くことによってはじめて、この分野における古今の著作を評価する確かな方法を手にすることができる。それがない現状は、資格のない歴史家や批評家が、根拠のない他人の主張を、これまた根拠のない自分の主張によって評価しているだけである。

 そして「超越的哲学」という学問があるとすれば、それは『純粋理性批判』を通じて、原理(Prinzipien)に基づいて構成していくべきものである。つまり、この哲学のあらゆる部分が完璧で確実な構造をもつことは、『純粋理性批判』によって保証されねばならない。この哲学は純粋理性の全ての原理からなる体系なのである。

 この『批判』には人間のあらゆる先天的認識に対する詳細な分析が含まれていないため、一個の完全な体系とはならない。まさにそれゆえに『批判』は「超越的哲学」と呼ばれることはない。我々は『批判』において、上記の先天的認識に含まれる基本概念の全てを数え上げるつもりである。しかし、これらの概念の詳細な分析も、それらの概念から引き出される概念を完全に検討することもしないのがよいのである。

 というのは、この『批判』の全体の目的は本来「総合」にあり、この場合に見られる問題は、分析の場合には存在しないので、そのような分析や検討は我々の目的とは関係がないからである。また、そのような派生的なことや分析にまで責任を負うことは、我々の計画の一貫性を損なうことにもなる。我々の目的から言って、そんなことは省略してよいのである。

 本論の中で示される先天的概念とそこから派生する概念に対する完全な分析は、先天的概念が充分な「総合の原理(Prinzipien)」として存在し、それが本質的な目的を達成するために必要かつ充分なものなら、あとからでも簡単にできることである。

 したがって、『純粋理性批判』には「超越的哲学」の基本的な部分は全て含まれることになる。しかし、『純粋理性批判』は「超越的哲学」の完璧な理念を示すものであっても「超越的哲学」そのものではない。なぜなら、『純粋理性批判』においては、経験に依存しない総合的な認識を完全に調べるのに必要なだけしか分析は行われないからである。

 この「超越的哲学」という学問の内容に関して注意すべき点は、経験に基づく要素を含むような概念はその中に入らないということである。つまり、この学問は完全に純粋な先天的認識だけで構成されねばならない。したがって、道徳の最高原則(Grundsätze)や基本概念は先天的な認識ではあるが、「超越的哲学」の中に入ることはできない。

 なぜなら、確かに、経験に基づく快不快の概念や好き嫌いの概念が道徳的な教訓の基礎となることはないが、純粋な道徳の体系を構成するときには、これらの経験に基づく概念が、義務を妨げるもの、克服すべきもの、あるいは、払いのけるべき誘惑として,義務の概念を構成する際にどうしても必要となるからである。

 したがって、「超越的哲学」とは純粋な理論理性だけの哲学である。実践的なものは全て動機を含むために、感情と関係している。つまり、感情は認識の経験的な源なのである。

 この『純粋理性批判』を一般的な哲学書のやり方にならって構成するなら、我々がこれから提示する『純粋理性批判』は、最初に純粋理性の原理論(Elementar-Lehre)が、二番目に方法論が来る。この二つの大きな部分は、それぞれたくさんの小さな部分に分かれている。その分け方までここで述べるつもりはないが、序論あるいは前置きとしてここで言っておくべきことは、人間の認識には感性と知性という二つの幹があって、この二つは我々には分からない共通の根から出ているということである。

 そして、感性を通じて対象が我々に与えられ、知性を通じて我々はそれを考えるのである。感性のうちでも、対象が我々に与えられる条件となる先天的概念を含むものは「超越的哲学」の中に含まれる。また、認識の対象を考えるためには、何よりもまずその対象が人間に与えられねばならないから、超越的感性論が原理論の最初に来る。

誤字脱字に気づいた方は是非教えて下さい。

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