召集兵


 
 
 

訳者のまえがき

 これは貴族の女が一人息子の帰還を待ちながら果たせずに死んで行く話である。
 
 彼女は美しい未亡人で、革命後も巧みに田舎の町で財産を守りながら生き延びていたが、亡命している一人息子が帰って来るという知らせを受けて、その準備のためにいつも開いていたサロンを閉じてしまう。そのために村は大騒ぎになり、やむなく夫人はサロンを開くが、息子のことが気になって仕方がない。そして、屋敷に一人の青年がやってくる。しかし、その青年は彼女の息子ではなく、召集兵の一人だった。夫人はそれでも待ち続ける・・・。悲しい母の物語である。
 
 ただし、それをメロドラマにせず、ひとつの社会現象あるいは自然現象として描くところにバルザックの特徴が出ている。
 
 なお、この作品の舞台であるノルマンディー地方の人たちは悪賢いことで有名らしい。そのことを利用した表現があちこちに使われている。

 この作品の題名のフランス語は requisitionnaire で、フランス革命のあとの国民公会が発した徴兵令によって召集されて兵士となった者のことである。そのため、ここでは「召集兵」としてみた。召集された兵士という意味である。
 
 
 

召集兵

バルザック
「彼らはそれが、時には、幻視や転移という現象によって、『時間』と『空間』という二つの形の距離を無に帰すのを見た。『時間』とは知的な距離のことであり、『空間』とは物質的な距離のことである」
『ルイ・ランベールの知の物語』より[『ルイ・ランベール』全集第21巻262頁上]

ラ・リベルリの親愛なるアルベール・マルシャンに捧ぐ


 
 

 1793年11月のある夜、カランタンの村の主だった人たちはド・デ夫人の家の客間に集まっていた。彼女の家ではこの集まりは毎日のことだった。
 
 大きな町では注目を集めなくても、小さな村では大騒ぎになるような出来事がある。そのような出来事のために、今日の集まりは異常な関心を集めていた。その出来事とは、体調不良を理由にド・デ夫人が一昨日にこの会合を開かず、昨日もまた開かなかったということである。
 
 普通の時代ならば、この出来事は、パリの劇場が突然休演になったときのような影響をカランタンの村におよぼす程度であろう。そういう時代なら、人生とは不完全なものだというだけのことである。
 
 しかし、1793年では話が違う。ド・デ夫人のこの行動はどんな致命的な結果をもたらすか知れなかった。この時代では、ちょっとした軽率な行為が、貴族たちにとっては、ほとんど常に生死を分ける問題となったのである。
 
 この夜集まったノルマンディー人たちの顔は、強い好奇心と狭量なずる賢さで、どれもこれも活気づいていた。一方、ド・デ夫人は心に密かな悩みを抱えていた。
 
 しかし、読者がこの場に集まった人たちの気持ちをよく理解し、さらに何よりもこの夫人の不安をともにするためには、カランタンの村で彼女がどういう役回りを演じていたかをまず説明する必要がある。
 
 その時彼女が置かれていた危険な状況は、おそらくフランス革命の時代に多くの人たちが経験したものと同じものである。だからこの物語に現実味をもたせてくれるのは、結局のところは、多くの読者の共感ということになるだろう。
 

 ド・デ夫人は未亡人だった。夫はかつての騎士団の騎士で陸軍中将だった。革命が起こって貴族たちが亡命を始めるまでは、彼女は宮廷勤めをしていた。勤めを辞めた彼女は、カランタンの近くに莫大な所有地があったので、そこに避難することにした。恐怖政治の余波がここまでは及ぶことはないと思ったからである。
 
 この地方のことをよく知っていた彼女のこの判断は正しかった。革命がバス・ノルマンディー地方を荒らし回ることはほとんどなかったのである。

 ド・デ夫人は、以前にこの領地を訪れたときには土地の貴族としか会わなかったが、今では打算を働かせて、市民階級の主だった人たちや新たな役人たちにも家の門戸を開いていた。こうして、彼女を屈服させたと彼らに自慢させることで、彼らの憎しみや妬みを買わないように努めていた。
 
 夫人は親切で愛想が良かった。卑屈になったり懇願したりすることなく人から好かれるという名状しがたい魅力に恵まれていた。彼女は感じのいい気配りで誰からも尊敬を勝ちえることに成功した。
 
 内心の警告に耳をすました彼女は、微妙な線を踏み外さないように努めて、様々な人間の混じったこの集まりの要求を満たすことができた。成り上がり者の気むずかしい自尊心も、昔からの友人たちの誇りも傷つけることなく過ごしてきたのである。
 
 およそ38才になる彼女は、バス・ノルマンディー地方の娘たちに特有の栄養の行き届いた若々しい美しさこそなかったが、きゃしゃな美しさ、いわば貴族的な美しさをまだ失っていなかった。
 
 彼女の顔立ちは繊細かつ優美で、体つきは細くてしなやかだった。彼女が話をするときには、その青白い顔が輝き出して生き生きとするように見えた。その黒くて大きな瞳は親愛の情にあふれていた。しかし、落ち着きのある信心深い眼差しからは、彼女の命の泉がもう涸れてしまっていることが読みとれた。
 
 彼女は人生の花の時期に、高齢で嫉妬深い軍人と結婚したために、優雅な宮廷生活の中で常に本心を偽る必要があった。そのためであろうか、かつては魅力的な恋や熱烈な恋に輝いていたはずの彼女の顔には、厚い憂鬱のベールが広がっていた。
 
 彼女はまだ考えるよりも感覚で行動する年頃なのに、素直な心の動きと女らしい感情を常に抑えつけていたので、情熱は無垢なままで心の底に生き続けた。彼女の主な魅力もこの内面の若さから来ていた。
 
 この若さはときどき顔に現れることがあった。そんなときには、彼女の言葉の中にも本心から来る無邪気な願望が表れてきた。彼女は外見だけを見る限り、丁重な扱いを要求しているように見えた。しかし、そのしゃべる声や物腰には、若い娘が持つような、未知の将来へのときめきが常に感じられた。
 
 そのために、どんな鈍い男でもたちまち彼女に恋をした。しかし、男たちは彼女に対する畏敬の念をけっして捨て去ることができなかった。それは彼女の上品で洗練された振る舞い方によって引き起こされるものだった。
 
 彼女の心は生まれつき寛容に出来ていたが、苛酷な争いの中で周囲との壁を高くしていたので、俗な世界からは懸け離れた存在のように見えた。そのために男たちは彼女を高嶺の花と思ってあきらめた。
 
 このような魂には当然ながら、情熱のはけ口が必要だった。ド・デ夫人の情熱はただ一つの感情となって集中して現れた。それは母性愛だった。女としての人生の喜びも幸福も手にすることが出来なかったので、その分を息子に対する激しい愛情によって取り戻そうとしたのだ。
 
 それは愛する息子に母として献身的に尽くすというだけではなかった。息子に対して愛人の媚態や妻の嫉妬心をも示したのだった。彼女は息子のそばにいないと悲しくなり、息子が外出すると不安になった。息子をいくら見ても飽きないのだった。彼女は息子のために生きていたのであり、息子が彼女の生き甲斐だった。
 
 この息子はド・デ夫人の唯一人の子供であるだけでなく、彼女の最後の身内だった。つまり、彼女の生活の中で不安や希望や喜びを感じる唯一の対象だったのである。息子に対する彼女の愛情の強さを理解するためには、この事実を付け加えるだけで充分だろう。
 
 今は亡きド・デ公爵自身も彼の一族の最後の末裔だったし、彼女の方も自分の一族の唯一の相続人だった。世俗的な打算と利害関係が最も高貴な魂の欲求と結びついて、どんな女性にも存在するすでに充分に強い感情が、伯爵夫人の心の中で、さらに強烈なものになったのである。
 
 彼女の息子は、たいへん苦労して育てた子だったので、よけいに彼女にとっては大切な存在だった。医者たちは何度も彼女に息子の死を予言した。しかし彼女は自分の予感を信じ、自分の希望を信じた。息子は、医者の宣告に反して、幼年時代の危険な時期を無事に乗り越えて、たくましく成長した。それを見て彼女は言い知れぬ喜びを味わった。
 
 彼女の絶えざる気配りを受けながら成長した息子は、非常に魅力的な男性になった。二十歳のときには、ヴェルサイユ宮殿の中ではダンスのパートナーとして最も完璧だと言われた。そのうえ、息子は自分の母親が大好きだった。すべての母親の苦労が、このような幸福によって報われるわけではない。
 
 二人の魂は親密な共感によって理解し合っていた。二人が生まれながらの絆によって結ばれていなかったとしても、一生の間に出会うことが非常にまれな心からの友情を、本能的に二人は相手に対して感じていたのである。
 
 この若き伯爵は十八才の時に竜騎兵部隊の少尉に任命された。そして、当時の名誉に関する考え方にしたがって、亡命した王子たちの後を追った。
 
 以上のように、ド・デ夫人は、貴族の出であり、金持ちであり、しかも、亡命貴族の母であった。したがって、自分の立場がいかに厳しくいかに危険であるかは充分認識していた。
 
 彼女の唯一の願いは、息子のために莫大な財産を守ることだった。そのために、彼女は息子に付いていく楽しみを断念したのである。カランタンの村では亡命貴族の財産が連日のように革命政府の手によって没収されていた。それを正当化する厳しい法律を読んだ彼女は、自分の勇気ある行動を自画自賛した。彼女は息子の財産を命がけで守りぬいたのである。
 
 やがて、革命議会が命じたという恐ろしい処刑の話を聞いたとき、彼女は自分の財産だけは安全であると知って喜んだ。そして、死刑台からもどんな危険からも遠く離れて安心して眠ることができた。自分の財産をすべて同時に救うことのできる最善の決断をしたと思って彼女は内心ご満悦だった。
 
 この密かな喜びのために、彼女は人生の不幸な時代に求められる数々の譲歩を重ねた。しかし、彼女はけっして女性の品位を損なうことも、貴族的な信念を曲げることもなかった。自分の悲しみは神秘の冷たいベールで包み込んでいた。
 
 カランタンの村で彼女を待ち受けている様々な困難のことはよく分かっていた。この村で優位につくということは、日々死刑台に挑戦することではなかったろうか。しかし、彼女は母としての勇気を支えとして、貧しい人たちの苦しみを分け隔てなく和らげてやることで、彼らの愛情を勝ち得た。また、豊かな人たちには楽しみを提供することで、自分を彼らにとって無くてはならない人間とした。
 
 彼女は村の検事も村長も郡の裁判長も訴追官もさらには革命裁判所の判事までも自分の家に迎え入れた。このうちの最初の四人は独身で、彼女との結婚を夢見ていた。そして、ひどい目に遭わせることもできると言って彼女を怖がらせたり、「あなたはわたしが守ってやる」と言ったりして、彼女に言い寄った。
 
 訴追官は昔カーンの村で弁護士をしていた男で、当時は伯爵夫人の財産の管理人だった。彼は献身的な態度や気前のいい態度を見せて、彼女の心の中に愛情を芽生えさせようと試みていた。それはひどく狡猾なやり方だった。
 
 求婚者たちの中で彼はもっとも怖ろしい存在だった。元の依頼人である彼女の莫大な資産の状況を知り尽くしていたのである。彼の熱意が何よりも金銭欲によって強められていたことは疑いがない。しかもそのどん欲は、彼の大きな権限を拠り所にしていた。彼は地域の人間の生き死にを決定する権利を握っていた。
 
 この男はまだ若かった。しかも、その物腰は非常にソフトだったので、ド・デ夫人は彼がどういう人間なのか、なかなか決めかねていた。
 
 彼女は抜け目のなさでルマンディー地方の人たちと争うことの危険性を物ともしなかった。女が生まれつき持っているずる賢さと才気に富んだ頭脳を駆使して、求婚者たちを互いに競わせたのである。こうして時間稼ぎをしている間に、この苦しい時代が何事もなく終わりを告げるのを待っていた。
 
 この時代にフランスの国内に留まっていた王党派の人たちは、明日には革命が終わるだろうと思いながら毎日を過ごしていた。そしてこの確信が彼らの多くのものたちに破滅をもたらした。
 
 伯爵夫人はこのような数々の障害のなかを巧みに立ち回って、他人の口出しを受けることなく暮らしてきた。しかし、それも彼女が家での集まりを開かないという大それた気を起こす日までのことだった。それは思いも寄らぬ無謀な行為だったのだ。
 
 しかしながら、村の人たちは心から彼女を愛していたので、その夜彼女の家にやってきた人たちは、彼女が会えないということを聞くと、彼女のことをとても心配した。
 
 次に彼らは、田舎の人間らしく好奇心を露わにして、ド・デ夫人を悩ましているはずの不幸や苦しみ、病気のことについて誰か知らないか尋ねて回った。この問いかけに対して、夫人の老家政婦──名前はブリジットといった──は、奥さまは部屋に引きこもって誰にも会いたくないとおっしゃっている、家の者にもお会いにならないと答えた。
 
 小さな村でまるで修道士のような娯楽のない生活を送っていた住人たちにとっては、他人の生活をあれこれ詮索して原因を突き止めようとするのは当然の習いとなっていた。そこで、誰も彼もが、ド・デ夫人に対する同情の言葉を済ませると、彼女が本当は幸福なのかそれとも悲しんでいるのか分からないので、夫人が急に引きこもった理由をさぐり始めた。
 
 好奇心に駆られた男がまず口火を切った。
 
「奥さんが病気なら、医者を呼びにやっているはずだ。ところが、先生はうちの家に来て、今日一日チェスをしていたのさ。先生は笑いながらおっしゃったよ『最近流行りの病気と言えば一つしかない、それは残念ながら不治の病だね』」
 
 この冗談はかなり遠慮したほうだった。その日は男も女も老いも若きも、ありとあらゆる推測に没頭した。そして、誰もがそれぞれに秘密を探り当てたと言い、今度はそれをめぐってみんなが想像をたくましくした。
 
 翌日、彼女をめぐる疑惑はさらに深まった。小さな村では人生は白日の下にさらされている。この日の口火を切ったのは女たちだった。ブリジットが市場でいつもよりたくさん買い物をしたと言うのだ。これは否定しがたい事実だった。ブリジットが朝早くから市場にいるところを見た人がいるのだ。しかも、奇妙なことに、彼女はそこにあった唯一のウサギを買ったのである。ド・デ夫人がうさぎの肉を食べないことは村中の人が知っていた。このウサギをきっかけに、あらゆる推測が行われた。
 
 村の老人たちがいつもの散歩から帰ってくると、彼らは伯爵夫人の家では何か一生懸命やっているようだと報告した。家の者たちが何かを隠そうとして用心している様子からそれが分かったと言うのだ。
 
 次の報告は、召使いの男が庭でじゅうたんをはたいていたというものだった。昨日ならそんなことは誰も気にしなかっただろう。しかし、この日は、このじゅうたんを根拠に、村中の人が思い思いに自分だけの物語を編み出した。
 
 二日目に、カランタンの主だった人たちは、ド・デ夫人が体調不良を訴えていると聞くと、夕方、村長の兄の家に集合した。村長の兄はむかし卸売商をしていた老人で、結婚しており、正直者としてみんなから尊敬されていた。伯爵夫人も彼のことを非常に尊敬していた。
 
 裕福な未亡人に求婚していた男たちは、全員かなり信憑性のある話を携えてやってきた。そして、夫人の立場をこれほど危うくさせている事件──それは謎に包まれていたが──この事件をとにかく自分のために役立てようと考えていた。
 
 訴追官はド・デ夫人の息子が夜中に彼女の家に帰ってくるという一編のドラマを想像で語った。村長は革命政府に宣誓を拒んだ司祭がヴァンデから来て、彼女にかくまわれているのだと主張した。しかし、金曜日にウサギを買ったという事実を前に、村長は大いに当惑していた。
 
 郡の裁判長はヴァンデ反乱軍かミミズク党員の首謀者が追われて逃げ込んでいるという説を強く主張した。ほかの者たちはパリの監獄を脱走した貴族が来ているという説を唱えた。いずれにしても、伯爵夫人が誰かに親切にしようとしており、その親切がいまの法律では犯罪となること、そのために彼女は死刑台送りになるかもしれない、という見方で全員の意見が一致した。
 
 つぎに、訴追官は声を潜めていった。
 
「このことは内密にしておかねばなりません。今夫人は破滅に向かってまっしぐらに進んでいますが、わたしたちは不幸な彼女を破滅から救ってあげるべきです」
 
さらに、彼はこういった。
 
「もしこの話を誰かが外で言いふらしでもしたら、わたしはこの事件に介入しなければならなくなるでしょう。そうなれば彼女の家を捜索することになります。そうなると、・・・」

彼は最後まで言わなかったが、みんなは彼の言わなかったことを理解した。

 伯爵夫人の真の友人たちは彼女のことを非常に心配した。三日目の朝、検事で村の理事でもあった男が自分の妻に手紙を書かせて、今日の夜はいつものように会合を開くようにと彼女に勧めた。
 
 元卸売商の老人はもっと大胆で、朝のあいだに自分でド・デ夫人の家に現れた。そして、彼女を助けたいという一心から、夫人との面会を強く求めた。そして、彼女が庭にいるところを見つけると、びっくりして動けなくなってしまった。彼女は花瓶に生けるための新鮮な花を花壇から切りとっていたのである。
  
 「彼女は恋人をかくまっているのにちがいない」

この魅力的な女性に対して哀れみを抱いていた老人はこうつぶやいた。いつにない伯爵夫人の表情を見て、この疑いは確信に変わった。このような献身ぶりは女性にとってはごく自然なことだが、人々の心を打つものである。彼はこの様子を見て、いたく感動した。女が一人の男のために自分を犠牲をする様子を見て、不快に感じる人はいないからである。

 老人は村中に広がっている噂と、彼女がどれほど危険な立場に陥っているかを伝えた。
そして最後に彼は次のように言った。

「この村の役人たちの中には、奥さまの勇敢な行為がどこかの牧師のためならお許ししようと言っている者もおりますが、奥さまが恋のために我が身を犠牲にしたとなると誰も同情しないでしょう」

これを聞いたド・デ夫人は茫然として彼を見つめた。老人は彼女が気が狂ったと思って身震いした。その時彼女はいった。

「こちらに来て下さい」

こう言うと、夫人は老人の手を取って自分の部屋に導いた。そこで彼女は自分たちのほかには誰もいないことを確かめると、胸の中に手を入れて一通の手紙を取り出した。それは汚れてしわくちゃになっていた。

「これを読んで下さい」

と夫人は声を上げた。彼女はやっとのことでこれだけいうと、ぐったりと肘掛け椅子に座り込んだ。老人がめがねを探し出して拭いている間に、彼女は彼の方へ視線をあげて、はじめて相手の姿を好奇の目で眺めた。そして夫人はうわずった声で、しかしやさしく言った。

「あなたなら信用できますわね」

人のいい男は侯爵夫人に対して率直に答えた。

「わたしはあなたの罪をいっしょに背負うために来たのですよ!」

 彼女はびくっとした。この村にやってきてはじめて自分の気持ちが別の人間の気持ちと通じ合ったのである。
 
 一瞬にして老人は伯爵夫人の落胆と喜びのわけを理解した。彼女の息子はグランヴィル遠征に加わっていたのである。息子は監獄の奥から母親に手紙を送ってきていた。
 
 彼女はそれを読んで悲しくもまた楽しい希望を抱いた。脱獄の方法には自信があるから、三日後には変装して彼女の前に姿を現すはずだと書いてきたのである。この運命の手紙には、もし三日目の夜にカランタンに着けないときには悲しいお別れになるとも書いてあった。そして、数限りない危険を乗り越えてこの手紙を運んできた密使には、たっぷりとお金をやってくれと母親に依頼していた。
 
 手紙は老人の手の中でふるえた。
 
「そして今日がその三日目ですわ」

夫人はこう言って急に立ち上がると手紙を取り戻して、あたりを歩きまわった。老人はいった。

「奥さまは無茶なことをなさいました。どうして買い物に人を行かせたりしたのですか」
 

「でも、あの子は死ぬほどおなかをすかして、くたくたになって帰ってくるのですよ。それに・・・」

彼女は最後まで言わなかった。それに対して老人はいった。

「わたしの弟のことなら大丈夫です。今から奥さまの為になるように取りはからって来ます」

 この状況のなかで、老人は昔の商売でつちかったずる賢さを取り戻した。そして、夫人に対して、くれぐれも慎重に振る舞うように忠告した。そして、二人がこれから言うべきこと為すべきことの全てを夫人と打ち合わせると、老人は巧みに編み出した口実を携えて、カランタンの主だった人たちの家を訪ねてまわった。

そして「いまド・デ夫人と会ってきたが、夫人は体調がすぐれないが今晩は会合を開くだろう」と伝えたのだ。各家で彼は伯爵夫人がどんな病気にかかっているのか聞かれたが、相手のノルマンディー人特有の頭の良さに対して持ち前のずる賢さで応戦した。そして、この不思議な事件に夢中になっている人々をまんまと騙しおおせた。
 
 一人目の訪問が驚くべき効果を上げた。痛風持ちの老夫人に対して、彼はド・デ夫人は胃に痛風の発作があって、危うく死にかけたと話した。有名なトロンシン医師は昔彼女に、このような場合には生きたウサギの皮をはいでその皮を胸の上にのせて、ベッドでじっとしているのがいいと勧めたことがある。二日前に死の危険にさらされた伯爵夫人は、トロンシン医師の奇妙な指示に忠実に従ったおかげで、今晩彼女に会いに来る人たちを持てなせるところまで元気になった、と言ったのである。
 
 この話は驚くほどうまくいった。内心は王党派だったカランタンの医師は、この治療法を批判したが、そのときのもったいぶった様子のおかげで、この話の効き目はさらに強まった。
 
 しかしながら、それでも頑固な人や疑り深い人たちの心に深く根を下ろした疑いまでは払拭出来なかった。したがって、その夜ド・デ夫人の家に招かれた人たちはみないそいそと早めにやってきた。それは彼女の様子を探るためであったり、彼女に対する友情のためであったりしたが、たいていは彼女の驚異的な回復振りに驚いたからだった。
 
 伯爵夫人は客間の大きな暖炉の角の椅子に腰掛けていた。客間の作りはカランタンにある他の家とほとんど同じくらいに質素なものだった。というのは、彼女は家の改装を全くしていなかったからである。偏屈な客の気持ちを傷つけないように、昔のような贅沢をして楽しむことは控えていた。
 
 客間の床も磨かれていなかったし、壁の古いくすんだ壁掛けもそのままだった。この地方の家具も彼女はそのまま使っていたし、明かりもろうそくを燃やした。頑固な狭量ぶりも耐え難い吝嗇も進んで取り入れたし、この地方独特の生活様式も採用した。彼女は村の風習通りにやったのである。
 
 しかし、客たちは自分たちを楽しませるための贅沢なら大目に見ることを知ると、彼女は客をもてなすときには何一つなおざりにしなかった。したがって、彼女はすばらしい夕食を用意した。

 さらには、客たちの計算高い考えを満足させるために、けちくさい人間であるような振りまでした。そして、客から贅沢を求められる方法を身につけると、客に従いながらしかも優美に振る舞うようになったのである。
 
 

 さて、この夜の七時頃、カランタンの村の主だった人たちは腹黒い下心を持って彼女の家に集まっていた。彼らは、暖炉の前で大きな円を描いて座った。この家の女主人は困難な状況に置かれていた。しかし、元卸売商の老人の思いやりある眼差しを心のより所にして驚くべき勇気を出すと、客たちの細かい質問を受けつけるとともに、馬鹿げた屁理屈に耳を傾けた。
 
 しかし、入り口のノッカーを叩く音がしたり、通りで足音が聞こえたりすると、そのたびに、彼女は気持ちの動揺を隠そうとして、村の将来についての興味深い質問を投げかけた。そのうち彼女はリンゴ酒の品質についてのにぎやかな議論を始めた。彼女の秘密を知っている商人がこの話題をうまく発展させたので、集まった人たちは彼女の本心に探りを入れることをほとんど忘れてしまった。それほど彼女の態度は自然で落ち着いていたのである、
 
 しかし、訴追官と革命法廷の一人の判事は口数少なく、夫人の表情のわずかの変化も注意深く観察して、騒々しい会話の間も家の中の様子に耳を澄ましていた。そして、夫人が困るような質問を繰り返してするのだった。しかし、夫人はそれに対しても沈着冷静に応じた。母親とは、かくも強いものなのである。
 
 ド・デ夫人はトランプをする人々の組み合わせを決めると、全員をボストンやリバーシやホイストなど様々なカード遊びのテーブルにつけた。その後も彼女は部屋に残って、若い人たちと実に気さくな態度で談笑するのだった。
 
 彼女は熟練した女優さながらに完璧に自分の役割を演じた。そして、ロトの道具を持ってきてほしいと言われると、そのありかは自分しか知らないと言い張って、部屋から出て行った。
 
 夫人は、熱気と苦しみと苛立ちのせいでらんらんと輝く両の目から流れる涙を拭きながら、
 
「ねえ、ブリジット、わたしは息が詰まりそうだわ」
 
と声を上げて言った。それから寝室にのぼっていって、部屋の中を見渡しながら言った。
 
「まだ来ていないのね。でも、わたしはここに来るとほっとするのよ。生き返ったような気がするの。もう少しの辛抱ね。そうすればあの子はここに来る! あの子はまだ生きている。それがわたしにはよく分かるのよ。わたしの心がそう言うのよ。ブリジット、あなたには何も聞こえないの? ああ、あの子はいま監獄の中なのかしら、それとも外に出て歩いているのかしら。それを知るためなら、わたしの残りの人生を全部差し出してもいいわ。もう、くよくよ考えたくないの」

 彼女は部屋の中がすべてきちんと整っているか再び点検した。暖炉にはたっぷりと火が燃えていたし、雨戸はちゃんと閉まっていた。家具はどれもぴかぴかに輝いていた。それに、ベッドの支度を見れば、伯爵夫人とブリジットがどれほど細かい点にまで気を配っているかがよく分かった。
 
 この寝室に見られた細かい気配りの中には、彼女の希望がはっきり現れていた。寝室に生けた花から立ちのぼる芳香からは、しとやかでやさしい愛情と、清潔な愛撫が感じられた。
 
 兵士の希望を予想してそれを充分に満足させるような支度ができるのは母親だけだった。おいしい食事と、より抜きのワイン、靴と下着、つまり、疲れた旅人が望むもの喜ぶものがすべて集められ、何一つ不足するものはなかった。「我が家」に帰った喜びを息子に味あわせることは、息子に対する母親の愛情表現である。
 
「まあ! ブリジット」

彼女は悲痛な声でこう言いながら、椅子を机の前に置きに行った。まるでそうすることで、自分の願いの実現性が高まり、自分の夢の現実味が増えるかのようだった。それを見たブリジットが言った。

「ええ奥さま、あの方はきっと帰って来られますわ。もう近くに来ていらっしゃいます。あの方が元気にこちらに向かっておられることは疑いありませんわ。わたくし、聖書に鍵をはさんで、コタンがヨハネの福音書を読んでいる間、それを指でつまんでいましたが、奥さま、鍵は回らなかったのですよ」

「それは当てになるの?」

と伯爵夫人はたずねた。

「奥さま、これはよく知られていることです。あの方が生きていらっしゃることについては、わたしの魂の救済をかけてもよろしいです。神様がお間違えになることはありませんわ」

「あの子がこに来るのは危険なことだけど、わたしは是非ともあの子に会いたいのです」

「気の毒なオグストさま、多分ずっと歩きづめなのですわ」

とブリジットが声を上げた。

「教会の鐘はもう八時を打っているわ」

今度は、心配した伯爵夫人が声を上げた。彼女はこの部屋に長くいすぎたかも知れないと不安になった。しかし、この部屋にいると、彼女は息子が生きていることを信じることができた。何もかもが息子が生きていることを告げていたからである。

 夫人は部屋をあとにした。しかし、客間に入る前に階段の柱の下で立ち止まって、静かな村に何か音が響いていないか耳を澄ました。彼女はブリジットの夫に微笑みかけた。彼はそこに見張りで立っていたのだ。彼は夜の広場から聞こえる音にずっと集中していたので、眼の焦点が定まらないように見えた。
 
 夫人は何を見てもどこを見ても息子の姿が浮かんでくるのだった。やがて、彼女は陽気な態度を装って客間に戻った。そして少女たちとロト遊びを始めた。しかし、時々気分が悪いと訴えては、暖炉のそばの肘掛け椅子に戻って休んだ。
 
 

 ド・デ夫人の家の中の状況と雰囲気は以上のようなものだった。その時、パリからシェルブールへ通じる道を、一人の若者がカランタンに向かって歩いていた。彼は当時着用が義務づけられていた青いカルマニョール服を着ていた。
 
 革命政府が徴兵を始めた頃には、まだ軍規というものが全くといっていいほど存在しなかった。この窮乏の時代には当然ながら、革命政府は兵隊に必要なものをすぐに支給することができなかった。だから、軍服を着ていない召集兵が道にあふれていても珍しいことではなかった。
 
 こういう若者たちは自分の部隊よりも先に進んで宿営地にいるか、部隊より遅れているかのどちらかだった。というのは、彼らはめいめい長旅の疲労に耐えられる程度に応じて旅をしていたからである。
 
 例の旅人は、シェルブールに向かっていた召集兵の部隊よりもかなり先を行っていた。カランタンの村長は、宿泊する家を彼らに割り当てるために、部隊の到着を今か今かと待ちうけていた。青年の足取りは重かったが、まだしっかりとしていた。その物腰からは、軍隊生活の厳しさにはもう慣れているという印象がした。
 
 カランタンの近くの牧草地には月が明るく光っていたが、田畑の上には大きな白い雲が出ていて、今にも雪が降り出しそうだった。青年は、嵐になることを心配して、疲れていたにもかかわらず、足取りをかなり早めた。
 
 背中には袋を背負っていたが、中はほとんど空だった。手にはツゲの杖を持っていた。それはバス・ノルマンディー地方の牧場を取り囲んでいる背が高く分厚い垣根から切りとったものだった。
 
 この旅人は一人さびしくカランタン村に入った。その時、月明かりに幻想的に照らされた教会の塔が見えた。彼の歩く音は、静かな通りにこだました。通りには誰もいなかったので、まだ働いていた織工に、村長の家の場所を尋ねなければならなかった。
 
 村長はすぐ近くに住んでいたので、召集兵はすぐにその家にたどり着いた。そして、宿屋の割り当てを要求してから、決定を待つ間、石のベンチに腰を下ろした。
 
 しかし、村長に呼ばれて中に入ると、村長からいろいろと細かい質問を受けた。この召集兵は若くて上品な顔立ちをしており、いかにも良家の出という感じがした。貴族と言ってもいいほどの雰囲気を持っていた。その顔からは知性が感じられ、高い教育を受けたことは明らかだった。
  
「名前は何という」

と村長は抜け目のない視線を男に向けながら尋ねた。
 
「ジュリアン・ジュシユです」

と召集兵は答えた。

「で、どこから来た?」

と村長は疑い深い笑いを浮かべならがいった。

「バリからです」

「仲間とはずいぶん離れているはずだが」

ノルマンディー生まれ村長はあざ笑うようにいった。

「部隊からは12キロ前にいます」

「君がカランタンに来たのは何かわけがあってのことだろう? 召集兵さん」

村長は抜け目のない調子でいった。そして、相手が話そうとするのを身振りで制止して、付け加えた。

「まあいい。君をどこへ泊まらせるべきかはよく分かっている」

そして宿営の割り当て証を渡しながらいった。

「さあこれだ。行きなさい、ジュシユくん」

この最後の言葉のいい方には皮肉が感じられた。村長が渡した割り当て証にはド・デ夫人の住所が書いてあった。若者は興味深そうにその住所を読んだ。若者が出ていくと、村長は声を出して独り言をいった。

「近くだということはよく知っているはずだ。外に出たらすぐ広場を横切るぞ。しかし、なんと大胆な男だ。あの男に神のお導きがありますように! 確かに頭のいい男だが、わたし以外の人間ならあの男に身分証の提示を要求していたはずだ。そうなっていれば、あの男もおしまいだったのだ」

 この時、カランタンの大時計が九時半を打った。ド・デ夫人の家の玄関の間に灯りがともった。召使いたちは自分の主人が木靴を履いたりコートやマントを着るのを手伝った。賭け事をしていた者たちは清算して、みなどこの小さな村にもある習慣に従って引き上げた。

 「訴追官は残るつもりね」

全員型どおりの挨拶を済ませて、家に戻るために広場で分かれる際に、一人の夫人がこの重要な人物が見あたらないことに気づいて言った。

 事実、この恐ろしい役人は伯爵夫人と二人きりになっていた。一方、夫人はびくびくしながら彼が帰ってくれるのを待っていた。恐ろしい沈黙がしばらく続いたのち、彼はとうとうこう言った。
 
「奥さん、わたしは共和国の法律が守られるためにここにいるのです」

ド・デ夫人は身震いした。

「奥さんは何かわたしに報告することはありませんか?」

「何もありませんわ」

びくっとして夫人は答えた。訴追官は彼女のそばに腰を下ろしながら、前とは声の調子を変えてはっきりこう言った。

「あの、奥さん、いま何も言わないでいると、わたしたちは二人とも死刑台に首を並べることになるかもしれませんよ。わたしはあなたの性格もあなたが考えもあなたのやり方もよく知っています。ですから、今晩来ていた人たちは騙されたとしても、わたしは騙されませんよ。あなたは息子さんを待っていらっしゃる。それに間疑いありません」

 伯爵夫人は身振りで違うと言った。しかし、彼女の顔は青ざめた。そして、無理やり冷静さを装おうとしたために、顔の筋肉が引きつった。情け容赦のない訴追官の目は彼女の変化を一つも見逃さなかった。そして、革命政府の役人はこう言った。
 
「いいでしょう。息子さんを迎え入れてあげなさい。しかし、朝の七時を過ぎたら、息子さんはあなたの家にいてはいけません。明日、夜明けとともに、わたしは告訴状を書かせて、それを持ってあなたの家にうかがいます」

 夫人は茫然自失の体で彼の方を見た。その様子にはどう猛な虎さえも哀れを感じただろう。男は優しい声で続けた。
 
「その時は、わたしが正確な捜査をして告発状の誤りを証明してあげますよ。それから報告書を提出して、奥さんが今後どんな疑惑も受けないようにしてさしあげます。生まれついてのあなたの愛国心と市民精神についても話をしましょう。そうすれば、わたしたちは二人とも今後とも安全に暮らせるでしょう」

 ド・デ夫人はこれは罠ではないかと恐れてじっとしていた。しかし、顔は火照り、舌は凍り付いていた。ドアのノックの音が家中に響いた。おびえた母はひざまずいて叫んだ。
 
「ああ、あの子を助けて下さい。あの子を助けて下さい!」

「分かっています。いっしょにあの子を助けましょう。たとえわたしたちの命が危うくなるとしても」

と訴追官は、情熱に満ちた眼差しを彼女の方に向けながら答えた。そして、彼女を親切に助け起こそうとすると、夫人は

「もうおしまいだわ」

と声を上げた。

「奥さん、あなたは誰にも負い目を感じることはないのですよ。全てはあなた次第なのですよ」

と訴追官は演説家のような美しい身振りをして答えた。その時、ブリジットが

「奥さま、あの方がお着きに・・・」

と声を上げた。女主人が一人でいると思っていたのである。老いた召使いは、喜びに満ちた赤い顔をしていたが、訴追官がいるのを見ると、真っ青になって黙ってしまった。

「誰が来たの? ブリジット」

と役人は優しく物分かりのいい調子で尋ねた。

「村長さまがうちに宿を指定した召集兵でございます」

と割り当て証を見せながら召使いは答えた。

「そのとおりだ。今晩部隊が一つこの村に来ることになっている」

と訴追官は書類を受け取ってから言った。そして彼は帰って行った。

 この時彼女は、自分の元弁護士の誠実さを信じるしかなかった。だから、彼の言ったことをもはや少しも疑ってはいなかった。さっきまではやっとのことで立っていた彼女は、急いで階段をのぼった。そして、寝室の扉を開けて息子を見ると、彼の腕の中にくずおれた。彼女は今にも死にそうだった。

「ああ、お前だね、お前だね!」

彼女は涙にむせびながら無我夢中になって口づけで息子をおおった。

「奥さん」

と見知らぬ男はいった。

「まあ! あの子じゃないわ」

驚いて後ずさりをしながら夫人は叫んだ。そして、召集兵の前に立ちつくして、おびえたように男をじっと見つめた。

「ああ、神様、なんとよく似ていることでしょう」

とブリジットがいった。一瞬の間、沈黙が流れた。見知らぬ男もまたド・デ夫人の様子を見て震え出した。夫人はブリジットの夫の腕につかまったまま言った。

「ああ、お客様」

彼女は体中に苦痛が走るのを感じた。その最初の発作で彼女はあやうく死にそうになった。

「お客様、わたくしは、これ以上あなたにお目にかかっていることはできません。代わりのものが来て、あなたのお世話させていただきます。お許し下さい」

彼女は、ブリジットと老いた召使いに運ばれるようにして、自分の寝室に下がった。ブリジットは主人を座らせながら、声を上げて言った。

「奥さま、なんということでしょう。あの男はオグストさまのベッドに寝るつもりです。オグストさまのスリッパを履いて、オグストさまのためにわたしが作ったパイを食べるつもりです。たとえ、わたしがギロチンにかかっても、わたしは・・・」

「ブリジット!」

とド・デ夫人は叫んだ。ブリジットは口をつぐんだ。彼女の夫は低い声で言った。

「黙りなさい。おしゃべりだね。お前は、奥さまを殺すつもりかい?」

この時、召集兵がテーブルにつく音が部屋から聞こえてきた。

「わたしはもうここには居られません。温室の方に移ります。そこの方が、夜中に外で起こっていることがよく分かるでしょう」

 彼女は、息子を失ったかもしれないという恐れと、息子にまた会えるかもしれないという希望との間で、なおも揺れていた。その夜はひどく静かだった。やがて、伯爵夫人にとって恐ろしい瞬間が訪れた。召集兵の軍隊が村にやって来て、兵士たちが一人一人自分の宿所を探し回りはじめたのだ。それからは、家の外を歩く人の音がするたびに、夫人の希望は裏切られつづけた。

 朝になると、仕方なく伯爵夫人は自分の部屋に戻った。それから、ブリジットは女主人の様子をずっと注意して見ていたが、夫人は部屋から出てくる様子がなかった。それで彼女は夫人の寝室に入ったところ、夫人がそこで事切れているのを発見した。
 
「奥さまはきっとあの召集兵が着替えを済ませてオグストさまの寝室に入っていくのを聞いたんだ。あの男はきっと馬小屋にいる時のように、あの忌まわしいラ・マルセイエーズを歌っていたんだ。それがあの方の命を奪ったんだ」

とブリジットは声を上げて言った。

 伯爵夫人の死は、もっと深刻な感情によって引き起こされたものだった。それはおそらくある種の恐ろしい幻視によって引き起こされたに違いない。ド・デ夫人がカランタン村で亡くなったちょうど同じ時刻に、彼女の息子はモルビアン県で銃殺されていたのである。
 
 われわれは、空間の法則を無に帰する共感というものについての観察例に、この不幸な出来事を加えることができる。学問的な好奇心を持ってこの種の資料を集めている孤独な人たちがいるのだ。それらの資料はいつか新しい学問の基礎として役立つだろう。だが、現在までのところ、この学問は一人の天才の出現に恵まれずにいる。
 

パリ1831年2月
誤字脱字に気づいた方は是非教えて下さい。

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