『沙石集』第一巻


元のテキストは土屋有里子氏による
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/28521/12/Honbun-4322_09.pdf
以下に公開されてゐる内閣文庫本の翻刻である。
[..]は内閣文庫本特有の文章で流布本(=岩波文庫本)にはない。






    それ麁言(そごん=粗言)軟語(なんご)みな第一義(=真理)に帰し、治生産業(ちしやうさんごふ)しかしながら実相(=真理)にそむかず。しかれば狂言綺語(きやうげんきぎよ=小説など)のあだなる戯(たはぶれ)を縁として、仏乗の妙(たへ)なる道に入れ、世間浅近の賤しき事を譬(たとへ)として、勝義(=真理)の深き理(ことわり)を知らしめんと思ふ。

   これ故に老の眠(ねぶり)をさまし、徒らなる手ずさみに、見し事聞きし事、思ひ出ずるに随つて、難波江のよしあしをも選ばす、藻塩草(=随筆)、手にまかせて書きあつめ侍り。

   かかる老法師は、無常の念々(=一瞬毎に)に犯す(=襲ふ)ことを覚(さと)り、冥途の歩々(ふふ)に近づく事を驚いて、黄泉の遠き路の粮(かて)を包み、苦海の深き流の船を装(よそ=準備)ふべきに、徒らなる興言(きようげん=戯れ話)を集め、虚しき世事を注(しる)す。

   時に当つては光陰を惜しまず、後に於いては賢哲を恥ぢず。由なきに似たれども、愚かなる人の、仏法の大なる益(やく)をも覚らず、和光(=和光同塵、本地垂迹)の深き心をも知らず、賢愚の品(しな)異(こと)なるをも弁へず、因果の理(ことわり)定まれるをも信ぜぬために、あるいは経論の明らかなる文を引き、あるいは先賢の残せる誡(いましめ)を載(の)す。

   それ道に入る方便一つにあらず。悟をひらく因縁これ多し。その大なる意(こころ)を知れば、諸教、義異(こと)ならず。修すれば万行の旨(むね)、みな同じき者をや(=である)。これ故に、雑談の次(ついで)に教門を引き、戯論(げろん)の中に解行(げぎやう=理論と実践)を示す。

   これを見ん人、拙き語をあざむかず(=軽視せず)して、法義を悟り、うかれたる事をたださずして、因果を弁へ、生死の郷(さと)を出づる媒(なかだち)とし、涅槃の都に至るしるべとせよとなり。これ則ち愚老が志(こころざし)のみ。

   かの金(こがね)を求むる者は沙(いさご)を集めてこれを取り、玉を翫(もてあそ)ぶ類(たぐひ)は、石を拾ひてこれを瑩(みが)く。よつて沙石集と名づく。巻は十(とを)に満ち、事は百(もも)にあまれり。

    時に弘安第二の暦、三伏の夏の天、これを集む。
                       林下(りんげ)の貧士無住

沙石集巻第一

一 大神宮の御事

二 笠置の解脱房上人大神宮参詣の事

三 出離を神明に祈る事

四 神明慈悲を貴び給ふ事

五 神明慈悲智恵ある人を貴び給ふ事

六 和光の利益甚深の事

七 神明道心を貴び給ふ事

八 生類を神に供ずる不審の事

九 和光の方便に依つて妄念を止むる事

十 浄土門の人神明を軽んじ罰を蒙むる事


一 大神宮の御事

1   去ぬる弘長年中(1261~1264)に、大神宮へ詣でて侍りしに、ある神官の語りしは、「当社に三宝(=仏法僧)の御(おん)名を忌み、御殿近くは僧なんども詣(まゐ)らぬ事は、

   「昔この国いまだ無かりける時、大海の底に大日の印文(いんもん)ありけるによりて、大神宮(=天照大神)、御鉾を指し入れてさぐり給ひける。その鉾の滴(したた)り露の如くなりける時、第六天の魔王遥かに見て、この滴り国となつて、仏法流布し、人倫(=人間)生死を出づべき相(さう)ありとて、失なはん(=邪魔する)ために下りけるを、大神宮、魔王に行き向ひ会ひ給ひて、『我三宝の名をも言はじ。我身にも近づけじ、とくとく帰り上り給へ』とて、こしらへ(=なだめ)給ひければ、帰りにけり。

   「その御約束をたがへじとて、僧なんど御殿近く参らず。社壇にしては経をも顕(あらは)には持たず。三宝の名をも正しく言はず。仏をば『立ちずくみ』、経をば『染紙』、僧をば『髪長』、堂をば『こりたき』なんど云ひて、外には仏法をうとき事にし、内には三宝を守り給ふ事にて御座(おはしま)すゆゑに、我が国の仏法、ひとへに大神宮の御守護によれり。

2   「当社は本朝の諸神の父母(ぶも)にて御座すなり。素盞鳴(そさのをの)尊(みこと)、天(あま)つ罪を犯し給ひし事を憎ませ給ひて、天の巌戸を閉ぢて隠れ給ひしかば、天下常闇になりにけり。

   「八万(やほよろづ)の諸(もろもろ)の神たち悲しみ給ひて、大神宮をすかし出だし奉らんために、庭火をたきて神楽をし給ひければ、御子の神たちの御遊ゆかしく思し食(め)して、岩戸を少し開きて御覧じける時、世間明らかにして、人の面(おも)見えければ、『あら面白し』と云ふ事は、その時云ひ始めたり。

   「さて太刀雄(ふとちからをの)尊と申す神、抱き奉りて、岩戸に木綿(しめ)を引いて、この中へは入らせ給ふべからずとて、やがて抱き出だし奉りてけり。遂に日月(ぐわつ)となりて、天下を照し給ふ。日月の光にあたるも、当社の恩徳なり。

3   「すべては大海の底の大日の印文より事おこりて、内宮・外宮は両部の大日とこそ習ひ伝へて侍れ。天の巌戸と云ふは都率天(とそつてん)なり。たかまの原とも云へり。神代の事みな由(よし)あるにこそ。

   「真言の意(こころ)には、都率をば内証(=悟り)の法界宮(ほふかいぐう)、密厳国(みつごんこく)とこそ申すなれ。かの内証の都を出でて、日域(じちいき=日本)に迹(あと)をたれ給ふ故に、内宮は胎蔵(たいざう)の大日、四重曼茶羅(まんだら)をかたどりて、玉垣・水垣・荒垣なんど重々なり。かつを木も九つあり。胎蔵の九尊にかたどる。

   「外宮は金剛界(=胎蔵界の対)の大日、あるいは阿弥陀とも習ひ侍るなり。しかれども金剛界の五智にかたどるにや。月輪(ぐわちりん)も五つあり。胎金(=胎蔵と金剛)両部、陰陽に官(つかさ)どる時、陰は女、陽は男なる故に、胎には八葉にかたどりて、八人女(やをとめ)とて八人あり。金(こん)は五智の男に官(つかさ)どりて、五人の神楽人(かぐらをのこ)と云へるはこの故なり。

4   「また御殿の萱(かや)ぶきなる事も、御供(ごくう)のただ三杵(みきね)つきて黒きも、人の煩(わづら)ひ国の費(つひ)えを思し食す故なり。かつを木も直(す)ぐに、たる木も曲がらぬは、人の心を直ぐならしめんと思し食す故なり。されば心すなほにして、民の煩ひ国の費えを思はん人、神慮に叶ふべきなり。

5   「しかも当社の神官は、自然に梵網(=梵網経)の十重(=十戒)を持(たも)てるなり。人を殺害しぬれば、永く氏(うじ)を放(はな)たる。波羅夷罪(はらいざい=淫盗殺妄)の仏子の数に入らぬがごとし。人を打ち刃傷なんどしぬれば解官せらる。軽(きやうざい)罪に似たり。

6   「また当社に物を忌み給ふ事、余社に少し変はりて侍り。産屋をば生気(しやうき)と申す。五十日忌む。また死せるをも死気とて、同じく五十日忌み給ふなり。その故は死は生より来たる。生はこれ死の始めなり。されば生死を共に忌むべしとこそ申し伝へ侍れ」と言ひき。

   誠に不生不滅の毘盧遮那(びるしやな=大日如来)、法身の内証を出でて愚痴顚倒(ぐちてんだう)の四生の郡類(=全生物)を助けんと跡を垂れ給ふ本意、生死の流転をやめて、常住の仏道に入らんとなり。

   されば生をも死をも忌むと云ふは、愚かに苦しき流転生死(るてんしやうじ)の妄業(まうごふ)を作らずして、賢く妙(たへ)なる仏法を修行し、浄土菩提を願へとなり。

   まことしく仏道を信じ行なはんこそ、大神宮の御心にかなふべきに、ただ今生の栄花を思ひ、福徳寿命を祈り、執心深くして物を忌み、すべて道心なからんは、神慮に叶ふべからず。

7   しかれば本地垂迹その御形異(こと)なれども、その御意(こころ)かはらじかし。漢朝には、仏法を弘めんために、儒童・迦葉(かせふ)・定光(ぢやうくわう)の三人の菩薩、孔子・老子・顔回とて、まづ外典(げでん=仏典以外)を以て人の心を和(やは)らげて、後に仏法流布せしかば、人みなこれを信じき。

   我が朝には和光の神明(しんめい)まづ跡を垂れて、人のあらき心をやはらげて、仏法を信ずる方便とし給へり。本地の深き利益を仰ぎ、和光の近き方便を信ぜば、現生(げんしやう)には息災安穏の望をとげ、当来(=来世)には無為常住の悟を開くべし。我が国に生を受けん人、この意(こころ)を弁ふべきをや。


二 笠置の解脱房上人大神宮参詣の事

1   同じき神官の語りしは、「故笠置の上人(=貞慶)、菩提心(=真実の悟を求める心)祈請のために、八幡に参籠す。示現に、『我が力にはかなひがたし。大神宮へ参つて申し給へ』と、夢の中に御告げありて、道の様(やう)委(くは)しく教へさせ給ひけり。さて夢の中に参り給ひけるほどに、外宮の南の山をすぐに越えて参り給ふ。山の頂に池あり。大小の蓮華、池にみちたり。あるいは開きたる花、つぼめる花、色香まことに妙(たへ)なり。

   「傍らに人ありて云ふやう、『この蓮華は、当社の神官の、既に往生したるは開きたり。往生すべきはつぼめり。和光の方便にて、多くは往生するなり。あのつぼめる蓮華の大きなるは、経基(つねもと)の禰宜(ねぎ)申すが往生すべき花なり』と語る。さて御社(やしろ)へ参りて、法施(ほつせ)奉るとぞ見(=夢に)給ひける。

2   「夢覚めて、やがて負(おひ=笈)打ちかけて、ただ一人夢にまかせて参り給ふに、少しも道すがら夢に違(たが)はず。但し、外宮の南の山の麓(ふもと)を巡りて、大道ありて山の路はなし。これのみぞ違ひたりける。社壇の体(てい)は夢に違はず。

   「さて若き俗のありけるを招き寄せて、先づ夢に見し禰宜の事を問ひ給ふ。『これに経基と申す禰宜やおはする」とのたまふに、『某申(それがし)こそ、さは名乗り候(さふら)へ。禰宜には成りぬべき者にて候へども、当時は禰宜にては侍らず』と云ふ。

   「さて金(こがね)を三両、負の中より取り出でて奉(たてまつ)らる。やがて、かの俗の家に宿して、社頭の様(やう)なんど細(こま)かに問ひ給ひけり。『我今度生死(しやうじ)を出離(しゆつり)せずして、(=また)人間に生まるれば、当社の神官と生まれて、和光の方便を仰ぐべし』と誓ひ給ひける」と語り侍りき。かの経基に親しき神官が語りしかば、たしかの事にこそ。年久しくなれりと云へども、この事耳の底に留つて忘れず。よつてこれを記す。


三 出離を神明に祈る事

1   「三井寺の長吏、公顕(こうけん)僧正と申ししは、顕密の明匠にて、道心ある人と聞えければ、高野の明遍僧都、かの行業おぼつかなく思はれけるままに、善阿弥陀仏と云ふ遁世聖(ひじり)を語らひて、かの人の行儀を見せらる(=調べさせた)。

   「善阿、僧正の坊へ参ず。高野檜笠(ひがさ)に脛高(はぎだか)なる黒衣着て、異様(ことやう)なりけれども、『しかじか』と申し入れたりければ、高野聖(=公顕)と聞いて、なつかしく思はれけるにや、額突(ひたひつき)したる褻居(けゐ)に呼び入れて、高野の事、後世の物語なんど通夜(よもすがら)せられけり。

2   「さてその朝(あした)、浄衣着、幣(へい)持ちて、一間(ひとま)なる所の帳(ちやう)縣けたるに向ひて、所作せられければ、善阿、『思はずの作法かな』と見けり。三日が程変はる事なし。さて事の体(てい)よくよく見て、『朝の御所作こそ異様(ことやう)に見奉れ。いかなる御行ひにか』と申しければ、

   『進みても申したく侍るに、問ひ給へるこそ本意なれ。我が身には顕密の聖教を学びて、出離(=悟り)の要道を思ひはからふに、自力弱く智品(=知力)浅し。勝縁(しようえん=日本の神)の力を離れては、出離の望み遂げがたし。

   『よつて都の中の大小の神祇(=天の神と地の神)は申すに及ばず、辺地辺国までも聞き及ぶに随ひて、日本国中の大小の諸神の御名を書き奉りて、この一間なる所に請(しやう)じ置き奉りて、心経(=般若心経)三十巻(=回)、神呪なんど誦して、法楽(ほうらく)に備へて、出離の道、ひとへに和光の御方便を仰ぐほか、別の行業なし。

3   『その故は、大聖(だいしよう=仏)の方便、国により機(=衆生の宗教的能力)に随つて、定まれる準(のり)なし。「聖人は常の心なし。万人の心を以て心とす」と云ふが如く、法身(ほつしん=仏)は定まれる身なし。万物の身を以て身とす。<肇論(でうろん)に云はく、「仏は非天非人」と。故に、能天能人なり。>しかれば無相(=悟の境地)の法身所具(しよぐ=具備)の十界(=悟と迷の十の法界)、みな一智毘盧(いつちびる=毘盧遮那)の全体なり。

   『天台の心ならば、性具(しやうぐ=理具)の三千十界の依正(えしやう=依報と正報)、みな法身所具の万徳なれば、性徳の十界を修徳(しゆとく)にあらはして、普現色身(ふげんしきしん)の力をもて、九界の迷情を度す(=救ふ)。

   『また密教の心ならば、四重曼茶羅は法身所具の十界なり。内証自性会の本質を移して、外用大悲(げゆうだいひ)の利益(りやく)を垂(た)る。顕密の意(こころ)によりて、はかり知りぬ。法身地(=悟の境地)より十界の身を現じて、衆生(しゆじやう)を利益す。妙体の上の妙用なれば、水を離れぬ波の如し。真如(=真実、法身)を離れたる縁起なし。<宝蔵論に云はく、『海の千波を湧かす、千波即ち海水なり』と。>

4   『しかれば、西天上代(さいてんじやうだい=天竺)の機には、仏菩薩の形を現じてこれ(=衆生)を度す。我が国は粟散辺地(ぞくさんへんぢ=小国)なり。剛強(がうがう)の衆生、因果を知らず。仏法を信ぜぬ類ひには、同体無縁(=平等)の慈悲によりて、等流法身(とうるほつしん=同一で自在)の応用(おうゆう=働き)を垂れ、悪鬼邪神の形を現じ、毒蛇猛獣の身を示し、暴悪のやからを調伏して、仏道に入れ給ふ。

   『されば他国(=日本)有縁の身(=仏)をのみ重くして、本朝相応の形(=神の形)を軽ろしむべからず。我が朝は神国として大権(=天照大神)迹を垂れ給ふ。また我等皆かの孫裔なり。気を同じくする因縁浅からず。この外の本尊を尋ねば、還(かへ)つて感応隔(へだた)りぬべし。よつて機感相応の和光の方便を仰いで、出離生死の要道を祈り申さんにはしかじ。

   『金を以て人畜の形をつくる。形を見て金を忘るれば、勝劣(=優劣)あり。金を見て形を忘るる時は、異なる事無きがごとし。法身無相の金を以て、四重円壇(=曼荼羅)、十界随類(=自在)の形をつくる。形を忘れて体を信ぜば、いづれか法身の利益にあらざる。

   『智門(=知恵)は高きを勝(すぐ)れたりとし、悲門(=慈悲)は下れるを妙(たへ)なりとす。<ひきき人(=小人)のたけくらべはひききを勝とするが如し。>大悲の利益は、等流の身、ことに劣機(=能力の劣る者)に近づきて、強剛(がうがう)の衆生を利する慈悲すぐれたり。されば和光同塵こそ諸仏の慈悲の極まりなれと信じて、かくの如く行儀異様(ことやう)なれども、年久しくしつけ侍り』と語らる。

5   善阿、『誠にたつとき御意楽(いげう=意図)なり』と随喜して、帰つて僧都に申しければ、『智者なれば、愚かの行業あらじと思ひつるに合はせて、いみじく思ひはからはれたり』とて、随喜の涙を流されける」となん、古き遁世上人語り侍りき。


6   されば智者大師(=天台宗の開祖)の、摩訶止観(まかしくわん)を説きて、「止観とは、高尚(かうじやう)の者は高尚し、卑劣の者は卑劣せん」とのたまへるがごとく、和光の垂跡をも、高尚の者は高尚すべきにこそ。密教の深き意(こころ)は、十界みな無相法身の所現なれば、炎魔の身も毘盧(びる)の形も、まことには四種法身を備へ、五智(=無限の智)無際智を具せり。

   その内証に入れば、炎魔鬼畜の身を改めずして、自性法身の心地(しんぢ)を開きぬべし。されば古徳の云はく、「阿鼻の依正(えしやう)は、全く極聖(ごくしやう)の自心に処し、毘盧の身土(しんど)は凡下の一念を踰(こ)えず」。

   また三種の即身成仏とは、理具(りぐ)の成仏とは、人々本(もと)これ仏なり。我が執によりて顕はれず。諸仏は顕得(けんとく)の成仏をとげて、自在に利益を施し給ふ。

   加持の成仏とは、已成(いじやう=既成)の仏の三業の妙用(めいゆう)をまなびて、増上縁(ぞうじやうえん=勝縁)として、我が心に具足する無尽の荘厳(しやうごん)恒沙(ごうしや=無数)の徳用を顕はすなり。

   信心まことありて、我が三業(ごう)、仏の三業に相応する時は、行人(ぎやうにん)即ち仏となるなり。[この故に「能令三業同於本尊従此一門得入法界」と云へり。]

7   村上の御宇の事にや、内裏にて五壇の法を修せられけるに、慈恵僧正は中壇(=不動)の阿闍梨にておはしけるが、御門(みかど)密(ひそか)に御覧じけるに、行法の中に不動になりて、本尊に少しも違ひ給はず。

   寛朝僧正は、降三世(がうさんぜ)の阿闍梨にておはしけるが、ある時は本尊となり、ある時は僧正となりけり。御門これを御覧じて、「不便の事かな。寛朝は妄念の起れるにこそ」と仰せられける。余の僧はただもとの如し。

8   経に云はく、「一切衆生はみな如来蔵(=仏の可能性)なり、普賢菩薩自体遍(あまね)き故に」と説きて、我等が全体法身なりといへども、差別(しやべつ)は迷と悟との故なり。されば不増不減経には、「即ちこの法身、五道に流転するを説いて、衆生と名づく。即ちこの法身の六度を修行するを、名づけて菩薩となす。即ちこの法身の反流して源を尽くすを、説いて名づけて仏となす」と云へり。今、垂跡を思ふに、「即ちこの法身、和光同塵せるを名づけて神明となす」とこそ、心得られて侍れ。

9   しかるに、本地垂跡その意(こころ)同じけれども、機にのぞむ利益、暫く勝劣あるべし。我が国の利益は、垂迹(=神)のおもて猶すぐれて御座すをや。その故は、昔、役(えん)の行者、吉野の山上におこなはれけるに、釈迦の像現じ給へるを、「この御形にては、この国の衆生は化(け)し難かるべし。隠れさせ給へ」と申されければ、次に弥勒の御形現じ給ふ。「猶これもかなはじ」と申されける時、当時の蔵王権現とて、恐ろしげなる御形を現じ給ひける時、「これこそ我が国の能化(のうけ)」と申し給ひければ、今に跡を垂れ給へり。

   釈尊劫尽の時は夜叉となりて、無道心の者を取り食らうて、人をすすめて道心をおこさしめ給ふも、この心なり。行人の信心深くして、心を一にし、つつしみ敬ふこと誠(まこと)ある時、利益にあづかる。

   我が国の風儀、神明はあらたに賞罰ある故に、信敬を厚くし、仏菩薩は理に相応して遠き益はありと云へども、和光(=神)の方便よりも穏やかなるままに、愚なる人、信を立つる事少なし。[皆人の深く信ぜんためには勝劣あらんか]、諸仏の利益も苦ある者にひとへに重し。されば愚痴の族(やから)を利益する方便こそ、まことに深き慈悲の色、こまやかなる善巧の形なれば、青き事は、藍より出でて藍よりも青きが如く、尊き事は仏より出でて仏よりも尊(たと)きは、ただ和光神明の慈悲利益の色なるをや。

   古徳の寺を建立し給ひ、必ず先づ勧請(くわんじやう)し神をあがむるも、和光の方便を離れて仏法立ちがたきにや。かの僧正(=公顕)の意楽(いげう=意図)、かかる趣きにこそ。心あらん人、かの跡を学び給ふべし。

   <天竺の釈迦、浄名居士、漢土の孔老、和国の上宮聖霊、これ皆和光の慈悲甚深の化儀(けぎ)なり。ただ神明と同じきなり。>


四 神明慈悲を貴び給ふ事

1   和州の三輪の上人、常観房と申ししは、慈悲ある人にて、密宗を旨として、結縁(けちえん)のために、あまねく真言を人にさづけられけり。

   ある時、ただ一人吉野へ詣(まゐ)られける。道のほとりに、少(をさ)なき者両三人並び居て、さめざめと泣きければ、何となく哀れに覚えて、「何事に泣くぞ」と問ふに、十二、三ばかりなる女子申しけるは、「母にて候ふ者、わろき病をして死して侍るが、父は遠くあるきて候はず。人はいぶせき事に思ひて、見とぶらふ者もなし。我が身は女子なり。弟(おとと)共は云ふかひなく児(をさな)く候。ただ悲しさの余りに、泣くよりほかの事侍らず」とて、涙もかきあへず。

   誠に心の中さこそと、哀れに覚えければ、「今度の物詣をとまりて、これを見助けて、いつにてもまた参りなん」と思ひて、便宜(びんぎ)近き野辺へ(=遺体を)持ちて捨てつつ、陀羅尼なんど唱へてとぶらひて、さて三輪の方へ帰らんとすれば、身すくみて働らかれず。

   「哀れ、思ひつる事よ。垂跡(=神)の前は(=穢れに)厳しき事と知りながら、かかる事をしつる時に、神罰にこそ」と大きに驚き思ひながら、こころみに、吉野の方へ向ひてあゆめば、少しも煩(わづら)ひなかりけり。その時こそ、「さては参れと思し食したるにや」と心とりのべて参詣するに、別の煩ひ無し。

2   さて恐れもあれば、御殿より遥かなる木の下にて、念誦し法施(ほつせ)奉るに、折節かんなぎ神憑きて、舞ひ踊りけるが、走り出でて、「あの御房はいかに」とて来たりけり。「あら浅まし。これまでも参るまじかりけるに、御とがめにや」と胸うちさわぎて、恐れ思ひけるほどに、近づき寄りて、「いかに御房、このほど待ち入りたれば、遅くおわするぞ。我は物をば忌まぬぞ。慈悲こそ尊(たと)けれ」とて、袖を引きて拝殿へ具しておはしける。上人、余りに忝(かたじけな)く尊く覚えければ、墨染の袖しぼるばかりなり。さて法門(=教へ)など申し承りて、泣く泣く下向してけり。

3   そのかみ恵心僧都の参詣せられたりけるにも、御託宣ありて、法門(=仏法)なんど仰せられければ、めでたくありがたく覚えて、天台の法門、不審(=質問)申されけるに、明らかに答へ給ふ。さて次第にとり入りて、宗の大事を問ひ申されける時、このかんなぎ柱に立ち添ひて、足をよりて、ほけほけと物思ふ姿にて、「余りに和光同塵が久しくなりて、忘れたるぞ」と、仰せられけるこそ、中々哀れに覚えし。

4   東大寺の石ひじり経住(きやうぢゆう)が、「我は観音の化身なり」と名乗れども、人信ぜぬままに、おびただしく誓状(せいじやう)するを、ある人、「観音の化身と名乗るを人信ぜずば、神通なんどを現じて見せよかし。誓状こそ無下におめ(=弱気)たれ」と云ひければ、「余りに久しく現ぜで、神通も忘れて侍るものをや」と云ひける。思ひ合はせられてをかしくこそ。末代は時に随ふ振舞ひにて、権者(ごんじや)も分きがたかるべし。「牛羊の眼を以て、衆生を評量(ひやうりやう)せざれ」と云へり。誠には知り難(がた)かるべし。

5   尾張国熱田の神官の語りしは、性蓮房と云ふ上人、母の骨(こつ)を持ちて、高野へ参りけるついでに、社頭に宿せんとす。人皆(=骨のことを)知りて、宿貸す者なかりければ、大宮の南の門の脇に参籠したりける夜、大宮司の夢に、大明神の御(おん)使とて、神官一人来て、「『今夜大事の客人を得たり。よくよくもてなせ』と仰せにて候」と云ふと見て、夢さめて、使者を社壇へ参らせらせて、「通夜したる人やある」と尋ぬるに、この性蓮房の外に人なし。

   使者帰つてこの由を申す。「さては」とて、この僧を請ずるに、「母の骨を持ちて候へばえ参らじ」と申しけるを、「大明神の御下にては、万事神慮を仰ぎ奉る事にて侍り。今夜かかる示現を蒙りぬる上は、私に忌みまゐらするに及ばず」とて、請じて様々にもてなし、馬鞍、用途なんど沙汰して、高野へ送りける。無下に近き(=最近の)事なん。


6   また、去ぬる承久の乱の時、当国の住人恐れて、社頭に集まり、築垣(ついがき)の内に世間の資財雑具まで用意して、所もなく集まり居たる中に、あるいは親に遅れたるもあり、あるいは産屋(うぶや)なる者もあり、神官ども制しかねて、「大明神をおろし参らせて、御託宣を仰ぐべし」とて、御神楽参らせて、諸人同心に祈請(きしやう)しけるに、一人の禰宜に託して、「我天よりこの国へ下る事は、万人をはぐくみ助けんためなり。折りにこそよれ、忌むまじきぞ」と仰せられければ、諸人一同に声をあげて、随喜渇仰の涙を流しけり。その時の人、今にありて語り侍る。

   されば神明の御心は、いづれも変はらぬにこそ。ただ心清くば、身も穢れじかし。日吉へも、ある遁世者、死人を持ち孝養して、やがて参りけるを、神人(=神官)制しければ、御託宣ありて、御許しありけりと云へり。[日吉大神も死人を持て捨てたる上人を、神官ら追ひ出せるを、神官に託して、召し返さることあり。]


五 神明慈悲智恵ある人を貴び給ふ事

1   春日の大明神の御託宣には、「明恵房・解脱房をば、我が太郎・次郎と思ふなり」とこそ仰せられけれ。ある時、この両人、春日の御社へ参詣し給ひけるに、春日野の鹿の中に、膝を折りて伏して敬ひ奉りけり。

   明恵房上人、渡天(とてん=天竺へ渡る)の事心中ばかり思ひ立ち給ひけるに、湯浅(=和歌山)にて、春日の大明神御託宣ありて留(とど)め給へり。かの御託宣の日記侍るとぞ承る。遥々と離れん事を嘆き思し食す由の仰せありて、御留めありけるこそ哀れに覚ゆれ。「もし思ひ立ち候はば、天竺へ安穏に渡りなんや」と申し給ひければ、「我だに守らば、などかこそ」と仰せありけれ。その時上人の手を舐(ねぶ)らせ給ひけるが、一期のほど香(かう)ばしかりけるとぞ。


2   解脱房上人、笠置に般若台と名づけて、閑居の地をしめて、明神(=春日明神)を請じ奉り給ひければ、童子の形にて、上人の頸に乗りて渡らせ給ひけり。さて御詠ありけり。

        我ゆかんゆきてまぼらん般若台釈迦の御法のあらん限りは

    ある時、般若台の道場の虚空に御音(こゑ)ばかりして、

        我をしれ釈迦牟尼仏の世に出でてさやけき月の夜を照らすとは

常に法門なんど仰せられ申し給ひけるとこそ。誠に在世(=釈迦の在りし世)の事を聞く心地して、忝(かたじけな)くも羨ましくも侍るかな。

3   「光ある者は光ある者を伴とす」と云へり。神明は内には智恵ほがらかに、外には慈悲妙(たへ)なり。智恵も慈悲もあらば、必ず神明の伴と思し食すべきにや。書に云はく、「火は乾けるにつき、水はうるほへるに流る」と。まことに執着なうして、心かわかば、智恵の火もつきぬべし。情(なさけ)のうるほひあらば、慈悲の水も流れぬべし。


六 和光の利益甚深の事

1   南都に少輔(せう)の僧都璋円とて、解脱上人の弟子にて、碩学の聞えありしが、(=死後に)魔道に落ちて、ある女人に憑きて、種々の事ども申しける中に、「我が大明神の御方便のいみじき事、いささかも値遇(ちぐ=出会ふ)し奉る人をば、如何なる罪人なれども、他方の地獄へは遣(つか)はさずして、春日野の下に地獄を構へて取り入れつつ、毎日晨朝(じんでう)に、第三の御殿より、地蔵菩薩の、灑水器(しやすゐき)に水を入れて、散杖をそへて、水をそそぎ給へば、一滴(したた)りの水、罪人の口に入りて、苦患(くげん)暫く助かりて、少し正念に住する時、大乗経の要文、陀羅尼なんど唱へて聞かせ給ふ事、日々におこたりなし。この方便によりて、漸く浮かび出でて侍るなり。学生どもは、春日山の東に、香山(かうせん)と云ふ所にて、大明神、般若を説き給ふを聴聞して、論義問答なんど人間に違はず。昔学生なりしは皆学生なり。目の当たり大明神の御説法聴聞するこそ、忝なく侍れ」と語ける。

2   地蔵は本社鹿島の三所の中の一つなり。殊に利益めでたくおはするとぞ申しあひ侍る。無仏世界の導師、本師付属の薩埵(さつた=菩薩)なり。本地(=仏)・垂跡(=神)いづれもたのもしくこそ。されば和光の利益はいづくも同じ事にや。

   日吉の大宮の後にも、山僧多く天狗となりと、和光の方便によりて出離すとこそ申し伝へたれ。それも諸社の中に、十禅師、霊験あらたに御座(おはしま)す。これも本地は地蔵薩埵(=地蔵菩薩)なり。

   とたてもかくても、人身を受けたる思ひ出、仏法に遇(あ)へる印(しるし)には、一門の方便に取り付きて、出離を心ざすべし。

   心地観経には、「一仏一菩薩を憑(たの)むを要法とす」と説けり。されば内には仏性常住の理を具せる事を信じ、外には本地垂跡の慈悲方便を仰いで、出離生死の道を、心中に深く思ひ染むべきをや。

   三悪の火坑、足の下にあり。六道の長夜、夢未ださめず。爪上(そじやう=珍しく)の人身を受け、優曇(うどん=稀な)の仏法にあひながら、なす事なく勤むる事なくして、三途の旧里(ふるさと)に帰りなば、千度悔い百度悲しむとも、何の益かあるべき。

   多生(=何度も生れ変り)に稀(まれ)に浮かび出で、億劫に一度あへり。心をゆるくして、空しく光陰を送る事なかれ。時、人を待たず。死かねて弁へず。努々(ゆめゆめ)勤めおこなふべし。[一仏一法に望をかけ、功をつみて、専一にして相続する、諸教の行門のすがたなり。有縁の法を深く信じ行じて、臨終のならしにすべし。]


七 神明道心を貴び給ふ事

1   南都に学生ありけり。学窓に臂(ひぢ)を下(くだ)して、蛍雪の功、年(とし)積もりて、碩学の聞こえありけり。ある時、春日の御社に参籠す。夢に大明神御物語あり。瑜伽(ゆが)・唯識(ゆいしき)の法門なんど不審申し、御返答ありけり。但し御面(かほ)をば拝せず。

   夢の中に申しけるは、「修学の道にたづさはりて、稽古、年久しく侍り。唯識の法燈をかかげて、明神の威光を増し[法楽に備へ]奉る。しかれば、かく目の当たり尊体をも拝し、慈訓[御言]をも承はる。これ一世の事には侍らじと、宿習(しゆくじふ)までも悦び思ひ侍るに、同じくは御貌を拝し奉りたらば、いかばかり歓喜の心も深く侍らん」と申しければ、「誠に修学(しゆがく)の功のありがたく覚ゆればこそ、かく問答もすれ。但し道心の無きがうたてさに、面は向かへたうもなきなり」と仰せありと見て、夢さめて、慚愧の心、肝にとほり、歓喜の涙袖にあまりて覚えけり。

   まことに仏法は、いづれの宗も生死を解脱せんがためなり。名利を思ふべからず。しかるに南都北嶺の学侶の風儀、ひとへに名利を先途に思ひて、菩提をよそにする故に、あるいは魔道に落ち、あるいは悪趣に沈むにこそ、口惜しき心なるべしとて、やがて遁世の門に入りて、一筋に出離の道を勤めける。


2   昔、三井寺、山門のために焼き払はれて、堂塔・僧坊・仏像・経巻、残る所なく、寺僧も山野にまじはり、人もなき寺になりにけり。

   寺僧の中に一人、新羅(しんら)明神へ参りて、通夜したりける夢に、明神御戸を挑(かか)げて、世に御心地よげにて見えさせ給ひければ、夢の中に思はず(=意外)に覚えて、「我、寺の仏法を守(まぼ)らんと御誓ひあるに、かく失せはてぬる事、いかばかり御嘆きも深かるらんと思ひ給ふに、その御気色なき事いかに」と申しければ、「まことにいかでか嘆き思し食さざらん。されどもこの事によりて、真の菩提心をおこせる寺僧、一人ある事の悦ばしきなり。堂・塔・仏・経は財宝あらばつくりぬべし。菩提心をおこせる人は、千万人の中にもありがたくこそ」と仰せられけると見て、かの僧も発心して侍りけるとこそ申し伝へたれ。

   明神の御心、菩提心をおこし、まことの道に入るを悦び給ふ事、いづれの神もかはり給はじかし。今生の事を祈り申さんは、神慮には叶はじとこそ覚ゆれ。先世の果報にて、貧富(ひんぷく)さだまりあり。あながちに現世の事、神明仏陀に申さんは、且は恥づかしかるべし。まことに愚かにこそ覚ゆれ。同じ行業を菩提にむけて廻向し、かなはざらんまでも、道心をば祈り申すべきなり。


3   東塔の北谷(きただに)に貧しき僧ありけり。日吉へ百日参詣して祈り申しけるに、「相ひ計らふべし」と仰せある示現を蒙りて、喜び思ひて過ぐすほどに、いささかの事によりて、年来の房主に追ひ出だされて、寄る方もなかりけるままに、西塔の南谷なる房に同宿してけり。

   示現蒙りて後は、物を待つ心地にてありけるに、させる事なきのみにあらず、房主にも追ひ出だされぬ。面目なく覚えて、また参籠して祈請申すほどに、示現に蒙りけるは、「先業つたなくして、いかにも福分なき故に、東塔の北谷は寒き房なれば、西塔の南谷の暖かなる房へやりたるなり。これこそ小袖一つの恩と思ひ計らひたれ。この外の福分、我が力の及ぶべきにあらず」と、示し給ひける上は、思ひ切りて祈り申さず。先業の決定(けつぢやう)して遁(のが)れがたきは、仏神の御力も叶はず。されば「神力、業力に勝たず」と云へり。

4   仏の在世に、五百の釈種(しやくしゆ=釈迦の親類)、吠瑠璃太子(べいるりたいし)に打たれしを、釈尊え助け給はず。

   目連、神通を以て救ふべきよし申ししを、仏許し給はず。「釈尊の御親類なれば、いかなる神通をも運びて助け給ふべきに」と、人不審申ししかば、その不審を開かん為に、一人の釈種の御鉢(みはち)の中に入れて、天上に隠し置かせ給ひしも、余の釈種の打たれける日、自然として御鉢の中にして死せり。

   かの因縁を説き給へるは、「五百の釈種、昔五百人の網人(あみびと)として、一つの大なる魚を海中より引きあげて、害したりし故なり。かの大魚と云ふは、今の瑠璃太子なり。我その時童子として、草の葉を以て、魚の頭(つぶり)を打ちたりし故に、今日頭痛きなり」と仰せられて、釈尊もその日、御悩ありけり。況や凡夫の位に、因果の理(ことわり)、遁(のが)れなんや。[縦ひ使百千劫業果報失と云ひて、劫をふれども因果の理たがはす。]

5   利軍支比丘(りぐんしびく)と云ひけるは、羅漢の聖者なりけれども、あまりに貧しくして、乞食すれども食をえず。仏をして塔の塵を掃かせさせ給ひければ、その日はその福分にて乞食をしえけり。

   ある時朝寝をして、遅く掃きけるを、余の比丘これを掃きてけり。その後乞食するにえずして、七日が間食せずして、沙(いさご)を食し水をのみて餓ゑ死しぬ。

   仏因縁を説き給ひけるは、「過去に母のために不孝にして、母かうゑて食物を乞ひける時、『沙をも食ひ、水をもめせかし』と云ひて、七日食をあたへずして、母をほし殺したる業なり。聖者となれども猶報ふなり」とこそ説き給ひけれ。

   かかる因縁なれば、貧しく賤(いや)しきも、難に遭ひ苦しくある事、みな我が昔のとがなり。世をも人をも恨むべからず。ただ我が心を恥ぢしめて、今より後とがなく罪なき身となりて、浄土菩提をこひ願ふべし。


6    二条院の讃岐、この心をよめるにや。

  憂きも猶昔の故と思はずば如何にこの世を恨みはてまし

凡そ仏神の感応も、少しきの因縁を以てこそ、感ずる事に侍れ。今生夢の世の栄華は、いかでもありなん。後世菩提の事を、叶はぬまでも祈り申さん所、神慮にも叶ひぬべき。


7   桓舜僧都と申しける山僧も、あまり貧しくて、日吉に参籠して祈請しけれども、示現も蒙らず。山王大師をも恨み奉りて、離山して稲荷に詣で申しけるに、いく程もなくて、「千石」と云ふ札を、額(ひたひ)におさせ給ふと見て、悦び思ふほどに、また夢に稲荷の仰せられけるは、「日吉の大明神の御制止あれば、さきの札は召し返しつ」と仰せらる。

   夢の中に申しけるは、「我こそ御計らひなからめ。よその(=神の)御めぐみをさへ御制止あるこそ、心得がたく侍れ」と申せば、御返事に、「我は小神にて<法味を悦んで、そのほかの事>思ひも分かず。彼は大神にて御座すが、『桓舜は今度生死離るべき者なり。若し今生の栄花あらば、障りとなりて出離難かるべき故に、いかにと申せども聞きも入れぬに、何しに給(た)ぶぞ』と仰せらるれば、取り返へすなり」と仰せられけりと見て、さては深き御慈悲にこそとて、夢の中にも忝なく覚えて、驚いてやがて本山へ帰りて、一筋に後世菩提の勤めのみ怠らずして、往生したりとなん申し侍れば、神にも仏にも申さん事は、示現なくとも空しからじ。いかにも御計ひあるべきにこそ。ただ信を致し功を入れて、冥の益を憑(たの)むべきなり。

8   <行基菩薩の御遺誡(ゆゐかい)に云はく、「一世の栄花利養は多生輪廻の基(もとゐ)なり」。>宝地房の証真法印、夢に、西坂本より十禅師(=地蔵菩薩)の上らせ給ふに参りあひぬ。手輿(たごし)にめして御眷属、済々(せいぜい)として御座す。「何事をか申さ(=祈願)まし」と思ひて、老母の貧しき事を思ひ出でて、「かの老母養ふほどの事御計ひ候へ」と申しければ、御色ざしまことにめでたく、御心地よげに見えさせ給ひけるが、この事を聞かせ給ひて、しほしほと痩せ衰ろへて、物思ふ姿にならせ給ふ。

   「まことや世間の事を申すによりて、御心にかなはぬにこそ」と思ひ返して、「老母の事は、いく程あるまじき世にて候へば、いかでも候ひなむ。後世菩提の事いかが仕り候べき。御助け候へ」と申しければ、御気色もとのごとくにならせ給ひて、御心地よげにて打ちゑみて、うなづかせ給ふと見て、道心の色も深くして、終りめでたかりけり。

   世間の事をのみ心にかけて仏神に祈り申すは、返々愚かなり。和光の御本意は、仏道に入れんためなり。世間の利益は、暫くの方便なるべし。この事、かの孫弟子の永海法印物語るなり。たしかの事にこそ。

   <止観に云はく、「和光同塵は結縁の初、八相成道は以てその終を論ず」。いかにも仏意を仰ひで、成道の化儀を待つべし。世間の善には孝養は最上の福なり。しかれども菩提心にたくらぶれば劣れり。浄土に生じて引導せん事まことの孝養なり。善根の優劣(うれつ)は、譬へば星の光あれども月の光に及ばず。月明らかなれども日に及ばず。かくの如く、孝養も菩提心に及ぶべからざるなり。>


八 生類を神明に供ずる不審の事

1    安芸の厳嶋は、菩提心祈請の為に、人多く参詣する由申し伝へたり。その故をある人申ししは、

   「昔弘法大師参詣し給ひて、甚深の法味を捧げ給ひける時、(=神が)示現に、何事にても御所望の事承るべき由仰せられけるに、『我が身には別の所望は候はず。末代に菩提心祈請する人の候はんに、道心をたび候へ』と申し給ひければ、『承りぬ』と仰せありける故に、昔より上人ども常に参詣する事にてなん侍る」とぞ。


2   ある上人参籠して、社頭の様なんど見ければ、海中の鱗(いろくづ=魚)いくらといふ事も無く祭供(さいぐ=お供へ)しけり。和光の本地は仏菩薩なり。慈悲を先とし、人にも殺生を戒め給ふべきに、この様大きに不審なりければ、取りわきこの事を先づ祈請(=質問)申しけり。

   示現に蒙りけるは、「誠に不審なるべし。これは因果の理も知らず、徒らに物の命を殺して、浮ひがたき物、我に供(くう)ぜんと思ふ心にて、とがを我にゆづりて彼は罪軽ろく、殺さるる生類は報命尽きて、何となく徒らに捨つべき命を、我に供ずる因縁によりて、仏道に入る方便をなす。よつて我が力にて、報命尽たる鱗(いろくづ)を、かりよせてとらするなり」と示し給ひければ、不審晴れにけり。

   <江州の湖に大なる鯉を浦人捕りて殺さんとしけるを、山僧直(あたひ)をとらせて湖へ入れにけり。その夜の夢に、老翁一人来て云はく、「今日我が命を助け給ふこと、大に本意なく侍るなり。その故は、徒らに海中にて死せば、出離の縁欠くべし。加茂の贄(いけにえ)になりて、和光の方便にて出離すべく候なるに、命のび候ひぬ」と、恨みたる色にて云ひけると古き物語にあり。

   江州の湖を行くに、鮒の船に飛び入りたる事ありけるに、一説に山法師、一説に寺法師、昔より未だ定まらざるなり、この鮒を取りて説法しけるは、「汝放つまじければ生くべからず。たとひ生くるとも久しかるべからず。生ある者は必ず死す。汝が身は我が腹に入れば、我が心は汝が身に入れり。入我我入の故に、我が行業、汝が行業となりて、必ず出離すべし。しかれば汝を食ひて、汝が菩提を訪ふべし」とて打ち殺しけり。まことに慈悲和光の心にてありけるにや。またただ欲しさに殺しけるにや。おぼつかなし。>

    信州の諏方・下野の宇都の宮、狩を宗(むね)として、鹿鳥なんどをたむくるもこの由にや。

3   大権(たいごん)の方便は凡夫知るべからず。真言の調伏の法も、世のため人のため、あだと成る暴悪のものを、行者、慈悲利生の意楽(いげう=意図)に住して調伏すれば、かれ必ず慈悲に住し悪心をやめ、後生に菩提を悟ると云へり。

   ただ怨敵の心を以て行ぜんは、かの法の本意にあらず。さだめて罪障なるべし。また法もなすべからず。かへつて我が身災難に遭ひ罪障深し。されば神明の方便もこの心なるべし。

   凡そは殺生をせずして、仏法の教の如く戒行をも守(まぼ)り、般若の法味を捧げんこそ、まことには神慮に叶ふべき事にて侍れ。その故は、漢土に儒道の二教を始めてひろめしに、牛羊等を以て孝養には祭る事なるを、古徳の云はく、「仏法はたやすく流布し難し。よつて天竺の菩薩、漢土へ生まれて、先づ外典を弘めて、父母の神識ある事を知らしめ、孝養の志を教へて仏法の方便とす」と云へり。

   されば外典の教をば権教(ごんげう)と云ひて、正しき仏法にはあらず。仏法流布しぬる後は、釈教を行ずる人は、かの祭を改めて、僧の斎(とき)とし、[供仏施僧のいとなみとし、]仏法を以て孝養の儀をなす。

   これを以て思ふにも、我が国は仏法の名字も聞かず、因果の道理も知らざりし時、仏に仕へ、法を行ずべき方便に、祭といふ事を教へて、漸く仏法の方便とし給へり。

   本地の御心をうかがひ、仏法の教へ弘まりなば、昔の業(わざ)を捨てて、法味を捧げんこそ、真実の神慮にかなふべきに、人の心に古くしなれぬる業をば、捨て難く、思ひ染みぬる心は、忘れがたきままに、ただ物を忌み祭を重くして、法味を奉る事少なきは、返々も愚かにこそ。和光の面(おもて)も、なほ戒を守るこそ、神慮に叶ふ事なれ。

   <熊野へ詣づる女房ありけり。先達この檀那の女房に心をかけて、度々その心を言ひける。さて先達の心を違へぬことなれば、すかして、「明日の夜、明日の夜」と言ひけり。今一夜となりて、しきりに「今夜ばかりにて侍る」と言ひける日、この女房物思ひたる色にて食事もせず。

   年来(としごろ)近く使ひつけたる女人、主の気色を見て、「何事を思しめし候ぞ」と問ひければ、しかじかと語りて、「年久しく思ひたちて参詣するに、かかる心憂きことあれば、物も食はれず」と言ふ時、「さらばただ物もまゐり(=お食べ)候へ。夜なれば誰とも知り候はじ。わが身代はりまゐらせて、いかにもなり候ふべし」と言へば、「おのれとても、身を徒らになさんこと悲しかるべし」とて、互に泣くよりほかのことなし。「しかるべき先世の契りにてこそ、主従となりまゐらせ候へば、御身に代はりて、徒らになり候はんこと、つやつや嘆くべからず」と、うち口説きて泣く泣く言ひけり。

   さればとて物食ひてけり。さて夜より会ひたりけるに、先達はやがて金(きん)になりぬ。熊野には死をば金になるといへり。女人はことなることなし。この事隠すべくもなければ、世間に披露しけるに、人々、「すべて苦しからじ。ただ女人参るべし」と言ひけり。まことにつつがなし。津の制にかなへり。同心の欲愛ならば、二人金になるべし。主のため命を捨てて、わが愛心なき故にとがなし。律制に違はず侍るにひや。>

   熊野詣等みな戒行に違はず。諸(もろもろ)の霊社に中古より講行なんど行なはるは、本地の御意に叶ふべき故に、和光の威もめでたくおはすべきなり。


4   漢土のある山のふもとに、霊験あらたなる社ありけり。世の人これをあがめ、牛羊(ごやう)魚鳥なんどを以て祭る。その神ただ古き釜なりけり。ある時、一人の禅師かの釜を打ちて、「神いづれの所より来たり、霊いづれの所にかある」と云ひて、しかしながら打ち砕きてけり。

   その時青衣(せいえ)着たる俗一人現じて、冠傾(かたぶ)けて禅師を礼して云はく、「我ここにして多くの苦患を受けき。禅師の無生(=悟り)を説き給ふによりて、忽ちに業苦を離れて天に生ず。その恩報じがたし」と云ひて去りぬ。

   されば「殺生をして祭るには、神明(=神)苦を受け、清浄の法味を捧げ、甚深の道理を説くには、(=神は)楽を受く」と云へり。この意を得て、罪なき供物を捧げ、妙なる法味を奉るべきなり。


九 和光の方便に依つて妄念を止むる事

1   上総国高滝と云ふ所の地頭、熊野へ年詣(としまうで)しけり。唯一人ありける娘を、いつきかしづきて、かつは彼が為とも思ひければ、相具してぞ詣りける。

   この娘、見目形よろしかりけるを、熊野の師の房に、なにがしの阿闍梨とかや云ふ、若き僧ありけり。京の者なりけり。この娘を見て心にかけて、いかにも忍びがたく覚えけるままに、「我、浄行の志ありて、霊社にして仏法を行ぜんと思ひ企つ。かかる悪縁にあひて、妄念おさへがたき事、口惜し」と思ひて、本尊にも権現にも、「この心やめ給へ」と祈請しけれども、日に随ひては、かの面影立ちそひて忘れず。何事も覚えざりければ、忍びがたくして、心のやる方と、負(おひ)うちかけて、あくがれ出でて、上総の国へ下りける。


2   さて鎌倉過ぎて、六浦(むつら)と云ふ所にて、便船を待ちて、「上総へ越さん」とて、浜にうち伏して、休みけるほどに、歩み疲れて、うちまどろみたる夢に見けるは、

   便船を得て上総の地へ渡り、高滝へ尋ねて行きてければ、主出で会ひて、「いかにして下り給ひたるぞ」と云ふ。「鎌倉の方ゆかしくて、修行に罷り出でて侍りつるが、近き程と承りて、御住居も見奉らんとて寄りて侍る」と云ふ。さて様々にもてなしけり。やがて上(のぼ)るべき体(てい)に申しければ、「暫く、田舎の様も見給へかし」とて留めけり。

   本よりその志なれば留まりて、とかくうかがひ寄りて、忍び忍び(=娘に)通ひけり。互の志浅からず。さるほどに男子一人いできぬ。父母これを聞きて大に怒りて、やがて不孝(=勘当)したりければ、忍びて、ゆかりありける人のもとに隠れ居て、年月を送るほどに、「唯一人娘なれば、力及ばず」とて許しつ。

   この僧も、若き者の、見目形なだらかに、尋常の者なりける上、賢々(さかさか)しく、手迹なんどもなだらかなりければ、「今は子にこそし奉らめ」とて、鎌倉へも代官にのぼせ、物の沙汰なんども賢々(さかさか)しくしけり。孫また形まことに人々しく見えければ、かしづきもてなしけり。子ども両三人出できぬ。


3   この子十三と云ひける年に、元服のために鎌倉へのぼる。様々の具足ども用意して、船あまたしたてて海を渡るほどに、風激しく波高きに、この子、船ばたに望みて、あやまちに海へ落ち入りぬ。「あれあれ」と云へども、沈みて見えず。胸ひしげてあわてさわぐ、と思ひて夢さめぬ。

   十三年が間の事をつくづくと思ひ続くるに、ただ片時(へんじ)の眠の間なり。「たとひ本意とげて、楽しみ栄えありとも、ただ暫くの夢なるべし。喜びあるともまた悲みあるべし。由なし」と思ひて、やがてそれより帰りのぼりて、熊野にて行ひけり。和光の御方便にてこそありけめ。

4   昔、荘周が片時の眠の中に胡蝶となりて、百年が間、花の園に遊ぶと見て、さめて思へば暫くの程なり。荘子(さうじ)に云はく、「荘周が、夢に胡蝶となるとやせん、胡蝶が夢に荘周となるとやせん」と云へり。まことにはうつつと思ふも夢なり。共に夢なれば分きがたき由を云ふにこそ。


5   凡そ三界の輪廻、四生の転変、皆これ無明の眠の中の妄想の夢なり。されば円覚経には、「始知衆生、本来成仏、生死涅槃、猶如昨夢(いうによさくむ)」と説きて、まことの悟を開きて見れば、無始の生死、始覚の涅槃、ただ一念の眠なり。本覚不生の心地のみこそ、眠もなく夢もなきまことの心なれ。

   古人云はく、「昨日の覚り、今日の夢、別なる事なし。覚の境も事過ぎぬれば夢の如し。夢の事も時に当たりては覚に似たり。誰の智あらん人か、夢と覚と異なりと思はん」と云へり。誠に深き理こそ悟り難く侍れ。ゆめ幻の世上の事、心あらん人疑ふべからず。

   <梁の武帝の時、夢相(=夢占い)ありけり。帝これを試みん為に、そら夢を語りたまはく、「朕が寝殿の甍(かはら)二つ鴛(をしどり)となりて、飛び去ると見たり。いかなる夢ぞ」と。夢相、奏して云はく、「今日、臣下二人夭亡(えうばう)すべき御夢」と。さるほどに近臣二人闘諍して、ともに夭亡す。帝驚きて夢相を召して、「昨の夢は、まことは汝を試みんためなり。しかるにこの事違はず。いかに」と仰せられければ、「かく仰せあらんと思しめす、即ち夢なり」と申しけり。これ夢と覚と同じき心なり。

   法相(=法相宗)には常の夢と思へるは、独散の意識とも闇昧の意識とも云へり。我等が覚(かく)と思へるは、明了(みやうれう)の意識の夢といへり。明闇すこし異なれども生死の中の夢なり。唯識論の文(もん)この心なるべし。>


6   楽天(=白居易)云はく、「栄枯事過ぎればすべて夢となる。憂喜心に忘るる便(すなは)ちこれ禅なり」と。まことには事過ぎて空しきのみにあらず。時に当たりても、自性無き故に空なり。この故に、生に当たりて不生なり。[色に即して空無二。]諸法をまことに夢と知りて、喜もなく憂も無く、心地寂静ならば、自然に空門に相応すべきにや。

   また云はく、「禅の功は自ら見る。人の覚る無し。愁に合べき時、また愁へず」と。文の意の云はく、夢の中の事は喜も憂も心をとどむべき事なし。我等か覚と思ひつけたる世間の事、皆これ夢なり。生を悦び、死を憂へ、会(ゑ)を楽しみ、離を悲しむ事、これ夢と知らざる心なり。これらの事にすべて心うごかずば、即ち空門に入る人なり。口に云ふを禅とせず、心に諸念忘れて、寂静なるを禅と云ふべしとなり。

7   荘子に云はく、「狗は善く吠ゆるを以て良しとせず、人は善くもの言ふを以て賢とせず」云々。されば法門を善う云ふ人も、心に名利五欲の思ひ忘れずば、空門に遠し。

   梵網に云はく、「口には便ち空と説けども、行は有の中にあり」云々。末代は真実の智恵も道心もある人まれなれば、口は法を説けども、心には道を行ずる事なし。されば夢の中の事を実ととのみ思ひて、執心深く愛執あつし。

   唯識論に云はく、「未だ真覚を得ず。恒に夢中に処す、故に仏の説いて生死の長夜となす」と云々。慈恩大師は、「心外の法あれば、生死に輪廻し、一心を覚知すれば、生死永く棄つ」と釈し給へり。生死の長夜あけざる事、心外に法を見て、妄境のために転ぜらるる故なり。心の外に法を見ずば、法即ち心、心即ち法にして、生死を出づべしと云へり。心あらん人、一心の源を覚りて、三有の眠をさますべし。


十 浄土門の人神明を軽んじ罰を蒙る事

1   鎮西に浄土宗の学生の俗(=以下の地頭)ありける。所領の中の神田を検注して、余田をとる間、社僧神官等いきどほり申す。鎌倉にて訴訟しけれども、「余田を取る事、地頭の申す所に一分道理」とて、沙汰なくなりける間、地頭に猶々申すに、大方ゆるさず。はては「呪詛し奉らん」と云ひけれども、いささかも恐るる事無し。「いかにも呪詛せよ。浄土門の行人、神明なんどなにとか思ふべき。摂取の光明を蒙らん行人をば、神明もいかで罰し給ふべき」とて、をこづきあざむきけり。

   さて神人どもいきどほり深くして、呪詛しけるほどに、いく程なく悪ろき病憑きて物くるはしければ、母の尼公おほきに驚き恐れて、「我孝養とも思ひて、神田を返し参らせて、おこたり申し給へ」と泣く泣く申しけれども、用ひず。病次第に重りて、たのみ無く見えければ、母思ひかねて、神明をおろし奉りて、病者のもとへ使をやりて、「まげて神田を返しまゐらせ、おこたり申して、神田をも猶そへてまゐらせ給へ」と云ふに、病人物くるはしき気色にて、頸をねぢて、「何条(なんでう)神」と云ひて、少しもゆるさず。

2   使、密かに「しかじか」と申しければ、御子に神つきて、様々に託宣しけるほどなれば、母やはらげて、「病人は『神田返しまゐらせん』と申し候。今度の命ばかり助けさせ給へ」と申せば、巫(かんなぎ)うちわらひて、「頸をねぢて『何条神』と云ふものをや。あら汚なの心や。我は本地十一面の化身なり。本師阿弥陀の本願をたのみ、実の心ありて、念仏をも申さば、如何にいとほしくも覚えたつとからん。これほどに汚なく濁り、まさなき心にては、いかでか本願に相応すべき[、清浄の浄土に生ずべき]」とて、はたはたと爪はじきして、はらはらと泣き給ひければ、これを聞く人皆涙を流しけり。

   さてねぢたる頸なほらずして、息絶えにけり。最後の時、年来の師匠、学生、善知識にて念仏勧めければ、「こざかし」とて、枕を以て打ちけるが、頭を打ちはづして、希有の命とぞ見えける。


3   その後、母の尼公また煩ひて、白山の権現をおろし奉りておこたり申す。「我は制し申ししかば、御とがめあるべしとも覚えず」と申すに、「誠に制せし事はさる事なれども、子を思ふ心切なる故に、心中に我をうらみし事やすからず」とて、遂にうせにけり。

4   かの子息、家を継いでありけるも、いくほど無くて、家の棟に鷺の居たりけるを占ひければ、「神の御とがめ」と申しけるを、その中にありける陰陽師、「神の罰、何事の候べき。封じ候はん」と云ひけるが、酒盃(さかづき)持ちながら、しばられたる如くに、手を後ろへまはして、すくみて死にけり。

   かの陰陽師が子息、今にありて、この事且(かつう)は人にも語り侍るとぞ[たしかに聞たる人申し侍し]。当世の事なれば、聞き及びたる人多く侍り。かの子孫親類ある事にて、その憚り侍れども、人の上を言はん為にはあらず。ただ神の威の軽からざる由を、人に知らせん為なり。


5   凡そ念仏宗は、濁世相応の要門、凡夫出離の直路(ぢきろ)なり。誠にめでたき宗なるほどに、余行・余善をきらひ、余の仏菩薩・神明までも軽ろしめ、諸大乗の法門をも謗る事あり。この俗、諸行往生ゆるさぬ流れにて、余の仏菩薩をも軽ろしめける人なり。


6   凡そ念仏宗の流れまちまちなりと云へども、暫く一義によせて申さば、大方は、経文も釈の中にも、余行の往生見え侍り。

    観経には、「読誦大乗、解第一義、孝養父母、五戒八戒、世間の五常までも、廻向して往生すべし」と見えたり。

   双巻経には、「四十八願の中には、第十八こそ取り分き称名念仏にて侍れ。第十九は、諸の功徳を修して廻向せば、来迎すべしと誓ひ、第二十は、徳本を植ゑ繋念して往生すべし」と云へり。

   されば念仏は、とりわき諸行の中に、選びすぐりて一願に立てて、正なり本なり。余行は、惣の生因の願に立てて、傍なり末なり。さればとて往生せずとはいかが申さん。[一流の第六、「余行は非義願なり。さりながら往生す」と云へり。]

   善導の御釈にも、「万行ともに廻(ゑ)して皆往することを得、一切廻して、心安楽に向かふ」と釈して、「万行万善、いづれも廻向せば、往生すべし」と見えたり。

   雑行(ざふげやう=正行の反対)の下の釈に、「廻向して生ずることを得べしといへども、衆名は疎雑(そざふ)之行」と釈し給へり。疎(うと)きと親しきとはあれども、往生せずとは見えず。

   <諸[行往生をゆるさぬ由を宣る下にあるべし。彼]行往生ゆるさぬ流の一義に云はく、「三心を念仏と心得て、三心具足して余行を修し往生するは、ただ念仏の往生なり。三心なき余行は、往生せぬを、諸行往生せずと云へり。この事心得られず。三心は安心なり。いづれの行業にもわたるべし。されば、安心三心・起行五念、行作業、四修と見えたり。称名も三心無くば生ずべからず。さらば称名は念仏といはれじや。[三心を念仏と云ふ故なり。]惣じては念仏と云ふは諸行にわたるべし。但し称名は、念仏の中の肝心なり。[五念の心の中には、讃正行に当ると云へり。]恵心の往生要集の正修念仏の下(した)には、諸行これあり。[さればまことには、諸行もみな念仏なり。]座禅は法身念仏、経呪は報身念仏なるべし。[引声短声の阿弥陀仏をはく念仏と云へり。]相好を念じ、名号を念ずるは、応身の念仏なるべし。余行の往生を念仏往生と言はんも、この意にては苦しみはあらじ。[これおおやけ法門なり。]称名の外は往生せずといふ義は、[事の外に]ひがめるにや。[道理文証無し。]>


   況や法華を誦し、真言を唱へて、往生の素懐をとぐる事、経文と云ひ伝記と云ひ、三国の先蹤これ多し。おさへて大乗の効能を失なひそしりて、余教の利益をないがしろにする事、然るべからず。さればただ仰ひで本願を信じ、ねんごろに念仏の
功を入れて、余行余宗を謗り、余の仏菩薩・神明を軽しむる事あるべからず。


7   この人の臨終にその咎見え侍り。前車のくつがへりは、後車のいましめなるをや。真実に往生の志あらん人、この事を弁ふべきなり。

   経に、「ただ五逆と正法を誹謗するを除く」と云へり。慎むべし慎むべし。但しかやうに申し侍る事、さだめてまた他の謗り侍るべけれども、所存の一義を申しのべんと思ひ侍り。余行往生ゆるさぬ流は、弥陀を讃むるに似て、まことには謗るになるをや。

   その故は、弥陀は慈悲広大にして、万行万善を修する人をも迎へ取り、極楽は境無辺にして、余教余宗を習ふ輩をも、摂取し給はんこそ、余の諸仏にもすぐれ、余の浄土にも超えて、「我建超世願(がこんてうせぐわん)」の誓もたのもしく、広大無辺際の国もめでたかるべきに、余行余教は選び捨てられて、往生せぬ事ならば、仏は慈悲少く、国はさかひ狭ばくこそ覚ゆれ。

8   ある乳母、姫君を養なひて、余りに讃めんとて、「わらはが養なひ姫君は、御見目うつくしく、御目は細々として、愛らしくおはするぞや」と云ふを、人の、「目の細きはわろき物を」と云へば、「やらやら、方々の御目は、大きにおはするぞ」と云ひけるこそ、思ひ合はせられ侍れ。弥陀をも讃めぞこなひて侍るにや。


9   また余行の往生ゆるさぬ流の中にも、義門まちまちなり。ある人師(にんし)の義には、「余行の往生せぬと云ふは、三心を具せざる時の事なり。三心を具すれば、余行も皆念仏となりて往生すべし。名号を唱ふとも三心なくば往生すべからず」と云へり。

   この義ならば、余行の往生疑ひなし。もとより三心なくば、称名念仏とても、往生せず。余行と念仏と全くかはる事なし。[さらば余行捨つべきにあらず。]先達はかやうに隔つる心なく申して、機をすすめ、宗をひろむ。[偏執無くば、]その志咎
(とが)なし。末学在家の人なんど、ただ詞(ことば)ばかりを聞いて余行をそしるなるべし。

10   中ごろ、念仏門の弘通(ぐつう=普及)さかりなりける時は、「余仏余教、皆徒ら物なり」とて、あるいは法華経を河にながし、あるいは地蔵の頭にて蓼(たで)すりなんどしけり。ある里には、隣家の事を下女の中に語りて、「となりの家の地蔵は、すでに目のもとまで磨り潰したるぞや」と云ひけり。浅ましかりける仕業にこそ。

   ある浄土宗の僧も、地蔵菩薩供養しける時、阿弥陀仏のそばに立ち給へるを、便なしとて取りおろして、様々(やうやう)にそしりけり。

   ある浄土門の人は、「地蔵信ぜん者は、地獄に落つべし。地蔵は地獄におはする故に」と云へり。さらば弥陀観音も、利生方便には大悲代受苦と誓はせ給ひて、地獄に遊戯(いうげ)してこそおはしませ、地蔵にかぎるべしや。これ皆仏体の源をしらず。差別の執心深き故なり。

11   またこの国に千部の法華経を読みたる持経者ありけり。ある念仏者すすめて、念仏門に入りて、「法華経読む者は、必ず地獄に入るなり。浅ましき罪障なり。雑行の者とて、つたなき事ぞ」と云けるを信じて、「さらば一向に念仏をも申さずして、年来経読みけん事の悔しさ口惜さとのみ起居(たちゐ)に云ふほどに、口のいとまもなく心のひまもなし。かかる邪見の因縁にや、わろき病付きて、物狂はしくして、「経読みたる、悔しや悔しや」とのみ口ずさみて、はては我が舌も唇も皆食ひ切りて、血みどろになりて、狂ひ死にけり。すすめたる僧の云ひけるは、「この人は、法華経読みたる罪は懺悔して、そのむくいに舌脣も食ひ切りて、罪消えて、決定往生しつらん」とぞ云ひける。

12   また中ごろ、都に念仏門流布して、悪人の往生すべき由を云ひたてて、戒をも持(たも)ち経をもよむ人は、雑行にて往生すまじきやうを、曼茶羅に図して、尊とげなる僧の経読みて居たるには、光明ささずして、殺生する者に摂取の光明さし給へる様をかきて、世間にもてあそびけるころ、南都より公家へ奏状を奉る事ありけり。その状の中に云はく、「かの地獄の絵を見る者は、悪を造りし事を悔い、この曼茶羅を拝する者は、善を修せし事を悲しむ」と書けり。

13   四句を以て物に判ずる時は、善人の悪性もありて、上(うへ)は善人に似て、名利の心あるも誠なきあり。悪人の宿善ありて、上は悪人に似て、底に善心もあり、道念もあらんは、かかる事にて侍るべきを、愚痴の道俗は、偏執我慢の心を以て、持戒修善の人をば、「悪人なり。雑行なり。往生すまじき者」とて謗り軽しめ、造悪不善の者をば、「善人なり。摂取の光明に照らさるべし。往生決定」と、うちかたむる邪見、大きなる過ちなるべし。これは聖教をも学し、先達にも近付きたる人の中には稀なり。辺地の在俗の中に、かかる風情ままに聞こえ侍り。

14   念仏門のみならす、天台・真言・禅門なんどにも、辺国の末流には、多く邪見の義門侍るにや。されば如何にしても智者に親近(しんごん)し、聖教を知識として、邪見の林に入るべからず。

   これ故に心地観経には、「菩提妙果のなしがたきにあらず。真の善知識にまことに遇ひがたきなり」と説き、古徳は、「出世の明師に逢はず、枉げて大乗の法薬を服す」と云へり。天台の祖師も、「利根の外道は邪相を正相に入れて、邪法を以て正法とし、鈍根の内道は正相を以て邪相に入れ、正法を以て邪法とす」と釈し給へり。六祖大師も、「邪人正法を説けば、正法邪法となり、正人邪法を説けば、邪法正法となる」とのたまへり。<下医は薬を以て毒となし、上医は毒を以て薬となすと准知(=準用)すべし。中医は毒を毒となし、薬を薬となす。凡夫二乗これに准ぜよ。> 近代は正見の人、稀にして、如来の正法を、邪見の情にまかせて、自他共に邪道に入るべきをや。牛は水を飲んで乳とし、蛇は水を飲んで毒とす。法はこれ一味なれども、邪正は人による。よくよくこの義を知りて、邪見の過を遁れて、正真の道に入るべきなり。

[地蔵をそしりたる下に可有裏書

   諸仏は御証皆一如平等の因なり。一の法身仏の、一善知識と現給る中にも、地蔵・観音・弥陀は真言の習に甚深の秘事侍り。たやすく申難けれども、謗法の人、世中に多くして、三宝を互にそしる事、余りに悲しく侍るままに、注し給へり。台蔵の曼茶羅は大日の一身なり。然に弥陀は大日の右肩の如し、観音は右の臂手の如し。地蔵は右指の如しと習へり。また秘経には、「弥陀六観音と変じ、六観音、六地蔵と変ず」と云へりとも習ひ侍るなり。さてこそ釈尊の付属を受て、滅後の衆生をすすめ給へる。伝の中には、「我浄土に安養知足なり」とて、念仏を勧め給ふ。何でにくさで、そしりかろしめ奉らむ。あら不思議の人の心ざまや。


裏書 法身妙体和光水は波の如くなる事下

   経云ふ、「非離真之立処々々即真なり」。立処と云は縁起なり。染浄異なれ共、真如より発らずといふ事無し。清濁の波異なれ共、一水の動相なり。


智門は高く悲門は下し 和光利益下

   自証の行は、修因至果と云て、浅より深に至り、有為をすて、無為を欣、有相をわすれ無相を証す。これ智門の修行の形なり。諸仏利他の方便は、猶本地垂跡と云ひて、本地より外用を施す故、無相より有相を示し、無身より他身を現ず。種々形を以て、いやしき族をみちびく慈悲のかたちなり。止観第六云、「和光同塵結縁之初、八相成道以其終を論ず」。和光の本は長者の窮子に近付が為、瓔珞細軟の衣をぬぎて、麁弊垢膩の衣をきしかども、長者の身かわる事なきが如し。釈尊の実報寂光の御栖を出て、応身よりもいやしき悪鬼邪神等の身を示給。猶々慈悲のいたり、下て人に近き御心なるべし。毛多き鱗を着給ど、唯長者の如く法身の仏なり。形を見て愚かに思ふべからず。三業の妙用を学びて、本尊の一門に入事の本文、大日経疏云、「能く三業をして本尊と同ぜしめ、此一門に従ひて法界に入るを得、即これ普く平等の法界門に入るなり」云々。


   春日御殿の四所の中、第三本地地蔵、本社鹿嶋でおはします事の趣、鹿嶋の御社中に、奥御前とて、不開の御殿よりは二三町ばかり東の山の中に御座す。かの御殿にては、念誦なんども音をたてせず、寂静として参詣の人つつしみ恐れ、其所を知らず。故右大弁の入道光俊、其上に参詣し給ひて、奥御前の御社の辺にて物をたづね給事三日、尋ねかねて古老の神官を召て、「これに平なる石の円なるが、二尺ばかりなるがある」と問給ふ。「石候」とて、御殿の後の竹の中より、土にうづまれたるをほり出してけり。これを見給ひて、はらはらと打ちなきて、

 たづねかね今日見つるかなちはやふる深山の奥の石のみましを

   さて語り給ひけるは、「これは大明神天よりあまくだり給ひて、時々座禅せさせ給石なり。万葉集のみましと云これなり」とありければ、人々さる事と知りてけり。家の人ぞいみじく知り給たりける。日記には方にて少したがひたるとありける。人ぞのりてば、し侍けるにや。


荘周夢事 趣高滝事

   法相の法門に、百法を立つ中に、時は識分位の唯識と云へり。仮立法にて、本より定る時なし。ただ心に一日と思へば一日、一年と思へば一年なり。識の上に仮立するなり。されば、三祇成仏と云も、夢に三祇と思へるなり。まことには一刹那なりと談ず。かの宗の本論、摂大乗論云処、「夢に年を経ると謂ども、寝れは即須臾頃なり。故に時は、無量と雖も一刹那に摂在す。凡百法と云ふは、五法事理として五中に理事四なり。識自相唯識八識、識相応々々五十一心所、識所変々々十一色、識分位々々廿四不相応所、識実相性は々々、六無為々々は理、余の四事なり。唯識論云ふ、「未だ道真覚を得ず、恒に夢中に処、故仏説生死長夜となし、この由に未了々、五境唯識」と云々。


念仏法門義下終

    或一流には、余行は非本願なれども、往生はすと云へる。
   或一流、余行本願と云。往生だにせむにをひては、非願と云名はいかでもありなむ。大かたは本願法だにあらん上は、傍正惣別こそあれ。非本願と云へるも、すこしき不審なり。

沙石集作者尾張国笠寺住僧一円聖]



2009.4  Tomokazu Hanafusa / メール

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