私見・偏見(2002年前半)

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 医者には国会議員のように暗黙の不逮捕特権があったのだが、それが今回警視庁の愚かな警察官によって破られてしまった。
 
 これからはミスで患者を死なせた医者は逮捕されることになったのである。

 医者も人間でありミスは避けられない。それで逮捕されるかもしれないということになれば、これからは、医者は引き合わない仕事だということになるだろう。

 特に人の命が関係する外科医のなり手は激減するのではないか。

 医者には莫大な収入が約束されている。それは医者に優越感を与えて、あのウンチのいっぱいつまった人間の体を扱うという汚い仕事に励むようにし向けるためだけでなく、ミスをした場合に民事訴訟で高額の賠償金を支払えるようにするためでもあるのだ。

 ところが、ミスが刑事事件として扱われ、悪くするとそのために刑務所に閉じこめられるかもしれないのなら、医者は割に合わない商売だと言うことになる。

 わたしは、医者に安心して仕事をしてもらうために、国会議員だけでなく彼らのためにも不逮捕特権を是非とも確立してやるべきだと思う。(2002年6月28日)







 帝京大学医学部の入学前の寄付金が問題になっている。しかし、この問題と医者の良し悪しとは切り離して考えるべきだ。良心的な医者は入学試験の成績とは関係がない。
 
 東京の本郷近辺に住む住民は決して東大病院にはかかりたがらないのは有名な話だ。医術は受験のときの点数とはあまり関係がないだけでなく、受験秀才はむしろ病人には敬遠されがちだ。

 受験生の親から寄付金を集める帝京大学のやり方は、私立大学が合格者を乱造してすべり止めとしての入学金を集めるやり方と似たようなものである。

 アメリカの有力な私立大学が企業からの寄付金を有力な資金源としていることは周知の事実だ。ところが、日本の企業は直接の見返りのない寄付をしたがらない。

 これは政治家の金集めの問題と同じだ。政治だけでなく、社会を維持して行くには金がかかる。ところが、そのために政府が消費税を少しでもあげようとすると国民から総すかんを食らう。このような国民の社会に対する責任感の欠如こそ問題なのである。(2002年6月27日)







 わたしの親父はぼけ防止だと称して、毎朝、新聞の一面コラムを書き写すのを習慣にしている。すると親父の言うことがそのコラムに似てくる。となると、どの新聞でもいいとは言えず、選んだのが毎日新聞だ。
 
 その毎日新聞の「余録」の筆者が奥武則氏に交代したという。そこで、「奥武則」でインターネットを検索すると記者の目「西村発言が問いかけるもの 理性で説け、非核3原則」というのが出てきた。

 そこでは非核三原則の虚構を説き、日本の非核は米国の核によって守られてきたと書いている。「唯一の被爆国」という情緒では核兵器廃絶に向けた世界の世論をリードできないとも言っている。

 奥氏に代わった最初の「余録」では鈴木宗男議員の言い分に耳を傾けている。

 いずれも、一般に多く言われていることから一歩引いて、自分の頭で考え直してみようとする姿勢がうかがえる。これこそ新聞のコラムの役割だとわたしは思う。

 うちではもうすこし毎日新聞をとり続けてみようかと思っている。(2002年6月27日)





 ミスタードーナツの肉まんの添加物混入騒ぎを大仰に扱った新聞記者たちに聞きたいものだ。その記事を書くときに、そんな添加物よりはるかに強力な毒物をつまりタバコを口にくわえていなかっただろうなと。
 
 件の肉まんの添加物は海外では認められているものである。それが入っていたからと言って人体にはさして影響がないことは世界が認めている。日本で禁止されているのは、厚生省の役人が責任をとらずに済ませたい程度のことに過ぎない。

 そんな些細な添加物が入っていたからといって、記者たちが鬼の首をとったような記事をタバコを吸いながら書いているとしたら、それはこの事実をネタにして金儲けを企んだどこかの企業と大差ないことをしていることになる。
 
 ミスタードーナツは「今後気をつけます」といえばよい。それで充分だ。ところが、これをマスコミが大仰に取り上げたために、近所のミスタードーナツが閉店してしまった。甘党の人間には迷惑この上ない。
 
 偽の正義感を振りかざしたマスコミのために、損をするのは庶民ばかりである。(2002年6月26日)






 サッカーのW杯の日韓共催は日本にとって失敗だった。この共催で日韓友好は深まるどころか、韓国人に対する反感が表面下で渦巻くようになってしまったからだ。
 
 それはまず第一に韓国はFIFAも認める審判の誤審によってスペインに勝ちながら、それを実力の勝ちだと言い張ったことだ。これで韓国人に対する違和感が生まれた。日本人なら誤審を認めるところだ。
 
 さらに、ドイツ・韓国戦を観戦するために国立競技場に集まった日本人の中にドイツを応援したものがいると韓国マスコミが批判したことも反感を買った。日本人は個人の好みを他人に制約されることを最も嫌う。
 
 その韓国マスコミが、ドイツ戦の番組でタレントの明石屋さんまがドイツのユニフォームを着ていたことを揶揄したのもいただけない。彼は日本で一番の人気者であり、彼を馬鹿にすることは日本人を馬鹿にすることである。
 
 こうした韓国人の振る舞いによって、韓国は日本とは異質な国だという印象が生まれ、韓国に対する反感が広まったことは残念なことである。(2002年6月26日)






 サッカーのW杯でブラジルが1次リーグでトルコに審判の誤審のおかげで勝った時、ブラジルのマスコミは「審判さんありがとう」と言った。ところが、韓国のマスコミは明らかな審判の誤審のおかげでスペインに勝ったのにそうは言わなかった。
 
 それどころか、インターネットで韓国の新聞を見ると、これを実力の勝利だと言い張り、韓国人よ、やればできる自信を持てと言っているのだ。そして、審判に対する不信感が世界に広まっていることは、ろくに報道もしていないのだ。
 
 「審判も人間だから間違いを犯す。しかし、その判定は尊重しなければならない」というなら、それは人間社会のルールとして理解できる。しかし、審判の判定は実力の表れだと強弁するのはどうだろうか。それはむしろ自分の実力に対する自信のなさの現れでしかない。
 
 わたしは韓国のベスト4進出を日本のテレビキャスターたちのようにうらやましいとは思わない。日本はベスト16で破れてよかった。それが分相応な幸福だからである。(2002年6月25日)






 我が師吉田兼好、『徒然草』を読んでそう言いたい気持ちになった。というのは、『徒然草』とは一般のものの見方とは別の見方が満載されている書物だということがわかったからだ。
 
 兼行は『徒然草』の中で、物事に対する一般的なものの見方、よくありがちな見方に対して、それとは逆の見方、それとはまったく違った見方をつねに提示しようとしている。
 
 兼行をあまのじゃくと一言で片づけることもできる。だが、そのあまのじゃくから生まれた文章の数々の何と豊かなことか。

 わたしは『徒然草』を後ろから読むことをすすめる。一番最後の話は、兼行が子供の頃、父親を質問責めにする利発な少年で、それを父親が他人に自慢するというほほえましい話で、読者はきっと兼行に親しみを覚えるだろう。

 『徒然草』には薄田泣菫の『茶話』の中に見られるような偉人の失敗話もたくさんある。

 現代語訳は角川文庫の今泉忠義のものがよい。原文をなぞったようなもどかしい文章ではなく、意味をそのままズバリと表現した小気味よい文章で書かれているからだ。(2002年6月22日)





 きれいごとはもういい。誰だ日韓共催なんて言いだしたのは。その人は今の事態は予想したのか。共催国の片方が早々に負けてしまったのに、もう一方がどんどん勝ち進んでいくというこの事態を。その時の、先に負けた主催国のみっともなさを予想したのか。
 
 これが日本単独の開催だったら、日本が負けて韓国が勝ち残っても日本の代わりにがんばれという雰囲気になっただろう。しかし、共催であったために日本のふがいなさだけが目立つことになってしまった。

 確かに、日本は予選を突破した。しかし、韓国と比べたら月とすっぽんだ。日本は何をしていたのか。がんばりが足りなかったのではないのか。あのフランス人監督ではだめだったのではないのか。

 日本の歴史的な勝利も、歴史的な予選突破も、もう一つの開催国の活躍のおかげで、すべてが価値を失ってしまった。
 
 これからワールドカップを開催しようという国に教える。日本のこの惨めな立場をよく見て、けっして共催になんかしないことだ。(2002年6月22日)





 人類の発展の歴史は兵器の発展の歴史だ。
 
 石器時代とは人が石で殺し合いをしていた時代だ。次の青銅器時代には、青銅の武器で殺し合うようになる。しかし、この時代に都市国家が生まれた。そして、鉄器時代になると、もっと広い地域を治める国家が生まれた。

 国家ができるということは人々が安全に暮らせる領域ができるということだ。それが鉄器の出現によって広まったのである。

 支配者が武器を独占することによって平和な領域を作ることができる。そして、その武器の殺傷能力が高くなるほど、広い地域の平和を確立することができるようになったのである。

 第二次大戦後の現代は核兵器の時代である。この核兵器を一部の責任ある国々が独占することによって、世界の平和は維持されている。そして、それが核拡散防止の精神である。

 つまり、現代では核兵器を持つことが、世界平和を維持する責任を担うということである。この点から見ると、日本の非核三原則は、世界平和の維持を他国任せにするということなのである。(2002年6月21日)





 核兵器廃絶に熱心な人たちがこの国には多く見られる。「非核平和都市宣言」をしている地方自治体もたくさんある。愚かなことだ。
 
 核兵器が生まれる前の世界は戦争ばかりしていた。第一次世界大戦が終わってから第二次世界大戦が起こるまではたった20年である。ところが第二次世界大戦後は核兵器のおかげで半世紀以上も世界平和が続いている。核兵器廃絶を言う人たちは、これを元の世界に戻したいと言っているに等しい。

 いまの世界を見渡してみるがいい。武力による紛争が起きているのは、核兵器のない地域ばかりである。パレスチナ人には核兵器どころか軍隊もないために、自爆攻撃による紛争は絶えることがない。

 逆に、これまで何度も戦ってきたインドとパキスタンが今回全面戦争に至らなかったのは、両国が核武装しているからに他ならない。

 核兵器がなくなれば、世界は平和になるどころか、かつての大混乱の時代に逆戻りしてしまうだろう。

 その意味で核兵器廃絶運動は危険でさえあるのだ。(2002年6月21日)






 わたしたちは、鈴木宗男議員逮捕によって、鈴木議員に関する数々の疑惑を、検察が明らかにしてくれることを期待してはいけない。それは亡国の行為である。
 
 国会が国政調査権によって明らかにできなかったことが、検察の手で明らかになってどうしてよいのか。もし明らかになったとしたら、それは国会の権威の失墜である。それでは、この国の国権の最高機関は検察だということになってしまう。

 国会が議員の不逮捕特権を捨てて、検察に鈴木議員を売り渡したことは、三権分立の放棄であり、この国では憲法よりも刑法のほうが上に立つとこと認めることである。これではたして一人前の国と言えるのか。

 マスコミの狂乱の末の逮捕は、疑惑の銃弾の三浦和義逮捕の場合と何ら変わりがない。にもかかわらず、国会は自身の権威をかなぐり捨てて、鈴木排除に動いた。 

 これでは、この国の国会議員には、国を国として成り立たせているのは自分たちだという自覚がないとしか言いようがない。(2002年6月19日)





 鈴木宗男議員が逮捕された。
 
 憲法には第五十条で国会議員の不逮捕特権を定めている。ところが、この条項も他の場合と同じように例外がある。「法律(国会法第三十三条)の定める場合を除いては」というのがそれだ。
 
 日本の憲法は最高法規でありながら、このように別の法律に従属している場合が多い。他の条文でも「法律の定めるところにより」というのが入っていて、いくらでも骨抜きにできる。
 
 不逮捕特権もそうで、この例外のおかげで事実上国会議員には不逮捕特権はないと言ってよい。
 
 不逮捕特権はなぜ存在するか。どんな人間でもあらを探せば逮捕する材料ぐらいはみつかるし、特定の議員を排除するために逮捕させることはそう難しくないからである。
 
 今回の鈴木議員の逮捕容疑は、他の議員についてもよく調べたら出てきそうな種類のものだ。しかも、別件逮捕である。
 
 にもかかわらず国会は「疑惑のデパート」を排除するために、自らの権威を捨てて、検察庁に鈴木議員を委ねた。
 
 国会のことは国会でやるという毅然たる態度は、日本の国会にはない。(2002年6月19日)





 今回のW杯はどうやら韓国のための大会になりそうである。なぜなら、日本が予選を突破しただけなのに対して、韓国は予選突破どころか決勝戦に進出しそうだからである。
 
 決勝トーナメントの一回戦で韓国はイタリアに勝ったが、これは何も不思議なことではない。韓国は予選でイタリアより世界ランクで上位のポルトガルに勝っているからである。
 
 しかも、決勝トーナメントに進出したチームで、世界ランクがポルトガルより上のチームはブラジル以外にない。ということは、韓国が決勝に進出しても何の不思議もないということである。
 
 そして、もしそうなれば、開会式は韓国で行われ、決勝戦は韓国が戦うということになり、まさに韓国のためにW杯だったことになる。
 
 もっとも、これによって韓国人の日本に対するコンプレックスが解消され、日本のことを放っておいてくれるようになれば、今回のW杯も日本にとって無駄ではなかったということになるかもしれない。(2002年6月18日)






 ワールドカップのテレビ中継で、サッカー用語を連発するアナウンサーがいて困る。専門用語を使うと一人前の仕事をしている気になるのかもしれないが、にわかサッカーファンには迷惑この上ない。
 
 そのサッカー用語の典型が「守備的」という言葉だ。

 日本語には「攻撃的」という言葉はあって日常的にも使われるが、「守備的」という言葉はサッカーにしか使わない。ところが、それが放送では何の説明もなしにしきりに使われる。

 この言葉は、一時「わたし的には」という風に「的」を何にでもくっつける言い方がはやっていたが、そのなごりだろうか。

 この馴染みのない「守備的」ということばに、さらに他のカタカナ用語をくっつて、「守備的ポジション」とか「守備的ミッドフィルダー」と言われては、もはや何のことやら分からなくなる。

 野球でもときどき「このへんで中押(なかお)し点がほしい」などと変な日本語が使われる。

 どうやらスポーツ放送は正しい日本語をこわしている一つの原因となっているようだ。(2002年6月16日)





 長い報告書と短い報告書があれば、短い報告書は長い報告書をもとにつくったものであり、それを完成品として提出するのは当然のことである。

 四〇頁もの報告書を提出するより、四頁の報告書を提出するほうが、わかりやすく、またそれを作る方が労力を要する。これも当然のことである。
 
 ところが、防衛庁がリスト作成問題について、先に長い報告書を出さなかったからといって、野党は国会で審議拒否をしている。こんな理不尽なことはない。一部のマスコミは野党に協力してこの理不尽を容認している。

 新聞記者なら誰でも報告を短くまとめることが、如何に大変かを習ったはずだ。
 
 だから、防衛庁長官の記者会見で、ある記者が、長い方が正直で、短い方が不正直であるかのように言っていたが、彼はそんなことはないことをはじめから知っているのである。

 日本のマスコミには、こんな悪意を持って報道する記者が含まれている。新聞は気をつけて読まなければいけない。(2002年6月15日)





 サッカーのワールドカップでこうも日本や韓国が勝つのを見ると、これは日本の国体でいつも開催県が優勝するのと同じ力が働いているのではないかと思えてきた。
 
 ちょっと番狂わせが過ぎる。日本が世界ランキングで十位も上のチームと接戦して引き分けたり勝ったりしてしまうのはちょっと普通ではない。韓国などは、 その度合いがもっと激しい。これは裏に何かあると考えるのが普通だろう(韓国の相手のポルトガルはうまい具合に二人も退場になった!)。

 そもそも韓国や日本がワールドカップの開催地になったこと自体尋常ではない。韓国と日本はそれまで、ワールドカップで一度も勝ったことのない国だ。そんな国でどうして世界大会を開くことになったのか。政治的な力と金が動いたと考えるべきだろう。

 逆に言えば、ワールドカップで勝ちたければ、金を使って開催国になることだ。そうすれば、今大会で一点もとれなかった中国も、きっといわゆる歴史的得点、歴史的勝ち点、歴史的勝利をあげることできるだろう。

 また、日本が本当が世界に伍するだけの力をつけたかどうかの判断も、次のドイツ大会までお預けにする方がよい。そのときの勝利こそ、歴史的勝利の名に値するだろう。(2002年6月14日)





 ワールドカップの切符の販売で大量に売れ残りをだしたイギリスのバイロム社が記者会見をして謝らないので、日本のマスコミは怒っているようだ。
 
 フランスはこの大会で一勝もできず、一点もとれずに敗退した。しかし、ルメール監督もまた、テレビに向かってフランス国民に謝ったりしなかった。
 
 それに対して、フィギアスケートの伊藤みどりがオリンピックで金メダルをとれなかったことを、テレビを通じて日本国民に謝ったが、あれは世界を不思議がらせたものだ。
 
 どうやら、日本のようにすぐに謝る方が異常なことなのである。

 選手というものは、たとえ国を代表しているとしても、基本的には自分のために戦うものだ。つまり、責任は誰よりも自分自身のために負っている。負けるのを見た国民は不幸だろうが、それより負けた選手自身の方がはるかに不幸である。しかも、それが精一杯やった結果なら、誰に謝る必要があるだろう。

 バイロム社もこれは精一杯やった結果なのだから誰にも謝る必要はないと言っているのである。日本の企業も少しは見習ったらどうだろう。(2002年6月12日)





 アメリカでは殺人罪には時効がない。そこで、15才のときに犯した罪で、41才の男が有罪になった。
 
 ケネディー一族の男が自伝を作る過程で、犯罪のあった当日の夜、家の前の木に登って被害者の女性(当時15才)の部屋をのぞき見をしていたと告白してしまった。そのために、事件のあった時間帯には甥の家に行っていたというアリバイは崩れてしまい、捕まって有罪の評決を受けることになってしまった。

 女はカーテンを閉めずに着替えをする、それを男がのぞき見したくなって、欲情するのは当然だ。カーテンを閉めてないのだから、男はOKだと思って女を呼び出す。ところが、予想外の拒否にあって、カッとなって女を殺してしまう。未来永劫に無くならない種類の事件だろう。
 
 殺された女も殺した男も不幸だ。男と女がいて、殺人事件があれば、たいていは男が殺す側にまわる。性欲というものがなければ、そのうちのたいていの事件は起こらないで済んでいるのだ。
 
 男の失敗は、十五の時に自首しておけば刑務所に行かずに済んだのに、それを怠ったためにいま終身刑を受けることになったことだ。

 とにもかくにも、男は女には近づかないのが安全だ。(2002年6月8日)




 核兵器は日本にはいらないという意見が主流のようだが、そんなことを言っていられるのは日本に米軍が駐留しているからである。
  
 核兵器が第二次大戦を終わらせ、日本に平和をもたらしたことを認識するなら、その核兵器を自分で持たずにどうして平和を維持できると思えるのか。核兵器を保有するということは平和の鍵を握ることなのである。

 もちろん、核兵器は破壊目的に使用することもできる。しかし、核兵器を平和維持のために使う自信がこの国の国民に芽生えてきたときに、はじめて日本は世界の平和維持に主導的な立場をとることができる。

 その反対に、もしそんなものをもったら自分は何をするか分からない、もしかして他国を侵略してしまうかもしれないと思うなら、核兵器は持つべきではない。しかし、そんな自信のない国なら、世界に平和を呼びかける資格もないと言わなければならないだろう。

 そして、それは自分の国がだめな国だと思うことでもある。(2002年6月8日)






 ドナルド・キーンといえば、日本文学についておもしろいことをいろいろと書いている人で、楽しませてもらった覚えがある。そのドナルド・キーンが英訳した『徒然草』を本屋で見つけて読んでみたが、彼の文学論ほど分かりやすいものではない。
 
 第一段の最初の文章からして、何を言っているのか分からない。

It is enough, it seems, to be born in this world for a man to have many desires.

だいたいこんな感じの文章で、要するに不定詞が二個あるのだ。

 別の棚にある原作を見ると、「いでや、この世に生まれては、願はしかるべきことこそ多かんめれ」となっている。

 キーン氏の訳では「人間は生まれてきただけで充分なのにたくさんの欲を持つようだ」と言っているように見える。しかし、どの日本語訳を見ても、「人間というものはこの世に生まれてきた以上は、いろんな欲求に捕らわれるようだ」という意味だとしか思えない。続きを読んでみても、こちらの方が正しいような気がする。

 キーン氏の訳は先を読んでいっても、こうした不明瞭なところが多い。古文の原作で読んだ方が分かりやすいくらいだ。
 
 「有名人、学者必ずしも名翻訳家にあらず」はアメリカ人にも当てはまるのだろうか。(2002年6月8日)





 「天声人語」は民主主義の定義のような言葉である。それは要するに「民の声は神の声」ということだが、この言葉がもっとも現実的な意味を持っているのは陪審制の裁判である。
 
 陪審制の裁判では陪審員の結論を最終的な結論として採用する。陪審員が弁護側、検察側のどちらに有利な結論を出すかは、誰にも予想できない。しかし、出てきた結論は絶対なのだ。そして、陪審員が結論に至る過程は神秘のベールに包まれている。それ故に、民の声が神の声たる資格があるのだ。

 それに対して、日本のいまの裁判は裁判官という一官僚が判決を出す。そして、その理由を裁判官は事細かに論述する。したがって、日本の裁判の判決にはどんな神秘性もない。それは官僚の職業的判断にすぎない。

 いま日本では司法改革が進行中だ。しかし、そこで採用されるものは陪審制ではなく、裁判官の職業的意見に素人の意見を加味させる裁判員制度というものでしかない。
 
 そして、それが神の声をもたらすかといえば、非常に疑わしいと言わざるを得ない。(2002年6月6日)
 




 テレビタレントのピーコさんが世の中のワールドカップをめぐる馬鹿騒ぎをからかいながらも、ベルギー・日本戦について「あの審判は意地悪ねー」とお怒りだった。ということは、彼女(彼)もしっかり日本を応援していたのである。
 
 しかし、日本人にはベルギー贔屓(ひいき)に見えたこの審判も、おそらくベルギー人には日本贔屓の審判に見えたことだろう。

 誰でも、自分が応援しているチームがあると、そのチームに損な判定は不公平な判定に見えるものだ。だから、どうでもいい国同士の試合を見ていて、審判が公平でないと思うことはまずない。

 これはプロ野球でも同じで、アンチ巨人ファンには野球の審判が巨人贔屓に見える。

 阪神前監督の野村克也氏はそれを公言して「審判は巨人贔屓だ」とはっきり言ったものだが、知将で鳴る氏のことだ、これが見方によるものであることを知らぬはずはない。むしろこう公言することで選手の敵愾心をかき立てようとしたのであろう。ところが、野村氏のこの深慮遠謀は阪神の選手には通じなかったのである。(2002年6月6日)





 日本対ベルギーのサッカーの試合のニュースを見て、多くの人が日本は勝っていたと言っているのに驚いた。個々の選手の力量、特に一対一の競り合いでのボールのキープ力や当たりの強さでは明らかにベルギーの選手の方が勝っていたのにである。
 
 特に前半はベルギーが何度もゴール前まで攻め込んでいたのに対して、日本はボールをゴールの方向にけり出すのが精一杯だった。だから、前半にベルギーが零点だったのはラッキーだったのだ。

 その後、日本の得点はみんなどさくさ紛れのものばかりだったのに、ベルギーはすべてセットプレーからの得点だったことも、力の差を示している。

 また、審判が日本に不利な判定ばかりしていたという人がいたが、公平な視点を持つことのが難しさをよく出ている。彼らは、日本のゴール前でベルギーの選手が何度も倒されたのに一度もPKにならなかったことを忘れている。あの審判はファールの取り方もイエローカードの出し方も実に公平だったのである。

 ベルギーは世界のランクが二三位のチームで、日本は三二位、親善試合で勝った三〇位のポーランドとは大違いだ。引き分けで御の字と言わねばならない。(2002年6月4日)





 日本には非核三原則というものがあって、日本は未来永劫に核兵器を持たないそうである。そんなことを誰が決めたのか。日本が毎年莫大な経済援助をしている中国やインドやパキスタンは核兵器を持っている。その日本が核兵器を持ってどこが悪いのだろう。
 
 これは日本を世界で低い地位に押しとどめようとする連中の策謀ではないか。

 日本が第二次大戦でアメリカに核爆弾を落とされたことと、日本が核武装しないことをからめた議論がよく見られるが、これがよく分からない。

 例えば、飲酒運転で人身事故を起こした人が、もう酒は買わないし飲まないというなら分かる。しかし、飲酒運転の被害者が禁酒宣言をしてどうするのか。トラックを家に突っ込まれた人がトラックを持ちませんと言ってどうするのか。酒もトラックも必要なら持てばいい。だが、賢く使う自信がないならやめておけ。

 日本はいつまで核兵器をもつ自信のない、半人前の国でいつづけるのだろうか。(2002年6月4日)





 日銀の大阪支店長がプロ野球の阪神による経済効果はワールドカップによるそれよりも大きいと、わざわざこの時期に発表したという。
 
 どうやら、かれも日本の中高年の男性に多く見られるサッカー音痴なのだろう。ワールドカップで阪神戦が三日間もお休みであることに不満な中高年の男性が多いようだ。そういう人はきまって朝から晩まで阪神阪神と念仏のように唱えているおじさんたちである。
 
 しかし、日銀といえば日本の経済の中枢である。その幹部がプロ野球の特定の球団と地方経済とからめた発言をするほどプロ野球かぶれで、冷静な判断力を欠いているようでは、この国の経済は危ういと言わざるを得ない。

 プロ野球は毎年行われている。どこかの球団が必ず優勝しているのだ。しかし、優勝球団のある地方がその結果、莫大な経済効果を受けて景気がよくなったという話を聞いたことがない。

 日銀大阪支店長の発言も、プロ野球大好きおじさんの寝言と聞き流すがよい。(2002年6月4日)





 ムーディーズが日本の国際の格付けを二段階下げてポーランド並にしたというニュースに対して、日本の世論はおおむね冷淡だ。
 
 しかし、これはムーディーズの慧眼ぶりを示したものだとわたしは思う。要するにムーディーズは日本は構造改革ができないだろうと言っているわけで、それは今の国会の状況から見て当たっている。

 今の国会は、普通なら首相がいつ政権を投げ出してもおかしくな状況にある。

 なぜなら、第一に、小泉政権に対する国民の不支持率は支持率を上回った。第二に、小泉政権が今国会に提出した重要法案はどれもこれも成立しそうにない。もし、これらが成立しなければ、首相に残された道は解散か総辞職しかない。そうなれば、もはや構造改革は宙に浮いた状態になってしまうだろう。
 
 その上に福田官房長官の非核三原則を否定する発言だ。もはや国会はにっちもさっちも行かないだろう。

 われわれはムーディーズとともに日本が危機的状況にあると考えるべきではないだろうか。(2002年6月1日)




 ハナエモリが倒産した。ハナエモリは森英恵の会社だ。その森英恵のホームページを見ると、彼女はシュバリエ章、朝日賞、紫綬褒章、レジオン・ドヌール勲章、東京都文化賞、文化勲章など、数々の勲章を受賞している。とすると、これらの勲章も彼女の会社の倒産をくいとめることはできなかったということにな る。
 
 それにしても、文化勲章の受章者でその会社が倒産した人がいるだろうか。文化庁は彼女に文化勲章をやるときにはたしてこの事態を予想していただろうか。なぜなら、この倒産は、政府が文化勲章を単なる一時の流行にやったことを意味するからだ。

 どうして、この女性に文化庁は文化勲章をやったのか。たぶん、外国で勲章をもらっているからだろう。

 しかし、ちょっと考えてみれば分かるが、森英恵は一実業家にすぎない。その森英恵に文化勲章をやるのなら、どうして松下幸之助にやらなかったのか。この人ほど日本の文化の発展に貢献した人はいないからだ。

 われわれは、これを機会に文化勲章は誰にやるべきかを考え直すべきだろう。(2002年6月1日)





 プロ野球の「東京読売巨人軍」が、「東京」をやめて単なる「読売巨人軍」にするそうだ。巨人はすでに全国にファンを持っており、東京という地域名にこだわる必要はないということで、ビジター用のユニフォームの文字も「TOKYO」ではなく「YOMIURI」にしてしまうそうである。
 
 ということで「TOKYO」をよそのチームが使えることになったのだから、これを使わぬ手はない。全国区になるチャンスだからである。例えば、ユニフォームの「YAKULT」が「TOKYO」となればどれだけ引き立つことか。

 それに、地名をチーム名につけることには、チームが単なる一私企業の持ち物ではなく、公共的なものというイメージを付け加えることで、ファンを増やす契機にもなる。 

 いっぽう、読売新聞がたとえ全国紙であろうと、一私企業にすぎないことに変わりはない。東京は即日本であり、地方の人間にはあこがれの名前である。それを捨てれば、これまで持っていた輝きを失うかもしれない。

 それどころか、単なる読売巨人なら、朝日新聞や毎日新聞のファンのなかの巨人ファンは、巨人ファンであることの言い訳を一つ失うことになるのは必定だろう。(2002年5月31日)






 薄田泣菫の『茶話』を読んでいると、播州垂水という地名が出てくる。これは調べてみると摂津垂水と区別するための言い方で、今の神戸市の垂水をさしている。今の吹田市にも垂水という所があってそれを当時は摂津垂水と呼んでいたらしい。
 
 歴史地図を見ると、垂水庄(たるみのしょう)という地名が平安時代からあって東大寺領と東寺領と二つある。東大寺領の方が神戸の垂水で、播州垂水だ。

 こうしてみると、播州つまり播磨というのは、神戸の垂水から赤穂までを含む広大な地域の名称だったということになる。

 ところがわたしの住む小さな町にこの播磨という名前が付いている。元々は阿閇村(あえむら)といったのだが、町になるときに播磨町にしてしまった。

 阿閇町では格好が悪いと思ったのだろうか。しかし調べてみると、阿閇とは元明天皇の若い頃の名前で非常に由緒ある名前だという。これを捨ててしまったわけだ。

 市町村合併で新しい町の名前の付け方が話題になっている。この近くにも合併を進めている市町村がある。合併後の名前としては播磨もその候補だろうが、すでに播磨町があってややこしい。

 播磨町はどことも合併しないそうだが、それなら少なくとも播磨という名前を返上して阿閇町という本来の名前にしたほうが良くはないか。大きな名前を小さな町が独占して、よその合併の邪魔をしているようで、町民として恥ずかしい。(2002年5月31日)





 星野氏が阪神の監督就任時に「阪神が強くなければプロ野球が盛り上がらない」と言ったが、なかなかうまくやったものだ。おかげで、阪神と試合をするチームは阪神に勝ちにくくなった。阪神を負かせば、結果としてプロ野球を盛り下げてしまうことになるのだから無理はない。おかげで、阪神は快進撃を演じて首位争いをしている。
 
 星野氏は中日の監督時代にも「中日が強くないとプロ野球が盛り上がらない」と言えばよかった。そうすれば、もっと中日を優勝させることができたろうし、中日の監督を辞めることもなかっただろう。

 相手にしてみれば、プロ野球全体の繁栄を向こうにまわして戦うのだからはじめから勝ち目はない。

 阪神の選手もこの方がやりがいがある。自分自身などというちっぽけなもののためではなく、プロ野球全体のためとなれば、張り切りようも違うというものだ。

 何であろうと勝負事では錦の御旗を立てた方が勝ちなのである。(2002年5月30日)



 芥川賞作家、柳美里のモデル小説『石に泳ぐ魚』に対する判決が、単に慰謝料を払えというだけでなく、出版を差し止めたことは大いに問題である。
 
 憲法は表現の自由を保証している。それが単に「プライバシーを侵さない表現の自由」なら、それは自由ではない。従って、間違った判決と言わねばならない。

 そもそも、芸術作品はモデル無しには成立しない。古代ギリシャの『イリアス』にも、日本の『平家物語』にもモデルがある。

 この判決は極端に言えば、平家の子孫が平清盛のプライバシーを暴いた平家物語の出版差し止めを求めて訴えたら、われわれは平家物語を読めなくなるということである。

 この判決は三島由紀夫の『宴のあと』裁判の判決にならったものだが、こちらの方は出版を禁じなかったので憲法違反ではない。ところが、今度の判決はそれをさらに進めて、出版も禁じてしまった。
 
 いま思うと、モデルにされたと訴えた有田八郎はよけいなことをしたものだと思う。有田は自分を源氏に破れた平家だと思えばよかったのだ。

 もう一人のモデルとなった般若苑の女主人の方は、そう思うことができたのかもしれない。女将はあの裁判の原告になるどころか、小説化を事前に承諾さえしているからである。(2002年5月24日)



 商業捕鯨再開が否決されたと報じられている。どうして日本は商業捕鯨の再開にこだわるのだろう。鯨の肉はそんなにうまいか。世界を敵に回してまで、鯨をとって食う必要がどこにあるのか。
 
 この問題で「捕鯨は日本の文化だ」などと言う人たちがいる。だが、何かが文化だと言いだす人は、決まって人迷惑なことを正当化しようとする人たちである。

 アメリカの大リーグと違って、日本のプロ野球では応援団が太鼓やラッパを使ってうるさいが、あれを日本の文化だと言って正当化する人たちがいる。

 「不倫は文化だ」と言った俳優がいる。

 また、わたしの町では町内会が連絡事に屋外拡声器を使うが、こんなやかましいことはよそではやってないと言うと、地域性だと言われたが、これも同じだ。

 社会や国によってやり方が違う。それはそうだろう。しかし、よくないことや迷惑なことをよいと強弁するときに、文化だとか地域性とか言うのはやめてほしいと思う。それは何よりも、説得を放棄している点で間違っている。(2002年5月24日)




 姫路空港は必要かどうか地元の住民にアンケートをとったら五五パーセントの人が必要がないといったそうだ。それはそうだろう、われわれはたいてい飛行機などに乗ることなく一生をすごすのだから。
 
 それにどうしても飛行機に乗りたければ、姫路の近くには岡山空港がある。しかも、姫路岡山間は新幹線で二〇分しかかからない。岡山空港からは国際便もあってグァムや中国にも行ける。

 また、関西国際空港までは二時間もあれば行ける。

 飛行機をよく使うごく一部の人たちにはそれで十分だ。彼らのために、わざわざ姫路に新たに空港をつくってやる必要などないのだ。

 飛行機事故の報道ぶりを見ても、飛行機に乗る人たちは特別な人たちである。つまりお金持ちだ。

 そうだ、飛行機は金持ちの乗り物なのだ。われわれ貧乏人には縁のない乗り物なのだ。だから、われわれには飛行場はいらぬ。そのとおりだ。(2002年5月20日)




 薄田泣菫の「茶話」を読んでいると大正時代の有名人がつぎつぎに登場して、泣菫にちゃかされている。
 
 名前を見ても知らない人ばかりなので、インターネットで検索しながら読むのだが、検索に引っかかるホームページには泣菫のちゃかしの対象が、皆がみな偉人として登場するからおもしろい。

 おそらく当時でも偉人だったのだろうが、その偉人の滑稽な素顔を「茶話」のように伝えるホームページはないようだ。

 どんな偉人も、くだらない癖があったり、見栄を張って失敗したりすることからは逃れられない。それをとらえて描く泣菫の筆力が天才なのは当然として、このちゃかしのユーモアを許した大正という時代の寛容さもたいしたものだ。

 アメリカのマイク・ロイコも辛辣なユーモアの持ち主で、それが楽しみでジャパンタイムスをとっていたことがある。日本なら山本夏彦だろうか。

 一方、今の新聞のコラムがどれもつまらないのは、このユーモアの精神が欠けているからだろう。それは今の社会がユーモアを許さない社会だからかもしれない。(2002年5月17日)




 今回の瀋陽の事件は、中国という国の恐ろしさをあらためて教えてくれた。
 
 中国は北朝鮮国内の抑圧政策を支持し、北朝鮮からの亡命者を捕まえて送り返そうとする信じられない国である。
 
 国内で人権無視の政策をとっていることといい、対外関係で問題が起きると責任を相手になすりつけるやり方といい、中国は北朝鮮と同じなのである。だから、中国を信用するということは、北朝鮮を信用するということである。
 
 両国の違いは、金儲けがうまいかへたかだけだと言っていい。
 
 中国は自分に都合の悪い情報を完全に押さえ込んで作り上げたものを事実だと言い張っているが、これは南京事件を大虐殺と言い換える手法と同じである。
 
 この事件で中国に屈することは、北朝鮮に屈することと同じであり、自由と民主主義を捨てることである。
 
 私たちは、中国がブッシュ大統領のいう「悪の枢軸」北朝鮮の仲間であることを忘れてはならない。(2002年5月16日)




 電話があって出ると朝日新聞の「声」の担当者で、わたしの投書を載せたいという。それから、内容の添削が延々と続き、これは違いますね、あれは違いますねとあちこち直された。
 
 そのあとで、わたしの「翻訳業」という肩書きについて聞いてきた。他紙ではなかったことだが、正直に話をすると「そういうことですか」とのたまう。そして、例によって二重投稿でないことを確認してから、「また後日、お電話さしあげるかもしれません」と言って切った。
 
 なぜまた電話するのかといぶかしく思っていると、さっそく翌日同じ担当者から電話がかかってきた。瀋陽の問題でたくさん投書が来たから、あなたのはボツにするというのだ。この事件はずっとまえだから、明らかに嘘である。前の日の電話のなかで、やっぱり不採用にするとは言えないので日を変えたのである。

 どうやら、わたしは朝日の資格試験に落ちたらしい。

 朝日はリベラルな新聞社のように言われているが嘘である。朝日に投書するのなら、通りのよい肩書きを手に入れてからにする方がよいらしい。(2002年5月16日)





 沖縄から米軍基地を無くす方法はある。沖縄県民は基地のアメリカ人といっさいつきあわないようにすればよいのだ。そうすれば、米兵は沖縄で暮らすことはできなくなるから、基地を維持することはできなくなる。そうなれば、アメリカは沖縄から出ていくしかなくなるはずだ。
 
 具体的には、沖縄の人たちは米軍基地ではけっして働かないし、基地周辺の飲食店はアメリカ兵を決して入れないようにする。タクシーもバスの運転手も、交通機関は、米兵の利用を一切拒否するのである。これは一日だけでもよいのだ。

 このうちであとの二つは違法かもしれない。しかし、背に腹はかえられないだろう。それぐらい沖縄は米兵に出ていってもらいたいと思っているということを態度で示すのだ。そうすれば、米兵たちも沖縄の怒りを、沖縄の苦しみを、肌で感じるはずだ。

 沖縄県民は米兵に対してYesなのかNoなのかをはっきりさせなければいけない。本音ではYesだが建前はNoではないのかと思われるようなことがあれば、米兵はいつまでたっても出て行かないだろう。(2002年5月15日)




 「在日米軍基地の75パーセントは沖縄にある」これは事実だろう。しかし、これは「沖縄の75パーセントは在日米軍基地である」ということではない。
 
 ところが、沖縄の基地問題について書かれたものを見ると、あたかも後の方が事実であるかのような書き方がしてある。例えば「沖縄を歩けば基地に当たる」などと嘘を書くのである。

 しかし、現実の沖縄はそんなところではない。確かに、基地の近くは騒音がひどかろう。しかし、沖縄のほとんどの場所は非常に住みやすいところである。このことは、いろいろな有名人が競うようにして沖縄に移住していることを見てもわかる。

 それに、沖縄がそんなにひどいところなら、観光地としても成り立たないではないか。現実は、在日米軍基地の75パーセントがあるにも関わらず、沖縄はよいところなのである。

 沖縄の基地問題を考えるときには、軍隊や基地を即悪と見なす反戦平和主義者たちによって過大に誇張されている面があることを忘れてはならない。(2002年5月15日)




 合意のないセックスは強姦であって、合意の上のセックスは強姦ではないが、合意の上でも、もし金をやると買春になるのだろうか。
 
 しかし、その関係が継続的なら内縁関係ということで買春ではなくなるのか。内縁関係とおめかけさんは同じことなのか。
 
 さらに、もし金をやった女が18才未満なら児童買春で逮捕されるかもしれないが、それがもし継続的ならどうなのか。内縁関係が売春ではないなら、18才未満でも売春ではなくなるのか。
 
 民法では16才以上の女は結婚できるとなっているから、もしその女が18才未満でも16才以上で結婚するつもりならなら児童買春ではなくなるのか。
 
 民法で女は16才で一人前の女と認められているが、児童買春禁止法では児童なのはどうしてか。
 
 買春が金のやりとりなら、結婚もまた金のやりとりである。とすると、内縁の関係は法的にはほとんど買春と同じなのか。
 
 恋愛関係なら買春にはならないはずだが、相手を美しいと思うだけでは恋愛にならないのだろうか。
 
 要するに警察に逮捕されたくなかったら、セックスをしないに越したことはないということなのか。しかしそうすると、日本の人口は増えなくなってしまうような気がするが、この考え方は間違いなのか。よくわからない。(2002年5月13日)




 中国瀋陽の日本総領事館前で起こった出来事のビデオ映像を見て、何よりもまず思うことは、中国とは何と恐ろしいところかということだろう。
 
 ところが、政府を批判するためなら何でも利用しようとする一部マスコミには、あの親子に対する中国警察のしうちではなく、日本人職員の行動が目につくらしい。

 しかし、日本のマスコミのサラリーマン記者たちにあの職員たちを批判する資格はない。

 空爆のさなかにあるアフガニスタンの現地取材を全部フリージャーナリストに任せきりにしていた彼らが、もしあの場にいても、体を張って北朝鮮難民を救うことなどあり得ないからである。

 そもそも、何より我が身大事のいまの日本人のなかに、他人の苦境を救おうという男気を捜すこと自体至難である。ならば、自分ならどうしたろうかと問うてみるのが最低限のモラルだろう。

 しかるに、自分に出来もしないことを他人がしないといって攻めるのは卑怯というものである。(2002年5月11日)




 靖国問題を論じるときに過去の判例を持ち出す人をよく見かける。もちろん参考資料の一つとして言及することに異論はない。しかし、裁判官でもないものが、自分の主張の論拠に使うのはどうかと思う。
 
 判例は裁判官という官僚の判断にすぎない。しかも、それは人によって違うし、世論によって影響を受けるし、時代に応じて変化もする。
 
 ところが、首相の靖国参拝を反対する人が、その根拠に確定判決があるといってみたり、賛成する人が最高裁の判例がないといってみたりする。最後はお上の判断に頼る日本人の情けない傾向がここにも見られると言えよう。
 
 そのような情けない人たちの中に学者が多く含まれることは残念なことだ。彼らは、よほど自分の学説に自信がないか、それとも、正解はいつも問題集のうしろの書いてあった受験勉強の癖が抜けないのだろう。
 
 しかし、判例という過去の人間の判断に頼っているようでは、とても世論を変えることはおぼつかない。判例は世論が作るものであって、その逆ではないからである。(2002年5月10日)




 中国や韓国が日本の首相の靖国参拝に腹を立てるのは、靖国参拝自体に腹が立っているわけではあるまい。むしろ、自分たちの言い分が無視されたから腹が立っているのであろう。
 
 そもそも中国や韓国が首相の靖国参拝に最初に日本に対して苦情を言ってきたときに、本当に腹が立っていたのだろうか。これは非常に疑わしい。

 彼らが問題にするA級戦犯合祀は七八年であるが、中国や韓国が苦情を言ってきたのは八五年だからである。その間も首相の靖国参拝は続いていたのだ。

 すると、彼らはこの七年間は知らずにいたが、八五年になってはじめて知ったから腹が立ったとでも言うのだろうか。

 それに、そんなに腹の立つことに対してどうして英米の指導者は腹が立たないのだろう。

 苦情を申し込むときは、本当に迷惑を感じたときだけに限るべきである。

 苦情を言うと、それが聞き入れられないときには、自分の存在そのものが無視されたと思って非常に腹が立つ。その時には、迷惑を受けて腹が立ったとき以上に腹が立つものだからである。(2002年5月10日)




 大江健三郎と言っても五十年後の日本ではほとんど知られていないだろうが、その大江氏がまた海外で勲章をもらった。日本の勲章は断る人だが、外国の勲章ならありがたく頂戴する人だ。
 
 この人はノーベル賞をもらったあとで、文化勲章を「国がらみの賞は受けたくありません」といって断った。しかし、フランスと名の付く国の勲章なら受けるのだから、「国」は本当の理由ではなかったことになる。

 それに、平和主義者の氏なら、そもそもノーベル賞がノーベルという人がダイナマイトを売って戦争で大儲けをした金でできた賞だということはご存じだろうが、それはこの賞をことわる理由にはならなかった。

 ということは、この人は日本という国が嫌いなのだろうか。海外で翻訳がたくさん出版されているので、日本での売れ行きが下がったところで痛くもかゆくもないということなのか。そうではないだろう。

 もしノーベル賞をくれる前に文化勲章をくれていたら、大江氏も断らなかったかもしれない。ノーベル賞をもらったから文化勲章をやるという文化庁の態度が気に入らなかったのなら、わたしにも理解できる。(2002年5月8日)



 ビルマのスーチー解放に対する各新聞社の対応は様々である。軍政を悪と決めつけてビルマの軍事政権を非難する朝日に対して、ビルマの軍事政権に寛容な態度を見せ、むしろスーチーの急進的な民主化要求を批判する産経。
 
 しかし、その産経は民主化できない中国に批判的で、朝日は軍の発言力の強い中国に寛容である。

 各新聞社はそれぞれのの都合でものを言っているといことが、これでもよく分かる。

 「民主政治こそが真の発展への道であることは、近隣の東南アジア諸国連合各国の歩みが実証している」と朝日の社説は言うが、中国やパキスタンは民主政治ではないし、マレーシアやシンガポールの民主制は形だけで実質は独裁である。

 また、今日の天声人語は軍を戦争をし国民の自由を抑圧する悪い機関だと決めつけているが、軍はどこの国にもあるし、軍も国民の世論で動くものである。ところが、日本の有事法制に反対する都合があって、その辺は書かないのである。(2002年5月8日)



 違法行為によって世論に訴える。フランスの小規模農家の団体である農民連合がとってきた手段だ。
 
 ジョゼ・ボベを代表とするこの団体がファーストフード店を破壊したのは三年前のことだ。ジョゼ・ボベは禁固三年の刑を受けた。しかし、農業のグローバル化に反対する彼の運動は政府を動かして法制化に結びついたという。

 日本ではこのやり方は通用しない。警察につかまればそれで終わりだ。日本でならジョゼ・ボベはその瞬間に世論に悪人扱いされてしまうだろう。

 日本でも数年前にやみ米やどぶろく作りで国の政策に反旗を翻した人がいた。最初のうちは世論も彼の主張に同情的だったが、警察が出てきたとたんに風向きは180度変わり、裁判で有罪判決が出るともう見向きもされない。

 ものごとの決着を官権にもとめる日本と、違法行為に訴える団体に人々が賛同して政府を動かすフランス。

 それは、選挙の投票率が80パーセントにもなる国と、選挙で過半数が棄権するのがまれではない国との違いである。(2002年5月7日)




 「誕生死」という本が話題になっている。この本の「あとがき」にはこうある。

 「英語では、おなかの中で亡くなったケースを、”STILLBORN(スティルボーン)”と言います。日本語では単に『死産の』と訳されますが、”STILLBORN”には、『それでもなお生まれてきた』という深い含みがあり・・・」

 ここにはえらく断定的に書いてあるが、STILLBORNに『それでもなお生まれてきた』という深い含みはない。STILLBORNのSTILLは「静かに」という意味でしかない。

 この誤解はレオナルド・クラーク(Leonard Clark)という人の"Stillborn"という詩から来ている。それはここにある。

http://www.geocities.com/tcf-troy/OthersWrite/Stillborn.html

 そのなかに I KNOW THAT FOR ME YOU ARE BORN STILLという行がある。これはまさに『それでもなお生まれてきた』という意味である。しかし、これはこの詩の作者のつくった地口つまりしゃれであって、STILLBORNという単語の意味の解説ではない。

 もともと、bornという言葉は「母体から出た」という意味があるだけで、生を受けたという含みはない。つまりSTILLBORNとは母体から出たが産声をあげなかったことを意味しているにすぎない。

 「誕生死」という本が多くの人の励ましになったのはよいとしても、誤解から出発していることは悲しいことだ。(2002年5月5日)




 NHKスペシャル「サッカー地球の熱情2」を見た。ブラジルのサッカーのサポーターの熱心な活動を紹介していた。
 
 日本のプロ野球ファンと同じく、朝から晩まで自分のひいきチームのことを考えている熱心な男性ファンがブラジルにもいることが分かった。

 奥さんが旦那さんの熱狂ぶりを迷惑がっている様子が放映され、そのような熱心さが男性に特有のものであることも洋の東西を問わないようだ。

 それが高じて最近は暴力事件が頻発しているという。これも男たちが起こす問題である。つまり、この番組の主人公は男ばかりなのである。

 となると、この番組名にいちゃもんをつけたくなる。「地球の熱情」ではなく「地球の男たちの熱情」ではないのか。

 男は地球の人口の半分しかない。その価値観をもって全体の価値観のように表現するのはおかしい。少なくとも、男女共同参画社会を作っていくつもりなら、プロ野球やサッカーに熱狂しない多くの女たちの価値観をも尊重すべきだろう。

 この番組は、社会=男社会であること、女はいつも男の価値観に合わせられて生きていることをも、描いていたように思う。(2002年5月4日)




 うちでは毎日新聞をとっている。一面のコラムである「余録」がおもしろそうだと、去年とりだした。ところが、最近は余録の書き手が代わったのか、つまらないものばかりだ。
 
 今日は星野タイガースの好調をとらえて「野村前監督は『選手がアホやから』とぼやいていたかもしれないが、そうではなかった」と書いている。

 野村氏は敗戦の責任を選手のせいにする監督ではなかったと思うが、私の思い違いだろうか。

 つづけて「好成績は野村時代に培ったものが花開いたからとの説もある。そうかしら。むしろトップのかじ取り一つで組織がいかに活性化するかの見本ではないか」と書く。ここまでくると、筆者は野村氏が嫌いなのだと思うしかない。

 それにしても、もう辞めた人の悪口をなぜ書くのだろう。

 もしかしたら、毎日新聞が売れないのもトップの舵取りが悪いからだと言いたいのかもしれない。

 いずれにしろ、成功は地道な努力の積み重ねより指導者次第というお説は、モラルの向上には役立つまい。(2002年5月4日)




 憲法記念日ということで、日本国憲法を読んでみた。すると、最初に公布文があって「朕は朕は、日本国民の総意に基いて、・・・これを公布せしめる」とあり、その日付が昭和二十一年十一月三日となっている。まずこれが驚きである。

 戦争が終わったのが昭和二十年の八月で、それからたった一年しか経っていない。これでは「国民の総意に基づいて」いるとはとても言えないだろう。当時、日本はアメリカ軍の占領下にあり、言論の自由はなかった。国民は何も議論などしていないのだ。だから、ここは正しくは「占領軍の意志に基づいて」だろう。

 次に前文がくるが、そこで驚くのは、つい一年前まで世界を敵にして戦争をしていた国民に「すべての国と平和的に協調することで得られた成果を子々孫々にわたって守り続けることを決意した」(we shall secure for ourselves and our posterity the fruits of peaceful cooperation with all nations)と言わせていることである。これではまるで嫌味であり、お仕置きである。

 ではそのアメリカが、平和主義を信じていたかと言えば、全く違う。それはその後のソ連との軍拡競争を見ても明らかである。
 
 アメリカは、この憲法によって日本を理想的な国にしようと考えていたのか、それとも広島と長崎に原爆を落として無辜の市民を殺害したことに対する報復を恐れて、日本を戦争のできない骨抜きの国にしようとしたのか。よく考えてみる必要がある。(2002年5月3日)




 「私たち日本人はいつまでも平和を求める。世界の人々が仲よく暮らすためには高い理想は欠かせないから、私たちは常にこの理想を頭においてことを決める。この国の存続、この国の安全は、私たち同様に平和を大事にする世界の人々の正義感と信念に委ねよう」

 池澤夏樹による日本国憲法の前文の訳である。

 彼は、今の日本国憲法は元の英文の真意を正しく伝えていないと言っている。それを「普通の感覚で」訳し直したのがこれだ。

 しかし、変な訳である。
 
 「私たち日本人はいつまでも平和を求める」がまず日本語としておかしい。「私たち日本人はいつも平和を求めている」あるいは「私たち日本人はいつまでも平和を求め続けるだろう」ではないか。

 「この国の存続、この国の安全は、私たち同様に平和を大事にする世界の人々の正義感と信念に委ねよう」もおかしい。これでは自国の存続を他人に委ねてしまうことになり、独立を放棄することになってしまう。

 池澤の訳は、日本国民を骨なしの民族にしてしまおうという当時のアメリカの真意が明確に現れた訳だとは言える。
 
 ところで、池澤は原文の英語を名文だといっているが、とんでもない。原文はたくさんの内容を一つの文章に詰め込んだ典型的な条例文であって、悪文の典型と言える。
 (2002年5月3日)



 政治家の秘書が次々に逮捕されている。彼らはなぜに違法な口利きやあっせんによって金集めに奔走するのか。それは、自分の仕える政治家にどうしても金がいるからである。
 
 井上前参議院議長の秘書が土建会社から引き出した六四百万円はどこに行ったか。秘書が自分の懐に入れるために、土建屋をだましたのだろうか。そうとは思えない。

 加藤前代議士の秘書が脱税で逮捕されたが、脱税とは個人的な犯罪である。そんなはずはない。加藤氏に金が必要だったから金を集めてまわった。その処理が曖昧なことから、秘書の個人的な責任にされてしまっただけではないのか。

 前徳島県知事の場合は秘書ではないが、やはり選挙に金がいるから違法な金をもらったのである。

 社民党の辻本前議員の場合も同じだ。金がいるから、秘書の給料をごまかしたのである。

 政治に、そして選挙に金がかかる仕組みを改めない限り、この種の犯罪は跡を絶つことはない。私はそう思う。(2002年5月2日)
 
 




 また世論調査が行われた。小泉首相の公約がどの程度実現していると思うかという問いに対して、ほとんど実現されていないと国民は思っているという結果である。
 
 このほとんど実現していないという情報を国民はどこから得たかというと、それはマスコミからなのである。

 では、そのマスコミは改革の進展状況をどこから知るかというと、政府の発表からなのだ。ところで、小泉首相は改革は着実に進んでいると言っている。となると、マスコミは政府から得た情報を国民にゆがめて伝えていることになる。

 日本のマスコミは自力で情報を集める力はなく、政府や警察の発表をもとにニュースを作っているだけだからである。

 国民の多くは自分たちが選挙で選んだ小泉首相の言うことよりも、大企業の広告で成り立っているマスコミの言うことの方が正しいと思っているのである。

 選挙に行かない、責任感のうすい人の多い国民だから、これも仕方のないことかも知れない。(2002年5月2日)




 鈴木宗男代議士の秘書が逮捕されてマスコミはまた大騒ぎしている。各紙が検察による疑惑の解明を期待するという趣旨の社説を一斉に出した。しかし、どうして検察に期待するのだろう。
 
 マスコミがあいつは悪いやつだと言って世論をあおり、警察や検察に決着をつけてもらおうというパターンの繰り返しである。

 そもそもどうしてマスコミは自分で鈴木氏を決定的に追いつめることができないのか。検察が調べるととたんに悪事が次々と明らかになってくる。マスコミはどうしてそれを自分で明らかにできないのか。

 新聞は例によって検察の発表をせっせと掲載するだけだが、こんな楽な仕事はない。マスコミのレベルがこれだけ低いと、検察ににらまれなければ大丈夫と、また悪いことをする代議士は跡を絶たないだろう。

 日本にはボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインの出現は望めないらしい。
 
 かくして、またもや国民の選挙で選ばれた人間が、検察の手によって葬り去られるのである。

 これでは検察国家といわれても仕方がないだろう。とても民主国家とは呼べない。(2002年5月1日)
 




 鈴木宗男議員の秘書が逮捕されたことで、鈴木議員に対する議員辞職勧告決議案を採決せよと、野党は勢いづいている。

 議員辞職勧告決議案が採決されたという前例はない。もし、今回採決され可決して、鈴木議員が辞職したりすれば、今後は議員の不届きな行動が明らかになるたびに、議員辞職勧告決議案が採決されて、その議員は辞職させられることになるかもしれない。

 はたしてそれでよいのだろうか。

 議会で多数を握っているのは与党だ。もし、このやり方を与党が使えば、気に入らない野党議員を辞職に追い込むことができるわけで、与党は強力な武器を手にすることになる。

 これまで野党には、不信任案や問責決議案という政府与党を攻撃するための強力な武器が与えられていた。

 しかし、これからは、例えば、野党議員の不倫が明らかになったりすると、国会議員にふさわしくないとして、議員辞職勧告決議案を与党から突きつけられる恐れが出てくる。
 
 これは野党の党首を攻撃するのには格好の手段になるに違いない。(2002年5月1日)




 憲法第二十条には、「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」とあり「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」とある。
 
 首相の靖国神社参拝はこれをもって憲法違反であるという人たちがいる。池澤夏樹がそうである。

 しかし、本当に憲法違反だろうか。

 まず何より、神社に参拝することはこの条文にいう「宗教的活動」だろうか。

 この条文が規定しているのは国家宗教を作ってはいけないということであろう。そのための宗教教育などをしてはならない。そう読むのが自然だ。

 もしこの条文が首相に神社をお参りすることさえ禁じているとするなら、たとえ国立墓地を作っても、そこにお参りすれば憲法違反になるのではないか。

 なぜなら、お墓というものは無宗教なものではあり得ないし、もし特定の宗教を排したとしても、今度は無宗教という名の国家宗教を作ってしまうことになる恐れがある。だからこそ、現に政府が考えているものは、墓地ではなく祈念碑でしかない。

(日本にもアーリントン墓地のようなものを作れと言う人がいる。しかし、あそこにはベトナム戦争で死んだ兵士の墓もある。また、あそこがキリスト教による施設であることを忘れてはいけない。つまり、靖国神社と同じなのである。違いは、他国が文句を言うか言わないかでしかない)

 また、首相が参拝したくらいで、靖国神社が国から特権を受けているとか、政治上の権力を行使していると考えるのも行き過ぎではないのか。

 ところが、池澤夏樹の議論はこれらについての検討をすっ飛ばして、なぜこんな憲法違反なことを小泉首相はするのかに終始している。

 彼のこの種の議論は朝日新聞のホームページで読むことができる。それは彼の日々の思考を綴ったものだそうだ。

 しかし、こんな決めつけが満載でとても思考と言えるものではない。むしろプロパガンダ(政治宣伝)と呼ぶのがふさわしい。(2002年5月1日)




 先日、テレビの旅番組を見ていて驚いた。旅先は三重県鳥羽市なのだが、ショックだった。

 朝の8時半とお昼の12時に、地元出身の歌手の歌謡曲が拡声器で町中に流れるというのだ。

 テレビに映し出された風景は海辺ののどかな町だ。そこへ突然、お昼のチャイムと共に歌謡曲が大きな音で流れてきたのだ。歌謡曲は朝の八時半にも流れるという。その場面も映し出されていた。
 
 日本中に拡声器による放送が広まっているらしいことは、薄々知っていたが、あんなところにまで広がっているとは。
 
 もはや日本には静かな町はなくなってしまったらしい。

 番組は「いい町ですね」で終わっていたが、朝の8時半に歌謡曲を強制的に聴かされる町が、いい町であるはずがない。

 あれでは夜の遅い仕事の人は絶対に住めないではないか。すごい町があったものだ。誰も苦情を言わないのだろうか。

 どうやら日本全国拡声器だらけらしい。静かな町に住みたければ、日本を出ていくしかないのだろうか。(2002年4月30日)





 新聞に書かれている記事は半分は間違いで半分は嘘だと思っている。あそこに真実が書かれているなどということはない。
 
 スポーツ新聞には嘘ばかり書かれているが、一般紙はそうではないと思っている人は多いと思う。確かにそのとおりで、一般紙に書いてあることは嘘ばかりではない。嘘ではないが、間違ったことが書かれているだけである。
 
 自分が直接見たことでも正確に伝えることは難しい。それを人から聞いて書いたことがどうして正確であり得ようか。実際、事件報道では記者たちは警察の思いこみをさも事実のごとくに書いている。

 まだそれだけならよいが、新聞記者は聞いたとおりに書かずに自分の意見をそのなかに混ぜようとする。そのため、記事はさらに事実から遠ざかってしまう。ほとんど自分の意見ばかりで、意見広告かと思うようなものまである。

 ところがそんな新聞を彼らは金をとって売っているのである。読んでほしけりゃ金を出せと言いたいぐらいである。(2002年4月29日)



 日本の二大スポーツといえばプロ野球と大相撲だろう。
 
 この野球と相撲で違うところを一つあげると、相撲は強ければずっと勝つスポーツであるのに対して、野球はいくら強くても勝ったり負けたりするスポーツだということだ。

 だから、大相撲で強い力士はたいてい勝つから、その力士のファンはたいてい幸せな気分でいられる。

 ところが、プロ野球ではどんな強いチームでもずっと勝つというわけにはいかず、必ず半分近くは負ける。

 プロ野球は1シーズンは一四〇試合だから、プロ野球のチームのファンはシーズン中には確実に六〇日以上はがっかりして機嫌が悪くなることは避けられない。

 それでも自分だけで不機嫌になっている分には構わないのだが、ひいきのチームが負けて、腹いせに汚いヤジを飛ばしたり、まわりの人にあたったり、物を投げたり壊したりする人がいるのは困ったものだ。

 野球は勝ったり負けたりするスポーツであることを自覚して、さわやかに応援してもらいたいものである。(2002年4月29日)




 戦いに負けると、表面上だけでなく心の底から相手の言いなりになり、ついこの間まで指導者と仰いできた人間に対しても、相手が犯罪者だと言うと、いっしょになって犯罪者扱いする。こういうことをする人間が、どこの世界で立派な人間だとされているだろうか。
 
 ところが、日本にはそういう人間がごろごろいる。占領下で行われた東京裁判でA級戦犯にされた人たちが祭られているからといって、靖国神社に首相が参拝するのを非難する人たちがそれである。

 もし日本がいま占領下にあるのなら、それも仕方がないだろう。しかし、独立を回復してから50年もたつというのに、いまだに占領軍の言うとおりだと言う人たちがたくさんいるのは不思議なことだ。

 占領軍が出て行ったなら、その間に押しつけられたものは排し、たとえ失敗した指導者であっても、裏切り者でない限り犯罪者扱いなどせず、戦場で命を落としたものと同じように手厚く祭るのが、まっとうな人間のすべきことではないだろうか。(2002年4月28日)




 フランス大統領選挙の決選投票に極右のル・ペン候補が進んだということで、フランス国内は大騒ぎになっている。あちこちで反ル・ペンのデモが行われている。投票権のない高校生までがデモにくりだしている。
 
 ル・ペン候補の公約は、移民排斥、新通貨取りやめ、欧州機構からの脱退、死刑復活というものだ。

 ル・ペン氏の思想のことは知らないが、この公約だけを見るとそれほど極端なことではない。日本ではすでに行われていることばかりだからだ。

 日本では死刑はずっと昔から行われているし、移民は受け入れていない。日本はどこの機構の一部でもない。当然のことだが、通貨も昔からずっと円で変わりはない。

 逆に言えば、フランスはこれらを全部変えてきており、それを元に戻そうというのがル・ペン候補の主張だ。

 日本という何にも自分で変えられない国に住んでいる人間から見ると、こういう候補が出てくること自体が夢のような話である。(2002年4月27日)




 地方議会の議員のうちで女性のしめる割合は6.8パーセントしかないという。男女共同参画社会などと言うが、絵に描いた餅にすぎないことがよく分かる数字だ。
 
 日本では社会という場合それは男社会のことなのである。女の主張、女の気持ちは二次的なものにすぎない。

 その際たる現れが野球だ。野球をほとんどの女性は知らないし興味がない。にもかかわらず、高校野球やプロ野球の一チームの勝ち負けが社会現象のごとくに扱われる。女の気持ちはまったく眼中に入っていないのである。

 新聞記者も男ばかりで、女が新聞社に入ってきても野球のことを全く知らなくて馬鹿にされ、ルールの勉強をさせられたりする。

 いかに男の常識が社会の常識とされているかが分かる。女が社会に入るということは、男の価値観を身につけるということなのである。これでどうして男女共同参画社会と言えるだろうか。

 男は女の価値観をもっと受け入れる努力をしなければならないのではないだろうか。(2002年4月27日)




 人の顔ほどその人の価値を決めるものはない。
 
 それは、顔の輪郭や部品の配置だけではない。ふくらみ方も重要なのだ。目元、口元は特にそうである。

 ちょっと縁が突き出ているその様が大切なのだ。それを見て人は魅力的であると思うのである。それに人生をかけたりもする。

 顔ではなくて中身だという。もちろん生活の面ではそうである。しかし、自分のタイプであるかどうかは、外見が決める。

 タイプであるということはセックスもOKということである。つまり、性的なことはすべて外見が決定的要素になる。
 
 顔だけでなく体もそうだ。胸の膨らみ形が重要なのだ。気持ちをそそる形というものがある。内面的なものは寝た後の話だ。

 形というものはそれほど大切なものなのである。中身は見て見ぬ振りはできても、外見は否応なく目に入ってくる。

 整形外科が人生を変えると言っても、あながち嘘を言っているわけではない。(2002年4月25日)




 韓国は北朝鮮に対して太陽政策をとっているが、これは韓国が北朝鮮を悪の枢軸とか犯罪者国家とは思っていないことを意味している。同じ民族だから北朝鮮も本質的に善人の国家であると思いたいのである。
 
 もともと朝鮮が二つに分裂したのは決して日本のせいではない。もし第二次大戦でソ連が南下していなければ、朝鮮戦争で中国とソ連が北朝鮮を助けていなければ、朝鮮半島は分裂していない。

 恨むべきは中国とソ連であり、また中国とソ連に助けを求めた北朝鮮なのである。ところが韓国政府は北朝鮮が同じ民族の国であるために北朝鮮を非難できないでいる。そして、その怒りの矛先を日本の植民地統治に向けたのである。

 現在、韓国人の40代以上の大人は戦争を全く体験していないにも関わらず、日本の植民地支配が、今の韓国の不幸の最大の原因であると思って日本を恨んでいる。これは政府の教育の結果に他ならない。

 中国も同様で、国内の不満をそらすために、まるで日本を敵国のように国民に教えこんでいる。

 これが首相の靖国参拝や歴史教科書に中国と韓国だけがいちいちいちゃもんをつけてくる理由である。(2002年4月24日)




 ヨーロッパの政界にとっての極右は、日本の政界にとっての共産党の位置を占めているらしい。
 
 日本では選挙で共産党対他の政党という図式がよく見られるが、ヨーロッパでは、今回のフランスの大統領選挙に見られるように、極右政党の進出をくい止めるためなら左右が結束する。

 ヨーロッパでは極右は戦前のナチに近い思想を持つ危険な人たちの集まりで、民主主義を否定する勢力だと見なされている。

 それに対して、日本の共産党はどうして排斥されるのか。それは共産党が君主制に反対しているからである。

 つまり、ヨーロッパでは民主主義のために結束するのにたいして、日本では君主制のために結束する。こう見ると、彼我の隔たりは天と地ほど大きい。

 ヨーロッパでは民主制が何よりも重視されるというのに、日本で何より大切なのは君主制を維持することなのである。これでは、日本の国民にはいつまでたっても未来が開けてこないは当然だ。(2002年4月23日)




 小泉首相の靖国参拝に対して、韓国や中国政府が抗議したという。A級戦犯が合祀されている靖国神社に参拝するのはけしからんというのだ。しかし、アメリカやイギリスからは抗議の声はない。この両国こそは、東京裁判を主催しA級戦犯を罰した当の国である。

 日本の首相が靖国神社に参拝することが本当にけしからんことなら世界中で非難の声があがってよいはずだ。現に今のイスラエルのパレスチナへの軍事侵攻に対してはそうなっている。

 ところが、このことで抗議するのは中国と韓国だけである。この二つの国の国民だけが先の大戦で日本軍にひどい目にあったからだろうか。そうではない。被害を受けたと言っている人は世界中にいる。

 では、なぜこの二国だけなのか。それはこれを問題視してもアメリカやイギリスの政府には何の得にもならないが、この二つの国には得になるからである。したがって、日本人はこの抗議を真に受ける必要はない。

 ところで、日本の一部の新聞にこれに抗議して社説を書いたりする人たちがいるが、それは何の得があってのことだろう。一度教えてほしいものである。(2002年4月23日)




 いつまで構造改革ができない日本、いつまでも民主化できない中国、いつまで統一できない朝鮮、これらはアジアの代表的な国々だが、自分で自分を変えられない点でも代表的だ。
 
 一方で、フィリピンやマレーシアやシンガポールといった自分で自分を変えられた国もある。

 この二つの国々の間の違いは何だろう。一つはっきり違っているのは、後の方の国々はみんな母国語を捨てて英語を公用語に採用していることだ。

 言葉を変えられるくらいだから他のことも変えられるということだろうか。それとも、変革を重ねてきた欧米流のものの考え方を言葉と共に自分たちのものにできたからだろうか。

 ところで、靖国神社に日本の首相が参拝すると大騒ぎするのも、最初にあげた三つの国のマスコミだけだ。過去を清算して未来に向かって歩き出すことができないでいる現れである。

 日本が改革を成し遂げ、中国が民主化し、朝鮮が統一されていくに従って、この騒ぎもまた次第に消えていくことだろう。(2002年4月22日)




 広島市が暴走族追放条例を作って、市長自らが町に出て暴走行為をやめてくれと言ってまわっているそうだ。
 
 わたしは暴走族の問題も、この親にしてこの子ありの一例だと思っている。大人たちもでたらめをやっているのだ。ただ大人たちは轟音をたててバイクを走らせないだけなのだ。

 大人が立派になれば子供も立派になる。大人がでたらめばかりやっていると子供もでたらめをやる。子供は大人がするようにするのであって大人がして欲しいようにするのではない。

 広島市民は胸に手を当てて、自らにやましいところがないかどうかよく考えてみることだ。

 例えば、どこの市議会にも高給を取って遊んでいる議員がいっぱいいる。彼らがもし給料を返上してボランティアで暴走族に呼びかけたら、こんな条例を作らなくても、暴走族は彼らの言うことを尊重して暴走行為をやめるかもしれない。

 尊敬するに値しない大人がりっぱな条例を作って暴走行為を抑え込んでも、表向きだけのことだけに終わるだろう。(2002年4月21日)




 今年のプロ野球は星野阪神が中心に動いている。これまでは巨人が中心だったが、今年は違っている。これは阪神が20年前に優勝したときにもなかったことだ。
 
 わたしがそう思う理由の最たるものは、阪神が勝ったときだけ勝利監督インタビューがあることだ。

 勝利監督インタビューはこれまではリーグ戦に優勝した後と、日本シリーズの各試合後に行われただけである。それが今年は阪神の試合に限ってリーグ戦の途中にもかかわらず行われている。

 プロ野球のニュースもいまやすべてが阪神の話題から始まる。阪神が勝ったときは阪神戦から始まり、阪神が負けたときは阪神戦は最後になる。このやり方はこれまでは巨人戦のものだった。

 これは長島監督がやめて巨人のニュースバリューは無くなり、その地位を星野阪神が占めていることを意味している。

 マスコミにとって、星野が長島の代わりになったのである。こうなった以上はアンチ巨人だったわたしはアンチ阪神にならざるえない。(2002年4月20日)




 昭和五十年、わたしは東京の東中野の下宿にいたが、その当時の思い出に荒井由美の歌がある。隣の部屋の住人が荒井由美の「ルージュの伝言」を大きな音でかけて迷惑したからである。
 
 当時はそれほど思わなかったが、いま思うとこれが実に甘ったれた声の歌だった。

 歌詞の内容も男とつきあっていてうまく行かなくなったので相手の男の「ママに叱ってもらうわ」というもので、実に甘ったれたものである。

 いま思うと、荒井由美の歌は、当時の若い女の甘えた言葉づかいをそのまま歌にしたものである。別の曲だが、半音はずれたメロディーで歌う「あなーたがすーき。きいっと言えーる」はまさに甘ったれそのものだ。

 甘えといえば土井健郎の「甘えの研究」であり、甘えこそは日本の風土を一語で表す言葉のように言われてきた。その甘えを的確にメロディーと詩にしたのが荒井由美の歌だったのだ。それが当時、一世を風靡したのは当然かもしれない。

 しかし、そのことに今頃わたしが気づいたのはどういうことなのか。これは甘えの時代が終わったということを意味しているのではないか。そんな気がする。(2002年4月20日)




 五月の連休が近づくと決まったように昔の朝日新聞阪神支局の襲撃事件のニュースが新聞やテレビで扱われる。正直言ってうんざりである。
 
 このニュースではまた決まったように亡き記者の奥さんの話が出てくる。そのたびにわたしは思う。見たこともない人間を恨んで一生を過ごすのはむなしいだけだ。早くこんな事件のことは忘れて再婚でもした方がいいのにと。
 
 このニュースはマスコミが騒ぐほど一般の興味を引かない。むしろ、犯罪の被害者は星の数ほどいるのに、どうして新聞記者が被害者だとこうも特別扱いなの かという疑問の方が強いのではないか。わたしには、新聞記者たちは自分たちを特別な階級に属する人間だと思っているのではないかという気さえしてくる。

 彼らは民主主義を守るとか何とか言っているが、その実、他人の不幸をネタにして金儲けをしているハイエナのような存在である。いくらきれい事を言っても世の中はだまされないものだ。だから朝日新聞支局の襲撃事件はたいした興味を引かないのではないか。
 
 新聞記者たちはむしろこの日を「身の程を知れ」と自戒する日にしたらどうか。そうすればもっと世間の同情を得られるだろう。(2002年4月20日)



 プロ野球の阪神が三連敗した責任は選手にあるというのがマスコミの一致した意見だ。こんなにすばらしい監督をもっているのに選手たちはどうしてもっとがんばらないのかというわけだ。
 
 しかしちょっと待ってくれ、勝っていたときは星野監督のおかげだったと思う。その星野氏が監督でどうしていま負けだしたのだろう。

 勝ったのが星野氏のせいなら負けたのも星野氏のせいのはずだ。

 しかしいま星野氏の采配ミスを指摘する声はない。おそらくこのまま負け続けたとしてもそれは星野氏のせいではなく選手たちの、ひいては球団の責任にされてしまうだろう。

 実は前もそうだった。星野氏は11年も中日の監督をしていながら二回しか優勝できなかった。彼はよほどの戦力とよほどの幸運があってはじめて優勝できる凡庸な指導者でしかない。しかし、その事実を指摘する声もマスコミにはない。

 星野氏はそれほどの人格者なのだろう。しかし人格と勝ち星とは関係がないことをファンはもうそろそろ気づいてもよいのではないか。(2002年4月20日)




 個人情報保護法案に対してマスコミが一斉に反発している。そりゃそうだろう、彼らは他人の個人情報で商売をしているわけだから、それが自由に使えなくなればこれまでのような好き勝手に人の不幸をネタに金儲けができなくなってしまうからだ。

 和歌山カレー事件でマスコミの被疑者に対するインタビューが裁判で証拠として採用されたことは、マスコミと我々との関係を考え直すよい機会になった。マスコミは抗議声明を出しただけで、ストライキをするわけでもなく適当にすませてしまった。

 マスコミとつきあったりすれば金儲けに利用されるだけで、ろくなことはないということがこれではっきりしたと言える。彼らは国民の個人情報を守る気など更々ないのだ。

 そんな彼らに対して痛手となる個人情報保護法案は、一般国民にとっては救いの神だ。これによって取材という名のマスコミの横暴が少しでも減るなら、これほど喜ばしいことはない。

 週刊誌の一本の記事で国民の選んだ議員が辞めさせられるのはおかしなことである。マスコミには一定の歯止めが必要だ。個人情報保護法案にそれを期待してもよいのではないか。(2002年4月18日)




 学校五日制は何のためか。春休み、夏休み、冬休みと休みだらけの労働者=教員たちがまだ休み足りないと、週休二日制も導入したということである。表向きは子供たちにゆとりをなどときれい事を言っているが、怠け者の教師たちに他の公務員並の週休二日制が与えられただけなのだ。
 
 どうして彼らは春休みと夏休みと冬休みで満足できないのか。週休二日制の導入によって、教員たちは日本の労働者の中で欧米並の少ない労働時間と長い有給休暇を手にした唯一の職種ということになる。

 そんなに休んで何をするのかを知りたければ、教員たちが国内のみならず世界各地の旅先でいかに豊かなバケーションを送っているか調べてみるがいい。

 その彼らの低い教育能力は、予備校や塾の教師の比ではない。学校五日制の導入で、能なしをただで遊ばせる日本の教員制度は悪化するばかりだ。

 先生などというと何か立派な人たちの集まりかと思いがちだが、実はろくでもない人間の集まりである。学校五日制の導入はその一例にすぎない。(2002年4月18日)



 天国や地獄など存在しないことは、これまで地球上にどれだけの数の人間が生きそして死んできたかを考えてみれば容易に分かることだ。
 
 天国や地獄があるなら、そこにはそれらの人間が全部いることになる。その人口たるや何百億・何千億いやもっと多くきっと天文学的数字になるだろう。いったいそんなにたくさんのものがいられる場所とはどんな場所だろうか。

 されにそれを一人の神様が管理するなんて可能だろうか。

 人口が少なくて世界に対する知識もなかった中世のような時代の人間なら、天国とか地獄とかが存在すると思いこむことはあるだろう。しかし、地球には様々な民族が住み、その人口が60億以上もあることを知っている我々にはとうてい信じることはできない。

 天国や地獄があると考えることは、世界が自分の周りのごく狭い社会で成り立っていると考え、世界が自分を中心にまわっていると考えることにほかならないのだ。(2002年4月17日)




 自爆テロ犯は天国に行けると信じて凶行に及ぶ。一見狂信的に思えるが、天国があると思っている国民は多い。むしろ天国も地獄もないと思っている国民の方が少ないだろう。その少ない中に含まれるのが日本人ではないか。
 
 葬式仏教以外に宗教を持たない大部分の日本人は無信仰であり、あの世の存在を信じない国民である。占いを信じはするがそれもこの世の出来事に限られている。

 世界でも希有な国民であるこの日本人の一員として、私は是非ともパレスチナの自爆テロ犯に天国なんてないんだよと教えてあげたいと思う。

 しかし、どうやって教えるか。天国が存在しないことを知っていてもそれを証明するのは難しい。

 それより、彼らを日本につれてくるのが手っ取り早いかも知れない。そうして、おもしろおかしく生きることが最上であり、この世こそ天国だと思って生きている日本人を目の当たりにすれば、自爆テロをするなんて馬鹿馬鹿しいと思えてくるかも知れない。

 「パレスチナ人に日本を見せる」。これこそ日本が世界の平和に役立つ道ではないだろうか。(2002年4月16日)



 社民党は、秘書給与の流用問題で組織防衛のためになりふり構っていられない事態に追い込まれている。
 
 辻本元議員の参考人招致を病気を理由に延期させたのは、その一つの現れだろう。高齢者ならいざ知らず、まだまだ若い辻本氏が国会に出てこれないなど誰が信用するだろう。

 次が原陽子議員。自分のホームページで政策秘書の名義貸しが自分の所属する党支部に持ちかけられたと公表した。ところが、持ちかけたのは誰か分からないとごまかしている。話の流れから、それが党本部であることは容易に推測できる。それなのに、原氏は党ぐるみとは思っていないと言っている。党の指示に従っ た発言だろう。

 しかし、これが党ぐるみでなければ何をもって党ぐるみと見なすのか。

 党首の秘書が持ちかけたのなら、党ぐるみと見なされても仕方がない。それが表沙汰になることを恐れて、辻本氏の参考人としての出席をやめさせた。そう推測されても仕方がないところだ。

 私の中ではすでに社民党はアウトである。(2002年4月16日)




 えん罪の多くは虚偽の自白に起因する。してもいないことをしたと自白してしまうことはよくある。真実はどこでも同じだと考えると、虚偽の自白などあり得ないことになる。しかしそうではない。
 
 真実の基準は時代によって違ってきたように、現代でも状況によって異なっている。取調室という場所での真実は、取調官の考えるような真実でなければならない。

 これは、教会が強い権力を持っていた時代では、教会が納得するようなものしか真実だ認められなかったのと同じである。昔の西洋では聖書の教えに反するものは真実とは認められなかった。

 取調室という限られた人間によって構成される世界でも、真実はこの世界を構成する限定的な価値観に制限されてしまうのだ。だから嘘の自白をする人間がいて、それを真実だと受け取る取調官がいる。

 裁判ではどうかというと、これもまた嘘が真実として通用してしまいかねない空間である。けしからぬ犯罪、憤る民衆、憎悪に燃える遺族、それに乗っかるマスコミ、これらが一緒になって、認められるべき真実は限定されてしまう。誤判を100パーセント避けることが困難なゆえんである。
 
 だからこそ、自白だけで人を罰してはいけないと憲法に規定してあるのだ。(2002年4月15日)



 日本のインターネットは欧米に比べて、設備の面では遜色がない。しかし、中身の面では日本の方が遅れている。
 
 新聞社や雑誌社のホームーページを比べてみるとその差は歴然だ。
 
 日本の新聞社のホームーページでは、いまだに記事検索ができないものが主流だ。むかし開発した有料の記事検索をやめられずにいる。

 記事の内容も紙の新聞と比べると非常に限られたものになっている。これはニューヨークタイムズやワシントンポストと比べて大違いだ。

 雑誌になると海外と日本の差はさらに開く。日本の雑誌は記事をほとんどホームーページに掲載しない。ホームーページを単なる広告手段として扱っているのだ。私がよく見るタイムやフランスのパリマッチなどはとは大違いである。

 雑誌はいつも立ち読みするだけの私にとっては、本屋で読むかパソコンで読むかの違いでしかない。だから、雑誌社はホームーページに記事を出すことによって購買数が減る心配をする必要はない。
 
 それに元々新聞も雑誌も収入の大半を広告料から来ている。だからやる気さえあれば、日本の出版社も欧米並のことはできるはずだ。
 
 しかし、現状では世の中の変化に一番遅れているのは、出版界ではないかと思えてくる。(2002年4月15日) 




 阪神が優勝すれば、経済の波及効果は2000億円という予測を関西の経済界が出した。いい加減にしろといいたい。自分たちの無能のつけをプロ野球に肩代わりしようとしているだけではないか。
 
 最近の関西の不況の責任を野村前監督に押しつけるに至っては愚かというしかない。野球の勝ち負けが監督の能力によって決まるのなら、関西の経済界の指導者たちは、とっくに不況の責めを負って野村氏と一緒に辞任しているはずだ。

 消費の鍵を握っているのは女性であろう。その女性のほとんどは野球のルールさえ知らない。その野球が経済復興の決め手になると言うのは、風が吹けば桶屋が儲かると言うほどに、無関係なものを結びつけているにすぎない。

 本当に阪神の成績が経済の活性化と関係があるのなら、経済界で阪神を買い取って金をどんどんつぎ込めばいいではないか。

 関西経済界の野球好きのおじさんたちよ、阪神がいくら好きだといっても、それを景気と結びつけるのは無責任なこじつけでしかないことを知るべきだ。(2002年4月13日)



 先日、パウエル国務長官は、軍事力によってテロはなくならないと発言した。ただし、この発言が行われたのは、自国の政策の過ちを認めるためではなく、イスラエルの政策の過ちを指摘するためである。
 
 しかし、どちらでも同じことだ。

 アメリカによるアルカイダやタリバンに対する武力行使と、イスラエルによるパレスチナに対する武力行使には、違いがない。相手はどちらも曲がりなりにも国家であるし、タリバンにはビンラデン率いるアルカイダが、パレスチナにはハマスやファタハがいてテロを推進している。

 違いは、アメリカが超大国であってイスラエルがそうでないことだけだ。

 いまアメリカではアルカイダによる次の本土攻撃があると信じている政府関係者がたくさんいるという。オマル師もビンラデンも捕まっていないばかりか、アルカイダの首脳をほとんど取り逃がしたからである。

 結局、アメリカは武力による報復は次の報復を呼ぶだけで何の解決にもならないことに気づいたのである。イスラエルに武力行使をやめさせたければ、アメリカは正直に自分の誤りを認めるしかあるまい。(2002年4月12日)




 マスコミの健忘症は何も日本のプロ野球のことだけではない。パレスチナ問題でも同じだ。

 パレスチナ国家の独立はすでに二年前の2000年秋に行われる予定だった。ところがそれを国際社会がやめさせたのである。自爆テロが頻発する前のことである。

 むしろ独立できないことに対する絶望が自爆テロにつながっている。

 しかるに、いま日本の新聞は、自爆テロがパレスチナ国家の独立を妨げているからやめるべきだと平気で書く。自爆テロを批判する理由が見つからなかったのだろうか。

 当時のイスラエルの首相は穏健派のバラクだった。国際社会はあのときにこそイスラエルに圧力を加えて、パレスチナ国家の独立を認めさせるべきだった。強硬派のシャロンが首相になってからでは遅いのだ。

 ところがマスコミはいま頃米国の仲介に期待すると言っている。しかし、戦争が始まってしまった以上は、行き着くところまで行かない限り停戦はない。

 この戦争の責任はイスラエルをこんなところに作り、パレスチナ国家を許さなかった国際社会にある。争いの原因を作っておいて停戦だけ呼びかけても無責任なだけである。(2002年4月12日)




 何々主義とは何かを至高としてそれ以外のものを従属させる考え方をいう。たとえば、平和主義とは平和が一番大切でそれ以外は二の次とする。
 
 ところで、いまの世の中を支配しているものの中に商業主義というものがある。お金が儲かることが第一でそれ以外は二次的であるとする考え方である。

 たとえば、いまプロ野球の阪神の快進撃を、時期は違うが二年前にも三年前にも似たようなことがあったと言うマスコミはない。これが商業主義なのである。ここで儲けぬ手はないからである。

 また、イスラエルのパレスチナ進軍をアメリカが批判し即時撤退を要求し、マスコミがこれに期待を寄せているが、これも商業主義である。

 もしアメリカが自分たちのテロ撲滅戦争と同じだといって、イスラエルの行動を支持したりすれば、アラブ諸国を怒らせて石油の全面禁輸などという事態になる恐れがあり、そうなれば世界の経済がいっぺんに麻痺してしまうからである。

 しかし、どんな主義についても言えることだが、真実は別のところにある。それを見誤らないようにしたい。(2002年4月11日)



 徳島県の前知事辞任にともなう出直し知事選挙が告示された。前知事は業者からもらった金を賄賂とされて逮捕された。金をもらったのは選挙資金にするためである。選挙に勝つには金がいるのだ。
 
 ところが、選挙に金がかかると仕組みは何も変更されずに、選挙はそのまままた行われる。

 当選する候補は、一番たくさん金を使った候補に違いない。借金が残るだろう。また、再選するために金を集める必要に迫られるだろう。

 金をくれるのは誰か。まとまった金をくれるのは業者以外にない。かくして、また次の知事も汚職事件で逮捕されるだろう。

 逮捕されないように、お金をもらわずに済ませる方法はある。選挙で有力な対立候補が出ないようにするのである。裏で根回しをするのだ。そのためには、共産党以外のすべての党を与党につけるのだ。かくして、相乗り多選知事の誕生である。

 金のかからない選挙の仕組みを考えない限り、ろくな知事が生まれないのが道理なのである。(2002年4月11日)




 天王寺動物園の雄のクロサイがイギリスに行って向こうの動物園の雌のサイとお見合いをするというニュースを見た。
 
 乱獲でクロサイは何千頭にまで減っているために、世界の動物園が互いに繁殖を進めて、種の保存につとめているのだという。

 一方で、日本に持ち込まれた台湾ザルがニホンザルと勝手に交配するために、純粋なニホンザルが絶滅するおそれがあるとして、駆除されている。

 動物の特定の種の保存のために、片方では生かし、片方では殺す。大事なのは種の保存であって、個々の動物の命ではないのである。人間は個人として尊重されるべきだが、動物は種として尊重されるだけでよいということだ。

 動物に対するこのやり方は、アーリア人種を尊重するためにユダヤ人を虐殺したナチスのやり方と同じである。

 種の保存に人間が介在してよいとするこの考え方の中には、神の役割を代行しようとする人間のおごりが見える。これをよしとするなら、クローン人間をどうして批判できよう。 (2002年4月9日)
 



 モラビアの「倦怠」を読んだ。これは、恋人の浮気に悩まされてその後を追いかけ回す男の話である。話は男の独白で進む。その特異な論理の展開がおもしろい。
 
 男は人生に倦怠している。しかし、それが彼の生き方だ。
 
 女とつきあったが、すぐに飽きてしまう。それで別れを持ちかけようと待っていたら、女が約束を破って会いに来ない。浮気か? この疑いが一気に女に存在感を与える。

 嫉妬に燃えて、浮気の現場を捕まえようと躍起になる。浮気をされていると思ったとたんに、女を独占したくなったのだ。所有してはじめて、女を捨てること ができる。そうすれば、本来の倦怠に戻ることができる。そう思って女を問いただし、セックスを求める。セックスでは女を完全に所有することはできない。し かし、やめられない。

 やっと女は浮気を白状するが、浮気をやめるといわない。男は、こうなれば結婚するしかないと考える。結婚すれば、女の浮気もおさまるだろう。そうなれば完全に女を所有できる。そうなれば、女に倦怠を感じて本来の自分を取り戻せる。

 しかし、女は結婚を断るだけでなく、浮気相手と旅行に行ってしまう。正気を失った男は、とうとう自動車事故を起こして入院する。そこでやっと現実に目覚める。こういう話だ。一気に読み通せる名作である。(2002年4月9日)




 アラブ諸国はイスラエルに対して占領地を返せ、返したら平和を保証してやると言っている。この占領地とは中東戦争でアラブ側が負けて失った領土である。
 
 中東戦争をしかけたのはアラブ側だから、イスラエルがこの要求を拒否してきたのは当然だ。領土を失ったのはアラブ側の落ち度であって、イスラエルの側には責任はない。

 日本もロシアに対して同じような要求をしている。領土を返せ、返したら平和条約を結んでやると。第二次大戦をしかけたのは日本なのだから、ロシアがこの要求を拒否してきたのも当然だ。領土を失ったのは日本の落ち度であって、ロシア側には責任がない。少なくとも、ロシア側から見ればそうである。

 いや、日本はロシアに対しては戦争をしかけていない。当時のソ連との間には日ソ不可侵条約があった。それを無視して、攻め込んできたのはソ連ではないか。だから、日本が北方領土を失ったことには、日本には落ち度がない。これが日本の主張だ。

 いまイスラエルは領土返還に応ずる可能性が出てきたという。それぐらいイスラエル国民は平和を望んでいる。一方、ロシアは軍事的には日本に何の脅威も感じていない。だから、ロシアはよほどの交換条件がない限り、北方領土を返す可能性はない。そう考えるべきだろう。(2002年4月8日)




 結婚していない人は大人になっても親と一緒に実家で暮らすのがいまは普通だ。これをパラサイトシングルというらしい。
 
 パラサイトとは寄生という意味だから、この言葉には悪いイメージが込められている。しかし、いまでは親子がずっと一緒に暮らすのは当たり前のことだから、言葉を変えた方がいいと思う。

 大人になったら、別居するという考え方は、戦後のもので昔は大家族だった。昔は小姑なんてものが家にいたが、これも大人の同居人がいたことを意味している。

 一体何の理由があって別居する必要があるのだろうか。親にとっても子にとっても別居は不便なだけでなく、さびしいものである。人間は一緒に暮らす必要があるのだ。だから同居が増えたのは自然な姿に戻ったと言える。

 内閣府がパラサイトシングルについてどう思うかアンケートをとったそうだが、人がどう思おうが知ったことではないのである。(2002年4月8日)




 国連がイスラエルにパレスチナ自治区からの即時撤退を決議し、アメリカもそれに同調している。しかし、国連はパレスチナ人による自爆テロを防ぐ有効な手だてを何も提示していない以上、イスラエルがそれに素直に従わないのは当然だろう。
 
 国連は平和を維持する機関であって、戦争に反対するのが仕事だ。しかし、イスラエル国民の安全を保証するのは国連の仕事ではない。だから、即時撤退などと無責任なことが平気で言える。
 
 イスラム世界のど真ん中にユダヤ教国であるイスラエルを作ったのは国連を中心とする国際社会である。そんなことは容認できないとイスラム世界はイスラエルに即座に戦争をしかけたのだ。
 
 先に手を出すのはいつもアラブ側である。今回も、暴力をはじめたのはパレスチナ人の方だ。イスラエルがそこにある限りアラブ人からの攻撃はなくならないだろう。

 それに対して、国際社会はイスラエル人の安全をどう守るつもりなのか。それを、はっきりさせてから平和を口にすべきではないか。(2002年4月7日)




 プロ野球で阪神が快進撃を続けている。しかしこのチームは私にとって阪神ではなく、中日の支店でしかない。監督になった星野氏は生粋の中日人間であって、野村前監督のような放浪人ではないからである。
 
 星野氏が阪神の監督になるということは、たとえて言えば、巨人の選手と阪神の選手を総入れ替えしたようなものだ。それで勝つようになったとしても何らめでたいことではない。

 さらに、たとえて言うなら、アメリカ人に税制も憲法を作ってもらって、それで繁栄しても、それは日本の繁栄ではない。それと同じだ。

 ところが、日本はそれに気づかなかったために、五十年以上も後になって、自分でこの国を立て直さなければならなくなった時に、どうしていいか分からなくなっている。
 
 プロ野球のチームの再建も自分の手でやらなければならない。さもなければ、たとえそれで成功しても一時のあだ花に終わってしまう。そのことを、日本の歴史が教えていると言えないだろうか。(2002年4月7日)




 イタリアでクローン人間の妊娠に成功したというニュースに、私がまず思ったことは、やはりイタリアかということだった。中世に地動説を発表したガリレオもまたイタリア人だった。

 当時地動説を唱えることは、まさにいまのクローン人間に対するのと同じくらいに大きな非難の対象となった。今日の新聞に出た「信じられない」とか「人間の尊厳を冒す」などという言葉は、そのまま当時のガリレオに向けられた言葉であったに違いない。

 現代の価値観で見る限りとんでもないことが将来の価値観では自然なこととなる。それが科学の進歩だ。

 ガリレオが地動説を知る技術を手に入れてしまったのと同じく、現代の我々はクローン人間を作る技術を手に入れてしまったのである。もはや、後戻りはできない。

 むしろ、後戻りを強いることこそ人類の尊厳を損なうことではあるまいか。

 地動説はそれまでにあった価値観を覆し、中世に終わりをもたらした。クローン人間もまた人類に新たな価値観の創造を求めているに違いない。(2002年4月6日)




 最近、歯磨きを日に二回することにしている。
 
 子供の頃は歯磨きはしなかったが、大学へ行って一人暮らしをするようになってから、日に一度寝る前に歯磨きをする習慣を身に付けた。それからずっとそれでやってきたのだが、最近通っている歯医者に勧められて、日に二回に増やすことにした。
 
 一日一回では二十四時間分の汚れを取ることはできないと言われたのだ。
 
 最近は電動歯ブラシを使うので、歯磨きは面倒ではない。ブラウン式の丸いブラシが先に付いているものを使って、ブーンと言わせながら口の中を一二周させるだけだ。
 
 それより、これを勧めた歯医者の人柄がこの習慣をはじめた原因だといえる。この歯医者は歯の磨き方を丁寧に教える。必要なら自分の指を患者の口につっこんで歯茎全体を丁寧にマッサージもする。こんなことをする歯医者をほかに知らない。

 歯医者が金儲け本位だと、患者の方も悪くなればまた治してもらえばよいと思うだけだが、患者本位の治療をされると歯を大切にしなければという気持ちが患者の方にも生まれてくるものなのである。(2002年4月5日)




 日本社会を支配しているのは中高年のおじさんたちであるということを一番強く感じるのはプロ野球中継が延長放送されたり、プロ野球の試合結果が一般のニュースで報じられるときである。
 
 野球に興味があるのは、男のしかも中年以上でしかない。女性のほとんどは野球には興味がないし、男でも若い世代は野球のようなダサイスポーツには関心が薄い。

 そのプロ野球では、特定の球団が勝つことがよいことだとされていて、たとえばパリーグのチームやセリーグでもヤクルトなどが勝っても意味がない。

 一方、巨人や阪神のことには非常に熱心で、球界全体が勝ってほしいと願っている。

 だから、今年などは、阪神の監督になった星野さんに勝たしてあげようという雰囲気が、球界に充満していて、いわば球界全体で八百長をやっているようなものなのだが、そんなものにまじめに一喜一憂しているのが、プロ野球ファンといわれる人たちなのだ。
 
 この社会はそのような人たちに支配されているのだから、うまくいかなくなるのは当然なのである。(2002年4月4日)




 名選手必ずしも名監督ならずというが、最近は名監督必ずしも名監督ならずである。かつては名監督として名をはせた野村監督が結果を残せず阪神を去った。そして、横浜の森監督は今もなお苦労し続けている。
 
 いくら監督としての能力があっても、選手に恵まれなければどうしようもないということだろうか。
 
 阪神の監督になった星野氏の場合はどうだろう。いま阪神は調子がいい。しかし、星野氏が名監督でないことは明らかだ。去年、星野氏は中日の監督として、最下位の阪神に負け越しているからだ。
  
 去年優勝したヤクルトの若松監督も名監督ではない。前任者の野村監督のもとで毎年のように優勝していたチームを引き継いだのに、なかなか優勝できなかった。
 
 むしろ若松監督は「優勝するかどうかは、監督とは関係がない。良い選手が揃い、その彼らの調子が良ければ勝てる」ということを証明したと言える。
 
 阪神の星野監督の場合も同じではあるまいか。ところが、今年の理想の上司のアンケートで星野氏がトップになった。実は数年前にそのトップの座には野村氏がいた。世論の評価などいい加減なものである。(2002年4月3日)




 客観報道と称してテロリストに敬称をつけてビン・ラデン氏と呼ぶマスコミは、皇室報道でも敬語を使う。これも、客観報道なのだろうか。
 
 しかし、そのマスコミも海外の皇室に対しては敬語を使わない。我々はよその家の親、よその会社の社長については敬語を使って表現するが、身内については敬語を使わない。これが常識だが、マスコミはこの逆を行っているわけだ。

 そのうえ最近では、赤ん坊にまで敬語を使うマスコミの卑屈な報道姿勢に、俺たちは主権者なのにあの子供より下なのかと思って情けなくなる。

 これは余談としても、敬称や敬語というものは客観性とは無縁のものであることを確認しておくことは無益ではないだろう。

 客観的ということは、主観的の反対であって、特定の人間の間だけ通用するのではなく、どこの誰にとっても等しく通用するということである。

 だから、他のどこの先進国の報道でも、テロリストに敬称はつけないし、皇室に敬語は使わない客観的な報道を行っている。(2002年4月3日)




 イスラエルはもう充分に我慢した。いくら自制したところで、いくら停戦協定を守ったところで、パレスチナ人による自爆テロがやむことはない。
 
 パレスチナ人はイスラエルとの共存共栄などあり得ないと考えている。イスラエルが、たとえパレスチナ国家の独立を許したとしても、自爆テロがなくなることはない。
 
 パレスチナ人の願いは単にパレスチナ国家を樹立することではなくて、ユダヤ人をパレスチナの地から追い出すことだからである。

 パレスチナ人を許すということは、ユダヤ人の虐殺を許すということである。イスラエルに残された手段はパレスチナ人を排除すること以外にない。さもなければ自分たちが排除されてしまう。

 イスラエルには、もはや選択の余地はない。きれい事を言っている場合ではない。今や、事態は食うか食われるかなのだ。
 
 イスラエルにとって、いま平和を尊ぶということは、自国民を見殺しにするということである。そんなことをすれば、国家の存在意義がなくなってしまう。わたしは、シャロン首相の軍事侵攻を支持する。(2002年4月1日)




 「謹慎」「処分」。なにやらいかめしい言葉が飛び出してきた。高校野球の全国大会でどこかの高校の副部長がちょっと知恵を働かせたことに対して出てきた言葉である。

 このような言葉が出てくる人々の集まりとはどのようなものだろう。少なくとも、みんなで何かをいっしょに楽しもうという人たちの集まりでないことは確かだ。
 
 高校野球はいつからこんな言葉を使うようになったのか。たかが子供の野球ではないか。野球はスポーツであり遊びである。ところが大人たちが、それに対して何かと注文を付けては、子供たちにのびのび試合をさせないようにしている。

 ある地方で甲子園とそっくりの野球場を作るという。大人が自分たちの思いこみだけで「甲子園、甲子園」と、よけいな重圧を子供たちにかけていることが分からないのか。

 電気屋のテレビの前で高校野球の中継に見入っているのは、今では中高年のおじさんだけである。高校野球はとっくにダサイスポーツになってしまっているのではないか。(2002年3月30日)




 高校の硬式野球部の部員数が減り続けていたのが最近増加に転じたという。これはどういうことなのか。
 
 プロ野球に対する人気も高校野球に対する人気も下がっている。一方、アメリカ大リーグに対する人気はウナギ登りだ。つまり、イチローや新庄に対する人気が、高校野球の部員を増やしているのだ。

 野球をすれば大リーガーになれるかも知れない、ひいては世界的なヒーローになれるかも知れないという夢がそこに込められるということだろう。

 それは、もっと言えば、この先の見えない日本から脱出して、世界に羽ばたく機会を野球が与えてくれるかも知れないということである。

 しかしながら、もともと、高校野球の部員が増えるということは決して喜ぶべきことではない。これは、勉強をしない人間が増えることだからである。高校の勉強は野球をしながら誰でもマスターできるほど簡単なものではないのだ。

 だから、最近、高校野球の部員が増えたということは、地道な努力による成功ではなく、派手な野球で一攫千金を夢見る子供たちが増えたということにすぎないのではないか。わたしはこの現象を、かく憂えるものである。(2002年3月29日)




 辻本議員に辞職を求める社説を日経新聞がまっ先に出したのは、自民党系の新聞としては妥当なことかも知れない。しかし、翌日に朝日と毎日がそろって同じような社説を出したのは、いい格好をしすぎたのではないか。
 
 四面楚歌で辻本議員が辞職に追い込まれた翌日、産経・読売・日経が社説で勝利宣言したのに対して、毎日は辻本氏に対する攻撃を止めて公設秘書制度の問題点を述べただけ、朝日に至っては辻本氏のことを取り上げてもいない。

 この両紙は今になってやりすぎに気づいたのかも知れない。自分の陣営の有力な人材を失ったからである。
 
 マスコミは政治の世界から超然として正義を論じていればよいというのが朝日・毎日の態度だが、それが祟っていっこうに野党が政権につくことが出来ない。
 
 フランスのシラク大統領は、公共工事に絡む献金疑惑で証言テープまで出てきたのに、ろくな追求もされずに、今年の大統領選挙でも接戦している。これは、保守系政党だけでなく、保守系マスコミも疑惑追及に不熱心だったことと無関係ではない。
 
 マスコミもまた党派性から逃れることは出来ないのだ。政権交代を実現したければ、朝日や毎日も少しは目をつぶることを覚えなければいけないのではないか。(2002年3月27日)




 これまで鈴木宗男議員にも加藤紘一議員にも社説で辞職を求めた新聞はない。ところが、辻本議員に対しては、どの新聞も社説を使って辞職を求めている。まったく、辞めろ辞めろの大合唱なのである。
 
 このヒステリー状態はいったいなんなのだろう。自分の価値観を人に押しつけるのが新聞の仕事なのか。辻本氏がなかなか辞めないものだから、意地になって書いているとしか思えない。

 頭を冷やしてものを考えられる人間は新聞社にはいないのか。ついこの間まで英雄扱いしておきながら、たった一つの失敗を捉えて、一人の無力な女をやりこめにかかっているという印象が強い。

 横山ノックの時も、野村沙知代の時もそうだった。辞めてどうやって食っていけというのか。自殺しても自業自得と笑うのがマスコミだ。

 あちらへワーと行ったかと思うと今度はこちらワーと行く。こんな定見のないマスコミからは、その牙を抜くのがよい。そのための法律、個人情報保護法が準備されているという。是非とも成立させてもらいたい。(2002年3月26日)




 「何でわたしがやめなあかんの」というのが社民党の辻本氏の気持ちだろう。

 もし、政策秘書の名義借りをしていたとしても、そんなことを一年生議員の辻本氏が自分一人の考えで出来るわけがない。社民党の誰かの入れ知恵があったに違いない。その人にも責任があるはずだ。
 
 かつて自民党は造船疑獄で逮捕状の出たにもかかわらず佐藤栄作議員をかばって逮捕させなかった。佐藤氏はそれだけ党にとっても国にとっても重要な人物だったのである。
 
 ところが辻本氏の場合は、逮捕状も出ていないし、あるのは道義的責任だけだ。それなのに、社民党は辻本議員をかばおうとしない。
 
 社民党は、結局は政権政党ではなくカッコをつけるための政党でしかないからだろう。だから、誰も泥をかぶろうとせずに、党にとって国にとって重要な人材を切り捨てられるのだ。
 
 彼女が鈴木宗男議員の証人喚問に立ったことの意義を社民党は、軽く考えすぎている。何で彼女がやめなあかんのかである。(2002年3月25日)




 ヤコブ病訴訟でよく分からないのは、国に謝罪を求めている点だ。金でかたを付けるために裁判を起こしたのではないのか。

 そもそも、裁判で謝罪を勝ち取ったところでどうなるというのか。謝罪が本心からのものかどうかは誰にも分からないのだ。大臣が被害者の墓参りをしていたが、あれが形だけでないと誰が断言できよう。

 裁判での被告の態度も同じことだ。日本の裁判官は、被告に反省が見えないのが、けしからんとよく言う。しかし、反省の態度を見せろというのは、うまく振る舞えといっているに等しい。

 確かに、気持ちが態度に表れるという面もある。しかし、人の心を正確にのぞき見ることは出来ないのだ。

 相手に単に賢く振る舞う以上のこと、本当の謝罪や反省を求めるのであるなら、嘘発見器にかけて「本当に反省していますか」と聞いて反応を見るしかない。
 
 しかしそんなことをすれば、永遠に謝罪など得ることはできないだろう。(2002年3月25日)




 イスラエルでパレスチナ人による自爆テロが繰り返されるようになったのは、今から一年半前(2000年9月28日)にイスラエルの右翼政党リクードの党首で、現イスラエル首相のシャロン氏が、ユダヤ人であるにもかかわらずイスラム教の聖地(神殿の丘)にお参りをしてからである。

 シャロン氏はこの訪問によって、この聖地がユダヤ人のものであると主張したわけだ。それに怒ったパレスチナ人たちが暴動を起こし、イスラエルが軍隊を繰り出してそれに応戦した。

 ここで分かるのは、イスラエルの中にはたくさんのパレスチナ人が住んでいるということだ。日本にもたくさんの朝鮮人が住んでいる。それと同じようなものだろう。ところが、パレスチナ人には自治政府というものがあって、ここが違う。日本には朝鮮人自治政府なんてない。

 政府と言うからには国かといえば、そこまではいかない。何せ国境がない。だから、どんどんイスラエルの中に入ってきて、自爆テロを繰り返す。

 結局、イスラエルはもしパレスチナ人に殺されたくなかったら、パレスチナを国として認めて、国境を作って、イスラエルの中に入ってこないようにするしかない。そうすれば、イスラエルの領土は減るが、国民の命と引き替えには出来ないだろう。(2002年3月25日)




 「二十日の記者会見は間違いでしたすいませんと謝るべきだと思います」辻本議員と同じ党の福島議員の言葉だ。彼女もまた日本式の謝るのが一番いいという考え方の持ち主であることが分かった。
 
 それと同時に、弁護士出身の福島議員がどんな弁護活動をしていたかも垣間見せている。彼女は全面降伏して、裁判官の情状に訴えるというやり方をいつもとっているに違いない。
 
 一見どんなに不利な状況でも、あくまで被疑者の側に立って、被疑者の立場を有利な方向にもっていこうとするのが弁護士の仕事であるはずだが、彼女の場合はそうではないのだろう。
 
 結局は、日本には本当の意味での弁護士は一人もいないのではないか。

 この場合も、いつものように自分は有利な立場にとどまりながら、困っている人間を見捨てるのである。

 「誰もが犯罪者になりうる」。辻本議員の事件は改めてそのことを思い出させてくれた。それなのに、社民党の議員たちは他人ごとのように振る舞って、仲間をかばおうともしない。これなら、鈴木宗男議員をかばう自民党の方がよほど人間的だ。 (2002年3月25日)




 政治家は金がいる。それをどうやって集めるか。何の関係もない人は金をくれない。ファンです好きなように使ってくださいと、ポンとお金をくれる人がこの世の中に何人いるだろうか。
 
 結局、政治家は特定の誰かの役に立って、その人から政治資金です、選挙に使ってくださいと言われながらお金をもらうしかない。これが賄賂だというなら、賄賂をもらわないで政治家はやれないことになる。

 国会議員は国から給料だけでなく、党を通じて政治資金がもらえるが知れたものだ。それ以外の議員や地方の首長ははじめから自分で工面するしかない。

 アメリカでもイギリスでもは収賄事件は起こらない。アメリカは政治献金が賄賂扱いされることはないし、イギリスでは選挙資金自体が厳しく制限されている。

 日本は中途半端で、金は集めてよいが何の関係もないところから集めてこいというのだ。そんなやり方で金が集まるはずはなく、今後も収賄事件が起こることは避けられないだろう。(2002年3月24日)




 わたしは「秘書」の「秘」は「秘密」の「秘」で、秘書は雇い主の秘密は死んでも漏らさないものだと思っていた。しかし、社民党の辻本議員の雇っていた秘書はそうではなかったのか。
 
 彼女の政策秘書が知人に「月5万円で名前を貸すことになった」と漏らしていたことが明らかになったからである。
 
 政治には金がかかる。社会党のしかも女性代議士の収入は高が知れている。事務所の維持もままならないの実状だ。そこで、お互いにお金を出し合っていきましょうということになった。ところが、辻本議員はこともあろうに同じ女性からこんな裏切り行為をされた。

 それなら、あきれた秘書だということになる。しかしそうではないかも知れない。

 売れっ子の辻本氏のことだ。テレビの出演料などで莫大な収入を得ているはず。ところが、彼女はしみったれで、安月給で何人もの秘書こき使っている。それを見て腹を据えかねた政策秘書が「わたしなんかたった五万円よ」と暴露に出た。これが真相なのかも知れない。

 それなら、辻本氏は身から出た錆でわが身をおとしめたということになる。(2002年3月24日)




 第二次大戦中、アメリカはアウシュビッツ強制収容所のユダヤ人を一切救おうとしなかった。

 アメリカは1941年の時点ですでにユダヤ人が大量に虐殺されていることを知っていた。にもかかわらず、アメリカ軍はアウシュビッツの収容所に通じる鉄道を空爆しようとさえしなかった。

 当時のアメリカの目的はあくまで戦争を終わらせることであり、そのためには民間人の犠牲は大した考慮の対象ではなかった。だから、アウシュビッツは見逃されたのである。しかし、だからこそ、アメリカは広島・長崎に対して原爆を落とすことが出来た。
 
 アウシュビッツの悲劇と広島・長崎の悲劇とは相通ずるものだったのである。民間人の犠牲に対して、世論は現代ほどに神経質ではなかったのである。

 当時は、勝つこと、相手をやっつけることが何より優先された。個人の人権は二の次だったのだ。アメリカでさえそうだった。

 当時アメリカは全体主義に対する戦いなどと言っていた。しかし、当時は実は、誰も彼もが全体主義の世の中だったのである。(2002年3月24日)




 金の鯱(しゃちほこ)が盗まれたというニュースに、久しぶりに大笑いした。岐阜県の墨俣城の中に展示してあったものが盗まれたというのだ。
 
 いったいそんなものを盗んでどうするのだろう。そこにしかないもの、特別なものなのだから、誰も買ってくれない。鋳つぶす手段があったとしても、金は石である。石を持っていってもスーパーでものは買えないのだ。金をカネに代えるには特別な登録業者に行く必要がある。そんなことをすれば足がついてしまう。

 結局、家の中に飾っておくしかない。しかも誰にも自慢できないのだ。

 それにそもそも純金の鯱なんか作ってどうするのか。城の飾りに使うものなら、金メッキでいいじゃないか。純金にしたからどうだというのか。無駄な出費もいいところだ。

 江戸時代に純金で作った鯱があってそれを盗んだ大泥棒がいたという話があるが、そんなものはみんな話の中だけのものだ。

 ところがそれを真に受けて、純金で鯱を作った人がいる。それを盗んだ人がいる。平成の時代とはなんと豊かな時代だろう。

 純金の鯱を作る馬鹿、それを盗む馬鹿である。(2002年3月23日)




 北朝鮮が有本恵子さんを拉致誘拐した問題で、朝鮮赤十字会が調査を継続すると発表したという。これをもって日朝関係が対話へ動き出す可能性が出てきたというのが共同通信の記者の見方だ。
 
 しかし、わたしの見方は全く違う。北朝鮮はこの事件を交渉のカードとして使おうと企んでいる。つまり、これを交換条件として北朝鮮は日本から何かせしめようとしているのだ。そうとしか、わたしには見えないし、これまでの北朝鮮のやり方がまさにそうだった。

 だから、このような問題で北朝鮮と話し合いをするということは、犯罪者やテロリストと取り引きするということになる。テロリストと取り引きしてはならないのは、あらゆる場合の鉄則である。

 ブッシュ大統領が北朝鮮を「悪の枢軸」のなかに含めたことは、故なきことではない。相手は犯罪者であることを忘れるなと言っているのだ。
 
 犯罪者には相手をあざむく場合を除いては、何の交換条件も提示してはならない。「有本さんをすぐに日本に返還せよ、さもなければ・・・」と命令すればよいのである。

 それが犯罪者に対してとるべき態度である。もちろん、交渉のために米を送るなどもってのほかであることは言うまでもない。(2002年3月23日)




 困った裁判官もいたものだ。和歌山カレー事件の裁判官が、報道機関の取材結果を、もう報道されたものだから報道の自由は侵さないと言って、証拠採用したのだ。

 報道の自由は取材の自由無くして成り立たない。しかし、裁判所がこんなことをするなら、今後、報道機関の取材に応じる人が少なくなることは明らかだ。へたに協力してあとでその内容を証拠にされてはたまらないからである。

 しかし、報道機関も自業自得である。報道は取材源を守る義務があるのに、この取材では、取材相手が犯人であることを暴いてやろうと取材に行っているからだ。それを証拠採用されたのだから、実は本望ではないか。
 
 しかし、個人情報保護法が出来るとこんなさわぎも無くなるだろう。この法律では、自己に不利になるような内容の報道を止めさせられるそうだから。
 
 となると、まわりまわって、今度は検事とそれに協力したがる裁判官が困ることになる。証拠に出来るような報道自体が無くなるのだから。(2002年3月22日)




 「葉公(しょうこう)、孔子に語りて曰わく、吾が党に直躬(ちょくきゅう)という者あり。その父、羊を攘(ぬす)みて。子これを証言す。孔子の曰わく、吾が党の直(なお)き者は是れに異なり。父は子のために隠し、子は父のために隠す。直きことその内にあり」
 
 これはわたしが高校の漢文の時間に習った論語の一説である。その時は、そうなのかと感心したものだ。悪事は悪事として扱うのが正しいと思っていたわたしには、新鮮だった。

 子は親に育ててもらった恩があるということだろう。しかし、「親は勝手に子供を生んだのだから育てるのは当然だ。親に恩義など感じる必要はない」というのが今の一般的な考え方ではないだろうか。

 ところで、ケニー野村氏が母親を警察に売った動機は何なのだろう。少なくとも母親の方は息子を信用していた。だからこそ、口裏合わせをたのんだのだろう。ところが、息子はそれを録音して警察に提出した。

 そこにあったのが正義感なのか憎しみなのかは分からない。しかし、息子が母親の信頼を裏切ったことだけは確かだ。

 氏は今のマスコミにもてはやされることはあっても、天国の孔子さまのお誉めにはあずかれまい。(2002年3月20日)




 プロ野球阪神のオープン戦の成績がよい。それはよいとして、星野監督から前任者の監督に対する批判めいた言動が出てくるのはどうしたことだろう。
 
 前任者の野村監督は自分の前任者に対する批判は決してしなかった。彼の任期中も阪神がペナントレースで首位に立つこともあったが、野村監督は巨人の金権野球と長島監督を批判することはあっても、決して前任者の吉田監督を批判するようなことはなかった。

 ところが、今見ていると、たかがオープン戦の成績がよいだけで、星野監督の言葉の端々から野村野球に対する批判が飛び出してくる。「おれがやればこれだけ違う」と言わんばかりなのだ。

 さらに、彼が今も巨人に在籍する長島氏からの応援を受けたりしているのもおかしなことだ。星野氏は自分の敵が誰なのか分かっていないのではないか。

 実際のペナントレースがどうなるかは知らないが、星野監督は、このような道徳的に見てとうてい誉められない言動によって、すでに自分の勝利の価値を引き下げてしまったことは間違いない。

 今回の阪神からの監督要請は、本来断るべきものであった。引き受ければ先輩にあたる前任者の批判になる恐れがあったからである。それに気づかないほど能天気な星野氏がこのような言動に出るのは不思議なことではないのかもしれない。(2002年3月19日)




 高校野球の全国大会は変だ。開会式から試合をするまでに一週間も待つチームがある。球場を三つ使えば、一回戦を二日で済ますことが出来るのに、それをせずに、選手たちはまるで舞台の出を待つ役者のように順番を待つのである。
 
 サッカーの全国大会は複数の会場を使うから、そんなことはない。もしこれを国立競技場だけでやれば高校野球の全国大会と同じになる。これがどんなに変なことか分かるだろう。

 最初は高校野球も複数の球場に分かれて短期日で行われていた。それを甲子園に限定したものだから甲子園神話などというものが出来てしまったのだ。
 
 その結果、高校野球の全国大会は、全試合がテレビ中継されるという異常なことが行われ、青少年の育成とは名ばかりの見せ物となってしまったのである。
 
 高野連はこの過ちを正そうともせず、今年もまた高校生をスターに祭り上げる一大ショーを開催しようとしている。いつになったら自分たちの過ちに気づくのだろうか。(2002年3月18日)




 鈴木宗男議員が自民党を離党した。ということは、鈴木議員と各政党との関係は全部同じになったかと言うと、そうではないらしい。

 鈴木議員は無所属議員になったにもかかわらず、自民党などの与党は彼を自分たち与党の一員として扱っている。なぜなら、与党は彼に対する辞任勧告決議案を採決しようとしないからある。

 しかしこの事実は、国民が小泉政権を考えるときに決定的な要素となりうる。

 なぜなら、与党と小泉政権は、国会の採決の時に彼の票をあてにしているということになるからである。国民がこのような汚れた票をあてにする小泉政権を支持出来ないのは当然である。

 もし小泉首相にはそんな気持ちはないと言うのであれば、首相は野党といっしょになって鈴木氏に辞職を迫り、鈴木氏が自分の仲間でないことを示さなければならない。

 鈴木氏に議員辞職を勧告しないで、与党の一員として扱う限りは、鈴木氏の疑惑は与党の疑惑であり、ひいては小泉政権の疑惑であり続けるのである。(2002年3月17日)




 有力な日本の野球選手がアメリカの大リーグに移り、わたしの野球に対する興味も大リーグに移ってしまった。その上に、阪神の野村監督の後釜に中日の星野監督がついて、わたしのプロ野球に対する興味はきれいさっぱり消えてしまった。
 
 それとともに、高校野球に対する興味も消えてしまった。高校野球の春の全国大会が始まると言うが、全く興味が湧いてこない。これも別段不思議なことではない

 高校野球人気は結局はプロ野球人気の延長なのである。高校野球の価値は明日のプロ野球選手の活躍の場としての価値なのである。そのプロ野球が大リーグの二軍と化した今、高校野球は大リーグの三軍となってしまった。つまり、かつての都市対抗野球の地位に沈んでしまったのである。

 マスコミは、野球は飯の種であるから盛り上げようと報道する。しかし、それらが作られたものであることはすぐに明らかになるだろう。

 結局、日本のプロ野球は、変われないだめな日本の典型の一つでしかなくなっているのが現実なのである。(2002年3月17日)




 「東京大空襲・戦災資料センター」が開館するという。
 
 現在、民間人に対する空爆は非難の的だ。「アフガニスタンに対する空襲は間違っている。民間人が犠牲になるからだ」と。ならば当然、東京大空襲も間違いだったということになる。

 こんなことを言えば、現在の価値観を過去に当てはめるのは間違いだと言われそうである。しかしこの意見はまさに戦前戦中の日本に対する批判的な考え方を自虐史観と言って退ける人たちの主張ではなかったか。

 「新しい歴史教科書」は、過去のことを過去の価値観で判断しようとした。しかしそれにに対して、毎日新聞に出た書評は、過去のことを現在の価値観で評価するのが歴史だと言うのだ。

 要するに、アメリカのしたことは過去の価値観で、日本のしたことは現在の価値観で評価するのが正しいことであるらしい。

 これがインチキであることは、明らかだろう。

 あるタレントがゴルフでボールを動かしているのを見つけられて、こう言ったそうだ。「そやかて、勝ちたいもん」

 東京大空襲では日本を批判し、アフガニスタンの空襲ではアメリカを批判する人たちは正直に言えばよい。「勝ちたいから」と。(2002年3月10日)




 今日の毎日新聞に城山三郎が、個人情報保護法案の恐ろしさについて書いている。

 この法案によれば「A氏のことを書こうとする場合、まずA氏の了解を得、A氏のことを知るB氏やC氏から取材するのに当たっても、先にA氏の了解をとらねばならず、さらに雑誌などに発表する前に、原稿をA氏に「検閲」してもらって、了解をとらねばならない。

 「このため、悪人について、その悪い点を書くことはできず、もし二重三重の「検閲」をパスしなければ、主務大臣が出版社や書き手である国民に、改善を勧告・命令することができ、応じない場合は6月以下の懲役または30万円以下の罰金が科せられる

「─という自由主義社会のどこにもない悪法であり(ママ)、悪人が善人面して大いばりできる社会になり、ファシズムや全体主義が猛威をふるった戦前、いや戦前以上にひどい暗黒社会へと一直線に突き落とされ、とり返しのつかぬことになる」のだそうだ。
 
 しかし、この文章にはあまり説得力がない。
 
 まず第一に、人のことを好き勝手に書いて金もうけをする人には困った法律だということは分かる。しかし、そんなことをするのがよくないのは当然で、それ取り締まるのは良いことではないのか。
 
 次に、ここで言われている「悪人」は誰が決めるのか。マスコミにはこれを決める権限があってそれを奪われるというのだろうか。容疑者が犯罪者であるかどうかは裁判によって決まる。その前に、誰かを悪人と決めつける権限がほかの誰かにあると考える方がおかしいのではないのか。
 
 第三に、これが仮に悪法だとして、現代の日本はそのために暗黒社会になってしまうような非民主主義の国なのだろうか。現代の日本国民は悪法を訂正することができないようなだめな国民なのだろうか。
 
 最後に、「悪人が善人面して大いばりできる社会」になると言うが、いま現在城山三郎が悪人でもなく、善人面して大いばりもしていないと、どうして言えるのだろうか。
 
 仮に彼の書いたものによって被害を受けた人がいるなら、その人にとって城山三郎はまさに悪人で善人面して大いばりしていることになる。そして、もしそうなら、その人にとっては、この法案は良い法案だということになるが、それでも悪法なのだろうか。(2002年3月10日)




 日本人はすぐに集団ヒステリーにかかる。鈴木宗男が悪人だと思い始めると、何もかもが悪いと言い始める。
 
 鈴木宗男が何か要求したり変えさせたりしたことは、いまや「強要」とか「どう喝」とかいった、恐ろしい言葉を使って報道されている。

 彼が大きな声で何か要求したら、みんな犯罪となるかのようである。

 一般人にとっては、行政寄りの給料泥棒みたいな役に立たない議員ばかりの中で、珍しく行政と喧嘩のできる頼りになる人だと思ったら、それが全部犯罪扱いされている。ある人たちにとっては、住民の声がこれほどすぐに実現する議員はいないのではいはずなのだが。

 もちろん、一方にとって役に立つということは、他方にとっては損になるということである。ところがいまや、その他方からの見方がすべてを覆い隠している。

 三月十一日に鈴木宗男の証人喚問が行われる。彼がいかにして反論するか、すべてを一方的な見方だけで見ることは間違いであることを、彼はどうやって示すことができるか、見物である。(2002年3月9日)




 原爆慰霊碑にペンキがかけられた事件で、関係団体が「被爆者を冒とくするもの」との声明を出したが、この犯人が冒涜したのは被爆者ではない。それは、この慰霊碑を作った人たちであり、おそらくはこの声明を出した団体の人たちである。
 
 この慰霊碑には「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という碑文が刻まれている。これが原爆慰霊碑をめぐって次々と事件が起きる原因であることに間違いはない。
 
 この文章には政治的な主張が含まれているからである。つまり、この文章には、「悪いのは原爆を落としたアメリカではなく、落とされた日本である」という主張が込められている。

 しかし、それが戦後のしかも一部の人たちの政治的主張でしかないことは誰でも知っている。そして、それが戦時中に被爆して命を落とした人たちの主張でないことも明らかである。
 
 このような事件をなくすには、誰もが素直に慰霊できるような文章にする以外にないだろう。例えば、もしこの碑文が単に「安らかに眠ってください」だけなら、このようなことが二度と起きないことは確実である。(2002年3月6日)




 徳島県知事が収賄で逮捕されたが、その報道内容を見て驚いた。検察庁が現職知事を東京に呼びつけて、否認のまま逮捕したのである。検察とはそんなに偉いのか。まるで江戸時代の大目付もかくやという、強権ぶりだ。

 しかし、いまは民主主義の世の中である。有権者の意志が何よりも勝るはずだ。選挙で選ばれてもいない検察庁の官僚にそれを無視する権利があるのだろうか。

 知事が逮捕されれば、辞任しなければならなくなる。そうなれば、選挙だ。一度選挙をするのにどれだけの金がかかるか。今回収賄したと言われている八百万円どころですまないことは明らかである。

 七九年に現職で逮捕された宮崎県知事の場合は無罪になっている。県民は検察のために無駄な選挙をさせられたのである。宮崎県は選挙費用の賠償を検察に求めるべきではないか。

 私は、国会議員と同様に知事にも不逮捕特権を与えるべきだと思う。知事を辞めさせるのはあくまで検察ではなく、選挙民でなければならいからだ。(2002年3月5日)




 「武富士放火殺人」という言葉が今日のマスコミをにぎわしている。日本にはこのように事件の名前を統一する習慣がある。容疑者が捕まったらしいが、事件の全容は分かっていないし、物証もない。ところがもうこの容疑者があの事件の責任を全部負わされてしまったらしい。
 
 「殺人」という以上は殺意が無ければならないが、あの犯人は金が欲しかっただけで、脅す道具としてガソリンを持っていっただけである。ところが支店長は すんなり金を出さなかった。どうせ保険に入っているくせにである。支店長は金を出すぐらいなら、火をつけられてもかまわないと思ったのである。
 
 死者が五人も出たことについては、建物の防火対策にも原因がある。
 
 しかし、「武富士放火殺人」という言葉には、そんなことには全く無視して、あらゆる責任を犯人におっかぶせようとするものだ。

 しかも、今回の逮捕は「任意同行」による強制的取り調べによって自己に不利益な供述を強要した結果である。これが憲法に違反していることは言うまでもない。(2002年3月4日)




 テレビ時代劇の「御家人斬九郎」が終わってしまった。今回のシリーズでは、「母の夢」という回が秀逸だった。ストーリーはこうである。
 
 斬九郎が良家のお嬢さんとの見合いに呼ばれる。行くと候補者があと二人いて順番待ちをさせられる。一人が終わって戻ってきたので外を見ると、相手のお嬢様の「よしの様」は退屈そうにあくびをしながら手まりをもてあそんでいる。斬九郎の番が来たので部屋に入って名前を名乗ったが相手は返事もしない。そこで切れた斬九郎はよしのに対して無礼をとがめ、見合いを断って帰ってきてしまう。怒ったよしのは持っていた手まりを斬九郎に投げつける。しかし、結果、よしのに気に入られたのは斬九郎だった。

 三人目の候補者の母親は、斬九郎の母親麻佐女と幼なじみで、自分の息子の出世のためにこの縁談を是が非でも成功させたかった。そこで彼女は斬九郎にこの縁談を断ってくれと言いに麻佐女のもとに乗り込んでくる。息子はこの母親の言いなりで、斬九郎と果たし合いをすることになるが、逆に斬九郎にマザコンぶりをしかられる。しかし、斬九郎は、自分と同じく母親のプレッシャーに悩むこの男に同情して、男の相談に乗ってやるようになる。
 
 その二人の会話の中で、男の藩の有力者が陰謀をたくらんでおり、よしのの父親が、藩の目付役として不正摘発に動いていることが明かされる。

 とうとう、この父親が墓参りの途中をおそわれ、よしのが誘拐されるという事態になる。斬九郎は父親を助けに走り、男はよしのがとらわれている屋敷に飛び込んでよしのを探す。そして、とある部屋を開けると屏風の陰から、よしのの手まりが転がり出る。男は、縄を切って縛られたよしのを救い出すと、今度はよしのを背中に守りながら剣を手に悪人たちと大立ち回り。娘の励ましの声が飛ぶが、次の瞬間男の胸から血潮がさっと飛ぶ。しかし、軽傷だった。そこへ同心たちが飛び込んできて悪人たちはご用となる。

 エピローグで斬九郎の仲間たちが飯屋に集まり、縁談がだめになったことが話題になる。そこへ、例の男が事件の解決と自分の出世の礼を言いにやってくる。すると男の胸元からよしのの手まりが転がり落ちて鈴の音を立てる。男は恥ずかしそうに手まりを拾い上げる。彼はよしのの心を射止めたのだ。

 このドラマの中で、この手まりが重要な役割をしていた。手まりは娘の心なのだ。
 
 ところで、これと似たようなシーンを描いた古代ローマの詩人カトゥルスの詩がある。それをここに引用しよう。
 
 恋人から内緒でもらった一つの林檎が乙女の純潔な胸からころがり出た。
 彼女は自分のふっくらとした下着のなかに隠しておいたことを忘れていた。
 母親の近づくのを見て立ちあがる拍子に、かわいそうに彼女はそれを足もとに落したのだ。
 乙女は自分の顔がたちまち赤らむのを感じる。
 (カトゥルス65の19 モンテーニュ「随想録 下」松浪信三郎訳 河出書房新社刊 268頁より)
 
 このドラマの作者はこの詩を知っていたのだろうか。(2002年3月3日)




 私の住む町にも広報がある。その中に、各自治会による「環境保全活動」の取り組みが紹介されている。しかしそこに書かれていることは、要するにみんなで掃除をしましたという報告ばかりである。

 しかし、掃除なら昔から誰もがやっていることで、なにも「環境保全」などと言う必要はない。この町の人たちは、ただ役場に言われるままに町内を掃除して、それで「環境保全」に取り組んでいますと言っているのである。

 そもそも環境庁は何のために作られたか。「環境」が問題になったのは何故なのか。それは公害問題だろう。

 掃除や清掃活動は昔から誰でもやっていることだ。その過程で公害が起きて問題となったから、環境が意識とされるようになったのであろう。

 ではその公害とは何か。それは大気汚染であり騒音であろう。掃除をするのは昔からのことだ。それをどうやったら公害を起こさずにやるか。「環境保全」を云々するとはそういうことであるはずだ。

 ところが、この町の人たちは環境保全をするからご協力をと、拡声器で朝から大きな音を町中に流すのである。刈った草を燃やしてあたりを煙りだらけにするのである。

 これでは「環境問題」など何もわかっていないと言われても仕方がないだろう。(2002年3月3日)




 フレッシュネス・バーガーというハンバーガー屋に初めて入った。隣の町の百貨店の一階に新しくできた店で、いつも入る喫茶店が満員だったので、一度入ってみようというわけだ。
 
 欧米式に店の外にもテーブルがあり、店内はマックと違って、木目調の装飾で腰板が張ってあり、まるで映画の「ユー・ガット・メール」に出てくるような大人の雰囲気である。若い女性たちに人気がありそうだ。
 
 注文をカウンターでして、テーブルで待っていると、すぐにコーヒーが来て、しばらくするとハンバーガーが来た。袋の中を見ると、このハンバーガーはトマ トが一切れはさまっていて非常に分厚い。しかも、できたてで熱い。私は、やむなく読んでいた本をテーブルに置いて、両手でハンバーガーの袋を持ってかぶりつくことにした。

 しかし、うまく食べないとハンバーガーのソースと肉がパンからずれてしまう。紙の袋を食べないように気をつける必要もある。これは非常に食べにくい。
 
 ふと前のテーブルを見ると、私の前に注文した若い女性もハンバーガーを食べている。彼女は足を組んで膝の上に雑誌を広げてそれを読みながら、左手だけでハンバーガーを持って上手に食べている。なぜあんなことができるのか不思議だ。彼女のハンバーガーは私のと違うのだろうか。あれではソースが紙の袋に出てしまうではないか。

 しかし、彼女が食べ終えてテーブルの上に戻した紙の袋はほとんど汚れていない。私はどうかというと、結局肉の一部とソースがべっとりと袋にこぼれてしまった。

 私のあとから、黒いブーツに黒いセーター黒いジーンズという黒ずくめの若い女性が入ってきた。彼女は注文したハンバーガーが来てもすぐに食べない。しばらくして少しさめてから食べるのである。彼女もハンバーガーを左手に持って、膝の上に広げた雑誌を読みながら食べ始めた。どうやら、ハンバーガーを食べるスタイルも若い女性の間では決まっているようだ。

 ところで私はというと、袋の底にこぼれた肉とソースを何とかしなければいけない。私はコーヒーも注文していた。そこで私が、コーヒースプーンを使って、袋の中をきれいにすくって食べたのは言うまでもない。もちろん、前のテーブルにいる女性たちは誰もそんなことをしなかったが、私は非常においしくいただいた。
 
 しかし、次は私も片手で食べようと思う。(2002年3月2日)




 加古川線の電化工事が始まるというニュースを新聞で見た。いったい誰のための、何のための工事だろう。電化すれば速くなるというが、わずか五分のことだ。そのために60億円もかけるというのだから驚く。
 
 今ディーゼル機関車で細々とやっているから維持できている。それを経費がよけいにかかる電気にして、果たして維持できるのか。
 
 加古川線には現在、昼間の時間帯で一時間に二本走っている。電化して利用者が増えればそれを四本にできるというのだ。
 
 しかし、私の近くの山陽本線の駅から姫路まで行ける電車は昼間の時間で加古川線と同じ一時間二本である。本線でずっと二本なのに、支線で四本に増えるわけがないのは明らかだ。
 
 すでに播但線が電化したが、経費がかかるためにディーゼル時代より本数が減ったという。加古川線も同じ運命をたどると考えるのが普通だろう。
 
 結局は、例によってこれも地域の土建屋に仕事をやるための公共工事なのだ。
 
 建設費60億のうち、15億は沿線の企業や住民の寄付でまかなうという。しかし電化して本数が減るとさらに利用者数が減るという悪循環に入ることは必定だ。その時、利用者数を維持するために、またもや住民や企業にしわ寄せが回ってきて、乗りもしないが定期券を買わされることにならなければよいが。 (2002年3月2日)




 兵庫県の姫路はお城で有名だ。その城があるのが姫山で、その斜め後ろに男山というのがある。ここは姫路城を眺めるビュースポットとして有名だ。私も先日この山に登ったが、そのためには全部で200段ほどの階段を上る必要がある。
 
 眺めを堪能して山を降りてきた私は、どこかで一休みしようと近くにある姫路文学館に入ろうとした。ところが建物の入り口がよくわからない。おまけに建物は二つあってどちらに行けばよいのかと迷いながら、水の流れる小川沿いに続く曲がりくねった坂道を50メートルほどまた登るしかなかった。そこで右後ろを振り向くと、そこにやっと入り口らしきものがある。しかし天井が低くてとても来場者を歓迎している雰囲気ではない。おまけに有料ときた。
 
 とても気楽に入れるところではないので、私はそのままあきらめて、疲れた足を引きずりながら、駅に戻ることにした。
 
 少し考えると、この文学館の作りは姫路城をイメージしたものであることがわかる。小川はお堀であり、通路も入り口も敵を容易に本丸に近寄せない城の作りをまねたものだ。同時にあれは、建築家の安藤忠雄の設計ではないかとピンときた。調べてみるとやっぱりそうなのだ。
 
 彼は自分の発想を大切にして建築する。テレビで見たが、例えば、仏様と言えば蓮の花のイメージだ。そこで、お寺を作るのに池を作って本殿を池の下にしてしまった。おかげで、お寺だから塔があると思って来た人には永久に見つけられない寺になってしまった。
 
 あるいは、個人の家の設計を頼まれて、ふつうの家でも外気と親しむべきだと考えた氏は、家を二つに分けて、空の下を行き来するようにした。おかげで自宅の中を移動するのに、雨の日は傘を差さねばならない家になってしまった。

 その安藤忠雄がまた海外で賞をもらった。日本人は海外の評価に弱いから、彼はとうとう東大の教授にまでのし上がった。しかし公共建築物が入りにくくてどうするのか。(2002年3月2日)




 英会話学校のNOVAがまた変わったコマーシャルをやっている。
 
 フランス語をしゃべる女性の声が聞こえてきて、次に日本人女性が映り、「日本人」と文字がでる。次に、日本語をしゃべる女性の声が聞こえてきて、顔が映り「アメリカ人」と文字がでる・・・。という具合だ。顔と言葉は一致しないと言いたいのだ。
 
 そのほかにも、日本語をしゃべる男性の声のあとでイタリア人男性が映り、イタリア語をしゃべる女性の声のあとで日本人女性が映り「関西人」と出る。
 
 最後に宇宙人が出てきて、関西弁で「異文化コミュニケーションええのんちゃうかな」と言って終わる。

 何度も流れるのでよく見ていると、実にインチキ臭いものだということが分かってくる。そもそも関西人は日本人だし、あの宇宙人も日本人だ。
 
 さらに、よく見るとイタリヤ人男性と日本人男性と最後の宇宙人は同じ人間が演じているらしいのだ。
 
 となると異文化コミュニケーションどころか、これは一人芝居の一人コミュニケーションだということになる。うそ臭いことはなはだしい。(2002年3月2日)




 ここ兵庫県播磨町は国の方針に反して市町村の合併を推進しないそうである。その理由が振るっている。自治体が大きくなると住民の声が行政に届きにくくなるからだと言うのだ。しかし、これは住民が言うならともかく、役場が言うことではない。そんなことも分からないのがこの町の行政の実体だ。

 わたしは自治体が合併を渋るのは、役人の保身のためだと思っている。自治体が減れば首長の数の役人の数も議員の数も当然減ることになるからだ。

 また、今のままなら予算を地元の業者のために好き勝手に使えるが、合併するとそれが出来なくなる。談合情報が頻発する町のことだから、合併の過程で行政の内情がオープンになると困ることがあるのではないかという疑いもある。
 
 住民にとって自治体が小さくて良いことは何もない。

 福祉がその筆頭だろう。例えば、親を引き取って面倒をみるにも、姫路市では住民票がない老人でもサービスを受けられるのに、この町ではサービスが受けられない。

 この町にもプールがあるが、その利用料金の高いことは東京都の区営プールの比ではない。

 また、関西電力のインターネットサービスは、加古川市や明石市では利用できるが、播磨町はサービスの対象外になっていて受けられないということもある。
 
 そして何より、町が小さいと役場の役人が住民に近いために、住民はへたなことを言って役場に睨まれると容易に村八分される心配があって、言いたいことを言えないという、役場の主張とは正反対のことがあるのだ。
 
 合併を渋っている自治体には気を付けよう。きっと何かよからぬ魂胆があると思って間違いはない。(2002年3月1日)




 「デッドマン・ウォーキング」は「死刑とは何か」をあらゆる角度から眺める映画である。
 
 死刑とは正義の成就である。死刑とは遺族による復讐である。死刑とは犯罪の抑止である。死刑とは貧乏人のための刑である。死刑とは政治的プロパガンダである。死刑とは殺人を刑務官の仕事にすることである。死刑とは罪の償いである。死刑とは無実の人間を殺すかもしれないことである。死刑とは囚人を家族から引き裂くことである。死刑とは罪人を真人間に変えることである。死刑とは何本も注射を打つことである。
 
 死刑を廃止すべき理由は単純である「殺すのはいけないと言いながら人を殺すのは納得できません」人を一人殺すのがこれだけ大変な意味を持っているということをまざまざと見せてくれる名画だ。
 
 死刑とはもう一度キリストを殺すことである。(2002年2月25日)




 ジャック・ロゲIOC委員長とチンクアンタISU会長が二人してオリンピックをぶちこわしにしているようだ。
 
 ロゲ委員長はフィギュアスケートの判定に介入するというこれまでIOC委員長が誰もやらなかった競技結果の変更をやってしまった。いったんこんなことが行われると、あらゆる競技の審判の公正さが疑われ収拾がつかなくなってくる。
 
 チンクアンタ会長は強引にフィギュアスケートの判定に不正があったことにして、その責任をフランスの女性審判に負わせてしまったもようだ。その後の、この審判の発言で実は競技前からカナダペアを勝たせるようにISUから圧力を受けていたことが明らかになっている。これでは、もともと不正を仕組んでいたのはISU自身だということになる。

 その後もショートラック競技、スキー競技と次々に審判の不公平さが指摘されるようになり、とうとうロシアがボイコットを言い出すまでになった。もしそうなれば、ロゲ委員長は自分がオリンピックを手がけた途端にオリンピックが崩壊するという不名誉を背負うことになるだろう。(2002年2月22日)




 御家人斬九郎がなかなか面白い。話はシリアスながら、コミカル仕立てで、大いに笑わせる。配役もぴったりだ。

 母親役の岸田今日子にはいつも大笑いだ。

 渡部謙と若村麻由美という美男美女が主役で、男っぷり、女っぷりとも絶品。

 なぜか、この作品では出てくる俳優がみんな名演技をする。

 若村がお休みのときには、その代わりに蜷川有紀が女盗賊役で出たりする。それがまたべっぴんなのだ。

 美保純が出たときの演技には思わずほろりとさせられた。

 このシリーズは予告なしに、思い出したように始まり、断りなしに休むから、テレビ欄をよく見ていないといけない。去年の年末にまた始まったかと思うと、最近まで勝手にお休みだった。

 おととしにはじめて見てから、録画を撮って見落とさないようにしている。夜中に一杯飲みながら、見るのには絶好だ。

 「御家人斬九朗」に何かの賞をやれないものかと思う。それぐらい、いつも秀作揃いだ。「水戸黄門」とか「暴れん坊将軍」などとは、レベルが違う。大人向きの時代劇だ。

 ところで、若村はアリーマイラブの吹き替えで、舌足らずぶりを露呈して、やっぱり顔が命の女優さんだと思う。蔦吉の芸者役がはまり役だ。

 ところが、この女優さん、対談番組なんかに出ているのを見ると、びっくりするくらいありきたりの人なのだ。素顔は二つの眉毛が真ん中でくっつきそうで、美人でもない。顔の出る役になってはじめて魅力の出る人なのだろう。その意味で本当のプロの役者さんだ。(2002年2月20日)




 オリンピックのショートトラック競技で、ある選手が失格となったことを不服として監督が正式に抗議するという。
 
 その選手は他の選手の妨害をしたから失格にされたが、実際には妨害はしていないから、失格にしたのは間違いだと言うのである。ビデオで確認したら、妨害の事実がないことが明らかだともいう。
 
 しかし、もし勝っていたとしても、他の選手が倒れたための勝ちで実力による勝ちではない。「棚ぼたの勝利」を奪われたからと言って、大騒ぎするのはみっともないと思う。
 
 選手自身はもう気にしていないと言っているのに、監督が大騒ぎするのもおかしなことだ。
 
 また、ビデオ判定にすべきだなどというのは、先に言うべきことで、自分の側に不利な判定が出てから言い出すのでは、説得力がない。
 
 人間が判断する以上は、間違いがあるのは仕方がない。むしろ、間違った判定にも黙って従うのが、スポーツマンシップではないのか。少なくとも、日本人くらいはそういう潔さを見せて欲しいと思う。(2002年2月18日)




 来日したブッシュ大統領が明治神宮に参拝したが、小泉首相がいっしょに行くと公式参拝になるとして参拝しなかったという。
 
 それをとらえて、二人で行って違憲なら一人で行っても違憲じゃないか。ならば靖国神社の私的参拝も違憲だという人がいるが、逆ではないかとわたしは思う。
 
 アメリカ大統領が明治神宮に公式参拝しても、政教分離に反しない。ということは、日本の首相が公式参拝しても政教分離には反しないということを証明しているからである。
 
 元々、政教分離の考え方はアメリカの憲法から取り入れたものである。アメリカでよいものが日本で悪かろうはずがない。政教分離と公式参拝を結びつけて考えるのは、日本だけなのだ。
 
 公式参拝を違憲だというのは、過去の日本の歴史を現代に短絡的に結びつけて考える人たちだけである。
 
 要するに参拝するのが神社だから文句が出るのであろう。ならば、首相は神社にも寺院にも教会にも公式参拝すればよい。それでも文句を言うなら、まさにいちゃもんでしかない。(2002年2月18日)




 この国の経済が回復するかどうか。それはひとえにこの国の国民が、経済を回復させたいかどうかにかかっている。消費が伸びないから不況なら、消費を伸ばすしかない。消費をするかしないかは国民次第である。政府に期待する問題ではない。
 
 国民に金がないかといえば、そんなことはない。銀行は金で溢れている。貯金だらけだ。貯金してばかりで使わないから不況なのだ。国民がこの国を破産に追い込みたければ、このまま貯金を続ければよい。
 
 しかし、国が破産すれば、貯金があっても無意味である。それとも、アルゼンチンの愚かな国民をまねて、国がどうなっても知らない、自分さえよければと、今のうちに円をドルに両替しておくか。そんなことをしてもだめなことは、これまたアルゼンチンの政府が教えてくれた。
 
 さあ、みんな金を使おう。老後の心配など止めることだ。いま金を使って、国を立て直さなければ老後も何もない。いまこそ、消費は美徳なのだ。(2002年2月12日)




 田中前外務大臣の仕事を評価する国民が七割もいるということが、NHKの最新の世論調査で分かった。すでに、田中氏の解任理由がマスコミを通じて明らかになっているのにも関わらず、この有り様である。
 
 まったく、この国の国民は馬鹿の集まりだというしかない。これでは、改革は出来ない。この国の先行きは真っ暗だ。物事の善悪がよく分からない人間の集まりなのだから。

 この国の国民は好き嫌いでしか物事を判断できない。これでは、政府は情報を国民に開示してはいけない。知らしむべからず、寄らしむべしでいかなければいけない。教えても、彼らはちゃんとした判断できないのだ。情緒的判断しかできないのだ。

 消費税に対する対応からしてそうだ。消費税が嫌いだからといってものを買わないのだ。ものを買うのは何も自分だけのためではない。消費しないと国の経済が成り立たなくなるといわれても買わない。自分さえよければよいのだ。しかし、国が破産すれば、自分の財産もゼロになることが分からないのだ。馬鹿は死ななきゃ直らない。この国もつぶれるしかないのだろう。(2002年2月12日)




 教師に採用されたからといってすぐに教師になれるわけではない。生徒の信頼を勝ち取ってはじめて教師になれるのである。それと同じように大臣に就任したからといってすぐに大臣になれるわけではない。周囲の信頼を勝ち取ってはじめて大臣と言える。
 
 それをはっきり証明したのが田中真紀子議員だった。彼女は最後まで肩書きだけの大臣だった。
 
 ところがそんな大臣に多くの国民の支持が集まった。

 知事に当選しただけでは知事にはなれないことは、すでに青島幸夫氏が証明している。彼もまた人気だけの政治家だった。何度も懲りずに同じことを繰り返すのが大衆というものか。多くの評論家もこの尻馬に乗って、真紀子擁護論を繰り広げているようだ。

 しかし、約束を守らない人間、自分の落ち度を人のせいにする人間、自分の思うようにならない自分の勤務先を伏魔殿と呼び、改革をするといって人の首切りに奔走する人間。これはまさに独裁者の行状だ。
 
 しかし、スターリンも生前はその風貌と物腰で国民に人気があった。この国の国民はいま独裁者を求めているのだろうか。(2002年2月4日)




 地方自治体のごみ収集で、分別収集がすすんでいる。燃えるごみ、燃えないごみ、プラスチックごみ、粗大ごみ、これらを分けて収集する。これが環境行政のすすんだ形だということらしい。わたしの住む町でも同様である。

 で、どうなったか。ゴミ収集車が週に四回も来るようになった。つまり、ゴミ収集車が、騒音を立て、排気ガスを撒き散らし、くさいにおいをさせながら、町中を平日のほぼ毎日走り回るようになったのである。どこの市町村でもそんなものらしい。

 これが環境行政の実態なのだ。環境美化のためにと言いながら、その実、環境を破壊して回ることになってしまう。
 
 開発型行政の根本の考え方が何も変わっていないからか、環境美化といっても金を使うことしか思いつかない。プラスチック処理の高価な機械を買って、プラスチックごみだけ別に集めて回る。それで逆に住環境が破壊されることにまでは思い至らない。

 ごみを集めてまわる前に、ごみを減らす工夫をやっていかないと、何をどうしようが、結局行政は環境を悪化させるばかりなのである。(2002年1月14日)




 雪印乳業が業績の低迷を理由にまた一つ工場を閉鎖するという。
 
 雪印が起こした集団食中毒事件は一年半も前の夏のことである。しかし、雪印に対する消費者の不信感はいまだに消えることはない。その理由は、事件そのものよりも、むしろその後の雪印の姿勢にあるとわたしは思っている。

 雪印はその後、有名な女優をコマーシャルに採用したりして莫大な金を使っておきながら、被害者に対してろくな保証せず、裁判沙汰になっている。

 また、牛乳のパッケージのデザインを変えてなるべく雪印の名前が目立たないようにもしている。

 このような雪印の姿勢はむしろ姑息で意地汚いものと消費者に受け取られ、製品の安全性に対する不信感以上に、この会社に対する不信感を人々の心に産み出しているのだ。 

 雪印が業績を回復するためにまずすべきことは、目先の消費拡大策ではなく、被害者に対する謝罪と充分な保証であるはずだ。それが終わるまでは、雪印の製品を買いたくないと思っている人はわたしだけではあるまい。(2002年1月7日)

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