喜劇の典型を完成したモリエール



 モリエール ( Moliere 1622-1673 ) といえば17世紀のフランスの喜劇作家だが、その喜劇の伝統をじつは日本の吉本新喜劇がうけついでいる。モリエールの『スカパンの悪巧み』の抱腹絶倒はまさに吉本の笑いそのものだし、吉本に出てくる結婚をめぐる親子の対立や、離れていた親子の対面などのストーリーはモリエールのものとそっくりである。

 そのモリエールの話は、じつは古代ローマのプラウトゥスやテレンティウスのまねで、このローマの喜劇作家たちの話は古代ギリシャのメナンドロスにさかのぼることができる。こうして結局どの分野でもその起源はギリシャに始まるということになる。

 ここに訳し始めたモリエールの『ごうつくおやじ』(一般的には『守銭奴』と言われている。守銭奴とはけちを意味する古い言葉である)は、古代ローマのプラウトゥスの『金の小壷』から取材したものである。しかし、この『金の小壷』にあたるギリシャの作品は、失われてしまったのか、それが何であったかは分かっていない。

 『ごうつくおやじ』のストーリーは、アルパゴンという主人公が、自分の子供を金目当てに大金持ちと結婚させようとし、自分自身は若い娘との再婚しようと企むが失敗するという話である。その中で、アルパゴンは、娘の恋人が自分の使用人であると分かると大反対するが、実はその使用人の男が大金持ちの息子であることが最後に明らかになる。(こういう話は、毎週のように吉本新喜劇のストーリーの中で使われている)
 

 今回この喜劇を訳してみようと思いたったのは、昔買って本棚に置いたままにしているペンギン文庫のモリエールの英訳を取り出してきて読んでみたら、これが実に面白かったのと、昔岩波文庫の訳で読んだのとは全然違う印象を受けたからである。

 最初のシーンからして全く違うのである。鈴木力衛の訳では、結婚の約束をした男女が話をしていて、将来に不安を持った女を男が慰めているという場面だが、ペンギンで読むとこれは、この二人の男女は昨夜はじめてベッドを共にした男と女であって、結婚の約束とはその際に男がしたことだということが分かる。これならよくある話だし、とてもよく分かる。ならば、そのように訳さなくては嘘になる。訳してみよう、ということで今度はフランス語のテキストを出してきた。

 このフランス語のテキストは、トリフォーの映画『思春期』の中で、フランスの小学生が暗唱するために教室で読まされるのと同じものである。映画の中では、表紙の喜劇役者の顔が大写しにされるラルースから出ている注釈付きの教科書である。

 わたしはこの本を大学時代に買って何回も読み始めては途中で投げ出している。ペンギンはその訳本として、同じ時期に買ったものだ。もちろん、鈴木力衛の訳本も買っていた。しかし、当時はこの書き出しの場面の意味が分からなかった。だから、当然面白さも分からず、先に進めずに置いてあったのである。(当時はペンギンを読む力もなかった)
 

 ところで、モリエールのせりふは、芝居のせりふであって、全てがオーバーに表現されている。テレビドラマのように、二人の人間が何気なく言葉を交わしているのではない。「おお、エリーズよ、いったいあなたはどうしたのです」というような大げさな調子がずっと続くのである。登場人物たちは非常に雄弁で、あらゆる修飾語を駆使して、簡単に言えるようなことでも、多くの単語を使って表現する。

 英訳でさえそうであるが、フランス語の原文はさらにもっとその上をゆく言葉の多さである。おそらくは、身振り手振りも大げさなものなのだろう。そうやって観客の注意を大いに引きつけようとしたのだろう。

 ところが、鈴木力衛の訳はむしろその反対で、非常に自然な会話をねらったものになっている。しかも、それは、翻訳当時のハイカラな江戸弁とでも言うべき会話体である。その結果、鈴木力衛の訳では、観客は登場人物のなにげない会話を盗み聞きしているかのような印象を受ける。原文にある大仰な装飾も、言葉の多さも切り捨てられて、翻訳当時に流行ったと思われるような現代小説風の会話になっているのだ。しかし、それでは喜劇にならない。

 モリエールが狙った喜劇の様式や典型というものは、この鈴木力衛の翻訳からはまったくうかがい知ることができないと言える。モリエールのこの劇を原語で読むと、各場面が様式化されているという強い印象を受ける。つまり、それぞれの場面はそれぞれ役割があって、しかもその典型をねらった表現方法がとられているように思えるのだ。

 たとえば、第一幕第一場は男女が初めて結ばれた後の場面を典型として使っている。しかし、後の場面から見ると、二人は召使いの立ち会いで結婚の約束をしただけのようにも見える。これは矛盾しているようであるが、劇作家にとってはそれはささいなことでしかなく、その場面その場面が最高の効果を上げることを最大の目的としているのである。

 つまり、場面場面は、それぞれはっきりとした目的を持っていて、それを達成するために使われる。情緒の複雑さとか、ややこしさとか、裏に隠された意図とかいったものはモリエールにはないといってよい。その意味で彼は完全に古典派なのだ。

 そのことを意識して訳したのがここに掲げた『ごうつくおやじ』 である。絶対笑えることを保証する。


                                        

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