私見・偏見(2007年)

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    病院には老人を大事にする病院とさうでない病院があるといふことを聞いた。知り合ひの九十近い婆さんは決して惚けてはゐないのに、多くの病院で惚け老人扱 ひされて玄関払ひされたといふ。

    そして、やつと惚け扱ひしない病院を探し出して入院し、その後回復して退院したといふのだ。その病院はどうやら老人を大切にする病院らしい。

  救急車が病人を運び込む病院はどれも急性期型病院と呼ばれ、それに対して、そこを退院した患者のリハビリなどを主にする病院を療養型病院と呼ばれるらし い。そしてこの療養型病院は老人病院とも呼ばれる。

  急性期型病院の中には、この療養型病院つまり老人病院とタイアップしてゐる病院があつて、さういふ病院は老人を大切にする病院であり、高齢者医療を得意と してゐるのださうである。

  とすると、私の父親もこのタイプの病院に入院してゐたら今頃はまだ生きてゐたかも知れないと思ひたくなる。父が死んだ加古川の神鋼病院(今の加古川東市民病院)は高齢者が得意では ないのに間違 つて受け入れてしまつたのだらう。病院が救急患者の受け入れを断わるのも、あながち悪いことではないのである。(2007年12月31日)







    最初に父の血圧が低下してしまつた時も神鋼病院(今の加古川東市民病院)はそれを本人のせいにしたが、一旦回復したにも関はらず突然また血圧が下がつて死んでしまつたのもこの病院 は本人の せいにした。

    最期の日に家族で見舞ひに行つたとき、父の顔色が悪く呼吸も荒いので大丈夫かと聞いても、研修医(忘れもしない寺尾医師である)は問題はない。呼吸が荒い のは人口呼吸器を調節してさうし てゐるからだと言ふ。

    しかし、これまでにないあの呼吸の荒らさは、死を間近にした人の呼吸の荒さだから危ないのではと危惧を抱きながら帰宅したら、案の定、夜になつて血圧がま た低下したと研修医が連絡してきたのである。

    医者でなくても人の死も見たことのある人間なら研修医より医学の常識があるといふことだらうか。それともそんな呼吸の仕方になるやうに呼吸器を調節したと でも言ふのだらうか。

    結局、研修医は死因を敗血症だと言つたのだが、なぜさうなつたかを明確にすることは出来なかつた。死因を明らかにするために遺体の解剖をしたいと言つて来 たので容認したが、解剖結果を我々に語ることはなかつたのである。

    神鋼病院の玄関には御多分に洩れず「患者様の権利」として立派なことが書き連ねてある。しかし、あれは役所に言はれてさうしてゐるのだと思ふ。医者たちは 自分たちの権利を守ることには熱心だが、患者の権利に興味があるとはとても思へないからである。(2007年12月29日)







    父の入院死に関して驚いたことはまだまだある。肝臓に大きなガンがありそれは十数年前に入院して手術をしたときに見つかつてゐたと言はれたことにも驚かさ れた。

    その時は胆嚢摘出手術で、腹を切らずに腹腔鏡手術を始めたがうまく行かずに結局腹を切らざるを得なかつた。担当の医者からは、肝臓が脂肪肝になつてゐて良 くないといふことまでは聞かされた。

    しかし、その時ガンを発見してゐたことは言はなかつたのだ。ところが、その事実がカルテに書かれてゐると研修医が明言したのである。では、当時の担当医は なぜガンを見つけながら、それを摘出しなかつたのか。

    父の最後の一年は腰の強烈な痛みのためにペインクリニックに通ふ日々だつたが、整形外科医の麻酔注射がなかなか効かなかつたのも、ガンなら説明がつく。圧 迫骨折による痛みだと言はれてゐたものが、ガンの痛みだつたことになるのだから。

    ところが、父が死んだ神鋼病院(今の加古川東市民病院)の医師たちは、この肝臓ガンを患者の死期の近いことの理由の一つにはしたが、同僚の医師がガンを見つけながら放置して我々に 知ら せなかつたことは、謝罪すべきことだとは思はないのである。(2007年12月27日)







    当直医がつけた父の病名は肺炎だつたがCT画像による診断であり、自信なさげだつたので、私は自分で一晩ネットや本を調べてみたら、症状の経過からうっ血 性心不全ではないかといふ結論を得た。

    そこで自分の考へを参考にしてもらはうと医師たちに伝へようとしたのだが、そこで驚いたのは、彼らはまるで官僚なのかと思ふくらゐに誰一人として耳を貸さ うとはしないのである。

    入院直後にとつたレントゲン写真は、患者に意識があり肺に浸潤した血液をしきりに口から吐き出してゐたので、肺に顕著な白濁が見られなかつたとしても無理 はない。一方、その後家族が見せられた肺が真つ白のレントゲン写真は全身麻酔後のものであり、肺浸潤の血液が排出されなくなつたためであらうと推測でき る。

    ところが、その写真を我々に見せた医者は、左右両方の肺が真つ白になつてゐることを指摘して、肺炎がかなり進行した結果だらうと言つたのである。ところ が、レントゲン写真の白濁は入院後数日して消えてきたのだ。

    その頃には血圧も正常化し尿も大量に排出され血中酸素濃度も100%近くになつてゐた。80も半ばの老人の急性肺炎が治ることも不可能ではないだらうが、 心不全が改善した結果と見るほうが余程分かりやすい。

    しかし、医者たちは一度誰かが下した診断を変へることは出来ないらしい。それとも、治療中に心原性ショックに陥つた患者に対する誤診を認めることが出来な かつたのか、治療不可能と断じた患者の病名を変へることは無意味なことだつたのか...。(2007年12月25日)








    父が救急車で神鋼病院(今の加古川東市民病院)に運び込まれたときの若い医者は病気の診断は出来ないくせに、延命治療の決断ばかり要求して困つたものだ。

    喀血だからとまづ肺のレントゲンを撮つても分からない。そこで慌ててCTスキャンをした。すると肝臓が極度に肥大して大きな腫瘍があると言ひ、これは肝臓 破裂による喀血だと思ふ、もう長くはないので人口呼吸器による延命治療をするかどうか決めてくれと言ふのだ。

    延命治療なら本人も日頃から要らないと言つてゐたから、私は即座に断つた。ところが、その後集中治療室に入つたので自分も行くと、肺のCT画像にかすかに 色違ひの部分があることを指摘して、やはり肺炎ではないかと言つたのである。

    そして、集中治療室の計器を指摘して、酸素マスクをしてゐるのに血中酸素濃度が低いので人口呼吸器の装着をしないと脳障害などが生ずる恐れがあると言つ て、人口呼吸器の装着することを決断してくれと言ふのである。

    しかし、それは延命治療になるとさつき言つたばかりで、それについては断つたではないか。ところが、医者は私が人口呼吸器を着けることを決断するまで何も しようとはしない。

    とにかく、父が呼吸困難であることだけは確かだつた。そこで仕方なく全身麻酔による人口呼吸器の装着を決めたのである。そして、そのことを伝へにベッドサ イドに行くと父は真赤な顔をして酸素マスクをずらしながら「苦しい。苦しい。」と私に訴へたのだ。そして、それが父の最期の言葉となつたのである。 (2007年12月24日)







    「あなたには戦国時代の霊がついてゐるなどと嘘を言ひ何百万円だまし取つた」などと云ふ霊感商法のニュースが流れてゐるが、これは金額が大きいから問題に なつたのだらう。

    なぜなら、占い師はみんなそんな事を言つて金を取つてゐるが誰も嘘を言つて騙したと非難されないし、それで逮捕されることもないからである。しかし、占い 師の言ふことなどみな裏付けのない嘘であつて、この事件の占い師だけが嘘を言つてゐるわけではない。

    占い師のつく嘘は、その主な目的が人生相談であれば大抵は許してもらへるが、金が主目的になると問題化する可能性が出てくるといふわけだ。

    世の中にはこの種の嘘は一杯あつて、例へば冬至にカボチャを食べると風邪を引かないとテレビのアナウンサーが堂々と言つてゐるが、これも嘘である。そし て、この嘘で全国のカボチャ業者は何百万何千万円と儲けてゐるのであるが、この嘘による個々の出費は知れてゐるので問題にはならないのである。

    しかし、もしカボチャが一個何百万円もするならアナウンサーは発言を控へるだらうし、それで金儲けをしたら詐欺になる。多くの場合、合法性とは程度問題で あるやうだ。(2007年12月23日)







    混合治療とは保険が効く治療と保険が効かない治療を同時に受けて、しかも保険の部分は保険で払ひ、保険外の部分だけ自費で払ふ治療のことであるが、今はそ れが出来ない。保険外治療が含まれる場合は全部自費で払はなければならないのである。

    もしこれが保険外の部分だけを自費で払へばよいのなら、かなりの割合の人が保険外の治療を受けられることになるはずだが、現状では保険外の治療を受けられ るのは全額を自費で払へる金持ちだけと云ふことになる。

    ところが、医師会は混合治療に反対である。その理由は、混合治療を認めると金持ちとそうでない人の間に医療の差が出来るからといふものだが、これが嘘なの は上記から既に明らかであらう。

    医師会はホームページで混合治療に反対する理由を色々挙げてゐるが説得力がないものばかりだ。その極めつけは「社会としてどうあるべきか」といふ視点が大 事だとしてゐる箇所である。かういふ社会を第一とする考へ方こそ社会主義といふのではないのか。

    この考へ方では、要するに、金を払へる人も金を払へない人が受けられる治療で我慢すべきだと言ふことになる。日本はいつから自由主義の資本主義国家ではな くなつたのだらう。なるほど医 者に共産党の支持者が多いはずである。(2007年12月21日)







    またホッチキスの針で手を刺してしまつた。店のぶら下がり商品を抜き取らうとしてよくやるのだ。商品の包装をとめたホッチキスの閉じ方が不充分で、そこに 指が触れたまま手前へ引くものだから、クシヤリとやる。

    この前は、近所のホームセンターの自転車用品売り場だつた。痛いことはよく覚えてゐるもので、ビニール袋に入つたパナソニックの空気入れを取り出さうと、 上の紙のところを持つて引いたらクシヤリと来た。

    今日はダイソーの自転車用品売り場だ。ハンドルの握りを新しいのにしようとグレーのを取り出したのだが、次にぶら下がつてゐる黒のと比べてみようとしたの がよくなかつた。今度はグシヤリだ。

    見る見るうちに血がにじんできて滴りさうになる。必死に舌でなめてゐると血はなんとか止つたが、このままでは帰れないので、同じ店でバンドエイドも買ふこ とになつた。

    私はいつも自転車用品売り場だが、携帯電話の充電器売り場を見ると、ぶら下がり商品の裏のホッチキスがセロテープで覆つてあるのを見つけた。どうやら苦情 を申し出た人がゐるらしい。私は今度からは手袋をはめて商品を見ることにして、黙つて帰つた。(2007年12月19日)







    父親が最初に入れられたのは集中治療室(ICU)だつたのだが、ここの看護婦の我々に対する対応からは、人の生死が掛つてゐるといふ緊迫感がまつたく感じ られなかつたものだ。

    私がICUに行くと、入り口に看護婦が出てきて、患者が酸素マスクを付けて苦しんで今にも死ぬかといふときに、既に医者に話した患者の症状の話を一から私 にさせて、入院手続きの説明を長々とするのだ。

    翌朝からは父の症状がどうなつたか知りたくて毎朝ICUに電話を入れるのだが、電話に出る看護婦はこちらが患者の名前を告げても「何の御用ですか」と言ふ 始末である。

    そして、症状はどうかと聞くと、それは医者にしか答へられないと回答を拒否するのだ。それで「血圧は下がつたままか」と聞くと不承不承に「はい」と答へる のみで、懸命な治療をしてゐるといふ雰囲気は全くない。

    どうやら、集中治療室ではあつても医者が常駐してゐるわけではないらしいのだが、それならそれで患者の家族への対応の仕方があるはずだ。いつたい集中治療 室とはこんなものなのだらうか。(2007年12月18日)







    私の父親が命を落としたのは加古川の神鋼病院(今の加古川東市民病院)であるが、この病院に救急車で運ばれて入院したとき担当になつた医師(忘れもしない男前の山名医師である)が 治療する気を全く見せなかつたのは驚く べきものだつた。

    当直医のあとを受け継いだと言ふその医師(これまた忘れもしない角谷医師である)は、CT画像とレントゲン写真と血液データを見せながら、患者の血圧低下 が著しく長く生きる見込みがないことを我 々に納得させることにばかり熱心なのだ。

    そして、血圧低下の原因を何ら明らかにすることなく、この患者が心停止に陥つたときに心臓マッサージをすることが如何に無駄であるかを、反論を許さない強 硬な態度で、我々に向つて説き続けた のである。

    これまでの常識では、一日でも一時間でもいや一分一秒でも患者の命を永らへさせることが医者の使命だつたはずだ。ところが、この医師にとつては、何らかの 原因 で血圧低 下に陥つた高齢患者を一日でも早く病院から立ち退かせることにしか興味がないかのやうだつた。

    そして、まるでこの医師の仕事は心臓マッサージをしないことを我々に決断させたことで終了したかのやうに、その後我々の前に二度と姿を見せることはなく、 父の最期はインターンが看取つたのである。(2007年12月15日)







  日本漢字能力検定協会が毎年「今年の漢字」を発表してゐるが、今年はどうやら政権批判に加担してしまつたやうだ。野党の民主党が国会で今年の漢字に「偽」 が選ばれたことを利用して、政府批判を展開したからである。

  それに対して、福田首相は「今年の漢字は信だ」と言つたといふ。首相にしてみれば自分が治めてゐる一国の世相を表はす漢字がこんなマイナスイメージしかな い字であるのは不愉快なことに違ひない。

  去年迄に選ばれた漢字も「倒」「毒」「末」「戦」「災」など否定的なイメージの漢字が多く、自国を貶しめる自虐史観が好きな傾向の人たちには、とても便利 な行事であるに違ひない。

   日本漢字能力検定協会は本来は日本の漢字の伝統を守るのが目的で作られた、政治色のない団体だつたはずだが、かうして「今年の漢字」の行事によつて何やら 世相批判の団体になつてしまつた。

  この行事のハイライトは清水寺の貫首が「今年の漢字」を大書する場面であるが、宗教界の人間がかうして世俗の次元の出来事に深く関はつて恥じないのもま た、現代の混乱した世の中を象徴してゐると言へるかもしれない。(2007年12月14日)








    全ての年金記録の照合が出来ないことが判明したことを政府が公表したら、それは公約違反だいふ批判が出てゐる。確かに、参議院選挙前に安倍首相はそんな公 約をしたかもしれない。しかし、国民はそれを拒否して野党に勝たせたではないか。

    そもそもこの公約が実現不可能なことは当時既にマスコミが報道してゐた。そして、国民は政府よりもマスコミを信じて野党に投票したのである。それがマスコ ミの予想通りになつたのだから、何の文句も出て来ようはずがない。

    それよりも国民が信じて投票した民主党の公約はどれほど守られてゐるといふのか。民主党は、参議院選挙に勝たせてもらつただけでは公約は実現できませんと 言ふ積りなのだらうか。それなら立派な公約違反である。

    だからこそ、小沢代表は参議院選の公約を実現しようとして、自民党と連立を組まうとしたのだ。ところが、連立には反対だ、公約の実現になんか拘る必要がな いと、民主党の他の議員も左翼マスコミも言つたのである。

    国民が信じて勝たせた政党の公約は実現されなくてもよくて、国民が拒否した政党の公約が実現されないのはけしからんと言ふ。世の中、逆立ちしてゐると言ふ しかない。(2007年12月12日)







    ネットに「デジマガ」といふものがあつて週刊誌の中身を一部分だけ読むことが出来る。『週刊朝日』の今週号の目玉は朝青龍の記事で、購読数低迷のこの週刊 誌の必死さがよくわかるが、デジマガではこれは読めない。

    その代はりに読めるのは「裁判員制度は困った制度」といふ見出しの記事である。しかし、その中身は裁判員制度に対する批判ではなく死刑廃止論で、日本の世 論には受け入れられない内容なので見出しで欺して読ませようといふ趣向である。

    しかし、それもまた単なる死刑廃止論ではない。伊東乾といふ人による團道重光に対するおべんちやら付き死刑廃止論である。團道重光は元最高裁判事である が、その團道重光が如何に偉い人であるか、その團道重光が主張する死刑廃止論であり、その團道重光と昵懇である有能な私こと伊東乾が主張する死刑廃止論で あり、その團道重光とその私の共著の宣伝も兼ねた死刑廃止論である。

    これは先日法務大臣が開いた「死刑執行に関する勉強会」の報告として書かれたもので、伊東乾はどうやら團道重光の代理人として出席したらしいのだが、かう いふ内容なので、残念ながら非常に下品で論理的にも説得力のない死刑廃止論になつてゐる。(2007年12月11日)







  テレビに出てくる民主党の議員たちを見てゐると、彼らほど「虎の威を借る狐」といふ言葉がよく似合ふ人たちはないのではと思へる。

  もちろん、ここでいふ「虎」とは小沢一郎である。彼は何人もの首相の首を取つて来た強者であり、与野党の政権交代も一度なしとげ、今の政治体制を作り出し た立て役者でもある。

  しかし、その下にゐる民主党の議員たちは社会党議員の生き残りなど政治家であるお陰で食ひつないでゐる有象無象の寄せ集めでしかない。そんな彼らが参議院 で多数を取つたものだから、まるでヤクザが市民権を得たかのやうな調子で国会をもてあそんでゐるのだ。

  そして、国対委員長や前国対委員長がテレビに出てきて解散はいつだのと、首相の大権を自分の手にしたかのやうな発言を繰り返す姿は、大親分の威光を笠に着 たチンピラヤクザそのものである。

  だから、そんな彼らの親分が急に辞めると言ひ出した時の彼らの慌てぶりは想像に難くない。虎がゐなければ威張れなくなることをよく知つてゐる彼らが、小沢 氏に辞めないでくれと泣きついたのは当然のことだつたのである。

  マスコミは日本にも二大政党制をなどと言つてゐるが、自民党の対立軸になるべき政党がこんな連中の集まりでは、この夢も小沢一郎が健康でゐる間だけといふ ことになりさうである。(2007年12月10日)







    最近は新聞をとつてゐない。下宿暮らしの学生時代以来のことだが、新聞がなくても何の不自由も感じない。ニュースはインターネットで知ることが出来るから である。

    インターネットは只ではない。新聞代ほどの金を払つてゐるのだ。しかも、新聞の記事はインターネットに出てゐるものと同じである。だから新聞代を払ふのは 情報料を二重取りされてゐることになる。

    また以前からテレビでも新聞に出てゐるのと同じニュースが流れてゐる。最近では、テレビのニュース番組で親切に新聞を読んでくれてゐる。だから、インター ネットに接続してゐない人でも、新聞を取る必要はないのだ。

    公告のちらしを見るために新聞を取る人もゐるらしいが、最近ではそれもインターネットで見ることが出来る。新聞を取る理由はどんどん無くなつて来てゐるの である。

  かつては新聞を取ることが一つのステータスだつた。全国紙を取るのがインテリの印のやうな時代もあつた。しかし、いまではそれは逆転してゐる。パソコンを 使へない人が新聞を取るのだ。

    ネットでニュースを読むのに慣れてくると、なぜ新聞にはあんなに文字がぎつしり詰めて書いてあるのかと思ふ。そのうち新聞を好んで読む人は活字中毒の人だ けになるではないか。(2007年12月5日)







    参議院の過半数を野党が占めたことから、国政調査権の活性化が期待されると新聞にしきりに書かれてゐた。しかし、これが的外れの指摘だつたことが今回の額 賀大臣の証人喚問中止で明かになつた。

    国政調査権には証人喚問と資料要求の二つがあるが、どちらもこれまで与野党一致の合意のもとに行はれてきたものであり、この慣例は野党が参議院を取つたか らと云つて変へることは出来ないのである。

    なぜなら、多数決で証人喚問が出来るなら、多数派は自分たちの気に食はない少数派の政治家を片端から証人喚問に呼び出して吊るし上げにすることが出来るか らである。

    ところが、今回、額賀大臣の問題に関して、参議院の野党は民主党の主導で、多数決で証人喚問の実施を決めてしまつたのだから、それなら衆議院で民主党の議 員を証人喚問してやると、自民党の議員たちが息巻いたのも無理はない。

    もつとも、これまでは証人喚問を要求するのはいつも野党であつて、それに与党はしぶしぶ応じてゐたのだから、ずつと全員一致だつたのは当たり前である。そ の少数野党が参議院で多数派になつて、これで自民党に対して遠慮なく証人喚問ができると意気込んだのも無理はない。しかし、これは勘違ひだつたのである。 (2007年12月1日)







    「牛肉の産地偽装」のニュースで、佐賀県の知事が大阪の料亭に対して、佐賀牛を但馬牛と同列に扱つたことを抗議したさうだが、それは筋違ひといふものだ。

    佐賀牛がそんなにおいしい牛肉だと知らなかつた人は多いはずだ。ところが、この料亭の主人はそれを知つてゐて、佐賀牛を客に提供 してゐた。ただし、関西では馴染みのない名前ではなく、おいしい肉といふ代名詞の但馬牛の名前で出してゐただけである。

    佐賀牛は但馬牛と同等かそれ以上の商品なのである。但馬牛の代替品としては充分以上なのだ。ところが、当の料亭の客の感想として「道理であの料亭の牛肉は うまくなかつた」と書いたお調子者の新聞記者がゐる。

    この感想が記者の捏造か偽装かは知らないが、それほどにも佐賀牛のよさは知られてゐなかつたといふことである。

    だから、佐賀牛のうまさを知つて巧みにそれを広めようとしてくれた料亭の主人に、知事は感謝すべきなのだ。むしろ、知事が抗議すべきは、その努力を偽装扱 ひして佐賀牛を貶しめたマスコミに対してではないのか。(2007年11月26日)







    これは神鋼病院(今の加古川東市民病院)に年寄りを入院させたときに気付いたことだが、老人病棟の医局には若い医者ばかりがゐる。ベテランの医者は老人病棟には来ないのである。

    これは、インターンや一年目二年目の若い医者に老人によつて医療を学ばせるのが目的だと思はれる。死にかけの老人なら失敗して死なせてしまつても家族に騒 がれることはない。いづれにせよ近いうちに死ぬからである。

    だから、インターンが最初に確実に身に付けるのは人の死なせ方であつて、生かせ方ではない。その中には遺体の搬出方法も含まれる。若くして何の戸惑ひも感 じさせずに、線香に一本火を付けてりんを一度だけ打つて合掌できるやうになるのである。

    さうして何十人もの治せない患者の遺体を送り出しながら彼らは医療を学ぶのだ。そして、その間に、彼らは血液データの見方や体液の電解バランスの取り方ば かりに詳しくなつて、患者とその家族の言葉に謙虚に耳を傾けるといふ基本を忘れてしまふのである。

    これでは、治せる患者を担当できる日がいつかやつて来たとしても、どれだけ多くの検査を受けさせ、どれだけ多くの薬を飲ませるかにしか興味のない医者にな つてしまふのは、当然なのかも知れない。(2007年11月23日)







    近くのケーズデンキに行くといつもすいてゐる。その店は到頭売り場を縮小するらしい。この地域ではミドリ電化が対抗馬なのだが、こちらの方が元気がある。

    ケーズデンキはドリフターズをテレビCMに使つてゐる会社で「その場でうれしい現金値引き、ポイント制よりお得」とポイント制でないことを売り文句にして ゐる電気チェーンである。

    ところが、この現金値引きは客が言ひ出さないと実現しないのだ。値札に書かれてゐる値段は他店と同じであるから、黙つてゐると値引きなしの値段で買はされ てしまふ。

    それに対してポイント制のミドリ電化では、値段の1パーセントにポイントが付く。ポイントはあとで買物をしたときに、貯まつた分だけレジで安くしてもらへ る。つまり、ポイント制は黙つてゐても値引きをしてもらへるシステムなのだ。

    かうなると、いちいち交渉しないと値引きがないケーズデンキから客足が遠のくのは当然だらう。最近では買ひ物をすると次回に3%値引きする紙の券を出すよ うになつた。しかし、それは同じ店限定であるし、会員カードのやうに持ち歩きにも適してゐない。

    といふ訳で、近くのケーズデンキには閑古鳥が鳴いてゐる。やはりポイント制の方がお得なのだらうか。(2007年11月22日)







    デジカメといふものは専用充電池式のものも乾電池式のものも、どちらも充電池で使ふものらしい。

    専用充電池式のデジカメが電池切れで困つた経験から、乾電池式のものを買つてきたが、そこらで売つてゐるアルカリ乾電池ではすぐに電池切れになつてしま ふ。

    安いアルカリ乾電池では、まつさらでも10枚ほど撮れるだけ、使ひ古しだとスイッチも入らないのである。電池ならどこでも買へるといふが、秋の浜辺には売 つてゐない。新品の乾電池の束でも持ち歩かなければ、アルカリ乾電池だけではデジカメは使へないのだ。

    しかも、説明書にはデジカメはアルカリ電池では充分に機能しないとか、アルカリ電池やニッケルマンガン電池(=オキシライド電池)は寒さに弱いと書いてあ る。となると、ニッケ ル水素電池かリチウム電池を使ふしかない。

    ニッケル水素電池とは充電池のことである。で、結局、充電池+充電器を別に買はなければならないのである。そして、ここでサンヨーのエネループが登場する の だ。つまり、エネループは環境のためではなくデジカメのために売れてゐるのである。

    ところで、リチウム電池には充電式でない乾電池が出てをり、こちらは高価だが軽くて長持ちだと評判がいいやうだ。(2007年11月20日)







    民主党の小沢氏によれば「ブッシュ政権の支持率は低くて国民に支持されてゐないから、日本がインド洋の給油を継続できなくても日米関係は悪くならない」の ださうである。

    しかし、そんなことを言ひ出したら、どうせアメリカの大統領なんて4年で替るかもしれないのだから、そんな人の気持を無視しても日米関係に影響しないとさ へ言へるだらう。

    そもそもブッシュ氏の支持率は純粋にアメリカの国内問題であつて、それを根拠にして他所の国の政治家がアメリカ大統領をみくびつたやうなことを言へば、 ブッシュ氏を支持しないアメリカ国民も怒り出すはずだ。

    いくら支持率が低くても今のアメリカの大統領はブッシュ氏であり、彼とうまくやつて行くことが日米関係なのである。だから、こんな論理は何が何でも自民党 政権に反対するための屁理屈に過ぎないことは明らかである。

   こんなことは誰でも分かるはずなのだが、それでも小沢氏を批判できない左翼マスコミもまた小沢氏の下駄の雪になつてしまつたのだと思ふしかない。 (2007年11月19日)







    いつたい鹿児島牛と但馬牛とはそんな違ひがあるのだらうか。鹿児島牛を但馬牛と買いて売るのはそんなに悪いことなのだらうか。牛は牛でどちらも似たやうな ものだらう。

    それを差別してどちらがどうのと言ふのは単なる人間のエゴではないのか。鹿児島の農家もおいしい牛を育てるために一生懸命頑張つてゐるはずだ。それなの に、鹿児島牛を但馬牛と書いたといふだけで警察までしやしやり出てくるとは、鹿児島牛も見くびられたものである。

    何万円の高級ワインの飲み比べも出来ないのが人間の舌である。値段や価値などと言つても、人間の思惑が作り出した幻影に過ぎないのだ。価値はその出発点か らして既に騙しが入つてゐるのである。

    世の中には完全に公正な商品などと云ふものは存在しない。正義を売り物にしてゐる新聞ですら、それを配達するバイクたちが日々犯してゐる右側通行や歩道走 行、スピード違反といつた何万件もの交通違反は大目に見られてゐるのである。

    少しはマスコミも人の落ち度を大目に見る訓練をしておく方がいいのではないか。(2007年11月17日)







    消費期限や産地の偽装がどうのとニュースが飛び交つてゐるが、これは日本人の贅沢病ではないかと思つてゐる。今日明日食ふ物に困つてゐる国ではあり得ない 話だからである。

    そもそも食品に消費期限や産地などといふものを表示するやうになつたこと自体、日本に食べる物があり余つてゐることの証拠である。

    一部で聞かれるやうになつた「物を大切に」とか「もつたいない」とか云ふスローガンも、贅沢品に取り巻かれた余裕の産物と言つていい。

    これはハリウッドの映画スターがエコカーを購入して乗り回すのとよく似てゐる。ガソリン消費を節約するための車が貧乏人の買へない高級車であるといふ矛盾 は、これが一つのファッションに過ぎないからだらう。

    誰も本気で環境のことなど考へてはゐないことは、高排気量の高価なスポーツカーに予約が殺到してゐることからも明らかである。物に困つてゐないくせに「も つたいない」と言ふのもまた一つのファッションに過ぎないのである。(2007年11月15日)







    民主党は自民党との連立を拒否することで解散総選挙を引き寄せようとしてゐるやうだが、自民党は民主党との連立の可能性が明らかにならない限り解散は出来 ないはずだ。

    なぜなら、自民党は衆議院を解散してたとへ総選挙に勝つたとしても、もし連立が出来ないのなら、参議院がいつでも首相に対する問責決議案を可決できるとい ふ今の状況は何も変はらないからである。 これは個別の政策協議が可能になつても同じことである。

   つまり自民党は民主党と連立できない限りは、自分たちが総選挙で負けて野党が過半数を占めるまで、永遠に野党から解散総選挙を迫られ続けるのである。 これでは、政府は国民の支持を得るために衆議院を解散することは出来なくなり、野党が勝つためだけにしか解散できないといふ馬鹿げたことになつ てしまふ。

    憲法は首相を任免する権利を衆議院にのみ与へてをり、参議院にはそんな権利を与へてはゐない。ところが、民主党は参議院の多数を根拠にして衆議院を解散 総選挙に持ち込み、政権を獲得しようとしてゐるのだ。これが憲法から見て如何に間違つたことであるかは以上から明らかだらう。(2007年11月14日)







    世の中の医者は、患者や患者の家族に謝れる医者と謝れない医者の二通りに分けられる。そして謝れる医者だけが病気を治せる医者だと思へばだいたい当つてゐ る。

    謝れる医者は、患者の病気を治せなければ謝るし、痛い思ひをさせたら謝る。無駄足を踏ませただけでも謝る。これは人間として見た場合にはごく普通のことで ある。ところが、それが大抵の医者には出来ないのだ。

    そして、謝れる医者だけが患者の身になつて考へることが出来るから、患者の病状を正しくつかむことが出来る。

    それに対して、謝れない医者はよく誤診をする。なぜなら、何年も何十年も生きてきた人間の状態を、検査によつて数時間後には理解したと考へて診断を下し、 それを何があつても絶対に変へないからである。

    謝れる医者だけが診断を変へることが出来る。すぐに謝る医者を頼りない医者だと思ふかも知れないが、謝れない医者よりはましである。

    謝れない医者は治療を押しつけ、薬を押しつけて、挙句に患者を殺してしまふのだ。死にたくなければそんな医者には関はらないことである。(2007年11 月12日)







    最近、物が値上がりしたといふニュースが流れてゐる。しかし、それはむしろ普通のことであつて、これまで値上がりしなかつたことの方がおかしかつたのであ る。

    それどころか、この10年ほどの間に起つた物の値下がりは驚くべきものがある。例へば、10年前に買つたパソコンは25万円もしたが、2年前に買つたパソ コンはたつた6万円だつた。

    また、17年前に買つたシャープのファックスは14万円もしたが、最近買つたファックスは1万3千円である。7年前に買つたポータブルCDは9千円なの に、最近買つたMP3再生付きCDは4千円なのだ。液晶モニタも5年前の半値になつてゐる。

    自動車の場合はこの20年ほどの間ほとんど値段が変つてゐない。わたしの場合、20年前に買つた車を、排気量が少し大きいものに買ひ換へたのに、値段はほ とんど同じだつた。

    昔は10年で物価は10倍になると言はれたものだが、この20年のあいだ物価は横ばいかむしろ下落してゐるのだ。それが最近の石油価格の上昇で少し上昇し 始めた。これはきつと歓迎すべきことにちがひない。(2007年11月11日)







    朝日新聞の最近の世論調査で、「自衛隊の活動停止で日本の国際的立場に悪い影響があると思う人は50%と多数でそうは思わないは37%だった」といふのが 興味深い。

    なぜなら、同じ調査で、自衛隊の活動の再開が必要かどうかを聞くと、「必要だ」が43%、「必要ではない」が41%となつてゐるからである。

    これは、このアンケートに答へた人の中に、自衛隊の活動を再開する必要はないし、それで日本の国際的立場が悪くなつたままでも構はないと思つてゐる人が沢 山交じつてゐるといふことを意味する。

    新聞社の世論調査は無作為に選ばれた人を対象にするのが建前だが、実際は自分の新聞の購読者に電話をする。つまり、朝日新聞の読者の中には、日本の国益が 損なはれても構はないと考へてゐる人が沢山ゐることになる。

    実際、この新聞自身、自分たちの政治的主張を実現させるためには、この国はどうすべきかや何が正しいかについては敢て考へない姿勢を貫いてきた新聞であ る。読者もそれを真似するやうになつてきたと見える。(2007年11月10日)







    今回の小沢氏の辞任騒動で、民主党が自民党と連立する可能性が明らかになつたことは、次の総選挙はもはや天下分け目の戦ひとはならないと云ふことを意味す る。

    なぜなら、次の総選挙で民主党が勝てば単独で政権を担当するのは当然として、たとへ選挙に負けても自民党政権と何らかの形で協力することが明らかだからで ある。それなのに、どうして天下分け目の戦ひと言へるだらうか。

  だから、小沢氏が代表復帰会見で、自民党との連立を考へずに総選挙での勝利に向つてがんばると言つたにも関らず、民主党にとつては、もう総選挙の勝ち負け はそれほど重要なことではなくなつてゐるのだ。

  これは要するに先の参議院選挙で勝利したことが、民主党が政権を取ることの足かせになつてゐるといふことである。国政の停滞批判をかはすために、民主党は 自民党政権に協力せざるをえないからである。

  自民党は多くの重要な法案を成立させるために民主党に協力を要請してゐる。民主党がその全てを否定しないで、しかも総選挙向けに対立のポーズを見せようと しても国民はもう欺されはしないだらう。(2007年11月9日)







    今回の小沢氏の辞任撤回会見では、党首が公の席で発表した辞任を撤回したことが民主党にとつて痛手だが、その党首が連立の話だと知りながらそれを隠して首 相との会談に臨んでゐたことが明かになつたことも大きな痛手だらう。

    民主党はそんな人を懸命になつて代表の座に引き止めたのだから、この党は言行一致でなくても構はない政党になつてしまつたと言へる。かうなれば、もう民主 党では何でもありだ。

    例へば、今回の騒動で、小沢氏が民主党の参議院議員を17人連れて離党する可能性が云々されたが、そんなことがありなのだと知れ渡つた事は大きい。わづか 17人が決断して動けば日本の政治は安定するのである。そして、彼らを連れ出すのは何も小沢氏でなくてもよいのだ。

    党首がこんな体たらくなのであるから、その政党の党員が寝返りを考へたとしても不思議ではないし、自民党からこの17といふ数字を目指した誘ひが活発にな ることも大いに考へられる。

    これでは民主党は今後は党としての体裁を維持し続けるのが精一杯となり、とても政権交代を目指すどころではなくなるのではないか。(2007年11月8 日)







    小沢氏の辞任騒動での一番大きな成果は、将来は自民党と民主党の大連立が一つの選択肢となることが明らかになつたことだらう。解散総選挙で民主党が勝てな かつた場合、民主党が解散でもしない限りは、大連立になるいふことが分かつたのである。

    今国会においても、民主党の方から「連立」と云ふ言葉が一旦出てしまつた以上、これまでのやうに政府との全面対決の姿勢をとり続けることは難しくなつた。 小沢氏が辞任を撤回して民主党の体制は元に戻つたが、日本の政治もまた元の振り出しに戻つたことにはならないのである。

    国民の耳には「連立」と「辞任」の二つの言葉が届いてしまつてゐるのだ。これによつて民主党に対する国民の支持が高まるはずはあるまい。解散総選挙が遠の いた見るべきだらう。

    また、小沢代表の口から「辞任」と云ふ言葉が一旦出てしまつた以上、これも言はなかつたことには出来ないはずだ。総理大臣の辞任は撤回できないが民主党の 党首なら撤回できるといふのでは筋が通らない。政党は仲好しクラブではないのだ。小沢氏も結局辞めることになるのではないか。(2007年11月7日)







    小沢氏が民主党の役員たちに自民党との連立を提案したとき、赤松広隆氏がまつさきに「選挙で民意を経ないで連立を組むのはおかしい。今すぐ断るべきだ」と 反対すると、小沢氏は自社さ政権の例を挙げてやり返したと云ふ。

    これは自民党を飛び出した小沢氏が細川内閣に続いて羽田内閣を作つたときに、赤松氏らの旧社会党が小沢氏の手法に反発して連立を離脱し、選挙を経ないで自 民党と一緒に村山内閣を作つてしまつたときのことを言つてゐる。

    小沢氏は、かつて自分の夢をぶち壊した張本人であり、普通なら二度と顔も見たくないやうな連中といま同じ政党にゐて、またも自民党政権を倒さうと苦労して ゐるのだ。それなのに、旧社会党出の赤松氏に偉そうなことを言はれて反対されたのだから、「もう疲れた」と言つたのはまさに本音に違ひない。

    その小沢氏が先に表明した辞意を撤回することを、民主党は一致して熱望し、左翼マスコミもその動向に熱い視線をそそいでゐる。小沢氏がこの野党根性の染み ついた連中ともう一度やり直す気になれるかどうかは知らないが、左翼の人たちは小沢氏をこの地獄からもう解放してやつたらどうかと思ふ。(2007年11 月5日)







   小沢氏は代表辞任会見で「政策を実行するのが政治」だと言つた。しかし、自民党政権を倒すことしか眼中にない他の民主党議員たちには、小沢氏の言葉は理解 不可能だつたに違ひない。

    彼らにしてみれば野党の政策が実現されなくても野党は困らないはずなのである。しかし、小沢氏一人はそんな野党感覚とは無縁だつたのだ。このまま何の政策 も実現できないままに選挙に突入して負けましたでは、それこそ「有権者の理解が得られない」と小沢氏は考へてゐたのである。

    民主党がこのまま政府と対立し続けて解散総選挙に追ひ込みさへすれば自民党政権は倒れるものと、誰もが深く信じてゐた。しかし、ここでも小沢氏一人はさう は思つてゐなかつた。「次期総選挙での勝利は大変厳しい情勢にある」と考えてゐたのだ。

    政権担当能力とは選挙に勝つ能力だけのことではない。それは政策実行能力のことでもある。ところが、小沢氏が見る今の民主党にはその二つが二つとも欠けて ゐるのだ。辞任会見はそのことが明かになつた瞬間だつたのである。(2007年11月4日)







    首相と小沢代表による党首会談に対する左翼マスコミのヒステリックな密室談合批判には全くうんざりさせられる。党首会談を公開して何のメリットがあるの か。それでは党首討論と同じではないか。二人だけで腹を割つて話し合つてこそ党首会談に意味があるのだ。

    左翼マスコミは大連立になれば翼賛政治だとか批判勢力が無くなるだとか理屈を並べてゐるが、ではドイツでいま行はれてゐる大連立は翼賛政治なのか。国民生 活に必要な政策を実現するために連立を組み、必要がなくなれば解消する、実にまつとうな選択だらう。

    それより、国会を開きながら何一つ法律が成立しない今の状況がずつと続くことを彼らも少しは心配したらどうだ。ところが、彼らは、政府が潰れて贔屓の政党 が政権を取れるなら、この国の国際的信用が失墜しようが、国民生活が犠牲にならうが構はないのである。

     彼らはしきりに早く解散しろと言ふが、そんな手前勝手な要求を与党がのむ訳がない。ならばどうすべきか。与野党が協力するしかないではないか。ヒステリッ クではなく論理的な思考力があるなら、これが当然導かれる結論だらう。(2007年11月3日)







    四国で輸入肉を国産と偽つた業者が逮捕されたさうだが、輸入肉は国産と比べて人を逮捕しなければならない程に劣つてゐて食えない肉なのか。食べた人間が国 産ではないと分かるほどに輸入肉はまづいのだらうか。

    例えば牛には品種がある。同じ品種の牛なら国内で育てようが国外で育てようが同じ肉であるはずだ。その場合、DNAは同じであるはずだが、それでも外国で 育つた牛を国産と言ふとはけしからんと言ふのだらうか。

    むかしは何でも国産より外国産の方が高級だつた。例へば地鶏よりもブロイラーの方が高級だつたし旨かつたものだ。それが業者の宣伝で逆転してしまつただけ である。ブロイラーがまづくなつたわけではないのだ。

    また最近ではフードマイレージとか言つて、輸入品は運搬途中にCO2を沢山排出してゐるから、少し値段が高くても地元品を買はうなどといふ考へ方が出て来 てゐるが、こんなものは形を変へた拝外主義だらう。

    今回の事件で逮捕までいつたことの背景には、かうした行き過ぎた国産至上主義や拝外主義があるのではないかと思はれるのだ。(2007年11月2日)







    苦労して弁護士や医者になつても、金儲けをするにはそれだけでは足りない。他人と関はる必要があるのだ。金は天下の回りものといつて、お金は他人の懐の中 にあるものであり、それをいただかなければ金儲けにならないからである。

    だから、人嫌ひの弁護士や医者は個人で開業するとすぐに行き詰まつてしまふ。そんな人はどこかの事務所や病院に努める必要がある。サラリーマンになるので ある。

    しかし、そのためにはサラリーマンに給料を出す人の存在が必要で、それが経営者なのだ。彼が人嫌ひでは会社は成り立たない。せつせと人付合ひをして仕事を 取つて来る必要がある。偉い人にへいこらして接待もしないといけないのだ。

    証人喚問をしてゐる国会議員の先生方もそれは同じことだ。選挙運動期間の前には一軒一軒戸別訪問をして頭を下げて回るのである。民主党の小沢代表が今やつ てゐるといふ企業回りも付合ひを求めてのことである。

    規則は規則として存在する。しかし、それだけでは誰も生きてはいけないし、社員を食はせることはできない。まして人に勝つためには濃密な人付合ひが必要に なつてくる。そして、それは経営者も議員もマスコミも同じことなのである。(2007年10月30日)







    英会話のNOVAがいよいよ潰れるさうだ。裁判所の言ふ正しいことだけをしてゐては、やはり商売は成り立たないと云ふことだらう。

    もともとNOVAの授業料は他の英会話学校と比べてかなり安い。それなのに、途中でやめた生徒から解約手数料が取れなくなつては、潰れるのは時間の問題だ つたのかもしれない。

    英会話学校や塾の教師をしてみると分かるが、生徒はいろいろと理由を付けてすぐに来なくなつてしまふ。初めの志を最後まで貫くまじめな生徒はごく稀なので ある。

    しかし、来なくなつても退校しないで授業料を払ひ続ける心やさしい生徒が何人もゐる。再開するかも知れないと自分に言ひ訳したり、飽きたのは自分のせいと 自責の念にかられるからだらう。そして、さういふ生徒の存在が塾の経営にとつては是非とも必要なのだ。

    ところが、裁判所のお陰で、途中でやめても先払ひの授業料を満額取り返せることになつたので、来なくなつた生徒たちは完全に退校してしまひ、経営者は一部 のまじめな生徒の授業料しか当てにできなくなつてしまつた。

    裁判所も罪なことをしたものである。学校もまた正義だけではやつて行けないのである。 (2007年10月29日)








    厚労省と製薬会社が、薬害C型肝炎の疑ひがある418人のリストの存在を知りながら患者たちに伝へていなかつたことが批判されてゐる。しかし、こんなこと になつたのは、患者たちが国と製薬会社を相手に裁判を起してゐたからではないのか。

    国と製薬会社を相手に裁判を起した以上は、患者側に有利な情報が国と製薬会社から得られなくなるのは当然である。患者側はそれを覚悟して裁判を起すべきだ つたのである。

    患者側に対してひたすら甘いマスコミは、国民の生命を守る義務のある国がこのやうな重要な情報を隠してゐたのはけしからんと言つてゐるが、どこの世界に自 分の喧嘩相手に助け船を出すお人好しがゐるだらうか。

    患者たちは国に助けて貰ひたかつたのなら、国を訴へるべきではなかつたのである。そもそも裁判に訴へたところで、それを担当する裁判官はみんな公務員であ つて国側の人間なのだ。なのにどうして、彼らが国に不利な判決を出してくれると期待したのだらうか。

    裁判をすれば何か良いことがあるといふ考へ方がマスコミを中心に拡がつてゐるやうだが、そんなことは決してないのである。それは今回のC型肝炎の問題でも 明らかになつたと言へるのではないか。(2007年10月28日)







    読売新聞は血液製剤によるC型肝炎に関する社説で「C型肝炎ウイルスの感染を放っておくと肝硬変や肝ガンを引き起こす。だが、早期に適切な治療を行えば、 多くは大事に至らない」と書いてゐる。

    しかし、これは厚労省や企業が問題の血液製剤を投与した人の名前を知りながら、それを放置したことを批判したいがために書かれた文章であり、現実にはその 適切な治療を受けることが大きな苦痛である。

    何と言つても主な治療薬であるインターフェロンの副作用が凄まじい。しかも、治る可能性は5割程度であり、失敗すればガンで死ぬかもしれないのだから、C 型肝炎に感染してゐることを知ることは、人生に死の恐怖が付きまとふことを意味するのだ。

その一方で、C型肝炎ウイルスの感染者の3割は発症しないと言はれ、発症しても自覚症状がないままに高齢を迎へる可能性がかなりある。それなら、告知され ない方が幸せな人生が送れるのではと考へたくもなる。

    感染してゐるかどうかをどうしても知りたければ、自分で検査を受けることが出来る。だから、今さらC型肝炎に感染してゐる事実を告知しますと言はれても、 そつとしておいて欲しいと思つてゐる人は多いのではないだらうか。(2007年10月25日)







    家族の命を何とか救ひたいと思つて救急車を呼んだのに、生きて送り出した体が遺体となつて葬儀屋の車で帰つて来た時の無念さはない。そんなことなら救急車 なんか呼ぶのでなかつた。同じ事なら家で死なせてやればよかつたと思ふものである。

    少女を失つた加古川市別府の家族の思ひは知らない。しかし、「救急車なんか呼んだばかりに、はるか須磨まで運ばれてしまつて、すぐに治療を受けさせてやれ なかつた。目の前にある病院に自分で抱いて駆け込んでやつてゐたら、もしかしたら」といふ思ひがあるのではないか。

    もちろん救急隊員はその時に出来る最善の選択をしたのだらう。しかし、その経緯は不明である。マスコミはそこに立入らうとはしないし、病院はどんな治療を したかを明らかにはしない。

    マスコミにとつて憎しみの対象は犯人一人で充分なのだらう。しかしながら、家族にとつてはさうではない。救急車を呼んだのにどうして救つてくれなかつたの かといふ思ひは消えないはずだ。

    それほどにも日本の救急医療体制は脆弱で、何もしなかつたのと同じ結果しかもたらすことが出来ない。だから、そんなことなら救急車なんか呼ぶのでなかつた といふ思ひは、この国のどこかで毎日毎日生まれてゐるに違ひないのだ。(2007年10月24日)







    小沢一郎氏の論文が岩波書店の月刊誌である「世界」に掲載されたと云ふ。しかも、その中で国連の治安部隊に自衛隊員を派遣することを勧めてゐるといふの だ。

    「世界」と言へば左翼の雑誌で護憲勢力の代表格なのだから、世の中変つたものである。同じ考へでも自民党の議員や政府から出てきたものなら「世界」がとて も相手にするはずはなく掲載を断わるところだらうが、民主党の小沢一郎ならOKなのだ。

  自衛隊の海外での武力行使に事実上道を開くやうなこんな暴論に、天下の岩波書店が聞く耳ありと云ふのだから、いかに小沢氏が左翼にとつて希望の星であるか が分から うと云ふものである。

  それだけ左翼の退潮ぶりが著しいといふことであり、自民党政権を倒せるならその主人公が小沢一郎であらうと誰であらうと構はない、それを左翼の勝利と見做 さねばならないのだ。

  細川政権の時には社会党は下駄の雪と言はれたものだが、左翼陣営は次の衆議院選挙までは何があつても小沢一郎に付いて行くつもりらしい。(2007年10 月21日)







  NHKの赤福バッシングが突出してゐる。常にトップ扱ひで他局や新聞と比べても異常な報道ぶりである。

  しかし、昔は存在しなかった冷凍技術を赤福が活用して何が悪いのだらう。解凍した時点から消費期限を決めて品質に何の問題もないのに、なぜ「偽装」と言は れなければならないのか。

  そもそも赤福は生産者であり、製品の品質について判断する権利があり、最初に決めた消費期限を伸ばすことも自由である。大切なのは品質なのであつて、当て にならない人間の言葉ではないのだ。

  この問題で誰か一人でもお腹をこわした人がゐるのかと言へばゼロである。つまり、製品の品質には何の問題もないのだ。NHKは、赤福が最初に決めた消費期 限を過ぎた商品を処分すべきだと言ふのだらうか。『もったいない』という歌を流行らせたのはNHKではないか。

  「消費期限」を表示する制度にも問題がある。消費者にも生産者にも何の利益ももたらさず、マスコミにニュースのネタを提供するだけだからである。しかし、 恐らくこのニュースの全てが真実なのではあるまい。ニュースこそは偽装の産物だからである。(2007年10月19日)







    ゴア元副大統領に対するノーベル平和賞を日本の多くの新聞が歓迎する社説を書いてゐるが、それはやはり日本の新聞の多くがサヨクだからであらう。

    確かにゴア氏ほど平和賞の名にふさはしい人はゐまい。なぜなら、もし民主党のゴア氏がブッシュ氏の代はりにアメリカ大統領に当選してゐたらイラク戦争はな かつたはずだからである。

    さらに、もしゴア氏が大統領なら、もしかしたら9.11の同時テロもなかつたかもしれず、もしさうならアフガニスタンに対するアメリカの攻撃もなかつたか らである。また、イラク戦争がなければ当然、現在イラク国内で多発してゐるテロもなかつたのだ。

    そして、ゴア氏が当選してゐれば今の世界はもつと平和だつたに違ひないといふ思ひ、ブッシュ大統領こそは世界平和の破壊者だといふ思ひが、ノルウェーの選 考委員たちの頭の中を支配してゐたに違ひない。

    しかし、時計の針を逆に回すことは出来ないのである。地球温暖化の問題を安全保障の問題に強引に結びつけてゴア氏に平和賞を与へても、世界が平和になるこ とはないのだ。それはスーチー氏にノーベル平和賞を与へてもビルマに平和が訪れなかつたのと同じである。(2007年10月18日)







    沖縄戦の集団自決を軍命令だと言つたのは遺族年金をもらふためだつた、本当は軍の強制はなかつた、といふ「不都合な真実」を沖縄の人たちは政治の力で握り つぶさうと必死になつてゐる。これが教科書に採用されたのが耐へられないらしいのだ。

    しかし、もともと歴史教科書は赤裸々な事実を書くものではなく、子供たちに自分の郷土を誇れるやうな事実だけを教へるためのものである。沖縄の人たちが誇 れないと思ふやうな真実を載せたがらないは当然の感情だらう。

    それより、テレビのワイドショーやNHKがこの問題を大きく取り上げないことの方が注目に値する。さすがに「遺族年金のために軍命令にした」といふ告白を 隠して番組作りなどは出来ないはずで、そんな告白を扱へば沖縄の運動に水を差すことになつてしまふ。ここは政府に困らせておけといふことなのだらう。

    大半の新聞の扱ひも実におざなりなものである。それは多くの人が強制があつたと言つてゐるのだから、教科書に「軍の強制」が復活するのは当然だなどと書く レベルでしかない。

    だが、多くの人が主張してゐること、長年言はれてゐることが疑ふ必要のない真実なら、歴史家など存在する必要のない道理である。沖縄戦の「不都合な真実」 の解明には新聞もテレビも不適切な存在だといふことなのだらう。(2007年10月17日)








    社会がタバコや酒にうるさくなつて来るのは危険な時代になつてきた兆候ではないかと思ふ。第二次大戦前にタバコや酒をやめさせようとする運動が世界の各地 で広まつてゐたのは周知の事実だ。

    そして、当時はファシズムの時代だつたのである。反タバコ運動を広げたドイツはナチスが支配してゐたし、禁酒法が作られたアメリカでも寛容の精神が失なは れて、後に世界大戦に突入して行くのである。

    かういふ時代の論調は何かにつけて「何々は百害あつて一利なし」のやうな全否定になりがちである。そこに見られるのは、議論を拒否して一方的に自分たちの 主張を押しつけようとする姿勢だ。

    かういふ主張は外向きには科学を標榜するがそれは名ばかりであり、合理的な精神に基づくものではない。例へば禁煙を主張する人たちはタバコの害を否定する やうなデータを排除するのにやつきで、公平な立場からタバコの価値を見つめようとはしないのである。

    人間のすることはどんなことでも善い面もあれば悪い面もある。ところが、その片方だけが強調されるのがこの時代の特徴である。精神の自由を保つためには複 眼的思考が重要であるが、不寛容な時代にはそれは容易なことではない。(2007年10月16日)







    タバコを吸ふとガンになりやすいと云はれてゐる。ところが、タバコを吸はなくてもガンになる人が沢山ゐる。ガンにならないやうにと規則正しい生活をして、 肉食を控へて酒もタバコもやらない人がガンになるのだ。

    となると、ガンにならないやうに暮らしてガンになるのと、ガンになつても構はないと好きに暮らしてガンになるのと、どちらが良い生き方であるかと考へたく なる。結局、ガンになるもならないも運なのではないのかと。

    タバコを吸ふ人がガンになる確率はタバコを吸はない人の何倍であるなどとよく言はれるが、これはガンになつた人の中で喫煙歴のある人とない人の割合が五分 五分ではなく、喫煙歴のある人の方が少し多いといふことでしかない。

    しかも、その数字はタバコを吸はなければ少しはガンになりにくいかもしれないと言つてゐるに過ぎないだけでなく、実際にタバコを吸はずにガンになつた人に 自分の運の悪さを思ひ知らせることだけは確実な数字である。

    タバコを吸ふ人の多くがタバコの箱に書かれてゐる警告を無視するのも、結局のところ自分のしたいやうに生きるのが一番であることをよく知つてゐるからに違 ひない。(2007年10月15日)







    もし気象予報士が天気予報で「明日の天気がどうなるかは分かりません」と言つたらどうだらう。実際、明日の天気などは明日になつてみないと分からないもの だ。しかし、彼らは「分からない」とは言はないし、さう言ふのが義務だと言つたりはしない。

    それどころか、天気予報は大胆にも一週間先の予報もする。しかも週間予報は大抵は外れるものだ。自然が相手なのだから当然のことである。にもかかはらず、 気象予報士たちは勇敢にも自らの仕事を敢行するのである。

    それに対して、医学もまた人間の肉体といふ自然を相手にするにも拘はらず、医者たちは「分からない」を連発するのだ。人間の判断は間違ふものである。しか し、間違ふから判断を回避するのでは、何の仕事もしないのと同じである。

    医学は気象予報と同じくらゐに人々の明日の生活と密接に関つてゐるものだ。しかも、その判断が直接間接に人の生き死に繋がつてゐるのも同じである。なら ば、医師たちだけが自らの判断を回避したがることが、如何に無責任なことであるかが分からうと云ふものである。(2007年10月14日)








    ゴキブリはどこから来るか。それは家の外から来る。わたしは、まさにドアの下の隙間を横向きになつてくぐり抜けて土間に入つてくるゴキブリを見たのであ る。

    以前からそのやうな推測はしてゐた。わが家の縁の下はシートで覆はれてゐて、土が露出してゐる所はないし、家の中で繁殖に適した場所は奇麗に掃除されてゐ るからである。

    だから、年に必ず二三匹現はれるゴキブリはきつと家の外から来たものに違ひないと思つてゐた。そこでわたしはゴキブリ捕獲器、つまりゴキブリホイホイのた ぐいを購入して玄関の左右の壁沿ひに設置しておいた。

    そんな折りも折り、夜中に玄関の戸締まりを確認しようとドアの方に目をやつたわたしの目に、ドアの下から現はれたゴキブリの姿が飛び込んで来たのである。

    わたしの推測は正しかつた。そして、直ちに殺虫スプレーを手にして玄関に戻り、敵が隠れてゐる思はれる下駄箱の下方向に集中的にスプレーを噴射して敵を退 治たのであつた。

    その後、夜中に玄関でかさかさと云ふ音を二度ばかり聞いたことがあるが、あれはきつとドアの下から侵入してきたゴキブリが捕獲器の中に誘ひ込まれて、無駄 なあがきをしてゐる音だらうと思つてゐる。

    ただし、わたしはゴキブリ捕獲器の中をのぞき込む趣味はないので、残念ながら、実際の戦果をこの目で確認したわけではないことを、ここにお断りしておかね ばならない。(2007年10月13日)







    医療崩壊などと言はれてゐるが、むしろ医師が崩壊してゐると考へた方がよい。医師たちはもはや医学と云ふものに付いて行けなくなつてゐるらしいからであ る。

    今の日本で医者になるのは医者の子供か学校の勉強の秀才たちである。そして、私の知る限り、医者の子供にろくな奴はゐなかつたし、学校の秀才に立派な奴は 一人もゐなかつた。その中に医者になつた奴もゐるが、あんな奴には診て欲しくないと思ふ奴ばかりだ。

    要するに、今の殆どの医師たちは人を救ふと云ふ崇高な使命とは何の関係もなくなつてゐるのである。だから、小泉改革で医師が高収入の特権階級でなくな つたら、彼らからやる気が失せたのは当然のことなのである。

    事ここに至つては、かつて人を救ふために存在した仏教が今では葬式をするために存在するやうに、かつて人を救ふために存在した日本の医療も、今では合法的 に人が死ぬ ための存在になつてゐると考へた方がよい。

    自殺志願の少女たちよ、死にたければ自殺サイトなどに行かずに病院に行きたまへ。20万円もあればしつかりと死なせてくれて、しかもきつとたつぷりお釣り が来る。(2007年10月12日)







    生産者による賞味期限や消費期限の書き換へは法律的には何の問題もないことである。賞味期限などを決めるのは生産者なのだから、その生産者がもつと長くて も大丈夫だと判断して書換へて売つても問題のあるはずがない。

    例へば、賞味期限が伸びることは、その期間はおいしく食べられることを保証するのだから、消費者にとつてはありがたいことであり、生産者の負担が増えるだ けのことなのだ。

    また、消費期限はその期間内なら安全に食べられますと云ふ意味なのだから、消費期限を長くすればするほど、生産者の責任は大きくなる。より大きな責任を負 はうとする生産者を誰も責めることは出来ないはずである。

    ところが、物事の正しさではなく、スキャンダル的に物事を考へることしか出来ないマスコミは、生産者ではなく販売者が勝手に書き換へた場合に使ふべきであ る「改竄(かいざん)」などといふ言葉を使つて、生産者による消費期限や賞味期限の書き換へをさも悪いことであるかのやうに言ふのである。

    生産者はマスコミから悪いと指摘されたら謝るしかないので、結果としてマスコミの言ひ分が通つてしまつてゐるのが現状なのである。(2007年10月11 日)







    医者と付き合ふときには、医者だから医学の知識に詳しいだらうなどと思はない方がよい。確かに国家試験を通るために色んな知識を頭に叩き込むことはする。 しかし、試験が終ると覚えたことを忘れてしまふ点では、我々一般人と同じなのである。

    そもそも昔と違つて病気の情報量が格段に増えてゐるので、とても覚えきれない。だから、急病人が来ても症状から何の病気なのかすぐに見当が付かなくても仕 方がないのである。後から考へたら誰の目にも明らかなヒ素中毒を和歌山の医者が誰も見抜けなかつたのは有名な話である。だから彼らは検査に頼るのである。

    その上に、数へ切れない薬とその副作用についての膨大な情報がある。そんなものを全部覚えきれる分けがない。だから、認可された薬ならそれほど危険はない と考へて、副作用の事は深く考へずに同じ薬を色んな患者に使はざるを得ないのである。

    だからこそ、良い医者は初めて会ふ患者については、本人かその家族から徹底的に話を聞いた後でなければ治療に移らない。それは根掘り葉掘りとまるで警察の 尋問のやうに延々と続くはずである。それで治してもらへるとは限らないが、少なくとも間違つた治療を受けずにすむのである。(2007年10月10日)








    臓器提供意思表示カードといふものがある。市役所などに置いてあるあの黄色いカードである。これは是非手に入れて1番の脳死になつたら臓器を提供するとこ ろに丸を付けて署名しておくのがよい。これで脳死になつた時の延命治療を拒否することができるからである。

    心臓死といつて心臓が止つたら確実に死ねるが、脳死といつて脳が死んだだけでは病院で人工呼吸器を付けられると、首から下はいつまでも生きた状態にされて しまふ恐れがある。そんなことになつたら残された家族は悲惨なことになる。それをこのカードは防いでくれるのだ。

    医師の手で一度人工呼吸器につながれると死ぬまではづしてもらへないのが普通だが、もしこのカードに署名して脳死の同意してゐればはづしてもらへるのであ る。そこで自力呼吸できなければ脳死だといふことで晴れて死なせてもらへるのだ。

    ただし、脳溢血などになつて脳の大部分が死んでも脳の中心である脳幹が生きてゐれば自力呼吸ができてしまふ。この状態で病院に運び込まれたら人工呼吸器な しにいつま でも病院のベッドで植物人間として生き続けなければならなくなる。残念ながらこのカードに署名しても、それを防ぐことは出来ないやうである。(2007年 10月9日)







    ロシアでは大統領が自分に都合の悪いマスメディアを排除してしまつたが、日本ではマスメディアが自分の考へ方に合はない首相を排除してしまつた。

    安倍首相は「戦後レジームからの脱却」を掲げたが、それは殆んどのマスコミの考へ方と敵対するものだつた。保守系である読売新聞でさへも多くの記者は戦後 レジームからの脱却なんてとんでもないと思つてゐたし、産経新聞でさへも若い記者アンチ安倍だつた。

    だから、安倍政権を貶しめるニュースがどんどん作られて、その正当性がさして検証されることなく同じ内容のままで日本中にばらまかれて行つたのだ。かうし て、この政権に対する国民の支持はなし崩しにされたのである。

  報道言論の自由が侵害されてゐると言はれてゐるロシアが、経済力を高めて軍事力を増強させ世界に対する発言力をどんどん強めてゐるのに対して、日本はテロ との戦いへのささやかな寄与である石油の供給さへも、マスコミと左翼の力で差し止められて国益を失ひかねないありさまだ。

  日本の自由で強大すぎるマスコミの力が今やこの国の将来を危ふくさせてゐる。さう言つてもよいのではないだらうか。(2007年10月8日)







    日頃たいした考へもなくいつも誰かに対してしてゐることが、相手が死ぬと途端に暴行とか脅迫といふ用語でマスコミに書かれるやうになる。

    誰も殺さうとか死んだらいいと思つてしてゐるわけではない。ところが、相手の体調が悪かつたり性格が弱かつたりして死んでしまふことがある。すると、実際 には悪意をもつてした分けではない行為が死亡原因として扱はれてしまふのだ。

    もちろん余りにも相手が真面目だつたり、露骨に困つた様子を見せたり、無抵抗だつたりすると、からかひやいぢめがエスカレートすることはある。しかし、か らかふ方もいぢめる方も止め時を計つてはゐるのだ。

    だから、相手の死と云ふ予想もしないことが起きると、こちらはびつくり仰天してしまふ。そして、一般人はマスコミほど悪どくはないから、相手の死に責任を 感じてしまつて、余計な自白までしてしまふのである。

    かういふ事故が起こらないための一番手つ取り早い方法は、人と関りを持たないことだらう。ところが、学校でも社会でも人間は孤立して生きることは出来な い。誰もが誰かとの上下関係の中に入つて生活するしかないのだ。だから、かういふ事故が無くなることはないのである。(2007年10月7日)







    地域の大きな病院に行くとどこも満員である。駐車場は早朝から満杯で、待合室は人々でごつた返してゐる。それを見るたびに、なぜ人々そんなに医者を当てに するのだらうと思つてしまふ。

    医者たちは病気を直す以前に、患者が何の病気であるかをすぐに知るための方法を持つてゐるわけではない。検査によつて何の病気であるかをおぼろげに知るた めだけでも普通一週間はかかるのである。

    だから、医者たちはみんな当てずつぽうで患者の治療に取掛かるしかない。その当てずつぽうが上手な医者が名医なのであるが、逆に殆んどの医者はこの当てず つぽうが当たらない医者なのである。

    それにも関はらず、医者には人を殺せる劇薬を扱ふ権限が与へられれてゐる。だから、気違ひに刃物と言はないまでも、医者が処方した薬の副作用によつて病気 が悪化する確率の方が高いと思ふべきなのである。

    だから、医者にかかつて良くならうと思ふことが間違ひなのである。確かに、医者は病気を調べて直す手段を学んで知つてはゐる。しかし、それをDNAの異な る万人に応用しなければならない点で、既に病気に対して甚だ劣勢なのである。(2007年10月6日)







    歴史の真実は徐々に明らかになつて来るが、その中に第二次大戦の沖縄戦での住民の集団自決が軍の強制ではなかつたといふ事実がある。沖縄の人たちは軍人に 命令されたのではなく、自ら敢然として自決の道を選んだのである。

    ところが、この実に誇るべき事実が教科書に採用されるのが気に入らない人たちが沖縄には沢山ゐて、大会まで開いたと云ふのだから驚きである。しかも、県知 事がそれを受けて、これこそ県民の気持だと文科大臣に陳情までしたと云ふのだ。

    これまで軍人に命令されて自決したと思はれてゐたのがさうではないことが分かつたのだから喜ぶべきなのに、彼らは自分たちの祖先を軍の命令に抵抗できずに 自害した、か弱き被害者のままにしておきたいのである。

    なぜこんなことが起きるかといふと、それは政治だからであらう。政治は人間に誇りといふものを忘れさせてしまふ。そして、何が正しいのかも忘れさせてしま ふものなのだ。そして、自分たちの祖先をおとしめてそれを声高に言つて憚らないのであるから、これも一種の自虐史観なのであらう。(2007年10月5 日)







    人間はミスをする動物である。だから、医者のミス=医療過誤などは日常茶飯事であるが、そのミスで死に至りさらに表沙汰になることは稀だから、我々はつい つい医者を信用してしまふのだ。

    例へば、救急車で運ばれてきた高齢者が息をぜいぜい言はせ、口からピンク色の泡状の痰を出してゐて、しかも足がむくんでゐれば、うっ血性心不全の肺水腫だ とまともな医者ならピンと来て利尿剤を処方する。

    ところが、経験がなく深夜の当直で寝ぼけたりしてゐると、足のむくみを見ながらも、喀血だからと胸のレントゲンをとると影があるので高齢者に多い肺 炎かと思つてしまふ。肺水腫でも当然影はあるのだが。

    次に、CT検査をすると肝臓が巨大化してゐるので、肝臓ガンの破裂による喀血なのかとも思ふが、さらに胸のCT画像の影からやはり肺炎なのかと思ひ直す。 実は肝臓肥大はうっ血性心不全に付き物なのだ。

    そこで抗生剤による肺炎の治療にかかるが、人口呼吸器を付けるために麻酔をすると血圧低下を招いてショック状態になつてしまひ、やつと心臓が悪かつたこと に気付くがもう手遅れである。あとは先輩の医師に、家族に対して「元々手遅れ」だつたと説明してもらふしかない。

   心不全と肺炎はとてもよく似てゐるが、それを間違へて治療すれば患者は死んでしまふ。しかし、こんなミスも医師のかばひ合ひで決して表に出ることはない。 「知らぬは患者 ばかりなり」なのである。(2007年10月4日)







    安倍内閣の最大の欠陥は塩崎官房長官にあつたのではないか。防衛次官の更迭人事で見せたごたごたを見るとさう思ひたくなる。

    官房長官の仕事とは、物事を丸く治めて行くといふ正に調整型の能力を必要とする。自分の面子を後回しにしてでも、政府は上手く行つてゐると云ふところを国 民に見せなければならない存在である。

    ところが、塩崎長官は小池大臣が防衛次官の更迭を自分を通さずに発表した事に対する不満をおおつぴらにしてしまつたのだ。これではこの内閣は上手く行つて ゐないと自分から言つてゐるやうなものであり、それでは官房長官の存在意義を自ら否定することになる。

    一人の大臣が他の大臣を批判して傷を付けたりすれば、任命権者である首相に傷が付き、ひいては内閣全体に傷が付いてしまふことぐらゐ分りさうなものであ る。

  ところが、塩崎長官にそんな配慮はなく、あくまで筋論を優先させて、結局首相の指導力に問題ありと報道されてしまつたのだ。こんな官房長官ではどんな内閣 でも長続きしないと思はれても仕方がないのではないか。(2007年10月3日)







    「名選手必しも名監督ならず」といふ格言はヤクルトの古田選手兼任監督にも当てはまつてしまつたやうだ。名選手が名監督になつた野村監督の申し子たる古田 がなぜに名監督になれなかつたのか。

    特に野村監督が古田と同年配の若いころから名監督としてリーグ優勝を果たし日本シリーズにまで進出したことを考へると、兼任監督のときに既に名監督だつた 野村の凄さが改めて思ひやられる。

    普通、勉強が出来る人と教へるのが上手な人とは違ふものであるが、それとこの名選手が名監督でないのとは、似てゐるのだらうと思ふ。そして、監督といふの は教へるのが上手い人でなくてはならないのだらうと思ふ。

    教へるのもまた技術であるが、やはり才能といふのもあるのだらう。教へることの上手い下手にも生まれつきや育ちと言ふものが関係してくるに違ひない。マ ネージメントの能力もまたしかりである。

    だから、古田は監督向きの人間ではないのかも知れない。キャチャーとしての能力と監督としての能力もまた別なのだらう。さう思ふしかない。(2007年 10月2日)







    最近の医者は「わかりません」と平気で言ふ。しかも、残念さうにではなく当然のことのやうに言ふのだ。

    それは一つには検査をしたいからであるが、検査をした結果についてもまた「よくわかりません」と言ふ。要は責任を負ひたくないのだ。

    昔の医者はそんなことはなかつた。うんうんと頷きながら患者の話を聞いて「これは〜だな」と病名を言当ててみせて、すぐに治療を始めてくれたものだ。少な くとも30年前頃までの医者はさうだつた。

    一方、今の医者は「わからない」と言つてから、さらに最悪の話にすぐに持つていく。それは、病が治癒しなくても自分のせいではない事にしたゐからだらう が、患者の気持を落ち込ませてどうして病気が治るだらうか。

    かくして彼らは医療行為をダメ元の行為にしてしまふのだ。患者は病院に行くのに、どうせ治るまい、万一治つたら儲け物といつた気持で来る事が求められてゐ るのである。

    今も落語の『代脈』に言ふ「手遅れ医者」は沢山ゐるが、最悪のことばかり言ひたがる「最悪医者」「ダメ元医者」もどんどん増えてゐるやうである。 (2007年10月1日)







    マスコミの福田首相に対する期待が高いやうだが、福田氏は政治家としてのこれまでの経歴の中でいつたい何かを積極的に実現しようとしたことなどあるのだら うか。

    アジア重視外交などと言はれてゐるが、それは自分の政治信条を実現するための外交姿勢などではなく、中国や韓国を怒らせて問題が起きては困るといつた発想 でしかないのではないのか。だからこそ、北朝鮮から帰つてきた拉致被害者を一旦返す約束を破つて大丈夫かと言つたりしたのだと思はれる。

    バランス感覚に富んでゐるといふのも、彼が閣僚として経験したのが官房長官だけであり、それはまさにバランス感覚を必要とする仕事であり、それを無難にこ なしたといふことでしかない。それがトップとして相応しい能力であるかとなれば、また別問題だらう。

    彼の政策について一番はつきりしてゐるのは靖国参拝をしないと云ふことだが、その理由が、人の嫌がることはしないといふもので、その一方で国立の追悼施設 を作るつもりもなくて、こちらも反対する人がゐるのでやらないと言ふのだから、政策実現に対する考へ方が知れるといふものだ。

    要するにはこの人は事なかれ主義の人なのである。それをマスコミは勘違ひしてリベラルだとか調整型とか色々言つてゐるだけなのだとわたしは思ふのである。 (2007年9月30日)





    年収の格差が拡大といふニュースが流れているが、最近は何でも格差と言はれる有り様で、却つて問題の本質が分からなくなつてしまつてゐる。
 
     もともと「格差」といふ言葉の意味は、新明解国語辞典が「平等が期待されるものの間に現実に存在す る高低・上下・多寡の開き」といふやうに、平等であるべきものについて使用すべき言葉なのだ。

      では給与の多寡はどうか。給与が各人の能力や労働時間や仕事の内容によつて大きく違つてくるのは当たり前だらう。給与が平等であることなど決してあり得な いことだ。そんなものに「格差」という言葉を使ふのはおかしなことである。

     以前は「格差」という言葉は、例へば「一票の格差」といふやうに正しく使はれてゐた。投票権は平等 でなければならないからだ。それが際限もなく何でもかんでもに使はれるやうになつたのは、小泉改革を攻撃するためにこの言葉が使はれるやうになつてからで ある。

      ニュースといふものは言葉を正確に使はなければならないことは言ふまでもない。ところが、それをなおざりにして何でも格差と書くマスコミの現状は大いに憂 ふべきものである。(2007年9月29日)









    「働く女性」といつても戦前生まれ女性は当然のやうに結婚した。ところが、戦後生まれの働く女性は結婚を自由意志に任されたので、仕事優先で一人のままで 来てしまふ例が多くなつた。

    では、その結婚しないで働く女性の未来はどうなのか、これは誰もこれまで経験したことのない未知の領域だつた。ところが、最近その一つの答が出た。山口小 夜子の孤独死である。

    もちろん、働く女たちの未来も理屈で考へれば分かることなので、例へば上野千鶴子が『おひとりさまの老後』といふ本を書いたりしてゐる。しかし、結婚して もしなくても女は結局一人で死ぬのだといふ悟りも、50代での肺炎による死といふ現実の前には強がりにしか聞こえない。

    老いて夫に先立たれ子供と別に暮らしてゐる一人暮らしと、働く女のなれの果ての一人暮らしとは全然違ふといふことを、この「モデルの先駆け」の死は白日の 下にさらけ出した。

    男女平等は権利である。しかし、この権利は女性を幸福にはしなかつた。戦後の日本女性の生き方に対する一つの答が出たと言へるのではないか。(2007年 9月28日)







    二十年ほど前の産院の新生児室にはうつぶせに寝た赤ちやんがずらりと並んでゐて奇異の感を抱かせたものだが、今では仰向けに戻つてゐる。突然死になつてし まふ赤ちやんが増えたからである。

    当時は、うつぶせに寝かせると頭の形が良くなると言はれたものだが、まさか医者たちがそんなことを信じてゐたはずもあるまい。では、彼らは何の目的でそん なことをしてゐたのか。

    タバコが肺ガンの原因になるといふ説が今や流行である。だが、これもいつまで持つか知れたものではない。三十年ほど前にはそんなことは言はれてゐなかつた のだから、三十年後にまだ言はれ続けてゐる保証はどこにもないのだ。

    最近レストランに入ると、喫煙席か禁煙席かを選ばされるのが決まりになつてゐるが、その元を作つた「受動喫煙の害」に関する学説は、とつくに骨抜きになつ てゐると云ふではないか。

    医学と言つても何ら確固としたものではなく、ああしたからかうなつたといふ程度の知識を寄せ集めたものでしかない。だから、医者の言ふことは、ほどほどに 聞いておく方がよいのである。(2007年9月27日)







    クライストの『ミヒャエル・コールハースの運命』を読み返したが、数年前に読んだはずなのに何一つ覚えてゐないのに驚いた。堀田善衛の『若き日の詩人たち の肖像』に出てきたのに触発されて神田の本屋で昔買つたレクラムを何とか読み通したはずなのだが、何も分かつてゐなかつたらしい。

    今読んでみると、クライストのドイツ語が古いために最近の独和辞典ではなく『岩波独和辞典』を本棚から引つぱり出してくる必要がある。しかも、レクラム版 だけなのか、コンマの位置が出鱈目で、何がどこまで続くのか分からず、読みにくい事この上ない。昔はどうやつて読んだのか見当も付かないのだ。

    ストーリーは、領主の不当な通行証の要求に対して、仕方なく預けた馬が骨と皮にされたことに怒つた博労の主人公が、馬を元の状態で返せと提訴するが、領主 の身内の妨害で却下されたのに業を煮やし、領主の逮捕に乗り出して、逃げた領主を追つてドレスデン一帯を焼き討ちにするが、最後に捕まつて死刑になるとい ふものだ。

    ところが、占ひの婆さんによるドレスデン選帝侯の未来を書いた紙が主人公の手に渡る話が途中から入つて来て、話にアラビアンナイトのやうな神秘性が加はつ て来る。そして、何とかしてその紙を手に入れようとする選帝侯と、絶対にそれを手渡すまいとする主人公の対決が最後の見所になつてゐる。岩波文庫の翻訳は 名訳である。(2007年9月26日)







    私の近所では、エコバックは早くも下火になつてゐるやうだ。スーパーマーケットのレジでエコバックを出してゐる人を最近は殆んど見かけないのである。

    私も何年か前には、布袋をスーパーに持つて行つて、レジ袋を断るやうにしてゐたことがある。しかし、これをいつまでも続けることは出来なかつた。

    それは第一に、からの布袋をポケットに突つ込んで出かけるのが意外に面倒なのである。だから、布袋を持つて行くのをよく忘れる。手提げカバンはいつも持ち 歩いてゐるのだが、そこに布袋をいつも入れて置くのはスペースの無駄なのだ。

    次に、同じレジ袋を使つてゐると汚れてくるといふ難点がある。洗へばよいのだらうが、その手間がまた面倒である。それに、同じ袋を使つてゐると飽きてくる と云ふこともあるのだ。

    最後に、布袋をスーパーのレジ係の人に見せるのは良いことなのだが、それが次第に面倒になつて来るのだ。黙つてゐれば只か5円ほどでレジ袋が出てくるので ある。やはりレジ袋削減による環境運動には限界があると考へるべきではないかと思ふ。(2007年9月25日)







    今回に自民党の総裁選挙を見てゐると、まるでちよんまげを結つた人たちの争ひを見てゐるやうな感じがした。

    徳川幕府は徳川御三家から将軍を出したが、自民党が総裁を出すのは首相の御三家から出すことにでも決つてゐるかのやうに、福田元首相の息子と吉田元首相の 孫のもとに人々が馳せ参じた。

    特に福田氏の場合には、源氏が平家と戦ふために、源義朝の御曹司たる頼朝の元に有力武士たちが馳せ参じて旗揚げを迫つたのとよく似てゐるやうな気がしてな らない。

    次に、その元首相の御曹司たる福田康夫氏は、まるで関ヶ原の戦の前に徳川家康が有力大名たちを味方につけたやうに、党内の有力者たちの支持を集めて回つ て、戦ふ前に勝敗を決してしまつた。

    確かにアメリカでもブッシュ家は親子で大統領になつてゐる。しかし、首相の世襲を重んじるかのやうな今回の自民党の総裁選挙は、日本人が背広を着て民主主 義だと言つてゐるものが実は表面的な事でしかないのではと思はせるに充分であつた。(2007年9月24日)








    禁煙原理主義を批判する養老孟司と山崎正和の対談が載つてゐる『文藝春秋』を買つて来た。その中で、アフガンの住民を救はうとしてゐるうちに土建屋になつ てしまつた医師たちの話が印象的だ。

    彼らも最初は診療所を開いて難民を救はうとしてゐた。ところが、汚れた水を飲んでゐる人たちに抗生物質を与へてもきりがないことを知り、飲料水を確保する ことの重要性に気づいた彼らは、今や井戸掘りに専念してゐるといふのだ。

    彼らの井戸掘り自体は貴重なものだ。しかし、これは裏を返せば、人の健康にとつて大切なものとしては、医学は第一番には来ないといふことの証明でもある。

    日本でも昔は似たやうな事があつた。大正9年までは日本の水道水は塩素殺菌がされてゐなかつた。ところが、それが始つてから日本の女性の寿命が延び始めた といふのだ。

    18世紀半ばにイギリスから始まつた世界の人口の急激な増加は、医学の進歩ではなく栄養の改善のせいであると見られてゐるが、日本の結核患者の激減も同様 なのださう だ。結局、健康にとつて大事なのは生活であつて、医学は補助的なものなのである。(2007年9月23日)







    現代の医者は余りにも検査に頼りすぎて、症状から病気を判断する能力を失つてしまつてゐるやうに思はれる。検査の結果得られたデータが余りにも多すぎて何 の病気か判断できないのだ。

    本屋に出回つてゐる家庭の医学書は、症状から病名を判断する記述がなされてゐるが、それは最早古き良き時代の昔の医学なのである。

    今の医者は患者の様態や症状、家族の報告よりも、CTによる画像診断と血液検査の方を信用する。しかし、画像も血液検査のデータも病気を教へてくれない。 むしろ判断を誤らせる可能性もあるのだ。

    それなのに、彼らは症状から病名を推測してすぐに治療に移らうとはしない。「検査をします」なのだ。その間に急性の病気ならどんどん進行してしまつて、ま さに手遅れに至つてしまふのである。

    毎日全国の病院のICU(集中治療室)に救急患者が運び込まれてゐる。しかし、この部屋は検査づけ医療のせいで手遅れになつた患者が人工呼吸器を付けて死 を待つ部屋でしかなくなつてゐるのが実状である。(2007年9月22日)







    街中を走る車の後ろにメーカーの名前が書かれてゐるのを見て、金を払つて買つて自分の物になつたものなのに、売つた会社の名前がなぜ書いてあるのかと、不 思議に思つたものだ。

    どうして、買つて自分の物にした人が、売つた会社の宣伝をしなければいけないのか。いや、そもそも、どうして買つた人間の名前を書かずに他人の名前が書い てあるのかと。

    ところが、現代社会では、所有権がとつくに他人に移つてゐる物について、売つてもう所有権のない会社が責任を持たされるといふ現象が普通に起こる。

    まづ、車が昔からさうなつてゐる。車は売つたあとも安全性に問題が出たら売つた会社が責任を持つ決まりになつてゐる。また、食品もさうである。食品の安全 性に対して会社が責任をもつ期間が消費期限なのだ。

    そして最近では、そんな決まりのない、ガス給湯器や石油ファンヒーター、扇風機のメーカーが何十年も前に売つた製品の責任を問はれるやうになつてゐる。

    我々は只で他人に物をやつた場合には、やつた事をいつまでも覚えてゐて、相手に貸しを作つた気でゐるものだが、会社から商品を買つた場合にも、いつまでも 会社に貸しを作つた気でゐて良いことになつたのである。(2007年9月21日)







    救急車をタクシー代りに使ふ人がゐると批判されてゐる。しかし、救急車の使ひ方としてはむしろ正解なのではないかと思ふ。重篤な病気になつてから救急車を 呼んでも助かることは先づないからである。

  確かに救急車は呼ばれたら5分で病人のもとにたどり着く。しかし、そこから病院に行くまでが5分ではない。救急隊員が最初に連絡した病院が受け入れるとし ても、打合せから受入れ決定まで救急車は路上に停まつてゐるのだ。そして再出発して病院に入るまでに30分は経つてしまふ。

    さらに、病院の救急病棟に入つても、待つてゐる医者は経験の少ない若い医者でしかない。といふのは、経験のある年配の医者はそこにはゐず、外来診療と病室 の回診をしてをり、特に夜中の時間帯は家で寝てゐる。

    一方、経験の少ない医者は症状からすばやく診断して必要な処置を施すことが出来ない。そんな彼らがまさに救急医療の必要な切羽詰まつた夜中の時間帯に救急 車の到着を待つてゐるのだ。これで助かつたらまさに奇蹟である。

    最近、救急車に乗つた妊婦のタライ回しが問題になつてゐる。しかし、実は救急車に乗つた時点でもう手遅れなのである。だから、救急車は病状の切迫してゐな い人が病院に行くのに使ふべき乗り物なのである。(2007年9月20日)







    高血圧だからといつて血圧降下剤を安易に勧める医者には注意が必要だ。血圧降下剤は一旦始めるとやめられない薬だからである。血圧降下剤を飲み出すと体が その薬無しでは生きていけないやうになつてしまふ。特に高齢者はやめると死んでしまふかも知れない。

    高齢者の多くは心臓が弱い。しかし、血圧が高くても血圧降下剤を飲まないうちは、心臓もそれに順応して働いてゐる。ところが血圧降下剤の使用に慣れて、心 臓が楽な状態を覚えてしまふと、それが心臓の能力をさらに弱めてしまひ、薬をやめたとき、心臓が元の体の状態に耐へられずに、いつぺんに心不全に陥る可能 性があるのだ。

    高齢者が高血圧になるのは高齢で血管が細くなつたためで自然なことである。最近では高齢者の血圧が180ー100以下では、血圧降下剤を勧めない医者も出 て来てゐる。しかも、血圧降下剤にはそれなりの副作用もある。

    だから、血圧降下剤を勧める以上はやめられないことやその副作用を丁寧に説明しなければいけないのだ。それ抜きに医者に血圧降下剤を勧めれたら、断るか飲 まない勇気が必要かも知れない。(2007年9月19日)







    「ウイスキーがお好きでしょ」のCMがいい。石川さゆりの歌声が実にいいのだ。ネットで調べるとかういふ歌詞だと確認した。

    ウイスキーがお好きでしょ
    もう少ししゃべりましょ
    ありふれた 話でしょ
    それで いいの 今は

   しかし、最初の一行だけでいい。あの石川さゆりの伸びやかな声には、CMが流れるたびに痺れてしまふ。いいなあと、自分でついつい口ずさんでしまふ。

  そこで、94年の紅白歌合戦のことを思ひ出した。そして、録画テープを取り出してみる。紅組の取りを彼女が歌つてゐるのだ。『飢餓海峡』である。テレビに 映してみてあの「連れてつて」のかすれ声にまた痺れる。

   彼女が歌へば、かすれ声なのに失敗ではないのだ。彼女はあの紅白の本番の一発勝負で、精一杯の気持を籠めてあのかすれ声を出してみせた。そして、あの余り にもエロチックな笑顔。そしてそれが全部作られたものなのだ。まさに芸術作品である。

   紅白で彼女は『天城越え』は何度も歌つたが、『飢餓海峡』はただの一度きりである。なぜかは知らない。だが、あのかすれ声と云ひあのエロチシズムと云ひ、 この歌は彼女には、取つて置きの一曲ではないのかと思ふ。(2007年9月18日)







    新聞社の世論調査がまたインチキぶりを見せてゐる。急に出て来た福田氏の方が次に自民党の総裁に相応しいといふ数字をはじき出したのだ。街頭演説の反応 は正反対なのだから、世論調査の数字などどうにでもなることを証明したやうなものだ。

    福田氏のやり方がまづいのは、国民に対して出馬表明をしないうちに、派閥単位の多数派工作で優位を確保してしまつた点である。出馬表明をしたのも、どこか の派閥の会合であつて、国民に向けたカメラの前ではなかつたのだ。

    これは事実上、総裁選挙を無効にしたものと言はなければならない。各都道府県で行はれようとしてゐる党員投票もまつたく意味が無くなつてしまつた。

    そもそも、自分の当選を確実にしてから出馬表明をするなどは卑怯者のすることである。「勝てさうになつたから出ます」では国民の広汎な支持を得られなくて も仕方がない。

    党本部の演説会でも福田氏は思ひつきを並べただけで大した内容もなく、時間切れに救はれたのが見え見えだつた。そんな人に対する支持の方が多いと言はれて も、嘘だらうと思ふしかない。(2007年9月17日)







   自民党総裁選挙の候補者記者会見を見たが、テロ特措法に関して福田氏が民主党との話し合ひを重視すると言つて新法に消極的なのが印象的だつた。福田氏は民 主党との協調路線を模索するつもりらしい。

    新法には国会承認の項目がない。参議院の承認が当てに出来ないからさうしたのだが、これを押し通すと云ふことは、これからは政府与党は参議院は無いものと して国政を運営していくと云ふ意思の表れになつてしまふ。

    極端に言へば、国政は衆議院だけで運営し、参議院の可決が必要な法律は衆議院で再議決していく。民主党中心の参議院がどんな法案や決議案を可決しても無視 して与党だけでやつて行くと云ふことである。

    逆に新法を出さないと云ふことは、これからも参議院が国政に重要な役割を持ち続けるだけでなく、民主党にも国政に積極的に参画してもらひ、民主党の法案の 実現にも協力するといふ意思表示となり得るのだ。

    福田氏が小沢氏に対してテロ特措法の継続をどのやうに説得するつもりか知らないが、小沢氏は実質的にこの二者択一を迫られることになるのではないか。 (2007年9月16日)







    マスコミと政界には福田康夫待望論があつて、今度の総裁選挙で一気に福田優位の状勢になりつつあるといふ。だが、国民も福田氏を待つてゐるとは限らない。

    福田氏は舞台裏にゐてテレビ出演もしないうちに、イメージ先行で支持が広がつてゐるが、討論会などで人前に立つて持論を喋り始めたら、党員や国民の間に失 望感が広がる可能性がないわけではない。

    今夜のテレビ出演でも、この人は民主党の小沢代表に対抗する人ではなく、まさに自民党の中の宥和的な雰囲気を体現した人だ、この人は戦ふ人ではなく、むし ろ大連立を目指す人だと云ふことが、一目瞭然なのである。

    しかも、50歳台の安倍さんに代はるのに71歳の老人であり、ぼそぼそした喋り方で、言ふことがはつきりしない人でもある。昔の自民党支配の時代ならそん な政治家でも首相は勤まつたが、今の時代にどうなのか。

    今のところ選挙は自民党の内向きの論理だけで進行してゐる。しかし、国民の目線が気になつてきたとき、マスコミや政界の「福田にいつぺんやらしてみたい」 といふだけでこの人を首相にしていいのかといふ疑問が噴出して来ないとも限らないのではないか。(2007年9月15日)






   テロ特措法継続が世界の注目を浴びてゐる中で、自民党は呑気に十日もかけて総裁選挙をやるさうだが、その中で元官房長官の福田康夫氏が有力になつて来たら しい。

    マスコミは自民党の中でもリベラルな福田氏ならと、うれしさうである。誰がやつても自民党なら同じだと切り捨てないところを見ると、やはり日本の政治は自 民党なのだ。

    実際、いまの自民党に対する逆風を鎮められるのは福田氏だけだらう。民主党に対する期待をそげるのも、リベラルな印象の強い福田氏だけである。しかし、仮 に自民党が福田氏で盛り返せば、自民党支配がもつと長引いてしまふのだが、マスコミの小沢贔屓も潮時なのかもしれない。

    前と違つて当選しさうな雲行きに福田氏は出馬するらしい。そして、福田首相誕生となれば、民主党の小沢代表と対等に渡り合ふ力量と覚悟のほどが試されるこ とになる。

    福田赳夫氏のあとを継ぐはずの次男が死んで議員になつた福田氏が、安倍退陣のたなぼたで首相の座に付くとしたら、それも運命かも知れない。しかし、官房長 官の仕事と違つて斜に構へてゐては、この難局を乗り越えられないことだけは確かだらう。(2007年9月14日)







    これで小沢氏が辞めさせた首相は小渕さんを含めると4、5人目だらうか。「給油継続が出来ないと辞めるつうなら辞めたらいいじやないすか」と言つたかどう かは知らないが、小沢民主党は首相との党首会談を断わることで念願の安倍退陣を実現した。

    これで局面を打開したいとする安倍氏の考へが理解できないニュースキャスターがゐるやうだが、小沢氏は次の首相との会談には応じると明言してゐるのだか ら、確実に状況が変化するのは間違ひない。

    民主党の政権公約にはイラク特措法に反対とは書いてゐるが、テロ特措法に反対とはどこにも書いてゐない。にも拘はらず参議院選の勝利に絡めてテロ特措法反 対は民意だなどと言ひ出したのは、理屈も何もなく安倍退陣を実現するためだつたのである。

    もちろん、これまでの経緯から民主党が特措法に賛成することはあり得ないが、反対の仕方が違つて来る可能性はある。安倍在任のままなら国会座り込みも辞さ ずに採決阻止に出たらうが、退陣したからには強行採決ぐらゐは見逃すことになつて、ひよつとすると措置法継続があるかもしれない。(2007年9月13 日)







   冤罪が起る一番大きな原因は、法廷では誰も本当のことを言はないことにある。検察は有罪になるやうなことだけを言ひ、弁護士は無罪か減刑されるやうなこと だけを言ふのであり、どちらも本当のことを言はないのだ。

    物証は重要だが、それは何とでも解釈できる。だから、証人の証言こそが事実を構成する殆んど唯一のものである。ところが、この証言が嘘ばかりなのだからど うしようもない。

    検察官は被告人から聴取した証言をもつて事実を示す証拠だ主張する。しかし、それは警察や検察が自分の都合のいい事を被告人に喋らせたものであり、自由意 思を奪はれた状況に置かれた被告人の言葉に真実性はない。

    それに対して、被告が法廷で語る言葉は、弁護士が自分の目的のために教へたものであつて、これもまた真実を語るものではない。検察側、弁護側の証人もまた それぞれ頼まれたことを言ふだけである。

    このやうに裁判とはみんなが嘘ばかり言ひ合ふ場なのであるから、正しい判決が下されるわけがない。だから、冤罪が起こるのは当たり前なのであつて、決して 無くすことは出来ないのである。(2007年9月12日)







  大学時代には学校の教師はやる気のないいい加減な人間のなるものだと思つてゐたので、教職の免許は取らなかつた。そのうちアルバイトで塾の先生をしてみ て、実に嫌な仕事であることも分かつてきた。
 
  何が嫌といつて人前で自分が間違ふことほど嫌なことはない。塾では英語を教へたのだが、英語の「家」をhousと黒板に書いて生徒に間違ひを指摘されたこ とがある。ああ、これはドイツ語だつたと誤魔化したものだ。

    逆に、大学で教官の間違ひを指摘したら「こんなのもあるよ」と強弁された事もある。そんなのはなくても、大学の教師とはそんなことを言はねばならぬものら しいが、さう言つた教官も不愉快に違ひない。

    教師といふ仕事で次に嫌なのは、生徒に対する好き嫌ひがどうしても出てくることである。依怙贔屓をする気はなくても、親切にする生徒とさうでない生徒が出 てきてしまふ。自分が学生時代にも自分を贔屓にする教師と、自分を目の敵にする教師がゐたものである。

  教師といふのは、かういふ嫌な点があまり気にならない人間にしか出来ない仕事なのだらうと思ふ。やはり、教師とはやる気のある真面目な人間には無理な仕事 のやうである。(2007年9月11日)







    安倍首相が、何かの法律によつてインド洋での海上給油を継続できなければ、辞任することを示唆した。一方、既に民主党の小沢代表はこの給油継続を阻止する ことで首相を辞任させることを目指してゐる。

    といふことは、首相は小沢代表がやらうとしてゐることに口実を与へたに等しい。民主党はもともとテロ特措法を政局に絡める積もりだつたが、政局のために反 対しても首相のせいに出来るやうになつたからである。

    民主党にすれば、首相の退陣と引き替へに法案を成立させることもあり得たのだが、かうなれば、法案成立に協力する可能性はなくなつてしまつた。法案が成立 しなれば首相が辞めると言つてゐる以上、政府に協力することなどあり得ないからである。

    したがつて、民主党は衆議院での審議から徹底して反対し続けるだらう。一方、自民党は野党に対する今の宥和姿勢から見て、衆議院で強行採決することは難し い。その結果、法案が衆議院さへ通過せずに終つてしまふ可能性も出てきた。

  事態は常に最悪のコースを取るものである。首相は自ら退陣の時期を早めてしまつたのかもしれない。(2007年9月10日)







    川の堤防は普段見るととても高くて、川の水は下の方を少し流れてゐるだけである。ところが、その堤防の高さには意味があることを知らされる時がある。台風 が来た時だ。あの堤防の高さぎりぎりまで水が流れるからである。

    これまでの経験から川が溢れないために、堤防はあの高さにまで積み上げられてゐるのだ。ところが、その堤防の内側に住んでゐる人たちはさうは思はなかつた らしい。台風が来ようとしてゐるのに避難しなかつた人が大量にゐたのである。

    彼らとて営々と築いてきた財産があるはずだ。公務員をしてゐる連中に言はれて避難するのは嫌だといふ気持は分からなくもないが、台風に備へて早めに家財道 具や資材を持ち出してゐれば、全損は免れたはずなのである。

    彼らは何があつても昨日と同じ生活が出来ると思つてゐたのだらうか。しかし、「そんな考へ方だからあんたらはホームレスになつたんだよ、おまけに只で救助 してもらつて」と、世間の彼らに対する目は「ネットカフェ難民」とは対照的に益々冷たくなるばかりである。(2007年9月9日)







  漫才の千原兄弟の兄が中学の時に校内10キロマラソンでずるをして、親戚のお姉ちゃんに途中車に乗せてもらつてゴールしたが、記録が6分台だつたのでずる をしたのがバレバレだつたといふ話がある。

    大阪で行はれた世界陸上では、競歩の山崎選手が最後の一周を走らずにゴールしてしまつた話が話題だが、山崎選手は一周パスして世界新記録でゴールしたのか と思ひきや、それでも一位の選手に5分近くも遅れてゐたといふのだ。

    その上に、審判員の誘導ミスのせいで本来のゴールができなかつたとマスコミに同情されてゐるのだから、格好悪い事この上ない。彼は自分が周回遅れであるこ とを知つてゐたのに、誘導ミスをした審判員がその時は救ひの神に見えたらしい。

    だから、この出来事はどちらが悪いとは言へないのだが、マスコミの手にかかると山崎選手はまるで被害者扱ひである。もちろん被害者とは何の落ち度もない人 のことである。

    しかし、そんな人はこの世の中には滅多に存在しないものだ。それなのに、出来事を加害者と被害者の枠組みに押し込めた段階で、ニュースはすでに嘘を語つて しまつてゐるのである。(2007年9月8日)








    医師不足などと言はれてゐるがこれも嘘だと思ふ。医師が足りないなどと感じたことはないからである。医師が足りないと言つてゐるのは医者の方であつて、患 者の声ではないのだ。

    むしろ、医者は少ない方がいいし、医者の数が少ないことを周知させて行けばよい。さうすれば、医者にかかる患者の数も減つて来る。本当に医者にかかる必要 のある人だけが、病院に行くようにすべきだからである。

    重要なのは、医者は病気を直せないことをもつと広めるべきだ。医者は気休めであつて、患者は自分で治るだけなのである。外科手術で悪いところを切除したり 骨折をつないだりすることは必要だが、あとはやはり自分で治るのである。

    自分で治る能力のない患者は医者が何をしても治らない。あとは寿命だと諦めるのである。年を取ればあちこちガタが来るのは避けがたい。それを元の体に戻し てくれと医者に駆け込むから、医者は忙しくなるのだ。

    医者の数は足りてゐると言ふ厚生労働省の考へは正しい。医者を増やせば医療費が増える。医療費が増えれば税金が増えるだけである。医者を暇にさせてやら う。体も機械と同じで使へば故障もするし、買ひ換への時期も来るのだと。(2007年9月7日)








    ニュースが嘘半分間違ひ半分なのは、妊婦たらひ回しで死産のニュースでも、奈良の救急車が大阪で断われたのなら大阪の救急車も断われた事件があるはずで 嘘、後から医師が断つてゐないといふ話が出て来て間違ひ、と判断できるからである。

    最近出て来た「ネットカフェ難民」といふニュースも嘘半分間違ひ半分だらう。何より「難民」といふ用語が嘘である。「難民」とはむしろ橋の下で暮らすホー ムレスの人たちにこそ相応しい。金を使つて雨露(あめつゆ)を凌いでゐる人間にわざわざ「難民」と名付けるのは、そこに作為があるからである。

    さらに「難民」といふ言葉をあんな悠々自適な生活をしてゐる人間を指すのに使ふのは間違ひである。彼らは定職が無いなりに上手に暮らしてゐる人たちであつ て、救ひを待つてゐる人達ではない。

    彼らの境遇を調べて、帰る家がないとか保証人がないとか言つてゐる人がゐるが、余計なお世話だらう。彼らは好きでそんな暮らし方をしてゐるのだ。それを騒 ぎに仕立てて政府を攻撃する材料にするのは悪い人たちである。(2007年9月6日)








    三菱の洗濯機の風呂水ホースの調子が悪いと家族が訴へてきた。ホースに穴があいたので、あちこちテープを巻いて使つてゐるのだが、風呂水をうまく吸ひ上げ ないと言ふのだ。

    それでいよいよこの洗濯機も寿命かといふ話になつたが、取り敢ず風呂水ホースを何とかしようとネットで検索すると、MAW-FR1といふ型名で売つてゐ る。しかし、そこには「お取り寄せ」と書いてあるのだ。

    どうしようかと思つて風呂水ホースの現物を眺めてゐて、ネットで売られてゐるホースには「風呂水フィルターは付属してゐません」とか「延長用のホースで す」とか書いてあつたことを思ひ出した。

    風呂水フィルターつまり風呂水ホースの先の吸水口は再利用できる。つまり、簡単に外れるのだ。そこで、穴を塞ぐたに巻いてあるテープを外して吸水口を外し てみたら、ホースをねじ込めばいいだけのことが分かつた。

    そして、ホースが傷んでゐるのも吸水口の近くの方に集中してゐることに気が付いた。それなら、バスタブのお湯に届く範囲の長さで傷んだ部分をハサミでちよ ん切つて吸水口を付け直せばいいのだと。

    といふわけで、先の方だけ50センチ程ホースをちよん切つて、吸水口をねじ込んでから、バケツに水を入れて洗濯機本体の風呂水ポンプを作動してみた。する とちやんと水を吸ひ上げるではないか。かくして、我が家の三菱洗濯機はまたしてもその寿命を長らへたのであつた。(2007年9月5日)







    警察官が交際相手の女性を射殺したとか、夜遅く帰宅途中の女性が拉致殺害されたとか、若い女性が被害者になるとマスコミは活気づくやうだ。

    しかし、男と女がゐて事件が起きれば殺されるのはたいてい女の方で、殺した方が悪いと決つてゐても、殺す方になる男は損だなと云ふ気もする。

    海辺の自転車道路をサイクリングしてゐると、海を眺めてゐるおじさんがよくゐるが、よく見ると眺めてゐるのは海ではなくビキニ姿のお嬢さんである。今日も バイクを止めて海を眺めてゐるおじさんがゐたが、やはり眺めてゐるのは海ではなくビキニ姿のお嬢さんであつた。

    やはり女は見られる方であり、男は見る方なのである。それは生まれつきであつて、その役回りで世の中は回つてゐる。だから、被害者の遺族だからと手記を発 表されても、警察官の遺族が退職金を辞退したと聞いても、少々違和感がある。

    本心は、車で迎へに行つてゐればとか、悪い女に引つ掛かつたとかいふ後悔で一杯のはずなのだが、マスコミのために誰もが芝居ばかりさせられてしまふ世の中 なのである。(2007年9月4日)







  安倍改造内閣で早々に大臣が辞任することになつたのは、参議院で問責決議案が可決されるのが確実だからである。しかし、問責決議案を出す理由は建前さへあ れば何でもいいのだ。

  といふことは、安倍首相に対する問責決議案が次の臨時国会で必ず可決されるといふことでもある。政治に対する私の興味は、安倍首相がその時どうするかであ る。

  これまで問責決議案が参議院本会議で可決された例は一度だけあつて、その時は当該大臣が辞任した。その例に従ふなら、安倍首相は辞任することになるが、そ れは内閣総辞職か衆議院解散かと云ふことになる。

    それに対して、安倍首相が辞任も解散も何もしないといふことはあり得るのだらうか。しかし、野党は国会を混乱させたくして仕方がないのだから、問責決議案 を可決した段階で国会審議に出てこなくなるだらう。そのとき与党だけで国会を開くことが出来るのだらうか。

    これまで首相に対する問責決議案が参議院本会議で可決された例はないから、まさに興味津々である。マスコミの興味はテロ特措法の行く末だらうが、結局は 「政局が第一」となるのは間違ひないところだらう。(2007年9月3日)







    「妊婦がたらひ回しで死産」などといふと、まるで医者のせいで死産になつたかのやうであるが、事実は違ふらしい。医者は断つた覚えがないと言つてゐるの だ。

    そこで、救急隊員と医者のコミュニケーションに問題があるのではといふ見方が出てきた。これは要するに奈良の救急隊員に問題があるのではないかと云ふこと になる。

    さもなければ、産婦人科医が少ないのは奈良だけの事ではないのに、奈良で救急車に乗つて産婦人科を探すと断られることの説明ができない。奈良から大阪に出 ても次々に断られたといふが、大阪の救急車だつたらどうなのかと言ひたくなる。

    そして、奈良の救急隊員は性格がおとなしいのではないのかと聞きたくなる。病院から少し都合が悪いと言はれたらすぐに引き下がつてしまひ、すぐに次の病院 に当たるのだらうか。さうだとすれば、たらひ回しの原因は救急隊員にあることになる。

    そもそも「女性が死にさうだ」と救急隊員に強く訴へらて断る医者がゐるのか。事実はニュースだけからは分からない。現実はニュースより遥かに複雑だからで ある。(2007年9月2日)







    「責任ある対応は政権を取ってからでいい」小沢氏はかうつぶやいた。それに対して民主党の議員たちは誰も反論できなかつた。彼らは権力を手にするために悪 魔に魂を売り渡したのである。

    かうなつた以上、民主党はもはや「民主」党ではない。小沢「君主」党である。だれも小沢氏を批判できないのだ。そして、小沢一郎は目的のためには手段を選 ばぬ革命家となつたのである。国政を混乱させ国益を無視し国民生活を混乱させても政権を取ることが第一なのだ。

    さうだ、小沢氏の考へてゐることは「生活が第一」ではなく「権力が第一」「政局が第一」なのである。ところが、与野党マスコミと通じてこの小沢氏のやり方 を批判する声は殆んど聞こえてこない。

    ただ一人、防衛大臣だつた小池百合子氏だけが公然と小沢氏のやり方を批判したことがあつたが、自民党の中から「小沢氏を激怒させた」と小沢氏に迎合的な発 言が出る始末である。

    いまや日本の政界は小沢氏の手中にある。テレビも新聞も小沢氏の政策秘書の問題を大きく報道しようとはしない。民主制の次は君主制の時代が来ると言はれて ゐるが、小沢君主制の時代は既に始つてゐるのである。(2007年9月1日)








    政体循環論といふのがあつて、民主政治が堕落すると衆愚政治になるのださうである。子供の指しやぶりをやめさせるためにからしを塗つたことを批判する ニュースを見て、日本もいよいよこの衆愚政治の時代が来たと実感した。

    もはや日本のマスコミは物事の善悪を判断する力が無くなつてしまつてゐるのである。指しやぶりをやめさせるのに指にからしを塗るのは昔からの知恵である。 ところが、一時の苦痛によつて悪い習慣をやめさせるのと、苦痛を避けてそれを放置するのとどちらがいいのか、マスコミは分からなくなつてゐるのだ。

    だから、指しやぶりをやめさせるのにからしを使つた事を悪い事とするニュースが出来てしまふと、もうそれをマスコミは誰も修正することが出来ない。自分で 考へる力が無くなつてしまつてゐるからである。

    大衆はマスコミの言ひなりであるから、こんな愚かなマスコミの支配下にある大衆が選択する政治が衆愚政治になるのは当然の成り行きであらう。

    ところで、政体循環論によると、民主政治が衆愚政治になつて堕落したとき、次に来るのは君主政治である。実際、ロシアのプーチン大統領の政治はまさに君主 政治と言へるやうな独裁体制をしいてゐる。そして国民を堕落させるマスコミを退場させてしまつたのである。(2007年8月31日)








    殺人事件で若い女性が殺されると、夢が奪はれたなどといふ紋切り型の記事が出るが、あれには違和感がある。人生にあるのは夢ではなく義務感ばかりだからで ある。

    女たちが夢などといふ言葉で自分の人生をいつも考へてゐるかどうかは知らないが、もし男女に違ひがないとすれば、今これからどうすべきかに最大の注意を払 つて生きるのが普通の生き方であるはずだ。

    そもそも夢などといふ言葉で自分の将来を語る人間に出会つたことはない。私が知つてゐるのは、仕方なく与へられた選択肢の内で最も増しなものを手に入れる ために齷齪(あくせく)と努力する人間ばかりである。

    また、たまたま人が羨む立場に恵まれることがあつても、その立場が要求する義務をどう果すかに汲々としながら生きてゐるのが普通であつて、それを他人は無 責任に夢が実現したなどと言ふのであらう。

    人生は悪くなることはあつても良くなることなど無いし、良くしようとして何かをすれば却つて悪くなるものだと思ひながら生きるのが賢明とされるこの国で は、死んだからとて夢を奪はれたと悔やむことなどないのである。(2007年8月30日)







    今度の内閣改造の目玉は何と言つても舛添要一氏だらう。舛添氏は自民党の中ではこれまで殆んど一人で安倍内閣批判をやつてゐた人物である。

    だから、そんなに言ふなら自分でやつて見ろといふことになつたのかは知らないが、「言ふは安し行ふは難し」を実感するのもいいことだ。また、これで安倍首 相が舛添氏のうるさい口を塞いだことは間違ひない。

    一方、参議院枠で入閣確実と鼻高々でテレビカメラを自室に入れて生中継をさせた矢野氏が外れたのは面白かつた。勝負は下駄を履くまで分からないのはどの世 界でも同じなのである。大切なことが決まるまでは神妙に構へておくべきことを、改めて国民に思ひ出させた矢野氏の功績は大きい。

  この内閣で一番期待したいのは与謝野官房長官ではないか。この人が内閣の前面に出てくれば、安倍内閣のこれまでの軽薄なイメージを一掃することが出来るの ではと思ふからである。

    何と言つてもこれまでの安倍内閣はマスコミに弱すぎた。与謝野氏は官僚ににらみが利くと言はれてゐるが、内閣のスポークスマンとしてマスコミにもにらみを 利かせてもらひたいところである。(2007年8月29日)







    スーパーのエスカレーターの乗つてゐて、エスカレーターに足の指を挟まれたといふニュースを思ひ出した。そして、どうして足先がそんなところにあつたのか といふ疑問を抱いた。

    なぜなら、実際にエスカレーターに乗つてみると、足先をステップの前面に付けてエスカレーターに乗ることなど通常はあり得ないことが分かるからである。

    スーパーのエスカレーターの各ステップには黄色で端に四角く線が引いてあり、「エスカレーターはステップの中央にお乗り下さい」と、しつこいほどのアナウ ンスが流れてゐる。

    しかも、エスカレーターの各段の前面は上へ行くに従つて突き出る形にカーブしてをり、足先を前のステップの前面にくつつければ、足の脛(すね)が前のス テップの角に当たりかねないのである。

    そこまでしなければ乗れない状況とは、エスカレーターが相当に混雑してゐて、一つのステップに二人の人間が重なつて乗つてゐたとしか考へられないのだ。

    しかし、ニュースはエスカレーターのステップの前面が破損してゐたことを伝へるばかりで、被害者がどんな乗り方をしてゐたのかは伝へない。これもまた ニュースでは本当のことは分からないといふ例であらうか。(2007年8月28日)







   27日に内閣改造があると言ふが、誰がどの大臣にならうと次の内閣もまたマスコミによつて泥まみれにされてしまふのではないかと見てゐる。今の自民党の敵 は民主党ではなく、ほぼマスコミだと言つていいからである。

    事務所経費の問題にしても、実家を事務所にして家賃を払つてゐなかつたと言つて問題にされ、今度は自分のビルを事務所にして家賃を払つてゐたと言つて問題 にされてゐる。マスコミによる自民党攻撃は、今や何でもありなのだ。

    自民党がこのやうな状態から逃れるには、とても内閣改造ぐらゐでは間に合ひさうにない。そして、このまま衆議院選挙になだれ込めば、民主党に政権の座を奪 はれるのは目に見えてゐる。だから、今は自分たちに向けられたマスコミの矛先をそらすことを考へなければならない時だらう。

    そのためには安倍総裁に辞めてもらつて、マスコミの大好きな福田康夫元官房長官を担ぎ出すのも一つの手段ではないか。さうすれば、マスコミの矛先が本当は 大嫌いな小沢一郎に向けられる可能性も出てくる。

    ただし、問題は福田康夫氏に自民党総裁になつて日本の首相になる覚悟があるかどうかである。その辺がどうも疑はしいのがこの方法の難点ではある。 (2007年8月27日)







  「扇風機火災過去に死者10人」といふニュースが流れてゐるが、多分嘘だらうと思つてゐる。

    一体扇風機のどこが燃えるのか。燃えるとしたら後ろのモーターを覆つてゐるプラスティックのカバーぐらゐだらうが、それが家を一軒燃やすほどの大きな炎を 上げるとは信じがたい。

    扇風機をしばらく動かしてから、手で触つてみると羽根に近いモーターのカバーが微かに暖まつてゐることがわかる。しかし、熱を持つ電気器具なら他にいくら もあるのだ。

    例へば、コンピューターの本体やモデムなどは手で触ればかなり熱くなつてゐる。もし火災が発生するならこれらの器具からだらう。トースターなど直接熱を使 ふ器具もたくさんある。それに、扇風機が燃えるなら、油だらけで掃除もあまりされない換気扇が燃えないのがおかしい。

    メーカーはマスコミのバッシングが怖いからさつさと謝つてしまつたが、ちゃんと検証した上でのニュースならともかく、書きつぱなしの新聞記事などを信用し て電気屋に行く必要などないのである。(2007年8月26日)







    中学で野球部員だつた時に学校のソフトボール大会で審判をやらされたことがある。くたびれるので早く終らせようと、一塁の塁審の時はどんどんアウトにして ゐた。すると大勢で押しかけて来て「今のはセーフだろ」と言はれてしまつた。もちろん、次からは割合ちゃんとやつたものだ。

    野球部のOBになつてからも母校の練習試合で二塁審判をやらされたことがある。母校の盗塁のサインは知つてゐたので、盗塁の時にはベースに近寄つて、なん とか無難にこなしてゐた。

    ところが、慌てたのは、母校でない相手チームが盗塁をしてきた時だ。サインを知らないから急に走つて来る。おまけに守備側の後輩の選手たちがアウトだアウ トだと言ふのでアウトにしたら、相手チームの監督から「移動ベースでセーフやろ」と大声で一喝されたものだ。

    逆に、審判に間違はれたこともある。公式戦で投手をしてゐて明らかなストライクをボールと言はれたのだ。その時私は「え〜」と大声を上げてやつた。あとで 監督に睨まれたが平気である。

    今年の高校野球の決勝でストライクをボールと判定されたと監督が後で騒いでゐるらしいが、なぜその時に声を出さないのか。審判も人間である。次からはちゃ んとやつてくれたらうに。

    何でもさうだが、その時は辛抱してゐて後で言ふのはよくないのである。(2007年8月25日)







  最近ウイスキーが旨いと思ふやうになつた。昔はビールさへどこが旨いのかと思つてゐたのに、今やこのざまである。

  大学生の頃には大人ぶつてウイスキーを飲んでも旨いとは思はなかつたものだ。ところがウイスキーのオンザロックや水割りが「甘い」などと感じるやうになつ て仕舞つたのだ。

  もつとも、わたしが好んで飲むのは第三のビールで割つて飲むやり方である。かうして飲むと微かなビールの苦みの中にウイスキーの甘みが際だつてくる。

  ウイスキーの量はシングルとかダブルとかいふ言ひ方で表現するが、シングルのウイスキーに第三のビールをコップ一杯までつぐのである。ウイスキーの量はこ れ以上でもこれ以下でもよくない。そして、ビールは第三ぐらいが苦過ぎなくてちようどよいのだ。

  日本酒の旨さはすぐに分かるが、ウイスキーの旨さを知れば、世界の旨さを知つたやうな気がする。かうなれば、旨い物を口にするなとは誰も言へまいといふ気 になる。そして「酒なくて何の己れが天下かな」と言ひ出す。やつと人生の意味を知つたやうな気になるのである。(2007年8月24日)








    医者が藪医者かどうか知りたければ、例へば、診察室の外で患者と出合つたときの対応を見ればよい。藪医者は診察室の外で自分の患者と出会つても気づかない からである。

    そんな医者は、診察室にカルテが回つて来たときだけその患者のことを思ひ出し、カルテが診察室から出て行つた途端に、その患者のことを自分の頭から消し去 つてしまふ。

    診察室に来た患者が苦痛を訴へたら、その苦痛を取り去ることを至上命題と考へるはずだが、そんな医者にとつては、苦痛の訴へは高価な検査を受けさせる切つ 掛けでしかない。

    そして、検査の結果何も分からなければ、その苦痛は存在しないことになる。次にその医者の考へることは、何かの薬を出す理由か、別の検査を受けさせる口実 を探し出すことである。

    患者をカルテでしか思ひ出さない医者の一番分かりやすい特徴は、患者の訴へを自分より先に看護婦に聞かせることである。

    そんな医者からは出来るだけ早く逃れるのが賢明である。「勝手にやめて先生気を悪くしないかしら」などと悩む必要はない。そんな医者は患者が来なくなつて も気がつかないからである。(2007年8月23日)







    将棋の渡辺龍王が「高校野球は見ませんね」とNHKの将棋講座の中で発言したのは面白かつた。自分より年上の人たちがやつてゐる間は見たが、同年配か年下 になつてからは見なくなつたと言ふのだ。

    大抵の日本人はそんなものだらう。高校野球と言つても、たかが少年野球だと気付くときが来るのである。

    ところが、テレビやラヂオではその少年野球を伝へるのに相ひも変はらず必死になつてゐる大人たちがゐる。何でそんなに絶叫するのだと思ふやうな放送を連日 やつてゐるのだ。

    スーパーマーケットなどに行くと、高校野球に熱心に見入つてゐる人たちが沢山ゐる。家にゐては暑いのでクーラーの利いたスーパーで時を過ごす爺さんたちで ある。

    しかし、その側にゐる子供たちはテレビに背を向けてゲーム本に見入つてゐる。高校野球のファンは、かなりの割合で高齢者のしかも男性に限られてきてゐるの だ。

    ところが、それを放送してゐるのは分別盛りの中年の男たちなのである。これもまた、東洋の大国日本に見られる奇異なる風景の一つと言へるのではないだらう か。(2007年8月22日)






   参議院を野党が支配したといふことは、野党も賛成する法律しか成立しなくなつたといふことである。それは要するに全員の議員が賛成する法律しか作れなくな つたといふことである。

    全員が賛成する法律なのだからさぞかし善い法律がたくさん出来るやうになると思ひたいが、では全員が賛成する法律とはどんな法律だらうか。

    それは例へば、コムスンやノヴァのやうな会社や飲酒運転のドライバーを取り締まる法律がさうだらう。一方、社会保険庁の怠慢職員を辞めさせる法律は民主党 が賛成しない。つまり、全員が賛成する法律とは、政治家・政党やその支援団体とは関係のない企業や団体・個人に対する法律である。

    だから、これからはどんな個人や団体も自分を守るために、どちらかの政党の支援団体に加入することが必要になる。予算案は衆議院を支配する政党の意見が通 るから、自分に有利な状況を作り出すためにも、何れかの政党を支援する方が得だと云ふことにもなる。

    現在の衆参のねぢれ状態が長引くやうだと、日本国民も政治に無関心なお客さんではゐられなくなり、欧米のやうに二大政党のどちらかを積極的に支援する人が 増えて来ざるを得ないのではないか。(2007年8月21日)







   天気予報といふは元々外れるものだが、最近気象予報士が天気予報をするやうになつてから、よけいに外れるやうになつた気がする。

   最近では、台風4号の予報で、いつまでも台風が去らないといふ予報を見ながら、嘘だらうと思つてゐたらやはり嘘だつた。さつさと関西を一晩で通過してしま つたではないか。

   気象予報士の試験は難しいと言ふが、タレントが片手間の勉強で通つてしまふのだから高が知れてゐる。若いお姉ちやんの気象予報士の言ふことなんかより、長 年の経験がある我等一般人の方が天気のことはよく分かつてゐるのだ。

   気象予報士が予報すると言つても、元ネタは気象庁が作つてゐる。ならば、視聴者が聞きたいのはそれを作つた人間の意見であつて、人のフンドシで相撲を取る だけの気象予報士の意見ではないのだ。

   これは最近のテレビのニュース番組全体についても言へることである。素人が新聞の記事を元にして分かつたやうなことを言ふのは聞くに堪へないものがある。

   「どんな技術であらうと、それが完成の域に達するには、物の本姓についての空論に近いまでの詳細な議論と、現実遊離と言はれるほどの高邁な思索を必要とす る」といふプラトンの言葉はここでも有効なのである。(2007年8月20日)







    サラリーマン川柳に「売る人の顔見てやめた化粧品」といふのがあるさうだ。化粧品を売る女は化粧部員といつてみんな美人である。こんな美人が使ふから綺麗 になる。同じ化粧品でも自分が使へば高く付くだけなので、買ふのをやめたといふ意味だらう。

    売り手があまりに美しいと胡散臭くなるのは政治も同じである。安倍首相が「美しい国」と言ひ、選挙でも真面目一点張りで、実際に出来ることしか公約にせ ず、年金不祥事も格差社会も全部自分で背負ひ込んだのを見て、あまりにも美しい姿と美しい振舞ひに国民は辟易してしまつた。

    一方、多少は醜男でも多少は嘘臭く思へる公約でも、夢を与へてくれる小沢代表の方が、国民にとつては自分の背丈に合つて好ましく思へた。美しい化粧部員が 売る化粧品よりも、不美人の必死の厚化粧の方が、これなら自分も少しは綺麗になれる気がしたのである。

    ところで、この川柳を読売新聞の編集手帳は、化粧品も売り手がブスでは買ふ気も失せると解釈して、安倍政権の美しくない点をからかふために利用してゐた。 新聞記者もたまには百貨店の一階にある化粧品売り場を廻つてみるのもいいのではないか。(2007年8月19日)







    妙な歌が流行つてゐる。「私のお墓の前で泣かないで下さい」といふ歌詞で始まる『千の風になつて』だ。まづ「私のお墓」がおかしい。自分の物に「お」は付 けないのが日本語の敬語の常識であらう。

    次に、「お墓」は詩語ではないだらう。詩に使ふ言葉といふのは何でもいいわけではない。墓所であることを意味する「はか」を使つた歌は稀ではないか。百人 一首を見てもそんな歌はない。岩波古語辞典を見ると、万葉集には「みはか」の読みを含む歌が出てゐるが、「おはか」は他にあるのだらうか。

    歌謡曲の歌詞はどうかと検索サイトで調べてゐると、「お墓」を歌詞に含む歌は「千の風」を含めて8曲あると出た。しかし、どれも知らない歌ばかりだ。

    文学の世界はどうか。墓を意味する言葉は使つても、こんなにストレートに「お墓」と書いた詩は見たことがない。「お墓」といふ言葉自体、墓地や墓石のコ マーシャルによく見る言葉といふ印象が強い。

    この歌をお笑いタレントがしきりにおちよくつて歌つてみせるが、この歌にはおかしな物を真剣に扱ふといふギャップがあるからに違ひない。お笑いタレントの 感覚は間違つてゐない。この歌の詩は変なのである。(2007年8月18日)







    今年の夏も、テレビや新聞では戦後がまだ続いてゐるとする論調が多く見られたが、あの戦争が国民にとつてどんどん遠ざかつてゐることを示す現象があちこち で見られた。

    その第一が、靖国神社を参拝した現役閣僚の減少である。かつては靖国神社に参拝しなければ国民の期待に答へられないと、万難を排して参拝を決行したものだ が、今や参拝しなくても大勢に影響はないと考へられるやうになつた。

    全国戦没者追悼式での河野議長の言葉もまたさうだらう。戦後間もない頃に戦没者を貶しめるやうな発言をしたら大騒ぎになるところだが、それが大した批判も 受けないのは、命賭けで戦つた軍人に対する尊敬の念が失なはれて来たからに他ならない。

  現実の戦争には敵と味方しかないのだが、被害者や加害者といふ交通事故のやうな言葉が飛び交ふやうになつたのも、また戦争を交通事故と同じく誰か他人のや らかした事と考へるやうになつた結果である。戦争はもはや評論の対象と化したのだ。

  そして最後に参議院選挙における野党の勝利である。もはや国民は旧軍人たちの利益を守つてくれる自民党でなくてもよくなつたのである。かうして、戦後レ ジームからの脱却は誰かが言はなくても、確実に進行していくのである。(2007年8月17日)







    日本社会で出世してゐる女性の中に男女平等思想を梃子にして出世してゐる女性が沢山ゐる。役人である。役人は男女平等の規準を満たすために一定数の女性が 登用される。だから、ある程度能力があつて当り障りのない人物評があれば、どんどん出世していく。

    役人の世界が女性を大切にするのが実力を正当に評価した結果ならばよいが、女性を登用することに数としての意味合ひが強いのでは困る。今の最高裁判所判事 にも女性が入つてゐるが、この人は社会保険庁の長官だつたことが明らかになつてゐる。そして、その長官当時の能力はどうだつたかが疑はれてゐるのだ。

    一方、政治の世界は女性優遇ではないので、いくら女性官僚でも選挙に出ると実力が問はれるから、おいそれと勝つことは出来ない。これまであまり重要でなか つた外見も重要になる。

  それでも、女性の国会議員は役人上がりの人が非常に多い。日本で男女平等の恩恵を受けてゐるのは役人と元役人たちだけなのである。だから、さういふ恵まれ た立場で出世した女性たちが男女共同参画社会などと言つて男女平等を主張してもあまり説得力はないのである。(2007年8月16日)







   最近森元首相がテレビ出演して発言した中で、民主党は政府の法案に反対することによつてしか纏まることが出来ないと言つたのは正しい。

    民主党は元社会党から元自民党まで全く異なる政治信条を持つ政治家たちの寄せ集めであるから、積極的に何かをすることではなく、何かをしないといふ消極的 姿勢に依つてでしか纏まることができない。

  先の国会で民主党が政府提出の法案に悉く反対して与党を強行採決に追ひ込んだのも、これから提出する郵政民営化凍結法案や年金流用禁止法案などが消極的内 容なのもその現れである。

  テロ特措法を、小沢代表はブッシュ大統領がアメリカの戦争だと言つたといふのを口実にして反対してゐるが、それは国民投票法案を、安倍首相が憲法改正を公 約にすると言つたのを口実にして反対したのと全く同じで、反対できれば理由は何でもいいのである。

    小沢代表は、いま世界状勢や日本の国益などに関つてゐる余裕はなく、ひたすら反対することで次の衆議院選挙まで民主党の団結を維持することしか念頭にない のである。(2007年8月15日)







    毎年夏になると第二次大戦のしかも日本関連のものを扱つたテレビ番組がしきりに流されるやうになるが、最近は見たことがない。

    第一に、いつまで60年以上も前の戦争を扱ふのか、100年経つてもまだやるのかと思ふからである。実際、同じ戦争でも102年前の日露戦争に関するテレ ビ番組をやる放送局はない。

    第二に、あんな物を見ても正確な史実を知ることは出来ないからである。特にNHKが作つたものは、必ず反戦平和思想と言ふバイアスがかかつてゐるので、こ の考へ方にとつて都合の悪い事実は隠されてゐるのだ。

    これらの番組が主張する、戦争は悲惨なもので平和は良いものといふ考へ方は、極めて左翼的なものである。戦争さへなければ人々が幸福に暮らせるなら、こん な簡単なことはない。

    ところが、世界の国々は平和を作り出すために世界の至る所に軍隊を派遣していま現在も戦つてゐるのだ。さうした現実に目をつぶつて、何も分からない子供に 「平和への誓い」を読ませるなどは、無意味である。

    平和集会に参加して平和を祈つたりするのは如何にも良いことのやうに見える。しかし、そんなものに関はつても世界平和が達成されることはなく、ただ左翼の 政治運動に巻き込まれるだけなのである。(2007年8月14日)







   憲法を改正することは戦争ができる国にすることだといふ人たちがゐるが、これは、誰もが戦争には反対だから憲法改正=戦争と言へば、誰もが憲法改正に反対 するだらうといふ安直な考へ方に基づいてゐる。

    第一、憲法改正によつて戦争ができる国にならないことは、今でも日本は戦争のできる国であることを思ひ出せば明らかである。戦争放棄と言つても、自国を攻 撃されたら戦争をせざるを得ないからである。

    戦争放棄といふのは外交交渉において戦争を手段にしないと言ふことである。だから、日本は沖縄返還のためにも北方領土の返還のためにも戦争をしなかつた し、これからもしないのである。

    したがつて、安倍内閣は憲法改正によつて戦争ができる国にしようとしてゐると言ふなら、もつと正確に、安倍内閣は憲法改正によつて外交手段の中に戦争を含 める国にしようとしてゐると、言はなければならない。ところが、彼らはさうは言はない。そんな本当のことを言へば運動が盛り上がらないからである。

    自民党の憲法改正案では第九条第一項の戦争放棄の条項は変へないと言つてゐる。だから、この改正案によつて外交手段として戦争のできる国になることなどあ り得ないのが真相なのである。(2007年8月13日)







  全国の自治体で放置自転車を撤去するのが流行つてゐるが、撤去した自転車を引き取りに来ないで困つてゐるのださうである。

    姫路市では去年撤去した自転車のうち引き取りに来たのは1/4しかなかつた。この費用に市は年間3300万円も使つてゐる。一方、引き取りの際に徴収でき た料金収入は160万円しかなく大赤字だといふのだ。

    しかし、1/4の引き取りで160万円なら全部取りに来ても4倍の640万円にしかならず、赤字であることに変はりはないはずだ。それを市役所は「心ない 人たちのために多額の税金が使はれてゐる」と言つてゐるといふのである。

    市役所の人たちは自転車を撤去された人の気持を考へたことがないのではないか。撤去されたといつても盗まれたのと変はりはない。しかも、町外れの保管場所 に問合せて車で取りに行くにしても、わざわざ金を払つて怒られに行くやうなものなのだ。

   放置自転車を無くしたら快適で安全な町作りができるといふので、後先をよく考へもせずに右へ倣へで制度を導入するからこんな事になる。むしろ「頭脳のない 役人のために多額の税金が使はれてゐる」といふのが正解ではないのか。(2007年8月12日)







   民主党が参議院を征したのでいいところを見せようと、テロ特措法に反対したり、色々と法案を出してきてゐる。しかし、それらは政府与党の政策に何でも反対 の、これまでのやり方と全く同じで新味のないものだ。

    ところが、左翼系の新聞はその何でも反対のやり方に何でも賛成なのだ。しかし、賛成したいにも、それらが国益も何も眼中になく、与党に対する嫌がらせの法 案でしかないのは明らかなので、支持するための論調作りに苦労してゐるやうである。

    その結果、テロ特措法に反対するのは、国会の議論に緊張感が出てよいと書く新聞があれば、この法律はテロ撲滅には何の役にも立つてゐない、と言ひ切る新聞 まで出てきた。

    民主党の法案の中に「年金保険料流用禁止法案」と云ふのがある。実に分かりやすい名前なので、誰もが賛成するのださうである。しかし、民主党は年金を根本 から作り直すのではなかつたのか。

    なぜそちらを先に出さない。基礎年金は税金で賄ひ給付に所得制限を付けるといふ年金案だ。しかし、これが審議されたら財源がないことがばれてしまふ。そこ で出したのが流用禁止法案だらう。

    これが世間受けを狙つたものであることは明らかである。なのに国政をそんなことに利用していいのかと書けないのだ。新聞もまた野党のこの勝利に耐へられる かが試されてゐると言つてもいいのではないか。(2007年8月11日)







   『決定版 正伝・後藤新平』といふ本が出てゐるが、実に不思議な本である。

    著者は鶴見祐輔なのだが、その原稿を使つてゐない。本の始めにタイプ原稿があると書いてあるのだが、凡例には底本がどうのと書いてあるだけなのだ。しか も、その底本の名前も書いてゐない。

    おそらく底本とは太平洋出版会から戦時中に出た本のことで、それは近所の図書館にもある。それなのに、なぜ明記しないのか。

    次に、一海知義校訂となつてゐるが、校訂者の「あとがき」などが一切ない。だから、どういふ校訂作業をしたのかが不明なのである。これでは名前を借りただ けなのかと思はざるを得ない。

    また、この本は現代の読者が読みやすいやうにと、現代仮名遣ひにしたり漢字を常用漢字に改めたり、漢文や文語文には本文の中に現代語訳を付け、さらに歴史 的な事実を説明するコラムまで作つて、至れり尽くせりである。

    しかし、鶴見祐輔は『プルターク英雄伝』の訳者で、実に名文家であつて、明治の人間の難解な言葉遣ひにこそ価値があるのだ。それなのに、内容が分かればい いと云ふ編集になつてしまつてゐる。

    鶴見祐輔ファンとしては、元の本をしつかりと復刻して、その上で振り仮名や注釈を付けてくれたら良かつたのだ。これでは資料価値は半減である。旧仮名遣ひ が気になる読者がこんな本を手にすることはないといふ割り切りが必要ではなかつたらうか。(2007年8月10日)







    私立高校の大学合格者水増しが批判されてゐる。しかし、これは皆やつてゐるからやつただけのことであつて、校長たちは自分たちの世界の流行に従つただけな のだ。

    この流行、つまり流れや潮流といふのは、実は新聞がよく使ふ正しさの根拠でもある。これは、欧米では禁煙の流れが定着してゐるのに日本は遅れてゐるといふ 例の論理でもある。新聞もまた正しいかどうかの価値規準を流れに求めてゐるのだ。

    私学の野球部の特待生問題もさうである。みんなやつてゐるからやつたまでなのだ。わたしには、これも金を使つたチーム力の水増しにしか見えないのだが、こ ちらは新聞によると正しい事なのださうである。金で優秀な子供を集める事は、他のスポーツではみんなやつてゐるからと言ふのだ。

    とすると、私学の合格者の水増しについては、今回マスコミのせいで「流れ」が変つてしまつて、今度は悪い事といふ流れになつただけといふことになる。

    このやうなマスコミの作る流れは、大臣の失言や疑惑でも見られたことだ。しかし、「こんな非道いことをやつてゐる」といふ論調は、議論を封じることでもあ る。まづ議論が来るべきところに流れが来てしまふ。これはもつと警戒すべきことではないだらうか。(2007年8月9日)








    今度の選挙の結果、自民党の議員の中からも安倍首相の続投に異論が出てゐる。では、議会政治の本家である英国ではどうか。どうやら選挙の結果で政権与党の 党首が交代したことなど無いやうである。

    例へば、チャーチルは第二次大戦後すぐの総選挙で破れて下野したが、保守党の党首の地位はそのままである。そして、次の総選挙で勝つとまた首相の座に返り 咲いてゐる。

    ブレアの労働党に1997年の総選挙で大敗した保守党のメージャー首相でさへ、政権を失つたにも拘はらず、次の党首選挙まで党首を辞めてゐない。その他で も、政権党の党首が国政選挙で負けて交代したといふ例は見当たらない。

    英国では、党首を選ぶのは党員であり、首相を選ぶのは国民であると、明確に区別されてゐるからだらう。だから、野党はともかく、政権党の党首は本人が引退 するまではなかなか交代しないものなのである。

    今回の参議院選挙の結果では、自民党の支持者の7割以上が安倍首相の続投を支持してゐる。つまり、自民党総裁を代へる必要はないと言つてゐるのである。代 へろ言つてゐるのは野党の支持者である。

    自民党の議員たちはもつと自分の党の支持者の意見を尊重すべきだらう。(2007年8月8日)







    朝青龍がうつ病状態であるといふ報道が流れてゐる。もし本当なら自殺の可能性があることになるが、それでも相撲協会は様子見を決め込んでゐる。このやうな 状況は、命を大切にしようと言ひながら実は人間を大切にしない日本社会を凝縮したものと言へる。

    この国では、組織と人間の関係では組織が絶対的な優位に立ち、人を人とは思はない一方的な決定が下ることが珍しくない。朝青龍に対する処遇は、本人の弁明 に耳を傾けることもなく、独自の事実調べもせず独断的に下されたものだ。

    まるで江戸幕府の裁定を思はせるやうな、このやうな前近代的なやり方が罷(まか)り通つて、しかも誰も疑問に思はないところに、ヒューマニズムとはかけ離 れた日本社会の実態がある。言ふまでもないが、ヒューマニズムとは組織ではなく人間を第一にする考へ方だ。

    相撲協会は、大相撲の全てを自分の思ふがままに操る朝青龍が憎くてたまらなかつた。そこで朝青龍の僅かな判断ミスにつけ込んで、朝青龍を村八分にして意趣 晴らしをしてゐるのだ。しかし、そこにあるのは子供じみた私情でしかない。

    そしていま相撲協会も国民の多くも朝青龍が自殺をしても構はない、自業自得だと思つてゐるのだ。人の命はこの国ではこれほどに軽いのである。(2007年 8月7日)







   今度の選挙で自民党に投票した人たちの目から見れば、いまの政治状況はプロレスで言へば、悪役レスラーが好き放題してゐる時間にそつくりだらう。

   レフリー役であるマスコミは、悪役レスラーがタイツに何かを隠してゐて、それを使つて力道山に痛い目を遇はせてゐるのだが、その瞬間だけレフリーの沖識名 (おきしきな)は、リングの外にゐる別の選手に気をとられて、見てゐないのだ。

   そして、力道山が反撃しようにも悪役レスラーの反則技に遮られて、どうしようもない。やつと力道山がその武器を奪つて相手を押さへこんでも、沖識名はリン グの外に気をとられて、それにも気がつかない。

   沖識名の名前は阿部四郎と言つてもいい。今回の選挙でのマスコミの役割はまさに彼ら悪徳レフリーにそつくりだつた。自民党から出馬した弁護士を黒塗りにし たりして、政府与党に有利になるやうなことは一切避けながら、その同じ局のニュースキャスターが政府与党に対する悪口を言ひ続けたのだから。

   そして世論調査から小沢一郎を信用して期待する国民が皆無であることからも、彼が悪役レスラーであることは明らかなのだ。ならば、力道山の空手チョップが 炸裂して、小沢一郎がリングに沈むのもさう遠くないはずである。

   果して、昔のプロレスのやうにこの後の政局が進むかどうか。それは、観客である国民が声を上げて悪徳レフリーを目覚めされられるかどうかであり、これも昔 のプロレスの試合とよく似てゐる。(2007年8月6日)







    「大は小を兼ねる」といふのは大体当つてゐて、下着はいつもLLを買つたりするが、学歴の方は大きすぎると困ることもあるらしい。

    高卒の募集に対して大卒で応募することは出来ない。しかし、せつかく公務員になれるなら清掃作業員でも構はないと、自分の履歴の最後の行を書かずに済まし た人が多くて問題になつてゐる。

    もともと学歴詐称とは卒業してゐない大学を卒業したと書くことのはずだ。だから、卒業した大学を書かないで学歴詐称だと言はれるとは思ひも寄らなかつたの ではないか。マスコミの論理は、本当に高卒で応募して採用されなかつた被害者を思へといふのだらう。

    しかし、本当に高卒だつたとしても試験で負けたのは事実である。役所としても優秀な人材が取れたのだから、本来文句を言ふ筋合ひのことではない。しかも、 事実に反することを書いたのではなく、事実を書くのを一行だけ省略しただけなのである。

    新聞記事などでは、前者は時々見られるが、後者はしよつちゆうあることだ。自己申告で大目に見るのが妥当なところではないか。(2007年8月5日)







   道路交通法が治安維持法のやうになつてきた。昔は社会の有能な人間がこの法律によつて次々と引つ張られた。現代では道路交通法の犠牲者になる人が次々と出 てゐるが、その中にスケートの織田信成が含まれることになつた。

    この法律の酒気帯び運転の条項は社会に何一つ損害を与へずに処罰される点で、治安維持法の予防拘禁と同じである。かつてはインテリが進歩的な考へ方をして ゐるといふだけで引つ張られたが、現代では少し酔つて運転してゐたといふだけで引つ張られるのだ。

   酒飲みは誰であらうと、飲んだ後で車を運転する状況に追ひ込まれることは稀ではない。酒なしで暮らせないのは何もアルコール中毒患者だけではないのだ。日 本は酒飲み社会だからだ。

    しかも、飲酒運転が社会問題化してゐることに対する認識が問はれるとなつて、物の考へ方自体が問題視されてゐる。これは思想を取り締まるのと同じであり、 ますます治安維持法に似てきた。

   治安維持法はなくなつたが、今や進歩思想の中毒患者は日本から無くなるどころか増えるばかりである。では、新治安維持法の効果はどうなのか。酒飲みといふ 思想もまた無くすることなどあるはずがないのである。(2007年8月4日)







   今度の選挙によつて参議院では野党が過半数を占めたから、与党はこれまでのやうに衆議院で強行採決できなくなると言はれてゐる。

    これは衆議院で強行採決して可決しても参議院で否決されるから、与党は野党と協力して国会を運営しなければならなくなつたといふ意味であらう。

    しかし、小沢民主党に果して衆議院で与党と協力する気があるのだらうか。むしろ、ここで一気に衆議院を解散に追ひ込みたい民主党は、これまで通り徹底的に 与党の法案の採決に反対する姿勢を続けるのではないか。

    さうなれば、やはり与党はこれまで通り強行採決をするしかなく、しかも参議院で否決後に衆議院で再議決といふ手段を選ばざるを得なくなる。

    一方、民主党は参議院に次々と法案を出して可決させると言つてゐる。しかし、参議院で与党が採決に反対すれば、今度は野党が強行採決しなければならなくな る。

    さうなつた時、マスコミは与党の強行採決は悪くて野党の強行採決は正しいと言ふのだらうか。(2007年8月3日)
 







   新聞に今回の参議院選挙の得票数の比率が出てゐた。それを見ると、比例区での民主党の得票割合は前回よりわづかに2%増えただけ、選挙区に至ては1%増に 過ぎないといふ数字が出てゐる。

    それに対して、自民党は比例区で2%減、選挙区で5%減だ。この数字を見る限り、この選挙では民主党の票はたいして増えてゐず、自民党が勝手に票を減らし てゐたといふことになる。

    要するに、この参議院選挙はまさに典型的な「自民党にお灸を据ゑる」選挙だつたのである。

    実際、朝日新聞の世論調査によると、「民主に何を期待するかでは、『与党の政策を改めさせる』が37%と多く、『政権交代を実現する』は25%、『期待し ていない』は33%」もある。

    しかも、「衆院の解散・総選挙の時期を聞くと、『急ぐ必要はない』という人が54%と半数を超えた」のである。民主党の議席増は国民が民主党に期待した結 果ではなかつた。

    民主党はこの選挙に勝つて大喜びしてゐるが、相変はらず野党としての役割しか期待されてゐないと云ふこの現実をよく噛みしめるべきであらう。(2007年 8月2日)








    怪我の治療のためにモンゴルに帰国してゐた朝青龍がサッカーをしてゐたことをマスコミが問題にして騒いでゐる。しかし、これがモンゴル政府と日本の外務省 の要請に従つたものであることをどう考へてゐるのか。

    北の湖理事長は政府の要請なら仕方がないと突つぱねればいいだけのことだ。日本相撲協会は文科庁の管轄下にあるとは言へ、政府機関ではない。モンゴル政府 の方が偉いのである。それを何とモンゴル大使館に謝らせてしまつたのだ。日本相撲協会は一体何様なのか。

    そもそも相撲協会は、マスコミが「サッカーに興じてゐた」と書いたのを真に受けることからして間違つてゐる。朝青龍は無理をして子供たちに元気なところを 見せて笑顔振りまいてゐたと何故考へないのか。帰国を許可したのは相撲協会自身なのだ。

    怪我をしてゐたらサッカーなんか出来るはずがないといふが、相撲協会も朝青龍の先場所の優勝を見てゐたはずだ。怪我にも色々ある。朝青龍の怪我が我慢すれ ば動ける怪我であることは明らかではないか。

    これはマスコミによる悪意の報道である。北の湖理事長さへもそんなものに振り回されるとは情けないことだ。(2007年8月1日)







    民主党の鳩山幹事長は、参議院の議長の人事を聞かれたとき、それは小沢さんに聞いてみますと答へた。民主党が如何に小沢氏一人に依りかかつた政党であるか が、これを見ても分かる。

   テレビに出演した民主党の議員たちの語ることもまた小沢氏の言ふ事とそつくりだ。民主党は小沢氏の個人商店なのである。先の国会で与党の法案に何でも反対 したのも小沢氏の指示だつた。ここに民主党の大きな弱点がある。

    その民主党の議員たちがこの勝利に驕り高ぶるばかりなのはどうしたことだらう。彼らは「勝つてかぶとの緒を締めよ」とか「驕る平家は久しからず」といふ言 葉を忘れたのだらうか。

    勝負事はしばしば人の本性をさらけ出す。負けた自民党を見よ。誰一人恨み言を言ふ者はゐない。マスコミの報道がおかしかつたとか、逆風で負けただけだと強 がつても良ささうなものだが、誰もが神妙な面持ちで、謙虚な態度に終始してゐる。

   一方で民主党は、たかが60議席で大喜びである。自民党が参議院選挙で勝つた時はいつも取つてゐる65議席前後を取れなかつた事を反省することなど思ひも よらない。民主党はまだまだ野党気分が抜けないやうである。(2007年7月31日)







   テレビでプロ野球中継を見てゐると、自分の好きなチームがチャンスでいつも凡退して中々得点できない。ところが、自分がテレビを見てゐないとヒットを打つ て得点することが多いのだ。

    また、自分がテレビをつけた途端に相手チームがホームランを打つことがよくある。そこで、どうやら自分がテレビを見てゐない方が贔屓(ひいき)チームが得 点して勝つらしいことが分かつて来た。

    つまり、球場から遠く離れた家のテレビで自分がプロ野球を見ないといふ事と、贔屓チームが勝つといふことは、相当の因果関係があるとしか思へないのであ る。

    これと正反対なのが選挙である。自分が誰かに投票することと、その人が当選するかどうかはあまり関係がないのだ。選挙には風とか組織とかいふものがあつ て、それを操作する人たちが自分とは関係のないところで結果を決めてしまつてゐるらしいのである。

    実際は、プロ野球の場合には、自分が家で何をしようがチームの勝ち負けとは関係ないはずであり、選挙の場合には、自分の投票行動が選挙結果に直接関係する はずなのだ。しかし、どう見ても逆にしか思へないのである。(2007年7月30日)







   こんどの参議院選挙で、民主党が参議院の第一党になり議長も取れさうだといふ話だ。これまで戦後政治の歴史の中で、こんなことは一度もない。もしこれが実 現すれば、まさに広義における「戦後レジームからの脱却」となる。

    例へば、二大政党制のアメリカでは、大統領の与党が議会で少数であることは珍しくない。だから、二大政党制になれば、二院制の一方で与野党が逆転してゐて もおかしくないのである。

    しかし、アメリカではそのために大統領の提案が議会でことごとく否決されるやうなことはない。議会は議会としての役割を果してきたのだ。つまり、参議院で 与野党が逆転すれば、参議院の良識がいよいよ問はれることになるのである。

    例へば、この機会に、参議院は党議拘束をなくして、誰の指図にも依らずに、与野党の法案を是々非々で審議して、党利党略による反対をなくしていけば、独自 の審議機関としての権威を手にすることが出来る。

   しかも、さうなれば、参議院選挙で衆議院議員が走り回ると言ふ奇妙な現象はなくなり、参議院は参議院だけの選挙となり、誰のスキャンダルに目を眩ませられ ることなく、しつかりと政策を考へる選挙になるはずで、実にいいことずくめなのである。(2007年7月29日)








   かつて小泉前首相が参議院で法案が否決されたことを理由に衆議院を解散するのは邪道だと言はれた。それなら、今度の参議院選挙で与野党が逆転したら衆議院 を解散すべきだと言ふのも邪道であらう。

   政府与党は、参議院選挙で負けたからといつて衆議院を解散して国民の信を問ふて、仮に総選挙で勝つても野党の多い参議院が屈服させることはできない。それ は単に野党に政権交代のチャンスを与へるだけのことであり、あまりにお人好しといふことになる。

   それより問題なのは、参議院選挙で与野党を逆転させることで衆議院を解散させて政権交代を目指してゐる小沢民主党の姿勢である。これでは、参議院選挙は衆 議院選挙の前哨戦でしかないではないか。

   今でさへ、参議院は衆議院の議決の追認機関でしかないとか、衆議院のカーボンコピーとか言はれてゐるのに、小沢民主党は参議院を衆議院の政権交代の道具に しようと言ふのだらうか。

   これこそまさに参議院軽視であり、ますます参議院の存在意義を失なはせるものに他ならない。(2007年7月28日)






    最近の新聞の投書に「一度民主党に政権をゆだねたらどうだらう、それで駄目ならまた選挙で選び直せばいい」などと書く人がゐるのを見つけた。今度の参議院 選挙によつて与野党間の政権交代があると早合点してゐるのだ。

    しかし、参議院選挙は首相を選ぶ選挙ではない。政権交代があるとしてもそれは自民党の中だけのことである。民主党の中には、参議院を取れば政府を衆議院解 散に追ひ込めると言ふ人もゐるが、その道筋をはつきり描いてゐるわけではない。

    また、そんなことを言ふ民主党の議員はみんな衆議院議員である。小沢氏も鳩山氏も参議院議員ではない。民主党が参議院を支配しても、参議院議長に小沢氏が なるわけではないのだ。参議院が彼らの言ひなりになると思ふのもまた早合点であらう。

    民主党の参議院議員たちは今度の選挙で勝てば勝つほど発言権が増す。「俺たちは小沢の操り人形ぢやない」と言ひ出すことも大いに考へられる。彼らが「本来 の参議院の姿を取り戻さう」と言ひ出したら、民主党の衆議院議員たちの思惑通りには行かなくなる。

    かつて小泉前首相は衆議院選挙を使つて参議院を押さへこんだが、参議院選挙を使つて衆議院をひつくり返すといふ小沢氏の目論見は果して実現するだらうか。 (2007年7月27日)








    現代は先生と呼ばれる職業の人たちの受難の時代である。学校の先生しかり、政治家しかり、今や医者も御同様の憂き目に会つてゐるらしい。

    昔の医者は尊敬される職業だつたが、今の医者はサービス業である。患者は客であり、医者は客の希望に沿つた治療をしなければならない。治療法の選択権は患 者にあり、患者の承諾無しに勝手な医療を選択することは許されない。

    これは患者が消費者としての地位を確立し、市場の論理が医者と患者の間にも適用されるやうになつたといふことであらう。

    医者は患者を治して当たり前、治せずに死なせたら逮捕される可能性もある。それは、役人や企業の責任者が、事故を防ぐために万全を尽くさなかつたとして刑 事告発されるのと同じである。

    その上に、昨今の医療制度改革だ。医療費の削減と株式会社の参入である。これによつて医者は黙つてゐても儲かる仕事ではなくなり、自分で開業でもしない限 り、サラリーマンとして一生働くことになつた。

    せつかく勉強して医者になり、患者を消費者として扱ふことにも慣れたのに、今度は商才がなければ死ぬほど働くしかなくなつたのである。

    そして、こんなのは嫌だと医者たちが逃げ出したのが、今の医者不足なのである。(2007年7月26日)







  男女平等思想に踊らされて「働く女性」になつた女たちは、自分たちにろくな未来が待つてゐないことを知らない。男並みに仕事が出来るやうになる頃には三十 路も半ば。もう結婚相手はゐず、すぐに四十。子供を作りたくても作りにくい年齢に突入してしまふのだ。

  さうなればもう世の中は女として扱つてくれない。尼さんと同じなのである。つまり、職業婦人になるといふことは、尼さんになるといふことだと覚悟してゐな ければならないのだ。

  昔は親がお膳立てした見合ひ相手と結婚するのが普通だつた。もつと昔は親が勝手に決めた相手とまるで人身売買同然の結婚をさせられた。いま恋愛こそ結婚の 条件と信じてゐる女たちから見れば不幸なことに見えるだらう。しかし、自分の好き嫌ひを尊重させてもらふことの方がもつと不幸なことであることにそのう ち気が付くのである。

  「働く女性」にバラ色の未来はない。結婚しても中途半端、子育ても中途半端。さうなりや仕事も結局中途半端。もちろん、中には社長になつたり、大臣になつ たりする女性もゐる。しかし、それが本当に女としての幸福なのか。それをよく考へた上で「働く女性」を選択すべきだらう。(2007年7月25日)







   民主党が参議院選挙に勝つて、内閣を国会解散に追い込めば民主党政権が誕生するといふ話がある。これが本当に二大政党による政権交代なら歓迎すべきことだ らう。

    しかし、問題はいま小沢氏が仕掛けてゐる政権交代は、かつて熾烈を極めた自民党内部の政争の匂ひがぷんぷんすることである。もし自民党から大量の造反議員 を出して内閣不信任案を可決するなら、それは細川内閣誕生の時の解散、もつと古くは大平・福田の40日抗争の果てのハプニング解散と同じなのだ。

    かつての自民党は政権の座を賭けて党の内部で何でもありの政争を行なつたものだ。今度の参議院選挙がかつてない中傷合戦になつてゐるのは、民主党の党首が 元自民党であるからに他ならない。

    そして、このままで政権交代が起つても、政権の座は自民党から元自民党に移るだけであり、中選挙区制時代に自民党内部で行はれた政権交代が姿を変へたもの でしかないのである。

    二大政党による真の政権交代が実現するためには、民主党は自民党とは全く異なる支持基盤と政策を持つ政治家を党首にして、堂々と総選挙に勝つて政権を奪取 しなければならはずである。(2007年7月24日)







   大相撲は他流試合でなく身内の戦ひである。そのため、誰かの昇進がかかつて来ると、人の出世は邪魔しないといふ日本的なモラルが働きがちである。

    先場所の白鵬の場合もさうだつたが、今場所は最初から琴光喜の大関昇進場所といふ設定が出来上がつてゐた。そのため、彼と対戦する力士からは普段の何でも ありの姿勢が見られなかつたやうに見えた。

    それは、逆に琴光喜の大関昇進が決つた後の相撲からも言へることでもある。千秋楽に対戦した稀勢の里は、相手の優勝までお手伝ひする必要はないと、琴光喜 の親御さんの目の前で相手を思ひさま土俵に叩き付けたのだ。

    今場所は普段通りにとつてゐる朝青龍でさへ、琴光喜と対戦した日には、自分に有利な体勢になつたにも拘はらず、いつもと違つて暫く動かなかつた。まるで、 このまま勝つていいのかと躊躇してゐるかのやうに。

    同部屋力士の優勝決定戦の場合はもちろんだが、別の部屋の力士同士の場合でも、昇進がかかると相手の不調が明らかでない限り大人しい相撲をしてしまふ。こ れが日本の大相撲の悪いところであり、良いところでもある。(2007年7月23日)







   今度の参議院選挙で民主党が勝てば政治が大混乱するとか政権交代につながるとか色々言はれてゐる。しかし、政府与党が衆議院で3分の2を持つてゐる現状で は、参議院が無力化に追ひ込まれる可能性もある。

   民主党が参議院を支配することになれば、衆議院を通つた法案は全部廃案になると言はれてゐるが、予算案は参議院の議決を必要としないし、他の法案も参議院 での廃案=否決と見做して60日後に衆議院で3分の2の多数で再議決すれば成立する(憲法59条)。

   つまり、この参議院選挙で与党が負けて安倍さんが辞める辞めないに拘はらず、政府与党は次の衆議院選挙までの二年間に二度の予算案を参議院なしで通せる し、再議決をうまく活用すれば、通したい法案を通せるのである。

   さうして二年間を粛々と過ごせば、その間、参議院は何も出来ない。参議院はあつてなきがごとき存在となり、日本は二院制だが事実上の一院制になつてしま ふ。

   そして、この国の政治は参議院なしでも立派にやつていけることが証明されれば、国民は参議院が無くてもいい事に気付き、参議院廃止論が活気づくやもしれな い。かう考へれば、この参議院選挙で民主党が勝つのも悪くないと思へてくるのだ。(2007年7月22日)







   『時計仕掛けのオレンジ』にロシア語が出てきたことからロシア語の辞書と『ゼロから始めるロシア語』といふ本を買つて来て、一通りやつてみた。

    この入門書は巻末に単語帳が付いてゐなかつたり、発音表記のない新語がいきなり出てくるなど、初心者に親切とは言へず、カタカナ発音付きの辞書が必要だ が、内容的には充分なものらしい。

    最初は、ロシア語の発音を気にせず基本テキストも無視して主に文法だけを最後まで読んで全体像をつかみ、二回目は練習問題を無視してテキストと例文を通し て読み、三回目は単語のチェックをしながら主にロシア語の部分だけを読み通した。

    結局、練習問題はやらずに、次は『ロシア語初級読本』である。この本は前半では文法事項と基本的な単語の確認をするためのやさしい文章が、後半はドストエ フスキーやトルストイなどロシアの文豪の文章が抜萃して収められてゐる。

    例へば、第1課は同じ名詞を六回使つた文章で、ロシア語の六つ(!)の格変化が確認できるやうになつてゐる。注釈には基本的な動詞の人称変化が丁寧に説明 してあり、さらに訳文まで付けて、まさに初心者向けの作りでゐる。

    後半になると第27課で待望のドストエフスキー『罪と罰』の冒頭の一文を訳文付きで読むことが出来る。ここでも注釈では変化形の元の形がいちいち説明して あつて、辞書を引く手間は必要だが、初心者に細かい配慮が為されてゐるやうだ。
 
  ところで、ロシア語のこの複雑な格変化はイタリア語の前身であるラテン語以上である。これは他のヨーロッパ諸国の人たちがルネサンスでやつた言語の俗語化 =民衆化をロシア 人がやらなかつたためではないか。

  日本人も現代では古文の伝統を引き継いだ文語を使ふのをやめて、複雑な文法を簡略化してしまつたが、ロシア人はきつと昔のままの複雑な言語を延々と使ひ続 けてゐ るのだと思ふ。(2007年7月21日)







  新聞はインターネットの匿名性をしきりに攻撃する。そしてインターネットには無責任なウソ情報が溢れてゐるといふのである。

    しかし、そんなことを言ふ新聞の情報はどうだらう。こちらも匿名ではないのか。最近の新聞はどうでもいい記事は署名記事にするが、スキャンダルを曝いたり した時には決つて匿名である。

  久間元大臣の原爆についての諦めの言葉を容認発言だと最初にウソを書いた記者は誰なのか。赤城大臣の親に息子にとつて不利になる発言させて、合算を無視し て架空計上とウソを書いたのは誰なのか。

  どれも誰だか分らない。これではインターネットの掲示板と同じではないか。情報の信憑性に自信があるなら、誰が書いたのかをちやんと明示すればよい。とこ ろが、新聞は言い出しつぺの名前を隠して世論を誘導するのである。

  新聞の記事は新聞社の名前があるから匿名ではないと言ふかも知れない。それなら、ネットの掲示板もアドレスがあるから匿名ではないとも言へる。現に犯罪予 告を書き込んだ者は逮捕されてゐる。

  インターネットの掲示板の匿名性を批判できるほど、新聞は立派なことはしてゐないのである。(2007年7月20日)







  プロ野球の結果をインターネットで知ることが出来るやうになつてからは、テレビのニュース番組でプロ野球の結果を見ることがなくなつた。

    テレビのニュースでは試合の結果を先に知らせずに気を持たせるやり方をする。我々が知りたいのは結果なのだ。ところが、テレビはそれを知りながらすぐに教 へやうとしない。勝つたのかと思つたら負けてゐた、といふやうな編集をするのである。

    他の番組でもさうだ。知りたい気持をしきりに煽つておいてから、さあといふころでCMを挟む。知りたかつたらCMを見ろと言ふのである。そんなやり方をさ れると当然チャンネルを変へる。馬鹿にするな、そんなことは知らなくてもいいのだと。また、クイズ番組では答をCM明けまで待たずに、その前にインター ネットで調べてしまふ。

    かうした現象は、なにもテレビ番組に限つた事ではない。情報をマスコミに管理されたくないといふ気持が、インターネットの出現で我々の中に芽生えたのであ る。

    だから、どんなニュースが出ようと、インターネットで事の真相を自分で確認するまでは、マスコミの言ふことを決して信用しなくなつたのである。(2007 年7月19日)







    新聞がしばしば間違つたニュースを流す。いや嘘を書く新聞さへある。ところが、一旦それで世論が出来上がつてしまふと、もうそのニュースを修正することが 出来ないのだ。

    久間氏は歴史の流れの話をしたにも拘らず、どこかの記者が原爆投下を容認と書いたら、それはそのまま全紙の論調になつてしまふ。赤城大臣が事務所費を架空 計上と書いたら、同じように全紙が赤城氏を批判して領収書を出せと言ふ。

   誰かが 途中で軌道修正するといふことが、日本の新聞界には出来ないのである。あの記事はどこの新聞社の誰が書いたことであつて、当社は独自に調べたが違ふ見方だ とはなかなか言へないのだ。

    新聞界とは書いた者勝ちの世界なのだ。だから、たとへ別の新聞がニュースの間違ひを指摘しても、世論の流れを変へることは出来ない。むしろ他紙に遅れるな といふ意識の方が先に立つて、付和雷同してしまふのである。

    間違つたニュース・嘘のニュースを出す新聞社も、あとで記事の信憑性に疑問符がついても決して謝罪して訂正したりはしない。かういふ訳で、新聞の書くこと の半分は嘘で半分は間違ひといふことにならざるを得ないのである。(2007年7月18日)








    ロシア語は、既に英語を学んでゐる人、ローマ字の読み方を身に付けてゐる人には、とても学びにくい言葉である。といふのは、ロシア語のアルファベットは、 英語と違ふだけでなく、同じ文字を使つて違ふ発音をするからである。

    例へば、ロシア語ではHをNと思つて発音しなければならない。だから、HOは「ホー」ではなく「ノー」と読む。また、Cで英語のSの音を、PでRの音を、 YでUの音を、XでHの音を表はす。だから、例へばTyは「ティ」ではなく「ツ」と読み、Coは「コ」でなく「ソー」と読む。

    PをRの音に使つてしまつたので、Pの音にはギリシア語のΠ(パイ)を持つてきた。ではロシア語にはRはないのかといふと、それは裏返しにしてЯといふ形 で出てくる。これが何故か母音扱ひで「ヤ」と読むが、初心者はついつい「ル」と読んでしまふ。

    Nも裏返しのИになつて登場する。こいつは I(アイ)の音を表はして「イー」と読むのだがついついNと読んでしまふ。

    英語のLに当る音はギリシア語のЛ(ラムダ)で表はし、Dは同じくД(デルタ)で表はす。ところが、この二つの形は非常によく似てゐるのですぐに読み間違 へる。

    ロシア語にもBはあるが、これはVの音を表はす。では英語のBに当るのは何かといふとBの上が欠けたБだ。その小文字はбなのだが、これはギリシア文字の δ(デルタの小文字)とそつくりなので、ついつい「ディー」と読んでしまふ。

    Eは「イー」ではなく「ィエー(!)」と読む。だが、それはアクセントのある時で、普通は「ィ」と読む。そこでついつい「ィエー」と読むのを忘れてしま ふ。

    Oはそのまま「オー」なのだが、それはアクセントがあるときだけで、普通は「ァ」と読まなければいけない。ところがついつい「オ」と読んでしまふだ。

    Юといふ変な文字もあるが、I+Oで「イオー」かと思つたらOとは関係なく「ユー」と読む。Ёといふ文字はEに似てゐるのに今度は「ヨー」と読む。 「ユー」と「ヨー」で紛らはしい事この上ない。

  ロシア語にはΥによく似たЧといふ字もあつて「チ」と読むのだが、この二つもよく見間違ふ。

    そんなわけで、ロシア語は文法どころか文を音読するだけで既に難解な言語なのである。そしてすらすら音読が出来なければ黙読も出来ず、多くの人はドストエ フスキーの原書などは遥かかなたの段階で挫折してしまふのである。(2007年7月17日)







   日本の選挙の特徴は、与党対野党の戦ひではなく与党対マスコミの戦ひであることだ。国民は野党の政策がよいから野党に投票するのではなく、与党に不満だか ら野党に投票するだけなのである。

    したがつて、政権側はまづマスコミに勝たなければならない。小泉前首相がマスコミ批判を続けたのはそのためであらう。

    ところが、安倍首相はさうはしなかつた。マスコミが言ひ出した格差社会論を、小泉氏は相手にしなかつたのに、安倍氏は受け入れて再チャレンジなどと言ひ出 した。

    安倍氏はあくまで善意から格差是正に乗り出したのだが、格差論を政権に対する攻撃手段と見たマスコミの悪意にとつては、格好の餌食になつてしまつたのだ。

    その結果、マスコミが失言だと言へば失言になり、マスコミが疑惑だと言へば疑惑になり、首相の発言がテレビキャスターや新聞記者に平気で遮られるといふ、 マスコミ主権の状況が出来上がつてしまつたのである。

   政府ではなくマスコミの言ひ分ばかりが通るこのやうな状況になつてしまつた以上は、政府与党が選挙で苦戦すゐのは当然のことなのである。(2007年7月 16日)







  体にアルコールが入ると運動神経が鈍くなつて運転技能がこんなに落ちると、よくテレビで放送されたりする。しかし、酒気帯び程度の男性ドライバーとへたく そなおばちやんドライバーとでどちらが運転が下手かと言へば、おばちやんの方だらう。

  実際、車をバックで車庫に入れられない女性にも、交差点で右折が出来ない女性にも免許は与へられてゐるのである。そんな女性が免許をもらつて公道を走つて ゐるのだから、危険な事はこの上ない。

  へたくそな女性ドライバーはゆつくり走るからそんなに危険ではないと言ふなら、酒気帯びドライバーでもゆつくり走つてゐれば罰することはないはずだ。

  もともと、酒気帯び程度で取り締まるのは、酔つぱらい運転を防止するために予備的に設けられたものだらう。ならば、そんな予備的なもので人を懲戒免職にし たりするのは行き過ぎだと考へるのが、理性的な対応ではないのか。

  少しでも危険なら何でも罰すると言ふのなら、免許証を与へる段階から規準を厳しく設定すべきである。ところが、実際は交通標識の漢字さへ読めない人間にも 免許を出してゐるのだ。全く本末転倒である。(2007年7月15日)







 高層住宅に住むのは恐ろしい。簡単に自殺ができるからである。二階建ての家なら窓から飛び降りても骨折するだけだが、高層マンションなら上の方から落ち たら即死である。だから、わざわざ高層マンションに住む人の気がしれない。

 人間と他の動物の一番大きな違ひは自殺することである。特にうつ病になると死にたくなるが、失恋しても死にたくなる。うつ病は働きすぎの人がなるが、失 恋なら怠け者でもなる。誰でも自殺の可能性はあるのだ。

 だから、景色がいいからとか、高い方が高級だとかいふ理由で高層マンションなど買はない方がよい。

 高層住宅は日本では戦後のものだが、ヨーロッパでは昔からあつた。あれは城壁に囲まれた都市の狭い土地に多くの人間が暮らすために考へられたものだら う。本来横に広がるべき家の並びを縦に積み上げた結果なのである。

 だから、城壁に囲まれてゐない日本の都市には本来高層住宅は必要ないのだ。ところが、都会の高層マンションに住みたい人たちが沢山ゐて、高層住宅が林立 するやうになつた。そのために日本の自殺者の数も増えてきた、かどうかは知らない。(2007年7月14日)







 東京新聞が7月9日に参院選前の内閣支持率と獲得議席には相関関係があるといふ記事を出した。

 98年の選挙では橋本内閣の支持率が35%だつたので44議席だつた。01年は小泉内閣の支持率が72%だつたので64議席。04年の小泉内閣の支持率 は44.4%だつたので49議席にとどまつた。だから、安倍内閣の支持率が33.5%に下がつた今回の選挙での苦戦は必至だ、と言ふものである。

 ところが皮肉なことに、翌日に東京新聞が発表した世論調査では、安倍内閣の支持率は44.2%に跳ね上つてゐたのだ。これに困つた東京新聞は、見出しに は不支持率を書いて、支持率の方は記事の中に、安倍内閣の不支持率は「53・4%で、『支持』の44・2%を10ポイント近く上回った」と目立たぬやうに 書ゐたのである。

 産経新聞の阿比留記者は記者ブログの中でこのことを指摘して、そのやり方に疑問を呈してゐる。しかし、もし東京新聞の「法則」通りなら、自民党は48議 席ぐらゐは獲得できることになり、苦戦の安倍内閣にとつてはまことに目出度いことである。(2007年7月12日)







 赤城大臣の「事務所費疑惑」について各新聞は「領収書を出せば済むことだ」と頻りに書いてゐる。彼らは国会議員の言ふことは信用できないが、領収書なら 信用できると言ふのだらうか。

 しかし、国民の選んだ国会議員の言葉を信用できないマスコミに、誰が書いたか分からない領収書を信用できるわけがないのだ。

 民主党の小沢氏は自らの政治資金疑惑を晴らすためと称して領収書を公開したが、そのコピーも写真もとらせなかつた。領収書の詳細な検討を拒否したのであ る。

 しかし、野党の党首だからそれで済んだのであつて、大臣なら何故コピーを取らせない、疑惑は消えないと言ひ出すのは間違ひない。そして、もしコピーを取 らせなどしたら、鵜の目鷹の目であら探しをして、新たな疑惑が浮上などと言ひ出すことは必定である。

 元々この「疑惑」は、新聞記者が「実家を事務所として九千万円もの経費を計上」と、他の事務所との合算の事実を全く隠して報道し、さらに両親から息子に とつて不利な発言を引き出すなど不自然な形で作られたものだ。

 新聞社は自分たちの落ち度を認めて、いい加減に矛(ほこ)を収めるべきだらう。 (2007年7月12日)







 民主党の小沢代表は、今回の選挙で民主党が勝てば農家に所得保障するとか高校の授業料を只にするとか、大甘の公約を並べてゐるが、新進党の代表だつた時 の衆議院選挙でもさうだつた。

 あの時も消費税の5%への増税を公約にして逆風だつた橋本自民党に対して、勝てば大幅減税をすると頻りにテレビCMを流して自信満々だつたが、勝てなか つたものだ。

 今回の選挙でも逆風の安倍自民党に対して小沢氏は自信満々で、負ければ引退するとまで言ひ出した。

 しかし、この選挙は参議院選挙であり、勝つても首相になれるわけではない。しかも、参議院を支配するだけでは、目指す法案が一つも通らないのは自民党と 同じである。

 小沢氏は政界再編などと言つてゐるが、では自民と民主のどちらが割れると言ふのか。結局、民主党は次の衆議院選挙まで自民党と協力しなければならないは ずで、自民党と連立することもあり得るのだ。今は口が裂けても言へないだらうが。(2007年7月11日)







 赤城農水相の政治資金に関して盛んにニュースになつてゐるが、いつたい何が問題なのかさつぱり分らない。

 最初は、実家が事務費でないのに計上してゐると決めつけて報道してゐたが、本人に架空でないと言はれると、今度は一億円を何に使つたか領収書を出せと言 ひだした。しかし、領収書保存の義務は今度の法律から。10年前の領収書をどうやつて出せといふのだ。

 別の新聞は、改正された政治資金規正法でもこの経費は問題にならないと分ると、この法律が悪いと八つ当たり。また別の新聞は妻の実家も事務所費に計上と 書いたが、そもそも家賃の掛からない実家を事務所にして何が悪いのかもまつたく分らない。

 そもそも赤城大臣は毎年の事務所費とその内訳を公表してゐるが、それはろくに報道せずに、勝手に足し算して一億などと言ふのだから、領収書を出してもま た難癖を付けられるのが落ちだらう。

 読売新聞や産経新聞はまともな新聞だと思つてゐたが、最近のニュースに関しては出鱈目な政府批判を繰返してゐる他の新聞とまつたく同じだ。この国には信 頼できる新聞は一つも無いのかと思ふばかりである。(2007年7月10日)







 政治家の家に行つて「何々新聞です」と言つて名刺を出せば、大抵は新聞記者だと思つて、手厚くもてなして貰へるものだ。赤城農水相のご両親もさうだつた のだらう。

 座敷に上がつた新聞記者は、出されたお茶を飲みながら世間話を始める。そのうち頃を見計らつて「ところで、こちらは大臣の事務所になつてゐるんですか」 と聞くわけだ。両親は事務所といふのは政治資金規正法が指す事務所のことだとは思つてもみないから、「いいえ、事務所だなんて。私らが二人で住んでるだけ ですよ」などと答へる。

 「ぢやあ、息子さんからは家賃も貰つてゐらつしやらない」「当たり前ですよ。そんなもの貰ふものですか」。これで大臣が事務所の家賃を払つてゐないこと になつたのである。

 さうやつて新聞記者が帰つたあと数日経つて、両親は自分たちの発言のせいで息子にスキャンダルが持上がつてゐることを知つてあつと驚くのだ。ご両親はま んまと記者に騙されたのである。

 新聞記者に親切になんかしたら、こんな目に遇ふといふいい例である。桑原桑原。(2007年7月9日)







 テレビのニュースなどを聞いてゐると「〜といふことが分かりました」といふ表現が頻繁に使はれてゐる。しかし、これは不正確であつて実際は誰かがさうい ふこと発表したといふことに過ぎない。

 例へば何かの事件についてなら、大抵は警察が発表したことであつて、報道機関はそれをそのまま読んでゐるにのだ。だから、本当は「警察が〜と発表しまし た」といふべきなのである。なぜなら、警察が事実だと思つて発表したことが必ずしも事実でないことはよくあることだからである。

 また、新聞やテレビ局が調べて記事にしたことなら、「何々新聞が発表しました」とすべきなのである。それが事実であるかどうかは分からないし、たいてい は事実ではない。

 ところが、多くの国民はニュースを見ると、特定の視点から作られたニュースを厳然たる事実であると思ひこんでしまふやうだ。しかし、これはマスコミの言 ひ方に騙されてゐるのである。

 したがつて、我々はどんなニュースを耳にしても、「ああ誰かがそんなことを言つてゐるんだな。事実は違ふんだらうな」と思ふやうにすべきなのである。 (2007年7月8日)







 部屋のカーテンを洗濯しようとはずしてみると、カーテンをつるしてレールの中を走る部品が真つ黒である。それは、よく開く窓の部分に集中してゐる。明ら かに戸外の車の排気ガスによる汚れである。

 大阪の御堂筋で路上喫煙を禁止するさうだが、もし空気の汚染を問題にするなら車の通行を禁止した方がよい。車の排気ガスがもたらす空気の汚れはすさまじ いものがある。

 東京では車の排ガスによるぜんそく患者が集団で裁判を起してゐるが、間接喫煙によつて病気になつた人たちが集団訴訟を起したといふ話は一向に聞かない。 車の排ガスに比べたらタバコの煙などきれいなものなのである。

 それなのに、屋内の喫煙は禁止、外へ出た喫煙も禁止だ。その側を、健康被害を起す大気汚染の張本人たる自動車がぶんぶん走つてゐるのに、そちらはお構ひ なしである。

 もちろん歩きながらのタバコは危険だらう。だとしても、歩きタバコによる傷害事件が起きたと言ふ話も寡聞にして聞いたことがない。要するに、これは理性 的な判断に基づく禁止ではなく、「流れ」に乗りたがるお調子者の仕業に過ぎないのだ。(2007年7月7日)







 小沢代表が次の参議院選挙で野党が過半数に届かなければ辞任すると言つたさうである。

 参議院の総定数は242だから、過半数は122。いま与党は133である。といふことは、公明党の議席数が変はらないとして、野党が過半数をとるには民 主党が自民党の議席を13減らせばいいことになる。

 民主の改選議席は32だから、他の野党が同じなら、たつた13議席増の45議席で小沢氏の首は繋がることになる。以前に小沢氏は民主で55議席以上とる のが目標だと言つてゐたのだから、ここに来て大幅な下方修正といふことになる。

 しかし、45では民主は全部で94(非改選49)で、自民は97になるから、参議院で第一党になれない。議長は第一党が出すのが慣例だから、民主は議長 を出せないことになる。

 つまり、民主党が参院を牛耳るためにはもう2議席必要ではないのか。それとも、小沢氏は2議席ぐらゐは他の野党が取つてくれると考へてゐるのだらうか。 (2007年7月6日)







 久間発言に対して海外の反応はどうかと英語のニュースを検索してみたが、東京発のものばかりである。この発言をけしからんとする海外の政治家などのコメ ントが出たといふ記事は見つからなかつた。

 やはり、この騒動は完全に人の言葉尻だけを捕らへたものだから、それについては何とも言ひやうがないのだらう。英語に訳せば「しようがない」は inevitable でしかなく、このどこがまずいのか全く理解不可能なのに違ひない。

 日本のマスコミは、久間氏本人が原爆の使用を容認するつもりはないと弁明しても、もう聞く耳持たずで、理性はどこかにふつとんでしまひ、久間が言つた久 間が言つたと大合唱するだけである。これでは議論も何もあつたものではない。

 アメリカ政府のスポークスマンは「これは日本の国内問題である」と言つたといふが、そのとほりで、原爆投下を認めないぞと井の中の蛙たちが井戸の水をい くらかき回したところで、それが外の大海にどんな波を起すわけでもないのである。

 毎日新聞は社説で「久間氏の発言で、核兵器廃絶を訴える日本に対する国際社会の信頼は損なわれた」と調子に乗つたことを書いてゐるが、国際社会の誰がそ んなことを言つたと云ふのだらうか。(2007年7月5日)







 俳優の三田村邦彦がデビューしたての頃に新聞記者に呼ばれて、「僕たちが君を悪い人だと書けば悪い人になる。いい人だと書けばいい人になるんだよ」と教 へられてびつくりしたとテレビで話してゐたことを覚えてゐる。

 「そんな馬鹿な。僕は僕なのに」と思つたといふが、後に彼もマスコミの恐ろしさを知つて、その通りなのだと納得したと云ふことである。

 「原爆投下は仕方がない」と言つた人はこれまでにいくらもゐて、その中には以前の長崎市長や昭和天皇まで含まれると云ふ。ところが、同じ発言で久間氏一 人がマスコミによつて悪人にされてしまつた。

 いかにマスコミの報道がいい加減なものであり恐ろしいか、そしてこんなインチキ報道にころつと欺される世論がいかに頼りないものであるかが、今回の出来 事からもいやと言ふほど明らかになつたと言へよう。

 安倍政権には何ら大きな失政が無いにも関はらず、安倍首相本人もマスコミによつて悪人にされてしまつてゐるのが現状である。この状況を見てゐると、ロシ アのプーチン大統領が報道機関の支配に力を入れたのは、ある意味で正解だつたと言はなければならない。(2007年7月4日)







 人の集まりの話を立ち聞きしておいて、よそへ行つて「あの人がこんなひどい事を言つてゐましたよ」と言ひふらす人間は下の下であるといふのが世間の通り 相場である。ところが、さういふことを商売にしてゐる人たちがゐる。新聞記者である。

 久間大臣は大学生を集めて歴史の話をしただけなのだが、歴史の真実などには興味のない彼らは、「これはしめた」と被爆者団体などにご注進に及んだ。する と相手も「そんなことを言つたのか、けしからん」と怒つた振りをして見せる。

 もちろん相手も左翼団体であるから、選挙前であることも手伝つて両者でやいのやいのと言ひつのることになる。ニュースでこればっかり流す放送局も出てく る始末だ。

 そんな報道機関には、選挙を政策判断の場にする気などさらさらなく、人気投票の場にならうと知つたことか、これで野党の票が増えたら万々歳といふ意図が 見え見えだ。

 実際、安倍首相の人気は下がる一方で、それを支持率と名付ければ「政権は危険水域」といふ立派な解説が成り立つ。この有り様に、政策や実績よりも民主主 義ではやはり人気取りの方が大切なのかと安倍氏の悩みも深いことだらう。(2007年7月3日)







 第二次大戦末期にアメリカが日本に原爆を使用したのはソ連の参戦を防ぐためだつたのは今や定説であり常識である。それに対して、日本は公式にアメリカを 非難したことはない。
 
 つまるところ、みんな「しようがない」と思つて戦後60年を過ごしてきたのである。

 もし本当にどんな理由でも原爆を使ふべきではなかつたと言ふなら、それはアメリカに言へばいい事である。ところが、左翼団体や被害者団体は今回の久間発 言に対するやうに、それをひたすら政府に対する攻撃材料にしてきた。

 「従軍慰安婦」についても同じことだ。これが捏造であることは最早どの新聞社も知つてゐることである。それにも拘はらず、アメリカ議会から公式謝罪を要 求されさうになつて、彼らが批判したのは日本政府なのだ。

 左翼団体は決して正面から外国と喧嘩しようとはしない。自国が不利な状況に置かれたらその責任は日本政府にあると反政府運動をしてきただけである。

 かういふ彼らの姿勢から言へることは、彼らには当事者意識がなく、謂はば常にこの国にお客さんつまり食客として生きて来たといふことだけである。 (2007年7月2日)







 三年毎に行れる参議院選挙では野党の得票率が高くなるのが普通であり、これは国民が政府与党にお灸をすゑるために与党の支持者でも野党に投票する傾向が あるからだと云ふ。

 元々参議院は青島幸男で知られる二院クラブなどがあつて庶民の目線からの政府に対するささやかな反乱の場としての意味合が濃く、自民党はだいたい過半数 を取つてずつと安泰であつた。

 ところが、1989年(平成元年)に消費税で自民が大負けして首相が退陣してから、政局が絡むやうになつてしまつた。さうなるともはや二院クラブのやう な存在は意味が薄れ、参議院は衆議院と変はらない政争の場になつてしまつた。

 さらに、参議院は三年ごとの改選のため、自民が一気に議席を回復することが出来ずにゐることも手伝つて、野党は今やお灸をすゑるどころか、首相の首を取 らうと必死になつてゐる。

 しかし、参議院の歴史を振り返れば、戦後すぐの頃の政府与党は過半数に遥かに遠い議席しかなく、1956年(昭和31年)でも過半数を取れなかつた。そ れでも政府はやつていけたのである。

 だから、今度の参議院選挙でも何かが大きく変はるはずはなく、国民はマスコミや政治家にあまり踊らされないやうにするのがよいのかもしれない。 (2007年7月1日)








 テレビの『鬼嫁日記 いい湯だな』には色んなパロディが仕組まれてゐたが、モデル役のえびちやん(蛯原友里)が中国語会話のテ レビ番組に生徒役で出てゐると云ふ設定もその一つだつた。

 実際、NHK教育テレビの外国語会話の番組はこのところ色んな美男美女タレントが生徒役で登場する。以前、吉岡美穂がイタリア語会話に出てゐた時は、私 も釣られてイタリア語の勉強したものだ。今年の目玉はロシア語会話に出てゐる小林恵美だらうか。

 しかし、モデルやテレビタレントになるやうな美人は学生時代には勉強が不得手なのが普通で、『鬼嫁日記』でもえびちやんが番組で喋らされる中国語会話を 丸暗記するのに悪戦苦闘してゐるところが描かれゐて、実際のタレントたちの苦労を偲(しの)ばせてくれた。

 このやうに学生時代に勉強が苦手でも大人になつて仕事をするやうになれば否が応でも勉強させられる人もゐるが、一方で学生時代に頑張つても大人になつて 仕事のない人もゐる。親は子供の勉強にあまり心配する必要はないと云ふことではないか。(2007年6月30日)







 被害者の遺族の主張は最大限に尊重しなければならないと、新聞社の内部マニュアルに書いてあるかどうかは知らないが、報道を見 るとさう思ふしかない。

 刑事事件の被告の弁護士は被害者の遺族には耐へ難いことを主張するが、それは仕方のないことである。なぜなら、それが仕事だからである。

 JR福知山線の脱線事故はどうやら運転手のミスのために起つたらしいのだが、会社の責任にしなけらば被害者の遺族の納得が行かないので、会社の日勤教育 が原因だと事故調は精一杯の配慮をして見せた。

 遺族にしてみれば、ATSの設置遅れなどが原因だと会社の経営責任を問ひたいのだが、他の運転手は同じ条件のもとで事故を起こさず運転をしてゐる以上、 事故調がそれらを原因と言へないのは仕方がない。これも仕事なのである。

 人にはそれぞれの仕事があり、それが被害者の遺族にとつて有利なことであるとは限らない。しかし、さうは言はないのもまた新聞の仕事であり、そのせいで 多くの国民には被告側弁護士も事故調もさぞ冷血漢に見えることだらう。(2007年6月29日)







 ミンチは牛だけより豚を主にした合ひ挽きミンチの方がおいしい。牛だけでは癖が強すぎるからである。しかも、牛には強烈な匂ひ があるから、牛は少しでよい。

 それを入れたコロッケをどう名付けるか。「合ひ挽きコロッケ」よりは、牛肉の味がするなら「牛コロッケ」でいいではないか。

 しかし、牛コロッケと名前が付いてゐるのに、成分表示に合ひ挽きミンチ使用、しかも豚の方が多いとなつてゐたら、牛コロッケといふ名前が嘘になる。だか ら成分表示の方は適当である。

 さうやつて売つた牛コロッケは大人気だつた。うまいものはうまいのである。ところが、元社員と云ふのが出てきて余計なことを言ひ出した。牛コロッケとは 名ばかりだと。

 それを聞いたお役所の方は、人気の商品にケチを付けるとは無粋な奴だ、おかげで税金も沢山納めてもらつてゐる、といふわけでそんなに厳しい検査はしな い。

 ところが、世の中にはもつと無粋な奴がゐる。新聞記者である。かくて会社はつぶれ、安くておいしい「牛コロッケ」は世の中から消えてなくなつた。これが 善かつたのか悪かつたのか、それは神のみぞ知るである。(2007年6月28日)







 NHKテレビで時論・公論「牛肉偽装はなぜ起ったか」をやつてゐたので、事件の原因を明らかにしてくれるものと期待して見た が、全く期待外れだつた。

 まづもつて前置きが長くてなかなか原因の話にたどり着かない。やつと原因のことを語り始めたと思つたら、豚肉と牛肉を見分ける検査体制が無かつたとか、 農林省の対応が甘かつたとか、どこか他所で聞いたやうな事を延々と述べるだけである。

 なぜあの社長は牛肉と偽つて豚肉を混ぜなければならなかつたかといふ肝腎の原因の話にはならないのだ。検査がなければ、農林省が何もしなければ誰もが偽 装をするわけではなからう。

 日本の製造業は安い中国産の製品に押されて採算の合はない状況にあるが、それがこの場合に当てはまるのか。いや、単に社長が私腹を肥やすためにやつたこ となのか。「なぜ」と言ふからには、さうした因果関係を明らかにしなければならないはずだ。

 ところが、さう云つた話は全くなかつた。これでは時論・公論の表題に偽りありで「表題偽装」ではないか。関係者は深く反省して内容に沿つた題名にすべき だらう。(2007年6月27日)







 「あの金髪のかつこいピッチャーは誰」。日ハム×阪神戦を見た家族の言葉である。プロ野球ファンなら誰でも知つてゐるダルビュッシュ投手のことである。

 彼の雄姿が地上波のテレビに映るのはまさにセパ交流戦のお陰である。しかし、その格好いい姿も交流戦が終れば、シーズン終了まで見られないのだ。

 これはもつたいないことである。プロ野球人気が低迷してゐるなかで、人気回復の切り札と見られてゐる早稲田の斉藤投手もプロ野球に入るのは四年先のこと だ。なぜ、パリーグの素敵な選手をもつとブラウン管に映さないのか。

 そのために、もつと交流戦が続ければいい、いやいつそのこと、セ・パ2リーグ制などやめてしまつてサッカーのやうに1リーグ制にすればいいと思ふのは私 だけではないはずだ。

 それなのに、交流戦が終れば相も変はらぬ巨人戦中心の放送が待つてゐる。関西ならば阪神中心の放送であるが、阪神にダルビュッシュ級の魅力ある選手がゐ るかと言へば、阪神ファンでも言葉を濁さざるを得ないのが現実であらう。

 しかも、期待の斉藤投手も今やドラフト改革でセリーグに入るとは決つてゐない。また、もし江川の時のやうに無理矢理巨人に入れてしまはうものなら、プロ 野球人気はもつと下がつてしまふ。

 斉藤投手が今のパリーグのチームに入つても多くのファンが楽しめるやうに、今のうちから1リーグ制に改革をしておくのがプロ野球のためであると思ふのだ が、どうだらうか。(2007年6月26日)







 丸山弁護士が参議院選挙に出ることが明かになつた途端に、あれだけテレビに出演してゐた丸山弁護士はテレビ界から抹殺されてしまつた。

 テレビ局はこれまで丸山弁護士にテレビに出てもらつてゐたはずなのだが、これではテレビ局は彼を出してやつてゐたと思つてゐるとしか考へられない。

 候補者の中にはテレビで有名な人間もゐれば本で有名な人間もあれば建築物で有名な人間もゐる。人それぞれに有名な分野は違ふのである。

 ところが、テレビで有名な人間だけは選挙に出るとテレビに出られなくなるのはおかしなことだらう。本で有名な人間が選挙に出ると本屋からその人の本が排 除されてしまふのか。建築物で有名な人間が選挙に出れば、彼の建築物は人目から隠されてしまふのか。

 そもそも次の選挙では候補者であるはずの国会議員は選挙中でもテレビに出るではないか。これでは候補者としての公平は全く保たれてはゐないと言つてい い。

 テレビ局はテレビに出てゐるとそれだけで票が取れると勘違ひしてゐるのである。出ればそれだけ落選する可能性が増えることもあるはずだ。それをテレビに 出てゐるだけで多くの人が投票すると考へるのは、テレビ局が国民を愚民視してゐる証拠である。(2007年6月25日)








 牛肉コロッケに豚肉が使はれてゐたといふニュースがあるが、食べたら分かるだらうにと思ふ。そこで、自分の舌で一つ試してやら うと思ふのだが、もうどこにも売つてゐない。

 不二家が問題になつた時もさうだつた。本当に食べたらお腹をこわすのかと思つてももう売つてはゐない。スーパーが売つてくれないからである。

 いやそれだけではない。問題の商品だけでなく、我が家でいつも買つてゐるホームパイまでスーパーが売るのをやめてしまつた。そのお蔭で、我が家はしばら くの間、不二家のホームパイなしで暮らさざるを得なかつたのである

 消費者はネットで宅配してもらふなど特別な手続きを踏まない限り、スーパーマーケットが売るものしか買へないのだ。その意味で消費者の自由は制限されて ゐるのである。消費者はスーパーがあらかじめ決めた判断に従ふしかないからである。

 したがつて、例へば我が家でいくら羊の肉が健康的だから買ひたいと思つても、スーパーで売つてゐなければ買へないのだ。我々の食生活はスーパーの決めた 範囲のものにならざるを得ず、ある程度までスーパーに牛耳られてゐると言つて過言ではない。(2007年6月24日)







 世の中何か起きると加害者と被害者に分ける傾向があるが、渋谷の爆発事故も例外ではない。死んだ従業員は早々に被害者扱ひが確 定したらしい。

 自分の身内が働いてゐる会社で事故が起きたとなれば、昔なら自分の身内が会社で何か不始末をしたのではないかと親兄弟が聞いて回るといふこともあつた が、報道を見る限り今や堂々と被害者の遺族として登場するのが普通らしい。

 開業以来一年半の間何もなかつた施設で突然何かが起きるとしたら、それは人間のやり損ないだらう。機械は一年半程度では中々故障しないものだが、人間は 簡単に失敗するものだからである。

 しかし、被害者が決まつてゐる事故では、そんなことを考へてはいけないのだ。そこで、普通は10年以上回し続けても故障しない換気扇に責任を押しつける ことになつたが、果たしてそんなことが証明できるのか。

 JR福知山線の事故では加害者がJR西日本であると早々に決められたために、結局原因は分からず、日勤教育といふどの社員も受けるやうな制度のせいにす るしかなくなつてしまつた。加害者とか被害者とか言ひ立てる時代には、真相の究明も難しいと云ふことだらう。(2007年6月23日)







 国会の会期が延長されたことを批判する声があるが、これを真に受けることはない。延長しなければ何故延長しないのかと言ひ、延 長したら何故延長するのかと言ふのが報道だからである。

 小泉首相が退任した直前の通常国会は延長されなかつた。あの時は、重要法案が山積みなのに何故延長しないのかと言はれたものだ。

 しかも、元々野党はこぞつて会期の延長に反対だつたのである。ところが、小泉が延長しないと言ひ出したら途端に今度は延長しないことを批判し始めた。そ れに合はせてマスコミもなぜ延長しないのかと騒ぎ出したのである。

 あの時小泉は、次の総裁候補として自分の推す安倍の優位が、森元首相がしきりに推薦する福田元官房長官によつて脅かされてきたことに危機感を持つて、権 力闘争を優先させるためにさつさと国会を閉じてしまつたのだつた。

 今回は負け方次第では首相の退陣もあると言はれる参議院選挙を控へての国会の延長である。小泉とは反対に、権力闘争よりも法案成立を優先させるといふ安 倍のこのやり方が吉と出るかどうかは不明である。(2007年6月22日)







 バージェスの小説『時計仕掛けのオレンジ』は英語で書かれてゐるがロシア語の単語が外来語として使はれてゐて、「今日はハラ ショーな天気だ」といつた風の文章が頻出する。

 その一覧表(正確なものはWiktionaryのConcordance:A Clockwork Orange)がネットにあるが、英語は英和辞典で調べて、ロシア語はその一覧表を捜すのだが、その説明も英語なので実に面倒くさい。

 共産主義が流行した戦後すぐのイギリスではこの程度のロシア語は注釈抜きでも読めたのだらうか。だとすると、この小説も共産主義の遺物の一つなのかも知 れない。

 昔は日本でも多くの人がロシア語を勉強したものだ。ところが、ロシアの共産主義がだめになり、しかもプーチンの強権政治でロシアの印象が悪化するばかり の今日では、ロシア語を勉強する気にはなりにくい。

 特に日本との関係では、ロシアは戦後一貫して強面(こはもて)の振舞ひを続けて、全く友好関係を築いて来なかつた。その結果が、本屋にロシア語の辞書は 一冊もないか、あつても大学書林の『ロシア語小辞典』だけといふ現実なのである。(2007年6月21日)








 野党が国会の委員会の強行採決に関して安倍首相を批判してゐるが、これはおかしなことである。国会の委員会の委員長は首相の部 下ではないため、首相が委員長に強行採決を命ずることなどあり得ないからである。

 国の権力は憲法によつて国会と政府と裁判所に分かれており、それぞれが独立して運営されてゐる。これは三権分立と言つて、たとへ国民は知らなくても野党 の議員たちには常識のはずだ。

 仮に三権分立ではなく首相にあらゆる権力が集中してゐるのなら、首相は国会の運営に対しても裁判所の判決に対しても自分で命令を出せる。しかし、実際は 三権分立なのでどちらも出来ないのである。

 したがつて、もし安倍首相が本当に委員長に強行採決をさせてゐるのなら、それは憲法違反である。だから、野党は強行採決で首相を批判するなら、首相を憲 法違反だと批判しなけらばならないはずだ。

 ところがさうしないのは、実際にはそんなことはなく、これが参議院選挙に向けて安倍政権のイメージダウンを狙つた印象操作でしかないことを自分でもよく 知つてゐるからである。(2007年6月20日)







 朝鮮総連中央本部の所有権が公安調査庁の元長官の会社に移行したといふニュースでは、朝日新聞の社説が面白い事を書いてゐる。

 この取り引き自体驚くべきだが、もつと驚くべきは、東京地検特捜部が元長官の自宅などを捜索した素早さであると言ふのだ。「元長官に強い不快感を示した 安倍首相に背中を押されたかのような異例の早さである」と言ふのだが、まさにその通りだらう。

 橋本首相の時代ならあり得ないし、小泉首相でもかうはならなかつた。やはり安倍首相ならではの素早さなのだ。それほど今の政府は北朝鮮に対しては徹底 して厳しいのである。

  所有権移転登記の偽装の疑ひで検察の捜査に乗り出したことで、関係者は一遍にびびつてしまひ、自分たちは正しいことをしてゐると得々と会見した元長官も日 弁連の元会長も移転登記を撤回して弁明に追はれる始末である。

 もちろん、首相が直接検察に指図することはないが、首相の政治姿勢と云ふものはかくも大きくものを言ふのだ。国民には人気のない安倍首相だが、当分の間 はこの国にとつて掛け替へのない首相であることは間違ひなささうである。(2007年6月19日)







 仕事についての男女の考へ方で最も大きく違つてゐる点の一つに、若い頃の動機といふのがある。

 男は学生時代に勉強したりスポーツをしたりギターの練習に打ち込んだりするが、それは女にもてたいからである。そして女にもてたくて始めたことが、サラ リーマンにしろスポーツ選手にしろミュージシャンにしろ、それぞれ将来の仕事につながるのである。

 これと同じ事が女に言へるかといふと、私は女でないからよくは知らないが、疑はしいと思ふ。

 女が男にもてたいと思つた時は、勉強などしないし、まして男まさりのスポーツに打ち込んだりはしない。そんな時、女は顔に化粧品を塗りたくらうとするの だ。

 もちろん、男も女にもてたくて鏡とにらめつこすることはあらうが、どうみても男前ではないと分かれば、他の事に活路を見出さうとする。

 ところが、女はさうではない。どうみても美人ではないと分かれば、さらに余計に化粧品を顔に塗りたくるのである。揚げ句に眉毛を剃つたり、眼をまつたく 変へてしまつたりする。

 逆に言へば、女は仕事につながる事にいそしめばいそしむほど男女関係から遠くなつてしまふ。そして、さうなれば子供も生まれなくなるし、世の中うまく行 かなくなつてしまふである。(2007年6月18日)







 NOVAにしろコムスンにしろ、新聞社やテレビ局にとつてはこれまでどんどんテレビコマーシャルを出してくれる大事なお得意さ んだつたはずだが、ちよつと役人がケチを付けたら、手の平を反したやうな悪口のオンパレードである。まつたく新聞記者といふのは恥を知る人間には出来ない 仕事だと思ふ。

 特にNOVAは、婆さんを出してノーバだの宇宙人を出して異文化交流だの「よく身に付く」だのと、うるさいほどのテレビコマーシャルの連発で、私などは うんざりしてゐたのだが、新聞社もテレビ局も何億といふ広告料を取つてゐながら、広告主の事業内容は何一つチェックせずに、いま初めて知つたやうな顔をし て報道してゐるのだからあきれるしかない。

 今回、役人がNOVAに対して一年以上の予約を取る事をやめさせたと言ふが、誰が一年以上も予約をするのだらうか。人間は飽きるものなのだ。

 それでも、飽きないで一年以上も続けられる自信のある人がゐるなら予約をしたらいいだけのことで、そんなことに役人がいちいち口出しすべきではない。と ころが、国民は上から取締つてやらないと、一年以上も予約して途中で飽きて解約して損をしたと騒いで面倒を起すと思つてゐるのだ。ユーザーはこんな愚民扱 ひに満足してゐる場合ではない。 (2007年6月17日)







 古代ローマの歴史家であるリヴィウスの書いた『ローマ建国史』(岩波文庫、上中下、リーウィウスとしてゐる)が出版中である が、これはかなり癖のある翻訳なので注意がいる。

 先づ、「序文」がなぜか「あとがき」のやうに訳されてゐる。これから執筆するのではなく、書き終つてから書いた体裁になつてゐるのだ。もちろん原文はそ んなことはない。

 用語もかなり独特である。コンスルは執政官ではなく「執政委員」、ディクタトールは「独裁委員」、その他にも何々委員が多い。まるでソ連の共産党を連想 させる呼び名である。

 読みやすい翻訳との評が一部にあるやうだが、仲間誉めだらう。一見文体に格調があるため、つられて読んでしまふが、よく考へると意味が分からないままと いふことが多いやうだ。

 古代ローマについてあらかじめちやんとした知識を持たない人が読むと、変な知識を身に付けてしまふ恐れさへある。困つた翻訳書がまた一冊岩波文庫に加は つたと言へさうだ。図書館で借りるにとどめておく方がよいかもしれない。(2007年6月16日)







 この国で自殺が多いことの原因ははつきりしてゐる。社会が大人に冷たいからである。それは人を見捨てて平気な冷たさであり、人 をとことんまで追ひ詰める冷たさである。

 その現れの一つが厳罰主義だらう。社会正義が第一で個人の生は二の次なのだ。公正さは人が生きていくための公正さでなければならないのだが、この国では 人を追ひつめて死なせる公正さなのだ。

 「借金返せ」と言ふことも貸し借りの関係の中では、揺るぎない正義である。それは約束を守れと言ふ正義であるが、人から生きる道を奪つて行く正義であ る。ところが、日本では法の正義の追求が借金取りの正義と何ら変わるところがない。

 これは例へば、困つてゐる人のために病気腎移植といふ方法を考へ出して多くの人を救つてゐる医師が出てきても、あれやこれやとあら探しをしてやめさせて しまひ、患者は人工透析で辛抱しろと言へる正義なのである。

 自殺とは自分自身でする死刑である。「極刑にすべき」と言つて、正義によつて人を殺すことを奨励する新聞が「自殺を減らさう」と言つても何の説得力もな いのは明らかなのだ。(2007年6月15日)







 年金記録不備の問題はこれを管轄する政府の問題であると共に、年金記録を扱ふ社会保険庁の問題である。そして、社会保険庁の問 題であるといふことは、政府の問題であると共に、そこで働く公務員の労働組合の問題である。

 つまり、この問題は政府自民党の問題であるだけでなく、この労組と組んでゐる民主党の問題でもあるのだ。

 ところが、政府自民党はこの年金記録の問題を自分の問題として責任を感じて対応しているのに、民主党は、社保庁に対して不思議な労働慣行を押しつけてき た労働組合に対して、何の責任も感じることもなく、責任は全て政府にあるとして、まるで他人事のような対応をしてゐる。

 しかも民主党の提案してゐる社保庁改革案は、社保庁を国税庁と合併させて、社保庁の職員の公務員としての身分を保証するものだと云ふ。民主党に親方日の 丸の労働組合を改革する気は全くないらしい。

 こんな当事者意識の薄い民主党が仮に政権を取つても、この問題を解決できないことは明らかだらう。(2007年6月14日)







 福岡市の幼児三人が死んだ交通事故の裁判で、何と弁護側が「被害者側のRV車が現場で急ブレーキをかけた」と主張してゐる。こ れがもし嘘でないなら報道はこの事実を隠してきたことになる。

 最近のエキスポランドの事故でも被害者の個人的なデータは今だに隠されたままである。報道は全ての情報を国民に開示しないものなのだ。

 報道によつて国民が知らされるのは、事実ではなくて事実らしきものによつて構成されたマスコミの意図だけだと言つてよいのではないか。

 コムスンの報道についても、そこからはつきり見えるのは、会長を叩けと云ふ意図である。そのためにコムスンのサービスが他社より喜ばれたといふ事実はそ のうちに誰も言はなくなつてしまつた。

 事実に意図が絡んでくると、事実では無くなつてしまふ。それはもはや事実の一面でしかない。

 しかしながら、事実の信用性は公平さの中からのみ生まれる。目的や意図のもとに提示された事実は事実とは認められない。だからこそ、報道は公平性が求め られるのである。(2007年6月13日)







 年金問題では、国民に早く安心してもらひたい政府与党と、国民に早く安心してもらはずに問題を未解決のままにして次の参議院選 挙まで持ち込みたい野党といふ色分けがはつきりしてゐる。

 マスコミはといふと大体が全部左翼で野党の味方であるから、年金に対する国民の不安をドンドンあおることに懸命で、NHKを初めてとしてこの問題を毎日 毎日やつてゐる。

 それにまんまと乗せられた国民が社会保険庁に殺到したものだから、当然のことながらコンピューターはパンクしてしまふ。ところが、それも政府が悪いと云 ふ話になつて、野党の思ふ壺の展開である。

 では国民は本当にそんなにも熱心に年金のことを考へてゐるのかと言ふと、四割近くもの人が国民年金の掛け金を払つてゐないし、せつかくなけなしの金を払 ひ込んだのに、領収書も無くしてしまふと云ふ体たらくだ。

 自分が払つた年金の記録さへもろくに保存できないのだから、親方日の丸の役人がいい加減なことをしてゐても驚くこともないと思ふが、自分の非を棚に上げ て人をけなすのが当節の風潮である。(2007年6月12日)







 シュテファン・ツヴァイクの『マリー・アントワネット』には、フランス革命の有り様がまざまざと描かれている。

 我々は主権在民といふ言葉を教はるが、それがこの本の中には実に具体的な形をとつて描かれる。主権を持つてゐた王が惨めにその主権を失ひ、タンブルの牢 屋に連れて行かれる様子こそは、主権在民が実現した瞬間なのだ。

 王が立派なお城で暮らしてゐるのに、国民の方で主権在民だと言つてみたところで、そんなものは言葉の上だけのことである。主権が国民にある以上は、まづ は国会議員の方が王より偉くないといけない。偉くない王が尊敬されてゐるのは、国会議員が馬鹿にされてゐるのは、主権在民でない証拠である。

 だから、もし主権在民ならまづは国会議員や首相が尊敬されなければならない。次に、地方自治体の政治家も尊敬されなければならない。そしてもし政治家た ちが主権在民が実現するものとして尊敬されるなら、彼らを選ぶ選挙の価値もまた違つて来るといふものだ。

 一方、歴史に主権在民がはつきりと形となつて現はれてゐるフランスの大統領選挙は、決選投票と合はせて二回もあるのに、高い投票率を維持してゐる。それ に対 する日本の投票率の低さは、マスコミが先頭に立つて政治家を馬鹿にしてゐるのと無関係ではあるまい。(2007年6月11日)







 読売新聞は自社の世論調査で内閣支持率が下がつたことについて、「理由は明らかだろう。年金の記録漏れ問題と、松岡利勝・前農 相の自殺だ」と社説に書いてゐる。しかしながら、最初の下落を報じた毎日新聞の世論調査は松岡氏の自殺前である。

 逆に読売の今回の調査では政府の年金対策に過半数が肯定的に評価してゐる。ならば、支持率が上がつてもいいはずであるが、下がつたままである。

 折しも台湾の前総統李登輝が来日して靖国神社を参拝するといふ大胆なことをやつてのけた。安倍首相が参拝を控へてゐるのを知つて、ならば私が代はりにと 思つての事かは知らないが、靖国問題に関して中韓を批判するなど、安倍首相がやるべきことを確実に代弁してくれてゐる。

 一方、その安倍氏は小泉前首相のもとで「次の首相も靖国参拝をして欲しい」と言つたが、いざ自分が首相になつたらやらないのだから、支持率が下がるは当 たり前である。

 この世論調査では、参議院選挙で与野党逆転を期待する人が過半数を越えてゐる。松岡でも年金でもなく、すでに安倍首相は国民に見限られてゐると考へてよ いのではないか。(2007年6月10日)







 介護サービスは現場の人間が不足してゐる。給料が安くて辞めてしまふからである。どれだけがんばつても手取りで30万に届かな いといふではないか。

 だから、経営面でいくらコムスンがインチキをやつてゐると非難して、介護サービス事業から排除しても、コムスンの代はりはおいそれとは見つからないので ある。

 事業所を開設する条件を満たすために申請書に何を書いたとかそんなことは、サービスを受ける側にとつてはどうでもよいことなのである。会長がどんな人で あるかも関係がない。大事なのは現場のヘルパーがよい人間かどうかなのだ。

 ところが、マスコミは会長が記者会見をして国民に頭を下げないのはけしからんなどと、経営者に対する個人攻撃が主になつてゐる。まづ法律を守るべきだと いふが、その点では誰も五十歩百歩であらう。

 コムスン排除で困るのは誰か。それは新聞記者でもなく金持ちの政治家でもないはずだ。手続き面の公正さを問題にして、現実に困つてゐる人間を見殺しにす る点で、コムスンの問題は病気腎移植の問題とよく似てゐると言へさうである。(2007年6月9日)







 少年は両親を交通事故で失ひ、伯父夫婦に育てられてゐるが、与へられた部屋は階段下の物置であり、着る物は伯父夫婦の息子のぼ ろのお下がり、そして年がら年中この息子にいぢめられてゐる。

 ところが、ある日少年をこのみじめな暮らしから救ひ出してくれる人物が現はれる。

 その人に連れられて魔法使ひの学校に行くために買ひ物に出かけるが、行く先々で自分の名前がわかると人々に握手を求められる。誰もが彼をヒーローとして 扱ひ、彼の前で緊張してどもり、興奮の余りに慌てふためくのだ。

 ついこの間まで自分の存在価値を完全に否定されてゐた少年が、翌日には有名人として迎へられ、「御会ひできて光栄です」と口々に言はれるやうになる。自 分としては努力して何かをしたわけではないのにである。

 ハリー・ポッターの物語は男の子版シンデレラである。この本は私には、余りにも不幸な境遇に置かれて、それに耐へられずに空想の世界に逃げ込んで自己満 足を見出した少年の物語に見えて仕方がない。(2007年6月8日)







 民主党はしきりに社会保険庁のていたらく振りを攻撃してゐるが、ではその情報はどこから得てゐるのかと言へば、それはまさに社 会保険庁の職員からであらう。

 かつて、国民年金の掛け金未納問題があつたが、その時に国民年金を収めてゐない人の情報を民主党の議員がいち早く入手して政府を攻撃したことがあつた。 その後、個人情報を勝手に閲覧したとして情報を漏らした職員は処分されたが、その構造は今回も同じであらう。

 社会保険庁の職員は民主党の支持母体の一つである自治労に加盟してゐる。そのお蔭で、民主党の議員は政府や自民党よりも社会保険庁の内情に詳しいのであ る。

 つまり、民主党は社会保険庁を政府の一部として攻撃しておきながら、一方でその社会保険庁の職員は民主党の身内で固められてゐるのだ。これでは社会保険 庁の協力を得て社会保険庁を批判してゐることになる。これを八百長と言はずして何と言はう。民主党は偉そうなことを言へる身分ではないのである。 (2007年6月7日)







 カントの『啓蒙とは何か』は「啓蒙とは自業自得の半人前状態からの脱けだすことである」で始まる有名な文章だが、カントの書いたものなので、ご多分に漏 れず分かりにくい。

 「半人前状態」つまり自分だけの力で物を考へられない状態から抜け出すのは、個人よりも大衆全体としてやる方が可能性が大きいと言ふのだが、その際の問 題点が分かりにくい。

 直訳すると「それは、以前に指導者たちによつてくびきの元に置かれた大衆が、啓蒙できない一部の指導者に扇動されると、今度は指導者たちにくびきの元に 留まることを強制することである」となるのだが、指導者がくびきの元に留まるといふのが分かりにくい。

 そこで最近出た光文社文庫の訳では、「自らをくびきの元に留めさせろと後見人(=指導者)に迫るのである」と、くびきの元の留まるのを大衆の方にして訳 してゐる。

 ところが、これだと「偏見はそれを広めた者に仕返しをする」といふこの後の文章と符合しない。半人前である方がよいといふ偏見を広めた指導者自身が半人 前状態を要求されてこその皮肉だからである。

 読みやすいと評判の光文社文庫だが、やはり翻訳で読むだけでは半人前状態を抜け出すことは難しいやうである。(2007年6月6日)







 グレアム・グリーンの『権力と栄光』は以前に原書で読んだが、本多顕彰の訳が手に入つたので再読してみた。それにしても、グレアム・グリーンの英語は難 しい。学校で習ふ英語とは全然違ふのだ。

 第二部、「祭日と断食日と禁欲日は the first to go だつた」とは何のことか。「次に聖務日課について more than occasionally に悩むことを止めてしまつた。そして、ついにそれをすつかり港に置いてきた」ここまで来て go が「やめる」といふ意味だと推測する。「最初にやめざるを得ないことだつた」。

 「祭壇の石も捨てた。持ち歩くには危険すぎるからだ。彼にはもうミサをする資格もなくなつた」「恐らく彼は liable to suspension だ」「教会による罰は最早無意味になつてゐた」。suspension は教会による罰のことかと辞書を引くと、「聖職停止」とある。「聖職停止になつても仕方なかつた」

 共産革命下のメキシコで最後に生残つた牧師が逃げ回る話だが、英語の力だけではなくキリスト教の知識も必要だ。キリスト教の信者は不倫などの罪を牧師に 告白して許しを得ようとする。告白せずに死ぬと地獄に落ちると信じてゐるのである。

 ところが、一人残つた牧師は酒飲みで姦淫の罪を犯し、自分の生を重荷としてゐる。この救ひのない世界の論理に付合ひながら、理解しがたい英語を読むの は、まさに苦行である。(2007年6月5日)







 近頃急に増えたものにウォーキングをする女性がある。歩くのは健康によいとテレビで言ふものだから、納豆の嘘に懲りずに、言はれた通りにしてゐるのだら う。

 しかし、日本人の世界的な長寿はウォーキングなどと云ふものが流行る前からのことであることを考へると、ウォーキングと健康はあまり関係がないことは想 像がつく。

 ところが、ウォーキングもただ歩くだけではだめだと言ふ人がゐるお陰で、大きく腰を振りながら歩く女性までゐる。それに手の振りも加はるから、もはや踊 りながら歩いてゐるに等しい。

 女性といつても、ウォーキングをしてゐるのは30代以上であつて、それ以下の若い女性はウォーキングなどはしない。逆に高齢になつて来ると女性は一人で はなくご亭主と二人連れでウォーキングをする。

 いづれにしても、体のことを考へてのウォーキングであらうが、例へば、骨粗鬆症にはウォーキングは効果がない。だから、ウォーキング人口が増えたとして も、日本の平均寿命に与へる影響はないと考へてよいのではないか。(2007年6月4日)







 WHOの推計によると、世界で年間に二〇万人が職場の受動喫煙で死亡しているといふ。これは煙草を吸つてゐる人の回りで即死した人がそんなにゐたと云ふ わけではない。ならば、翌日死んだのか。さうでもなからう。ならば何なのか。

 地球上で既に死亡した人間の数は何百億人だらうか。その内で受動喫煙が直接の原因で死んだ人間が何人ゐるのだらう。日本では、誰の家でもこれまで何十年 以上もの間受動喫煙が行はれてゐたはずだ。その内の誰が受動喫煙が直接の原因で死んだと言へるのか。そんな報告はどこにもない。

 マスコミはさうしたことを一切考へることなく、WHOがどう言つたと垂れ流してゐるだけである。そんなものをどうして信用できるだらう。

 タバコに関するマスコミの議論にはバランスの欠いたものが多い。新聞記者は自分が苦労してタバコをやめたのにどうして他の人もやめさせないのかといつた 動機から書いてゐるとしか思へないやうな文章ばかりだ。受動喫煙有害論は多分に情緒的なものと考へてよいのではないか。(2007年6月3日)







 日本の外国語辞典にはどれも外国の種本があるが、だからといつてその種本の方を買つてきてそれだけで勉強できるかと言ふとそれは不可能なので、パクリだ と思つても日本製の方を買つてくることになる。

 学習用の英和辞典は大抵オックスフォードやロングマンの学習用の英英辞典を見て作つてあるのに対して、コンサイス英和辞典は名前も同じオックスフォード のコンサイスを参考にして作られてゐる。どちらにしても、訳語の並びや例文が本国の物とよく似てゐるからである。

 英語の学習者は米国や英国の辞典を使ふのが理想なのだが、なかなかさうはいかない。特にオックスフォードのコンサイスとなると単語を説明してゐる言葉の 方がむつかしいので、買つても本棚の飾りになることが多い。

 しかし、それを避ける方法がないわけではない。日本製のコンサイス英和を参考に、本家のコンサイスを読むのである。訳語の並びが同じだから、この英語の 説明がこの日本語だと分かるし、例文の日本語訳は即ち本家のコンサイスの例文の訳なのだ。(2007年6月2日)







 テレビで党首討論を見たが、小沢一郎氏はなぜあんなに討論が下手なのだらうか。

 同じ事をぐだぐだと繰り返すばかりなのだ。聴衆に分かりやすく論点を整理して、説得力をもつて話すことがまるでできない。そして、委員会で議論をもつと 続けるべきだといふやうな枝葉末節の問題に最後まで拘はり続けた。

 考へてみれば小沢氏は大臣の経験もあまりなく、国会で答弁をしたことも殆どないし、自ら議員として質問に立つたこともないのだらう。だから討論の仕方が 分からないのではないか。

 党首討論とは、我こそは首相に相応しい人間だといふことを国民に見せる場であるはずだ。参議院選挙が政権選択選挙だといふなら、特にさうである。それな のに、あんなふうに下から見上げたやうな目線でねちねちと話すのでは、誰が小沢氏に首相になつてほしいと願ふだらうか。

 どうして真向から正々堂々と首相に立ち向かはないのか。安倍首相を年下扱ひして叱りとばすぐらいでなければ、小沢人気は生まれてこないのではないか。 (2007年6月1日)







 ニートやフリーターに正社員が如何に有利であるかを教へようとして、あるグラフを見せる人がゐる。そのグラフには、収入の多い 男性ほど結婚してゐる割合が高く、収入が少ないと結婚も少ないことが描かれてゐる。

 だから、正社員になる方がよいと言ひたいのだらうが、私に言はせれば、あのグラフが示してゐるのは、男の金目当てに結婚する女が如何に多いかといふ女の 情けない現実だらう。

 そして、金目当の女に結婚された男が幸福かどうかといへば、答がノーであることは明らかである。そんな結婚をするくらゐなら、ニートやフリーターのまま で結婚などしないでゐる方が、男にとつて余程の幸せといふものだ。

 そもそも、このグラフの前提には結婚してゐる方が幸せだといふ偏見が横たはつてゐる。しかし、そんなことは誰にも分からないのである。むしろ結婚したが ために地獄のやうな生活を強いられてゐる男たちは五万とゐるのだ。

 結婚を餌にして若者たちを働らかせようと考へるなど、学者馬鹿も休み休みにして欲しいものである。(2007年5月31日)







 プロ野球チームの中心選手が大リーグに行くことがどういふことかを今年の阪神ファンは痛いほどに分かつたことだらう。阪神の投手陣は井川が一人抜けただ けで総崩れになつてしまつたからである。

 エースはチームの大黒柱だとはよく言つたもので、確かに大黒柱が抜ければチームは崩壊する。考へてみれば松井が抜けた巨人、イチローが抜けたオリックス も同じだつた。

 確かに、野茂を初めとするパリーグの選手が大リーグに行つてアメリカ人を手玉に取る有り様は、日本から見てゐて気持のよいものだつた。しかし、セリーグ の選手まで大リーグに行くことはなかつたのだ。

 大リーグの松井はセカンドゴロばかり打つし、ヤクルト出身の石井も高津も打たれてすぐに帰つて来た。井川に至つては監督に嫌はれてずつと二軍生活であ る。

 球団が選手の大リーグ行きを拒否すると、ファンは球団が意地悪をしてゐるかのやうに言つて非難したものだが、もうそんなことは言ふまい。

 日本のプロ野球の選手は大リーグなんかに行くことはないのだ。大リーグの野球は、野球とは似て非なる何か変な物なのであるから。(2007年5月30 日)







 松岡大臣は悪人面をしてゐたが、中身は違つてゐたやうだ。悪人は自殺などしないからである。しかし、左翼マスコミはここを先途 と悪人扱ひで突つ走り、この自殺を政権打倒に利用しようと必死である。

 そして「自殺の責任は松岡氏を庇ひ続けた安倍首相にある」とか「自殺は政権に打撃」とか訳の分からないことを書き散らしてゐる。庇わないから自殺をする のが普通であり、自殺に同情する心理から政権に有利になるのが普通である。

 彼らはそれを何とか防止したくて正反対のことを書いてゐるのだ。かういふ記事はもはや記事でも何でもなく立派な政治活動である。そして、肝腎の自殺の原 因の解明はどこへやらで、新聞にとつて事実などはどうでもいいのだ。

 年金不払ひの問題にしても今の政権が作つた問題ではない。その問題に対して安倍政権に責任があるかのやうな嘘を書く。これから選挙が近くなるにつれて、 新聞はどんどんこんな嘘を書くやうになる。世論調査の数字も作る。嘘でも構はないのである。なぜなら、それが新聞だからである。(2007年5月29日)







 横綱朝青龍の今場所の負け方が尋常ではない。そこに横綱昇進のかかつた大関白鵬との優勝争ひを何としても避けたいといふ横綱の執念のやうなものを見たの は、私だけだらうか。

 白鵬が今場所優勝すれば二場所連続優勝で横綱昇進が確定する。それには誰も文句を言へないはずだ。以前、白鵬の横綱昇進がかかつた場所で、白鵬は朝青龍 戦に勝てば昇進と前日に言はれながら、勝つても昇進を見送られた。

 それに懲りた朝青龍は、自分の後継者たるべき白鵬を昇進させるには、自分との一番が来る前に白鵬に優勝してもらふしかないと考へたのではないか。だから こそ朝青龍は、千代大海に立ち後れし、魁皇に腰を左へ振つて右上手を取らせたのではないのか。

 そして、白鵬が既に優勝してゐれば、最後の直接対決で白鵬に自分が負けても八百長などと言はれる心配はない。かつてユーラシア大陸を征服したモンゴル人 の深慮遠謀斯くの如し、なのではあるまいか。(2007年5月28日)







 女性医師の就労支援のために病院に保育所を設けるといふ。いつたい一つの病院に赤ちやんのゐる女医が何人ゐると云ふのだらう。

 結婚した女医が仕事に戻らない主な理由が子育てだと云ふが、嘘ではないのか。使命感のある女医なら何を置いても患者のために仕事場に戻つて来るはずだか らである。

 女医は医者の3割を占めると云ふが、国立大出の女医はその内の何人なのか。医者の娘が親の金で為つた女医ならそのまま引つ込んでゐてくれる方が世のため 人のためではないのか。

 結婚して子供が出来たから辞めてしまふのなら初めから医者になどならないことだ。医者は体力的に男でも大変な仕事であり、のしかかる責任も大きい。同じ 医者でも女医は看護婦の尊敬もなかなか得られまい。人間関係も大変なはずだ。女の「でもしか医者」ではとても勤まらない。

 女医のために保育所など作る必要はない。保育所はまづ子持ちの看護婦のためにこそ作るべきである。そもそも女医が辞めることと、出生率の低さは関係がな いのである。(2007年5月27日)







 一度買つた本や雑誌をまた買ふことは滅多にないが、一度見たサスペンスドラマを何度も見てしまふことはよくある。先日も『九門 法律相談所(10)』を最後まで見て、これは前に何度も見たことを思ひ出した。

 自分の保護司を殺したとして逮捕された男の冤罪を晴らすストーリーなのだが、この男の目撃者で被害者の妻といふ小さな役で高橋恵子が出て来たところか ら、彼女が犯人かと目星を着けて見始める。

 パソコンやインターネットが珍しさうに扱はれてゐるから、そんなに昔の作品ではないなと思ひながら見てゐると、その内、九門弁護士役の山崎努が焼鳥屋で 真赤な服を着た高橋恵子のお尻を撫で回すシーンで、前に見たとピンと来た。

 高橋の夫の弟は事件後自殺したが小学生の娘がゐて祖母と二人で暮らしてゐる。その子を九門が自分になつかせるところからドラマの逆転が始まる。そして遂 にその子が弟と高橋との子であることを突き止めて、高橋に真相を語らせるに至る。

 夫の弟の子を高橋が身籠つたことから修羅場となり、夫が弟に殺さたのだつた。しかし、最後の法廷シーンでもう一回どんでん返しがある。自殺した弟の身代 はりに高橋が自ら殺人犯として名乗り出るのだ。

 ここまでのストーリーを全部思ひ出したのと、ドラマが終るのは同時だつた。少しずつ思ひ出しながらも、結末までは思ひ出せずに楽しみながら最後まで見て しまふのだから、人間の記憶力は全くうまく出来てゐるやうだ。(2007年5月26日)







 沈没しかけた船から様々な国籍の乗客を脱出させるために、船長が使ふべき効果的な説得法は、

 アメリカ人には「飛び込めばあなたは英雄だ」イギリス人には「飛び込めばあなたは紳士だ」ドイツ人には「飛び込むのがこの船の規則だ」イタリア人には 「飛び込めば女性にもてる」日本人には「みんなもう飛び込んでゐる」といふものである。

 これは日本人が集団主義で何事にも付和雷同したがる気質を衝いた有名なジョークである。しかし、現実はさうでもない。

 例へば、世界の国々では何度も憲法を変へてゐるとか、死刑廃止は世界の流れだとか言はれても、日本は別だといふ考へ方が頑として存在して、世界の声に耳 を傾けようとはしない。日本対世界となると日本人は決して付和雷同ではないのである。

 だから、日本人はこのジョークのやうな状況で、他の国の人たちがみんなもう海に飛び込んだと聞いただけで、それを真似たりはしないのである。ただし「ア メリカ人はもう飛び込んでゐる」といふのが一番効果的なのは確かではある。(2007年5月25日)







 古本屋でフロイデ独和辞典を見つけたので購入して使つてみた。この辞書の特徴は

 1、個々の単語についての情報量は郁文堂独和と同程度かそれ以上に詳しい
 2、動詞の過去形などの変化形も見出しにして初心者に配慮してゐる。
 3、動詞の名詞形などの見出しは動詞の後に繰り込まず、段落を変へて見易くしてゐる。
 4、用例(慣用句)の並び順は、前置詞別では前置詞のアルファベット順、それ以外は見出し語と共に使はれる動詞或は名詞のアルファベット順になつてゐ る。(凡例4ー2ー1)

 特に4はこの辞書の特筆できる長所で、クラウン独和や郁文堂独和などが似た意味毎にまとめて並べてゐるのと違つて、用例(慣用句)が探しやすい。

 独和のページ数は郁文堂独和とほぼ同じだが、上記2、3、のために語彙数はその分だけ郁文堂独和より少なくなつてゐる。

 ただ、この辞書をしばらく使つてゐると内容が郁文堂独和と殆ど同じであるやうに思へてきた。つまり、フロイデ独和は、郁文堂独和の例文を簡略化したり、 訳語を手直したりして、見易く構成し直した物ではないかといふ気がしてきたのである。

 さうなると、語彙数がもの足りなくなる。結局、元になつてゐる郁文堂独和を使ふ方が手つ取り早いといふことになり、今ではフロイデ独和は私の本棚の奥に 飾られてゐる。(2007年5月24日)








 特待生問題ではこれまで高野連に頭が上がらなかつた新聞各紙が、ここぞとばかり高野連批判をやつてゐるのが面白い。高野連は独 断的だとか現実を見てゐないとか言つてゐるが、そんな事は前から分かつてゐたことである。

 高野連が民間人のやる事に対して高飛車な態度で何かと口出しをしてきたが、それらに新聞各紙はずつと何の批判もして来なかつた。高野連にはまるで腫れ物 に触るやうにしてきたのである。

 ところが今回の問題で新聞各紙は例の「子供たちが可哀想だ」といふ錦の御旗を手にしてなかなか威勢がいい。

 もつとも、新聞各紙はどういふわけか野球留学に寛大である。それどころか、特待生制度がなくなれば「これからどうやつて優秀な生徒を集めたらいいかわか らない」といふ監督の言葉を紹介して、金で生徒を集めて甲子園を目指すことを正当化する有様である。

 とは言へ、これまでタブーだつた高野連批判がこの問題を契機に自由になるとしたら、それはそれで結構なことだ。これで少しは高野連も謙虚になるかも知れ ないからである。(2007年5月23日)







 スーパーマーケットの喫煙ルームに座つてゐると、一服吸ひに女性たちがどんどん入つて来る。役所によれば女性の愛煙家は一割し かないといふが、彼女たちはきつと調査で嘘をついてゐるのである。

 その一方で、煙草を吸はない方が健康的だといふ理由から、タバコを吸へないやうにしてしまへといふ風潮がどんどん広まりつつある。新聞各紙は、日本は煙 草が安すぎるから煙草を吸ふ馬鹿者が絶えないと言はんばかりである。

 昔アメリカで禁酒法が作られて、酒を飲ませないやうにしたことがある。今から思へば実に馬鹿げたことだが、憲法にまでなつたのだから民主主義は恐ろし い。民主主義では多くの国民が望んでゐるならそれが正義となる。しかし、それは一歩間違へば少数派の抑圧となり全体主義につながる。

 健康に反することは禁止してよいといふ考へ方は、健康全体主義と呼ぶべきものになりつつある。その先頭に立つのが禁煙全体主義である。そして、かつての 喫煙ハラスメントは、今や立場が逆転して嫌煙ハラスメントになりつつあるのだ。(2007年5月22日)







 大学時代には朝日新聞をとつてゐて、中曽根康弘氏が将来日本の首相になつたら、アメリカに亡命しないといけないと友人と話し合 つたことがある。中曽根氏は右翼で軍国主義者だと思つてゐたからである。

 これは中曽根氏が靖国神社に参拝したり憲法改正を主張したりする悪い人間だと言ふ朝日新聞を真に受けてゐたからであるが、今でも本気でこんな考へ方をし てゐる人がどれだけゐるのだらうか。

 確かにさう見える人たちは沢山ゐる。朝日の社説を書いてゐる人たち、共産党や社民党の人間、それに民主党の社会主義者たちがさうだらう。前国立市長は、 次の参議院選挙に出ると発表した記者会見で、「今の安倍政権に本当に恐怖を感じている」とか「今の右傾化する日本の危機的状況に黙っていていいのか」など と言つてゐる。

 しかし、朝日の社説を長年読んでゐれば、こんな考へ方は政府を攻撃するための方便でしかないことに嫌でも気が附くものである。前国立市長のこの発言も生 きるための方便だと私は思つてゐる。(2007年5月21日)








 戦時中の日本は表現の自由がなかつたとよく言はれるが、それは日本だけのことではない。

 例へば、日本やドイツで戦争に協力する映画が作られたが、アメリカでも同じだつた。アカデミー賞を3度も受賞したフランク・キャプラ監督が作つた『ザ・ バトル・オブ・チャイナ』(1944年公開)はまさにさういふ映画である。

 この映画は、日本に対する敵意を米国民に植え付けるために作られたプロパガンダ映画であり、当時の中国国民党軍の共産軍に対する残虐行為の映像を、日本 軍の行為と見せかける捏造映画だつたことが明らかになつてゐる。

 アカデミー賞監督が自分の経歴を汚すこんなインチキ映画を作つてゐたのだから、第二次大戦中における情報戦のすさまじさが偲(しの)ばれる。

 しかし、アメリカはその後も戦争中の自国の兵士たちを英雄扱ひしてドイツ軍を悪者扱ひする映画を延々と作り続けたし、今も南京事件に関する捏造映画を作 つてゐる。アメリカ人が歴史の真実に興味を持つやうになるのは何時のことだらうか。(2007年5月20日)







 東京暮らしの経験のあるものなら、東京の家賃が埼玉の家賃の二倍もすることを知つてゐる。東京は地方より物価が高いのである。

 物価が高いといふことは、収入が大きいが出費も大きいといふことである。つまり、物価の高い東京では動く金の高が大きいのだ。そして、税金は動いた金に かかつて来る。だから、東京が地方より税収が多くなるのは当然である。

 ところが、この税収の多寡をめぐつて、東京は豊かで地方は貧しいといふ言ひ方が広まつてゐる。それを当世流行の言葉で「地域間格差」といふのださうだ。

 そこでこの「格差」を是正するために、東京都民が住民税の一部を出身地の役所に納めることを可能にしようといふ意見が出てきた。題して「ふるさと納税」 といふ。

 しかし、地方の住民からすれば東京の住民のお情けにすがらうとするこんな制度は、地方の沽券に関はる話であるはずだ。ところが、県知事たちは「格差是 正」になると早速賛成してゐるといふ。

 『国家の品格』といふ本が売れたさうだが、『地方の品格』の方はどうなつてゐるのだらうか。(2007年5月19日)







 永井荷風の『四畳半襖の下張』の入つた河出文庫が本屋にあつたので買つて読んでみた。さすがにこれを猥褻だとして裁判になつた だけのことはある猥褻さである。

 これはネットでも読めるのだが、『四畳半襖の下張』で検索しても中々出てこない。『四畳半襖の下張り』で検索すると有料版が出てくる。しかし、「今年曝 書の折ふと廃塵の中」と書き出しの文で(ウェブ全体から)検索すると、無料版が出てくる。

 文語で書かれてゐるが古文が読めなければ意味が分からないと云ふものではなく、日本人なら本能で読んでしまへるものだ。

 かつて待合(ラブホテル)だつた家の四畳半の襖の下地紙に、待合の元の主人と芸妓だつた妻との初めての性交渉の有様が細かく書かれてゐるといふ設定で、 そこに描かれた手練手管は男なら誰でも真似してみたいと思ふやうなものである。

 文庫本は文語文のまま現代かな遣ひに変へたもの、ネットの有料版はそれを送りがなや平仮名を多用して読み易くしたもの、無料版は文庫本のかな遣ひを旧か なに戻したものであるが、無料版で充分堪能できると思はれる。(2007年5月18日)







 Yahoo USの大リーグの井川の記事を読んでゐると、outingといふ単語がしきりに出てきたが手持ちの英和辞典を見ると「ピクニック、遠出」とあるだけで文脈 に合はない。

 本屋の棚に並んでゐる辞典を見ると、「遠出」の後に「(試合などへの)出場」と「同性愛を暴露すること」の二つの意味が追加されてゐた。とすると、大 リーグの記事のoutingは「出場」といふ意味だつたわけだ。

 つまり、手持ちの英和辞典は時代遅れになつてゐたのだ。英和辞典はここ五六年で大幅に進化してゐる。その最後に来たのが『ジーニアス』の第4版への改訂 だ。第3版には「遠出」しか載せてゐないからである。

 このoutingの三つの意味は、1991年のアメリカ製のカレッジ版英英辞典に既に掲載されてゐる。アメリカの最新の情報が10年以上かかつて、やつ と日本に反映されたことになる。

 そこで英和辞典の買ひ換へが必要かと、英和辞典を物色してゐるが、『ロングマン英和辞典』が面白さうだ。politicianの訳語で、他の辞書が決ま つて「策士」としてゐる処を「うまく立ち回る人、策謀家」としてゐるのだ。どうやら日本語の新鮮さが売りの辞書であると思はれる。(2007年5月 17日)







 野球の特待生制度で不思議なのは、なぜ私立の高校や大学にあつて公立に殆どないのかといふことである。スポーツが優秀なだけで 生徒をとることが私立に許されるなら、なぜ公立にも許されないのか。どちらも同じ法律の下に設立された学校だからである。

 もし公立にもスポーツ特待生制度が可能なら、甲子園の出場校が今のやうに私立に偏ることもなくなるし、六大学野球で東大が勝つてニュースになることも無 くなるはずだ。

 慶応や早稲田にスポーツ枠で入学する学生がゐるのなら、東大や京大にスポーツ枠で入る学生があつてもいいではないのか。逆に、東大や京大にスポーツ枠が あつて悪いのなら、慶応や早稲田にあるのはおかしいなことである。

 国立の体育大学は鹿児島にあるだけである。なぜもつと国や県がスポーツの優秀な学生を育てようとしないのか。文部大臣が高野連に特待生制度を残せと言ふ のなら、税金でスポーツ教育を奨励する制度を考へるべきではないだらうか。(2007年5月16日)







 300日規定の問題で驚かされたのは、離婚前の妊娠の多さであらう。これは女たちが子供を作ることを結婚の道具にしてゐるからだと思はれる。

 初婚と同じく再婚でも出来ちやつた婚が多いのは、女たちが避妊を知らないからではあるまい。出生率の低さから見て、女たちは結婚したら避妊して子供を作 らずにゐるが、新たに結婚したくなると避妊をやめてゐるらしいのである。

 つまり、女たちは離婚しさうになると次の相手を確保するために子供を作つてゐるのである。

 しかしながら、男にとつて、結婚してゐない女から妊娠を告げられるほど恐ろしいことはない。ところが、自分の愛する男をそんな目に遇はせて羞ぢないのが 今の女たちなのだ。

 結婚前に妊娠することで男に結婚を言ひ出させようとするのは卑怯なことだが、女たちは自分がフェアであるべきだとは思つてゐない。なかには、妊娠したと 嘘をついて結婚を言ひ出させようとする女までゐる。

 こんな女たちが子供の給食費や保育費を滞納するようになるのは想像に難くないと言ふべきだらう。(2007年5月15日)







 このごろ手書きではカタカナを使ふやうにしてゐる。カタカナの方が直線的なので自分には書きやすく、またあとで読みやすいから である。

 今や日本語はひらがな全盛である。カタカナを使ふのは外来語と動植物の名前を書く時などに限られてゐる。ところが、昔はカタカナもひらがなと同じくらゐ によく使はれた。

 カタカナ文は漢文の振り仮名や送り仮名にカタカナが使はれたことに始まる。だから、昔は漢文の読み下し文やその文体の文章でカタカナがよく使はれた。し かし、漢文が廃れると共にカタカナ文も廃れ、今や誰でも漢字とひらがなで文章を書く。

 ひらがなは漢字の草書体から作られたものであり、カタカナは漢字の一部をとつて作られた。だから、ひらがなは丸みがあるのに対して、カタカナは角張つて ゐる。ひらがなは縦書きをするのに便利な字体であるが、カタカナは独立してゐる。

 活字を使ふ場合にはひらがなでもよく分かるが、手書きのひらがなは少し雑に書くと見分けが付かなくなる。そこで手書きの時にはカタカナを使はうといふわ けだ。特に外国語の原書を読んでゐて訳語を行間に書き込むときに便利である。(2007年5月14日)







 最近になつて自転車の交通事故が増えたといふが、それはエコブームに乗つて自転車を使ふ人が増えたからだらう。自転車が増えれ ば事故が増えるのは当たり前のことである。

 その中で自転車と歩行者の事故が増えたのは、あながち自転車に乗る人のせゐだけではない。道路を自動車が便利なやうにばかり整備して自転車を歩道に追ひ やつてしまつた警察にも責任がある。

 自転車が安心して車道を走れるなら、歩道の上にゐる歩行者に自転車がぶつかる道理はないからである。

 自転車による信号無視が多いのも同じことだ。自動車が通るから信号が出来た。それで割を食つてゐるのは自転車や歩行者の方だ。車の運転手は座つて信号を 待てるが、立つてゐる人間の身からすれば、車が通らないのに意味もなく待たされるのは、疲れるばかりである。

 これからはますます自転車は増える。それに対応して自転車の走りやすい道路を整備するのが事故を減らすための警察の責務ではないか。(2007年5月 13日)







 村岡元官房長官に対する控訴審の判決は一審の無罪を覆して今度は有罪と言ふものだつた。一審とは違ふ証拠が出てきたのではない のに、こんな正反対の判決が出るのだから、裁判とは好い加減なものである。

 裁判官と検察官は同じ公務員で仲がいい。だから、三審制で三回も裁判をすればそのうち必ず検察側に理解のある裁判官に当るといふわけで、弁護側にとつて 三審制は損なだけである。

 日本の刑事裁判の有罪率が高いのも、国側の検察官に何度も再チャレンジの機会が与へられてゐるからであり、「まだ最高裁がある」といふのは日本では検察 官の言葉なのだ。

 しかし、有罪か無罪かといふ人の人生を左右するやうな重要なことで、裁判官によつて意見が異なること自体、あつてはならないことである。誰が裁判官でも 有罪になるのでなければ、国と戦ふ立場に置かれた個人は浮かばれない。

 自由心証主義といつて、裁判官にはそれぞれに広範な裁量権が与へられてゐるが、検察側証人の信憑性が裁判官によつてこんなに違ふのだから、裁判とはどの 裁判官に当るかの運次第であり、たまに幸運に巡り会ふことがあつてもそんなことは三回も続かないといふことになる。(2007年5月12日)








 事故は常に人知の及ばないところで発生する。アメリカ生まれのジェットコースターの車軸が折れると誰が予想しただらうか。

 どんな機械にしてもその構造を隅から隅まで知り抜いてゐるわけではなく、誰もがこんなものだと思つて使つてゐる。それは六本木の回転ドアにしても同じな のだが、事故が起きてみると回転ドアの場合と同様に、事故の可能性を完全に把握してゐなかつたことを理由にエキスポランドはさんざ批判されることだらう。

 今回の事故でもう一つ特徴的なことは、事故の被害者の名前がなかなか明らかにならなかつた事である。警察の最近の方針で、被害者の実名公表を家族に確認 する必要があつたからだらうと思はれる。

 しかし、その名前とともに顔写真の掲載された新聞を見て驚いた読者も多かつたのではないか。もし匿名のままだつたら分からなかつた情報が、実名報道によ つて明らかになつたからである。

 新聞各紙は、事実を知らせるためには実名報道が欠かせないと主張してゐたが、今回は新聞が決して指摘することのないやうな事実が実名報道によつて明かに なつたのだから皮肉なものである。(2007年5月11日)







 プロ野球の裏金問題は西武だけが悪者になつて、他の球団はお構ひなしといふことらしい。2005年以降は西武以外は不正がないと報告したと言ふのだが、 もつと前のことがあるはずだ。

 なぜダイエーには毎年々々その年のナンバーワン投手が入団してゐたのか。西武が強くなつたのは根本氏の力が大きかつたが、根本氏がその西武からダイエー に移つてからダイエーが強くなつたことは誰でも知つてゐる。

 その西武が不正だらけだつたのだから、当然ダイエーも同じ事をしてゐたのではないのかと思はれても当然ではないのか。それに、巨人に高橋が入団した時に 大金が動いたといふ話はどうなつたのか。

 どうやら全てをうやむやのままで済ます積もりらしい。西武は洗ひざらい公表してドラフトの指名権を一部失つたといふが、それで幕引きはおかしいだらう。

 今回の処分対象を2005年6月の倫理行動宣言の後だけに絞つたのもおかしなことだ。これでは、その前はやりたい放題だつたと思はれても仕方がない。こ んな汚れたプロ野球を楽めと言はれても無理と言ふものである。(2007年5月10日)







 "Président Sarkozy" サルコジ氏の大統領当選の第一報を伝へるリベラシオン紙の見出しは簡潔にして感動的だつた。日本語に直訳すれば「サルコジ大統領」となるが、これではサル コジ氏が大統領に選ばれたことにはならないのだから、フランス語は面白い。

 この選挙結果を日本式に言へば、フランス国民は「格差是正」を訴へたロワイヤル氏よりも「格差拡大」の可能性がある競争社会の実現を主張したサルコジ氏 を選んだことになる。

 公共放送はフランスもイギリスも日本もこぞつて反米左派の論調をとつて、社会党のロワイヤル氏を応援したのだが、マスコミと国民の考へ方の「格差」はま たもや明かになつた。

 欧米式のやり方が進歩的だと信じて日本の左派やマスコミがいつも引き合ひに出してきたフランスが、これまでの政策を自ら否定したのだから驚きである。日 本の労組にとつて夢の週35時間労働制を何とフランスは撤廃すると言ふのだ。

 まさに欧州状勢は複雑怪奇である。この選挙結果を知つた日本の民主党などの野党は、フランスで時代遅れの烙印を押された「格差是正」のスローガンを、こ れからも使ひ続ける積もりなのだらうか。(2007年5月9日)







 市場の独占が消費者の利益にならないといふ事を、姫路の本好きたちはジュンク堂の進出で痛感してゐるのではないか。

 とにかくジュンク堂が扱ふ本はべらぼうに多い。だから、ジュンク堂が来てからは誰もがここばかりに行くようになつた。するとあつと言ふ間に大きな地元書 店が二つ消えてしまつたのだ。

 ジュンク堂が来て、読者の選択肢は一つ増えて三つになるどころかジュンク堂一つになつてしまつたのである。

 以前なら、同レベルの本屋が二つあつたので、目当ての本がこちらに無ければあちらへ行かうとなつたのだが、いまやジュンク堂一つなので、ここになければ 終はりである。つまり、姫路広しと言へどももうどこにも無いのだ。

 これは新アクセス独和辞典がどう新しいのか実物を見に行つた時に実際に体験したことである。結局、ジュンク堂が来てゐない近くの町の本屋で見ることがで きた。

 ジュンク堂は品揃へがよくて学者が買ふやうな難しい本まで置いてあるが、この程度の本でも置いてゐないことがよくある。しかし、学者は研究書を本屋で見 て買つたりしない。地方都市には大きすぎる本屋は却つて迷惑である。(2007年5月8日)








 辞書は何でもさうだが、外国語の学習では特に小さい辞書が便利である。

 小さい辞書は、初歩の段階でまづ役に立つ。教科書でも単語の意味を全部教へてくれるわけではないので、自分で調べる必要がある。そして、この段階では小 さな辞書で充分である。

 それが済んで、長い文章を読む段階では、出てくる単語を片つ端から調べなければならない。そんな時、大きな辞書は面倒だ。やはりどんどん引ける小さな辞 書がよい。

 次の段階は、同じ長い文章でも、なるべく単語を調べずに読む練習をする必要がある。もう殆どの単語の意味は分かるから、出てくる単語の意味を片つ端から 調べるやうなことはない。むしろ、文脈だけから意味を汲み取つていく訓練が大切だ。

 日本語を読むのと同じで、外国語の場合もいちいち辞書を引いてゐては、速く沢山読めるやうにはならないのだ。そして、沢山読まなければ語学はものになら ない。

 そして、そんな時にも重要単語の載つてゐる小さい辞書で充分である。つまるところ、辞書は小さなのを買ふのがベストの選択だといふことになる。 (2007年5月7日)








 子育て支援に保育園を作れといふ声をよく聞く。もちろん子育てをしながら働く必要があるならそれもいい事だらう。しかし、そこに男女平等思想が絡んでく ると話がややこしくなる。

 これは女性が男性と同等に働くためには子育てから女性を解放する必要があるといふ考へ方である。女は子育てで損をしてゐるといふのである。

 その一方で、子供を産めない女は、大金をかけて人工授精どころか代理出産をするほどに子供を欲しがるのだ。そんな女が今度はその子を保育園に預けて仕事 をするだらうか。

 ところが、普通に子供が産める女は子供を邪魔者扱ひして保育園に入れようとする。仕事と子育ての両立のためだと言ふが、子育ては人に任せて仕事を続けた いのが本音だらう。

 そんな仕事第一の女たちに対して子育て支援をして、どうして少子化対策になると言へるのか。そんなことをすれば、子育てを軽んじる女がますます増えて、 ますます少子化に拍車がかかるだけではないのか。(2007年5月6日)







 憲法記念日の毎日新聞の社説によると、「首相は『占領軍の影響下で制定された』憲法に強い違和感を表明し、愛国心が育たず家族のきずながうすれるなど、 改憲しなかった弊害が出てきた」と言つてゐるらしい。実にもつともな事である。

 これは「戦後の繁栄は米国の『押し付け憲法』に発する。この皮肉に満ちた戦後史をなんとか修正したい。自前の憲法にしない限り、日本人としての誇りが十 全にならない」といふ考へ方なのださうだが、その通りだらう。

 で、それについての毎日新聞の反論はと言ふと、「危なっかしい言葉だ」「書生論じみている」これで終はり。何故さう思ふのか何の説明もない。そのあと は、国際環境は激変したが改憲せずとも何とかなると言ひたいらしいのだが、何一つ説得力のある根拠を示せないのだ。

 なぜ護憲派は、アメリカ製の憲法ではなく日本製の憲法を作らうと言はないのか。何条かは知らないが、その中に国民の合意のもとで新たに平和主義の条文を 盛り込めばいいだけではないか。

 その結果「九条の会」が「十条の会」になつても、一向に構はないと思ふのだが、「九」でなければ何か困る理由でもあるのだらうか。(2007年5月5 日)







 地球温暖化が問題視されてゐて、このままでは百年後には海面が三十センチ以上も上昇してしまふなどと言はれてゐる。しかし、これも石油あつての話であら う。ところが、その石油はあと50年もすれば無くなつてしまふと言はれてゐるのだ。

 つまり、地球温暖化の議論は石油が永遠にあり続けると云ふ前提の上に立つての話である。しかし、実際はさうではない。

 そして、石油がなくなれば温暖化どころか寒冷化の方を心配する必要が出てくるかも知れない。もしさうなら、その時までに充分に地球が暖まつてくれてゐた ら、寒冷化をある程度抑へられるかも知れないのだ。

 それに石油がなければ自動車は走らない。電気自動車などといふが、トラックは電気で走るのか。もし走らなければ現在の流通は完全にストップしてしまふ。 さうなれば、排気ガスを温暖化ガスなどと言つて悪口を言つてゐる場合ではなくなる。

 しかし、その電気も石油が無くなれば何で作るのか。天然ガスの埋蔵量も石油と似たやうなものだ。風力や太陽光の発電量は高が知れてゐる。原子力発電所を 至る所に作る訳にもいかない。わたしの知るかぎり、人類はまだ何の答も持つてゐないのである。(2007年5月4日)







 高校野球から特待生制度をなくしたら、貧しい学生が甲子園を目指せなくなるなどと言ふ人がゐるが、今の特待生制度がそんな目的で使はれてゐるとでも言ふ のだらうか。

 むしろ、学校が甲子園に出るために野球の得意な子供を全国から集めるために使はれてゐるから問題なのである。

 そもそも、野球で特待生になるやうな生徒は、小さい時から親に高価な野球道具を与へられ、地域のリトルリーグに加入して野球三昧の少年時代を送れる子供 なのである。貧しい家庭の子供にはとても真似の出来ない話である。

 最近、只でも出来る勉強の成績について「経済格差」が言はれてゐるが、野球の「経済格差」の方がもつと顕著なはずだ。各家庭の「経済格差」の結果が、ス カウトの目に留まるやうな立派な体格をした野球上手の子供たちに他ならない。

 親が大金をつぎ込んだ子供たちだけが、野球特待生となつて大金をもらつて私立の野球名門校へ進み、あはよくばさらにプロ野球に進めるのだ。特待生制度こ そは豊かな家庭の子供を益々豊かにして「格差」を拡大する制度となつてゐるのである。(2007年5月3日)







 五月三日は憲法記念日であるが、これが決つたのはまだアメリカ軍が日本を占領中の昭和二十三年のことである。アメリカはうまく考へたものだ。自分が作つ た憲法の発布記念日も作らせて、日本人に自動的にアメリカ製憲法の発布を祝はせることにしたのだから。

 日本が独立を回復したのはその後の昭和二十七年のことである。それまでの間、日本の最高権力機関は国会ではなかつた。だから、今の憲法は国会で発布され たと言つても、その実態はアメリカ軍の司令官が発布したものである。

 だから、この憲法記念日はインチキな記念日なのである。日本人はこんなインチキな憲法をありがたがつて、インチキな憲法発布の日を呑気に祝つて来たの だ。

 一方、どこの国でも記念日にしてゐる独立記念日が日本にはない。それどころか、多くの人は日本がアメリカから独立したとは思つてゐない。つまり、本当は 日本はまだ心理的にはアメリカから独立してゐないのである。

 その象徴がアメリカの作つた憲法を日本人が祝ふこのインチキ憲法記念日の存在だと言へるのではないだらうか。(2007年5月2日)







 ティッシュペーパーをこれほどよく使ふやうになつたのは、ここ二十年ほどだらうか。以前は鼻をかんだりするのに使ふだけだつたが、今では何にでも使ふ。

 食事中に少し手が汚れただけでティッシュを使ふ。机を拭くのにもティッシュを使ふ。メガネのレンズを拭くのにも使ふし、料理の皿を拭ふのにもティッシュ を使ふ。

 ティッシュを使ふのと、布巾やタオルを使ふのとどちらが経済的かといへばティッシュだらう。なにせ、一箱50円ほどしかしないのだから。

 しかし、こんなティッシュの使ひ方は何故かもつたいないやうな気がする。使つたティッシュが目に見えて汚れてゐなかつたら、すぐに捨てる気になれない。 それでズボンのボケツトに突つ込んでおいたりする。

 ところで、こんなにしよつちゆうティッシュを使ふのは日本人だけらしい。イギリスではティッシュ一箱が1000円以上するといふ話である。街角でも ティッシュを配つてゐない。

 ちなみにイギリスではタバコも一箱1000円以上する。日本は欧米などよりまだまだ自由な国であるらしい。(2007年5月1日)







 泣いてゐるだけではわからない。女性は「助けて」と微かにでも言はなかつたのである。そんな女性を助けなかつた40人の乗客を、その場にゐなかつた新聞 記者たちが批判してゐる。しかし、仮定の話なら誰でも出来るのだ。

 新聞は若い女や子供に同情するのが好きらしい。それは民法の300日規定の問題でいやと言ふほど見せつけられた。高校野球でもさうだ。しかし、彼らは病 気腎移植問題では医師会によるいぢめに見て見ぬふりをした。いや積極的に加担した新聞もある。

 人工透析患者たちは署名運動をして「助けて」とはつきり声を上げたではないか。それにも拘はらず、彼らは平気で「あきらめろ」と言へたのである。そんな 彼らがもし同じ車内にゐたとしても、見て見ぬふりをしたことは想像に難くない。

 「神は自ら助くる者を助く」である。若い女が無防備で一人旅をすることがそもそも無謀なのだ。痴漢の対抗手段を何も持たず危機に陥つて助けを乞ふことも 出来ないなら一人旅などすべきではない。同情すべき人間はほかに沢山ゐるのである。(2007年4月30日)







 最近よく新聞で聞く言葉に「かはいさうだ」がある。これは特に子供に対して使はれる。例へば「子の戸籍に親を変更した記録が残るのはかわいそうだ」とか 「いつまでも対外試合をできず、甲子園をめざすことができないのでは、かわいそうだ」といつた具合である。

 しかし、子供は不幸でもいいのである。立派な大人になるためには、可哀想な少年少女時代を送るべきだとさへ言へる。

 高校野球でもさうだらう。他の生徒の不祥事や病気のために甲子園に行けなかつた選手がプロで大成した例は多いのだ。いぢめ問題も同じである。子供時代に いぢめの体験のある子供が思ひやりのある人間になるのである。

 不幸な子供時代はバネになる。親にびんたの一つも受けたことのない子供はろくな大人にはなれないものだ。子供時代からちやほやされて育つのは、人間とし ては大きな不幸である。

 大切なのは、不幸な大人を救ふことである。ところが、人工透析で苦しむ大人は見捨てておいて、たかが野球の試合が出来ないくらゐで可哀想だといふ。子供 は健康な体さへあれば、人より多少不幸な方がいいのである。(2007年4月29日)







 岩波新書『外国語の学び方』に「よい読みものを、よい辞書を使って、確実に4000〜5000ページ読めば、一応ものになると言はれています」と書いて ある。だが、ドイツ語は4000ページ位読んでも、なかなかものにならない。

 何と言つても、慣れた英語の感覚が邪魔をする。英語とドイツ語では文体が全然違ふのだ。英語は付随的なものを文章の後ろにつなげて行くのに、ドイツ語は それを文章の初めや真ん中などどこでも放り込んでくる。

 ドイツ語で何が言ひたいかを知るためには、文章の最後まで行かないといけない。文の主動詞に付いてゐる前置詞が文の最後の最後に置かれてゐるからであ る。

 ドイツ語では主語が文章の前に来るとは限らない。目的語が先に来ることがよくあるのだ。動詞が必ず最後に来る関係文では、目的語のある文は関係代名詞+ 名詞+動詞の順番であるが、この名詞が目的語か主語かは順番からは分からない。

 ドイツ語ではコンマが一つの文章の中にやたらと出てくる。英語のやうに主文と複文を分けるだけではない。関係文も英語と違つて全部カンマで別にしてあ る。だから、どの名詞にかかるのか分かりにくい。

 どうやら英語を先に学ぶとドイツ語は学びにくいらしい。戦前の教育を受けた『外国語の学び方』の著者は、あれだけ英語の学び方を書いておきながら、最後 の方で得意なのはドイツ語だと書いてゐる。逆も真なりらしい。(2007年4月28日)








 特待生に関する高野連の考へ方は明白だ。「野球馬鹿はいらない」である。特待生扱ひは学業優秀が第一でその次に経済的理由、それで終りである。スポーツ が優秀では理由にならないのだ。

 高野連は高校野球を教育の一環と口を酸つぱくして言ひ続けてきた。この教育とは勉強のことであつてスポーツのことではないのだ。スポーツだけ出来て勉強 の出来ない子供を育てても何にもならないのである。

 ところが、新聞社は軒並み、野球憲章がおかしいのだから野球憲章を変へろと言ふ。しかし、教育とはまず現に存在するルールを守らせることから始まる。守 れなければルールの方を変へたらいいでは、教育は成り立たないのだ。

 新聞社はスポーツ特待生でいいはずだとも言ふ。しかし、それでは野球馬鹿を大量生産することになつてしまふ。野球馬鹿で成功して生きていけるのは、ごく 一部の例外なのだ。大部分の学生は普通の人生を送るのであり、高野連は彼らの将来を考へなければならないのである。

 高野連のかうした考へ方のどこに問題があるだらう。現に今の高校野球が無茶苦茶になつてゐることは否定できない事実である。それを一度原点に戻さうとい ふ高野連の取り組みは、むしろ遅かつたくらゐである。(2007年4月27日)







 私は「格差」と言はれてもよく分からないのだが、今どきの新聞記者はどこであらうと「格差」と使はないと一流の記事が書けないと思つてゐるらしい。

 日本の記者にかかるとアメリカにも「格差問題」があることになつてしまふやうで、「米国で男女の収入格差くっきり」といふ産経の記事(4/24)にもそ の思ひが見て取れる。

 「米国の大卒女性の収入は大卒男性に比べて低く、年を経るごとに格差が拡大していることが・・分かった」と言ふのだが、平均を取ればどこの国でもそんな ものだらうと誰もが思ふことも、「格差問題」に見えるらしいのだ。

 「女性の学業面での成果が報酬に反映されていない」ともいふが、学校の成績と実社会での収入とが関係ないのは誰でも知つてゐることだ。

 この問題に対する答は簡単である。実社会における男女の収入格差は男女の能力格差に起因するのである。男女の能力格差は男女の性別格差に基づくものであ り、そこから男女の勤務時間格差と男女の責任感格差と男女の行動力格差が生じ、それが男女の収入格差につながつてゐるのである。

 つまり男女格差が生まれるのは、男女格差があるからといふことになる。(2007年4月26日)







 貧富の差と言へば誰でもそんなことは当たり前だと思ふし、それを無くすことなど出来ないことを知つてゐる。ところが、それを「格差」といふ言葉に言ひ換 へて、それが政治によつて無くせるかのやうに言つてゐるのが野党である。

 しかし、学者が使ふこんな難しい言葉を持つてきたから話がややこしくなつた。しかも、何でもかんでも「格差」を付けて問題だと言ふものだから、訳が分か らない。

 それにも関はらず「格差」といふ言葉の意味を何とか理解して、しかも選挙に関心があつて投票に行く人たちがゐるとして、そんな彼らが社会の底辺で明日の 生活にも事欠く人たちでないことは確かだらう。

 その上、選挙に行く人たちが社会的弱者のことをおもんばかつて一票を投ずることなど皆無に近いのだから、いくら選挙運動で「格差問題」を訴へても、一向 に盛り上がらないのは無理もないことだ。

 野党の「格差問題」といふ付け焼き刃はどうやらあまり使ひ物になりさうにない。民主党は「格差解消」を訴へるテレビCMを変へた方がいいかもしれない。 (2007年4月25日)







 映画『プライドー運命の瞬間』は東京裁判が茶番だつたことを示す多くの事実を提示してゐる。

 この裁判は勝者が敗者を裁く間違つた裁判であることは、多くのアメリカ人弁護士がこの裁判の中で繰返し証言したことだつた。

 この裁判の茶番を見抜いた大川周明は、裁判中に「これは茶番だ茶番だ」と叫び出した。それに困つた裁判長は彼を精神異常扱ひにして、免責して裁判から排 除せざるを得なかつた。

 また、侵略戦争をしていたのはイギリスなどの欧米諸国であつて、日本はインパール作戦でインドの独立を目指すなど、アジアの民族にとつては解放軍だつ た。ところが、この事実を覆ひ隠し、逆に日本に侵略者の汚名を着せることがこの裁判の目的とされた。

 しかし、そのために法廷に提出された検事調書は伝聞証拠ばかりで、判事も有罪判決を出すのに困り果てた。本来伝聞証拠は裁判では証拠にならないからであ る。その結果、ニュルンベルグ裁判が一年以内で終はつたのに、東京裁判は二年半もかかつた。

 ところが、日本には東京裁判の検事側資料を日本軍が悪事を犯した証拠を見つけた言つて出してくる学者が今だにゐる始末だ。東京裁判が茶番だつたといふ事 実は、まだまだよく知られてゐないのである。(2007年4月24日)







 『コレリ大尉のマンドリン』といふ映画にはイタリア人とドイツ人の気質の違ひが鮮明に描かれてゐる。

 第二次大戦中、ギリシアのケファレニア島に進駐してきたイタリア軍が行進する途中で、その中のコレリ大尉(ニコラス・ケイジ)はこの映画の女主人公であ るフェラギア(ペネロペ・クルス)を見つけると、「二時の方向に美女発見、敬礼!」と号令をかける。すると全員が彼女の方を向いて敬礼するのである。

 戦争の暗い雰囲気に覆はれてゐたこの映画は、その瞬間から明るくコミカルな雰囲気に包まれるのだ。

 コレリ大尉率ゐる兵士たちはみんなオペラを口ずさんでゐる。コレリ大尉の宿舎の割り当て命令をフェラギアの家に伝へに来た兵士は、主人に抵抗されると、 たぢたぢの態で引き返さうとする。コレリ大尉はフェラギアのベッドを自分が使ふのを「お嬢さんに悪い」と言つて断つたりもする。

 なかでも、イタリア兵たちが祖国の降伏後に島民と共にドイツ軍と戦ふことに決めた時、既にフェラギアの愛を得てゐたコレリ大尉の命を同僚の一兵士が何と しても守ると彼女に約束して、銃殺の場でそれを実行したのは印象的だ。

 常に無慈悲で機械の如くに行動するドイツ兵とは対照的に、イタリア兵たちはどこまでも人間的なのである。この映画を見た誰もがドイツ人よりもイタリア人 が好きになつたとして仕方のないことだらう。(2007年4月23日)








 風力発電や太陽電池による発電を化石燃料による発電に取つて代らせるのが環境に良いことは分かるが、それで化石燃料なしの産業社会に移行して行けるかと 言へば、そんなことはない。

 人類の文明は、化石燃料、特に石油を中心とするエネルギーによる産業革命によつて現代の段階に到達した。今やどんな製品でも石油の恩恵を蒙らずに作られ てゐるものは殆どない。

 それは自動車一つをとつて見ても分る。最新のハイブリッドカーさへも、車体からエンジンからバッテリーから何もかも石油の力によつて作られてゐると云ふ 点では、これまでの車と何も変はらないのだ。

 要するに、現代は石油文明である。だから、太陽電池も風力発電機も石油の力によつて作られてゐると言つても過言ではない。そこから得られた電力を電力会 社が買ふ場合の資金も、石油から得られたものなのである。

 だから、太陽発電も風力発電も本当の意味での石油の代替エネルギーにはなれないのである。完全な石油抜きの産業社会の姿が見えてこないかぎり、真の意味 での次世代エネルギーの開発は不可能なのではないだらうか。(2007年4月22日)







 アウシユヴィッツの強制収容所から生還した人の書いたものが色々出てゐるが、どうも信用できない。これらに共通してゐるのは、書いている人間がアウシユ ヴィッツから生還した事に対して後ろめたさを持つてゐることで、そのために文章がストレートではないのだ。

 抹殺収容所と呼ばれる以上は、全員が死んでゐるはずなのだが、彼らは生きて帰つて来てゐる。だから、まづその理由を書かざるを得ない。そこで、健康な男 性は労働に使ふために生かして置かれたなどと言ふのだが、子供でも生残つた人もゐる。

 ガス室で大量殺戮が行はれたことになつてゐるが、生き残つた人はそれを直接見たわけではないので証人にはなれない。しかし、その事実を否定するわけには いかないので、例へば、ここで別れた人たちはきつとガス室送りになつたのだ、などと書くのである。

 つまり彼らは直接自分で体験してことだけを書くと、「史実」に反したことを書いてしまふことになるのだ。そこで文章の中に、あとで知つた伝聞証拠をあち こちに混在させざるを得ないのである。

 ところが、その体験とはソ連の強制収容所の体験談とあまり違はないのだ。その中には、温水シャワーを使つたり殺虫剤で消毒されたことなどがあり、さらに は、ヒトラーの暗殺が失敗したことを聞かされたこともあつて、いつたいこれがドイツの抹殺収容所なのかと思はせられるのである。(2007年4月21日)







 護憲派が国民投票法案をつぶさうとして最低投票率を持ち出してゐる。例へば「投票率が四割を下回る場合、有権者の二割を超えただけで改憲が認められてし まう。これで民意を反映した結果と言えるのか」といつたものだ。

 しかし、この議論は、投票しないのは白紙委任をすることであり、賛成するのと同じであることを無視してをり、インチキな議論である。

 そんなことを言ふなら、投票率が五割を上回つても、有権者の二割五分程度で改憲が認められることになり、二割とたいして変はらない。いや投票率が八割あ つても、五割以上の国民が賛成したことになるのは難しいのだ。

 そもそも最低投票率など存在すれば、改憲の当否をめぐる争ひが、ボイコット運動によつて最低投票率をめぐる争ひに変質してしまふ恐れが大きい。つまり、 この議論は国民投票法を無効にしようとする策謀であることが明らかなのである。

 もともと護憲派は憲法に改正規定があるのに改正に反対するといふ憲法違反を犯してきた連中である。しかも、憲法は改憲には国民投票で過半数の賛成が必要 といふだけで、最低投票率を規定してゐないのだ。

 朝日新聞は、世論調査で最低投票率を支持する人が79%だつたと言つてその必要性を主張してゐるが、この主張こそごく少数の人間の意見を全体の意見のや うに扱つており、自分たちの意見のインチキさを露呈するものと言へる。(2007年4月20日)







 明石の花火大会事故に関して、私は警備を担当した人間の責任ばかりが問はれて、会場に押しかけて自らリスクを回避しようとしなかつた市民たちの責任が不 問に付されたことに疑問を持つてゐる。

 花火大会の見物人は、閉じられた空間で他に行き場のないコンサート会場の観客とは違ふ。しかも市のイベントは無料であり、市民には参加するといふ側面も あつたはずだからである。

 土本武司氏はこの事故に関する産経新聞の正論(4/17)で、判決自体は支持しながらも、「市民の側は、危険を完全に回避しようとする態度には出ず、む しろ一定のリスクを保つように行動する性質があり、警備担当者の指示を遵守することより花火見物の場所取りに高い価値を求める」と、一般論の形はとりなが らも、市民たちの行動が事故の一因であつたことを示唆してゐる。

 そして、今後このやうなイベントが開催されるためには、市民は無責任な客でゐるのでなく、企画段階からイベントに参加して安全に対する責任も主催者と分 ち合はなければならないと言つてゐる。私は氏の指摘はもつともだと思ふ。(2007年4月19日)







 姫路城の大手門の橋が架け替へになつたので見に行つた。以前の橋は大手門から真つ直ぐの位置にあつたのだが、それを十メーターほど東にずれた昔の位置に 戻したのださうである。

 これによつて、昔はこの橋を渡つて一度左へ曲がりさらに右へ曲がらないと大手門をくぐれないやうになつてゐたことが分かる。姫路城の中はどこも迷路のや うに入り組んでゐて、本丸までなかなかたどり着けないやうになつてゐるが、入口からして既にさうなつてゐたのである。

 橋の手前に掲げられてゐる江戸時代の播州姫路城図からも昔の橋の位置が分かるが、この図面からは、大手門を入つた先の広大な三の丸広場には、昔は真ん中 を縦に真つ直ぐ塀が立つてゐたことも分かる。

 その塀にある門が大手門の次の門だつた。大手門を入つても真つ直ぐに進むことはできず、左へ曲がつてさらに左へ九十度曲がらないとその次の門にはたどり 着けなかつたのである。

 つまり、本当の姫路城は大手門を入るところから既に行き止まりだらけの難攻不落の構造になつてゐたのである。(2007年4月18日)







 民法の300日規定について、前夫たちが記者会見して法改正を求めたと云ふ記事が毎日新聞に出た。

 この男性は単身赴任中に妻に不倫されて仕方なく離婚手続をとつたが、その二か月後に前妻が不倫相手の子供を産んでしまい、そのため裁判所に呼ばれて、妻 との性交渉のなかつたことを証言させられたと言ふのだ。

 その前夫が記者会見で「子どもに罪はなく、救済の道を作るべきだ」と語つたとのことだが、妻に裏切られた挙句にこんなことを言ふなど、私なら絶対にあり 得ない。

 裁判所で自分の子でないことを証言する事を「理不尽な負担」だとも言ふのだが、自分の恥をこのやうな公開の席で話すのが「理不尽な負担」でないらしいの は、不思議と言ふしかない。

 他紙によるとこの記者会見自体、法改正を求めるNPOが主催したものであり、その実態は決起集会のやうなもので、会見内容の信憑性がどう担保されてゐる かは不明である。

 ただ、この会見に出た前夫たちが暴力夫でなかつたことは、これまでの報道のいい加減さを証明するもので、一方的に暴力夫にされてゐる他の前夫たちにとつ ては目出度い事かもしれない。(2007年4月16日)







 民法の300日規定の問題で解せないのは、報道が子供の人権と云ひながら、離婚した妻の立場を一方的に擁護してゐる点である。

 曰く「相手が嫌がらせ目的で離婚に応じないケースも目立つ」
 曰く「前夫の協力が得られず手続きが難航すれば」
 曰く「暴力を振るう前夫と家庭内別居の末」
 曰く「避けてきた前夫を巻き込んでの裁判をしない限り」

 これらは全部妻の側からの見方であり、前夫を一方的に悪者扱ひしてゐる点で共通してゐる。しかし、男女関係においてどちらが一方的に悪いなどと言ふこと は出来ないはずだ。

 それに、離婚の直接の原因を作つたのが妻であることは、離婚前に他の男の子供を妊娠してゐることからして明らかであらう。子供の養育義務が明確にならな いため妻の生活が苦しいなどとも言ふが、それは自分が選んだ素敵な今の夫に金を出してもらへばいいことではないのか。

 それにしても、報道は何故これほどにも妻の勝手な言ひ分ばかりを並べて、前夫の言ひ分を聞かないのか。フェミニズムが流行らしいが、こんな一方的な議論 ではとても保守派の反撃を押し戻すことは出来無いだらう。(2007年4月16日)







 早大の斎藤投手が六大学野球で初登板する様子が日本テレビ系列で生中継された。しかし、如何せん東大では相手が弱すぎた。

 地上波の放送は40分程度だつたが、テレビ画面に映るのは東大の投手ばかりなのだ。一回表の東大の攻撃が三者凡退であつさり終ると、その裏の早大の攻撃 がなかなか終らない。

 東大の投手はテレビカメラが並んでゐるのを見てびびつたか、ストライクが入らないのだ。挙句の果てに一回途中で投手交代。お陰で、茶の間のファンはお目 当ての斎藤投手の活躍を堪能する間もなく放送は終つてしまつた。

 早大の監督は3年生の先輩投手を差し置いて、わざわざテレビ中継用に斎藤投手を先発にしたのに、その機転も台無しである。それもこれも弱い東大のせゐな のだ。

 そもそも何故あんな弱いチームが六大学に入つてゐるのか。今や大学野球も一年生の斎藤投手が開幕戦に先発するほどの実力主義である。六大学野球の人気回 復のために、実力のない東大は六大学の椅子を日大にでも譲つた方が良いのではないか。(2007年4月15日)







 産むか産まないかを決めるのは女である。だから、女が一旦産むと決めた以上、それが離婚して300日以内で何が悪からう。いや、自分が産めないなら、別 の女つまり代理母に生ませてもいいはずである。

 代理母は決して別の女を「産む機械」にすることではない。その女が同意してさうするのであるから何の問題もないのだ。

 女にとつて産むことこそ人生における最大の障害である。産むことさへなければ女は男と対等になれるのだ。だから、専門の女性に産むことを任せてしまへ ば、女性の解放は完全なものとなる。

 産むことを仕事とする女、つまり代理母になる女も解放されてゐる。なぜなら、彼女は男のために産むのではなく、女のために産むからである。この出産は男 との関係からは自由なのだ。代理母、これこそこれからの女性解放のシンボルである。

 女は仕事をするために、既に育児もそして家事も専門家に任せてゐるではないか。ならば、出産も専門家に任せて何が悪からう。さうなれば、もはや女を仕事 から引き離すものは何もなくなるのだ。これで女は働きたいだけ働けるやうになるのだ。代理母バンザーイ。(2007年4月14日)








 Piazzaといふイタリア語教材の中に、『ニュー・シネマ・パラダイス』の科白(せりふ)のテキストが含まれてゐる。主人公のトトと映写技師アルフ レードの三つの会話である。さつそく近所のTSUTAYAでDVDを借りてきた。

 映写室へ入ることを禁じられたトトは、アルフレードの奥さんが弁当を持つて来るのを見ると、自分がその弁当を渡すことを口実に映写室に入ることを思ひつ く。「アルフレード、お使いだよ。おばさんが、お弁当を届けてくれとさ」(科白の訳は映画の吹替へから。以下同じ)で始まる場面が第一のテキスト。

 アルフレードが、映写技師なんかになるなと言ひきかせるのに、トトはいつの間にか映写機の扱ひ方を覚えてしまつてゐることが分かつて、

 「話し聞いてなかったな。何だ。何を見てる。しおらしく聞く振りして、目を離すと途端にこれだ。・・・神父さんにも話してやる。お前に手伝いはさせない ように、ようく言っとく。もう二度と来るな」と言はれて追い出される。

 第二のテキストは、火事で視力を失つたアルフレードが奥さんに手を引かれながら、今はトトが映写技師をしてゐる映写室に入つて来て、「ここに私の席はあ るかね」「アルフレード、来たんだね。アルフレード」で始まる場面。

 仕事で学校に行けないトトを心配したアルフレードは、トトにはもつと大切な仕事があることを言つて聞かせる。「前より見えるんだ。視力はなくしたが。前 より見えるようになった」と言つて、トトの顔を撫でると、トトが青年のトトに変はる。

 第三のテキストは、兵役から帰つて来たトトが海岸でアルフレードに、「百日の恋」の話に譬へて自分がエレナに振られたことを打ち明ける場面。

 「兵士と王女の話、してくれたね。覚えてる? 兵士が何故土壇場で去ったのか分かったよ。そうなんだ。あと一晩で、王女は彼のものだ。でも、もしも王女 が約束を破ったら? 兵士にはそれこそ救いがない。死ぬしかないだろ」

 この場面で印象的なのは、アルフレードがトトに、故郷を「一度出たら帰ってくるな。何十年も帰るな。年月を経て戻れば、昔馴染みや、ふるさとに再会でき る」といふ野口英世を彷彿させる科白だらう。
 
 しかし、よく考へると、これは映画の終盤(特に完全版ではエレーナと再会する!)に対する伏線を作るための科白なのである。だから、真似をして故郷を捨 てることはないのである。

 ところで、私が借りたDVDには傷があつて、SonyのDVDプレーヤが二個所でフリーズしてしまつた。ところが、オームのDVDラジカセでは何ともな いのだ。傷つきDVDを貸し出すTSUTAYAが駄目なのか、それを再生できないSonyが駄目なのかは不明である。(2007年4月13日)







 「母親が前夫の暴力で家を出て離婚調停中に他の男性の子として生まれた子は、出生届を出せば居所が知れてしまうため、出せずにいた」

 自分の子供を無戸籍にした母親側の言ひ分である。新聞はこれをそのまま報道してゐるが、恐らく弁護士が書いたものであらうから、その分を割り引いて読む 必要がある。

 まづ、暴力云々は口実であらう。そもそも住民票通りの住所に住んでゐる必要はないから、出生届を出しても本当の居所を前夫に知られる恐れはないはずだ。 むしろ、知られて困るのは、女性が身を寄せてゐる「他の男性」の住所ではないか。

 つまり、出生届を出して本当に困るのは、離婚調停中に女性が他の男性の子を生んだことを前夫に知られてしまふことであらう。これが知れたら、弁護士は離 婚調停を女性に有利に進めることが難しくなるし、調停自体が破綻してしまふ。

 そこで、弁護士は女性をそそのかして、出生届を出させなかつたのではないか。そして、今度は「無戸籍の子供が可哀想だ。民法は時代遅れだ」などと言つ て、自分の不始末を糊塗しようとしてゐるのではないか。このケースは以上のやうな推測が可能だと思はれる。(2007年4月12日)







 結婚・出産のために仕事をやめてゐた女性が、また仕事を始めることを「社会復帰」すると言ふのださうである。今や家事や育児は 病気になるのと同じ扱ひなのである。

 今の女性たちは、家事や育児では家族の役にしかたてないので、情けなくなるのださうである。社会に出て働いてゐる女性が耀いて見えるのださうである。

 といふことは、彼女たちが「社会復帰」するのは、働かないと食べていけないからではなく、生き甲斐として、或は、ファッションとしてさうするのだ。これ は男の働き方とはだいぶ違ふ。

 大阪府の女性の就労率は全国で一番少ないさうである。これを新聞は全国でワースト1だと書いた。社会に参加してゐないことは良くないこと、生甲斐を見つ けてゐないことだからであらうか。

 もつとも、ホームレスでさへも餓死せずに生きていける時代である。食ふために働くのはもう古いのかもしれぬ。しかしながら、男も女の真似をして生甲斐の ために働くことにしたら、それを女が許してくれるかどうかは定かではない。(2007年4月11日)








 一度は自分の夫にした男に二度と会ひたくないために、次の男との間に生まれた子供に無戸籍といふ犠牲を強いてゐる女たちが沢山 ゐるらしい。

 子供の身になつて見れば、自分が誰の子であらうと戸籍ぐらゐは持つてゐたいものである。また、自分の子を無戸籍者にするのは忍びないと思ふのが親の情と いふものだらう。ところが彼女たち前夫の子として届けるのは嫌だと云ふ自分の気持ちを優先して子供を無戸籍者にしてしまつた。

 いや、それだけではない。彼女たちは戸籍法に違反して子供の出生を届けなかつたのだから、犯罪者でもある。しかも彼女たちは、自分の気持ちに合はないか らと法律を破つておいて、その法律を変へろと言ひ張つてゐるのである。盗人猛々しいとはまさにこの事を言ふのでであらう。

 子供の戸籍を作るのは親の責任である。その責任を放棄した親たちの無軌道を問はずに、子供のために法律を変へろといひ、それをマスコミが応援する。まさ にこの国では不倫は文化になつたのである。(2007年4月10日)








 井川は大事な試合で負ける投手である。阪神時代にも開幕投手として何度負けたか。高校時代も地方大会の決勝で負けてゐる。だから、アメリカに渡つた最初 の試合でへまをやつたのも、予想を裏切るものではない。

 Dice-K he wasn't.とYahoo.sportsは書いた。そのとほり、彼は松坂大輔ではないのだ。神奈川の都会のチームで育つた洗練された松坂と、茨城の田舎 で育つた無骨者の井川とは違ふのである。

 阪神の公式戦での初登板は一つのアウトも取れずに降板した。松坂のやうに常に順風満帆、いつも上手く立ち回つて来たエリートとは対照的な、格好悪い投手 なのだ。

 ところが、球はやたらと速いがどこへ行くか分からない、そんな投手を野球人たちは大好きだ。この子をなんとか一人前にしたいとみんなが躍起になる。野村 がダーツの例へで教へ、八木沢がチェンジアップの投げ方を仕込んだ。

 しかし、やはりアメリカに行つても同じだつた。ベンチに下がつて悠然とガムを噛む井川。A・ロッドの逆転サヨナラホームランを目で追つてから、おもむろ に立ち上がる井川。彼はあれで結構マイペースなのだ。(2007年4月9日)







 Piazzaといふイタリア語教材の中に、ウンベルト・エーコの評論が含まれてゐる。昔は物を流通させるために道を作つたが、今は道が先に出来てそこに 流通させる物を作り出す時代になつたといふ趣旨である。

 その例としてインターネットや、携帯電話、高速道路、CDROMが挙げられてゐるが、何と言つてもその代表はテレビのチャンネルである。現実にNHKは 増えたチャンネルの中身を作るのに四苦八苦してゐる。

 いまのNHKは再放送のオンパレードである。当人たちは別のチャンネルで放送してゐるから再放送ではないと言つてゐるらしいが、視聴者にとつては同じ事 だ。

 それではまづいと思つたのか、最近では、昔のNHK番組をまた紹介する番組を色々考へ出したり、これまで民放の独壇場だつた漫画番組を急に増やしだし た。挙句に、教育テレビの中に他チャンネルの番組宣伝まで挟み込むといふあり様で、まさに穴埋めに必死である。

 チャンネルを一つ減らせと竹中平蔵氏に言はれた時には、参議院の片山氏の鶴の一声で救はれたが、やはりコンテンツ不足は明白である。チャンネルを減らし て受信料を値下げするのが、視聴者にとつての最大のサービスではないか。(2007年4月8日)







 朝日新聞が記者ブログを開設したさうだが、これが完全な会員制クラブなのだ。つまり、朝日新聞の長年の愛読者でなければ、記者ブログを読めないし、書き 込みも出来ないのである。

 会員には購読年数に応じてランク分けがあつて、一年以上と一年以下ではサービスが違ふ。さらに販売店に本人であるかまで確認して、それでもコメントの書 き込みは検閲するのだ。

 日頃、自由と平等を標榜してゐる新聞のこの体たらくはどうだらう。自分たちがいざ新しく一つの社会を作らうとすると、まるで中国そつくりの格差社会・階 級社会・検閲社会を作つてしまふのである。

 彼らは、自分たちが日頃書いてゐることで如何に多くの国民を敵に回してゐるかをよく知つてゐるのだ。確かに、記者が一人散弾銃で打ち殺されたのだから、 その心配ももつともかもしれない。

 しかしながら、インターネットがいくら無法地帯だと言つても、パソコンの画面から実弾が飛んでくる恐れはないのである。言ふことは勇ましい朝日新聞が実 はこんなに弱虫だとは全く笑止千万である。(2007年4月7日)







 読売新聞が社説で「親子関係はDNAで判定できる」と大きく書いてゐる。それはさうだらう、DNAを見れば猿の親子関係でも判定できる。だが、人間の親 子関係を猿と同じ方法で決めてよいのかといふ問題意識はゼロである。

 猿は結婚しなくてもセックスをして子供を作る。日本人も猿の真似をする人が増えてきた。そこで、人間のために作つた法律が合はなくなつて来たので、猿に も使へるDNA鑑定で親子関係を決めようといふ事になつた。

 親子関係を決めるのために裁判所で証言するのは人間にしかできないが、DNA鑑定なら猿でも出来る。「猿でも分かる〜入門」といふ本があるが、さしずめ これは「猿でも出来る人生入門」といふところか。

 もつとも、DNA鑑定も只では出来ない。20万円払つてそれで済むなら裁判所へ行くより安い物かもしれない。しかし、金のない親から生まれた子供は相変 らず戸籍がないことになる。DNA鑑定の費用を国が立替へでもしない限り、これでは新たな格差問題を生んでしまふ。

 DNA鑑定による親子関係の法制化で確かなのは、日本人に広まつてゐる猿並みのセックスを法律で追認することだけではないか。(2007年4月6日)







 Novaの最高裁判決は全く理解不可能だが、新聞記者はそんなことは気にならないらしい。彼らの興味はまた企業バッシングが出来ることだけなのだらう。

 六百回受講するからと一回千二百円の安価で契約しておきながら、途中で契約を破棄して、受講した分をその安価で清算しろとは無茶な話だが、これが通つた のだから驚きだ。

 そんなことなら十回であらうと百回であらうと、みんな六百回契約の安い授業料で受講して途中でさつさとやめればいいことになる。

 ところが、記者たちは、単価を安くして大量受注することが悪い事であるかのやうな出鱈目を書いてゐる。こんなことは新聞社自身がやつてゐることではない か。新聞を長期契約して途中で解約したらサービス分を返せと言はれた読者は五万とゐるのだ。

 その上、原告が最初に支払つた金額は、読売新聞では約七十五万六千円、東京新聞では約八十九万円と食違ひ、六百回契約の単価も、読売新聞は一面で千二百 円と書き、社会面では千五百円と、内容からして出鱈目なのだ。

 Novaがどんな悪どい商法をとつてゐるかは知らないが、この判決に関する限り、出鱈目ばかりを並べる新聞記事よりも自分自身の常識を信じて、Nova の言ひ分が正しいと思ひたい。(2007年4月5日)







 いつ頃からか散髪屋に行かなくなつて久しい。自分の頭は自分で刈ることにしたからである。

 元々は普通の散髪屋に行つてゐた。ところが、値段の安い散髪屋があちこちに出来たのでそちらに行くやうになつた。そこで見てゐると、普通の散髪屋の腕は とても真似られないが、安い散髪屋の腕なら真似られることに気が付いた。

 安い散髪屋の髪の切り方は、髪の束を摘み上げて先を櫛で揃へてから鋏で切つて行く。そんなことを繰返すだけでおしまひなのだ。普通の散髪屋なら、それか ら鋏を横にして頭の形にそつて切り揃へていくのだが、安い散髪屋は時間を節約したいので、そんなことはしない。

 しかし、結果は普通の散髪屋と大して変らない。あれでよいのなら自分で出来る。鏡を見ながら、左手で髪の毛の長いところを掴んでくるくると丸めてやる。 そして掴んだ先に出てゐる分の髪の毛を切るだけである。そんなことを数回やつてから、櫛で撫でてやると、もう散髪屋に行く必要はなくなるのだ。

 安い散髪屋の出現で、普通の散髪屋はがら空きになつたが、そのうち、わたしのやうに散髪のカラクリを知つた人間が増えてくると、安い散髪屋もがら空きに なるのではないか。(2007年4月4日)







 寝たきり老人を面倒を家族が見ることほど大変なことはない。何と言つても希望がないのだ。近々死ぬことが分かつてゐるからである。
 
 ところが、老人は世話を受けてゐるにも拘はらず我儘である。大抵は家族の中で一番年上だから、家族に対して偉さうにする。自分が気に入らないと、人を傷 つけるやうなことを平気で口にしたりするのだ。

 それが惚けてくると、自分の物をとつただらうと言ひ出したりして、最早始末に負へなくなつてくる。さうなると、面倒を見る方は、もう勝手にしろといふ気 持になつて来るのである。

 よく寝たきりゼロを目指せなどといふが、それは施設に預けてしまつて、家族で面倒を見ない人が言へることである。本人が寝てゐたがるのに、家族は無理や り起き上がらせることなど出来ないのだ。

 最近、寝たきり老人が家族に見放されて死んだのを「家族の崩壊」などと書きたてた新聞があるが、それは現実を知らない人間の言葉である。人工透析の経験 のない記者が病気腎移植を批判するのと同じで、苦しんでゐる家族には単なる悪口にしか聞こえないのだ。(2007年4月3日)








 レジ袋の有料化の最大の欠点はその発想の貧しさであらう。有料化すれば国民は金を惜しんでレジ袋の利用を減らすだらうといふ考へ方は、国民に対して大変 失礼なものである。

 例へば、殆んどの国民は只でも見られるNHKの受信料をちやんと払つてゐるのだ。それと同じ様に、レジ袋が有料になれば殆んどの国民はその料金をちやん と払ふだけのことである。

 そもそも、金が惜しいのなら、誰が五円のレジ袋代を惜しんで六百円のエコバックを買ふだらうか。国民はその方が金銭的には損だといふことぐらゐは分かる のである。

 何としてでもレジ袋を減らしたいのなら、ちやんと議論をして、レジ袋は環境汚染に繋がるから利用を減らさうと、国民に対して真剣に呼びかければいいだけ のことである。

 ところが、役人は国民の理解力に見切りを付けて、法律の力で押しつけようとする。これでは、まるで江戸時代の寛政の改革などと少しも変らないではない か。全く国民も馬鹿にされたものである。(2007年4月2日)







 麻酔注射をして痛みを取ることを専門にするペインクリニックといふ医院があちこちに出現してゐる。

 医学の考へ方が変つて、痛みは病気の徴候であるだけでなく病気を悪化させる原因となつてゐるので、痛みを積極的に取り除くべきだと考へるやうになつたの である。

 痛みといふのはそれ自身の相乗作用で段々大きくなる性質がある。そこで、麻酔によつて痛い部分を麻痺させてこの相乗作用を絶つことに意義を見出したのが この治療法である。

 さらに、大抵の病気は自分の力で治るものだから、痛みを小さくすることによつて体の自然治癒力を活発にして、最終的に病気を治すことを目指してゐる。

 ところで、これは別に医者に行かなくても応用できる話だ。例へば、痔の痛みは耐え難いが病院には行きづらい。かといつて、薬局には塗り薬ぐらいしか売つ てゐない。

 そんな時役立つのが、歯医者等でもらつたロルカムなどの頓服である。これで痛みと共に腫れも引く。御同輩は試されるとよいかと思ふ。(2007年4月1 日)







 ラヂオを聞いてゐると、「行きつけの喫茶店にとても素敵なウエートレスがゐるが、辞めて地方に帰つてしまふ。ここは声を掛けるべきか悩んでゐる」といふ 投書が読まれてゐた。

 それに対してキャスターは、いま声を掛けておかないと後できつと後悔するから、声を掛けなさいなどと言つて、そのやり方まで教へてゐる。

 しかし、異性関係では積極的になつたことを後悔することはあつても、その反対はないものだ。うまく行かずに自分がストーカーになる可能性があるし、仮に うまく行つても、今度は相手に振り回されてひどい目に遭ふ可能性が大きいのだ。

 兼好法師は「しやせまし、せずやあらましと思ふ事は、おほやうは、せぬはよきなり」と書いたが、これはきつと女のことを言つたのである。男といふもの は、いいなと思ふやうな女性にはいくらでも出会ふやうに出来てゐるのだ。

 君子危うきに近寄らず。道を歩いてゐて綺麗な女の人が前から来ても、すれ違ひざまにUターンしてその女性の後ろを追つてはならないのである。必ず何かの トラブルに巻き込まれると言つてよい。(2007年3月31日)








 スーパーのレジ袋の有料化に関する記事に面白い数字が二つ出てゐた。レジ袋は家庭から出るプラスチックごみの15%を占めるといふのがその一つである。

 記事ではこれが如何にも多いかのやうに書いてあるが、僅か15%である。むしろ、この数字が物語つてゐるのは、家庭から出るプラスチックごみの殆んど は、レジ袋ではないといふことだらう。

 次に、レジ袋の原料となる石油消費量は、年間で日本の石油の輸入量の1日分だといふのである。これも多いやうに書いてある。しかし、365分の 1≒0.0027で0.3%以下なのである。実に微々たるものではないか。

 先日、アメリカのブッシュ大統領がこの先10年間で全米のガソリン消費量を2割削減すると発表した。仮にガソリンが石油製品の半分を占めるとすれば、石 油消費量の10%を削減することになる。

 ところが、日本の政府は、「自動車で出かけるのを控へよう」とは言はずに、「レジ袋を減らさう」と言つてゐるのである。石油消費量の僅か0.3%を減ら すことにどんな意味があるのか。レジ袋の有料化に象徴的な意味しかないことは明らかである。(2007年3月30日)







 Piazzaといふ東大のイタリア語教材についてやたら難しいと不満が出てゐるので、ひとつ挑戦してやらうと思つて買つて来た。

 わたしのイタリア語は、『今すぐ話せるイタリア語』シリーズの初歩・応用・自由自在をやつたり、NHKのイタリア語講座応用編でオペラを楽んだりした程 度で、しかもブランクがあるのでほぼ全単語を辞書で引く必要があるが、言ふほど難しくはないといふ印象だ。

 Piazzaにはダンテもあればボッカチオもあつて、かなり高いレベルまで扱つてゐるが、注釈には辞書に載つてゐない意味や古い語法について詳しい説明 があり、難しいところは部分訳まで付いてゐるので、力のある人なら辞書なしでも読み進められるやうになつてゐる。

 解説にはテキストの要旨と背景説明が書いてあるから、全訳がないことを嘆く必要はない。全訳の日本語は一つの例でしかないし、それに頼つてゐては読解力 は身に付かないからである。

 本の帯に「文法の学習を終えた段階から読める」とあるが、それはもちろん条件法や接続法を理解してゐることも含まれる。それがないといくら辞書を引いて も読めないことは確実である。(2007年3月29日)







 スーパーで買い物をしてゐると、布袋を下げてレジに並んでゐる人を二人程見かけた。所謂エコバックといふやつである。それは女子高生とお年寄りだつた。

 彼らは最近流行の地球を救はう話に共鳴したかどうかは知らないが、レジ袋不要派になつてそれを実践してゐるのだ。

 しかし、こんなことをする人を見かけることは滅多にない。特に世のおばさん達は地球のことより今日の暮らしの方が大切なのだらう。みんな手ぶらで買物に 来て、レジ袋をいつぱいぶら下げてスーパーから出て行く。

 レジ袋を只でくれないスーパーもある。そんなスーパーに対しておばさん達は、何千円も払つて買ひ物をしたのに、レジ袋ぐらゐ只でくれても良ささうなもの だと、不満たらたらである。

 新聞に、地球の未来のためにエコバックを使つて買い物をしてゐる主婦の投書が掲載されてゐたが、あれは多分採用されるための嘘だと思ふ。私の知る限り、 そんなおばさんなど一人も見たことがないからである。

 日頃のこんなおばさん達の行動を見てゐると、レジ袋を一律に有料にしても、レジ袋の利用が減つたりするとはとても思へない。(2007年3月28日)







 村上春樹訳『グレート・ギャツビー』の冒頭を少し読んでみたが、賞味期限が一日遅れただけで会社が潰れさうになるのとは全く違ひ、出版界とは実に寛容な 世界であることを痛感した。

 これは私の印象だが、どうやら村上氏は英語の単語の意味を一つ知つてゐればもう辞書を引かないらしい。例へばsuppressionには「抑圧」のほか に「(事実)を隠すこと」、confidenceには「信頼」のほかに「打ち明け話」と、それぞれ文脈にぴつたりの意味がある。

 ところが、氏はこれらに全く顧慮することなく、既に知つてゐる意味だけで訳文が出来たらそれでよしとし、それでうまく行かない場合は、前後の文脈に合ひ さうな訳語を適当に作つてしまふらしいのだ。

 村上氏は「忠実に訳すつもりはない」と言つてゐるさうだが、ピカソは対象を忠実に描く能力の上に立つて独自の世界を作り上げたから評価されたのだらう。 ところが、この作品の冒頭を見る限り、氏には原文に忠実な訳を作る能力があるとはとても思へないのだ。

 出版界では間違ひの多い翻訳書が出ないやうな仕組みはない。それで人がお腹を壊す心配はないからである。しかし、この翻訳を参考にしながら原文を読んだ ら、間違つた英語の知識を身に付けてしまふ怖れが大きいのではないか。(2007年3月27日)







 『グレート・ギャツビー』の英語は難解で野崎孝も訳出に苦しんだ処があるやうだ。文庫本の第三段落の最後の訳にもそれが窺へる。

 「そうだ ー 最後になってみれば、ギャツビーにはなんの問題もなかったのだ。むしろ、ギャツビーを食いものにしていたもの、航跡に浮ぶ汚ない塵芥(ごみ)のようにギャ ツビーの夢の後に随(つ)いていたものに眼を奪われて、ぼくは、人間の悲しみや喜びが、あるいは実らず潰(つい)え、あるいははかなく息絶える姿に対する 関心を阻(はば)まれていたのだ」(7頁)。この原文は、

     No - Gatsby turned out all right at the end; it is what preyed on Gatsby,what foul dust floated in the wake of his dreams that temporarily closed out my interest in the abortive sorrows and shortwinded elations of men.

 この what の中身は、全体の文脈から言つて、ギャツビーの夢をもてあそび富にたかるだけで彼の葬式にも来なかつた汚い奴等のことを言つてゐるのだと思はれる。

 だから、floated は、ギャツビーの夢が消えた後に人間の汚さが「見えてきた」ことを言つてゐるのであらう。

 この小説の語り手であるニックは、そのために一時人間嫌ひになつて、人の打ち明け話(悲しみや喜び)に耳を傾ける興味が閉ざされて (closed out my interest)しまつたのである。
 
 最初の No は前文の not の確認。all right は、ギャツビーがニックの回りに集つて来た異常な人間たちとは違ふことを言ひ、turned out ..at the end で、最後にそれが分かつたと言つてゐるのだ。

 以上を繋げると次の様になる。

 「そうだ、結局ギャツビーは至極まともな奴だつたのだ。私がしばらくの間、他人の甲斐なき悲しみや束の間の喜びに興味が持てなくなつたのは、ギャツビー を食ひ物にした者ども、ギャツビーの夢のあとに浮び上つた汚い塵芥(ごみあくた)どものせゐだつたのである」(2007年3月26日)







 「女は結婚すると家庭に閉じこめられて自由を失ふ」などと言ひ触らしてゐる女がゐる。そんなことを言ひながら自分は結婚してゐないのだから、無責任なも のだ。

 あの発言は経験に基づかないものであつて、自分が結婚出来ないことを正当化するために編み出した屁理屈である。ところが、恐いことには、そんなテレビで の発言を信じてしまふ女たちが沢山ゐるらしい。

 育児や家事などはおさんどんつまり女中のすることだなどと言ふのは、まつたく差別的な偏見も甚だしいのだが、うるさいので放つておけとまともに咎める人 もゐない。

 お陰で、働いてゐた女が結婚して育児ノイローゼになつて自殺してしまつたりする。あの発言がもたらす社会的損失は量り知れないのだ。それでも女は悪いの は男社会の方だと、責任を人に転嫁して平気なのである。

 自分の人生を正当化するために他人を貶しめるなどは最低の人間のすることだ。その最低の人間を視聴率稼ぎに使ふマスコミはもつと最低である。(2007 年3月25日)







 プロ野球のドラフトからは希望枠を無くすといふのが流れだが、巨人はコミッショナーを抱き込んで強力な卷き返しに出てゐる。そして到頭希望枠の廃止を来 年からに一年先延ばしするところまでこぎ着けた。

 これは明らかな時間稼ぎである。希望枠を今年存続させて、来年までの間に世論の風向きが変るのを待たうとしてゐるのだ。もし世論が変りさへすれば、来年 の廃止をうやむやにできるといふ計算である。

 もし今年から希望枠を廃止してしまへば、来年以降にまた復活させるのは至難の業である。しかし、今年さへ存続させれば、来年もこのままで行く可能性が出 てくるのだ。

 何といつても、巨人にとつて早稲田の斎藤投手獲得は至上命令である。巨人がこのままおとなしく引き下がることはない。

 実際、読売の紙面では、サッカーを見ろ、ドラフトなんかない、全部選手の希望通りじやないか、選手の人権はどうなるのだ、などとすでに逆転に向けたキャ ンペーンが始つてゐる。読売も巨人もまつたく油断のならない会社である。(2007年3月24日)








 「車で時速80キロで走ると1時間で何キロ行けるか」といふ問に対する答は「それは道路の渋滞状況によつて違ふ」が正解である。もちろん、これを数学の 問題とし考へるなら「80キロ行ける」となるが、現実はそんなにうまく行くものではない。

 つまり、数学で考へる数は、概念としての数なのだ。物理の法則などもさうだが、それはあらゆる阻害要因を排除して理想的な状況を想定した上で考へた結果 でしかない。

 実際には、時速80キロで道路を走り続けることは高速道路上でさへ不可能なのだ。それなのに、そんなことが可能であるかのやうに考へるのが科学なのだか ら、科学は万能ではないのである。

 統計の数字もさうで、何人とか何パーセントの人と言つても、それはそれぞれの人間の個人的な状況をすべて無視して、全員が同じ能力や人格や環境をもつと 仮定した上で数字化してゐるわけで、必しも実態を反映してゐるとは言へないのである。

 ところが、新聞などはさういふことを全く忘れてしまつて数字がそれだけで意味を持つかのやうに報道するわけで、この点でも新聞をあまり信用すべきでない のである。(2007年3月23日)







 村上春樹訳の『グレート・ギャツビー』の最初の処がネットにあるので原作と比べながら読んでみた。

 この小説は「人の批判をするな」といふ父のアドバイスを紹介するところから始まるのだが、それに続く原文は、He did'nt say any more,but we've always been unusually communicative in a reserved way となつてゐる。

 この後半を村上は「僕と父のあいだにはいつも、多くを語らずとも何につけ人並み以上にわかりあえるところがあった」と訳している。しかし、 communicativeは実際に言葉を交はすことで、大して話さなくても分かり合へることではない。

 だから例へば「人とは違つて父と私はいつもさりげなく言葉を交はしてゐた」とでもすべきだつた。

 それに続く「おかげで僕は、何ごとによらずものごとをすぐに決めつけないという傾向を身につけてしまった」は、原文ではIn consequence,I'm inclined to reserve all judgementsである。

 このjudgementは単に「判断すること」ではなく、辞書にもある「批判」といふ意味で、父のアドバイスにあるcriticizeの言ひ換へなの だ。それが分かれば「そこで私はあらゆる批判を控へるやうにしてゐる」ともつと簡単に訳せたのである。

 このやうに村上訳は原文にしてたつた10行にして明らかな間違ひが2つもある。ただし、これらは別の翻訳家の野崎孝も犯してゐる間違ひなので、必しも村 上のせゐだと言へないかも知れない。(2007年3月22日)







 私は何日も続けてコーヒーか紅茶を飲むが、少し体調が悪くなればすぐにウーロン茶に切り替へる。ウーロン茶さへ飲んでゐれば健康を回復できる気がするか らである。

 これは漱石の『明暗』で病気の主人公が医者の勧めで食パンとウーロン茶を飲んでゐるのを読んでからの習慣である。

 ところが、ウーロン茶はスーパーマーケットにはいいのが売つてゐない。緑茶なら色んな物が売り場の棚にぎつしり並んでゐるが、ウーロン茶は隅つこに一つ あるきりの店が多く、あつても二種類で、しかもティーバックのものが多い。

 ウーロン茶が日本人に不人気なのは、あのひなびたやうな風味が受けないからだらう。だから、例へばスーパーのイオンがトップバリューといふ自社ブランド で売つてゐるものは、別の茶葉を混ぜて、わざわざあの香りを抜いてしまつてゐるほどだ。

 昔はティーバック式のウーロン茶でも独特の良い香りがしたものだが、最近はそんな具合で茶葉で売つてゐるのを見つけると兎に角買つておくことにしてゐ る。(2007年3月21日)







 村上春樹の翻訳が沢山出てゐるが、あまり買ふ気がしない。本屋で立ち読みする限りではとてもうまい翻訳とは思へないからである。

 そんな折り、読売の夕刊(3/14)に村上の翻訳に対する小鷹信光の評論が出た。最初に村上を「一級の翻訳家」と持ち上げる一方で、その新訳『ロング・ グッドバイ』を「とても誠実で、楽しげな仕上がり」と書いてゐる。

 「誠実」とは直訳が多いことを言ふのであらう。「楽しげな」とは村上訳の表現の「意図的な古めかしさ」と「いささか馴染まない表現」を指して言つてゐる と思はれる。この二つめは、プロの翻訳家なら誉め言葉とは受け取るまい。

 また、村上が清水俊二訳を「自分の新訳と読み比べてほしい」と自信満々に書いた「あとがき」をわざわざ引用してゐるのも意味深長だ。清水はプロ中のプロ であり、意訳の名人だからである。

 もちろん、小鷹は下手だとは書いてゐないし、本当に自分で訳したのか疑問だとも書いてはゐない。しかし、私は小鷹が村上訳を遠まはしに批判したと見たが 如何だらうか。(2007年3月20日)







 堀江判決に対する新聞の追随ぶりが際だつてゐる。新聞は判事の言ふことを当然視して全く批判することがないのである。

 ところが、テレビでは橋下弁護士がこの判決を糞味噌にけなしてゐるし、局によつては堀江本人を出演させて不満を述べさせ、同情までしてみせてゐる。とこ ろが、新聞にはそれがまるでないのだ。「また検察追認のこんな判決が」と書いてもいいはずなのだが。

 また、インターネットでは既に日興証券の粉飾決算で逮捕もなし上場もそのままといふ、堀江事件とはまつたくバランスを欠いた処置に対する批判が渦巻いて ゐる。新聞はそれさへも視野に入れることが出来ないのだ。

 この判決自体にも様々な欠陥があることは明らかだらう。たとへ有罪でも形式犯である。元検事の評論家でさへ執行猶予を予想したのになぜ実刑なのか。事実 認定の曖昧さを指摘する声もある。ところが、新聞の論説はそれらを一顧だにしてゐない。

 新聞だけ読んでゐては本当のことが分からないし、何が正しいかを判断することも出来ないといふことか。この裁判報道で国民は新聞メディアの限界に気が付 くのではないか。(2007年3月19日)







 堀江事件に対する判決は、まさに鹿児島の志布志事件の裏返しのやうな判決である。法廷の外で検察に不利な状況が生まれない限り、裁判官は検察の言ひなり に判決を出すのである。

 実刑の理由が「反省がない」といふのも、おかしいな判決だ。これは被告が無実を主張する権利を否定するものであり、検察の言ふ通りにしないと不利になる と言つてゐるのと同じことである。

 こんなことでは、いくら自分の無実を信じて、警察の取調べで無実を訴へ、法廷で無実を訴へても無駄だと言ふやうなものである。冤罪が無くならないわけ だ。

 日本の司法の貧困が言はれて久しいが、この裁判官にとつては馬耳東風なのだらう。裁判は何のためにあるのか、単なる検察の筋書きを追認する手続きでしか ないのか。

 この判決では弁護士がゐないのと同じである。あやふやな証拠だけで人を断罪するのだから、弁護士が怒るのも当然だ。この判決もまた日本の司法の歴史の多 くの汚点の一つになるのではないか。(2007年3月18日)







 中勘助の『銀の匙』(岩波文庫)は自分が幼児の頃から十七才になる迄のことを書いたものだが、まるで詩を読むやうな小説である。ひらがなが多く、描写が 主なので、少し気をそらしてゐると、意味も分からず漫然と読み飛ばしさうになる。

 しかし例へば、「そこにはたくさんやどり蟹(がに)の子がいて、ちょいとみればただの貝がらみたいに見えるがすこしたつと手をだしてひょこひょこ歩きま わる。とがったのや、まるいのや、勝手次第の殻(から)にいて、それでどれもやどり蟹の子なのがおかしい」(140頁)とさらりと書いてあるのを見つける と、何度も読み返してみたくなる。

 泣き虫の子だつたと言へばそれまでだが、「低い波が時をおいては、さぶーん、さぶーん、とうちよせる。それをきくと自然に胸がせまってせっかく泣きやん だ涙がまたこぼれだす」。お友だちがふりかえって尋ねると、「波の音が悲しいんです」と答へる感じやすい子だつた。

 蚕(かいこ)を飼つたときの話も忘れ難い。「冷たいくちびるからはきだす糸の美しいつやが仇(あだ)となって遠い昔から人の手にのみ育てられたこの虫は 自ら食を求めようとはせず蓆(むしろ)のうえに頭をならべておとなしく桑の葉のふりまかれるのを待ってるのを」(145頁)伯母にお姫様の生まれ変はりだ からと教へられて、愛着を持つやうになる。

 ここで「待っている」と書かずに「待ってる」とわざと舌足らずに書くのもこの作者の特徴で、流利な文章の中に子供らしさを残してゐるのが面白い。この小 説を解説者は誰の真似でもないと言つたが、枕草子のやうな雰囲気をもつ作品だと言へるかもしれない。(2007年3月17日)







 統一地方選挙を控へて読売新聞が地方自治体の長たちにアンケートをした。その記事には、

 ”三位一体改革や規制緩和などの「小泉改革」で、格差が広がったかとの問いには、「そう思う」が54・8%で、「どちらかと言えばそう思う」と合わせる と89・2%に上った。”と書いてある。

 ここから分かることは、第一に、地方自治体の長たちは「小泉改革」で無駄な公共工事が出来なくなつたから、自分の町が貧乏になつたと考へてゐるといふこ とである。「小泉改革」で意識が変るどころか、彼らは相変らず公共工事頼みの政治をしてゐるのである。

 さらに、この質問に肯定的に答へたといふことは、自分の町の貧しさを自分の政治ではなく小泉改革のせゐにしたことになり、そんな責任感も気概もない連中 が9割近くもゐるといふことも分かる。

 最後に、「格差」が広がつたと言ふ地方が9割近くもあるといふことは、貧しいのはどこも殆んど同じだといふことであり、「格差」といふのは新聞の創作 で、現実には存在しないといふことが分かるのある。(2007年3月16日)







 ドラマ『ハケンの品格』で、派遣者員が会社を辞めるときの寂しさが描かれてゐたが、私は会社を辞めて辛いと思つた事はない。むしろ、いつも清々するか、 やつと逃げ出せたと思ふばかりである。

 なぜなら、会社といふものはどこであらうが酷いことをやつてゐるからである。こんな事をしてゐると自分は犯罪の片棒を担ぐことになると思ふやうなことは ざらなのだ。

 まともな事をしてゐると思へる会社でも、今度は体を駄目にしてしまふやうな仕事であることが多い。アスベストの危険性があとから分かつたやうに、働いて ゐる間に何を扱はされるか知れたものではないのだ。

 そもそも、会社と云ふものは社員を騙して働かせるものである。だから、どんな会社にゐても、ここから何とかして逃げ出さなければと思ふやうになつて普通 なのである。

 したがつて、正社員になんか成つてしまつて会社に深入りしてはいけないのである。会社で働くなら『ハケンの品格』の大前春子のやうに三カ月でおさらばす るのが、まつとうな人間でゐられる唯一の方法なのだ。(2007年3月15日)







 プロ野球の裏金問題が発覚して、新聞社は一斉に「希望入団枠をなくせ」と言ひ出したが、読売の渡辺社長だけがファッショだと言つて反対してゐる。その理 由が、早大の斎藤佑樹投手にあるのは明らかだ。

 斎藤投手が甲子園で優勝してからの読売のラブコールはすさまじい。紙面には斎藤投手を絶賛する記事を満載してきたし、今年から六大学野球の早大戦だけを 系列局でテレビ中継することにした。

 それもこれも希望入団枠あつてのことで、斎藤投手が巨人を逆指名してくれると見込みんでのことなのだ。それが今回の不祥事で不可能になれば、あらゆる努 力は水の泡で、斎藤投手入団による巨人人気復活も夢と消えてしまふ。

 しかし、裏金問題は元々巨人の渡辺氏も一枚噛んで、オーナー職を辞任までした事件である。ほとぼりが醒めたと思つたのか、ちやつかり要職に復帰してゐる が、問題は消えてゐなかつたのだ。前科のある渡辺氏は偉さうな事を言へる身分ではないのである。(2007年3月14日)







 フランスの出生率が高いのは、婚外子が多いからださうである。実に4割が婚外子だといふのだ。それに対して、同じヨーロッパでもスペインやイタリアは結 婚しなければ子供を産めないので、出生率が低いのださうだ。
 
 それなら出生率の低い方が立派な国民ではないかと思ふが、フランスが婚外子の多いことを指して、フランスは自由なライフスタイルを認める社会だからとい ふのだ。まさに物も言ひやうである。

 確かに、フランスでは婚外子を育てるための社会政策が充実してゐるかもしれない。しかし、彼らの将来までが保障されてゐるのだらうか。婚外子の子供たち は、物心が付いてきた時に、父親がゐないことに悩まないのだらうか。社会は父無し子をすんなり受け入れるのだらうか。

 出生率といふ数字が婚外子で上がれば年金制度の未来は安泰だらう。しかし、それが社会全体の安定に繋がるかどうかは不明ではないだらうか。なぜなら、自 由とモラルの低下はしばしばコインの両面だからである。(2007年3月13日)







 「ガス機器を使ふ時は換気をしませう」などといふテレビコマーシャルを見ると、この国の国民は益々馬鹿になつてゐるのではないかと思ふ。そんなこともテ レビに教へて貰はなければ分からなくなつたのだ。

 例へば、瞬間湯沸かし器を換気をせずに使つて中毒死した人がゐるのは、そんなことも知らない消費者が悪いのではなく、メーカーが換気の必要をよく教へな かつたからなのださうだ。

 よく自己責任社会などといふが、日本ではそんなものは不可能であることは、これも見ても良く分かる。買つた製品をどう使はうと消費者の勝手である。とこ ろが、使ひ方を間違つて怪我をしたり死んだりしたら消費者は被害者になれるのである。

 被害者万歳のマスコミだから、消費者が悪くてもマスコミはメーカーを叩く。メーカーはそれが消費者を子供扱ひすることになつても、長いものには巻かれて おけと、くだらないコマーシャルを出すようになつてしまつた。

 おそらく、日本が自己責任社会になつて一番困るのはマスコミだらう。消費者が失敗して怪我をしたのは消費者の使ひ方が悪いとなれば、メーカーを叩いて ニュースにすることが出来なくなるからである。(2007年3月12日)







 アメリカにおける時代錯誤の「従軍慰安婦」騒動に対して首相が反論したら、朝日新聞がまた妙なこと言つてゐる。
 
 「全体としては、植民地や占領地の女性たちが意思に反して連れて行かれ、日本軍の将兵の相手をさせられたことは間違いない」だから国の責任を認めた河野 談話を「潔い態度」だつたといふのだ。

 しかし、この論理こそまさに日本政府に責任がないことを証明してゐる。占領地の女性が意思に反して将兵の相手をさせられたのは、最近までどこの国の軍隊 にもあつた事だからである。

 それとも朝日は日本を占領してゐたアメリカ軍将兵の相手をした日本人女性は、自分の意思でやつてゐたとでも言ふのだらうか。そんなことは口が裂けても言 へまい。だからこそ首相は「広義の強制性」に言及したのである。

 ところで、この社説には「従軍慰安婦」といふ言葉がどこにもない。朝日はすでにそんなものがなかつた事を知つてゐるからである。ならば、この問題を捏造 した自分自身の責任を認めて、日本の名誉を傷つけたことを謝罪するのが「潔い態度」ではないのか。(2007年3月11日)







 拉致問題が進展なく終つた日朝協議に関する朝日新聞の社説は突出して北朝鮮寄りである。日本広しといへども、これほど北のやり方を代弁した新聞もあるま い。

 曰く「この問題が議題となった初日の協議を途中で打ち切ったのも、予定の行動だった」
 曰く「北朝鮮の代表は『日本の言うことは、死んだ人間を生き返らせて帰せということだ』とも述べた」
 曰く「過去の植民地支配の清算と経済制裁の撤回、朝鮮総連に関連する捜査の中止を要求した。ただ、日本側の対応しだいで、拉致問題の再調査に応じる可能 性もある」
 曰く「北朝鮮の生き残りには、米国との関係正常化とともに、日本からの経済支援が欠かせない」

 これを見れば、日本が北に対して無理難題を突きつけてゐること、北の協議打ち切りは正当な行為であること、この協議は北の生き残りのためのものであるこ と、北の要求通りにすれば交渉進展の可能性があることなどが実によく分かる。

 中でも、三つめの一節は意味深い。この中の「ただ、」は元々は「だから、」と書かれてゐたとしか思へないのだ。「北朝鮮の言動は私たちにとって腹立たし いことばかり」と付け足してゐるが、「日朝協議―焦らず、ねばり強く」は北朝鮮への激励の言葉としか聞こえないのである。(2007年3月10日)







 モラルの低下を嘆く声がよく聞かれるが、低下してもいいモラルもあるらしい。女の貞操である。こんなものはもう時代遅れなので、モラルのうちには入らな いらしい。そこで、出来ちやた婚がおおはやりとなつたのである。

 ところが、出来ちやた婚も初婚なら法律上は何の問題もないらしいが、これが再婚となると、引つかかる法律が出てくる。それが民法の三〇〇日規定と云ふわ けだ。

 離婚してから半年間は結婚できないのに、離婚して三〇〇日以内に子供が生れる。まさに婚前交渉の証拠である。しかし、初婚の婚前交渉が悪くないのなら、 再婚の婚前交渉の何が悪いとなるのは物の道理である。

 生まれてきた子供には何の罪もないと、大手を振つて言へるのも、生んだ親に貞操に対する罪悪感も羞恥心もないからだらう。この上、法的障害がなくなれ ば、もはやフリーパスである。

 ただし、このモラルの低下は全体的にモラルが崩壊したことの一つの端緒になつてゐるといふことは覚えておいてもいいだらう。これが良ければあれも良いだ らうとなるのもまた物の道理だからである。(2007年3月9日)







 私は地球温暖化には興味がないが、十年以上もずつと前からレジ袋不要派である。しかし、レジのおばちやんたちはなかなか協力的ではない。

 要らないと言つても、無理矢理レジ袋に突つ込むおばちやんがゐるし、くしやくしやの古いレジ袋をポケットから出してレジ籠に入れておくと、「これに入れ るんですか」と怪訝な顔をされたりと、さんざんである。

 最近は地球温暖化の宣伝が盛んで、それが若い人たちには効いてゐるらしい。若いレジ係の対応はくしやくしやのレジ袋にも概ね好意的である。ところが、今 度はレジ袋持参用のポイントカードを親切に勧めてくるのが面倒くさい。

 地球の未来のためにレジ袋を減らさうなどと言ふ人がゐるが、日本人の誰が本気でそんなことを考へてゐるのか。どうせ今だけの流行ではないのかと思ふ。

 だいたい、そんな良い子ぶつた考へ方が長続きする訳がないではないか。その内きつと本音が出てくるはずだ。だから、レジ袋など沢山もらつても邪魔になる から要らない、それで充分なのである。(2007年3月8日)







 「働く貧困層(ワーキングプア)」といふ言葉を最近よく見かける。いくら働いても豊かになれない人のことださうだが、本当にそんな人がゐるのかと思ふ。

 確かに、年収の少ない人はゐるだらう。しかし、では彼らが車も買へない生活をしてゐるのかといふと、一人に一台ずつ持つてゐたりする。だからこそ、休日 のスーパーマーケットの駐車場はきれいな車で満員なのだ。

 最低賃金を月給に換算して、それが生活保護費より低いといふのが根拠の一つらしいが、そんな比較をするのもおかしなことである。アルバイトはフルタイム では働かないものだ。「生活保護費に満たない給料では働く意欲を持つのは難しい」などと言ふに至ては、労働を何と考へてゐるのかと思ふ。

 働けないのに貰ふ金と、働かせてもらつて貰う金とは全然意味が違ふのである。生活保護費は幾ら貰つてもそれつきりである。自分には何も残らないし何も身 に付かない。労働の価値は給料の高だけで量れるものではないのだ。

 いつたい能力があつて勤勉で意欲のある人を最低賃金でフルタイム働かせてゐる会社があつたら、教へて貰ひたいものである。そんな会社こそ「働く貧困層」 を生んでゐると非難されるべきだらう。(2007年3月7日)







 私の経験からすると時間制労働といふのは苦痛以外の何物でもないので、マスコミがこぞつてホワイトカラー法制に反対したのは理解できない。

 時間制労働ほど拘束感の強いものはない。会社の中にゐて、とにかく仕事をしてゐるか、してゐる振りをしてゐなければならない。かうなると時間を経過させ ることが優先されて仕事自体が面白く無くなる。夕方になると時計ばかりが気になるのだ。

 その点、営業は自由である。契約さへ取ればいいのだから、頑張る気になれる。ここでねばつたら一本取れさうだとなれば、夕方の5時を過ぎようがそんなこ とは関係なくなるのだ。

 何と言つても仕事の面白さは達成感だらう。新聞記者などは特にさうであるはずだ。いい記事を書くためには時間を気にしてなどゐられないし、自分の仕事の 価値を時間で計られたくない職種の典型であるはずだ。

 それなのに、各紙が「残業代ゼロ法案」などと書いたのは、労働組合との関係があるからなのかと勘ぐりたくなる。それとも、新聞記者たちも、いつの間にか 時間の奴隷になることに慣れてしまつたのだらうか。(2007年3月6日)







 新聞がしきりと格差問題を論じてゐる。例えば正社員とフリーターの生涯賃金が大きく違ふといふ。しかし、それは当たり前のことで、単なる賃金差だと思ふ が格差だと言ふのである。

 恐らくさう言ふ人たちは、賃金の多い方が良いという考へ方を持つてゐるのだらう。それも一つの考え方だらうが、その考へ方が正しいと決まつたわけではな い。

 よく言ふではないか、幸福は金では買へないと。もちろんある程度の生活をするには金が要る。しかし、贅沢をすれば幸福になれるわけではないことなら誰で も知つてゐる。

 だから、格差と言ふなら、その前に先づ金儲けの多い人間の方が上だという価値観が正しいのかどうかを問ふべきではないのか。

 実際、女性が子供を産みたがらないのも、それで仕事を失つて収入が減り、しかも出費ばかりが増えるからであらう。要するに子供より金の方が大事だという 価値観に縛られてゐるのである。

 しかし、そんな考へ方でいいのだらうか。日本で深刻な問題なのは賃金の差ではなく、拝金主義の万延の方なのではないのだらうか。(2007年3月5日)







 今の新書は昔と違つて、かなり分かり易い言葉で書かれてゐる。ところが、昔の新書の典型である岩波新書は、その反対のものが多く、またそれが値打ちだつ た。

 『歴史とは何か』もかなりの分り難さである。実はこれは翻訳のまずさのせゐなのだが、岩波新書ならこんなものと思われてゐたのだ。しかし、この本を訳本 にして英語の原書を読んだ者なら、かなりひどい間違ひが沢山あることがすぐに分かる。

 例へばこの訳者は、no more〜thanは比較される両方が否定されることを知らないし、not A or Bも、A,Bの両方が否定されることを知らない。not〜butは知つてゐても、few〜butとなるとbutを「しかし」と訳してしまふ。

 後ろの方には、pedestrian historian が「足で書く歴史家」(正しくは「平凡な歴史家」p.224)となつてゐて唖然とさせられる。また、「認識論」をずつと「知識理論」と訳してゐたり、訳語 の選択も変なところが沢山ある。

 それでも売れたのは岩波新書と訳者の権威のお陰なのだらう。しかし、この出版社の本はかなりまずい翻訳でも平気で売られてゐるので注意が必要だ。 (2007年3月4日)








 「日本は植民地支配で鉄道や港を整備した。後の韓国の発展につながっていく善いこともした――。そんなことを強調する人もいる」。最近の朝日新聞の社説 の一節だが、こんな文章を朝日が書くのは何回目だらうか。

 しかし、日本の朝鮮統治は「善いこともした」どころではない。朝鮮半島の近代化が日本の統治下に行われたことは紛れもない事実であり、今日の韓国の経済 発展の基礎を作つたのは日本なのである。

 それは英国やオランダなどの植民地支配が収奪だけだったのとは大きく違ふ。日本はこれでもかといふ程に善意を持つて統治に臨んだ。ところが、それが朝鮮 人には通じなかつたのだ。

 それは中国についても言へる。今だに中国人は「歴史」と称して「南京大虐殺」を言ひ立てて、日本に対して優位に立たうとする。しかし、これらは日本の歴 史の負の面であるだけではなく、彼らの歴史の負の面でもある。

 E.H.カーは『歴史とは何か』で、歴史は未来のために書かれるべきものだと言つてゐる。朝日が同じ事を繰返して書くのは、朝鮮人の未来にどんな利益を もたらさうとしての事だらうか。(2007年3月3日)








 タレントの明石家さんまが、オーストラリアの空港の税関で麻薬の売人に疑はれて厳しい取調べを受けたといふ話をテレビ番組でしてゐた。頻りに周りの人間 に目配せするのが怪しいと睨まれたといふのだ。

 この話の中で注目したいのは、やつと疑ひが晴れて解放された時に、取調べ官から一本のビデオテープを渡されたことである。そこには取調べの様子の一部始 終が録画されてゐたのだ。

 欧米では、被疑者に対する取調べが始まると自動的にビデオ録画されるのが常識らしい。もちろん、これは捜査の公正さを証明するためである。ところが、日 本の警察はあれこれ屁理屈を並べて、ビデオ録画どころかテープ録音さへ採用しようとしない。

 そこで、これに対抗して日本の弁護士たちが考へ出したのが「被疑者ノート」といふものだ。逮捕された被疑者に差入れて、警察の取調べ内容を毎日留置場の 中で詳しく書いてもらふのである。

 これは弁護士と被疑者の接見交通権を最大限に利用した方法である。ビデオほどではないが、文字に書いたものであるから証拠能力がある。このお陰で強引な 取り調べはかなり減つたといふ話である。(2007年3月2日)







 最高裁が「君が代」伴奏を拒否した教諭を戒告にしたのは憲法に違反しないと判決を出したが、それが気にくわない朝日と毎日が社説で珍妙な論理を展開して いる。

 教諭が「君が代」伴奏を嫌だと言つたらテープでやればいいだけじやないか、それを命令違反で処分することはないと言ふのだ。

 こんなことを言ふ朝日や毎日の社員は会社でどうしてゐるのだらうか。例へば、新聞配達員が、この判決が載つた今日の朝刊は自分の信条に反するから、こん な新聞は配りたくありませんと言へば通るのか。仲良しクラブでもあるまいし、そんなことを言つてゐたら仕事にならないことは明らかである。

 この判決をお墨付きにすべきではないといふのも笑はせてくれる。朝日も毎日も日頃から最高裁はもつと憲法判断をすべきだと言つてゐたくせに、いざ憲法判 断が出ると、こんなことを言ふのである。

 最高裁の判決は下級裁判所にとつて判例と云ふ最大のお墨付きになることは間違ひない。そして、判例が法律と同じ効力を持つことは常識なのである。 (2007年3月1日)







 アメリカの議会が「従軍慰安婦」問題で対日非難決議を出さうとしてゐるらしい。

 日本政府は「従軍慰安婦」の存在を認めてゐるのに正式に謝罪してゐないといふのだ。その根拠がかつての河野談話であり村山談話らしい。これらは「とにか く謝つておくべき」といふことで出したものだが、その附けが回つて来たわけだ。

 もう一つの理由は、現実に「従軍慰安婦」にされたと言ふ人が名乗り出てゐることである。被害者がゐるのだから、加害者がゐるはずだといふ理屈だ。

 これは最近のガス湯沸かし器の事故と似てゐる。「死人が出た以上、換気の必要を周知しなかったメーカーが悪い」といふ理屈である。日本政府もメーカー も、彼らは本当に被害者なのか、自分たちは本当に加害者なのかとは言ひだしにくい。

 といふわけで、一部を除いて日本のマスコミはこの問題をまるで他人事のやうな扱ひ方をしてゐる。彼らはこれが右も左もない自分自身の名誉の問題だとは気 附いてゐないのだらう。(2007年2月28日)








 日本の移植学会が病気腎移植を禁止するのだといふ。この学会の医者たちは腎移植したかつたら外国へ行け、それができなかつたら、苦しんでをれとでも言ふ のだらうか。これでは移植学会ではなく、非移植学会、或ひは移植しない学会ではないか。

 その一方で、厚生労働省は万波医師の移植を「医学的に不適切」と言つたと云ふ。彼らにとって「医学的」とは何なのか。それは患者を見殺しにすることなの か。むしろ患者を救ふことこそ「医学的」ではないのか。ならば、万波医師のしたことは「医学的には正しい」といふべきだらう。

 万波医師は「倫理より、目の前で苦しんでゐる患者を救ひたい」と語つたといふ、倫理で人が死ぬのなら、本当の医者はそんな倫理に構つて居れないはずであ る。

 かつてリトアニアでユダヤ人に対して政府の命令に反しても「命のビザ」を出し続けた杉原といふ人がゐる。政府の建前より目の前の命のことを考へたからだ らう。

 ところが、偉い先生たちは建前ばかりを言つてゐるのだ。日本の医者のモラルはどうなつてゐるのか。「命のビザ」を出せる医者はもうほかにはゐないのか。 (2007年2月27日)







 鹿児島の選挙違反事件で無罪判決が出たといふので、新聞は一斉に警察批判をしてゐる。しかし、まだこんな「自白偏重」の捜査があつたのかと大げさに驚い た振りをしてゐるのには白けさせるものがある。

 任意同行による長時間の尋問で自白をとつて逮捕するのは日本の警察の常道ではないか。判決が有罪だつたら、この捜査方法自体を誰も批判しなかつたはずで ある。

 今回の事件で際立つてゐるのは、捜査の途中で違法捜査の訴へが出て、それを認める判決が先に出てしまつたことである。

 もともと裁判官は警察の言ひなりになつて逮捕状を出してゐるのだから、こんな前代未聞の判決が先に出てゐなかつたら、有罪にしてゐた可能性は大きいので ある。

 マスコミはこの事件をどのやうに報道をしてきたのか。逮捕されたら悪人扱ひ、無罪になつたら善人扱ひでは、都合が良すぎるだらう。日頃からこんな行き当 たりばつたりの報道をしてゐながら、正義の味方気取りなのだから、マスコミなんていい気なものである。(2007年2月26日)







 女が働くことの最大の問題は、働く男は働かない女と結婚するのに、働く女は働かない男と結婚しないことではないか。だから、結婚が減つて少子化になつた のである。

 働く男は働く女と結婚すると、相手に家庭に入つて欲しいなどといふ。それを逆にして働く女が、働く男に家庭に入つて欲しいと言つてもよいのである。それ が本当の男女平等であらう。

 ところが、昔から髪結の亭主と言つて、働かない男は怠け者の代表とされてゐる。働かない女はそんなことは言はれないのにである。

 全体的に女の給料が男より安いとしても、それは仕事の内容によるし、社長になれば男も女もないはずである。

 だから、女が働くなら男並に働いて、自分より稼ぎの少ない男と結婚して、家庭に入つてもらへばいいのだ。つまり、女は自分たちの働く環境を改善せよなど といふ代はりに、男が家庭に入る環境を作ればいいのである。

 この方が、女が自分も働き男にも働らかせて、しかも仕事で疲れた男に子育てや家事を分担させようとするよりは、余程合理的ではないか。(2007年2月 25日)







 正社員はそんなにいいものだらうか。その仕事ぶりを見ると大変の一語に尽きる。毎日の帰宅が午前様なのは当たり前。休日出勤も珍しいことではない。睡眠 時間を削つての奉公は、金だけで計れるものではない。

 大手の一流企業の正社員なら、マイカーに外車も買へるだらう。しかし、いいのはそこまでだ。ちよつと優越感を与へておいて、あとは奴隷扱ひである。

 その上、正社員ともなれば、結婚もし、自分の家も建て、子供も育てて留学もさせようかとなる。どれだけ金がかかることか。給料が多い分、出費も多いので ある。

 その挙句が単身赴任か出向で、会社の言ひなりで飛ばされるのである。断つたら辞めるしかない。

 その点、フリーターは恵まれてゐる。何せ自由になる時間はたつぷりあるのだ。稼ぎが少ないから、女も寄つて来ない。自分一人食べていくのに、どれだけの 金が要ると言ふのか。

 少子化対策とか云つて正社員されてしまへば、責任も義務も大幅に増えてしまふ。その分自由が減るのである。正社員になつたからと言つて決してバラ色の人 生が待つてゐるわけではない。(2007年2月24日)







 世の中何でも金に換算することが流行つてゐる。少子化の問題は全て金で説明できるのださうである。しかし、昔は貧乏でも子供を産んだ。あれは間違ひだつ たのだらうか。

 「家庭が幻滅の源泉である」といふ人がゐる。家にゐても金が稼げないからだらう。女が家庭で割を食ふと思ふのは、子育てや家事を仕事より下に見た発想で ある。

 今や国の政策で一番大事なのは経済政策である。そんなことだから、国民のモラルが低下してしまふのだ。金が一番大事なら、給食費を払はない家庭が出てく るのも道理である。

 女性の社会進出度を調べた「男女格差ランキング」といふものがある。これが世界経済フォーラムから出たことは象徴的だ。社会進出とは高い給料をもらふこ となのである。人の値打ちを金で換算するから、こんなくだらない統計が出てくる。

 そのランキングで北欧がトップだといふ。しかし、北欧には北欧の事情がある。人口の少ない国が国際競争力を保つために国を挙げて女も働けるようにした結 果ではないのか。北欧礼賛も大概にして欲しいものである。(2007年2月23日)








 受験の季節である。受験などと云ふと結果は本人だけの責任のはずなのだが、失敗するとどうしても人を恨みたくなるものらしい。

 まず受験校の選択に教師が関つてゐる場合には、落ちた生徒は受からない学校を受けさせた教師を恨むのである。自分の実力は自分で分かりさうなものだが、 さうではないのだ。

 また、受験前に異性と付合つてゐたりすると、落ちたのは相手のせゐだと云ふことになつて別れたりする。特に家族は、悪い女(男)に引つ掛かつたと交際相 手を恨むことになるのだ。

 合格発表も中々厄介な出来事である。同じ学校を受けたからと一緒に見に行つたりして、誰かが受かり誰かが落ちると、受かつた奴は落ちた奴から恨まれるこ と必定である。

 また、発表会場からの帰り道で、一緒に受験した奴がこれから見に行くのに出くはすのも厄介なことだ。相手が受かつてゐればよいが、落ちてゐたら無視しな いといけない。結果を教へたりすると必ず恨まれるからである。

 受験の季節とは何かと人間関係が壊れる季節でもある。(2007年2月22日)







 自転車が歩道を走れるやうに法律を改正するさうだが、自転車はずつと前から歩道を走つてゐる。むしろ車道を走る人の方が珍しいくらゐだ。むしろ今回の法 律改正で自転車は本来は車道を走るのかと、車道に出る自転車が増えるかも知れない。

 しかし、自転車の車道走行は、車に追ひ越されるときが恐い。だから、なるべくそれを避けるやうにするしかない。それには、車の流れが途切れた隙間を狙つ て車道に出るのがいい。

 よく見てゐるとそんな瞬間がないことはない。例へば、赤信号で車の流れは確実に途切れる。また道が狭ければ、右折車が曲がれずに後ろの車を止めて、車道 ががら空きになることがよくある。

 休日などは裏道の通行量がかなり少ないので、車に追ひ越されずに走れる距離が長くなる。日曜ドライバーは国道が大渋滞でも裏道をあまり通らないからであ る。

 何と言つても車道は段差が少なく鋪装がいいから、走つてゐて楽なのは確かだ。だから、歩道も車道並に整備してから、自転車も歩道を走れと言つて欲しいも のである。(2007年2月21日)







 女の自立などと言つて仕事をする方が偉いと思はれてゐる。しかし、それが結婚しないことの理由となるなら、ちよとおかしいのではないだらうか。

 結婚せずに仕事をしてどんないいことがあるのか。仕事をすれば確かに自分で自由に使へる金が手に入る。しかし、それが自立なのだらうか。結婚せずに一生 を過ごすなら、それは自立ではなく孤立になるのではないのか。

 働いてゐる間はそれでもよいかもしれない。しかし、退職して両親も失つてしまへば、自分を必要とし自分に関心を持つてくれる人は誰もゐなくなつてしまふ かもしれないのだ。もしさうなれば完全にひとりぼつちではないか。

 孤独な高齢者にとつて、後は頼りになるのは金だけである。そんな孤独な高齢者が悪質セールスマンの餌食になるのではないのか。

 もちろん家族が全てではないし、自分の金を当てにするだけの親族など居ない方がいいかもしれない。犬でも飼つて置けば孤独を紛らすことも可能だらう。

 しかし、もし人生の生き甲斐が仕事だけなら、女たちが批判する男の貧しい人生と同じである。そんな人生の惨めな末路を知つた上で結婚しないことを選んで ゐるのだらうか。(2007年2月20日)







 盲人の為の黄色い点字ブロックはなぜ歩道の上ばかりに敷設されるのであらうか。車道と歩道の区別のあれば、既に安全であるのはずなのにである。

 中には幅が狭くて一本道で欄干のある歩道にまで敷設される。しかし、そんな道なら盲人でも方向を見失ふことはないのではないか。

 むしろ必要なのは、歩道の区別がない道路だらう。盲人が道の端からそれずに歩けるやうにしてこそ、点字ブロックの存在意義があるのではないのか。ところ が、端が明らかで人しか通らない歩道の上ばかりに敷設される。

 さらには盲人の為に音が出る信号機もある。しかし、肝心の車道を横切る横断歩道の上には点字ブロックはない。石膏のゼブラ模様が代はりなのだらうか。車 道に敷けば車の邪魔になるから敷かないのではないのか。

 点字ブロックも公共工事である。沢山敷けば儲かるのは業者だ。しかし、それは盲人たちの声を聞いた上での施策なのだらうか。例へば、盲人は点字ブロック の上を歩かないことを知つてゐるのだらうか。(2007年2月19日)







 産経新聞の阿比留記者のブログ(2/17)に、事務所経費問題に関する国会質疑が報告されてゐる。それを見ると、大臣たちの事務所経費問題は、どうやら 共産党の問題になりさうな雲行きである。

 共産党の議員は本人の資金管理団体も政党支部も持つてゐない。各地方の委員会が政治団体として届出されてゐるが、全て中央委員会の支部でしかない。政治 資金の管理は党の委員会が全部やつてゐるのである。

 その結果、共産党の議員個人の収支の実態が全く不明なのだ。しかし、自民党などの議員の事務所経費を明らかにしろと言ふなら、共産党は自民党などの議員 の事務所経費に匹敵する地方委員会の経費を明かにすべきだと。

 かうして、国会では自民と民主がタッグを組みつつあるらしい。

 それにしても、政治活動の資金を全部党に握られてゐるとは、共産党の議員たちは党の操り人形ではないか。道理で共産党の議員は上から下までみんな同じこ と言ふ。しかし、こんな政党が自由と民主主義の日本にあつていいのかと、その先を問ひたくなるのは私だけではあるまい。(2007年2月18日)







 「笑っていいとも」の番組のコーナーの中で、会場の50人の女性にバレンタインデーにチョコを渡した場所のアンケートをしたら、バレンタインデーにチョ コを渡したことがない人は何とゼロだつた。

 50人もゐれば一人ぐらゐは渡したことがない女性がゐてもおかしくないと思つてゐたら、これである。

 女の自立などといふが、好きな男に気持を伝へるにしても、自分は違ふやり方をするといふ誇りはないのだらうか。これでは、女はチョコを渡す機械ではない か。

 子供を産む産まないは女の自由だといふのなら、チョコを渡す渡さないは女の自由だとも言ふべきなのだ。そしてチョコを渡さない権利を主張しても良ささう なものだ。

 そもそも子供を授かりながら正当な理由もなしに産まないのは、優生保護法の趣旨に反した脱法行為であるし、チョコを渡すのは業者の宣伝に乗せられること である。

 ところが、女たちは誰かが言ひだしたことが流行り出すと真似をせずにはゐられない。そんな人真似ばかりしてゐる女たちの気まぐれに国の将来を託さねばな らないとは情けないことである。(2007年2月17日)







 読売新聞のコラム『遠景近景』(2/14)が ”EHカーは「現代の眼を通してでなければ、私たちは過去を眺めることはできず、過去の理解に成功するこ ともできない」と言っている(『歴史とは何か』岩波新書)” と書いてゐる。

 これはおかしい、EHカーがそんなことを言ふ筈がないと思つて同書を読み返してみた。やはり、間違ひである。これはEHカーの意見ではなくEHカーが紹 介したコリングウッドの意見なのである。EHカーの意見は、歴史とは過去と現代の対話であり、現代の眼を通して過去を見るだけではだめだと言ふものであ る。

 このコラムの構成は、『昭和33年』といふ本に実際の昭和は平成の世よりもあらゆる面で劣つてゐた事が書かれてゐること、EHカーの引用、自分が経験し た貧しい昭和、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』が描く懐かしい昭和に対する感慨、となつてゐる。

 しかし、EHカーの引用が本文とどう関係するのかは書かれてゐない。全体としての結論もない。材料だけ並べてあとは自分で考へて下さいといふ態度であ る。

 ところが、EHカーが同書の中で批判したのは、まさにかう云ふ態度なのだ。筆者は本当にこの本を読んだのだらうか。(この本の岩波新書の翻訳は上出来と は言ひがたく、変なところが沢山あるのでお勧めしない)(2007年2月16日)







 国会で審議が始まり、民主党は得意の「格差問題」で切り込まうとしたのだが、入口のところで躓いてしまつたやうだ。首相にその「格差問題」の存在さへ認 めさせることが出来ないからである。

 日本は社会主義でも共産主義でもない。人によつて収入に違ひがあるのは当たり前のことである。それを格差だと言ひ立てることには様々な異論がある。

 だから、民主党が「格差問題」を言ふなら、例へば収入の違ひが資本主義社会に於いても許されない程に大きな問題となつてゐることを、政府に反論できない ほど完膚無きまで徹底的に証明しなければならないのである。

 ところが、それが出来ない。首相に簡単に反論されてしまふのである。といふことは、まだこの問題は、ああも言へるかうも言へる程度のものでしかないと言 ふことになる。

 確かにバスに乗り遅れるなとばかりに、新聞社はほぼ全紙が「格差問題」の解消が急務だと言つてゐる。しかし、そもそもそんな問題があるのかどうかさへ怪 しいのではないだらうか。(2007年2月15日)








 子供はよく走る。大人が見てゐると、ちよつと冷や冷やさせられるが、子供は感情を抑へることをしないで、気持のままに走るのだ。それは大人から見れば何 か羨やましいことでもある。

 『剣客商売』の「待ち伏せ」では、最後の場面で剣客秋山小兵衛の息子大治郎が走る。妻の三冬が懐妊したことを知つた瞬間に、走り出すのだ。江戸の街の人 混みの中を縫ふやうにして右へ左へ一目散に走る。やがて見えてくるのは、義父で三冬の父田沼意次の屋敷である。

 大治郎がその屋敷の庭に駆け込むと、それに応じて田沼意次も従者を一人連れて、屋敷の縁側の廊下を今や遅しと走つて来る。そして両者が廊下のかどの上と 下で息を切らせながら言葉を交はす。

 「三冬に子が・・。子を授かりました」「うむ!それで、いつ生れる!」「さあ、それは」「どうしてそれを確かめて来ん!」「早速確かめて参りまする」

 映画『砂の器』では幼い主人公が父が旅立とうとする駅に向かつて線路の中を走る場面が感動を誘つたが、大人が走るのもいいものだ。そして子を授かる事の 自然な喜びを、改めて教へてくれた走りであつた。(2007年2月14日)







 最近読んだ内村鑑三の『基督教のなぐさめ』や彼の聖書註解全集などに引用されてゐる聖書の文章は、本屋で買つて来た文語訳聖書とは異なつてゐる。

 調べると、新約聖書の文語訳には大正訳と、さらに古い明治訳(翻訳委員社中訳)などがあることが分かつた。本屋に売つてゐる文語訳聖書は大正訳なのだ。 一方、明治訳聖書は高価な復刻本以外では、ミッション系の大学のホームページなどで公開されてゐる影印(写真)を読むしかない。そして内村鑑三が引用した のは明治訳なのだ。

 ところで、例へば内村の引用した「人はパンのみにて生くるものにあらず」(マタイ伝第四章、明治訳)は、「人の生くるはパンのみによるにあらず」(大正 訳)よりすつきりしてゐる。

 どうやら、大正訳に改めた理由は、明治訳の意訳を嫌つて、より原文に近づけるためだつたやうである。大正訳が難しいのもそのせゐらしい。幸い旧約の方は 明治訳のままである。新約の方も明治訳の安価な出版を望みたいところだ。(2007年2月13日)







 今の日本社会は、男も女も仕事人間であること、謂はば働く機械であることを誇りにする社会である。

 誰もが家事や子育てより外で働く方が偉い、或ひは上だと思つてゐる。だから、自分が家事や子育ての機械だと言はれるのは許せないのだらう。

 男が主夫であることが世間体の悪い事であるやうに、今や多くの女性も専業主婦であることに誇りが持てなくなつてゐるのではないか。

 社会の役に立つといふ観点から見れば、働くことも産むことも同じぐらゐに立派なことである。いや、社会の存続といふ観点に立てば、産み育てることの方が ずつと重要なことである。

 それなのに、働く方が偉いといふ見方が支配的であるのは、それが社会的な貢献といふ観点からの見方ではないといふことになる。むしろ、金、金の世の中だ から稼ぎがある方が尊ばれてゐるだけなのではないのか。

 もしさうだとするなら、「女を産む機械と言ふのは女性差別だ」という批判は、単なる拝金主義の現れはでしかなく、自由と民主主義に基く男女同権の考へ方 とは全く無関係だといふことになる。(2007年2月12日)







 柳沢大臣の発言内容の全文がやつと読売新聞(2/10)に載つたので読んでみた。「女性は産む機械のやうなものだから、がんばつて子供を産んで下さい」 と言つたのかと思つて読んだが、そんなことは全然言つてゐないのである。

 発言の趣旨は、今や女性は産む機械に譬へられざる得ない憂ふべき状況になつてゐるといふことである。機械と云ふのは柳沢氏がさう思つて言つたのではな く、謂はば状況によつて言はされた言葉である。だから、彼が謝つたのもこの状況に成り代つて謝つただけなのだ。

 ところが、マスコミはホワイトカラー法制をよく理解できずに残業代ゼロ法案と言つたやうに、今度も氏の発言をよく分かりもせず、柳沢氏が女性を機械に譬 へたと言つたのである。

 もつとも民主社会ではかういふ事はよくあることで、ソクラテスが自分の発言を理解されずに死刑になつたのもその一つである。むしろこの社会には、人の発 言を無理矢理誤解してその人を貶しめようとする連中がごろごろゐるのである。

 ソクラテスは毒杯を仰いで自害したが、柳沢氏は辞任しなかつた。高一で母を失ひ、定時制高校に通ふなどして、東大から大蔵省に入つた苦労人だからこその 粘り腰なのだらう。(2007年2月11日)







 「日本では、結婚しないと子供を産むのが難しい。しかし、結婚すれば、仕事のほかに家事、育児、夫の親の介護が降りかかってく ることを考えると、女性は踏み切れない。結局、結婚を子供ごとあきらめるしかなくなる」「女性たちの冷静な決断の積み重ねが、少子化の背景にある」「制度 と施設と意識という三つをクリアしないと、結婚しよう、子供を産もう、ということになりにくい」「女性は依然として介護から解放されていない」「単身高齢 女性が増えることもあるので、施設など、安心して暮らせる住まいを充実させて欲しい」

 先日読売新聞(2/6)に掲載された遙洋子氏の言葉である。これらは一見、世の女性の立場を代弁してゐるやうであるが、私には全てが自分の人生を正当化 する言葉にしか聞こえない。

 彼女にも愛情はあるのだらう、この人のために苦労したいと思つた事もあるのだらう。しかしそれが叶はぬ人生の悲しみを隠して、自分の孤独を社会制度の不 備のせゐにして強がつてゐる言葉にしか聞こえないのだ。

 既に彼女は自分の孤独な老後をも予想せざるを得ないらしい。しかし、安心するがいい。彼女は少なくとも彼女が産まなかつた娘、彼女が産まなかつた息子の 嫁を、彼女の介護といふ苦労から解放してやれるからである。

 さうだ。苦労さへしなければいいのである。そして、産まなければ、生まれてこなければ、女性は人生の苦労から解放されるのだ。(2007年2月10日)







 「責任者出てこい」「出て来はつたら、どうすんの」「謝つたらしまひや」。むかし漫才の人生幸朗・生恵幸子さんは、この掛合ひで観客の爆笑を誘つたもの だ。ところが、現実は謝つたら仕舞ひではないのである。

 謝ることによつて人は許すどころか、相手が自分の間違ひを認めたことで自分の立場の正しさに自信をもつて、さらに批判のトーンを高めてくることが多いか らである。

 逆に言ふなら、謝つてくる前には、仮に怒つてゐたとしても、その怒りが正しいかどうかに確証が持てず不安な状態にあると言つていい。「ひどいぢゃない か」と言つても、「どこが悪い」「仕方のないことだ」「お前の勘違ひだ」いや「お前も悪い」と逆襲されるかも知れないからである。

 したがつて、もし謝ると云ふ方法を取るなら、それによつて最終的な解決が得らる状況にあるかどうかをよく見極める必要がある。さもなければ、謝ることに よつて事態は更に悪化する可能性が大きいのだ。

 柳沢大臣がまた失言したと騒がれてゐるが、今回は謝らなかつた。彼は先の発言でわざわざ自分から先に謝つたことが、失敗の最大の原因であることを学んだ に違ひない。(2007年2月9日)







 小金井市の女性議長が柳沢大臣罷免要求を出したといふ。その文面にこんな文章がある。

 ”21世紀の女性は多様な生き方をしており、子どもを産むか産まないかは本人が決めることであり、国の政策で決まるものではなく、ましては第三者が口を 挟めるものではありません。”

 まさに、この考へ方こそが日本の少子化現象の大きな原因の一つであらう。しかしながら、今でも子どもを産むことについて、舅姑や親類が口を挟むはずだ。 それが家と云ふものであり、それが生活共同体といふものだからである。その共同体の一番上に来るのが国であらう。

 人間は一人では生きて行けないと云へば、誰でもその通りだと言ふが、それは共同体のしがらみの中で生きることだと云へばどうだらう。それは嫌だと言ふの が、「口を挟むな」といふ考へ方ではないのか。

 女性がどんな生き方をしようと、それは共同体を離れては実現できないはずだ。その共同体をどう維持するかを考へることが、政治家の仕事ではないのか。そ れを女の自由だで済ませられるのなら、政治も政治家もいらないのではないか。(2007年2月8日)







 最近、国民の公共精神や規範意識の低下が問題とされるに及んで、各界の識者たちも様々な処方箋を提供してゐる。

 例へば、養老孟司は『バカの壁』で、常識を普遍的な価値の柱にしろと言ひ、山崎正和は最近読売新聞(1/21)に寄せた論稿で順法精神を涵養すべしと言 つてゐる。

 しかし、そもそも順法精神と云へば、順法闘争といふ言葉がすぐに浮ぶくらゐで、法に違反してゐなければ何をしてもいいと言ふ話になりやすいのが難点だ。

 一方、養老氏は、例へばキリスト教は一神教であるから価値の一元化につながり、悪くすると原理主義になるから駄目だと云ひ、それより「人間であればこう だろう?」といふ常識に規準を置けば、普遍性を提示できるといふ。

 しかし、常識こそは人によつて千変万化であり、常に相対主義に陥る危険性を孕んでゐる。

 結局、どちらも人間の作つたものに価値の尺度を置けと言つてゐることになり、プロタゴラスの言ふ「人間は万物の尺度である」になつてしまふ。神なき世界 に絶対的な価値規準を作ることは大変難しいやうである。(2007年2月7日)







 2007年問題といつて、戦後の経済発展を支へた団塊の世代が退職したら日本の経済はどうなるのかと、団塊の世代が持ち上げられてゐる。また、この世代 は戦後民主主義の申し子だともされてゐる。

 しかし、彼らの生き方には疑問点も多い。例へば、養老孟司の『バカの壁』では、この団塊の世代が批判の対象になつてゐる。大学を自由にすると言つて学生 運動を起してゐたくせに、後でちやつかり「でもしか」先生になつて信念のない教育をして、今の日本を駄目にしたといふのだ。

 彼らのゲバ棒は国民の支持を得ることが出来ず、自由と民主主義のはき違へでしかなかつたことは今や明らかである。しかし、彼らにはその反省がないらし い。今回の柳沢発言にひとりで怒つてゐるのは、この世代の女性たちだといふ話がある。また、世論調査で安倍政権を一番嫌つてゐるのも、この世代だといふ。

 しかし、これもまた昔のゲバ棒思考の名残りではないのか。もしさうだとしたら、さういふ世代の人たちが社会の一線から退くことには、良い面もあると思ひ たくなる。(2007年2月6日)







 『バカの壁』の考へ方に従へば、少子化の最大の原因は社会の都市化であるといふことになる。とすれば、農業国でパリのすぐ外側にさへ広大な農地が広がつ てゐるフランスの出生率が高いのも説明がつく。

 そして、もう一つ大きな要因は国民負担率の高さだらう。高負担高福祉といふあれである。フランスでは収入の六割が国にもつて行かれてしまふ。スエーデン などは七割である。

 これらの国では子供を生んだ女性に対する施策が至れり尽くせりださうだが、かうなれば、子供を産まなければ取られ損になる。つまり、女性は国によつて上 手に子供を産む機械にされてしまつてゐると言へるのだ。

 それに比べて日本では子供を生む事はあくまで個人的な出来事であり、子供の面倒は基本的には全部自分でやりくりしなければならない。その代はり、日本の 国民負担率はスエーデンの半分程度で済んでゐるのだ。

 日本も税金を沢山とつて、子供を産む方が得だ言へる国にすることも出来るはずだが、産む機械だと言はれてヒステリーを起す女たちが大きな顔をしてゐる現 状ではとても無理な話であらう。(2007年2月5日)







 賞味期限と消費期限の表示が始まつたのは1995年のことだといふが、日本人のモラルが低下した原因の一つはこれではないかと思つてゐる。

 以前は、製造年月日を見て何日経つてゐるかを考へ、自分の目と鼻で物の良し悪しを判断してゐた。ところが、賞味期限などの出現でさういふ習慣がなくな り、それと同時に商品毎に何時まで食べられるかといふ知恵も知識も失つてしまつた。

 そして、期限切れだからと食べられる物を捨てるやうなつた日本人は、自分自身で物事を判断する習慣も捨ててしまつたのではないか。なぜなら、判断は全部 他人任せで、何か不都合なことが起きると全部他人のせゐにする生き方が広まつてしまつたからである。

 小沢一郎が『日本改造論』にグランドキャニオンには転落防止策がないことを引合ひにして、自己責任の大切さを説いたのは1993年のことだつた。

 それから14年。日本人はこの本の趣旨に反して、自己責任を放棄する習慣ばかりを身に着けてしまつたやうに思はれる。それは取りも直さず自分の行動に責 任を持たない人間が増えたといふことではないだらうか。(2007年2月4日)








 養老孟司の『バカの壁』の中の重要なテーマの一つに「共同体の崩壊」がある。その中で退学について書いてゐることが面白い。

 "本来、退学と言われても担当教官が二名付いて、退学処分を受けた学生が一年通って指導を受けれていれば、「改悛の情あり」とか何とか言って、復学させ てもらえていた。それが退学だった。"(p162)

 それに対して、今の退学は言葉通り「生徒の追放」になつてゐる。これは本来あるべき共同体の姿ではない。共同体といふのは絶対に人を追ひ出さないからだ と言ふのである。

 ところが、今の社会はどんどん人を追放する。リストラがその典型で、その追放された人たちがホームレスといふ訳である。

 しかし、社会に少しでも共同体意識が残つてゐれば、ホームレスも大事にしなければといふ意識が働くはずなのだが、それが無くなつてしまつた今ではホーム レスは社会の邪魔者でしかない。

 そして、そんな社会に育つた子供たちがホームレスを自分のストレスの捌け口にしたとしても、それは彼らがこの社会の流儀に従つたに過ぎないと言へるので はないか。(2007年2月3日)







 日本が徴兵制を止めてから、日本の男たちは身体のことが分からなくなつたと養老孟司が『バカの壁』の中で言つてゐる。多くの国民が自分の身体を使ふ百姓 であることをやめて都市人間になつてからは、特にさうだといふ。

 都市化した現代人は身体を動かす代はりに、あれこれ考へつべこべ言ふことばかりを優先するするやうになつた。そして意識の中で捉へられることしか考へな くなつてしまつた。

 一方、軍隊であれ百姓であれ身体を使ふには、あれこれ考へずに先づ動けるやうにしなければならない。しかも、身体を動かすことの多くは無意識の領域に属 する。それを勘定に入れなければ、ものの役には立たないのだ。

 ある大臣が女性を機械に譬へて女たちの反発を買つたさうだが、男が戦争をする機械であることを止めて久しいやうに、女もまた子供を産む機械であることを 止めてしまつたのだらう。

 しかし、人間が意識のない機械であるといふ側面を持つてゐることを忘れてしまつては、個人も家庭も社会も立ち往かなくなることを忘れるべきではないだら う。(2007年2月2日)








 養老孟司の『バカの壁』が古本屋で百円になつてゐたので、買つて来て読んでみたら、何とこれは哲学書ではないか。非常に難しいことが延々と書ゐてある。 これがベストセラーで飛ぶやうに売れたとはとても信じられない。

 いや買つても誰も読まなかつたのだと思ふしかない。といふのは、初つぱなに、CO2の増加が地球温暖化の原因であると云ふのは一つの推測に過ぎないから 「CO2の増加による地球温暖化」と言ふのは間違ひだと書いてあるのに、その間違つた言ひ方を誰も止めやうとしないからである。

 また、例へば適者生存の進化論によつて、恐竜は環境に適応できなかつたから滅んだと推測はできても、恐竜は今現在存在しないからその事実は証明できな い。つまり、進化論は反証できないから科学的理論ではない、と言ふのだが、多くの人にとつては、だからどうなのだで終つて仕舞ふ話である。

 これらはまさにこの本の云ふ「バカの壁」が存在することの証明で、知りたくないことは理解できないし、関心のないことを知つても、その人の行動には何の 影響もしないのである。

 昔、哲学者の今道友信博士が『同一性の自己塑性』といふ御自分の講義について、一般の人には関係のない講義であると言はれたことがあるが、この本につい ても同じことが言へさうである。(2007年2月1日)








 うまい話と云ふものは中々さう無いもので、それを週に一回ずつ出してくるのは並大抵の苦労ではなかつたらう。

 それに対して、まずい話は世の中にいつぱいある。だから、マスコミはまずい話を出すのは得意だが、うまい話を出すのが苦手なのは仕方がない。

 ところが、マスコミはそのまずい話に飛びつくとなかなか手放さうとせず、「これでもか」としつこく報道し続けるので、それを見せられる方はうんざりして しまふ。

 『あるある大辞典』や不二家のネタなども、昔の話までネチネチと掘り出してきてゐるが、まだやつてゐるのかといふ印象しかない。まるで女の腐つたやうな 奴らだと思つたりもする。

 だいたい人のしでかした失敗をネタにして飯を食つてゐるのだから、偉さうなことは言へないはずだ。そんなに言ふならお前らも、うまい話をちよつとは自分 でも捜して来いと言ひたくなる。

 週に一回うまい話を出すのにあれほど苦労するのだ。毎日毎日お昼の番組でうまい話を出してくる日本テレビはたいしたものだと感心するばかりである。 (2007年1月31日)







 万年浪人の侍に仕官の話が来たが、条件があつた。それは無外流の剣客秋山小兵衛の息子大治郎に御前試合で勝つことだつた。試合を断われない大治郎は父に 相談にくる。その時父は即座に息子に言つた、「負けてやれ」。

 「そんなことは武士の名折れだし、第一、相手に失礼だ」と大治郎は言ふのだが、家に帰ると妻にも「負けてお上げなさいませ」と言はれ、相手の妻の父親か らは「勝ちをお讓り下さい」と土下座されてしまひ、いざ試合に臨んだ大治郎は集中力を高めることが出来ずに本当に負けてしまふ。

 ところが、その直後からあれは八百長試合だといふ噂が広まり出すのだ。その噂に悩んだ相手の侍が大治郎の道場に直談判に来るに及んで、ではもう一度やり ませうといふ事になる。その試合で大治郎は今度は見事に負けてやつて相手の仕官が叶つたといふストーリーである。

 これは『剣客商売』といふドラマの話だが、去年の大相撲で白鵬と雅山が勝てば昇進と言はれた千秋楽の二番は、まさにそんな試合だつた。だから二人の勝ち に相手力士の情を嗅ぎとつた相撲協会は即座に昇進なしの裁断を下した。

 しかし、そんな試合の対戦相手となつた人間もやりにくいものなのだ。勝てば恨まれるし、負ければ疑はれる。試合とは相手があるものであり、それに勝てば 仕官を許すとか、昇進させるとか言ふことがそもそもの間違ひなのである。(2007年1月30日)







 一時マスコミが「加害者の人権は手厚く守られてゐるのに、被害者の人権は守られてゐない」などとしきりに言つてゐたことがある。

 では、被害者の人権を守りませうと被害者の実名を隠すことがあると警察が言ひ出したら、マスコミは大反対である。日頃、警察発表をそのまま記事にして恥 じない記者たちが、事実の確認が出来ないと騒いだのだが、実名のない記事では現実味がなくて売れ行きに影響すると恐れたのだらう。

 被害者の人権重視がこの程度のものなのだから、加害者の人権を侵害するのは当たり前で、「犯罪者のくせに、プライバシーなんか守られる権利はない」とば かりに、学生時代の写真から何から何まで使つて過去の事を曝き放題である。

 そもそも裁判で判決が出て加害者と決つた人間の人権は罰を受けてしつかり制限されてゐる。法で守られるのは被疑者の人権の方である。そんな事もごつちや にして仕舞ふのだから、日本のマスコミの人権意識など高が知れてゐるのである。(2007年1月29日)







 ドライバーの血中アルコールが0.14ではなく0.15であれば犯罪者にされ、賞味期限が一日ずれたことから寄つてたかつて老舗の会社を一つ潰して仕舞 はうとする。

 まつたく嫌な御時世であるが、それもこれも法律万能主義から来た弊害である。人間のすべての行為を法律で計ることなど出来るわけがない。法律を越えた真 実があるのだ。

 その最たる例が、離婚後301日ではなく300日で生れた子が前夫の子とされる民法の規定であらう。出生日を偽つて届け出ない限り、ウソが事実としてま かり通つて仕舞ふのである。法を守ることによつて人は不幸になるのだ。

 キリストの使徒パウロは、人間は法律通りに生きることなど出来ないと言つた。法に支配されてゐる人間は罪といふ主人の奴隷である。法を破らないために は、破るやうな法を作らないやうにするしかないとまで言つた。

 パウロの言ひたいことは、法に従ふのではなくキリストに従つて善い人間になれと云ふことであるが、彼の「ローマ人への手紙」は人を幸福にするために法が 如何に無力であるかを教へてくれる。(聖書は超訳の『リビングバイブル』推奨)(2007年1月28日)







 民法772条は生れた子供の父親が誰かを決める条項である。子供の母親は産んだ女で明らかだが、誰と結ばれて出来た子だかは知れたものではない。

 そこで便宜的に、結婚してゐる時に生れた子は夫の子とし、離婚した後に生れた子は300日以内なら前夫の子とすることにした。

 これでいくと、離婚後すぐに別の男と結ばれて出来た子は前夫の子になつてしまふ可能性がある。再婚に180日待つ必要あり、生れたのが再婚から120日 以内なら前夫の子とされるからである。

 しかし、女は自分の産んだ子の父親が誰かを知つてゐる。だから、うまく計算して適当な誕生日で届ければ、本当の父親を子供の父親にすることが出来るの だ。昔はそんなことはよくあつたが、今でも家で一人で生んだと言へば出産証明書がなくて済むはずだからである。

 ところが、正直に届けて前夫の子になつてしまつたと怒つてゐる女たちが大勢ゐると云ふ。だが人の親ともなれば子供のために一芝居打つぐらゐの覚悟も必要 ではないのか。それは惚れた男を落とすために使つた手練手管を思ひ出せばよいはずである。(2007年1月27日)







 三菱の洗濯機がC1エラーが出て脱水出来なくなつたら、蓋を閉めたことを知らせるセンサーの故障である。これは自分で直すことが出来るとネット上で報告 がある。実際、それほど難しいことではないやうだ。

 センサーなどが入つてゐるカバーは、洗濯機の後ろにある2本の上向きのねじを外してから、カバーを洗濯機正面から見て斜め手前に引き上げると外れる。

 左側にある黒色のものがそれでオムロンのVX-01-1A2であるが、名前は取り付け側に書いてあるので、2本のねじを抜いて外さないと見えない。洗濯 機につながつてゐるコードを引き抜くと、上側に1本、横側に2本、プラグの差し込み状の金具が出てゐる。

 センサーを爪でこじ開けると、赤いボタンを押したときに中の金具が動いて、上側の1本の金具から来た電気信号が、横側の2本の内の上の金具に流れ、押さ ないときには下の金具に流れる仕組みであることが分かる。

 問題は上側の1本の金具の接触不良である。全体が白つぽくなつてゐる。特にボタンを押したときに動く接点の部分が腐蝕して電流が流れなくなつてゐるの だ。だからその部分を中心に先の細いヤスリなどでこすつてやると、また電気が流れるやうになる。

 通電の確認にはテスターがあることが望ましい。私はペン型の懐中電灯とビデオコードの余りを切つて自作したが、むしろこの方が面倒だつたくらゐである。 (2007年1月26日)







 子供がホームレスを殺すのは、大人がホームレスをいぢめるからである。大人がいぢめるのに、子供がもつといぢめて何が悪いと思ふのは当然だ。違ふのは大 人が合法的にいぢめるのに対して、子供はそんな慎重さがないだけである。

 大阪市によるホームレスの住民登録実態調査は、合法的なホームレスいぢめの最たるものである。役所がいぢめるのであるから、子供たちのいぢめにお墨付き を与へたやうなものである。

 ホームレスは昔はお乞食さんといつて、彼等を邪険に扱ふ家には不幸が舞ひ込むとされたものだ。金銭的な幸福など一時の幻のやうなもので、いつどんなこと で自分も同じ立場に陥るかも知れぬと云ふ謙虚さがあつたからである。

 古代ギリシアの『オデッセイ』を読むと、お乞食さんは神(ゼウス)の使ひとして尊敬され、お貰ひに来たら丁重にもてなすのが正しい人間の姿とされてゐた ことが分かる(14巻58行)。

 神のゐない日本社会が、法あつてモラル無き社会に堕するのは仕方がないが、役所や裁判官がモラル破壊の先頭に立つのだけはやめて貰ひたいものだ。 (2007年1月25日)







 ロボットコンテスト、略してロボコンといふのがNHKの主催が毎年テレビで放映されてゐる。

 しかし、ロボットといへばガンダムのやうなの姿をしたものを想像する我々の目に、相も変はらず年寄りの手押し車か乳母車のやうなものを見せらるのである から、興醒めを越えて学生たちが気の毒になつてくる。

 このコンテストはお題が決まつてゐて、運動会の障害物競争のやうなことを機械にやらせるだけで、しかもその過程が細ごまと決められてゐる。その中でアイ デアを競ふのだが、それはまさに小手先のアイデアでしかないだらう。

 高専の学生といつても年齢は大学生と変はらない。中には最先端のロボット工学を自分のものにして、メーカー顔負けのロボットを作つてくる天才が一人や二 人ゐても不思議はないはずなのだが、誰でも参加できるやうに低いレベルに抑へられた競技だから、参加させられる学生にとつては、ロボコンといふ宿題が一つ 増えただけではないのか。

 キャッチボールしかできない生徒と剛速球を投げられるかもしれない生徒を無理矢理一緒に競はせるやうな競技はもうやめたらどうかと思ふ。(2007年1 月24日)







 投票日前にそのまんま東候補が大接戦とニュースが出たとき、これはひよつとすればひよつとするかと思つて記事をよく読んで見ると、識者の予想は誰もがよ くて次点止まりといふもので、これはやつかみがこもつてゐると思つたものだ。

 安倍政権が無党派層から完全にそつぽを向かれ、その一方で民主党は三人衆のお馬鹿CMで信頼度を下げるばかりの状況である。強い意志を持つて政治を勉強 して、優秀なブレーンに恵まれてゐるなら、タレント候補も馬鹿に出来ないのだ。

 さて前知事辞職の原因となつた談合だが、これは遥か昔からあつて誰がどうしようが無くならない。選挙中に東候補が「談合は必要悪の面もある」と口を滑ら せても落選の原因にならないぐらゐに、それは国民の本音を語つてゐるのだ。

 一般競争入札にすべきとはよく言はれることだが、その一般の段階であらかじめ談合してしまへばそれも同じ事で、誰かの面子を潰しては生きてゐけない日本 の階層社会では、たとへ談合で逮捕される危険があつても、それを避けて自分だけ正義を貫くことは難しいのである。(2007年1月23日)







 図書館の本に書き込みするなどけしからんといふ話をよく聞く。私は、ページを破つてしまふのは困るが、何が書いてあるか分かるなら、そんなに目くじらを 立てることもないと思つてゐる。

 例へば、謗線が引いてあれば、前の人がどんな所を大事だと思つて読んだのか分かるし、書き込みがあれば、それを参考にも出来るからである。

 「公共のものだから」と言ふが、使へば汚れるものであり、きれいな物が読みたければ自分で買へばいいのである。図書館の本が余りにきれいなのは、誰にも 読まれなかつた証拠であり、税金の無駄遣ひでもある。

 むしろ、借り手があつてこその図書館なのだから、どんどん使つてどんどん汚して下さいといふ、そんな図書館があつてもいいと思ふ。

 昔の西洋の写本などは、欄外にびつしりと書き込みがあつて、それが注釈として後代の人に珍重されて、それでその本の価値が増大したくらゐだ。

 公共精神が大切などと言ひながらも利他的精神はどこにもなく、自分だけの夢の追求が賞讃される社会である。そんな社会の住人に多くを求めるべきではない だらう。(2007年1月22日)







 日本人の常識の多くはキリスト教の教へと一致してゐる。男女平等、一夫一婦制、福祉社会、個人の尊重、愛の概念もさうである。最近出て来た老人も引退せ ずに働かうといふ考へ方も元はキリスト教のものである。

 そもそも西洋の民主主義思想は、キリスト教の思想を背景にして育つてきたものである。民主主義の起源とされる古代ギリシアは奴隷制社会だつた。その奴隷 制を排除したのはキリスト教の平等思想のお陰なのだ。

 日本がキリスト教を採用しないのにキリスト教の教へは採用するといふ妙なことになつたのは、西洋崇拝、つまり西洋の規準に合せることが正しいことだとい ふ迷信から来たものである。

 とは言へ、これほどキリスト教の教へが浸透してゐる国なのであるから、あとはキリストに対する信仰さへ加はれば、日本は立派なキリスト教国になれる。

 洋行した内村鑑三は西洋のモラルの低さを発見して驚き、だからこそ西洋にはキリスト教が必要だつたのだといふ結論に至つた。モラルの低下が叫ばれるこの 国でも、そんな厳しい宗教が必要になつてゐるのかも知れない。(2007年1月21日)








 「ゴミを減らさう」などと云つて、ゴミが増えた原因が消費者にあるかのやうなことが言はれてゐるが、一体消費者にどうしろ言ふのか。

 ゴミが増えた原因は商品の包装にある。買つて来た商品の包装は全てゴミになるのである。そしてその包装をどんどん作つてゐるのは消費者ではなくメーカー なのだ。

 消費者が本当に自分で作るゴミは、大型ゴミやティッシュペーパーのゴミを除けば、食品の食べかすや食べ残しなどの生ゴミだけである。そしてそれらの量は 昔から大して変はらないのだ。

 それなのに消費者に対してゴミを減らさうと言ふのは、商品の包装を捨てるなと言つてゐるに等しい。しかし、ゴミ袋として使へるレジ袋以外は家に置いてお いても何の役にも立たないものばかりである。

 その上に、役所は余計な賞味期限などと云ふものまで決めて、食べられる物を捨てささうとするのだから、ゴミは増えるばかりである。

 この世知辛い世の中に、誰が好きこのんで余計なものを買ふだらうか、誰が不要でない物を捨てるだらうか。ゴミが増えた原因は消費者にはないのである。も し本気でゴミを減らしたかつたら、せつせとゴミを作つてゐるメーカーに言ふべきなのだ。(2007年1月20日)







 山本七平は『日本人と中国人』(第七章冒頭)に、「一国であれ一政権であれ一政治家であれ、その対内認識と対外認識は、常に同一の規準に立っている」と 書いた。内政の規準と外交の規準は同じだといふのである。

 この後「佐藤外交とは佐藤内政であり」と続くが、まさに小泉外交とは小泉内政だつた。反対者との対立を辞せず、は内政外交の両面に於いて貫かれたのであ る。

 では、安倍政権はどうか。これにもまた同じ事が言へるはずだ。しかも、実際さうなつてゐる。対立の回避、これである。それは内政では自民党への屈従、世 論への屈従とさへ言へるものだ。

 となると、一見成果を上げてゐるやうに見える外交も、その内容に疑ひの目を向けるべきではないのかと言ひたくなる。強気の外交のやうに見えるものが、本 当は屈従の外交ではないのかと。

 ところで、安倍政権の強気の外交の象徴である対北朝鮮外交は、実は外交になつてゐない。小泉政権も北朝鮮に対しては対話の外交をしたのである。どうやら 安倍政権は小泉政権と悉く正反対のことばかりしてゐるやうである。(2007年1月19日)







 二宮尊徳が日本各地の農業を再建したときにとつた経済政策は道徳だつた。荒廃した農村を復興させるために尊徳が提言した報告書 の内容は、

 『金錢を與へ租税を免除するは、彼等の困窮を援助するの途ではない。彼等に一金をも下し給はないことが、救濟の秘訣である。援助はただ貪慾と無ョを招来 し、民の間に軋轢の源泉を生ぜしむるに過ぎない。・・愛、勤勉、自助、ーーこれらのゥコの嚴格な詩sに、之等ゥ村の希望が存するのである』

 と云ふものである(『代表的日本人』より)。しかし、二宮尊徳(1787-1856)より百年以上前の新井白石(1657-1725)の幕政改革が既に 儒学の理念に基づく道徳色の濃いものだつた。尊徳だけが独自の政策を提言したのではなかつたのである。

 現代の経済政策の重要な柱である公共工事が景気回復に繋がらないのも、そこに道徳の基本を欠いてゐるからだらう。「談合」が駄目なのもそれが違法である 前に、嘘をついてする金儲けだからである。それで手に入れた金では到底世の中良く成りやうがないのである。(2007年1月18日)







 小学校にある二宮尊徳の銅像はなぜ薪を背負ひながら読書をしてゐるのか。戦後教育を受けた私はその理由を知ることがなかつた が、内村鑑三の『代表的日本人』を読んでやつとわかつた。

 尊徳は天涯孤独の孤児だつたのだ。仕方なく伯父の家に身を寄せたが、伯父は尊徳に夜間の読書を許さななかつた。そんなことをしても一銭の得にもならない し、人の家にゐる間はこの家のためになる仕事をしろと言つて家での読書を禁じたのだ。

 それをもつともだとして受け入れた尊徳は、それならと薪拾ひの仕事の行き帰りに歩きながら本を読むことを考へ出した。その姿を銅像は現はしてゐるのであ る。それは単に読書好きが歩きながら本を読んでゐる姿ではなかつたのである。

 この本で紹介されてゐる代表的日本人は二宮尊徳の他に西郷隆盛や日蓮など、付和雷同を好む典型的な日本人とは正反対の、孤立を恐れない独立不羈の偉人た ちばかりであり、全然代表的ではないのは大いなる皮肉であらう。

 元々は英語で書かれた物の和訳だが、現行の訳ではなく旧版の鈴木俊郎の訳が、よくぞこれ程の格調高い日本語に翻訳できたものだと感心させられる名訳であ る。(2007年1月17日)







 牡蠣(かき)は苦手である。生で食ふと必ず当たるだけでなく、火を通して食つても当たることがあるからだ。

 スーパーで売つてゐる牡蠣は殻から外したもので、死んだ牡蠣である。魚は魚屋で死んでゐるものを買ふが、貝類は生きたものを買ふのが普通だ。浅蜊(あさ り)も蜆(しじみ)も生きたものが売られてゐる。ところが、牡蠣だけは死んだものが売つてゐる。どこかおかしい。

 たまに殻付きの牡蠣を手に入れることがある。しかし、それさへ生きてゐるか死んでゐるか分らない。貝類は普通は火を通すと殻が口を開くことで、生きてゐ たことが分る。口を開かない貝は死んでゐた貝で食べないのだ。

 ところが、牡蠣は生きてゐるものでも口を開かないことがある。これでは元々生きてゐたのか死んでゐたのか分らない。だから、安心して食べられないのであ る。業者が安心して食べられると言ふが、それはさう言はなければ売れないからであらう。

 マスコミが牡蠣のノロウイルスが怖いといふのは信ずるに足りない。しかし、牡蠣の生き死にを自分の目で確かめられない以上は、業者の言葉も信用できない のである。(2007年1月16日)







 名張の事件の再審開始の取り消し判決に対して、「疑はしきは罰せず」はどうなつたのかと多くの新聞が嘆いて見せた。

 「疑はしきは罰せず」とは犯罪の疑ひがあるだけで処罰してはいけないと云ふ司法の原則である。しかし、疑はしさのレベルが高ければ罰して良いと云ふの が、昨今の厳罰化の流れだらう。

 酒気帯び運転を罰するのも「疑はしきは罰す」であらう。なぜなら、少しぐらい酒を飲んでも酔はない人は沢山ゐるが、酔つてしまふ人も沢山ゐる。そこを確 かめずに、酔つぱらつてゐる疑ひがあるとして一括りに罰するからである。

 昔は酔つてゐる疑ひのあるドライバーはまつすぐ歩かせるなどして、酔つてゐるといふ確証を得ようとした。今はそんな手続きもなく、誰でも同じ基準で酔つ てゐると見なして罰するのだ。

 しかし、その根拠はあくまでも人間の推理であり、神様でもない限りそこに過ちの余地があるのが人間である。しかしながら、人はすぐに神になりたがる。そ れが「疑はしきは罰す」の流れなのである。(2007年1月15日)







 レジ袋を有料化すると云ふがそんなことをして何になるのかと思ふ。つい最近ではディーゼルカーを廃止してしまつたが、それと同 じで一番目に付き安いものを槍玉に挙げて、環境に良いことをしたと言つてゐるに過ぎないのだ。

 スーパーで買ひ物をしてくれば、全部がビニールなりプラスチックなり石油製品で包装されてゐる。レジ袋はその一番外側を覆ふ包装に過ぎないのである。そ の一枚の包装が有料になつたからとて何がどう変はる訳ではないことは一目瞭然ではないか。

 今や袋入りのクッキーを買へば、さらにその一個ずつがビニール袋に入つてゐるのが普通である。しかもその一個ずつにビニール袋入りの乾燥剤まで入つてゐ る。正に贅沢も極まれりである。この一番内側の包装を放置して、一番外側の包装を減らさうとすることの無意味なことよ。

 レジ袋が有料化になれば、最初は昔のように買ひ物袋を持参する主婦も現はれよう。しかし、郊外のスーパーに車で乗り付けて大量にしかもスマートに買ひ物 をする時代にそんなことが定着するとはとても思へないのである。(2007年1月14日)







 妻による夫のバラバラ殺人に関して、私にとつて一番興味深いのは、この事件の犯人を突き止めたのが警察の地道な捜査ではないと いふ事である。

 夫が帰つて来ないといふ話を聞いた夫の友人たちが、マンションの防犯ビデオを調べたところ、妻の言つてゐることがおかしいと気が付いて、それを警察に通 報したことが事件解明の端緒となつたのである。

 ところが、新聞やテレビのニュースでは、家出人捜索願にある夫の身長とバラバラ死体から推測される身長が一致したことから、遺体の身元の判明に繋がつた かのやうに報じられた。

 家出人などは五万とゐるのに、そんなところから遺体の身元が判明するだらうかと思つてゐたら、やはり違つてゐたのである。ところが、報道はこの警察発表 に何の疑問も呈することなく、そのまま記事にしたのだ。

 これでは警察が友人たちの手柄を横取りしてしまつた事になるはずだが、マスコミはそれに対してまるで見て見ぬ振りである。報道機関と警察の癒着した関係 はかくやと思ひ知らせる事件であつた。(2007年1月13日)







 通販のテレビCMに有名人が出てきて「あたなも通販生活」などと言つてゐるが、それは外出がままならない有名人だからこその話 で、一般人がその真似をする必要はない。

 一般人は別に人に見られても構はないのだから、自分でどんどん店に出向いて現物をよく見て買ひ物をすればいいのだ。店に出向けばこそ外出の楽しみもあ り、あはよくば値引きも出来るのである。

 私もネットの通販はよく利用するが、それは近所の店では手に入らない書籍が主で、あとは日本で買ふよりも格段に安いカメラ類程度である。

 手に入りにくい本などは、通販で買へると特に重宝するが、それでも手にとつて現物を見ない不利は避けられないものだ。本屋で見たら買はないやうな汚れや 傷みのあるものが送られてきて、がつかりすることが多いからである。

 だから、現物の形も見れないラヂオの通販などは論外であるし、有名人の出演料や番組の制作費に大金をかけてゐるテレビの通販もとても利用する気になれな い。それが一般人の買物感覚だと思ふ。(2007年1月12日)







 マスコミが国民のモラルの低下を嘆くときによく出てくるのが「公共心の欠如」といふものであるが、公共心は日本ではいつからモ ラルの一つになつたのか。

 日本人の守るべきモラルを教へてきたのは『論語』である。そこで重視されるモラルは第一に「孝」である。つまり、親や目上に対する孝行である。次は 「忠」であらうか。これは国家に忠誠を尽くすことだ。その他に「仁」や「礼」も挙げられてゐる。しかし、公共心を説くやうな項目はどこにもない。

 論語は「家」を中心としてその延長として国家を説く本であるから、「公」といふ概念はないのだ。だから、論語を勉強しても公共心は身に付かないのであ る。

 日本人の倫理観はこの論語を中心に形成されてきたものであり、戦前育ちの国民の頭には充分にこの倫理観が染み込んでゐた。

 そして、彼らの目上に対する「孝」やお上に対する「忠」から発した態度が、今から見れば公共心があつたかのやうに見えるだけなのである。昔は目上やお上 が今の「公」の役割を果たしてゐたとも言へる。

 ところが、今では目上もお上も「公」ではない。役人などはむしろ国民の僕(しもべ)の位置までなり下がつてゐる。「公」の中身が無いのであるから、その 「公」を尊ぶ「公共心」の無さを嘆いても意味がないのである。(2007年1月11日)







 「拉致問題は解決しなければならない」といふとき、その後には必ず「平和的に」と続くのが一般の論調だらう。

 この場合の「平和的に」とは「武力攻撃によらずに」といふ意味であらう。しかし、それは同時に「日本国民の生命財産がどんなリスクも負ふことなく」とい ふ意味ではあり得ない。

 拉致問題の解決を求めて北朝鮮に経済制裁をすることは、それに反発した北朝鮮が日本に対して武力攻撃をしかけてくるリスクを負ふことだからである。

 そして、この経済制裁に多くの国民は賛成してゐる。これは悪い奴は厳しく罰しろといふ最近の厳罰主義の流れから来た賛成であるとしても、その罰が自分に 跳ね返つて来て戦争になる可能性を覚悟してのことであるはずだ。

 さう言へば、去年の内閣府の世論調査で、「日本が戦争に巻き込まれる危険がある」と答へた人が77.6%に達したとあるが、これは拉致問題の解決に対す る日本国民の並々ならぬ決意を示したものと見てよいのかも知れない。(2007年1月10日)







 山本七平は『小林秀雄の流儀』といふ本に、思想と実生活の関係を探り、この二つから対象に迫つて行くのが小林の流儀だと書いて ゐる。思想と実生活は、言葉と実感と言ひ換へてもよいとも言つてゐる(213頁)。

 そしてこの「流儀」を、かの難解なる『様々なる意匠』とそれに連なる『作家の顔』『思想と実生活』『文学者の思想と実生活』そして最終作の『正宗白鳥の 作について』(昭和文学全集9所収)迄の正宗白鳥との論争に関はる作品群に『「本居宣長」補記』を交へて解読することによつて明らかにしてくれてゐる。

 その中で、我々は日本の自然主義文学やプロレタリア文学が実感から出発せず、その実感から訣別し純化することによつて生れる思想を持たなかつたが故に、 それらが「意匠」つまり、謂はば「衣装」に過ぎなかつたことが理解できる。

 さうして見るとき、「劣悪を指嗾しない如何なる崇高な言葉もなく、崇高を指嗾しない如何なる劣悪な言葉もない」といふ有名な一節が、小林のこの「流儀」 の萌芽であり、思想と実生活、言葉と実感の二つを対比して考へる意識の未分明な形での現れだつたと云ふことが理解できる。

 この意識が明確になつて行くのは『「悪霊」について』からださうで、小林を読むならこれ以降の作品から、もしくは最後の作品から読むのが分かりやすいと 云ふことになる。(2007年1月9日)







 救急車よりも早く着けるといふので地方自治体がヘリコプターを導入したところ、騒音の苦情が出て困つてゐるといふ。

 明日はわが身かも知れぬ「命のヘリ」だ。そこから発生する騒音は、隣の町の拡声器放送とはわけが違ふ。少しぐらゐ我慢してもいいではないか。

 と言ひたいところだが、自分の国を守る軍隊のジェット機の騒音が五月蠅いと言つて通る国であるから、これを記事にした新聞も表立つて批判できないでゐ る。

 他人の必要によつて発生する迷惑をお互ひ様だとして我慢できる寛容な社会は消えてしまひ、迷惑をかける加害者と迷惑を被る被害者しかゐない社会になつて しまつたのだ。

 もう少し生きたいのはよいが、俺には迷惑をかけずにやつてくれ。共に助け合ふ? 奇麗事はよしてくれ。何より大切な年金の受け取り手が一人でも少ない方 がいいに決まつてゐる。これが本音の社会である。

 と諦めるのはまだ早い。この問題を解決する方法が一つある。ヘリコプターに新聞社の旗を付けるのである。迷惑がるどころか、誰もが喜んで見に来るに違ひ ない。(2007年1月8日)







 ニュースキャスターがクイズ番組などに出ることがあるが、あれはよいことだ。ニュースキャスターをしてゐるからさぞ賢い人なの だらうと思ふが、さうでないことが視聴者に分かるからである。

 最近も改正労働法に関して「残業代ゼロ法案」と連呼してゐたキャスターがゐたが、彼のクイズ番組での成績は散々であつた。そりやさうだらう、改正労働法 は残業代を無しにする法律ではなく、労働を時間で計ると云ふやり方を一部廃止する法律であり、残業といふ考へ方とは全く無関係な法律であるはずだが、彼の 発言はそれがまつたく理解できてゐないことを暴露してゐるからである。

 新聞記者もさうだ。この法律に反対する新聞ならともかく、資本主義陣営であるはずの読売や産経の記者でさへ、この法律の趣旨をちやんと説明した記事を書 けるものがゐないのが現状なのだ。

 新聞記者もキャスターもみんなテレビ番組に出て、自分の知的レベルを白日にもとに曝すのが国民のためだらう。(2007年1月7日)







 テレビで、乾電池の代はりに充電池を買はせようとしきりに宣伝してゐるが、充電池は充電器も一緒に買はなければいけないのが最 大の難点である。単三乾電池4本が充電器とセットで4千円もするのだ。

 これでは普通の乾電池と比べて、元を取るのに40回も充電し直して使はなければいけないが、人はそんなに電池ばかりを相手に暮らしてゐわけではない。そ のうちに無くしてしまふか腐らせてしまふのが関の山である。

 おまけに、充電池には「当社専用充電器以外では充電しないこと」と脅し文句が付いてゐる。メーカーはエコの流行に乗つて一儲けしようとしてゐるだけなの か、共通仕様の充電器を作らうとはしないのである。

 要するに、メーカーがエコライフを合言葉に高価なものを買はそうとしてゐる時点で、もうエコロジカルではないのである。ハイブリッド自動車や太陽光発電 などもしかり。

 エコロジーはそのままエコノミーに通ずるはずで、高価な物ほどそれを作るのに莫大なエネルギーを必要とし、それを買ふお金を稼ぐのに莫大なエネルギーを 必要とするから、その過程で既に環境を大きく破壊してゐるに違ひないのである。(2007年1月6日)







 人生の目標は自分の夢を実現することであると、我々戦後生まれの人間はずつと教へられてきた。しかし、この考へ方とは別の考へ 方があることを最近知つた。それは先祖を供養するためといふものである。

 その意味を私はよく知らないが、夢の実現一本槍の価値観が絶対でないことを知ることは意味のあることである。

 例へば、最近「命を大切にしよう」と言はれるが、それは授かつた命を大切にして自分の夢を実現しようといふことで、結局同じことである。しかし、この考 へ方は「手に入つたお金は大切にして、上手に使はう」と云ふのとよく似てゐる。

 誰もがお金の大切さを知つてゐるやうに命の大切さも知つてゐる。それでも、お金を大切にせずにサラ金地獄に落ちてしまふ人、命を大切にせずに自殺してし まふ人が沢山ゐる。

 何故さうなるのかと言へば、自分自身のために使ふことが目的ならば、自分の金も自分の命もそれをどう扱はうと自分の勝手だからである。

 詰まるところ、いくら命を大切にしようと言つても、それが自分の所有物を無駄にするなと言ふのと等しい間は、この国では自殺者は減りはしないのである。 (2007年1月5日)







 私は公共広告機構のお節介CMが嫌ひである。最近も「日本のマナーが心配です」などと言つてゐるが、マナーはテレビで宣伝すべ きものとは思へない。

 電車の中で他人の音楽プレーヤの音漏れが気になるなら、その場で直接言へばよいのである。その場で言へないことをテレビを使つて言ふのは、テレビの力を 借りようとする卑怯なやり方だ。

 そんなことをしても世の中が良くなるとは思へない。それは直接話し合つて解決すべき問題を法律の力を借りて解決しようとするのと同じで、人間関係をぎす ぎすしたものに変へるだけである。

 昔、下宿生活をしてゐた時に、下宿人に気に入らないことがあるとすぐに張り紙を出して注意する家主がゐたが、そんな家主とはとても信頼関係を築くことは 出来ないものだ。

 話をすれば、相手の事情を聞くことも出来る。それを紙に書いて張り出すのは自分の要求を絶対的に正しい物として相手に押しつけることである。

 なぜ、「音漏れが気になつたら一声掛けよう」と言はないのか。なぜ話し合ひをパスしようとするのか。話し合ひこそマナーの第一だらう。マナーは他人に押 しつけるものではないのである。(2007年1月4日)







 めくら、びっこ、かたわ、などといふ言葉は日本では禁句になつてゐる。だから、例へば日中辞典の見出しにはこれらの言葉が掲載 されてゐないし、中日辞典でも訳語として使はれてゐない。

 だから、めくら、びっこ、かたわ、を中国語ではどう言ふのかと思つても調べられないのである。めくら、なら盲人で調べればよいが、びっこ、は片足の不自 由な人、かたわ、は身体障害者で調べるとして、やはりぴつたりと当てはまる訳語は見つけられない。

 しかし、これらの言葉が国語辞典に載つてゐないかと云ふと、ちやんと載つてゐるのだ。マスコミや公文書で禁句になつてゐても、人の頭の中から消し去るこ とは出来ないからである。

 では、どうすれば調べることが出来るかといふと、その方法がないわけではない。実は、これらの言葉は古い日本製の辞書や中国製の辞書では平気で使はれゐ るのだ。だから、日本人が自分の国の言葉について調べるのに中国製の辞書を買はなければならないといふ妙なことになつてゐるのである。(2007年1月3 日)







 厳罰化の流れに賛成してきた左翼マスコミも、死刑が一度に四人も執行されたり、死刑囚の再審が閉ざされたりしたのには面食らつ てゐるらしい。進歩派の面子に関はるからだらう。

 前の法務大臣が死刑執行の判子を捺さなかつたのは、キリスト教徒だつたからだと言はれる。一方、世論調査をすると国民の九割は死刑に賛成してゐる。それ だけ日本人が無宗教だと云ふことになる。

 そしてこの無宗教のおかげで、多くの日本人にとつては法律が宗教に替はる役割をもつてきてしまつてゐる。だから宗教が法律より上位にあることが理解でき ない。そこで、大臣が法律を無視していいのかといふ意見が出てきたりするのだ。

 大臣は法律を無視していいのである。法律通りにやるのなら、大臣に判子をもらふ必要はあるまい。その上のことを求めるからこそ判子を求めるのである。

 厳罰化の流れは日本人の法律信仰の結果であり、それは取りも直さず宗教に基づく倫理観の欠如の現れに他ならない。そこを問はずに、死刑の是非だけを論じ ても無意味なのである。(2007年1月2日)







 北朝鮮はアメリカが金融制裁を解除すれば核施設を廃棄すると言つてゐるが、金融制裁を解除しなければ何時々々迄に核攻撃に踏み 切るとは言つてゐない。なぜだらうか。

 それはもしそんな事を言ふと、アメリカが金融制裁を解除しないと核攻撃をしなければならなくなるからだらう。そして、その時に核攻撃をしなければ本当は 核兵器を持つてゐないことになつて困るし、もし核攻撃をすればアメリカから報復攻撃を受けて北朝鮮は崩壊してしまつて困るからである。

 しかしながら、北朝鮮が金融制裁によつて本当に切羽詰まつてゐるなら、そして、本当に核兵器をもつてゐるなら、核攻撃の中止を交換条件に持つてきてもよ ささうなものである。

 もともとアメリカの金融制裁は北朝鮮による違法行為が原因だ言はれてゐるのだから、その解除は核廃棄などといふ本来自主的にすべきことの交換条件にはな らないはずだ。

 それに、核実験は失敗したといふ話もある。やはり北朝鮮は核兵器を持つてゐないのではと疑ひたくなるところである。ところが、アメリカは北朝鮮に核兵器 をもつてゐることを証明しろとも言へない。

 かう考へてみると米朝交渉が進展しないのは当然のことだと納得する次第である。(2007年1月1日)


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